『日本周遊紀行』

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山中の鄙びた「宮内温泉」と露天風呂



山中の鄙びた「宮内温泉」と露天風呂




日本周遊;温泉と観光(10) 「宮内温泉と象の花子」



象の花子で有名になった山里の湯・・、


北海道・渡島半島は、南北に細長く伸びた半島で全般に山が多く、それも海岸付近までせり出した山岳地域であるといってもいい。 

道内における原野や平原湿地、拓けた地域の石狩平野、十勝平野などの平地といわれるところは比較的多いが、この半島にはそれらは皆無といっていい程存在しない。 
しかも、この狭い幅の半島に1500m級の山も在り、渡島半島は山岳地帯中心の半島なのである。


瀬棚町から島牧村への境界地も、例にたがはず山岳地で、ここに海岸より水平にして5〜6kmの地点に、標高1520mの「狩場山」が控えているのである。 

その山塊は急傾斜を伴って海岸に落ち込んでいる。
この断崖のような急傾地を無理やり削り取って付けたのが、今の国道229号線であり、先人のご苦労を偲ぶのみであるが。
しかも、日本海に面しているので、豪雪地帯でもあり、トンネルの他に雪避けのドームやスノーシェードを多く取り付けているのも特徴的でもあろう。


数々の墜道を潜り抜けてヨウヨウに島牧の集落に着き、近場に「道の駅・よってけ島牧」があって、「よってけ」と云うので寄りましょう。
そう、温泉である。 

案内された「宮内温泉」(ぐうないおんせん)を目指して、山中へ更に分け入った。 
海岸より、泊川を遡って4kmほどの山の中に一軒宿の小さな温泉があった。

途中、「熊注意」の看板が数多くあったが、背後は山合いに囲まれ、周囲には人家は全く無くなく、林の中に隠れるようにして存在している。
もちろん日帰り入浴、立ち寄り湯はOKである。 

玄関前に無造作にある駐車場へ悠々と留めて、いざ・・!入場、否、入湯。
玄関はいると横の受付から御主人が出てきたので、入浴料金450円を支払い、早速、脱衣所へと向かう。
内湯には湯船が2つあって左側が中温湯、右側が高温湯となっていて、窓の向こう側が露天風呂となっているようだ。 早速、浸かる・・。
無色透明でやや塩味のするサッパリした温泉で、身体にジーンとしみわたる、 適温である。

内湯もいいが、天気の良い日はやはり露天風呂である。 四角い湯船が野趣豊かに佇んでいる。 宿の主人が言っていたが、湯船には若干の「コケ」が付いてる。 これはこれで又結構である。
横のパイプからは、バルブ調節も出来るだろうが、お湯がザブザブと溢れ出ている。
周囲は森が広がっていて、清々しい気分になる。
浴槽は広いという感じではないが、一人での入浴なので、実に極楽!極楽!あぁ〜いい気分!!


宮内温泉は、江戸時代(安政年間)には発見されたという北海道でも古い温泉だという。 

又、先ほど北桧山の温泉センターでチョコット聞いた話だが、この温泉は「象の花子」が湯治したとして知られているという。


象の「花子」は、戦前に上野動物園にいたものが有名だが、こちらは札幌円山動物園の「花子」であった。




『象の花子』について・・、

宮内温泉は、ゾウの花子が湯治に来たことで有名であるとか。


花子と名付けられたゾウは沢山いるが、宮内温泉に来た花子は1964年にタイのバンコクから日本の子どもたちにと先ず京都市動物園に贈られたものという。 

その後、1966年にさっぽろ・円山動物園に移り、1967年の開園と同時に、今人気絶頂の旭川・「旭山動物園」にもやってきた。 

しかし、越冬中に「くる病」にかかり、左後足が湾曲し立てなくなったため展示することができないと判断、安楽死させてやってくれと1968年に札幌市の剥製標本会社の「信田修治郎」氏に売却された。 

当初は薬殺し、標本を北海道大学に納めるつもりであったが、病気を治してやることができると考えた信田氏が面倒を見ているうちに再び立ち歩けるようになったという。 

その話がマスコミを通じて全国に広まり、日本中の子どもたちのアイドル的存在になった。

その後、「ゾウの花子の会」という全国組織までできる程であった。 
しかし、1970年、旭川冬祭りに出演した際に骨折症状が出てしまい、再び立てなくなってしまったのである。 
そのため、その年の8月から長万部町の「二股ラヂウム温泉」で湯治をすることとなった。 

だが、この温泉場は冬期間には閉鎖されるため、11月にこちらの「宮内温泉」に移転したのである。 

島牧村では村をあげて「花子」を歓迎し、宮内温泉に浴槽付きの「花子のお宿」という小屋を建てて長期に渡って面倒を見ることとなった。 

花子は7時から健康診断、10時に食事、16時まで歩く練習をして就寝するという毎日を送っていた。



宮内温泉の滞在期間中には、「ゾウの花子の会」の招きで南米パラグアイ大使一家、茨城県議会一行が訪れるなど、かなりの人気を誇っていたらしい。 

関東地区・花子後援会の会長は当時衆議院議員の三ツ林弥太郎氏であり、また、1972年には偶然宮内温泉を訪れた笹川良一氏が花子を見て感嘆、日本顕彰会から信田氏が社会福祉貢献者として表彰されたほどであった。



1975年、回復した「花子」は宮内温泉を離れ、その後は本州を旅して回ったらしい。 

1980年、「花子」は募金で集まったお金を元に飼主の信田とともに南米パラグアイに移住し、そこで一生を終えたという。 

パラグアイでも人気があったらしく、パラグアイ日経ジャーナル創刊号は「花子、念願のパラグアイ移住、南米の大地を歩く−日本の子どもたちの夢と希望を背にして−」 という記事を表紙で取り上げている。





旅館入口前の右側のスペースに花子の住んでいた小屋があったが、現在は取り壊されて残っていない。

建物の外にある露天風呂は、野放図の状態で所謂、野天風呂であった。 
この地にかって、象の花子を入れるため大きな露天風呂があったのであろう。 

温泉は、やや黄緑がかった色でヌルヌル感がある。表示によると、泉質ナトリウム−炭酸水素塩・硫酸塩泉、源泉の温度48.8℃は入浴には適温であろう、湧出量3000L/分と多い。



実は、この宮内温泉から更に山には行ったところに、「黄金温泉」、「大判の湯」、「小判の湯」といった露天風呂があるらしい、雰囲気はいずれも熊に出会いそうな奥山である。 

又、海岸より一つ手前の山路を辿ると、「賀老の滝」というのがあり、日本の滝百選に選ばれた高さ70m、幅35mの大瀑布であるとか、ここにも「千走川温泉」というのがあるらしい。


いずれにしても、道南のこの辺りは、都市や主要観光地から遠く離れているので、北海道人も最後の秘境と認める地域・島牧村である。 

狩場山を中心とした、周囲は人家もまばらな地で、結構、良い温泉が点在しているようである。


【宮内温泉データ】

宮内温泉旅館  http://www.guunaionsen.ftw.jp/
        電話 0136-75-6320
【泉 質】 ナトリウム−炭酸水素塩・硫酸塩泉(旧:含芒硝ー重曹泉)
       無色透明・微妙塩味・無臭
【泉 温】 49度
【湧出量】 自噴毎分3000 リットル
【施 設】 内湯男女別 1 浴槽 2 露天風呂男女別 1 無料休憩室1 洗い場にはシャンプー類あり・タオルなど持参


次回は、 「積丹半島」




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稚内公園(望郷の丘)に立つ「九人の乙女の碑」



日本周遊紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」


野寒布岬を後にして、海岸に沿いを「稚内」の市街地へ向かう。

海辺には思いのほか家並みが並んでいて、市内高台の丘からは市街地やフェリーターミナルが眼下に。 
又、「利尻・礼文」の二島やサハリンも見通すことのできる。
F・ターミナルや港からは、観光のメッカである利尻・礼文は勿論、現在は国際フェリーとしてロシア・サハリンへも就航されているという。

因みに稚内は現在、サハリン州との交流が活発化しているとらしい。 
稚内と樺太(日本名)とは現在、善隣友好というか、良好な関係が進みつつあるようで、稚内市の行政機関には「サハリン課」と言うセクションも有り、樺太との交流を深めるのを主業務としているようである。

だが忘れてならないのは、今なお戦争の惨禍や戦後の処理を棚上げし、解決されていない北方領土などの領土問題が暗い影を落しているのも「不幸な事実」である。



この見晴らしの良い高台は「稚内公園」であるが、ここの丘は別名を「望郷の丘」と呼ばれている。 公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。 
乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑している。



その「九人の乙女」のことであるが・・、

日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 
後に起きた太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきたのである。

この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。 
そしてソ連侵攻のあった其の日、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したという。


この『九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。

『戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら・・、」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。 戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む。』


しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。

『 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。
ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 』と、

一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという。 

戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる。



昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は氷雪の門、九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときの感銘を歌に託している。

昭和天皇の詠み歌

  『なすべきを なしをへてつひに 命たちし  
            少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ 』



香淳皇后の詠み歌

  『樺太に つゆと消えたる 少女らの  
           みたまやすかれと ただにいのりぬ 』



昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。

次に同じく稚内・「氷雪の門」、



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知内出身の「三ちゃん」
福島の横綱記念館と両横綱

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日本周遊;温泉と観光(9)知内・福島 「歌手と横綱」



歌手の横綱と相撲の横綱の地・・、


国道228の海岸の際を走る。 
車窓を開けて気持ちよい潮風を吸いながら、「道の駅・しりうち」で一息入れる。 

気がつくと「北島三朗の故郷」と大きな看板が目に入った。 
そうなのだ・・!ここはサブちゃんのふるさと・出身地である。

小生も含め、演歌好きの大多数は、北島三朗のファンでもあろう・・?。 
演歌ひとすじ三十余年・・、「女シリーズ」、「仁侠シリー」、「一文字シリーズ」をはじめ、ヒット曲多数。 

長年に亘る舞台公演やTV 時代劇など出演し役者としても高い評価を受ける。 

新宿・コマ劇場の公演を二度ほど拝見したが、その情熱と豪華絢爛の舞台には思わず拍手を送った。 

海外公演も多く、文化人としても国際交流に貢献しているともいう。
観客の拍手を勲章とし、終りなき芸道を今も現役で歩み続けている。


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/41/0000986641/12/imge99afa6dzikazj.jpeg" width="226" height="292" alt="サブちゃん" border="0">

北島三朗の地元での談話

『 知内町で生まれ育った私にとって、知内町は「心のふるさと」です。 毎年8月のお盆に故郷に帰ると、子どもの頃、海や川で泳いだ事、 森にカブト虫を探しに行った事、秋サケの遡上を見に知内川に出かけた事、冬手づくりスキーで朝から夕方まで遊んだ事。 などが思い浮かび「自然豊かな知内町」を痛感する次第です。 是非、一度、私の生れ故郷「知内町」へ遊びに来て下さい。 』





次に、やって来たのは「福島町」である・・、 

街へ入って間もなく、今度は元横綱「千代の山・千代の富士」の記念館が目に付いた。 一段高いところに鉄筋コンクリート造りの建物で、正面に土俵入りを模った銅像と大きな太鼓櫓に旗幟(のぼり)が風に揺れていた。

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/41/0000986641/13/imgcb14a31fzik3zj.jpeg" width="282" height="184" alt="千代記念館2" border="0">

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/41/0000986641/14/img535db4c3zik1zj.jpeg" width="408" height="306" alt="千代記念館" border="0">

この両横綱は、こちら福島町の出身であった。
先ずは、往年の相撲ファンならよくご存知の、第41代横綱・「千代の山 雅信」(ちよのやま まさのぶ)についてである。

始め、双葉山の所属する立浪部屋への入門を希望していたが、「双葉山に勝てる男になるために”」と言われて1942年(昭和17年)敢えて「出羽海部屋」に入門した。 
最初から横綱を期待され、戦時中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海(元三代目・両国)親方の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だったという。

戦後の娯楽の少ない時代に、ラジオから流れる大相撲放送は何よりも楽しみであった。

小生も小さいながら(小学生)相撲好きの父と一緒に、夢中になって聞いたもんである。 

当時は「大相撲全盛」の時代でもあり、四横綱の羽黒山、東富士、照国、そして千代の山といわれた「横綱四天王」の時代であり、中でも千代の山が一歩抜きん出たように思っていたが。 

現在では最も多くの横綱を輩出している北海道だが、その第一号はこの「千代の山」であった。 
武器は突っ張りで、初土俵から9場所で入幕し、いきなり全勝する。 
前途将来を嘱望されるが、体の故障と気の弱さがたたり、昭和28年に「横綱返上問題」を起こしてしまい、期待されたほど大成はしなかった。昭和42年1月場所の後、年寄「九重」として出羽海部屋から独立する。

実際は出羽海一門から破門された形となり、このことが話題にもなったが、「北の富士」(北海道美幌、留萌、旭川出身の第52代横綱、現、NHK大相撲専属解説者)を育てている。 

尚、千代の山は「吉田司家」ではなく、相撲協会が推挙する形式になった第一号の横綱でもあるという。


因みに、横綱に推挙された力士は、横綱推挙式と共に初めて披露するのが奉納土俵入りで、明治神宮において行われる。

明治神宮と相撲とのかかわりは創建前(大正9年に創建)の神宮外苑における地鎮祭の奉納相撲に始まり、次いで明治神宮創建(明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする)を奉祝して相撲大会が行われた。  



横綱の推挙状授与式について・・、 

横綱の推挙状は江戸時代からはじまり、元より相撲司(平安時代の頃、相撲大会にあわせて式部省が設置された臨時の機関及びその任にある者)の「吉田司家」からその邸宅の祭場で授与されていたようである。 

横綱に推されたら力士は、吉田家に赴いて荘厳な雰囲気の中で起請文を差し出し、司家から免許状や故実書(過去の事を記入してある書類)、そして「横綱」を授かったという。

第40代・東富士までは司家より横綱免許状が出されていたが。


しかし制度が変わり、昭和26年第41代・千代の山より明治神宮の神前において相撲協会から推挙状が出されることになったという。 
神前ではじめて横綱推挙式と手数入り(でずいり:土俵入り)が行われ、以来、恒例として横綱推挙式は明治神宮で行われることとなっている。 

序(ついで)に、「手数入り」の「でず」とは「技・わざ」を意味し、吉田司家の口伝に横綱土俵入りを「手数入り」といったことから由来するという。



更に序ながら「相撲の歴史」について簡略に・・、

日本相撲の歴史は古く、「古事記」の中で、建御名方神(タケミナカタノカミ:大国主の子・諏訪大社祭神)と建御雷神(タケミカヅチノカミ:高天原の神・鹿島神宮の祭神)が出雲の国をかけた力くらべをして、建御雷神が勝ったという記述が「相撲の起源」とされる。

又、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとしては、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速 (たぎまのくえはや))の戦いであるとも・・(これは柔道の起源ともされている)。


時代が進み平安期の頃は、相撲はいつしか闘いよりも、豊作を願い神に奉納する神事や余興になっていた。
戦国時代になると、再び武術としてのは相撲を奨励するようになり、戦国大名・織田信長も毎年大勢の相撲人(すまいびと)を集めては上覧相撲をとり行った、今の土俵の原形は信長による発案だと言われる。 

またこの頃より、弓取り式、力士の四股名そして行司も登場したという。

相撲が武術として大きく発達した時代であり、力士が武士(もののふ)である由縁もまたここにある。
江戸時代になると、寺社の建立や修復の為の寄付を集める為の庶民的な勧進相撲になり、年寄り株制度の原型や改良された土俵、四隅には柱が立てられ櫓が組まれた。 
決まり手も48手が成文化され、いよいよスポーツとしての相撲が始まった。


大相撲としては、江戸時代後期に入り、今の日本相撲協会の前身にあたる江戸期の相撲会所が整備され、相撲年寄りと相撲部屋も次々と誕生した、
雷電」や「不知火」が活躍したもこの時代である。 

昭和時代になると土俵の危険な4本柱も撤廃され、戦前・戦後のラジオ中継に続きテレビ中継、平成になって世界に向けて衛星中継も始まった。 

近年、相撲は国民的な娯楽になり、近代スポーツとしての確固たる地位を獲得し、長大な歴史のある「相撲」は、時代に留まることなく今も進化し続けている。 

しかし、外国人が台頭する今の大相撲の実情を憂う声もある。



次に、昭和後期の名横綱「千代の富士」である。

第58代横綱・千代の富士 貢(ちよのふじみつぐ)は・本名は秋元貢、身長183cm、現在は年寄・九重。 現役時代の異名・愛称はウルフと称した。史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数の大横綱で、小兵ながら速攻と「上手投げ」を得意にして一時代を築いた。

立ち会い一瞬で左前ミツを拝むように掴むや否や電車道で土俵際に追いやり、最後は返す刀で鮮やかな投げ技で相手を土俵に叩きつける豪快な相撲っぷりは見事であった。
右上手、左前三ツの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。

四股の美しさも特筆すべきもので、高々と上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。 



横綱 『千代の富士』経歴

幕内優勝  31回(全勝優勝7回、歴代2位)
殊勲賞 1回、敢闘賞 1回、技能賞 5回
通算成績  1045勝(史上最多)437敗159休
場所数  125場所 金星 3
初土俵  昭和45年九月場所(15才)
新十両  昭和49年十一月場所(19才)
新入幕  昭和50年九月場所(20才)
横綱昇進  昭和56年七月場所(26才)
現役引退  平成3年五月場所(35才) 



次回は、宮内(ぐうない)温泉と「象の花子」


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