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日本周遊紀行(110)いわき湯本 追筆「長谷寺」
http://1.bp.blogspot.com/_JRQjJgXjLT8/TBbYahsWydI/AAAAAAAAAgY/H0JfuHCSTmk/s400/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%AF%BA.jpg
上湯長谷「宇治山・長谷寺」
いわき湯本・「長谷寺」の追筆・・、 過日、平成19年の秋分の日(2007年9月23日)に先祖が眠る故郷・田舎の寺院(白鳥山龍勝寺)がある白鳥、いわき湯本を墓参のために訪ねた。 そして、その帰路、上湯長谷の「宇治山・長谷寺」へ立ち寄った。 県道・湯本−植田線の下湯長谷地区・スーパー「マルト」の信号を上湯長谷地区に向かって1kmほど行くと、そこに広い境内を構えた長谷寺があり、正面に大きく「長谷寺」と書かれた石柱が立っていた。 思えば、この辺りは子供の頃よく遊んだ地域でもあった。 小さな丘の東方に「湯本第一小学校」があって、この学校は小生の母校であり、しかも住居は小学校のすぐ隣にあったのである。 又、寺のすぐ北方直近には「湯本第一中学校」があって、通学途上は小学校の校庭を横断して寺の境内の直ぐ横を通り、通学していたものであった。 寺院境内の様子は、昔日と今日とではおのずと様変わりしているとは思われるが、いずれにせよ小学校時代や中学の通学途中の道草によく遊び、ヤンチャをしたものである。 長谷寺は、幼少の頃の遊び場であり、実に懐かしい地域なのである。 今日は、彼岸の御中日ということも有って、墓参のための檀家衆の出入りも激しく車の交通整理員が2人も3人も出ているほどである。 舗装された坂道の両脇には大きな駐車場もあるが、ほぼ満車状態であった。 ところで、昨今われ等の生活状態も豊かになったのであろうか・・?、 気が付くことに何れの寺院の墓地、墓石も新調しているらしく、真新しく光り輝いているのである。 無論、長谷寺の墓地も例外ではなかった。 同寺の主要な墓地・霊園は北面高所にあって、杉林の囲まれヒッソリと、と言いたいが、本日は彼岸ということもあって大勢の参拝者で賑わっている。 実は、小生は当持院に墓参に来たわけではなく、寺院本堂に参拝の傍ら長谷寺の歴史に興味があって、それらに関して訊ねて来たのである。 車を置いて本堂境内に向かう入り口に、これまた立派な石柱が立っていて、右に「宇治山・長谷寺」(うちさん・・)、左に「大同二年徳一大師開山」としてあった。更に進むと左手の大きな堂宇があり、その正面の上部、横向き看板に「徳一大師開山1200年記念・・・」と記してあった。 そうなのである・・!、 本年は2007年、開山が平安初期の和暦の大同二年は西暦の807年に当たり、今年は実に限(きり)のいい1200年の開山記念の年なのである。 境内は古刹寺院の瀟洒(しょうしゃ)な面影を存分に漂わせていて、心が洗われる清楚な雰囲気を醸し出している。 本堂に一礼を済まして横の寺務所を訪ねると、やはりというか、住職、若僧は秋の彼岸会などで出向いているようで不在であった。 家人に1200年記念法事の件や同寺院の縁起書、案内書なるものの有無を訊ねたが要領を得ず、同寺の「観音立像」のパンフ一葉を有難く頂いて退所することにした。 尚、1200年記念大法要は、本年11月初旬に行われるらしい・・!。 「観音立像」の概要・・、 『 県重文(彫刻) 木造十一面観音立像 一体 本像は、別名長谷式十一面観音像といわれ、通常の十一面像と異なり、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、岩座に立つ姿であり、材質はカヤ材と判定される。・・・腕は豊満な丸みを帯び、・・肩から腰の衣文(いもん)、腰から下の裳(も)はゆるく反転してて彫が深く、重量感をかもし出す。天衣は仏体とともに木で、彫刀のさえはみごとであり、鎌倉時代末期の特色である写実味をかなり表現している。・・・なお、本像の胎内銘については昭和35年以降その読解に努力し、・・・それによると胎内の腹部・背部の内刳り(うちえぐり)部分と両肩の腕側継ぎ目、さらに足先の裏面から総計673文字の墨書銘が確認された。 造立は文保二年(1318年)。延べ38日で完成したらしく、・・・仏師は能慶。 また造立者は岩崎氏。同氏の隆義公が父、隆印の七回忌と祖先の供養を兼ねた。それらの人名は、岩崎氏系図の欠を補う。当地の地名「岩崎西郷内長谷村」も確認した。また「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」と徳一大師による堂宇建立を示す中世資料の所在を証左した。・・付記、いわき市常磐上湯長谷町堀の内 長谷寺所有。 「いわき市の文化財」「市史調査報告」より・・ 』 と記している。 概説すると・・、 「 現在の観音様は、鎌倉時代後期の作で文保2年(1318)いわきの豪族岩崎氏が同家の先祖菩提を念じて大仏師・能慶をして、カヤ材寄木造りの総丈約270センチの檀像を長谷寺に寄進したとする。 観音様は右手に錫杖を持ち、岩座の台座に立つ典型的な長谷式の十一面観音である。 そして、衆生の苦悩の声を聞きつけると即座に台座より飛び降り、どんな地獄の底であっても杖をついて衆生に救いの掌をさしのべる、このような慈悲心溢れる姿で本堂中央に立っている。 尚、観音像は難陀龍王(なんだりゅうおう:両手に宝珠を持つ八大龍王の筆頭)、雨寶童子(うほうどうじ:福を得て災を除くという。神仏習合によって日本で創造されたもので、難陀龍王と共に十一面観音の脇侍として祀られることが多い。)を両脇侍に従え、所謂、長谷観音三尊仏として多くの参詣者に拝まれている。 」 (平成19年:2007年9月下旬、 追加記載) 次回は、いわき平
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2010年06月15日
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日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と新興仏教」
序ながら、徳一に関連して東北進出における奈良期から平安初期における仏教、仏僧について・・、 仏教界で大きく飛躍するのは、奈良から平安にかけてで新興宗教といわれる真言宗と天台宗で、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城(奈良)から平安(京都)に都が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。 その時期、徳一という偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その南都六宗の中心にいたのが彼であった。 当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったという。 最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる理論闘争(三一権実諍論:法相宗の僧侶・徳一と日本天台宗の祖・最澄との間で行われた仏教宗論)を行い、その結果において最澄は徳一に勝てなかったとされている。 最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが徳一に遮られて成功しなかったという。 一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に宛てて書をしたためている。 『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。 珍重珍重・・・』 小生拙宅(神奈川・厚木市)の二階の窓から、丹沢山系の一つ「大山」(おおやま・1252m)が見渡せる。 山好きな小生が手軽に日帰りで行ける山であり、年に数度はトレーニング代わりに登山している山でもある。 思えばこの山も、徳一に因んだ筑波山、湯の岳、強いては大和の三輪山に類似しているのである。 この丹沢大山も、神の山で古来より崇められ、江戸期にもなると「大山参り」といって近郷近在をはじめ遥か彼方より参詣にこられた由緒ある山なのである。 平安初期の820年、「空海」47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。 山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。 現在は神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊が配してある。 同時期、東北にはもう一人偉大な人物がいた・・!、 これが最澄の弟子といわれるのが皮肉で面白い、慈覚大師「円仁」である。 小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺、瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら著名な仏閣の開祖である。 坂上田村麿の往くところ、「円仁」の蔭があったともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 奈良末期から平安期の初年にかけて、東北・奥羽の先住民族である蝦夷(えみし)と大和朝廷との関係は緊迫していて、蝦夷との争乱がしばしば記録にも出てきている。 大和朝廷は国の統一と西方文化を広めるため、都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく支配下に収めることに難渋していた。 そんな中、蝦夷鎮圧(大和文化に従わせる)と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」であった。 朝廷は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、武装した”稲作キャンペーン集団”ともいうべき大軍を派遣して、これを収めている。 坂上田村麻呂に制圧された後の陸奥の国において、蝦夷(エミシ)たちの疲弊した精神に対する戦後処理、情操にあたったのが、当時の国家的な仏教でもある天台宗であり、慈覚大師・円仁の存在であった。 円仁は最澄を超え、空海を超え、徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 円仁は、わが国が誇るべき世界の偉人であるともされている。 終わりに、「徳一」の偉大で尚且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に説き、努めた大人物であった。 その徳一が開祖した「いわき湯本の長谷寺」は、2007年(平成19年)で丁度、開建1200年の記念の年に当たる。 過日、この寺院を訪ねる機会を得た、それは次回でどうぞ。 【小生の主な旅のリンク集】
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