『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(126)木更津 「袖ヶ浦と日本武尊」  




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木更津の太田山公園に、2人の像が向かい合う形で立つ「きみさらずタワー」



木更津、袖ヶ浦の地名は「日本武尊」の東征時の古事による・・、

木更津、袖ヶ浦、そして東京湾を隔てて横須賀(観音崎)の周辺は「日本武尊」(ヤマトタケル)の神話伝説の残る共通地域であった。 
日本武尊は、幼少の頃より時折、何かに付けて耳に、或いは目にする人物・・?で、神話とされる「記紀」(古事記、日本書紀)に神として、人物として、はたまた半神半人として、神話の中でも最も武力に優れた英雄物語として描かれている。
日本神話の英雄・ヤマトタケルには、「日本武尊」(日本書紀)、「倭建命」(古事記)の二つの漢字、そして小碓命(オウスノミコト)などの表記がある。

日本武尊は景行2年、第12代景行(けいこう:初代神武天皇=紀元前660年)天皇の第2皇子として生まれている。 
皇子は皇太子の地位にありながら、大和朝廷の勢力範囲を広げるために、日本中を遠征して回ることになる。
先ず、九州日向(現宮崎県地方)へ命じらて遠征し、朝廷に従わない熊襲建(クマソタケル)を知恵をもって征伐する。  この時、小碓命は、熊襲建の「建」とって倭建命(ヤマトタケルノミコト)と称えることになる。(建は、勇敢な者という意味を持つ)大和にある宮に戻る途中も山の神、川の神、河口の神などの大王(朝廷)に従わない荒ぶる神々たちを次々征伐し、出雲の国の部族、出雲建(イズモタケル)を征伐するときも頭を使って勝利し、国を平定していく。


次に、倭建命は東国の征伐を命じられる。
西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたが、東国は大和朝廷の力が及んでいる訳ではなく、苦戦が予想された。
皇子は東国への遠征に向かわれる途中、「伊勢」に立ち寄ることになる。 
先ず、亀山に立ち寄り「忍山神社」祀官・忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘とされる弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃(きさき)に迎える。

伊勢の地は、皇子の叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の導きで天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭祀している地であり(伊勢神宮)、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣)を授けた。
この剣は昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲で八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に、その尾から出たといわれる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)がこの国に御降臨した時に、一緒に持たせたものという由緒ある宝剣である。
後の天皇の「三種の神器」(八咫鏡:ヤタノカガミ、 草薙の剣:クサナギノツルギ、 八尺瓊勾玉:ヤサカニノマガタマ).の一つである。


皇子が駿河の国(静岡県東部)へ指しかかった時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付ける者があった。 
皇子はこの時、この剣で周りの草を薙ぎ払い火から免れたとされ、故事により、この剣をその後に草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ぶようになったといわれる。
その後、日本武尊は上総の国(今の千葉県)に渡海するため、走水の村(三浦半島・観音崎)へ向う。

因みに、日本神話の英雄ヤマトタケルには、「倭建命」(古事記)と「日本武尊」(日本書紀)の二つの漢字表記があり、この先は日本武尊を表記することとする。



三浦半島東端、観音崎は旗山崎(御所ヶ崎)とも云われ、「走水」(はしりみず)という言う地名が今も残る。 
日本武尊が東征したとき、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたという説話に由来している。 合わせて、この地に日本武尊とその妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祭る「走水神社」が鎮座している。

ここから日本武尊は対岸の房総へ渡ろうとしたが、海上は風波 が強く、船出もできず数日間ここに滞在していたが、ついに船出を決意し一気に渡ろうとしたところ、船が沈没しそうになってしまった。
この時、弟橘媛命が、これは海神の怒りであると信じ、日本武尊の身代わりになることを決意し、海に身を沈める。

この時・・、

 『 さねさし相模の 小野に燃ゆる 
         火の火中に立ちて 問ひし君はも
 』

と歌を詠んで身を投げたとされる。

さねさし」とは相模の枕詞、
「 あの相模の小野で、敵の仕掛けた猛火に包まれて危うい時も、あなたは私のことを心配して声を掛けて下さいました。 あの時の優しい思い出を胸に抱きしめて私はこの荒れ狂う浪に身を投じて海神の怒りを鎮めにまいります。 ああ、やさしきあなた。 」
というのが媛の辞世の大意であった。 
女性が男性に向けた歌で、古今東西これほど哀惜に満ちた崇高なものは無いともいわれる。
村人が、弟橘媛を哀れみ、日本武尊を慕うあまり建てたのが「走水神社」であると伝えられている。

日本武尊は、駿河から相模に入り、三浦半島の走水から船で房総半島に渡るが、このルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国であるといわれる。
房総半島への渡り道、「走水の海」は流れが早いことから付けられた名で、今の浦賀水道のことである。 

一行は走水の海で激しい嵐に見舞われるが、姫が入水してからはそれまでの嵐が嘘のように静まる。
この時、海岸には姫のクシや衣が流れついたという、古代、クシには魂が宿ると言われ、流れついた弟橘姫のクシ、衣を納めて建立したのが木更津に鎮座する「吾妻神社」であるといわれる。

吾妻」についても、日本武尊が蝦夷の東征を終えて凱旋される途中、足柄峠に差し掛かった時、遥か相模の海の方を見られて媛の悲劇が胸に迫って涙が止まらず、「 吾が妻はや・・」(吾が妻はもはやいない)と嘆かれた。 
ここから東国のことを「吾妻」と呼ぶようになったという。 

吾妻とは、都から東方の諸国の総称で「東国」のことである。

常陸風土記」にも・・、
『 いにしへは、相模(さがむ)国・足柄の岳坂(やまさか)より東の諸(もろもろ)の県(あがた)は、すべて吾妻の国をといひき 』 とある。

そして、房総に渡った日本武尊が弟橘姫を偲んで詠ったのが・・、

 『 君さらず 袖しが浦に 立つ波の 
           その面影を 見るぞ悲しき
 』

「君さらず、袖しが浦に立つ波の」、この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったと伝えられている。

この歌を詠んだとされる場所は現在の木更津市大田地区、国道16号沿いの太田山公園であり、2人の像が向かい合う形で「きみさらずタワー」が立っている。
タワーは高さ28mで中ほどに展望台があり、東京湾から東京の摩天楼や富士山を一望することが出来る。 特に夜景は絶景だとか。

次回は、「袖ヶ浦



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