『日本周遊紀行』

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 日本周遊紀行(226) 黒部 「黒部峡谷」   .





黒部に来た。
こちらも立山黒部アルペンルート(越中富山〜信濃大町)に負けないくらいの山岳観光のメッカである。 
特に黒部峡谷は秋の紅葉の絶好のポイントである。

富山地方鉄道が富山から、ここ黒部を経由して峡谷の玄関口「宇奈月」まで入る。 
宇奈月は、黒部川の渓谷沿いに広がる旅館や保養所が立ち並び、黒部峡谷と鉄道のトロッコ観光の拠点でもある。 

因みに、富山地方鉄道駅は「宇奈月温泉駅」であり、駅前には60度の源泉噴水が設えてある。こちらトロッコ鉄道(黒部峡谷鉄道)の駅は「宇奈月駅」という名称で、別々に二箇所あり、どちらかといえば宇奈月駅の方が大きく賑やかである。 

宇奈月は富山でも有数の温泉場であるのは周知だが、源泉はすべて黒部川上流にある黒薙温泉(くろなぎ)からの引湯であるという。 
源泉段階で96度と非常に高温で、尚且つ湯量が豊富であることから、宇奈月までは7〜8kmと離れているが60℃前後と充分温度は保たれているのである。
 


黒部峡谷を走るトロッコ鉄道は、かつてこの峡谷に幾つかのダムが建設された際、作業員や資材の運搬用に敷かれた軌道である。 
同時に、始めの頃は一般の人も、ただ同然で利用できたらしいが、ただし「命の保証はしない」と乗る際に念を押されたという。 

今は奇麗にデザインされたミニ観光列車として模様替えし、宇奈月から欅平(けやきだいら)まで旅客を乗せて運行している。 
ミニサイズの車両で、まるで遊園地の電車のようであり、車両は全指定席でリラックス車両、パノラマ車両などあるが、一番安いオープン車両は屋根は付いているが風と共に走るようであるという。 終着・欅平までは、くねくねとノンビリと1時間20分位の旅である。 

朱塗りの鉄橋「山彦橋」、「黒薙」、そして黒薙川が黒部川と合流するところ「後曳橋」がある。 

橋は黒薙川にかかる川底から高さ60mもあり、名前の由来はあまりにも深い峡谷にかかる橋のため、思わず後退りしたといういわれから後曳橋と名前が付いたそうである。 

対岸に聳えているのは「出六峰」、そして黒部川第二発電所が現れ、その脇は「ネズミ返しの岸壁」という見所がある。
又、釣鐘のような山は「鐘釣山」、「百貫谷」(ひゃっかんたに)には雪崩が幾層にも積もって万年雪となる。 

そして終点「欅平」の直前には、本流が最も狭くなった所があり、猿が飛び越えたことから「猿飛峡」と呼び、其々の景勝地を巡りながら欅平駅に着く。 
駅は一般の終着駅となっているが、関西電力黒部専用鉄道として軌道はさらに奥まで続いている。 
駅舎はPC造りで一階には出札口や売店があり、二階にはレストランなどがあり、屋上は展望台となっている。
 

既に、十年も経とうか・・?、
新緑が映える初夏の時期に夫婦で、このトロッコ電車に揺られてここまで来たのを記憶している。 
更に、ここより徒歩で1時間のところ、「祖母谷温泉」(ばばだに)へ向って、ここで露天風呂を楽しんだ。 
この地の背後は急峻な後立山連峰の山岳地で、名峰・「白馬岳」や「唐松岳」が控える。 
祖母谷への途中、奥鐘橋のたもとに、岸壁をえぐりとって作られた歩道「人喰岩」があり、名湯・「名剣温泉」などもある。



黒部峡谷は、北アルプスの立山連峰(剣岳、別山、立山)と後立山連峰(白馬岳、唐松岳、五竜岳、鹿島槍)との間に、深く刻み込まれた日本一の大峡谷である。 

黒部川峡谷は戦国期の天正11年(1583)、越中領主・佐々成政が「ザラ峠」(サラサラ峠・2348m:黒部湖の西側、獅子岳と五色ケ原の鞍部にある)越えで黒部川を横断した話しは、前に記したが、その後の江戸期には加賀藩から入山を禁じられ、長い間閉ざされていて厚いベールにつつまれ、一般の人には窺い知ることの出来ない秘境であった。

大正に入り、電源開発等で黒部の様子が次第に見えだしのであるが、冠松次郎(かんむり:明治・大正期の日本の登山家、黒部峡谷の地域研究、山岳紀行文でも知られる、「黒部の父」とも呼ばれる)が探検して「黒部渓谷」を発表している。 

欅平から黒部湖辺りまでを、「下廊下」(しものろうか=両側断崖)と表現し、S形にうねる険峡「S字峡」や「十字峡」という日本一の深い谷がある。 

十字峡とは、鹿島槍方面から下りる沢(棒小屋沢)と立山方面から下りる沢(剣沢)が、黒部川本流で十字に交わる地点のことを言う。 
また、黒部湖から黒部川源流部の「雲の平」辺りまでを「上廊下」といって道がなく、今なお人を寄せ付けない秘境である。

黒部川の源流部である雲の平は、「高天原」とともに一帯になっていて、立山連峰の南部山岳地と後立山連峰が合流する地域(三俣蓮華岳、黒部五郎岳)であり、温泉もあって文字通り北アルプスの夢の楽園とも言われる地帯である。

山岳愛好家なら憧れの地であるが、小生は残念ながら今まで登る機会がなかった・・!、今後は・・?。
 


黒部川に架かる黒部ダムに関しては、吉村昭の著「高熱隧道」に、仙人谷ダムの建設(黒部第三ダム)に挑んだ人々の苦闘を描いている。 
又、黒四ダム(くろよんだむ:黒部川第四発電所)は、戦後、高度成長期を迎え電力需給が逼迫する中、関西電力の社運をかけた一世一代の大規模プロジェクトであり、近畿(関西)地方への電力供給、強いては経済活動の命運が懸かっていた。 

1956年に起工、当時の関西電力資本金の五倍という金額であり、作業員延べ人数は1000万人を超え、工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人を数えた。 
いかにダム建設工事が苦難を極めたかが伺える。 日本を代表するダムは、1963年に完成している。 
ダムの高さ(堤高)は186メートルで日本一を誇り、総貯水容量は約2億トンで北陸地方で屈指の黒部湖を形成する。 

御存じ「黒部の太陽」は1968年公開の映画で、当時世紀の難工事と言われた「黒四ダム」建設のための隧道工事(大町ルート)の苦闘を描いた映画である。 

これによって現在は、「大町ルート」や「立山アルペンルート」が完成し、一大山岳観光地として労せずして多くの人々が黒部峡谷の“大自然”を楽しめるようになった。


次回は、「越中境」




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  日本周遊紀行(225) 魚津 「蜃気楼」   .




特色ある海底地形によって“魚色”の多い富山湾で、それを表すような代表的な地名が「魚津」であろう。 その名が示すとおり古来より魚の多種多量の産地ということで、聞き伝えで大勢の人が移ってきて次第に家数も増え、町並みができたと言われる。 
魚津の名、そのものはさほど古いものではなく、小戸・小津と呼ばれていたのを、室町期頃、魚津に改称したと文献にも残るという。 
魚津が、世界に誇る三大奇観として「蜃気楼」、「埋没林」、「ホタルイカ」がある。
 

先ず、<strong>蜃気楼</strong>について・・、 
蜃気楼は、砂漠や隣国の風景が海の上に浮かんで見えるなどの現象であるが、なんと言っても「富山の蜃気楼」は有名で、テレビや新聞の報道等で知られる。 
蜃気楼は光の“いたずら現象”であることは多少なりとも承知しているが、しかし、実際には、理屈としては判りにくい・・!。
我々は、常時青い空を見、時には虹を見、光の七色の輪を見ることがある、これらは可視光線というらしい。 

光というのはテレビやラジオに使われている電磁波と同じ波の仲間であり、目に見えるものはその内の極一部で可視光線と呼び、赤外線や紫外線など、その殆どは目には見えないものである。
光には分散、回折、屈折、反射、散乱、更に偏光、干渉といった、いろんな性質がある。 

空が青く見えるのは光が強く散乱している状態で、太陽が斜めになって光が弱く、散乱も弱い状態になると赤い夕焼けにみえる。 
虹は雨上がりの空の水滴に太陽の光が当ると、光は屈折・反射を起こし七色に分かれる現象である(太陽、光に背を向ける)。 
又、プリズムやガラス、小さな隙間に光を通すと分散や回折を起こして七色に見える。


さて、蜃気楼であるが、これは大気における光の「屈折現象」であり、大気の密度の違う(温度差)境界線(層)が光の進路を曲げる(屈折)要因になっているという。 
特に富山湾における蜃気楼は「冬の蜃気楼」と「春の蜃気楼」の二種類があるといわれる。

冬の蜃気楼は、大陸育ちの冷たい空気が日本海、富山湾に流れ込み、比較して暖かい海水がこの冷気を暖め、海水の表面に暖層部をつくり、その境界で光が屈折するために起こる現象である。 
春の蜃気楼は冬のに比べると複雑で、地元の調査によると春の暖気が東の日本海からやってきて、この時、白馬岳辺りの高地から親不知の間の山地を吹き降りてくるため、一種のフェーン現象となって更に暖気温を上げ、そこで富山湾の冷海水が上部大気に冷層部をつくり、同様に光の屈折現象を起こさせるという。

冬の蜃気楼は、対岸の景色が、ある線を境に下方に反転して見える所謂、上下対象の風景に見え、又、春の蜃気楼は、対岸の景色が上方に伸びたり反転したりして、所謂、バーコード状に間延びしたように見える風景であるという。 
通称、上位蜃気楼と称して4月から5月、最高気温が18度から25度の場合が多いといわれる。 いずれにしても、富山湾に注ぐ大小の冷たい河川も大いに影響していることは確かである。


次に、埋没林とは・・、
文字どおり“埋もれた林”のことである。 
林が埋もれる原因には、火山の噴火に伴う火山灰や火砕流、河川の氾濫による土砂の堆積、地すべり、海面上昇などさまざまなものがあり、埋没した年代もさまざまで、数百年前から数万年前のものまであるという。 

こちら魚津の埋没林は凡そ2,000年前、片貝川の氾濫によって流れ出た土砂がスギの原生林を埋め、その後海面が上昇して現在の海面より下になったための現象と考えられている。 
特に埋没林の株は、その森林が生育していた地域全体が地下に密閉されていて、木の株だけでなく種子や花粉、昆虫などが残存しているため、過去の環境を推定できる手掛かりにもなるという。
尚、ホタルイカについては、前項の「富山」で述べている。



<strong>【追記】</strong>

現在 (2009年) 、NHKの日曜大河ドラマで「天地人」が放送されている。 
越後の領主・上杉景勝とその重臣である「直江兼続」の戦国期の英雄物語であるが、この物語に「魚津城」が登場した。 即ち「魚津城の戦い」である。 

天正10年(1582年)、柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦いで、激戦の末、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。 
落城の6月3日のこの日、上杉軍の重臣及び側近達が敗戦後、即切腹し自害して果てている。 
だが、落城前日の6月2日に都では「本能寺の変」が勃発、織田信長が明智光秀により討たれる。 
信長の重臣で指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは落城の翌日6月4日であり、主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退し、その幸運もあって上杉勢は失地を奪還して再び魚津城に入った。 
この急報があと1日早ければ、上杉軍の守将らの自刃の悲劇は起きなかったとされている。

この時期、光秀と景勝(兼続も・・、)は気脈を通じていたともされる。 
本能寺の変に関する文書で近年注目を集めたものに、明智光秀から上杉景勝と兼続に宛てた文書が発見され、その文書によると光秀自身の心情(信長を討つということ)を綴ったもので、上杉家は本能寺の変を事前に知っていたとも思えるのである。 
「魚津城の戦い」は、本能寺の変に関わる重要なポイントでもあった。
魚津城は現在、魚津市立大町中学校になっていて跡形も無く、校庭の隅に「碑」だけが寂しげに立つのみとのこと。


次回は、「黒部





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