『日本周遊紀行』

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新潟県

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日本周遊紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」

新潟市内へ入って間もなく、信濃川に架かるかの有名な「万代橋」を渡る。
万代橋は昭和4年の構築にしては美観溢れる橋である。それもそのはず、この橋は国の重要文化財なので、 文化財の橋としては、あの「日本橋」に次ぐ2番目だそうである。
橋の下流は、充々と満たされた水流が間もなく日本海に達しようとしている。

信濃川は全長367kmで日本で一番長い川であることは周知であるが、長野県に遡ると千曲川や犀川(さいがわ)と名称が変わることは余り知られてはいない・・?。
実は、新潟の信濃川と呼ばれている部分は153キロメートルなのに対し、長野県の千曲川と呼ばれている部分214キロメートルと千曲川の方が長いのである。千曲川の流域である佐久や小諸市周辺は、島崎藤村の「千曲川旅情」でも有名である。

小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子(ユウシ)悲しむ
・・・
千曲川 いざよう波の
岸近き 宿にのぼりつ
濁り酒 濁れる飲みて
草枕 しばし慰む

又、犀川は上流の「安曇野・押野」に到って「梓川」と「高瀬川」が合流する。 
この両河川のことを安曇節が詠っている。

『安曇節』 長野県民謡
槍で別れた梓と高瀬
巡り会うのは 巡り会うのは 
押野崎 チョサイ コラサイ

小生、山歩きが好きで北アルプスを何度も巡ったことがあり、「槍ヶ岳」にも登頂したこともあり、頂上より東へ「東鎌尾根」というのが延びている。この分水尾根を左右、北と南に分けた水域が「梓と高瀬」なのである。
南の槍沢へ下った渓流は、やがて、梓川となって「上高地」を潤し、又、北の天上沢へ降りた水流は、高瀬川となって大町へ到っている。

千曲川と犀川が合流する地点が長野市の川中島で、「川中島古戦場」であり歴史的な名所である。現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。
武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いで、いずれの戦いも千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地を中心に行われたことから、川中島の戦いと総称している。 延べ10年位をかけて5回も行うことになるが、結果として戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けたため、信玄が戦略的勝利をおさめたと評価しうる。 一方、上杉軍は北信濃をほとんど奪うことができなかったものの、謙信も信濃飯山城を守りきったため、ある程度の成功を収めた、そのため両者痛み分けとする見方も有る。

この後、信濃川河口においても動乱があった・・、
天正6年(1578年)越後の虎・上杉謙信は脳卒中で死亡する。
謙信は生前に後継者を決めていなかったため、二人の養子である景勝と景虎が後継跡目を争うことになってしまう、この跡目争いを「御舘の乱」といい、上杉家のお家騒動である。 
謙信は内心では、関東管領職と上杉家の跡目を景虎に、越後国主の座と越後上杉家を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったというのが一般的な説となっているが。
その前に、長尾景虎が上杉謙信と名乗ったのは、元々、越後の長尾氏と上杉氏は姻戚関係にあり、上杉氏は関東管領職にあって、その家督と職を謙信が継いだことから上杉姓を名乗ったのである。その後、仏門に入って謙信と名乗った。

「関東管領」というのは、室町幕府における職名で関東地方一帯を統治する役職をいい、鎌倉に設置されていて足利将軍家が任命することになっている。 管領職は上杉氏の世襲で、鎌倉管領ともいう。
この「御館の乱」は、結果として家中の支持を集めた景勝が、景虎を攻め滅ぼすことになる。
この時、新発田城主・新発田重家は謙信に仕えていて、謙信の死後に起こった「御館の乱」では上杉景勝の重臣として勝利を得ている。 しかし重家は、織田信長と気脈を通じ、上杉家において謀反を起こすのである。原因の一つに御館の乱での恩賞が不満であったらしい・・。 重家は信長の支援のもと上杉氏に対して攻勢を強めたが、景勝軍と戦って敗れ、自害して果てている。
重家は、その戦乱中に新潟・信濃川の中洲に砦(築城)を築いている。しかし、4年後には景勝によって落城してしまう(廃城)が、この時の廃城遺構は現在は残っておらず、実際の場所も分かっていないという。 
その理由は、当時は信濃川と阿賀野川の河口が一帯となっており、その「中の島」に築いた城の為に、後の洪水等の河口変動により土地(島)が消滅してしまった為とされている。 現在は川底なのか陸上なのかも不明だが、市内白山公園付近(信濃川の昭和大橋のたもと)ではないかとの推測もある。

信濃川の「中の島」と言う事で上杉方も簡単には攻められず、水上交通の要所の為、水利権を得た新発田側が物流を掌握するなど一時は優勢であった。 一方、上杉方は地元の商家と組み、商船に武器を俵に詰めるなどして乗せ、内通者を通じて場内に入り込み城主を討ち果たし、あえなく落城させたといわれる。その後の新発田側は、劣勢に追い込まれ、次々と城も落ちて 、遂に本城の新発田城も落城し、新発田氏は滅亡する。結果、重臣・直江兼継を以って、越後には「上杉景勝」時代が到来するが・・!。

尚、「新発田」と言う名称は新発田氏が滅んだ後もその名は残り、現、新発田市、そして新発田藩、新発田城として江戸末期まで存続している。 慶長2(1597)年に上杉景勝が会津若松移ると、秀吉の家臣・溝口秀勝が新発田城に任じられ、その後は代々溝口氏の居城となった。その秀勝の「秀」は秀吉から授かったとされ、曾孫にあたるといわれる人物に赤穂浪士・「堀部安兵衛」がいる。
溝口氏の江戸期、河口上流部での河川改修により阿賀野川が信濃川に合流(水路で繋がれている)するようになってから水深も深くなり、新潟は河川水運、日本海海運の「新潟湊」として発展してゆく。
幕末、修好通商条約によって新潟は函館、横浜、神戸、長崎ととも日本海側ではただ一港の「官港」として開港し発展してきた。

次回は山形県「温海」



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日本周遊紀行(11)出雲崎 「金(ゴールド)と良寛」

<b>出雲崎は、出雲の国と交流があったことから名づけられたとか・・、</b>
地名の由来は、出雲の「大国主命」が当時の「越の国」(古代北陸地方の名)まで遠征したとき、出雲の国との交流が始まった事に因むものと言える。
今は、日本海に面した小さな町ではあるが、かつては北国街道の宿場町で、往時を偲ぶ家並みが6kmも続いていたという。 現在、その北国街道の名残りである出雲崎の「妻入り住居の町並」が歴史国道として、歴史的町並保存地区に指定されている。
「妻入住居」とは・・、 建物の正面出入口を屋根の三角部分を正面とする様式である。これに対して、建物の正面出入口を屋根と直角方向に設けること「平入り」(ひらいり)という。

海を隔てて佐渡ヶ島まで50km余り、出雲崎は佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄えたという。 道の駅に「越後出雲崎・天領の里」というのもあり、江戸時代においては出雲崎は、佐渡への黄金の道、御奉行船などが出入りするための地で、幕府の直轄地を「天領」と称した。
江戸時代に佐渡金山で産出した金銀は、現代に換算して凡そ2000億円にのぼるとされ、その何割かが江戸城に送られた。 佐渡奉行所(佐渡・相川町)の御金蔵から運び出される金銀の荷は木箱に入れて封印し対岸の出雲崎まで運ばれた。 官船は「御座船」とも呼ばれ、船のまわりには幔幕が張られ白地に紺色の葵の御紋の幟が舳先に、また船尾に立てられたという。
出雲崎からは陸路で江戸までの距離はおよそ92里(368km)、出雲崎では支度のため2泊、それからは鉢崎、高田(新潟県)野尻、屋代、小諸(長野県)、坂本、高崎(群馬県)の順で、埼玉県に入って熊谷と浦和、板橋となり、1日37kmのペースで早ければ10日間かかって江戸へ着いたという・・、その道を「金の道」と称した。 現在の国道352号、18号で北国街道ともいい、加賀藩前田家をはじめとした北陸諸大名の参勤交代の道として、そして越後最大の高田藩と江戸を結ぶ街道としても賑わった。

出雲崎は良寛(りょうかん)(1758〜1831)生誕の地としても知られてる。良寛は芭蕉よりも百年あまり後の人で、歌を詠み、書をしたため、一生清らかに暮らした和尚として有名である。
江戸末期・長岡藩家老の「河井継之助」(司馬遼太郎の『峠』の主人公)が曰く、越後の生んだ英雄は「上杉謙信と釈・良寛」だという。 
良寛は1758年、出雲崎の名主(なぬし:大庄屋の下で一村内の民政をつかさどった役人、身分は百姓)の長男として出生しているが、名主が性に合わず突然、寺で髪を切って出家し、名を「良寛」とあらためている。岡山・玉島(現在の倉敷市)の円通寺で十数年修行し、その後、諸国行脚し20年修行につとめ、越後に戻ったのは39歳であった。
越後に帰っても、寺も持たず、説教などもせず、貧しい庵をつくって住んだ。 名・利を離れて村童たちと天真らんまんに遊び戯れ、詩歌を詠じ、心のままに一生を送った。 その歌は万葉調を好み、用語や格調にとらわれることがなかったという。良寛の名は、子ども達を愛し、積極的に遊んだと云う行動が人々の記憶に残っている。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈している。

 『 子供らと 手毬つきつゝ 霞たつ
           長き春日を 暮らしつるかも 』
 『 霞立つ 長き春日を 子供らと
           手まりつきつつ この日暮らしつ 』
と詠う。
良寛は又、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたという。 唯一の女性弟子の「貞心尼」に対して、ほのかな恋心を抱いていたとも云われている。
『 <b>禅師.常に酒を好む.然りといえども量を超えて酔狂に至るを見ず.また相手は田夫(でんぶ)、野翁(やろう)たりとも互いに銭を出し合いて,酒を買い,呑むことを好む.しかも汝(なんじ)一杯,吾一杯という風に,盃(さかずき)の数,彼我(ひが)幾多少(いくたしょう)なからしむを常とす</b> 』
良寛は決して世捨人、隠者をもって自認していたのではなく、 人を恋い、人と相会うことを喜ぶ。  以外と好き嫌いが激しく、「真にして偽りなき」性(さが)を愛した、 それは子供たちであり、きこりや漁夫たちであった。
老いても木石のようにならず、生きる喜びを謳歌し続け、一人でいるのが好きで、一人でいても四六時中が充実していた。 手先も器用で結構ユーモアがあり、嘘が言えない愚直さ、放浪性、孤独性、庶民性と貴族性と特異性を併せ持った性質であったと・・。
良寛の特に嫌いなもの三つ、詩人の詩、書家の書、料理人の料理。つまり、型にはまった、技巧を弄したものを嫌ったようである。   
町と日本海とを見下ろす丘陵上に「良寛(りょうかん)記念館」は建ち、良寛の書画やゆかりの品々が展示されている。

次回は、「新潟」

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日本周遊紀行(10)上越 「越後・上越」


上越について・・、

新潟県を地域で呼ぶと通称三つに地域を云い、北部より下越、中越、そして上越の各地方のことである。地理的な表現だと下越が上方で上越が下方になる・・? 
しかし、地名というのは古来より伝承されたものが一般的であり、「上越」という地名は、当地に平安期の「国府」が存在したのが大きな理由だろう・・?、しかも「京」に近い地域を“上“としたのであろう。

この上越は小昔の昭和期までは、懐かしい名称の「高田」、「直江津」と其々の地域に分かれていた。
高田地区はやや内陸に在り、妙高山麓にちかいこともあって、豪雪地帯で有名である。 この地区には越後で最大とされた高田藩の拠点であり、、高田公園・高田城がある。 戦国末期、徳川家康の六男「忠輝」が築城したもの。
直江津・・、直江の津は中世より拓かれた港町であり、「津」は港を意味する。 上杉家の家臣、「直江氏」が現在の直江津の辺りを本領とし、津(港)の支配権を所持していたようである。地名は戦国時代末期に、上杉景勝の家臣・「直江兼続」が、姓名を取って直江津港を開いた事に由来する。
直江兼継は、越後の二代目藩主・上杉景勝の主席家老であり、文武兼備の智将でもある。
戦国末期、家康が上杉景勝に「謀反の疑いが有る」と、言掛りを付け、その上杉景勝に疑いを晴らす為に「大阪へ来い」と使者を会津(上杉景勝の領国)に派遣する。 この返事を上杉景勝に代わって家老の直江兼継が「謀反などありえない、大坂へ行く必要はない、来るなら来い・・、」と言う、云わば果し状」(直江状と呼ばれる)とも云うべき檄文を届ける。
この返書が家康を激怒させ、「関が原の役」の引き金となったともいわれる。
上杉家は関が原の役で交戦する事なく敗者となったが、兼継は勝者の家康に面会の折、死を覚悟して「私は、天下一の弓取り内府公(家康)と戦いたかった」・・ともらしたという。 家康は、兼継の男気に惚れ、本来ならば上杉家断絶・切腹のところ、気骨ある人物を殺すには惜しい男と観て、上杉家そのものも米沢へ減封(120万石から30万石に)されただけで済んだという。
兼継は上杉景勝より6万石を貰っが5万石を同僚、家臣に分け与え、更に5千石を小身の者に与え自分は5千石で暮らしたという。

現在、NHKで「風林火山」を放映中でお馴染みであるが・・、上越には何といっても「春日山城址」がある。 標高190mの春日山山頂に築かれ天然の要害を持つ難攻不落の城で、戦国期の名将「上杉謙信」の居城であった。
「謙信」は初名は長尾景虎といい、越後の龍と恐れられた戦国屈指の闘将である。 山内上杉家より、その名跡と関東管領職を継ぎ、後、仏門入道して上杉謙信と名のった。
戦勝の神・毘沙門天への信仰が深く、戦場では常に白地に「毘」の文字を染め抜いた軍旗を掲げて戦った。 宿敵・武田信玄や、関東の雄、北条氏康・氏政父子を相手に、生涯数え切れぬほどの合戦を繰り広げたが、大義名分のない合戦は決して仕掛けなかったという“正義の人”でもある。

さて、豪雪地帯の「上越」であるが・・、
「トンネルを抜けると雪国であった」というのは同じ越後でも越後湯沢のことであったが、こちらも大の雪国である。
日本の国土で雪国(積雪寒冷特別地域)と称される地域は、日本の国土の約6割、人口は2.5割を占めるといわれ、高齢化は全国平均を上回るスピードで進展しているという。 一昔前までは、雪国の地域である日本海側を「裏日本」と称し、少雪国の太平洋側を「表日本」と称したようである。
雪国の対極にあるのが暖国・表日本であり、積雪寒冷特別地域以外の地域で、いわゆる太平洋ベルト地帯である。 かの明治維新以降、先進工業化が優先的に整備され、日本人口の7割、工業生産出荷額の約7割が集中するなど、日本の産業、経済、サービスの中心であることは確かである。
昭和の宗匠・田中角栄が、『上越国境の山地をブルを総動員して削り取ってしまおうか・・?』と冗談とも、本気とも取れる発言をしたことは知る人ぞ知るであるが・・。
雪国は弱者であり、絶えず豊かな暖国から支援されてきたといわれるが・・??。雪で閉ざされ暗く、高齢化率も高いから未来も暗いのであろうか・・?、否であると。 
雪国の代表の一つである新潟の人口は、明治20年ころまでは、東京、大阪、兵庫を抜いて日本一であり、昭和40年代の初めころまで納税額もトップクラスだったそうである。
また、江戸期以前の日本海には、上方(大阪)と蝦夷(北海道)とを結ぶ物流航路が存在していたのは周知で・・、高田屋嘉兵衛でも有名な北前船である。大阪からの「下り荷」は塩、酒、雑貨、北海道・東北・北陸からの「上り荷」は海産物、米、材木が主体であり、中継港の敦賀、新潟、酒田は繁栄を極めたなど、経済でも暖国に引けをとらない時代もあったのである。

雪国には、雪で閉ざされた時期を生き抜く衣食住の知恵がある。 また、自然の雪ダムで水が豊富で、食料自給率も高く、米、酒が旨く、自然が豊富でもある。 21世紀に世界が抱えるであろう問題は、地球温暖化、食糧問題である。
日本も確実に直面するであろう、これを克服する素地は暖国にはない、・・が雪国にはあると。
21世紀は、あるいは雪国の時代ではないか、これから雪国の反攻が始まるというが、さて・・!!。

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日本周遊紀行(9)糸魚川 「姫川と翡翠(ひすい)」


昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名は奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡辺りを支配していた古代女王であったとされる(古事記)。
糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠(ひすい)を支配する巫女であったとも言われ、「奴奈川姫」という名は「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、個人名ではなくこの地方の代々の女王を指す可能性もあるともいう。

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主(オオクニヌシ)の命は、能登半島に上陸し少名彦命(スクナヒコ)と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて「越の国」に渡ることになる。
越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸し、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は、現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後地方の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。
美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦(ネチヒコ・姫川沿い糸魚川市根知)は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入したが、結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子を生む、この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命(諏訪地方参照)である。

一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいう。 大国主神は侵略と脅しであり、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしているのである。つまり、征服者と被征服者の関係であったと・・、
その後、奴奈川姫は、大国主の子である建御名方命を産むのであるが、「奴奈川神社」(糸魚川市の一の宮)によると、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるというが。 
大国主命はその内、本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った、出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かったのである。 大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。  そこで、姫は、姫川の奥深く逃げ込み、追っ手が厳しくなると姫川に無念の入水をしたという。 又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 
姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。
奴奈川姫はヒスイの主権者といわれているが・・、  

『ぬな河の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも
  あたらしき君が老ゆらく 惜しも』 「万葉集十三巻」より
この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。 
古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。
姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の「長者ヶ原遺跡」(糸魚川市一の宮、美山公園北・ 縄文時代の遺跡で、古代にはここでヒスイ加工が行われていたという)からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。

太古の紀元前4000年頃には世界最古のヒスイ文化が実証されているともいわれる。
古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や、大平洋岸までヒスイが運ばれているという。陸奥の国の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000〜5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されている。
神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉(まがたま)を身につけ霊力を発揮して統治していた。 古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭りに用いられた。そのような重要な祭器であったから、このうちの特に霊力の強いものが「三種の神器」の一つとなったといわれる。
「神璽」(しんじ・皇位のしるし)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト・神話、岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作ったとされる神、天孫降臨の1神)と呼ばれる職人集団の祖神である

糸魚市川の姫川流域、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸などは、我が国での殆どの翡翠が産出するという。
糸魚川−静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉みだされ地表付近に出現したといわれる。 硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流、小滝川「ヒスイ峽」の翡翠は良質であり、糸魚川市、青海町の産地と共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられているという。 
現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は、海外、ミャンマー産とみられている。 東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 
石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。

次回は「上越」



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日本周遊紀行(229) 糸魚川 「姫川」

「姫川」は、フォッサマグナの西縁、いわゆる糸魚川・静岡構造線に沿って白馬村から糸魚川市まで流れている。
地球規模からいうと、北アメリカプレートがユーラシアプレート(主にアジア・ヨーロッパ大陸の殆どをで、全陸地面積の37%を占めるという)とぶつかり合い、地下深くに潜り込むというの活動が、この姫川流域で地表面や地表近くに出現していると考えられている。 姫川は、まさに日本列島を東西に分割する大断層に沿って流れる川なのである。
その姫川流域は、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸など国内でも有数の翡翠(ひすい)の産地で知られる。 糸魚川−静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉(も)みだされ地表付近に出現したといわれる。 
硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流である小滝川の「ヒスイ峽」の翡翠は特に良質であるといわれ、そのため糸魚川市、青海町の産地共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられている。 
現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は海外、主にミャンマー産とみられている。 東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。
 
姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れている。
姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 
水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 そのため、親海湿原(およみしつげん)の湧水は青木湖からの浸透水であるともいわれる。
白馬村から発した水流は、北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流となって流れている。 全長わずか58キロで平均勾配100分の1・3、つまり100mにつき1・3m下るという急流である。 その流域は信州・長野と上越・新潟地方とを結ぶ国道148号線が走る数少ない交通路であり、又、大糸線が並行して走る交通の要衝でもある。 その河岸には道路、鉄道に沿って民家もひしめき合っている。 

姫川は麗々しい名前とは裏腹に「暴れ川」としても知られている。 
その急流さのため豪雨による度々の洪水に襲われている。 土砂災害も絶えず、道路や鉄道が不通となることも度々であり、近年では平成7年の大洪水で鉄道、道路がかなりに亘って流失寸断された。 又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。
又、姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れているが、周囲の地質は非常に脆弱(ぜいじゃく)であり、地すべり地形が広く分布する。 特に千国、小谷地区に到ると山稜が急激に狭まりトンネルが連続するところ、そこに大きな支流の「浦川」(中土駅の北側)が流れ込み、この上流に「稗田山崩れ」という大崩壊地が見られる。 

稗田山崩れは日本三大崩れの一つとも言われ、(富山県立山・「鳶山崩れ」、静岡県安倍川上流・「大谷崩.れ」)明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)の北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m〜65mの天然ダムを形成してしまったという。 
堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。 この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているともいわれる。 
「稗田山崩れ」の詳細は以下に・・、



気分も晴れやかに、糸魚川の平野から山峡の地へ入り込んでゆく・・、
白馬方面へ近ずくにしたがって、空模様も明るくなり、小谷村の栂池高原の入り口である「白馬大池」辺りへ来ると、薄日も差して晴れ上がってきたようである。 山間の地を抜けると、いよいよ白馬村である。 白馬盆地といわれる山あいの平地が大きく広がり、右手に広大な北アルプス・白馬連峰の峰々が出迎えてくれている。
昔の旅人は牛馬を連ねて、姫川流域の北アルプスの山峡の急峻な地を、艱難辛苦しながら、はるばる練り歩き超えてきた。 そして、ここ白馬の平穏な地まで来て初めて一息入れ、おまけに、この絶景を見て心を安め、明日への活力を得たという。
 
その白馬三山である主峰・白馬岳、杓子岳、鑓ヶ岳は未だ白き衣を纏ったまま、小生を迎えてくれた、有難かった。
一事を成し遂げた満足感からも胸が熱くなり、長旅で緊張感がほぐれたことも手伝って目頭が熱くなるのを覚える。 因みに、地域である白馬村やJR大糸線の白馬駅はいずれも「はくば」と呼称するが、山岳における白馬連峰、白馬岳の呼名は「しろうま」と称してる。 残雪期になると、山の傍に「代かき馬」、「代馬」のような雪形が現れることから代馬から変じて「白馬」になったと言われる。
白馬山系は日本一の高山植物のメッカであり、多くの行楽、登山客を迎え、山麓には長野県はおろか、全国有数の広大なスキー場が広がっている。 その八方尾根の南側には「白馬のジャンプ台」が隣接している。 ラージヒル、ノーマルヒルと平行して並び、その存在はすぐ確認できるが、夜はライトアップされて、その曲線が美しく、いっそう存在感がある。 
白馬のジャンプ台は、オフシーズンには観光見学用として一般公開している。 二人乗りのリフトを乗り継いで、透けて見えるデッキプレイとの階段を登るとき、余りの高さに身震いを生じるのである。 さらに展望デッキへ・・、実際にジャンプ台を生で見ると心の底から「このジャンプ台から飛び降りるなんて、それだけですごい」という気持ちになり、あの長野冬季オリンピックの名場面が浮かんでくるのである。
原田選手が開会式後のインタビューで「鳩になってみようと思います」なんて気の利いたジョークを飛ばしていたが、いいジャンプをすると鳥になったような気分を味わえるというのは、少しもおおげさな表現ではないのだろうと感じる。 ジャンプ台の下には記念館があって、当時の長野オリンピック、ジャンプ競技の感動的な記録が展示してある。

次回は、最終章、「長野冬季オリンピック、白馬の感動をもう一度・・!!。


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