『日本周遊紀行』

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山形県

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最上川河口に在する「<b>山居倉庫</b>」:瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群は日本有数の米どころ庄内地方を象徴し、今も現役で活躍している。



<b>日本周遊紀行(18)酒田 「最上川とおしん」</b>


秋候の時期、小生達も数年前「<b>最上峡芭蕉ライン舟下り</b>」を楽しんだ。

戸沢村古口(往時の戸沢藩の船着場)から、舟下り終点・最上川リバーポートまで、最上川の流れに身をまかせ、船上からの景色を楽しみながら、雄大な自然の中を船頭の「最上川舟唄」を聞きながら、ゆっくりと下る。

特に、最上峡の右手の赤の鳥居と緑の木立に見え隠れしながら、最上川に落ちる一筋の滝が、白糸のように流れ落ちるのが印象的であったのを覚えている。 
芭蕉もこの光景を舟の中から眺めたのであろう。


白糸の滝の側に戸川神社「仙人堂」がある。 
その由来書によれば、仙人堂は、源義経の奥州下りの折り、従者の常陸坊海尊(ひたちぼう・かいそん)が建立したとつたえられる。 
その時、傷を負っていた海尊は足手まといになるので、この地で義経と別れ終生この山に籠もり修験道の奥義をきわめ、ついに仙人となったと言われている。 
祭神は日本武尊で「最上の五明神」の一つとされ農業、航海安全の神として信仰されているとある。 


義経はこの地を訪ねたとき、以下のような和歌を残している。

『 <b>最上川 瀬々の白浪 月さへて 夜おもしろき 白糸の滝</b> 』



さて、最上川といえば近年TVであのシーンを思い起こすのである。
NHK連続テレビ小説(昭58年)、一時は60%を超す驚異的な高視聴率を記録した橋田寿賀子原作「<b>おしん</b>」の故郷は山形県で、(山形県出身の実在のモデルもいる)ロケも実際に県内で行われ、おしん生家の藁葺き民家も今も崩れかけてはいるが、中山町の廃村、岩谷地区に残っていると。

明治34年(1901年)「おしん」は、山形県最上川上流の寒村、貧乏小作の子だくさん農家に生まれ、数え年7歳の春、本来なら学校にあがる年に<b>口減らし</b>(家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数をへらすこと)のため一俵の米と引き換えに奉公に出される。 
最初、生家での貧困生活から始まり、奉公先である最上川下流の酒田の材木問屋での辛抱生活が続く。 そして上京、髪結い修行ののち結婚し、関東大震災をきっかけに夫の故郷である佐賀へと舞台が移っていく。

おしん役は小林綾子、田中裕子、乙羽信子と三人が演じ分けたが、特に、おしんの子供時代を演じた小林綾子が注目を集め、幼くして奉公に出された「おしん」が、歯を食いしばりながら苦難に耐えていく姿は、全国に涙を誘い、国内のみならず、中国や東南アジア、中南米、中東でも放送された。

なぜ、「おしん」は、こんなに人々の心をとらえ、人気を集めたのか・・?。

それは、明治・大正・昭和、おしんが生きた八十年余の日本の庶民史を踏まえながら、単なる辛抱物語としてではなく「<b>人間として、どう生きるべきか</b>」という命題を問うていたのである。
因みに、「おしん」のTV放送は世界各地でも放送され、その数何と60数カ国で放映されたという。これは実に世界人口の凡そ3割弱の人々が観たことになるらしい。 
しかも、その視聴率は国内では60%を越えたということは知られているが、著名な国では60、70は当たり前でポーランドでは80%を越えたとも言われている。
まさにマンモス・ドラマであった。



<b>庄内の穀倉地帯を山形県内だけ悠然と流れる「最上川」、その河口に有るのが酒田である</b>。

古来より最上川を経由する、陸と海の拠点で、最上川のすぐ横の支流に新井田川が流れている、渡ってすぐ左の中洲に山居(さんきょ)倉庫があった。 
「山居倉庫」・・、瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群で、日本有数の米どころ庄内地方の象徴として、今も現役で活躍している。 

倉庫は明治26年、酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩主酒井家によって建てられた、いわば、官営の大倉庫であった。 庄内藩により厳しく管理され、倉庫の前には船着場があり、舟で最上川、新井田川から庄内米が次々と運ばれた。 

最盛期には15棟在ったが現在は12棟、周囲には数十本のケヤキの大木が繁り、これが、夏は涼しく冬は暖い保温の効果をしているという、内部は真夏でも18〜20度のみごとな低温倉庫になっているとか。 
保管物は主に庄内米、1棟で1200トン、2万表の米が保管されていたという。 
今では減反で米が減少、地酒や大豆も保管されている。 酒田市の歴史を伝える、史跡の一つで、酒田の観光名所にもなっている。


酒田は、古代、「袖の浦」と呼ばれ、この地には平安期、朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡(きのわのさくあと:最上川の下流、城輪・きのわ地区にあり、今から1200年くらい前に東北地方を治めるために建てられた役所のあとと考えられてる)があるように、地域の歴史は古い。 
以降、奥州藤原氏の家臣36人が最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し造ったといわれる。

平安末期の平泉政権・奥州藤原清衡が、平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。
当時、上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊へ運ばれ、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。 

後に、頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守る為に、36人の遺臣がこの地に落ち延びた。 
その後、遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。 現在三十六人衆の中で、平泉からの遺臣達で家が残っているのは、粕谷という姓(酒田市史)と見られている。

江戸初期、西回り航路(関西方面)が開かれると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「<b>西の堺、東の酒田</b>」ともいわれ、太平洋側の石巻と並び奥州屈指の港町として発展した。

酒田の有力商人からなる36人衆と呼ばれる集団は、北方海運の廻船業を主に、蔵米の諸払いや、材木輸送を行う豪商であると共に、彼らが酒田の自治組織の中心でもあった。

江戸初期、天和年間(1681〜84)の記録では入港船数は春から秋口までに2,500〜3,000艘もあり、月平均では315〜375艘もの船が停泊していたことになるという。
中でも・・、「<b>本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に</b>」とうたわれた本間家は、戦後の農地改革まで日本一の地主だった。 

集積した土地約3,000町歩、小作人2,700人といわれ、日本一の大地主の名を馳せていた。江戸時代は藩主への多額の財政援助により500石取りの士分を許されていて、酒田にとっては本間家無しでは語れないほど貢献の数々を行っているという。

酒田は特に関西の京、大阪とは頻繁に交易が行はれ、上方の文化を取り入れた独自の経済、文化を築いている。 酒田の言葉は、今でも京言葉に似ていると言われる。

あのテレビの「<b>おしん</b>」もここから出世していった。


『<b>最上川舟歌</b>』 山形県民謡

ええや えんやえ〜 えんや え〜と
よいさのまかせ えんやら まかせ
「酒田さ行(え)ぐわげ 達者(まめ)でろちゃ」
よいしょ こらさのさ
「はやり風邪など ひがねよに」
え〜や〜え〜や〜え〜 えんや〜 え〜と
あの娘(こ)のためだ
なんぼとっても たんとたんと
えんや〜 え〜と えんや〜 え〜と
よいさのまかせ えんやこら まかせ
よいさのまかせ えんやこら まかせ


次回は秋田県・「象潟」



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三山神社の一角に立つ芭蕉碑


日本周遊紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」




芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、江戸を発ったのが元禄2年(1689)3月27日であった。これは旧暦の日付で現在の陽暦では5月16日に当る。  



奥の細道の有名な冒頭の一文 ・・、

『 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛け置く・・、 』

芭蕉の出だしの第一句に



 『 <b>ゆく春や 鳥なき魚の 目はなみだ</b> 』

と江戸・千住大橋ぎわで詠んでいる、長道中の覚悟の一句が見てとれるという。

俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、「出羽三山」への前に最上川を船で下っている。

元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は新庄市の本合海(もとあいかい)から立川町清川(現、庄内町)まで舟で長道中の水上を下った。 

文中に・・、

『 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。 ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 』
といっている。 
そして船中で・・、



 『 <b>五月雨を 集めて早し 最上川</b> 』

と余りにも有名な一句よ詠んでいる。 
他に・・、



 『 <b>暑き日を 海に入れたり 最上川</b> 』

と合わせて詠んでいる。

激流の最上川の景を楽しみながら、一転して天台宗修験道の霊山霊地としての出羽三山の山域に入山したのは、6月初旬(陽暦7月下旬)であった。 芭蕉は出羽三山、鶴岡に概ね10日間滞在している。 
先ず・・、



 『 <b>雲の峰 幾つ崩れて 月の山</b> 』

と月山を詠み、月山の山小屋に一泊している。 

湯殿山では行者の作法として、山中の出来事などの他言を禁じていることに発想を置き、



 『 <b>語られぬ  湯殿にぬらす 袂(タモト)かな</b> 』

の句を読んでいる。 

芭蕉らは羽黒山の中腹にある南谷(みなみだに)の別院に宿をとり、南谷に6泊し、6月10日(陽暦7月26日)に酒田に赴くまでの7泊8日を出羽の霊山で過ごしている。 

その羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山には中腹に湯殿山神社と夫々祭神が鎮座しているが、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して三神合祭殿と称されて、その本坊において俳諧興業を行い、芭蕉は



 『 <b>有難や 雪をかをらす 南谷</b> 』

の句を詠んでいる。

句は「このお山は晩夏の6月というのに山肌にはまだ雪を残していて、それが南風にのって薫るかと思われるほどであり、ありがたいことだ」というほどの意味という。 
南谷の南は「南風」の意があり夏の季語となっている。 
併せて・・、



 『 <b>涼しさや ほの三日月の 羽黒山</b> 』

と詠んでいる。

その後、一行は、羽黒山から鶴岡に向かい酒井14万石の城下町、酒井藩の家臣「長山重行」の家に三泊している。 
重行は、江戸邸に勤めていたころに芭蕉の門人になったといわれ、鶴岡駅前の市街地の中、現在ではその邸跡だけが残っており、その一角にこの地で詠んだ四吟歌仙(芭蕉・重行・曾良・呂丸)での芭蕉の発句の碑が立っている。



 『 <b>めづらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび)</b> 』

「山をいで羽」は、出羽を意味する。

専門家によれば、芭蕉はこの羽黒山、月山、湯殿山の修行(登山)で、不易流行(※)を打ち立て、句風が変わったという。
 
※「不易流行」とは、芭蕉が提唱した俳諧理念・哲学の一つ。

「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神、「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するという意味。相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考えである。

湯殿山神社の左手に、曽良と芭蕉の句碑が建つ。

次回は、「酒田」



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樹林帯の中にひっそりと、だが豪快に建つ「出羽三山・五重塔」
(写真下)出羽三山神社:「三神合祭殿」



日本周遊紀行(16)鶴岡 「出羽三山」



羽越線・鶴岡駅前の中心街より真東に向かうと、羽黒町の田園地帯が広がる。 
この田園のど真ん中、羽黒山域(神域)の入口には東北第一の大きさを誇る大鳥居が天を指す。羽黒山は月山、湯殿山とともに出羽三山の一つであることは周知だが、今日でも山伏の修験の山としても広く知られている。 

その歴史は蘇我馬子(推古天皇期・西暦626年:飛鳥時代の政治家、「馬子」であるが男性である)に暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三子(第一子ともいわれる)とされる蜂子皇子(はちこおうじ:聖徳太子の従兄弟)に始まるという。 

皇子は蘇我馬子の更なる魔手を逃れるため宮中を脱出して「弘海」と改名し、日本海側の由良(京都府宮津由良海岸)から船で北上し、由良の浦(鶴岡市由良海岸:どちらも「由良」と同じ名称であるが偶然か、はたまた丹後の地域名を継いだのか、などは不明)に上陸したと伝承されている。 
そして推古元年(593年)、羽黒山にたどり着きに開山したとされている、さらに月山、湯殿山を併せて開山したという。

後に、役行者が羽黒山に来て蜂子皇子の法を継いだといい、この蜂子皇子の苦行が発展し、転化したのが羽黒山の古修験道になったといわれる。 
平安期以降は神仏習合で真言宗となり、江戸時代には天台宗に改め、明治に入り神仏分離が実施された神社でもある。



大鳥居をくぐって神域に到ると「神路坂」と称される坂道があり、正面に「羽黒山正善院黄金堂」という古刹がある。

1193年、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討つ際に戦勝祈願のため土肥実平(といさねひら:相模の国・湯河原、桓武平氏の流れをくむ、鎌倉創生期の源頼朝の重臣・御家人)に建てさせたという。 
総門からは大杉林に沿って長い石段の先、朱塗りの太鼓橋を渡ると、有名な「羽黒山五重塔」へと至る。
五重塔は、「羽黒年代記」によれば創建は、平将門が寄進したという伝説もある。関東以北では最も美しい塔と言われ、第一級の国宝に当たる名建築であるとされる。

克っては周囲に多くの堂舎が建っていたが、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により破壊され、この五重塔だけが破壊を免れたといわれる、あまりの美事さに破壊を免れたのかもしれない。

ただ、周囲が太古の杉林に囲まれ、湿り気が多いはずである、しかも当地は豪雪地帯でもある。長年の風雪に耐え、悪条件の中の地形に屹立していて腐食しないものかと心配もし、はたまた感嘆するのみである、国宝に指定。


この先、「出羽三山神社」までは、荘厳なまでの古老の杉並木の石段を延々と登ってゆく・・。思えば紀州・熊野、那智大社の熊野古道の「大門坂」を彷彿させるが、尤も、此方(こちら)のほうが自然の中で森閑としているようでもある。 
「出羽三山神社」の大社殿の前に額ずいた。 
社殿正面の上部には大額縁が飾ってあり、月山神社を中心に出羽神社、湯殿山神社と記してある。 こちら羽黒山の社殿は、三社の神を併せて祀る三神合祭殿なのである。

普通、出羽三山といえば羽黒山、湯殿山、月山を言う。 湯殿山神社は湯殿山中腹、標高1500mのところに社殿をもち、月山神社は月山山頂(1984m)に風雪に耐えながら鎮座している。
湯殿山は山自体がご神体であるし、月山も山頂に社殿があるだけで神社社殿としては羽黒山だけなのである。通常は、羽黒山の出羽神社合祭殿で三山祭祀が行われ、従って、合祭殿をお参りすれば出羽三山を参拝したことになるという。
羽黒神社は、全国に200社ほどある支社の本社でもある。


出羽三山はもともと修験道の行場の山であって、修験道とは、山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする神仏が融合した宗教である。 修験道の実践者を修験者または山伏といい、開祖は役行者(役小角)とされている。 

因みに全国の修験道場は、江戸期・徳川幕府により京都聖護院「本山派」と京都醍醐寺三宝院「当山派」の二派に統括されるといわれるが、古来よりの出羽国羽黒山と九州英彦山(ひこさん)は特別に別派として公認されていたらしい。


神仏融合とは・・?、
古来、日本では自然の山や川を神として敬う山岳的信仰の「神道」と、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教体がある。 
所謂、神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、土着の神的信仰と仏教的信仰を折衷して、一つの信仰体系を再構成することで、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも、本地垂迹(ほんじ‐すいじゃく)ともいう。

この思行によると、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変え、実体を表したもの、即ち、迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、平安時代頃から盛んに信仰されるようになった。

平安初期に中国より伝来した密教(真言、天台など)との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により集合体は禁止され、神と仏とは分離された。 
又、その後に定められた廃仏毀釈により、仏閣、寺院など関係する物などが破壊された。だが、著名な神社寺院においては、この神仏混淆の強い思想に影響され、一部はそのままの形で残った地域もある。


出羽三山の神仏習合について・・、
出羽三山に現在祭られている神々は、それぞれ出羽神社が伊氏波神[いではのかみ]、月山神社が月読神[つきよみのかみ]、湯殿山神社が大山祗神[おおやまづみのかみ]、大己貴神[おおなむちのかみ]、少彦名神[すくなひこなのかみ]などで、日本古来から崇拝してきた神々である。

奈良時代に入ると仏教流布と共に仏教者達が修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。

出羽三山においては、羽黒山神の本地体を観世音菩薩とし、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が各々定められた。
神仏習合の宗教形態として、はじめは神社の境内に神宮寺、別当寺を建てて神々を補佐するような立場であったが、次第に神々と統合し、後には祭事は全て仏式で行はれるようになった。
これらが明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いたのである。 

平たく言えば、全ての祭事事項が神式から仏式に変わった、つまり、仏が神に成り代わり、仏が神を乗っ取ってしまったのである。 
明治期の神仏分離により出羽三山は一応は神社ということになっているが、紀州・熊野三山などの比べると、多分に寺院としての性質が未だ色濃く残っているとも言える。

出羽三山では、現在も修験者や山伏が闊歩して法螺貝を吹き、社域には宿坊が並び、参拝される人々の拝礼の仕方も神式、仏式どちらでも良い感じである・・?。 
どだい、出羽三山の「山」という表現の山号(さんごう)は、仏教の寺院名に付与される修飾語の一つとされる。これは中国伝来の仏教用語で、禅宗系に所在するの寺院に「山」の名称を付けている場合が多い事でも理解できるのである。


次回、「出羽三山と芭蕉」




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        鹿児島市内、城山の麓に立つ「西郷像」


日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と西郷どん」



庄内地方では西郷隆盛(薩摩藩)が人気があるという、それは何故か・・?、


幕末において酒井・庄内藩は徳川の譜代であったため、幕臣として会津藩と同様江戸、京都などで攘夷方に対する締め付けを行い、鳥羽・伏見の戦いの契機となった。

庄内藩士は江戸薩摩藩邸焼き討ちや戊辰戦争で薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。そのため会津藩と同様に徹底した征討の対象となったが、新政府軍に対して庄内藩の防備は固く領内には一歩も入れなかったとも云う。

戊辰戦争は新政府軍が圧倒的に優位の中、庄内藩がもし会津、仙台などを中心とする旧幕府側として戦い、長引けば会津と同様に玉砕の道を選ばざるを得なかったはずである。この時、時の東征大総督府下参謀・「西郷隆盛」との直接折衝を隠密理に行っていたという。その結果、「無条件降服」という形で平和的に解決し、事なきを得たという。

戊辰戦争後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。早速、新政府から会津若松への転封、賠償金等を命ぜられたが、藩内は一致団結し藩主自から先祖代々の宝物等を売却し、藩士は家財などを売却し、更に商人や領民なども新政府への積極的に献金に応じたという。 

又、裏交渉にての平身低頭の交渉の結果、領地替は撤回され、賠償金は決定金額の半分であったという。これにも陰で「西郷」が指示し、温情ある態度で極めて寛大ものであったという。西郷は折衝に臨んで、敗戦者といえども新しい時代の同胞である、と納得したという。

そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に感激、感謝し、後日明治3年(1870年)に、旧庄内藩士76人を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ね教えを請うたという。 

薩摩の人材教育に学び、旧藩主「酒井忠篤」も釈放後、東京より鹿児島へ留学し学んでいる。 また西郷卒いる「西南戦争」の際には、一部の庄内藩士は薩摩・西郷方に味方して戦っている。 

西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」である。平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。 



『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。』



『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。』

「南洲翁遺訓」の中の一節であり、明治23年発刊された。

尤も、西郷の寛大な処分については若干の異論も有るという。 それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 この本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて、藩の御用向きを「株式組織」にするよう提案しているのである。 

西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか、とも言われているが・・?。



鹿児島市城山の北東約1キロメートルの所、錦江湾と桜島を望む丘に、西郷南州をはじめ、桐野利秋・村田新八ら西南戦争で戦死した2023名の志士が葬られている。南洲とは、勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 

この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌であると。 西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、善戦の末、戦死しているのである。 

一方、山形県酒田市の飯森山に「南洲神社」が鎮座している。 戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を誘導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。

現在、「西郷隆盛」が縁で、鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市を結んでいる。




次回は、鶴岡「出羽三山」
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日本周遊紀行(14)鶴岡 「庄内・鶴岡」



山形県の日本海に面した地域を、近世以降主に「庄内地方」と呼んでいる。東に出羽三山、西に日本海、北に鳥海山、南に朝日連峰に囲まれ、所謂、庄内平野といわれる豊かな自然、環境に恵まれた土地である。その中心が鶴岡であり、酒田である。

鶴岡といえば・・、
同じ庄内でも最上川の河口に位置し、日本海に玄関を持ち水運で栄えた商業都市「酒田」(後述・・)とは異なり、少し内陸に入った平野の真ん中といった地にあり、どちらかと云うと農業地、特に農産、穀類(特に庄内米)の生産地としての性格がある。

現在の鶴岡は、平安末期には「大泉の荘」として歴史上、古誌に登場してくる。 「義経記」の中にも、義経が京より落のびる途中「鼠ヶ関に上陸し大泉の庄、大梵字(だいぼんじ)を通った」と書いてある事から、現在の鶴岡が大梵字もしくは大宝寺等とも呼ばれていたらしい。 
鎌倉初期には武藤資頼が大泉荘の地頭となり、その後土地の名を取り、羽黒山別当として「大宝寺氏」を名乗るようになったという。

武藤資頼(むとう すけより)は平安末期から鎌倉期の平家の武将で、初め平家隆盛期においては平知盛の属将であったが「一の谷」の敗戦後投降し、後に赦免されて源頼朝の家人となっている。後の奥州藤原の合戦に出陣して功を治め、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられてる。

「大宝寺」は、鶴岡市の古い地名で、平安時代には大泉庄に属し、中心地が大宝寺であった。
大宝寺は往時、衆徒五千といわれた大寺であり、羽黒山を望む内川の東側に居城を築きここに本拠を構えていた。
この地に武藤氏が着任し、仏徒集を治めて根拠を持ち、勢力を拡大して「大宝寺氏」と名乗った。 この跡が、今も鶴岡市大宝寺町としてその名が残っている。 

下って、江戸開府期の慶長6(1601)年、「関ヶ原の戦い」で徳川方について功をおさめた最上義光が、この地方を与えられ治めることとなり酒田に城を築く。 
酒田の港に巨大な海亀が這い上がった事を吉事とし、酒田の城を「亀ヶ崎城」と名付けた。実際にこの辺り、湯野浜温泉の故事にも見られるように、古来より白砂海岸には大亀が産卵のため上陸したとされてる。 

最上義光は、更に大宝寺城を改め落とし、「鶴ヶ岡城」と命名している。
今の「鶴岡」は、このように亀と鶴の吉事に因んで名付けられた縁起の良い地名なのであり、最上氏も粋なことをするもんである。

1622年、今度は最上氏がお家騒動が発端で改易しなり、徳川四天王の一人酒井忠次の孫酒井忠勝が信州松代10万石から転封となり、庄内を統治する事になった。
以後庄内藩14万石は、250年に渡り庄内を治め事となったのである。同時に城を改修し一の丸、二の丸、三の丸からなる立派な城が完成した。あわせて城下町の整備を行い、今の鶴岡の町の外殻が出来上がった。


庄内・鶴岡地方の温泉郷の1つに「湯田川温泉」が古くから知られている。
鶴岡南部・金峰山の麓にある湯治場として栄えた鄙びた温泉郷で、開湯1300年という伝統がある。鶴岡の奥座敷として地元民に親しまれ、庄内藩政の時代には藩主や美人の湯としてお姫様がお忍びで温泉を楽しんだという。 

温泉街は、黒塀の宿や白壁の宿が並び、多くの文人にも愛され、中でも地元が生んだ歴史小説作家「藤沢周平」を始め、種田山頭火、竹久夢二、柳田国男、横光利一など、鄙びた情緒ある宿に逗留して構想を練り、執筆を重ねた足跡が今でも残されているという。

その、藤沢周平(小菅留治)は現在の鶴岡市高坂に生れている。山形師範学校(山形大学)卒業し、湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は廃校)へ赴任し、国語と社会を担当している。 教え子達は「遅咲きの作家といわれながら精力的に名作を次々と発表し数々の賞を授けられながら、決して驕る事もなく私達教え子と会えばいつも変わらぬ小菅先生でした。」と言っている。
そして病気療養で苦労しながら、あの時代小説を書き上げるのである。
藤沢周平作品の舞台として度々登場する架空の藩名・「海坂藩」(うなさかはん)が登場する。 江戸から北へ百二十里(480km)、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある酒井家庄内藩、現在の山形県鶴岡市を基にしていると言われている。

「腕におぼえあり」、「清左衛門残日録」、「人情しぐれ町」、「蝉しぐれ」等NHKで放送されたが、小生も夢中になって見たものである。又、映画として「たそがれ清兵衛」、「 隠し剣 鬼の爪」、「武士の一分」が上映されている。 寅さんシリーズでお馴染みの山田洋次監督の「時代劇三部作」ともいわれ、特に、第3作目(完結・・?)の「武士の一分」は(木村拓哉、檀れい主演)興行収入が40億円を超え、松竹配給映画としての歴代最高記録を樹立したという。 
山田監督らしい綿密な人間描写やコミカルな要素が取り入れられ、重層なドラマが展開され、「山田組」と言われる時代劇の新境地を拓いたとも言われている。  

海坂藩の地図を山形県米沢市出身の井上ひさし氏が「蝉しぐれ」に基づいて「海坂藩・城下図」を作成したのは有名であり、井上ひさしも藤沢文学に陶酔したひとりである。
藤沢作品での山形庄内・海坂藩は城下町として栄え、家老の邸宅や藩の重職の屋敷を中心にその周囲を住居が立ち並んでいる。 
幕藩時代に布かれた武家制度は、身分や家柄が自由な恋愛を束縛し、派閥抗争など悲劇的な結末を迎えるストーリーが多い。上司の命令は絶対であり、生まれながらにして下級武士や貧農家庭で育った者のやるせなさは、現代・サラリーマン時代と同質のものであろう。
藤沢周平は我々に本当の豊かさ、人を愛することを優しく諭しているようである。


次回も「鶴岡」



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