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日本周遊紀行(35)脇野沢、佐井 「本州天辺の村」 「川内」あたりで大粒の雨が風をともなってやってきた。 これから「脇野沢」から仏ヶ浦へ向かうつもりだが、この間は激しいヘヤーピンカーブの山岳道路だ。 風雨がやや強くなっているこの悪天候でどうか・・チョット思案したが、相手は四輪駆動車だ・・ママヨ!。 脇野沢へ向かう。 海から吹き付ける風雨が強くて見通し悪く、走り難い。 下北半島の形は、どうしても「斧・まさかり」に形容される。 その突き出た下北半島の「まさかり」の刃の下(南方)の部分に当たるのが「脇野沢」であり、上の部分(北方)がこれから向かう「大間」である。 手付かずの自然が数多く残り、霊場・恐山や点在する鄙びた温泉、夜の海峡にきらめく漁火。海も、山も、大地も、まさしく「最果て、地の果て」に来たことを強く感じるところである。 脇野沢村の村落は、この地、脇野沢地域と西側の九艘泊(くそうどまり)の港の二箇所に分かれる。 九艘泊の港は、源頼朝に追われた義経一行の船が九艘、嵐を避けるために停泊したのが地名の由来と言われているが・・?。 九艘泊は、脇野沢より地方道で結ばれてはいるが、ここより先は道は無い。 又、吹雪の場合は通行止めにもなり、正に地の果て、「クソ止まり」になってしまうという。 自然一杯の地・・?、自然のみの地は海の幸も豊富であろうが、当地は、天然記念物の北限のニホンサルやニホンカモシカの生息地で有名である。 その北限のニホンサルが、今、脇野沢村民にとって大きな問題を抱えるようになっているとか・・?。 それは、行政、地域で保護に努めてきたお陰で相当数に増えているといい、その為に最近では農作物の被害が拡大し、尚且つ、村民を威嚇し人的被害も出ているという。 これらのサルを有害サルと特定し、認定されれば捕獲に乗り出すらしい、当然、動物を愛護する人々からは、「可愛そうだ・・!」という反対苦情が村には寄せられているらしいが。 村としては過去に、いろんな施策を講じてもきたらしいが、果たして、村当局はどんな結論を出すのか、他人事ながら、興味が尽きない。 海峡ラインと佐井・・、 その通称「海峡ライン」と呼ばれているのが国道338号線である。 脇野沢村を過ぎると深い原生林の中へ突き進むといった感じである。 見ると津軽半島の平館あたりが、とりわけ近くに眺望でき、そのためか此処を挟む海峡を「平館海峡」と命名している。 その海峡の向こう平館あたりからこちら側を見た風景は、断崖絶壁の壁であった所である。 国道338のこの区間は、海沿いの山岳路とも言うべきもので、尾根を越え谷を渡って進んで行く。 「海峡ライン」は、とにかく上下動の激しい急カーブ、急坂の連続であった。 下北半島を「斧・マサカリ」に喩えた話であるが・・、 改めて下北半島の地図を平面的に見てみると、まさしく「斧」に見える形状である。 注目したいのは刃の部分である、現在走っている、所謂、海峡ロードである山域は海岸より水平で見るとホンノ僅かの距離である。 つまり、海岸線より僅かの地点を5〜600mの標高の山稜が、南北に走っているのであり、そこから流れ出る河川、下北半島最深部の川は西側海岸に向っては急流の短い谷となって駆け下りているのである。 これら、斧の「刃・マサカリ」の部分にあたる地域は、実は立体的・三次元的に見ても斧の刃そのものなのである。 しばらくして、まだ海面よりかなり高目を走っているのに、「仏ヶ浦入り口駐車場」とオンボロ看板があった。 「仏ヶ浦」は、霊が宿るという「恐山」の冥土の入口に当たるとも言われる。 この名所・仏ヶ浦の詳細については後述するので、お楽しみに・・!!。 さて、海峡ラインも北部に到って、ようやく海岸に出る。 本州てっぺんの村と言われる「佐井村」である。 マサカリ状の下北半島の刃の部分の海岸線が凡そ40kmにもなるが、その内、秘境・仏ヶ浦を含めた28kmを占める南北に細長い村である。 山が海岸線まで迫り、村面積の多くを恐山山地を構成する山岳が占めていて、海岸線沿いの細い平地部分にのみ集落が存在し、古くは蝦夷の定住集落も存在していたと見られている。 現在は海岸線利用した、ウニ・鮭・ワカメなどの沿岸漁業中心の村であるが、江戸時代には南部藩領で「南部ヒバ」の特産地及び積出し港、北前船の中継港として、また、蝦夷地への渡船港として栄えたという。 「ヒバの木」は針葉樹・ヒノキ科の一種で、北海道南部から四国、九州にかけて分布するが、天然林は「青森ヒバ」が全国的に有名である。 東京方面で手に入るのは青森ヒバが多く、関西では能登ヒバ(能登アテとも云うらしい)が多いという。 ヒバの特長は、第一に虫や木材腐食菌に強いこと。 昔から「ヒバ普請の家には蚊が3年は寄り付かない」といわれ、特に白蟻に対する強さは他の樹種には見られないほどであるという。 これは防蟻に有効な成分を含んでいるためで、シロアリが青森ヒバを食べた場合死滅するともいう。 ヒバは殺菌性のあるヒノキチオールの含有量が多く、腐りにくく、耐水性があって湿気にも強い。 ヒバの薬効製は、皮膚病の薬(アトピー性皮膚炎)、水虫の治療薬、養毛剤などの医薬品、化粧品など各種抗菌剤があるとされ、ヒバ油は芳香剤として、部屋、浴室の壁板、 浴槽アロマテラピーなどに利用されるという。 特に、北方型の青森ヒバ(「ヒノキアスナロ」とも云うらしい)の美しい木肌、高貴な香り、そして世界中探しても 青森ヒバのような強い抗菌力を持つ木は他には無いと言われる。 東北北部、特に、下北半島・恐山一体は全山南部ヒバ(ヒノキアスナロ)の原生林で、木曾ひのき、秋田杉とならんで古くから日本三大美林の名で知られている。 下北の民族誌には、 『ヒバの花盛りは、雪のしんしんと降り積もる一、ニ月の頃でございます。雪とともに空中高く舞い上がって実を結び、地上の雪に根づいて、百年、それは生命の極限を越えてやっと成木するという、北国特有の銘木でございます。』 と記されている。 ヒバの木は年々減少し、近年、保護育成のため伐採は計画的に行われているといい、難しいとされる青森ヒバの植林も其々の工夫とアイディアで順調だというが、成木になるには、2〜300年もかかるという。 その佐井港は、江戸時代には東北・北海道と京・大阪、江戸を結ぶ北前船の中継地として大いに繁栄した。 その交流を通じて文化や芸能が伝わり、中でも歌舞伎は、この地の人々の心身に染み込んだ故郷文化として残されているという。 上方の地回り役者が伝え、漁師によって伝承されてきた漁村歌舞伎で知られる「福浦歌舞伎」は、全国でも珍しいもので県の無形民俗文化財に指定されているという。 次は、 いよいよ本州最北端「大間」です |
青森県(西部⇒東部)
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むつ市海岸の「斗南藩士上陸之地」の碑(碑は会津若松市の方向を向いて建てられている) 日本周遊紀行(34)むつ 「旧会津・斗南藩」 野辺地から国道4号線と分かれ、国道279に入る。 海岸沿いの小さな市街地を抜け、一路、下北半島へ向かう。R4の混雑が嘘のように、静かな良道である。 野辺地から「むつ」の大湊まで、JR大湊線が平行している。 しばらく走ると「横浜」と言う、懐かしい地名に出会った。 小生の住んでいるのが神奈川県、日本一の高さを誇る「ランドマーク・タワー」のある大都市・「横浜」はすぐ近くであるが・・、 こちらは、東は陸、四季折々の色彩を織りなす、なだらかな丘陵地。 西は海、陸奥湾に面した長く美しい海岸線。 海の青、菜の花の黄色、山の緑と、そのコントラストが美しい春の横浜町。 菜の花の作付け面積日本一を誇る北の町 、「横浜」(よこはままち)は下北半島の首位部に位置する臨海山村の地域である。 あちらは日本一のノッポビル、こちらは日本一の菜の花畑、さて貴方のお好みはどちら・・・?? 無人(・・?)の大湊線・横浜駅を記念に撮り、道の駅・「よこはま」で小用をして、さらに北上する。 むつ市の市街地に入る少し前に、102円/Lの看板を出してるG・スタンドが目に付いた。 通常より15円以上も安く、はじめ半信半疑で通り過ぎてしまったが、・・ママヨ!と思ってUターンして、再度確かめたら、やはり間違いはないようだ。 車を寄せて店員に「ぜーぶん安いね、混ぜてんと違うんか・・、」半ば冗談で・・、 「冗談なして・・」あちらも、半ば怒顔で言う。 おまけにスタンドに’本日更に1円引き’とあった。 丁度頃合なので満タンにする。 通常このあたりは110〜112/円、神奈川では116以上しているのである。 何か得した気分で先を急いだ。 「むつ」の市街に入った。 この「むつ市」は小生、少々の想い入れが有る。 昨年(2003)から今年にかけて「早乙女 貢」の大河歴史小説『会津士魂』を読破した。 そして小生の出身地は会津同郷の「福島・いわき」であることから。 この本は、全二十一巻の大長編物語で、殆どが史実にもとずいて書かれている。特に「下北」を舞台にした続編は、万感胸に迫るものがあった。 時代が変換してゆく中には必ずと云っていいほど、それなりの戦役を体験している。 中でも「関が原の戦い」、「明治維新」、そして「太平洋戦争」が日本の歴史上の大転換点であり、更に現代がそれに次ぐ時代とも言われている。 特に近代への入り口である明治維新を知ることは、現代に通じるものも多いと思われるのである。 幕末の動乱期、「会津藩」は京都で京都守護職という役職につき、「新選組」を擁して京都を浪士達から守っていた。 ここでの浪士・不穏分子とされていたのは薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派たちの所謂、急進派であった。 特に過激な浪士が民家を襲い、市中を混乱させていた異分子である攘夷浪士達を、新撰組が取り締りに当たっていた。 この様な世相の中、会津藩藩主・松平容保(かたもり)は将軍・家茂、孝明天皇から絶対の信頼を得て任務にあたっていた。 この時期、京を騒がしていたその最たる事件が世に言う「池田屋事件」であろう。 その後、「八・十八の政変」(1863年8月18日、長州が京から追われ、同時に七卿も落ちる)や「禁門の変」で、薩摩藩とともに長州藩を追放するが、この長州追い落としの際、中心となったのも会津藩であり、この事が後に長州が会津に対する恨みの要因となったといわれる。 同じ時期、将軍・家茂(いえもち)が亡くなり、孝明天皇の崩御で時態(事態)が急変する。十五代将軍に徳川慶喜(よしのぶ)が就任、 そして坂本竜馬らの仲介のもと、「薩長同盟」が結ばれてる。 政局難に陥った慶喜は、大政奉還(政権を天皇に返す)を行い、更に「王政復古」を行い、朝廷からは慶喜に謹慎、領地の没収などの命が下る。 1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を掲げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。 慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。 しかし、幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。 だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。 そして「奥羽諸藩」に会津追討の命が下るが、奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。 遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。 戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。 近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非官軍と言う)に、母成峠、戸の口と攻められ城下まで戦火は及ぶ。 この時期、会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。 藩士家族は城内へ、又は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。 藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。 藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する(実質的に会津藩の滅亡)。 その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。 数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。 本州と北海道の間に斧のような形に突き出した下北半島。 陸奥湾と太平洋を隔てる斧の柄の部分は、それほど高い山もなく、JR大湊線の車窓からは荒涼とした淋し気な景色が続く。この地、今は「むつ市」となっているが、福島県・会津若松市とは以上のような関係が有ったのである。 市街地から大湊駅を左に国道338を行くと、「斗南藩士上陸之地」と古ぼけた案内板が有った。 普通の人なら目にも留めないで、通り過ぎてしまうような地味な所である、やや細まった道を海岸に出ると、奥の方にその碑はあった。 その碑は会津若松市の方向を向いて建てられているとのこと。 明治3年6月10日、新潟から乗船した1800人の旧会津藩士とその家族が、 ヨウヨウにして到着、上陸した場所であった。 現地の碑文より・・、br> 『 明治維新に際し、明治元年(1868)の戊辰の役に敗れ、廃藩の憂目にあった会津藩は、翌明治2年、斗南藩としての再興が許され、旧盛岡藩領の北部へ移封されました。現在の青森県下北郡・上北郡を中心に会津から移住してきた藩士とその家族は2,600戸、17,300余人と記録されています。この内、新しい藩庁が置かれた田名部(現むつ市)を目指して新潟港から新政府借上げのアメリカの蒸気船ヤンシー号に乗船し日本海廻りの海路をとって移住してきた一団1,800名がこの沖の大平橋に到着したのが明治3年6月10日のことでありました。 』 会津藩は領地を没収されたが、明治2年11月、下北地方、それに三戸郡と二戸郡(当時)が与えられ、家名再興が許され、移住者は2600戸、1万7千名以上に達した。 この地を「斗南藩」(となみはん)と命名した。 「斗南藩」は、「北斗以南皆帝州」、つまり、北斗七星 の南は等しく帝(天皇)の国である、という中国の詩文に由来するという。 新藩・「斗南藩」の町並みを造り、領内の開拓の拠点となることを夢見て、この地は藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられた。 しかし、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。 むつ市大字新町にある曹洞宗寺院「円通寺」(恐山・本坊)は、戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩三万石として転封された際に藩庁が置かれた寺院である。 境内には明治33年に建てられた斗南藩主松平容大の筆になる「招魂碑」が残る。 斗南ヶ丘は、斗南藩・藩士の居住地として開墾に従事させた地であるが、開墾は困難を極めて殆どが失敗に終わったという。 むつ市内から東通村尻屋崎に向かう主要地方道、むつ・尻屋崎線沿いにも「斗南ヶ丘居住地跡」が残り、現在は公園として整備されているという。 斗南藩士(旧会津藩士)の尽力が、今の「むつ市」の発展の礎になったことは言を待たない。 次回は、「脇野沢」 |
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夏泊半島と下北半島の狭間の町、野辺地の江戸期の「常夜灯」 日本周遊紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」 「野辺地」(のへじ)は、俗に「斧形」の下北半島と夏泊半島の付け根に位置している。 北を陸奥湾に面し、南東部には緑豊かな丘陵をいただき、かつては南部盛岡藩唯一の商港で江戸期には北前船で賑わい栄えた歴史ある町である。 このため、古くから交通の要衛として物資、物流の重要な役割を果たし、商港として千石船が多く出入りしていた。 港の岸壁にはこれら出入船の安全のため、夜は灯をともし、現在の灯台の役割をつとめた「常夜灯」が常時灯されていた。 当時、地元の豪商・野村治三郎が船の出入りの安全を願って建造したもので、野辺地湊の尖端に常夜燈が灯ったには、江戸末期(1827年)の頃であった。 青森特産のヒバや南部の大豆や鰯など、京・大坂や外国向けへ積み出され、往路には大阪で生活用品や上方の文物に荷を代えた船が、この灯火を目指して港へ帰ってきたものである。 この常夜灯(灯台)は、現存する日本最古のものといわれている。 野辺地と旧会津藩士・・、 幕末から明治にかけて、大きく世の中が変革を遂げようとする時期、この野辺地の港に明治3年、旧会津藩の船が入港してきた。 その中に、会津藩士280石取の柴佐多蔵の五男として会津若松城下に生まれた「柴五郎」が含まれていた。 品川沖からアメリカの外輪蒸気船に乗った五郎らは、まず野辺地港に入り、島谷清五郎の呉服屋を経て「海中寺」という寺に止宿していたようである。 このときの様子を柴五郎は、「野辺地日記」に記している。 その後、田名部(現、むつ市)の「落の沢」に移り、柴家永住の地との決意を持って移住した。 旧会津藩士(斗南藩士:明治期、廃藩置県で藩はなくなるが)柴五郎は、後の会津若松初の陸軍大将に栄達する。 斗南藩・落の沢について五郎は、後にこう述懐している・・、 『 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。 これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、隣村の大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり。 霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。 まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることもまれなり。 犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。 』と。 戊辰戦争で苦杯をなめた会津藩は戦後、新政府により会津松平家の再興を許された。 領地として旧領内の少区域の猪苗代湖畔、もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。 その際「農業により領地の財政基盤を築くこと」との条件があったため、衆議の結果、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。 新しい藩名は「斗南」(となみ)と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。 その中に柴五郎らの家族もいたのであったが、そこは火山灰土の風雪厳しい、農業には全く不向きな不毛の土地であった。 柴五郎は、旧会津藩士柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれてる。 会津・日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。 新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母と妹は自刃して果てた。 八歳の時、斗南藩への転封が下され、その後は北奥でのどん底の開拓生活が待ち受け、一家は辛酸をなめた。 彼は後に、斗南藩時代を書いた「野辺地日記」や不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著を残した。 彼は廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、日清、日露戦争での活躍により大正2年(1913)には陸軍中将に、大正8年(1919)には陸軍大将なる。 その後に12年の予備役となっている。 昭和20年(1945)、太平洋戦争敗戦の報に接して参内、12月13日に東京上野毛の自宅で亡くなっている。 なお、実兄の柴四朗は文人・政治家として名を為した。 薩摩・長州の藩閥(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府であるが、陸軍大将にまで進んだ人物・柴五郎は、武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた「会津人」であったという。 新天地斗南藩(青森県)へ移住した後、北の冷涼の痩せた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよった。 「挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに対し父は・・、 『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・! 』と、常に叱責していたという。 次回、「むつ」 《 主な山歩記録 》 【山行記リスト】 「白馬連峰登頂記(2004)」 「八ヶ岳(1966年)」 「南ア・北岳(1969年)」 「北ア・槍−穂高(1968年)」 「谷川岳(1967年)」 「丹沢山(1969年)」 「西丹沢・大室山(1969年)」 「八ヶ岳越年登山(1969年)」 「西丹沢・檜洞丸(1970年)」 「丹沢、山迷記(1970年)」 「上高地・明神(2008年)」 「立山・剣岳(1971年)」 |
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青森市発祥の地:善知鳥神社 日本周遊紀行(32)青森 「青森と善知鳥」 程なくして「浅虫温泉」に着いた。 青森・浅虫温泉にはNTT保養所「善知鳥荘」がある。 小生のお上(かみ)さんがNTTの職員ということで、そのツテでこの宿を利用させてもらうのだが。 「某日、お願いしたいのですが、 ところでお宅の“呼名”は何て云うですか・・?」 「はい、こちらは『うとう荘』と申します」 善知鳥(うとう)に関する最初のやり取りであった。 「善知鳥」とは始めて見る文字であって、当然、呼名も意味も知る由もない、“ゼンチドリ“又は”ぜんちちょう”などと勝手に想像していたが、宿の主人に教わってパソコンの文字を叩くと、ちゃんと 「善知鳥」と出てきたのである。 小生の薄学さに些か赤面する次第であるが。 ところで、青森市の名称の前身は善知鳥村から発しているらしい。 「善知鳥」は本来は、チドリ目・ウミスズメ科の海鳥である。 又、「ウトウ」とは、アイヌ語で”突起”という意味もあるらしい。 「善知鳥」は鳥の名前で海鳥の一種であり、大きさはハトぐらいであるそうだ。 背面は灰黒色、腹部は白色、顔には2条の白毛が垂れる、北方海洋の島で繁殖し、冬期本州の海上にまで南下する渡り鳥でもある。 彼らの狩りは群れで行われ、集団で潜水し小魚の群れを一ヶ所に追い込み捕食する。 営巣場所は天敵に襲われにくい崖の岩棚などを好み、地面に穴を掘って生活するという。 「ウトウ」は北海道・天売島が有名である。(このことは後ほど・・、) 現在の「青森」は、江戸時代の始め頃までは「善知鳥(うとう)村」と言われ、戸数わずか60戸ほどの小さな漁村にすぎなかった。 「善知鳥村」がなぜにそう呼ばれるようになったかは謎であった。 善知鳥の語源については、鳥のウトウから採られたと言う説や、アイヌ語の「ウトウ(突起)」に由来するという説などがあるが、はっきりとは分かっていないという。 津軽藩の学者により「善知鳥の図」が発見され、その姿が善知鳥と一致したことで、善知鳥が生息していた珍しい場所であった事から、その名の由来が起こったとも言われる。 ただ、昔は善知鳥・”うとう”などという難解な呼び名は無かったであろう・・、何故、この様な名前になったのか・・?。 「善知鳥 」と書いて「うとう」と読むのは非常に難しく、どうやら当て字ではないかと推測するのみである。 しかし、それなりの理由もあった。 中世の頃に、大発生し百姓達を苦しめたと言われている智鳥(知鳥・ちどり)の話に由来するという説がある。 「悪いチドリ、善いチドリ」から・・、 「大昔、チドリに似た鳥が、苦心して耕作した農作物を収穫期になると飛んできて食い荒らす、これは悪いチドリである(悪知鳥)。 一方、同じくチドリに似た鳥は海に居て海の物を食し、我々には悪さをしない、そればかりか大群の魚が岸に近付いた事を教えてくれる。 こちらは善いチドリだ(善知鳥)だ。 お陰で村は大漁で栄えた」 そして善知鳥が群れる村、即ち、「善知鳥村」になったする。 青森市民には馴染みの深い青森市安方に「善知鳥神社」が鎮座している・ この神社に関連した伝承が、「善知鳥」を「うとう」と読ませているようでもあり、ちなみに、善知鳥は「青森市の鳥」にも指定されているという。 戦国期の大浦氏の時代までは、善知鳥村は鄙びた漁村であった。 やがて江戸初期、弘前藩二代藩主・津軽信枚(つがる のぶひら)の時代、港町青森の建設が始まる。 森山弥七郎(1574〜1666年、墓は油川にある)が信枚の命により開港奉行となって、大浜(油川:青森市より北西7〜8kmの地点、青森開港以前は大浜と呼ばれ外ケ浜第一の湊で、近江から移住した港商人の町でもあった)に代わる湊として、この善知鳥の地に港づくりを始める。 その後、藩は善知鳥村を青森村と改称し、開港している。 「青森」の地名は、漁師達が目印にしていた小高い丘に「青い森」が在り、この森が海に恵みを与えるということで、「青い森」から由来したとされ。 1625年に「青森村」となったのが始まりとされている。 「善知鳥神社」は青森駅東500mの位置、青森市街の中心地にある神社で「善知鳥村発祥の地」とされる。 御祭神は「宗像三女神」(多起理毘売命:タギリヒメ,多岐都比売命:タギツヒメ,市寸嶋比売命:イチキシマヒメ)で、神社発行の由緒書によれば,「青森市が善知鳥村と言われていた頃,奥州陸奥国外ヶ浜鎮護の神として創建年代は平安期初頭、都より「鳥頭中納言安方」が此の北国に左遷された折、此の地を治め,神願霊験あらたかな神々を祭った事に由来する」という。 天皇の怒りに触れた都人「鳥頭(うとう)中納言安方」が、都からこの地に流されて来て草屋を造り住み着いた。 都から赦免の知らせの届くのを待ちわびていたが、病にかかりこの世を去り、村人達は哀れんで手厚く葬ったという。 間もなくして墓の辺りに、見たこともない鳥が飛んできて「うとう、うとう」と泣き叫び、村人達は安方の一念が、この不思議な鳥になったのだと同情し、安方の墓に祠を建てて、その霊を慰めた。 これが「善知鳥神社」の始まりであるといい、この鳥を善知鳥と名付けたという。 宗像三女神(むなかたさんじょじん)は、宗像大社(福岡県宗像市の玄界灘)に祀られている三柱の女神の総称であり、女神はスサノオの子とされる。 朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々である。 陸奥・青森では津軽海峡の海上交通、海上平安を守護する神として勧請されたものと解釈する。 .次回は、「野辺地」 尚、「浅虫温泉」については、「温泉と観光(6)」で記載します。 《 主な山歩記録 》 【山行記リスト】 「白馬連峰登頂記(2004)」 「八ヶ岳(1966年)」 「南ア・北岳(1969年)」 「北ア・槍−穂高(1968年)」 「谷川岳(1967年)」 「丹沢山(1969年)」 「西丹沢・大室山(1969年)」 「八ヶ岳越年登山(1969年)」 「西丹沢・檜洞丸(1970年)」 「丹沢、山迷記(1970年)」 「上高地・明神(2008年)」 「立山・剣岳(1971年)」 .
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日本周遊紀行(31)青森 「八甲田山」 「三内丸山遺跡」を後にして、青森市郊外を東へ向かう。 左に夕暮れ迫る青森市街と右彼方に「八甲田山」の山並みがクッキリと夕映えに浮き出ていた。 ところで、冬季「青森市」の年間平均降雪量は凡そ8mもあり、無論これは人口30万人以上の世界の都市としては世界一であるという。 国内の主要都市では唯一、「特別豪雪地帯」に指定されている理由であ。 青森市は東に東岳、南に八甲田連峰、西に梵珠山系と三方山に囲まれ、北は陸奥湾に望む地形である。 従って、特に冬季には大気にたっぷり水分が含まれ、大陸から日本海を越えて吹き付ける冬の北西季節風が周りの山々に遮られ、大量の雪が吹き溜まる。 地元気象台がまとめた昭和中期から本年までまとめた降雪量データによると、最小の年が4.26m、最多で12.63mでこれまでの平均が7.78mとなっている。 特に平成期前半の10年間は10.33mと突出している。 因みに、雪祭りで知られる160万都市・札幌は、青森より北にあるにも拘わらず3m少ないという。 無論、八甲田山系の積雪は、青森のそれよりかなり多いだろう。 「八甲田山」には八甲田という名の山はなく、いくつもある峰々を総称した名称である。 標高 1584mの大岳を中心に、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、小岳、石倉岳、高田大岳の八つの峰と、その山中の所々に湿地、つまり田が多いので、八甲田と名づけられたと伝えられる。ほとんどの峰々が美しい円すい型で、ゆるやかに袖を伸ばしている。 「八甲田山」・・、 新田次郎の「八甲田山死の彷徨」でも知られ、高倉健主演の映画「八甲田山」で更に有名になった。 山に興味を抱き、山を趣味にもった小生にとって、1994年(平成6年)の秋季、東北旅行において足跡を残したもんであるが、無論、両ストーリーは拝見している。 映画は、迫力あるメインの雪中行軍だけでなく、日露戦争を目前に控えた明治35年という時代の雰囲気、日本陸軍や東北地方の農村の様子も再現され、原作ではよく分からなかった装備についても映像として目にすることが出来た。 又、威勢の良い軍歌「雪の進軍」も聞け、映画ならではである。 ほぼ全編にわたり雪の銀世界(若しくは灰色の世界)だが時折の四季の十和田湖や八甲田山の明るい映像が対称的で良い。 明治中期、この八甲田山域で世界山岳史上比類のない、多大な遭難事故が発生した。 その「遭難事故」が発生した遠因はどうしてか・・??、 それは、ロシアとの緊張状態にあった日本は日露戦争を想定し、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習としての訓練であり、又、津軽海峡、陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が冬季間、八甲田山中での陸路による輸送が可能かどうかの調査でもあり、そのための雪中行軍の演習を実施することになったのである。 結果は、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪と寒冷に遭遇し、八甲田雪中行軍中、200名にも及ぶ凍死者を出す大遭難事件が発生したのである。 この時期・・、 北海道に居座った高気圧は東北北部まで張り出していた。 そして、その頃発達した低気圧が太平洋岸を北上し、東北地方へ接近しつつあった。 明治35年(1902年)1月、青森歩兵第5連隊は日露戦争に備えての寒地訓練のため、雪中行軍と称して八甲田山中へ入山しつつあった。 高気圧による大寒気と低気圧による猛吹雪によって、連隊は三日間に亘って立往生と彷徨を繰り返し、遂に世界山岳遭難史上最大の199名の犠牲者を出す大惨事となった。 明治35年(1902)1月、日本陸軍第八師団、青森第5連隊と弘前の第三十一連隊が冬の八甲田山を踏破する雪中行軍訓練に出発していった。 両陸軍はこの時、日露戦争を目前に控えて、寒冷地での行軍のデータを取る為の実地であった。 両隊は1月23日、八甲田山を踏破するルートを互いに反対側から登り始める。 しかし折しも記録的な寒波が押し寄せ、すさまじい吹雪にあい、弘前第三十一連隊の方は地元の人を案内に付けていたこともあり幸運にも目的地までたどり着くことができたが、青森第五連隊の方は吹雪の中、道に迷ってしまう。 青森第五連隊のこの作戦の参加者は210名、本来は1泊2日で完了する筈の行軍なのだが、冬山で迷ってしまい、ルートを見つけだすのは困難を極める。 1月24日、一行は山中で半煮えの食事を取った後、なんとか道を見つけるべく歩き回り、彷徨を重ねるがルートはどうしても発見できず、遂に絶望的な窮地に追い込まれる。 途中、峻険な地域である渓谷や沢にも迷い込み凍傷、落伍者、寒中壊死者が続出し、翌25日には何と30名ほどまで減ってしまっていたのである。 救援隊が組織されてたが、捜索も困難を極め、やがて第五連隊の後藤房之助伍長が自ら捜索隊の道しるべとなるべく、雪中に直立したまま分かれ道に留まり、その場で結局弁慶の立ち往生のような感じで仮死状態になって発見された。 軍医の手当により彼が蘇生したことから、本隊の発見に到るが、しかし発見された時生きていたのはわずかに17名であった。 (なお後藤氏は生還後、地元の宮城県姫松村に帰って村会議員を務め1924年7月31日に46歳で亡くなった) しかもその内5名が救出後死亡、1名の将校は責任を感じて自決、結局わずか11名の生還となった、死者199名であった。 現在、後藤伍長が道しるべになったい地に慰霊碑が建っている。 因みに、この高気圧による放射冷熱で、1月25日、北海道旭川において零下41度という、日本における最低気温を記録した。 この最低気温の記録は現在においても、依然として破られていない。 夕景に浮かぶ「八甲田」はそろそろ、冬の装いか。 『雪の進軍』 作詞・作曲 永井建子(明治28年) 雪の進軍 氷を踏んで どれが河やら 道さえ知れず 馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国 ままよ大胆 一服やれば 頼み少なや 煙草が二本 ・・・ 次回、更に「青森」
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