『日本周遊紀行』

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写真上より、
三内円山遺跡の中心的建物 「大型堀立柱建物」
三内円山遺跡の「縄文住居」
三内円山遺跡の発掘展示品 「縄文土器」



日本周遊紀行(30)青森 「三内円山遺跡」



「内真部」(うちまんべ)あたりから、R280の立派なバイパスがついている、ここから青森の「三内円山遺跡」を目指した。 

かなり広い駐車場であるが、夕刻とあって車の数はそれ程でもない。施設の建物は「時遊館」といって、かなりモダンな建物である。 
それにしても入場料が無料とはウレシイ。 

住居跡の遺跡や展示室の出土品・遺跡物等を、少時間をかけて見て回った。 
特に気に止まったのが、「大型堀立柱建物」と言われる巨大な柱組の建物である。
一説によると、のろし台、見張り台、古代の城、倉庫、といわれる物らしいが、いずれにしても生活・政事(マツリゴト=祭事)の中心・象徴であったことは想像に難くない。 
この巨大柱のクリの木が、しかもロシアからの輸入品らしいってんで、これまた驚きである。 この柱は日本海、津軽海峡を船に載せて、あるいは其々につなぎ合わせて、海上に浮かべて曳航したのであろうか・・?、後は陸揚げ、里引き、木落とし(・?)、御柱立て、組み付け、とまるで「御柱祭」を見ている様な光景が展開したのであろうかと、想像できるのである。


前にも記したが長野・諏訪地方の「御柱祭」のことである・・、

この諏訪地方にも縄文前期の巨大柱組の遺構が見つかっているとか。そちらと、こちらを関連付けるのは今のところ無理は有ろうが・・?、いずれにしても古代へのロマンを感ずるのは確かなようである。

施設内の帰り道、立派な建物の「時遊館」の大壁に目が留まった。
出入り口、玄関から入って、左手である・・、この壁におおきな「世界地図」が描いてある。主題は定かでないが、「北緯41度でつながる文明地・・文明都市・・」とあったように思ったが。 
北緯41度は青森・三内円山から東方にニューヨーク、マドリード、イスタンブール、北京等に繋がっている。 
いずれも世界の文明発祥の地、もしくは文明地である。往時の三内円山は世界の代表的都市であったのだろうし、 勿論、日本の中枢都市でもあったと想われる。

近世の日本では、「白河以北一山100文」と徹底して 東北を差別し馬鹿にしたのは事実である。 蝦夷・陸奥は未開の地・地の果て、・・と思われてきて、一種侮蔑の感があったようだが、何のことはない日本の場合はその文明が「弥生期」以降ほんのチョット南・西にズレたにすぎないと、小生を含めて東北人なら誇りをもて・・!、と言いたいところである。

縄文期の東北、蝦夷は弥生文明に翻弄されてきて、はたまた江戸末期から明治期、近代兵器が東北、蝦夷を蹂躙していった。 
「白河以北一山100文」と言ったの、はたしか長州人であると記憶しているが、その象徴が会津戦争だった。
その長州藩に蹂躙された会津藩は陸奥の国へ流されている、テナコトを想像すると、歴史には興味が注がれるし、やはりロマンがある。



「三内丸山遺跡」は、既に江戸時代から知られている有名な遺跡であるらしい。
これまでの発掘調査で、縄文時代前期から、中期(約5,500年前〜4,000年前)の大集落跡や平安時代の集落跡(約1,000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部が見つかってい。

特に縄文時代の大集落跡からは、たくさんの竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大量の遺物がすてられた谷(泥炭層)、約1,000年かけて造られた盛土、大人の墓、子供の墓、土器作りのための粘土採掘穴などが見つかっている。 
また、谷から見つかった動物や魚の骨、植物の種子や花粉からは、当時の自然環境や食生活などを具体的に知ることができ、さらに、ヒスイやコハク、黒曜石は遠方との交易を、漆器などは専門的な技術をもった人々がいたことを物語つたいるという。 


「三内丸山遺跡」は、縄文時代の人々の生活を具体的に知ることができる貴重な遺跡である。この遺跡の出現に、世界の考古学者、学会が驚嘆したという。定説とされた縄文時代の定義をことごとく覆し、15,000年以上もの縄文時代を長期にかけて高度文明を構築しつつ継続していた。

実は、当時の青森県(北緯41度線上の各地にも云えるが・・)は特に縄文期には棲みやすい環境であったらしく、津軽半島の旧蟹田町(鍛冶田の訛り)大平遺跡では15,000年前の土器が出土して、世界最古の土器ではないかと学会で論議を呼んでいる。

その他県内には「亀ヶ岡遺跡」、「三内丸山周辺の遺跡」、「小牧野遺跡(ストーンサークル)」、「是川遺跡」、「風張遺跡」等々縄文期の超一級遺跡が存在し、多数出土品が調査されている。

特に「三内丸山遺跡」は縄文時代の定説を覆し、1,500年間も定住集落生活していたものであるが、三内丸山人はその後、忽然と消えているのである。

それは、何故か・・??、

縄文時代のおける季節で、前期、中期あたりの頃は「縄文海進」といわれる時期で、云わば、現代の「温暖化」の時節であった。
縄文海進(じょうもんかいしん)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことであり、海面が今より3〜5メートル高かったと言われる。
縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされ、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1〜2℃気温が高かったという。

三内丸山遺跡は青森の南西4〜5kmのやや高台に存在している。
当時は、この辺りまで海岸が迫っていて、所謂、ここが生活の場所であった。
しかし、縄文後期あたりからは気候が寒冷期に入り、海岸線が後退して食糧事情や住環境が悪化し、三内丸山集落は集団での生活が困難になり、個々に新天地を求めて分散、移動したのではないかと一般的に考えられていると・・?。

青森県では、縄文時代の「村・むら」を体験できる公園として、「三内丸山遺跡」の整備を、現在も進めている。

次回も、「青森」



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この三厩岩の洞穴に、3頭の龍馬がつながれていて、義経一行は、この龍馬に乗って海を渡り蝦夷へ向かったという。以来この岩を厩石、ここを三厩と呼ぶようになった。(竜が飛び立つ:竜飛の命名にも・・?)



日本周遊紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」


好天の中、「竜飛崎」の風光を適度に観光し、カメラに収めて、さて出発しよう。


海岸のR339を行く。
二つのくり抜き洞門を抜けてまもなくして、何故か「義経寺」があった。 
実は三厩村には義経伝説というのがあるそうだ。


平安末期(1189年)、兄頼朝の計らいで衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。
これが歴史の通説であるが、義経は生きていたと・・!。 

藤原秀衡の遺書に 「危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」 のとおり北を目指しこの地に辿り着いたという。 
近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。
そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め、渡海できるよう一心に祈願した。 
丁度満願の暁に、白頭の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。」と言って消えた。
翌朝巖上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになったという。



小生の住む相模の国の「鎌倉」に、頼朝が幕府を開いたのは12世紀初頭(1192年)である。

それより以前の頼朝旗揚げの時、義経は奥州平泉から主従と共に鎌倉にり入、兄頼朝に拝謁する。
その後、頼朝の代官として西国攻めに出陣し、その期待に応えて義仲や平家一門を滅亡に追い込んだ。 

ところが、その彼に頼朝は禄な恩賞を与えなかったとされる。 
頼朝と義経の関係は次第に不仲になり、しまいには敵対するようになり、義経追討を命じる。 
それらを知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。
この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れることになる。


長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。 
しかし養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。


義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである・・?、と史実はある。 
ところが、その後の「義経」に関しては各地で伝承・伝説が有り、寺社や史跡が残っている。この地の三厩も、その内の一つであろう。 (2005・NHK大河「義経」放送)




標識に従って「三厩駅」に行って見た、小さな駅舎で「津軽半島最北の駅」とあった、JR津軽線の終着駅である。 


既に今別町に来ている。

今別町(浜名地区)は、津軽海峡線の本州側青函トンネルの入口の町である。 
海峡線は1970年の起工式から国鉄がJRになった翌年1988年に開通している。 

海底部23km、陸上部30km、トンネル延長53km、(北海道側は知内町湯の里)もちろん世界一の鉄道トンネルである。 
通称、津軽海峡線は青森から函館の区間を言うが、実際の鉄路の区間はJR津軽線と分岐する、これから向かう蟹田町の「中小国駅」から北海道木古内町の木古内駅(江差線と共用)の区間である。 ちなみに、この町・今別駅は津軽海峡線の「津軽今別駅」、JR津軽線の「津軽二股駅」、そして県道14号線の道の駅「今別アスクル」と三つの駅が同居している、 

更にさらに、北海道新幹線が開通すればばココに4つめの北海道新幹線「奥津軽駅」が誕生するという・・!、4つも駅が隣接するところなんて・・、見たことも、聞いたこともない・・!。

尚、北海道新幹線の新青森駅と道南の新函館駅の間は順調に工事が進んでいるようで、2015年度には先行して開業予定らしい。
その後の新函館駅から道央の札幌駅までの区間の着工は未定だが2020年頃の開業を目指しているという。


チョット賑やかそうな、今別の街をバイパスで抜けて、津軽海峡の海岸線を南下する、道路はR339からR280へ入った。
平館村あたりは、下北半島の斧型の先端部が良く見えている、海岸はかなり険しい断崖のようである。

蟹田、蓬田の海岸道路は曲がりくねりもなく、ほぼ直線で走り易い。
従って海岸の景色は単調で、美的景観は余り見られない。 

進むにつれて、青森の市街がボンヤリと見え出した。



今更ではあるが、小生、この日本列島を、海岸線に沿って周遊巡回するにあたり、常に「海」を左側に見ながら走行している。 
過度な言い回しをすれば、島国列島を外回りで周回していることになる。 このほうが海に少しでも近く、その香りを嗅ぎながら、海岸風景を真近に接しながら、楽しむことが出来るのである。 

今回の北日本・・はもとより、次回の「西日本周遊」も同様のコースを採ることに成るであろう。


今、走っているこの国道280は別名「松前街道」と言う。 
松前は北海道(当時の蝦夷地)なのに、なぜかな・・?。 

江戸時代には「参勤交代や江戸詰め」の制度があり、その為、各藩は遠近に関わらず、江戸を往来していた。 最北の藩、蝦夷地にある「松前」もその例外ではなかった。

江戸を「上り下り」する時、本州に最も近い場所は津軽の北端で、今の三厩か今別辺りであろう、そこへ上陸して江戸へ向かったのだそうで、そのとき通ったのが、この街道で、この名称が付いたそうである。

本来の松前海道(松前道)は、仙台から蝦夷筥館(はこだて:北海道函館市)までのことであり、奥州街道の一部とされてる。


奥州街道は、江戸時代に整備された五街道の一つで奥州道中といい、道中奉行の管轄では江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川(福島県白河市)までをいう。 
そのうち宇都宮(栃木県宇都宮市)までは日光街道を通り共有される。 

だが一般には、奥州を通る脇街道もふくめた街道の総称として用いられることが多く、江戸日本橋から宇都宮は日光街道、宇都宮から仙台を仙台道、仙台から三厩を松前道と呼び、日本橋から本州北端の三厩宿までを、広義には奥州街道と呼ぶ場合もある。 
尚、 江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられたが、中期には蝦夷地開発のため、そして江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために次第に往来量が増加したという。


次回は、「青森」




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「竜が飛びたった」とされる北の果て「竜飛崎」。正面は北海道・松前周辺



日本周遊紀行(29)竜飛崎 「竜飛の名所」


さて、「竜飛崎」は、北海道の白神岬とは津軽海峡を挟んで19km程の距離があり、この下を青函トンネルが通っている。 

「JR津軽海峡線」であるが、岬の真下を貫く、本州・北海道の世界最長の青函トンネルに敷かれた鉄道で昭和63年開業している。 
その「竜飛海底駅」は非常時避難用の駅でもあり、海底駅見学整理券を持った人のみ下車できる、竜飛崎からも見学出来るという、岬の下には「竜飛海底駅」があり、旧坑道をケーブルカーで降りて海底下の坑道を見学できるという。 


「竜飛崎」は、津軽国定公園・「竜飛」に指定され、三厩村・北緯41度15分・東経140度20分、標高120m(・・位?)、津軽半島最北、地の果てである。 

この竜飛崎は今や一大観光地になっていて、記念館、記念碑、名所名物もあり、名物の「風車群」は、ウインドパークと銘打った風力発電群でもある。
日本有数の風の地帯では自然エネルギーで、3000軒の家の電力を供給し、現在11基が稼動中であるとのこと。  

又、記念館や施設として、「青函トンネル記念館」、「竜飛ウインドパーク展示館」「竜飛崎シーサイドパーク」「道の駅・みんまや」等々・・、 又竜飛は「記念碑の岬」としても知られ、吉田松陰碑・大町桂月碑・佐藤佐太郎碑・川上三太郎碑・大久保橙青碑・太宰治碑 などがある。
中でも、ご存知「石川さゆり」の歌碑「津軽海峡冬景色」は、一世を風靡した歌で知られる。

又、当地に「吉田松陰碑」がある。
江戸末期、長州藩の攘夷志士であった若き吉田松陰が、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵とともに津軽の地を訪れたのは、嘉永5年(1852)の旧暦3月初めである。 
小泊から峠を越えて三厩の海岸に出るが、松陰は竜飛崎に立って、『竜飛崎と松前間の狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことである』と悲憤している。

因みに、松陰が翌日訪ねた「平舘」(陸奥湾・平館海峡)には、既に砲台があったという。 
松蔭は「大砲が7個あるが普段は備えていないこと、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があることはすこぶる佳いこと、 また4年前に外国船がやって来て、5、6人の異人が上陸したこと」などを日記に書き残している。 
この砲台場は松陰がこの地を訪れる4年前に、幕府の命により津軽藩が築造したもので、高さ2メートル、長さ90メートルの扇形の土塁には、松がぐるりと植えられ、海上からは見えにくい工夫が施されているという。 
現在もその名残を留める「お台場跡」が有る。 

このお台場跡のすぐ側を南北に走る国道280号には、1キロにわたって見事な黒松の並木が続いている。 
およそ300年前の津軽4代藩主・信政によって植樹されたとも伝えられる。 この道は、松前藩が参勤交代で通ったことから「旧松前街道」の名がある。 
おそらく松陰たちもこの松の並木道を歩いたことだろう。


国道階段の手前には、車が海岸へ通じる道が敷かれている。 
そのヘアーピンカーブを下ると、竜飛漁港がある。 

今でも竜飛の家々は、海峡を吹き付ける狂暴な風雨から守るためであろう、断崖にへばりつき、お互いに身を寄せ合うように建っている。 
さらに部落の路を先に進むと、いよいよ路が尽きるのである。 

ここに地元・津軽出身(金木町)の太宰治の碑が立っている。
記念碑銘文は・・、
『 ここは、本州の袋小路だ、読者も銘肌せよ、諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外が濱街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである 』と、この碑によって行く手が阻まれる事を知らされる。
ここは正に本州最北端、袋小路なのだ。


司馬遼太郎も「北のまほろば」で・・、
『 江戸時代の千住を出発すると奥羽海遵が、関東と奥洲をながながとつらぬき、ついに津軽半島にいたって松前街道と名がかわり、半島の先端の三厩村(竜飛崎)で尽きる、古街道としては、墨痕一筋というべき雄大さをもっている。日本中の道という道の束が、やがて一すじのほそいみちになって、ここで尽きるのである。 』と言っている。


崎の正面に大きく「帯島」が横たわっていて、そこには多数のカモメが群れていた。
この帯島の海中下に「青函トンネル」が通じている。

竜飛崎にて、青函トンネル工事に携わった人々の人間模様を描いた映画、「海峡」が1982年に封切られている。

本州と北海道を結ぶべく着工した青函トンネル開通工事に従事する技術調査員を中心に、長年に渡って難航を極めた大プロジェクトに取り組む人々の人間模様を描いたドラマである。
 
「北海道と本州間で運航していた青函航路では客船の事故などが相次いだことから、航路の安定が望める青函トンネルが造られることとなった。そして、その掘削調査に津軽半島を訪れた技術調査員の「阿久津」(高倉健)はある日・・・、」

岩川隆の同名の原作の映画化で、「八甲田山」の森谷司郎が執筆、監督も森谷司郎、撮影は「駅/STATION」の木村大作が担当している。

男たちを陰で支える女の代表として、吉永小百合が見事な存在感を披露していた。クライマックスは、苦悩と犠牲の果てにトンネルが貫通したときに健さんの頬をつたった涙は、まさに本物であった。 
このシーンは、あの「八甲田山」のラストシーンでもお馴染みである。

次回は、「三厩」



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津軽半島先端、竜飛崎の名所:国道339号「階段国道」



日本周遊紀行(29)竜飛崎 「階段国道」

津軽半島の先端、小泊から山上の展望地へはヘアーピン道路が蛇の如くうねり、車もエンジン・フルスロットルで喘ぎながら上る。

目を転ずると、これから向かう「竜飛の岬」が突き出てるのが鮮明だ。

最北の展望台からの眺め、そこは風の名所なのであろう「風の岬」とも云い、そのため風力発電の風車が林立している。 そして突端に竜飛崎灯台が鮮明に望まれる。 

又、遥かな遠望は大地・北海道の山並みであろう、その海岸沿いに松前・・?の町並みがボンヤリと覗える。 


先へ進もう・・、 

今度はカーブラインをゆるやかに下ってゆく、しばらく走って待望の「竜飛崎」へ到着した。
日本本土、本州の最北端である・・?、 本当の本州最北端は実は下北半島の大間崎であるが、でも、多くの人は「地果てる処、北の最果て」といえばここ竜飛崎とイメージしているようである。

名前もいい・・、

地面を這いまわってきた覇者である「龍」もこの地で尽きた、この先は海に転げ落ちて海上を這うか、天空に飛び立つしかないのである。 そして覇者・龍は蝦夷へ向って空へ飛び立ったのである、即ち、「竜飛」である。



ところで、「埼」と「崎」のことですが、海図では海洋に突出した陸地の突端部の名称としての(Saki)は、概ね土ヘンの「埼」を用いているらしい。

例えば、東京湾付近では一般地図などには野島崎・観音崎・剱崎と「山ヘン」で記載されているが、「海図」には「土ヘン」で野島埼・観音埼・剱埼と図載しているという。 
土ヘンの「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、山ヘンの「崎」は、平野の中に突出した山地の鼻先等を言う意味らしい。 

旧海軍による海洋情報部では漢字の意味からも地形が判る土へんの「埼」を採用しているらしく、即ち、小生の手元の地図では竜飛「崎」であるが、海図では竜飛「埼」となるらしい。


この岬の名物に、歩行者しか通れない「階段国道」(339号線)というのがある。 
石畳の階段が小高い岬の頂部と海岸の底部を結ぶ、幅2m程度の狭い石段の端と中央部には手摺が続き、両階段の入口には通常の国道の案内標識がある。 階段は全長390m、階段は362段あり、標高差が70mもある、かなりの急勾配で険しい。

「国道339号線」は、弘前市を基点に津軽半島西岸を回り、半島先端部の三厩村に到る120kmの国道である。
竜飛崎は、海岸からは切り立った断崖のような段差が大きく、元々は急な山道で未整備だった地域道・村道がそのまま国道になったものである。 

その要因になったのが、何でも、地元の人が『昭和49年頃、村役場が地図に記入し、国道昇格の申請をしたところ、審査官が現地を確認しないまま認可を与えてしまった』というのである。 中央のお役人が国道を指定する際、現地を検分することなく地図だけを見て、間違えて指定してしまったそうである。 

国道に指定されるまでは階段はなく、急な坂道であった。 
途中には村立竜飛中学校、また坂の上には竜飛小学校があり、登下校の児童・生徒が坂道を利用していたものの、後に、濡れ手滑って負傷しないように階段が整備されたという。

昭和63年3月には、本州と北海道を結ぶ青函トンネル(全長約54キロ)が開通している。
竜飛は、本州側の建設拠点となったため、当時、工事関係者や家族ら約三千人が居住していて、通学路にもなっていたらしく、「階段国道」にも子供たちの元気な声がこだましていたという。 
・・、ということで階段のあるちょっと変わった国道になってしまったのである。


青函トンネルの工事、その後の完成と同時に「国道階段」は観光名所となり、より良く整備されてそのまま残ったという。 
今では階段国道はすっかり全国的にも知られるようになり、竜飛崎の目玉といえる程の名所になっている。

下側(海岸)から階段へ通ずる「国道」は、民家の軒と軒の間を通ずる幅1.5m程度で、両手を広げると付いてしまいそうな狭さであった、これまたビックリ。 
なんとも不思議な国道である。


因みに、変わった国道として、海の上を指定した例がある。

国道280号は、青森市から北海道函館市までの一般国道であるが、外ヶ浜町で一旦途絶えているが(松前街道ともいう)、津軽海峡の海上区間、即ち、「海上国道」によって北海道へ至り、北海道内は国道228号と重複して函館市に通じている。 

又、「点線国道」というのもある。 
通行困難な国道の最も代表的なもので、大抵の場合、山岳地の峠周辺に存在するため利用者はその区間は徒歩での通行(登山)を余儀なくされる。 
関東圏の代表例で上越国境、国道17号の三国峠(1957年2月に三国トンネルの開通により解消)や同じく、上越国境(一ノ倉沢−清水集落)の国道291号の「清水峠」は現在もそうである。 
又、甲州・秩父を結ぶ甲州往還、国道140号の雁坂峠(「開かずの国道」と呼ばれていたが、1998年4月に雁坂トンネルの開通により解消)などで、これらはトンネル開通で解消された。 しかし、今も現役の点線国道は10箇所以上存在するという。


引き続き「竜飛崎」



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十三湖より日本海(この地域に中世、安東氏が東日本随一の湊を築いた)


日本周遊紀行(28)市浦 「十三湊・福島城址」



湖の北側に「十三福島城址」がある・・、

福島城は十三湖の北岸、標高20メートル程の台地上に位置し、城郭は一辺約1kmの三角形をしたもので、往時は城を取り巻く内郭、外郭は総面積62万平方米にも及ぶの壮大な規模であったという。
その後の発掘調査で巨大城郭福島城については、通説に反して、「古代城柵」にも似た構造を持ち、平安中期の10世紀後半ころの築造である可能性が強くなったともいわれる。

城柵は、丘陵の突端などに空堀や土塁を築いたもが主体で、アイヌの「チャシ」などもこれに当たる。


この福島城の築城は、藤原秀栄(ひでひさ:十三氏)であると言われる。

平泉の藤原基衡(もとひら)の次男・秀栄は、父基衡から津軽三郡をもらってこの「十三の地」の領主となり「福島城」を築いた・・、 秀栄は、後に「十三氏」と名乗っている。 基衛は御存じ藤原三代の二代目で秀衡の父に当り、即ち、秀栄と秀衡は兄弟で、その弟に当るわけである。 

家督を継いだ秀衛は、中央政庁より49歳で鎮守府将軍に任じられているが、源義経を向い入れた為、その死後に頼朝によって、藤原三代は滅ぼされている。
一方、それ以前の平安期、「前九年の役」の源頼義によって厨川で滅ぼされた安倍一族は、落城直前に津軽に逃れ「藤崎」に住み、安東氏と称したことは、先に記した。


鎌倉初期に至って北条・幕府は、その安東氏を蝦夷地代官として任命し、津軽内陸を直轄領とするそのため安東氏は、藤崎(津軽平野)より十三(津軽半島)へ進出することになる。

必然・・、
十三氏と安東氏は衝突することになる。 安東氏は鎮圧の名目で北津軽へと進軍、同族といわれる十三氏と争う、これを「津軽・萩の台の合戦」といって、鎌倉初期の1229年の事であった。
結果は、安東氏が十三氏を破り、福島城と十三湊を治めたとされている。

福島城に根拠を持った安藤氏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけては非常に広い範囲に影響力をもっていた豪族とされ、その勢力は北は北海道渡島半島、南は太平洋側の仙台湾・松島、日本海側の秋田男鹿半島、東は下北半島に及んでいたという。

安東氏の拠点・十三湊や福島城は、中国や沿海州・朝鮮とも交易していたのであり、日本海沿岸の諸国と交易していた事は、最近の発掘で大量の輸入陶器が出土したことにより示されている。
この港の収益は莫大なものであったに違いない。
この交易が安東氏の絶大な力の根源であった。近々、城郭の遺跡からは、その国の人々の異人館やキリスト教会がなども発掘されているという。


時代は下って・・、
15世紀の室町中期、十三安東氏は、その後台頭してきた南部氏に敗れ蝦夷地・松前へ逃亡することになる。(蝦夷地・北海道で記載予定)

更に・・、
戦国期になって、南部氏の家臣で一族の大浦為信(津軽氏)が独立して津軽地方を平定し、「大浦氏」より再び「津軽氏」に改姓したことも、先に記したが、いずれにしても津軽及び十三地方は、平安中期より安倍氏、藤原氏、安東氏など「前九年の役」の主役たちの流れた地であり、それも突然の大津波に襲われ一夜にしてその栄華は衰退し、十三湊で栄えた安東水軍もそれ以来勢いを失い、南部氏の侵攻などもあって遂にはこの地を追われることになる。
時代は巡っているのである。

今の十三湖周辺は、かつての国際港の面影や威容を誇った城は、夢の跡が残るのみである。だが、近年の発掘などにより、昔の姿が次第に解ってきているという。

『十三の砂山』 津軽民謡
十三の砂山 ナーヤーエー
米ならよかろナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ

弁財衆にゃナーヤーエー
弁財衆にゃ西のナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ

「弁財衆」とは・・、 

江戸時代日本海を往来した商船、北前船のことを弁財船といい、江戸と大阪の二大中央市場を軸とする航路による経済発展に貢献した。
近世では、弁財船に乗っている船頭衆のことを弁財衆と称していたが、平安時代には、国領や荘園などに設けられた役職のことで、貢納された租米を計算し処理する役目の事であった。 

「砂が米なら、ただで砂山の米を積んでやろう」という歌詞には、弁財衆によって米を取り立てられる農民の苦しみをコミカルに、切実に言い返しているという。

次回はいよいよ竜飛崎へ



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