『日本周遊紀行』

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温泉と観光

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台風直後、通行止めの国道229号線と積丹岬の「島武意海岸」



日本周遊;温泉と観光(11) 「積丹半島」



積丹は「ソーラン節」の発祥の地・・、


「半島」に到って、国道229から神威岬を目指したが神恵内(かもえない)地区で通行止めに合ってしまった。 バリケードが有り一人のガードマンが立っていて、左側に案内板には・・、

『 通行止の案内 国道229号 神恵内村大森〜柵内間 災害のため通行止 』 と有った。

災害というのは今年(2004年)の「台風18号」の事である。  

九州をかすめて日本海に出た台風は、9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を北上して、衰えるどこか発達して、網走管内雄武町で最大瞬間風速51.4m、札幌市でも50.2mを観測し、北海道大学の銀杏並木や大通り公園の樹木の倒壊等はTVのニュースで映像にも映された。 

道内の観測点の14ヶ所でも過去最高を記録したといい、道内では死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える災害となった。その被害は、青函連絡船が強風で転覆し、約1600名の死亡者を出した1954年9月26日の「洞爺丸台風」に次ぐものではないかとも言われる。



積丹半島の最大の観光地であろう神威岬や積丹岬は、半島の先端にあり本来なら神恵内の村から、車でほんの10分か15分ほどでいけるところであるが。 
「神威岬」への直行は断念せずるを得ない、幸いに神恵内から峠越え(当丸峠)の道道998号線が長大な積丹半島を横断しているので、そちらから向かうことにした。 
峠を越えて海岸に出た後、積丹岬へ向かうため国道229を左折して積丹岬を目指した。 


大きな駐車場があったが・・、実は、ここは岬ではない、人々がやっとすれ違える背丈程の暗くて狭い「トンネル」を通過したところに、本来の岬が飛び込んできた。

出たところに展望スペースがあった。 
積丹の海岸美を代表する絶景、島武意海岸(しまむいかいがん)が眼下に現れた。 

日本の渚百選にも選ばれた海岸であるが、ここは一見、何処かの風景に似ていた。 そう、下北の「仏が浦」である。 
だがスケールは違った、仏が浦の方が雄大である。 

急な坂を下ると五分ほどで積丹岬を回る自然遊歩道が延び、積丹岬灯台や女郎子岩、神威岬や遠く余市のシリパ岬も望めるという。

因みに、このトンネルは観光のためではなく、明治28年ニシン漁が盛んだった頃に海岸から干場までニシンを運ぶために掘られたそうである。


当地「積丹」は、嘗ては、北海道の経済的中心であった「小樽」を起点に、難所で名高い積丹半島を経て江差へと至るその海路で、ニシン漁で賑わった土地柄である。

なかでも、積丹半島の歴史には鰊に因んだ数多くの伝説や逸話が今に伝えれられている。 

その節、北海道を代表する民謡・ソーラン節は、ニシン漁で賑わった積丹(積丹か、余市か・・?)が発祥の地と言われている。 
「ソーラン節」は、網起しによって集められた鰊を船着き場に陸揚げするため、大きなタモ(網)で鰊をくみ上げる時に歌うことから名付けられた歌であるとか。



『ソーラン節』(沖揚げ音頭) 北海道民謡

ヤーレン ソーラン(*繰り返し)
[ハイハイ]
ニシン来たかとカモメに問えば
わたしゃ立つ鳥 波に聞け
チョイヤサ
エーエンヤーサノドッコイ ショ
ハードッコイショドッコイショ



北海道は、江戸時代になってこの地を治めていた松前藩がアイヌとの交易をおこなっていたが、財政難の理由などから商人に交易を委ねることになった。 
その後、商人が漁業を請け負う制度が発達(場所請負)し大いに栄えた。 

江差地方が凶漁に見舞われた頃は、ニシンは日本海をどんどん北上し、暫くは積丹半島周辺がニシン漁のメッカとなっていたのである。

百万石のニシン漁で沸いていた積丹半島では依然として海上輸送がメインであった。 
大正期に入り、海岸沿いの道路には大小数多くのトンネルも完成し、積丹半島も馬車交通路の時代を迎えた。 
こんな時期、積丹も同様大正初期よりニシンの漁獲が落ち込んでいき、漁獲量の減少とともに多くの人々がこの地を去っていった。

戦後になって「ニセコ・積丹・小樽国定公園」の指定を受けたのをきっかけに、一躍観光地として脚光を浴びるようにようになり、さらに近年、積丹半島と神威岬が北海道遺産に認定され、より多くの観光客が積丹半島を訪れるようになった。 

「北海道遺産」とは、北海道に関係する自然・文化・産業などの中から、推進協議会によって選定されたものを指し、2001年10月に第一回が選定され、現在52件が指定されている。

引続き、「積丹半島」





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山中の鄙びた「宮内温泉」と露天風呂




日本周遊;温泉と観光(10) 「宮内温泉と象の花子」



象の花子で有名になった山里の湯・・、


北海道・渡島半島は、南北に細長く伸びた半島で全般に山が多く、それも海岸付近までせり出した山岳地域であるといってもいい。 

道内における原野や平原湿地、拓けた地域の石狩平野、十勝平野などの平地といわれるところは比較的多いが、この半島にはそれらは皆無といっていい程存在しない。 
しかも、この狭い幅の半島に1500m級の山も在り、渡島半島は山岳地帯中心の半島なのである。


瀬棚町から島牧村への境界地も、例にたがはず山岳地で、ここに海岸より水平にして5〜6kmの地点に、標高1520mの「狩場山」が控えているのである。 

その山塊は急傾斜を伴って海岸に落ち込んでいる。
この断崖のような急傾地を無理やり削り取って付けたのが、今の国道229号線であり、先人のご苦労を偲ぶのみであるが。
しかも、日本海に面しているので、豪雪地帯でもあり、トンネルの他に雪避けのドームやスノーシェードを多く取り付けているのも特徴的でもあろう。


数々の墜道を潜り抜けてヨウヨウに島牧の集落に着き、近場に「道の駅・よってけ島牧」があって、「よってけ」と云うので寄りましょう。
そう、温泉である。 

案内された「宮内温泉」(ぐうないおんせん)を目指して、山中へ更に分け入った。 
海岸より、泊川を遡って4kmほどの山の中に一軒宿の小さな温泉があった。

途中、「熊注意」の看板が数多くあったが、背後は山合いに囲まれ、周囲には人家は全く無くなく、林の中に隠れるようにして存在している。
もちろん日帰り入浴、立ち寄り湯はOKである。 

玄関前に無造作にある駐車場へ悠々と留めて、いざ・・!入場、否、入湯。
玄関はいると横の受付から御主人が出てきたので、入浴料金450円を支払い、早速、脱衣所へと向かう。
内湯には湯船が2つあって左側が中温湯、右側が高温湯となっていて、窓の向こう側が露天風呂となっているようだ。 早速、浸かる・・。
無色透明でやや塩味のするサッパリした温泉で、身体にジーンとしみわたる、 適温である。

内湯もいいが、天気の良い日はやはり露天風呂である。 四角い湯船が野趣豊かに佇んでいる。 宿の主人が言っていたが、湯船には若干の「コケ」が付いてる。 これはこれで又結構である。
横のパイプからは、バルブ調節も出来るだろうが、お湯がザブザブと溢れ出ている。
周囲は森が広がっていて、清々しい気分になる。
浴槽は広いという感じではないが、一人での入浴なので、実に極楽!極楽!あぁ〜いい気分!!


宮内温泉は、江戸時代(安政年間)には発見されたという北海道でも古い温泉だという。 

又、先ほど北桧山の温泉センターでチョコット聞いた話だが、この温泉は「象の花子」が湯治したとして知られているという。


象の「花子」は、戦前に上野動物園にいたものが有名だが、こちらは札幌円山動物園の「花子」であった。




『象の花子』について・・、

宮内温泉は、ゾウの花子が湯治に来たことで有名であるとか。


花子と名付けられたゾウは沢山いるが、宮内温泉に来た花子は1964年にタイのバンコクから日本の子どもたちにと先ず京都市動物園に贈られたものという。 

その後、1966年にさっぽろ・円山動物園に移り、1967年の開園と同時に、今人気絶頂の旭川・「旭山動物園」にもやってきた。 

しかし、越冬中に「くる病」にかかり、左後足が湾曲し立てなくなったため展示することができないと判断、安楽死させてやってくれと1968年に札幌市の剥製標本会社の「信田修治郎」氏に売却された。 

当初は薬殺し、標本を北海道大学に納めるつもりであったが、病気を治してやることができると考えた信田氏が面倒を見ているうちに再び立ち歩けるようになったという。 

その話がマスコミを通じて全国に広まり、日本中の子どもたちのアイドル的存在になった。

その後、「ゾウの花子の会」という全国組織までできる程であった。 
しかし、1970年、旭川冬祭りに出演した際に骨折症状が出てしまい、再び立てなくなってしまったのである。 
そのため、その年の8月から長万部町の「二股ラヂウム温泉」で湯治をすることとなった。 

だが、この温泉場は冬期間には閉鎖されるため、11月にこちらの「宮内温泉」に移転したのである。 

島牧村では村をあげて「花子」を歓迎し、宮内温泉に浴槽付きの「花子のお宿」という小屋を建てて長期に渡って面倒を見ることとなった。 

花子は7時から健康診断、10時に食事、16時まで歩く練習をして就寝するという毎日を送っていた。



宮内温泉の滞在期間中には、「ゾウの花子の会」の招きで南米パラグアイ大使一家、茨城県議会一行が訪れるなど、かなりの人気を誇っていたらしい。 

関東地区・花子後援会の会長は当時衆議院議員の三ツ林弥太郎氏であり、また、1972年には偶然宮内温泉を訪れた笹川良一氏が花子を見て感嘆、日本顕彰会から信田氏が社会福祉貢献者として表彰されたほどであった。



1975年、回復した「花子」は宮内温泉を離れ、その後は本州を旅して回ったらしい。 

1980年、「花子」は募金で集まったお金を元に飼主の信田とともに南米パラグアイに移住し、そこで一生を終えたという。 

パラグアイでも人気があったらしく、パラグアイ日経ジャーナル創刊号は「花子、念願のパラグアイ移住、南米の大地を歩く−日本の子どもたちの夢と希望を背にして−」 という記事を表紙で取り上げている。





旅館入口前の右側のスペースに花子の住んでいた小屋があったが、現在は取り壊されて残っていない。

建物の外にある露天風呂は、野放図の状態で所謂、野天風呂であった。 
この地にかって、象の花子を入れるため大きな露天風呂があったのであろう。 

温泉は、やや黄緑がかった色でヌルヌル感がある。表示によると、泉質ナトリウム−炭酸水素塩・硫酸塩泉、源泉の温度48.8℃は入浴には適温であろう、湧出量3000L/分と多い。



実は、この宮内温泉から更に山には行ったところに、「黄金温泉」、「大判の湯」、「小判の湯」といった露天風呂があるらしい、雰囲気はいずれも熊に出会いそうな奥山である。 

又、海岸より一つ手前の山路を辿ると、「賀老の滝」というのがあり、日本の滝百選に選ばれた高さ70m、幅35mの大瀑布であるとか、ここにも「千走川温泉」というのがあるらしい。


いずれにしても、道南のこの辺りは、都市や主要観光地から遠く離れているので、北海道人も最後の秘境と認める地域・島牧村である。 

狩場山を中心とした、周囲は人家もまばらな地で、結構、良い温泉が点在しているようである。


【宮内温泉データ】

宮内温泉旅館  http://www.guunaionsen.ftw.jp/
        電話 0136-75-6320
【泉 質】 ナトリウム−炭酸水素塩・硫酸塩泉(旧:含芒硝ー重曹泉)
       無色透明・微妙塩味・無臭
【泉 温】 49度
【湧出量】 自噴毎分3000 リットル
【施 設】 内湯男女別 1 浴槽 2 露天風呂男女別 1 無料休憩室1 洗い場にはシャンプー類あり・タオルなど持参


次回は、 「積丹半島」




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山中の鄙びた「宮内温泉」と露天風呂



山中の鄙びた「宮内温泉」と露天風呂




日本周遊;温泉と観光(10) 「宮内温泉と象の花子」



象の花子で有名になった山里の湯・・、


北海道・渡島半島は、南北に細長く伸びた半島で全般に山が多く、それも海岸付近までせり出した山岳地域であるといってもいい。 

道内における原野や平原湿地、拓けた地域の石狩平野、十勝平野などの平地といわれるところは比較的多いが、この半島にはそれらは皆無といっていい程存在しない。 
しかも、この狭い幅の半島に1500m級の山も在り、渡島半島は山岳地帯中心の半島なのである。


瀬棚町から島牧村への境界地も、例にたがはず山岳地で、ここに海岸より水平にして5〜6kmの地点に、標高1520mの「狩場山」が控えているのである。 

その山塊は急傾斜を伴って海岸に落ち込んでいる。
この断崖のような急傾地を無理やり削り取って付けたのが、今の国道229号線であり、先人のご苦労を偲ぶのみであるが。
しかも、日本海に面しているので、豪雪地帯でもあり、トンネルの他に雪避けのドームやスノーシェードを多く取り付けているのも特徴的でもあろう。


数々の墜道を潜り抜けてヨウヨウに島牧の集落に着き、近場に「道の駅・よってけ島牧」があって、「よってけ」と云うので寄りましょう。
そう、温泉である。 

案内された「宮内温泉」(ぐうないおんせん)を目指して、山中へ更に分け入った。 
海岸より、泊川を遡って4kmほどの山の中に一軒宿の小さな温泉があった。

途中、「熊注意」の看板が数多くあったが、背後は山合いに囲まれ、周囲には人家は全く無くなく、林の中に隠れるようにして存在している。
もちろん日帰り入浴、立ち寄り湯はOKである。 

玄関前に無造作にある駐車場へ悠々と留めて、いざ・・!入場、否、入湯。
玄関はいると横の受付から御主人が出てきたので、入浴料金450円を支払い、早速、脱衣所へと向かう。
内湯には湯船が2つあって左側が中温湯、右側が高温湯となっていて、窓の向こう側が露天風呂となっているようだ。 早速、浸かる・・。
無色透明でやや塩味のするサッパリした温泉で、身体にジーンとしみわたる、 適温である。

内湯もいいが、天気の良い日はやはり露天風呂である。 四角い湯船が野趣豊かに佇んでいる。 宿の主人が言っていたが、湯船には若干の「コケ」が付いてる。 これはこれで又結構である。
横のパイプからは、バルブ調節も出来るだろうが、お湯がザブザブと溢れ出ている。
周囲は森が広がっていて、清々しい気分になる。
浴槽は広いという感じではないが、一人での入浴なので、実に極楽!極楽!あぁ〜いい気分!!


宮内温泉は、江戸時代(安政年間)には発見されたという北海道でも古い温泉だという。 

又、先ほど北桧山の温泉センターでチョコット聞いた話だが、この温泉は「象の花子」が湯治したとして知られているという。


象の「花子」は、戦前に上野動物園にいたものが有名だが、こちらは札幌円山動物園の「花子」であった。




『象の花子』について・・、

宮内温泉は、ゾウの花子が湯治に来たことで有名であるとか。


花子と名付けられたゾウは沢山いるが、宮内温泉に来た花子は1964年にタイのバンコクから日本の子どもたちにと先ず京都市動物園に贈られたものという。 

その後、1966年にさっぽろ・円山動物園に移り、1967年の開園と同時に、今人気絶頂の旭川・「旭山動物園」にもやってきた。 

しかし、越冬中に「くる病」にかかり、左後足が湾曲し立てなくなったため展示することができないと判断、安楽死させてやってくれと1968年に札幌市の剥製標本会社の「信田修治郎」氏に売却された。 

当初は薬殺し、標本を北海道大学に納めるつもりであったが、病気を治してやることができると考えた信田氏が面倒を見ているうちに再び立ち歩けるようになったという。 

その話がマスコミを通じて全国に広まり、日本中の子どもたちのアイドル的存在になった。

その後、「ゾウの花子の会」という全国組織までできる程であった。 
しかし、1970年、旭川冬祭りに出演した際に骨折症状が出てしまい、再び立てなくなってしまったのである。 
そのため、その年の8月から長万部町の「二股ラヂウム温泉」で湯治をすることとなった。 

だが、この温泉場は冬期間には閉鎖されるため、11月にこちらの「宮内温泉」に移転したのである。 

島牧村では村をあげて「花子」を歓迎し、宮内温泉に浴槽付きの「花子のお宿」という小屋を建てて長期に渡って面倒を見ることとなった。 

花子は7時から健康診断、10時に食事、16時まで歩く練習をして就寝するという毎日を送っていた。



宮内温泉の滞在期間中には、「ゾウの花子の会」の招きで南米パラグアイ大使一家、茨城県議会一行が訪れるなど、かなりの人気を誇っていたらしい。 

関東地区・花子後援会の会長は当時衆議院議員の三ツ林弥太郎氏であり、また、1972年には偶然宮内温泉を訪れた笹川良一氏が花子を見て感嘆、日本顕彰会から信田氏が社会福祉貢献者として表彰されたほどであった。



1975年、回復した「花子」は宮内温泉を離れ、その後は本州を旅して回ったらしい。 

1980年、「花子」は募金で集まったお金を元に飼主の信田とともに南米パラグアイに移住し、そこで一生を終えたという。 

パラグアイでも人気があったらしく、パラグアイ日経ジャーナル創刊号は「花子、念願のパラグアイ移住、南米の大地を歩く−日本の子どもたちの夢と希望を背にして−」 という記事を表紙で取り上げている。





旅館入口前の右側のスペースに花子の住んでいた小屋があったが、現在は取り壊されて残っていない。

建物の外にある露天風呂は、野放図の状態で所謂、野天風呂であった。 
この地にかって、象の花子を入れるため大きな露天風呂があったのであろう。 

温泉は、やや黄緑がかった色でヌルヌル感がある。表示によると、泉質ナトリウム−炭酸水素塩・硫酸塩泉、源泉の温度48.8℃は入浴には適温であろう、湧出量3000L/分と多い。



実は、この宮内温泉から更に山には行ったところに、「黄金温泉」、「大判の湯」、「小判の湯」といった露天風呂があるらしい、雰囲気はいずれも熊に出会いそうな奥山である。 

又、海岸より一つ手前の山路を辿ると、「賀老の滝」というのがあり、日本の滝百選に選ばれた高さ70m、幅35mの大瀑布であるとか、ここにも「千走川温泉」というのがあるらしい。


いずれにしても、道南のこの辺りは、都市や主要観光地から遠く離れているので、北海道人も最後の秘境と認める地域・島牧村である。 

狩場山を中心とした、周囲は人家もまばらな地で、結構、良い温泉が点在しているようである。


【宮内温泉データ】

宮内温泉旅館  http://www.guunaionsen.ftw.jp/
        電話 0136-75-6320
【泉 質】 ナトリウム−炭酸水素塩・硫酸塩泉(旧:含芒硝ー重曹泉)
       無色透明・微妙塩味・無臭
【泉 温】 49度
【湧出量】 自噴毎分3000 リットル
【施 設】 内湯男女別 1 浴槽 2 露天風呂男女別 1 無料休憩室1 洗い場にはシャンプー類あり・タオルなど持参


次回は、 「積丹半島」




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知内出身の「三ちゃん」
福島の横綱記念館と両横綱

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日本周遊;温泉と観光(9)知内・福島 「歌手と横綱」



歌手の横綱と相撲の横綱の地・・、


国道228の海岸の際を走る。 
車窓を開けて気持ちよい潮風を吸いながら、「道の駅・しりうち」で一息入れる。 

気がつくと「北島三朗の故郷」と大きな看板が目に入った。 
そうなのだ・・!ここはサブちゃんのふるさと・出身地である。

小生も含め、演歌好きの大多数は、北島三朗のファンでもあろう・・?。 
演歌ひとすじ三十余年・・、「女シリーズ」、「仁侠シリー」、「一文字シリーズ」をはじめ、ヒット曲多数。 

長年に亘る舞台公演やTV 時代劇など出演し役者としても高い評価を受ける。 

新宿・コマ劇場の公演を二度ほど拝見したが、その情熱と豪華絢爛の舞台には思わず拍手を送った。 

海外公演も多く、文化人としても国際交流に貢献しているともいう。
観客の拍手を勲章とし、終りなき芸道を今も現役で歩み続けている。


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/41/0000986641/12/imge99afa6dzikazj.jpeg" width="226" height="292" alt="サブちゃん" border="0">

北島三朗の地元での談話

『 知内町で生まれ育った私にとって、知内町は「心のふるさと」です。 毎年8月のお盆に故郷に帰ると、子どもの頃、海や川で泳いだ事、 森にカブト虫を探しに行った事、秋サケの遡上を見に知内川に出かけた事、冬手づくりスキーで朝から夕方まで遊んだ事。 などが思い浮かび「自然豊かな知内町」を痛感する次第です。 是非、一度、私の生れ故郷「知内町」へ遊びに来て下さい。 』





次に、やって来たのは「福島町」である・・、 

街へ入って間もなく、今度は元横綱「千代の山・千代の富士」の記念館が目に付いた。 一段高いところに鉄筋コンクリート造りの建物で、正面に土俵入りを模った銅像と大きな太鼓櫓に旗幟(のぼり)が風に揺れていた。

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/41/0000986641/13/imgcb14a31fzik3zj.jpeg" width="282" height="184" alt="千代記念館2" border="0">

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/41/0000986641/14/img535db4c3zik1zj.jpeg" width="408" height="306" alt="千代記念館" border="0">

この両横綱は、こちら福島町の出身であった。
先ずは、往年の相撲ファンならよくご存知の、第41代横綱・「千代の山 雅信」(ちよのやま まさのぶ)についてである。

始め、双葉山の所属する立浪部屋への入門を希望していたが、「双葉山に勝てる男になるために”」と言われて1942年(昭和17年)敢えて「出羽海部屋」に入門した。 
最初から横綱を期待され、戦時中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海(元三代目・両国)親方の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だったという。

戦後の娯楽の少ない時代に、ラジオから流れる大相撲放送は何よりも楽しみであった。

小生も小さいながら(小学生)相撲好きの父と一緒に、夢中になって聞いたもんである。 

当時は「大相撲全盛」の時代でもあり、四横綱の羽黒山、東富士、照国、そして千代の山といわれた「横綱四天王」の時代であり、中でも千代の山が一歩抜きん出たように思っていたが。 

現在では最も多くの横綱を輩出している北海道だが、その第一号はこの「千代の山」であった。 
武器は突っ張りで、初土俵から9場所で入幕し、いきなり全勝する。 
前途将来を嘱望されるが、体の故障と気の弱さがたたり、昭和28年に「横綱返上問題」を起こしてしまい、期待されたほど大成はしなかった。昭和42年1月場所の後、年寄「九重」として出羽海部屋から独立する。

実際は出羽海一門から破門された形となり、このことが話題にもなったが、「北の富士」(北海道美幌、留萌、旭川出身の第52代横綱、現、NHK大相撲専属解説者)を育てている。 

尚、千代の山は「吉田司家」ではなく、相撲協会が推挙する形式になった第一号の横綱でもあるという。


因みに、横綱に推挙された力士は、横綱推挙式と共に初めて披露するのが奉納土俵入りで、明治神宮において行われる。

明治神宮と相撲とのかかわりは創建前(大正9年に創建)の神宮外苑における地鎮祭の奉納相撲に始まり、次いで明治神宮創建(明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする)を奉祝して相撲大会が行われた。  



横綱の推挙状授与式について・・、 

横綱の推挙状は江戸時代からはじまり、元より相撲司(平安時代の頃、相撲大会にあわせて式部省が設置された臨時の機関及びその任にある者)の「吉田司家」からその邸宅の祭場で授与されていたようである。 

横綱に推されたら力士は、吉田家に赴いて荘厳な雰囲気の中で起請文を差し出し、司家から免許状や故実書(過去の事を記入してある書類)、そして「横綱」を授かったという。

第40代・東富士までは司家より横綱免許状が出されていたが。


しかし制度が変わり、昭和26年第41代・千代の山より明治神宮の神前において相撲協会から推挙状が出されることになったという。 
神前ではじめて横綱推挙式と手数入り(でずいり:土俵入り)が行われ、以来、恒例として横綱推挙式は明治神宮で行われることとなっている。 

序(ついで)に、「手数入り」の「でず」とは「技・わざ」を意味し、吉田司家の口伝に横綱土俵入りを「手数入り」といったことから由来するという。



更に序ながら「相撲の歴史」について簡略に・・、

日本相撲の歴史は古く、「古事記」の中で、建御名方神(タケミナカタノカミ:大国主の子・諏訪大社祭神)と建御雷神(タケミカヅチノカミ:高天原の神・鹿島神宮の祭神)が出雲の国をかけた力くらべをして、建御雷神が勝ったという記述が「相撲の起源」とされる。

又、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとしては、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速 (たぎまのくえはや))の戦いであるとも・・(これは柔道の起源ともされている)。


時代が進み平安期の頃は、相撲はいつしか闘いよりも、豊作を願い神に奉納する神事や余興になっていた。
戦国時代になると、再び武術としてのは相撲を奨励するようになり、戦国大名・織田信長も毎年大勢の相撲人(すまいびと)を集めては上覧相撲をとり行った、今の土俵の原形は信長による発案だと言われる。 

またこの頃より、弓取り式、力士の四股名そして行司も登場したという。

相撲が武術として大きく発達した時代であり、力士が武士(もののふ)である由縁もまたここにある。
江戸時代になると、寺社の建立や修復の為の寄付を集める為の庶民的な勧進相撲になり、年寄り株制度の原型や改良された土俵、四隅には柱が立てられ櫓が組まれた。 
決まり手も48手が成文化され、いよいよスポーツとしての相撲が始まった。


大相撲としては、江戸時代後期に入り、今の日本相撲協会の前身にあたる江戸期の相撲会所が整備され、相撲年寄りと相撲部屋も次々と誕生した、
雷電」や「不知火」が活躍したもこの時代である。 

昭和時代になると土俵の危険な4本柱も撤廃され、戦前・戦後のラジオ中継に続きテレビ中継、平成になって世界に向けて衛星中継も始まった。 

近年、相撲は国民的な娯楽になり、近代スポーツとしての確固たる地位を獲得し、長大な歴史のある「相撲」は、時代に留まることなく今も進化し続けている。 

しかし、外国人が台頭する今の大相撲の実情を憂う声もある。



次に、昭和後期の名横綱「千代の富士」である。

第58代横綱・千代の富士 貢(ちよのふじみつぐ)は・本名は秋元貢、身長183cm、現在は年寄・九重。 現役時代の異名・愛称はウルフと称した。史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数の大横綱で、小兵ながら速攻と「上手投げ」を得意にして一時代を築いた。

立ち会い一瞬で左前ミツを拝むように掴むや否や電車道で土俵際に追いやり、最後は返す刀で鮮やかな投げ技で相手を土俵に叩きつける豪快な相撲っぷりは見事であった。
右上手、左前三ツの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。

四股の美しさも特筆すべきもので、高々と上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。 



横綱 『千代の富士』経歴

幕内優勝  31回(全勝優勝7回、歴代2位)
殊勲賞 1回、敢闘賞 1回、技能賞 5回
通算成績  1045勝(史上最多)437敗159休
場所数  125場所 金星 3
初土俵  昭和45年九月場所(15才)
新十両  昭和49年十一月場所(19才)
新入幕  昭和50年九月場所(20才)
横綱昇進  昭和56年七月場所(26才)
現役引退  平成3年五月場所(35才) 



次回は、宮内(ぐうない)温泉と「象の花子」


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下北半島の絶景・「仏が浦」



周遊紀行:温泉と観光(7)下北 「絶景・仏が浦」


「絶景・仏が浦」

下北半島は通称、マサカリ、斧形の半島と呼ばれている・・?。
そのマサカリの刃の中心に在るのが景勝・「仏が浦」である、それは本州の僻地中の僻地に在る。

通称「海峡ライン」と呼ばれている国道338号線を行く。 
脇野沢村を過ぎると深い原生林の中へ突き進むといった感じである。 
このR338は別名「海峡ロード・海峡ライン」と言うらしい、今はヘヤーピンの山岳ロードを走っているが、見ると津軽半島の平館あたりが、とりわけ近くに眺望できる。
そのためか此処を挟む海峡を「平館海峡」と命名している、この海峡名を付けた理由が理解出来た。

思えば昨日、海峡の向こう平館あたりからこちら側を見た風景は、断崖絶壁の壁であった所である。
国道338のこの区間は、海沿いの山岳路とも言うべきもので、尾根を越え谷を渡って進んで行く。 
海峡ラインは、とにかく上下動の激しい急カーブ、急坂の連続であった。 
登りきった所、いわば峠の地(特に名称は無い)にかなり広い駐車スペースも有り、周囲の展望も抜群であった。

今度は下りのヘヤーピンのカーブが連続する。
海の青と山の緑のコントラストが良く、思えば行き交う車も殆ど無い、脇野沢からすれ違った車は数台に過ぎない。 
やはり、本州の僻地に違いなかった。


しばらくして、まだ海面よりかなり高所を走っているのに、「仏ヶ浦入り口駐車場」とオンボロ看板があった。「仏ヶ浦」の入り口があるらしい。 
戻ってきた人達に様子を聞くと、この先往復30分位かかるかなり急な階段があるとか、こちらは山で鍛えた足腰である、早速カメラ2台持って出かけた。
海の眺めが良くなったところで、山肌が断崖の如く切り立ったところに、木製の急なジグザグの階段が現れた。

ハハーン!これか・・!、急ぎ脚で降りる。 

仏ヶ浦まで降りるかなり急斜面の階段歩道であり、断崖絶壁を下って行くようで途中から見る、その景観はすばらしいの一言である。 


もう既に海岸一帯に、一種異様な光景の奇岩・妖岩の群が見えている。
白い砂浜に降りると、灰色の屹立した岩峰群が圧倒的迫力で迫る。 
観光船を営んでいる番小屋のオバサンが、「そこの間を通って、向こう側へ行くと、もっと良いよ」と、岩峰の間を指す。 

成る程、これまたすごい・・!!。



名勝・「仏ヶ浦」は、霊が宿るという下北・「恐山」の冥土の入口に当たると言われる。

風雪厳しい津軽海峡の荒波が削り上げた大自然の造形・仏ヶ浦は、冬の厳しい姿と夏の穏やかな姿の両方を持つといい、2キロに及ぶ奇岩の連なりは見るものの心に様々な思いを抱かせてくれる。 
「如来の首」、「五百羅漢」、「一ツ仏」、「親子岩」、「十三仏」、「観音岩」、「天竜岩」、「蓮華岩」、「地蔵堂」、「極楽浜」などの名称がつけられ、その総称が「仏ヶ浦」なのである。

仏ヶ浦の浜は、夏の穏やかな海からの眺めは、その名にふさわしい、たおやかな極楽浄土の浜でもある。


大正11年9月、未だ道無き下北の地を訪ねた土佐の歌人「大町桂月」は、仏ヶ浦の奇岩の連なりと神秘的な美しさに触れ、この様なものが人間業ではとても造り様が無いものであり、自然の中にはまさしく造化の天工が住んでいることを確信した、と言い・・、



『 神のわざ 鬼の手づくり 仏宇陀(ほとけうた) 

                人の世ならぬ 処なりけり 』

と詠っている。



十和田や東北をこよなく愛した大町桂月は、比較的に優しい東北の自然の中で、仏ヶ浦の想像を絶するような奇岩の群れに逢い、風雪の厳しさ、波浪の力など大自然の持つ比類なき力を実感したのであろう。

奥に控える恐山の神秘的な空間と海から見れば、まさしく冥土の入口に当たるのが、「仏ヶ浦」なのである。
そのあまりの符合に歌人は、この下北半島にはまさしく仏や神が住んでいることを確信したのであろう。 
その「恐山」へは帰路立ち寄ることにするが・・、仏ヶ浦の羅漢達は、歌人が歌を詠んだその時のままで、今もすっくと佇んでいる。


薄学浅才な小生は、この感動をどう表現してよいか分からないが、確かに自然の造形は人の知識や知能、想像になど遠く及ばない。
タダタダ!!肝を抜かれ、魂が消される、つまり「魂消る」(たまげる)の一語だった。


半ば気を奪われたまま、元の急な階段へ戻る。
「行きはよいよい、かえりは辛い(こわい)」であったが。

車で一寸行った所の高所に、仏ヶ浦の展望台が有って眺めてみたが、現地の目前の迫力には遠く及ばない。 
「仏ヶ浦」を観光するには、観光船も良さそうである、船着場があって脇野沢やこの先の佐井から出航している。

次回より海峡を渡って、「函館」から北海道を巡ります




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