『日本周遊紀行』

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北海道・西沿岸

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稚内公園(望郷の丘)に立つ「九人の乙女の碑」



日本周遊紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」


野寒布岬を後にして、海岸に沿いを「稚内」の市街地へ向かう。

海辺には思いのほか家並みが並んでいて、市内高台の丘からは市街地やフェリーターミナルが眼下に。 
又、「利尻・礼文」の二島やサハリンも見通すことのできる。
F・ターミナルや港からは、観光のメッカである利尻・礼文は勿論、現在は国際フェリーとしてロシア・サハリンへも就航されているという。

因みに稚内は現在、サハリン州との交流が活発化しているとらしい。 
稚内と樺太(日本名)とは現在、善隣友好というか、良好な関係が進みつつあるようで、稚内市の行政機関には「サハリン課」と言うセクションも有り、樺太との交流を深めるのを主業務としているようである。

だが忘れてならないのは、今なお戦争の惨禍や戦後の処理を棚上げし、解決されていない北方領土などの領土問題が暗い影を落しているのも「不幸な事実」である。



この見晴らしの良い高台は「稚内公園」であるが、ここの丘は別名を「望郷の丘」と呼ばれている。 公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。 
乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑している。



その「九人の乙女」のことであるが・・、

日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 
後に起きた太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきたのである。

この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。 
そしてソ連侵攻のあった其の日、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したという。


この『九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。

『戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら・・、」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。 戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む。』


しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。

『 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。
ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 』と、

一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという。 

戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる。



昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は氷雪の門、九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときの感銘を歌に託している。

昭和天皇の詠み歌

  『なすべきを なしをへてつひに 命たちし  
            少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ 』



香淳皇后の詠み歌

  『樺太に つゆと消えたる 少女らの  
           みたまやすかれと ただにいのりぬ 』



昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。

次に同じく稚内・「氷雪の門」、



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汐見橋より見た「湯の川温泉」の夕景



日本周遊;温泉と観光編(8)函館 「湯の川温泉」


函館の癒し場・「湯の川温泉」へ・・、

先程予約しておいた本日の宿・「湯の川温泉」へ向う。 
夕刻も深まった函館市内は時間帯のラッシュ時で、首都圏並みの渋滞気味であった。
市街地より沿岸に沿って東へ凡そ5km程であろうか、町内の一角、海岸沿いに温泉タウンはあった。

湯の川温泉は「函館の奥座敷」、「北海道三大温泉」の一つに数えられるとともに、道内でも指折りの古湯という。 
脚光を浴びたのは、承応2年(1653)に遡るといわれるが、古湯とはいっても比較的新しいほうであろう。

松前藩の藩主の子・千勝丸が、医師も見放すほどの重い病気にかかり、藩主は千勝丸のために家来たちに温泉を探させた。 
その時に発見されたのが、この湯の川温泉だと言われている。
その湯に千勝丸を湯治させたところ、まもなく全快したといい、以後この湯が病気に効くことで、病弱な人たちに重宝されてきたという。

その後、戊辰戦争、明治維新(1868年)の折には、榎本武揚、土方歳三率いる旧幕府軍と新政府軍との間で起こった箱館戦争では、傷病の兵士たちの療養にも使われたそうである。

「湯の川温泉」の湯の川はアイヌ語でユペツと言い、ユ(ユウ)は湯とか温泉を意味し、ペツ(ペット)は川を意味する言葉で、つまり温泉の川、湯の川と呼ばれていた。 

「湯」はサラリとした感触で無色透明、泉質はナチリウム・カルシウム・塩化物泉で慢性リューマチや神経痛に効果があるといわれている。  
特に、温泉に浸かりながら眺める津軽海峡のイカ釣り船の漁火は、函館の風物詩として全国の温泉愛好家憧れの的となっていると。 

公衆浴場は3軒、「日の出湯」、「長生湯」、「永寿湯」が存在する。
どれも地元の人が多く通う浴場である。
中でも永寿湯は湯の温度が40〜45度と熱いので有名だとか。



小生が泊まったのは温泉街の中程にある「ホテル新松」である。 

一流観光ホテルのピカピカさは無く、どちらかと言えばビジネス観光ホテルの気安い格安ホテルであろう。
しかし、部屋の調度といい、温泉浴場といい不足は無い。
浴槽は広く、やや高温の源泉がタップリと流入し、その分が掛け流されている。
やや、きな臭い温泉臭がただよって、入ると熱めだが体に馴染んで気持ちがいい。 
ジックリ入ってると温泉効果も十分期待できそうである。 
宿の食事は、絶品豊富で食べきれない程で、「ウニ」や「イクラ」がたっぷり入った野菜鍋も実に良かった。



ところで小生は、一般に温泉宿に泊まった場合、夕・朝で少なくとも3回入る事にしている。 
宿へ着いたら先ず体をほぐすのに一風呂、就寝前に歯の清爽と合わせて浴びて、朝は目覚めと洗顔とリフレッシュのため入ることにしている。 
朝は顔と体を軽くマッサージしながら、湯疲れしないためにも短時間にするのが良いだろう。

次回は、「知内、福島」の記念館




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同様に稚内公園(望郷の丘)に立つ「氷雪の門」



日本周遊紀行(52)稚内 「氷雪の門」


さて次に「氷雪の門」とは、戦後、樺太における邦人の苦難の過去、歴史を示した慰霊の碑である。


ソ連軍の侵攻を知った樺太の日本人は、北海道へ緊急避難することを決め輸送を始めた。
この時は、あの北支満州へ侵攻したのと同様に、樺太でも大混乱を極め、港へ着くまでは様々な苦労が有ったと言われる。 

先ず、ソ連の潜水艦が出没、留萌沖では「小笠原丸」などが魚雷攻撃で沈没、1800人の犠牲者が出した。


樺太・大泊港はソ連軍によって封鎖されるまで77000人が北海道へ渡ったが、残された人々も多いという。 
樺太と千島の戦闘では、日本軍3000、民間人3700人が戦死している。このことは8月15日の日本の無条件降伏が決まった終戦後のことである・・!!。 更に、68000人の邦人はシベリヤに抑留され、強制労働を強いられた。


この門は、これら戦時、否、戦後における望郷の念と、樺太で亡くなった日本人を慰霊する為に建立されたもので氷雪の門の間には、氷雪に耐え、たくましく生き抜いた人を象徴するブロンズ像が立っている。




「引揚船」について・・、<br>

不可侵の約束を一方的に破ったソ連軍の侵攻が満洲・樺太・千島などではじまり、北方では樺太の老幼婦女子や逓信省職員の北海道への避難搬送が急務となった。 

そこで依頼を受けた「小笠原丸」は、8月17日に急遽稚内港を出発して樺太南端の大泊港へ急行し、そこで約1500名の引揚者を乗せて稚内に運んだ。 

しかしまだ大泊には数万の避難者がおり、休むまもなく「小笠原丸」は2度目の搬送のため大泊に向かった。8月20日出発して同午後に大泊に到着、やはり約1500人を大至急乗せて午後出航し稚内に帰港した。 ここで1500人中900人を降ろし、残りの600人を乗せて、北海道西側海岸沿いに稚内から小樽へと急いだ。 しかし、航程あと3分の1で小樽・・というところで、惨劇が起こったのである。


このときの「小笠原丸」は、もう戦争は終わったからと安心して灯火管制もせずにいたのだが、8月22日午前、突如として潜水艦による魚雷攻撃をうけ、たちまち沈没してしまったのである。
海岸(増毛町)から約4海里(1海里は1852m)の場所だった。 

浮かび上がった潜水艦は、海面を漂って助けを求める婦女子たちに機銃掃射を浴びせて虐殺また虐殺、十分に殺し終わったところで悠々と姿を消したという。


老幼婦女子600人の他に乗組員と警備隊が100人ほどいたが、その一部が救命艇に乗って陸地に急ぎ、漁港に急を知らせた。 

知らせをうけた漁港では至急漁船で救助に向かったが、乗船者の多くは船室に詰め込まれていたのと、危うく海面に逃れた人たちも機銃掃射で虐殺されたのとで、一般乗客で海岸にたどり着き運良くボートに乗れたのは、わずか19名だったと言われている。 

また甲板にいて、かつ泳ぎの達者な乗組員と警備員も、助かったのは4割のみであったという。


同じその日、その付近で、やはり緊急手配された引揚船の「第二新興丸」(2500トン)と「泰東丸」(880トン)も同様に魚雷攻撃を受けた。 

小型の「泰東丸」は撃沈されて生存者はなく・・、大型の「第二新興丸」は大破されて多くの犠牲者を出しながらも、かろうじて近くの留萌港にたどり着いたという。


「泰東丸」の犠牲者数は約400名、「第二新興丸」のそれは667名だったと言われている。


じつは「第二新興丸」には、用心のために小さな大砲が積まれていた。 

潜水艦は民間船というので油断して浮き上がったため、この大砲による日本側の必死の反撃によって、敵潜は沈没したという。 

だが沈没した潜水艦が、他の2隻に魚雷を発射したものと同じだったのかどうかは分からないという。


いずれにせよ、結局、合計して1700名余(あとの調査で1708名とされたらしい)の老幼婦女子が戦争終結後に犠牲になったわけで、空前の残虐行為であったことは確かである。 

緊急避難時だから乗客名簿などあるはずもなく、したがって遺族にとっては、海で犠牲になったのか陸で殺されたのか、それとも樺太のどこかで生きているのか、それすらも長いことわからないと言われる。



南無阿弥陀仏・・!!。<br>

この後は同じコース(函館から)で「温泉と観光」を訪ねます。



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稚内公園(望郷の丘)に立つ「九人の乙女の碑」



日本周遊紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」


野寒布岬を後にして、海岸に沿いを「稚内」の市街地へ向かう。

海辺には思いのほか家並みが並んでいて、市内高台の丘からは市街地やフェリーターミナルが眼下に。 
又、「利尻・礼文」の二島やサハリンも見通すことのできる。
F・ターミナルや港からは、観光のメッカである利尻・礼文は勿論、現在は国際フェリーとしてロシア・サハリンへも就航されているという。

因みに稚内は現在、サハリン州との交流が活発化しているとらしい。 
稚内と樺太(日本名)とは現在、善隣友好というか、良好な関係が進みつつあるようで、稚内市の行政機関には「サハリン課」と言うセクションも有り、樺太との交流を深めるのを主業務としているようである。

だが忘れてならないのは、今なお戦争の惨禍や戦後の処理を棚上げし、解決されていない北方領土などの領土問題が暗い影を落しているのも「不幸な事実」である。



この見晴らしの良い高台は「稚内公園」であるが、ここの丘は別名を「望郷の丘」と呼ばれている。 公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。 
乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑している。



その「九人の乙女」のことであるが・・、

日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 
後に起きた太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきたのである。

この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。 
そしてソ連侵攻のあった其の日、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したという。


この『九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。

『戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら・・、」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。 戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む。』


しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。

『 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。
ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 』と、

一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという。 

戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる。



昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は氷雪の門、九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときの感銘を歌に託している。

昭和天皇の詠み歌

  『なすべきを なしをへてつひに 命たちし  
            少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ 』



香淳皇后の詠み歌

  『樺太に つゆと消えたる 少女らの  
           みたまやすかれと ただにいのりぬ 』



昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。

次に同じく稚内・「氷雪の門」、



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野寒布岬(現在時間を表している)




日本周遊紀行(52)稚内 「野寒布岬」



「もう、これ以上北へ行く、先の道はありません」・・、



ノサップ(野寒布岬)の最先端部である、敢てゆうなら最北第二の岬・・?へ遂に来たのである。

北端の地は、タイル貼りされた小奇麗な園地の中央にイルカのモニュメントがあって、何故か、その上に大時計がぶる下がっていた、時に10時30分を指していた。

実は、日本最北の地は稚内の東にある宗谷岬であるが、ノサップ岬(野寒布岬)は稚内市街にも近いせいか周囲にも人家も結構多い(航空自衛隊の基地も近くにある)。 
日本海の夕陽が綺麗ということもあるが、名前の通った宗谷岬に比してやや地味なのは否めない、果たして・・?。

宗谷岬は、これから向かいます。


ノサップ岬の名・野寒布岬は、根室のノサップ岬・納沙布岬と紛らわしい。 
あちらは日本最東端で日の出の岬、こちらは日本最北端(二番目)で夕陽の岬であろう。

「ノサップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味であるらしい。 
確かに地図を見ても、宗谷が上顎、野寒布が下顎で宗谷湾の口を開けている様子が判る。 
一方、根室の方はやはり下顎に納沙布、上顎に知床で根室海峡が口を開き、しかも国後島を今にも噛み付こうとしている、「国後は俺のもんだ・・!!」と云わんばかりに。 
ノサップのアイヌ的解釈は的を得ていると思われる。

岬の隣に「ノシャップ寒流水族館」があった。
月曜の午前ということもあって小生以外の入場者は見当たらないろうであるが、入場口近くで若い女性がアザラシに特訓をしていた。 
多少の挨拶的会話をしながら、気がついたのが水槽の中央にかなり大きめの一頭のアザラシが半身を出して直立不動の姿でじっとしている。

「このアザラシはどうしちまったのですか・・?」
「日向ボッコしてるのでしょう、もう歳ですから!」
「・・? 水中で日向ボッコ」・・?、
「歳とると、動物も人間も一緒だね、日向ボッコは・・、」


館内に大回遊槽が有った。
そこにはホッケ、カレイに混じって幻の魚と言われる巨大な「イトウ」がいた、 あれっイトウが海水に・・?



「イトウ」という魚・・?、

ところで、長い間イトウは完全な淡水の魚であると思われてきたが、現在では中には降海する固体がいることが確認されていると。 
降海すると言っても、沿岸部での生活がほとんどで、遠洋にでることはないという。
かつて、イトウは北海道だけでなく、岩手県以北に広く分布していたことが知られているが、青森県小川原湖付近にて1940年4月に捕獲されたものが最後の記録となって、その後は姿を消しているという。

一般的に、サケ・マスの類の魚たちの産卵期は秋であるが、イトウは春に産卵をするという、このことは寒冷な気候に影響を受けたことが要因であるとも言われている。 
性質は非常に獰猛で、反面強い警戒心を持っている。 
強さと臆病さが混在した性質が特徴的だと言えるだろう。 

成熟するまでにオスで6年、メスで8年かかる。体長も30センチメートルになるまでに5年、1メートルクラスになるには15年以上かかると言われている。 
イトウが幻の魚と言われている所以には、こうした時間のかかる成長過程が背景にあるものだと思われる。

どちらかと言えば鈍重なボッーとした顔をしている印象を受けてしまうが、これはイトウがそうした生きるためのスピードを必要としなかった。
必要とする場所に生息してこなかったという歴史がそうさせているのだという。 丸太のように太く長い体は、イトウの鈍重な印象を強くしていると。

アメマスの仲間にも言えることであるが、こうした湿原の川に棲息している魚類としては、太く丸い体形が向いているものと言われる。 
ヤマメやニジマスなどのように、速い流れの中をスピードつけて泳ぐ必要がないのだから、そうした環境に適応した結果、現在のイトウの体形であるのだろうと想像されると。
 
非常に貧食で主に魚を食すが、大きく成長したものはカエル、ヘビ、ネズミなどの小動物さえも丸呑みにしてしまうと言われ、その食性にからむ伝説は数知れないという。

次回も「稚内」




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