『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(概要)

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<strong>明治時代の日本・韓国・中国の国情;(明治期の旅行家・イザベラ・バードの実録)</strong>
 
 
 

 
 
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)という人は、英国人の女性旅行家・紀行作家です。
生まれたのが1831(文政13)年、亡くなられたのが1904(明治37)年です。
 
彼女は、江戸〜明治期のシナ、朝鮮半島、日本を紀行し、数々の写真とともに、当時の3国の状況を仔細に観察し、述べています。
 
彼女は、1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜けての旅をしました。
 
彼女の『日本奥地紀行』では当時の日本を結論的にこう書いている。
 
『 私はそれから奥地や蝦夷を1200マイル(1930km)に渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている 』
 
 
 
特に、栃木から鹿沼市へ抜ける日光杉並木を観て、「よく手入れされた麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感した」と綴っています。
 
 
また日光で滞在した金谷邸では、その内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在したうえ、日光の景勝地を探訪しています。
 
日光滞在10日目に訪れた奥日光では、梅雨時の豊かな水と太陽に育まれた植物・・・
 
コケ、シダ、木々の深緑、そして鮮やかに咲き誇る花々が、中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様子を闊達に描写し、惜しみない絶賛を与えています。
 
街道の終点である湯元では、温泉を訪れている湯治客の様子を詳細に記し、その宿屋が
 
「たいへん清潔である」と評し、
 
そして
 
「ここは埃まみれの人間ではなく、妖精が似合う宿である」とまで形容した。
 
さらに山形県の赤湯温泉では、置賜地方を「エデンの園」と称え、
 
その風景を「東洋のアルカディア」と評した。
※アルカディア=ギリシャ神話に出てくる理想の楽園
 
 
彼女は、『日本奥地紀行』では当時の日本を次のように書いています。
 
「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で、日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。」
 
「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。
子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。」
 
「いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むが、それと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。
子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。」
 
「ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。」
 
「ほんの昨日のことであったが、革帯一つ、忘れものをしていた。
もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。
彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。」
 
「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。」
 
「日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって、中国語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を言った。
この子はひどく叱られ、警官がやってきて私に謝罪した。」
 
「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。
料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。
彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。」
 
「吉田は豊かに繁栄して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿の部落であった。
しかし、山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。
これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。」
 
「どこでも警察は人々に対して非常に親切である。
抵抗するようなことがなければ、警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。」
 
「警察の話では、港に2万2千人も他所から来ているという。
しかも祭りに浮かれている3万2千の人々に対し、25人の警官で充分であった。
私はそこを午後3時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。
私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。
どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。」
 
「私はどこでも見られる人びとの親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。
私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配して、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。
馬から下りるときには私をていねいに持ち上げてくれたり、馬に乗るときは背中を踏み台にしてくれた。
あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた。」
 
「私の宿料は《伊藤の分も入れて》一日で三シリングもかからない。
どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。
日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末な部落にしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。
世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。」
 
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったり融けあう。
彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけて感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」
 
「しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。このように礼儀正しく心のやさしい人びとに対し、誰でもきっと好感をもつにちがいない。」
 
「伊藤は私の夕食用に一羽の鶏を買って来た。ところが一時間後にそれを絞め殺そうとしたとき、元の所有者がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女はその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、ここは人情の美しいところであると感じた。」
 
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バードは、朝鮮を1894年に訪問しています。
釜山、ソウルに滞在した後、漢江流域を踏査し元山へ、そして同年1112月にはロシア領内の朝鮮人社会を視察した。
そこで「朝鮮奥地紀行」を著します。
当時の朝鮮は、日本が統治する以前、李氏朝鮮末期の時代にあたります。
 
「朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれている。」
 
「政府、法律、教育、礼儀作法、社会関係そして道徳における中国の影響には卓越したものがある。これら全ての面で朝鮮は、強力な隣人の弱々しい反映に過ぎない。」
 
「私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また紹興(中国浙江省北部の県)の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市と考えていた。
大都市、首都にしてはそのみすぼらしさは名状できない程ひどいものである。」
 
 
「礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。
その結果、25万人と見積もられている人びとが“地べた”、主として迷路のような路地で暮らしている。
その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。
実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。
さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたドブと、そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。」
 
「ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。
公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無い。
劇場も無い。
ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。
ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。
しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルは寺院無しの状態で放置されている。
一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままにされている。」
 
「ミラー氏と召し使いが綱を強く引っ張っている時、私はしょっちゅう川岸沿いに独りぼっちで、2時間か3時間ぶらついていた。
その小道が淋しい所かまたは村に通じていようがいまいが、私は、ひどく躾の悪い遣り方で示された好奇心以上の不愉快なものには、一度も出会わなかった。
そしてそれは、主として女性によるものであった。」
 
「その肩に税の重荷が掛かっている人びと、つまり特権を持たない厖大な大衆が、両班にひどく苦しめられているのは、疑いない事である。
両班は代金を支払わないで、人びとを酷使して労働させるばかりでなく、さらに貸し付け金の名目で、無慈悲に強制取り立てを行なっている。
ある商人か農夫がある程度の金額を蓄えたと噂されるか知られると、両班または役人が貸し付け金を要求する。」
 
「女の人たちと子供たちは山のようになって、私の寝台の上に坐った。
私の衣服を調べた。
ヘアピンを抜いた。
髪を引き下ろした。
スリッパを脱がした。
自分たちと同じ肉や血なのかどうか見るために、私の着物の袖を肘まで引き上げて、私の腕を抓った。
私の帽子を被ってみたり、手袋を嵌めてみたりしながら、私のわずかばかりの持ち物を詳しく調査した。」
 
「長安寺から元山への内陸旅行の間、私は漢江の谷間でよりも、朝鮮の農法を見る良い機会に恵まれた。
日本のこの上なく見事な手際のよさと、中国の旺盛な勤勉に比べて、朝鮮の農業は無駄が多く、だらしない。」
 
「朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え、その状況を希望の持てないものと見做すようになっていた。」
 
「私は出発する前に、無感動できたなく、ぽかんと口を開け、貧しさにどっぷり浸っている群集に包囲されて、宿屋の中庭のごみ、むさ苦しさ、がらくた、半端物の真ん中でじっとしていた。
朝鮮人は見込みのない、無力で哀れな痛ましい、ある大きな勢力に属している単なる羽に過ぎない、と感じた。」
 
「もしある人が小金を貯めた、と伝えられると、役人がその貸与を要求する。
仮にその要求を承諾すると、貸し手は往々にして元金または利息に二度と会えなくなる。
もしその要求を拒絶すると、その人は逮捕され、破滅させるために捏造されたある種の罪で投獄される。
そして要求された金額を差し出すまで、彼か親類の者が鞭打たれる。」
(これって、いまの日本?!)
 
「狭量、千篇一律、自惚れ、横柄、肉体労働を蔑む間違った自尊心、寛大な公共心や社会的信頼にとって有害な利己的個人主義、二千年来の慣習や伝統に対する奴隷的な行為と思考、狭い知的なものの見方、浅薄な道徳的感覚、女性を本質的に蔑む評価などが朝鮮教育制度の産物と思われる。」
 
「朝鮮の大きくて普遍的な災難は、大勢の強壮な男たちが、少しましな暮らしをしている親類か友人に頼るか“たかり”に耽る習慣である。
それを恥としないし、非難する世論も無い。
少ないけれども一定の収入がある人は、多くの親類、妻の親類、大勢の友人、親類の友人たちを扶養しなくてはならない。」
 
1897年の明確に逆行する動きにも拘わらず、私はこの国の人びとの将来に希望が無いとは決して思わない。だが、次の二つの事が非常に重要である。
1、朝鮮は、内部からの改革が不可能なので、外部から改革されねばならない事。
2、君主の権力は、厳しくて永続的な憲法上の抑制の下に置かねばならない事。」
 
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バードは189512月に上海に渡ります。
上海から揚子江を万県まで遡り、さらに陸路を保寧府、成都まで進んだ。
彼女は、中国社会の活力と公正さを高く評価しるけれど、それは“最悪”の朝鮮社会を見た直後だったからかもしれない。
 
「中国人は無学であるし、信じがたいほど迷信深い。だが、概していえば、いろいろな欠点はあるにしろ、ひたむきさという点では他の東洋民族にはないものがあるように思われる。」
 
「〈文人階級〉の多くの人々の無知さ加減はひどい。
それは宿坊での会話の中にとめどもなく現われてくる。
軍のある高官は、劉を頭とする黒旗軍が台湾から日本人を駆逐したとか、劉が神々に誓った誓いと祈りが功を奏して台湾海峡が大きく口を開いたとか、ロシア、イギリス、フランス、日本の海軍が戦渦に広く巻き込まれ、やられてしまったとか言って憚らなかった」
 
「中国で仁が重んじられているという印象は日常生活からはさほど受けない。
中国人の性格に関するこの国での一般的な見解は、冷酷、残忍、無慈悲で、徹底して利己的であり、他人の不幸に対して無関心であるというものである。」
 
「彼女たちの質問はまことに軽薄だったし、好奇心は異常なまでに知性を欠いていた。
この点で日本人の質問とは好対照だった。
ここには、していることに目新しさも多様さもなく、食べることと書くことだけをしている人間を何時間にもわたってジロジロ見ることに費やすという、大人としての異常なまでの無神経さが見てとれた。」
 
「群集はどんどん増え、囃し立てたり怒鳴ったりして、どんどんやかましくなった。
口々に『洋鬼子』、『外国の悪魔』とか『吃孩子(子供食い)』と叫ぶ声がどんどん大きくなり、怒号と化していくのがわかった。
狭い通りはほとんど通れなくなった。
私が乗った車は、何度も何度も棒で叩かれた。
泥や嫌な臭いのするものが飛んできて命中した。
ほかの連中よりも大胆なのか臆病なのかわからないが、一人の身なりのよい男が私の胸を斜めに強打した。
叩かれたところはみみず腫れになった。
後ろから両肩を強打する連中もいた。
わめく輩は最悪だった。
激昂した中国の暴徒だった。」
 
「信じられないような汚さ、古期英語を用いないと表せないようなひどい悪臭、薄汚なさ、希望のなさ、騒がしさ、商売、そして耳障りな騒音は中国の都市に共通する特徴である」
 
「中国の町のごろつき連中は、無作法で、野蛮で、下品で、横柄で、自惚れが強く、卑劣で、その無知さ加減は筆舌に尽くせない。
そして、表現することも信じることもできないような不潔さの下に暮らしている。
その汚さといったら想像を絶するし、その悪臭を言い表せる言葉は存在しない。
そんな連中が日本人を、何と『野蛮な小人』と呼ぶのである!」
 
「トルコやペルシャ、カシミール、朝鮮を、私のように数年にわたって旅したことがある人なら、中国の人々が虐げられた国民などではさらさらないことがわかって驚くことになる。
また、現制度下にあってさえ、賄賂はあるものの税は軽く、働けば金になり、理にかなった自由もかなりあることがわかって驚くことになる。」
 
「大勢の薄汚い役人が何もせずにぶらぶらしているといったことはなかった。この点は朝鮮とは異なっていた。」
 
「飛び道具は手近にいくらでもあった。石の一部は轎や轎かきに当たったし、私の帽子にも当たって帽子が飛ばされてしまった。
『外国の悪魔』とか『外国の犬』という叫び声のすさまじさといったらなかった。
石が轎めがけて雨霰のように投げつけられた。
そして一つの大きな石が私の耳の後ろに命中した。このひどい一撃によって、私は前に倒れ込み、気を失ってしまった。」
 
「病気の苦力は木の下に横たえられた。
そこで私はその男の燃えるような額に濡れたハンカチを当ててやった。
その時、中国人の潜在的な残虐性が現われた。
あの実に愛らしい創造物である観音が広く崇拝されているのに、この連中には何の感化も及ぼしていないことがわかった。
何も運んでいない苦力が5人いたので、一匹のラバの荷物を5人で分け合い、病気の男をラバに乗せるように提案してみたけれど、拒絶したのである!
この12日間、寝食をともにしてきた男なのに、である。
しかも、お前達はこの男をここに置き去りにして死なせるつもりかと尋ねると、彼らはせせら笑いながら、『死なせればいい。もう何の役にも立ちませんぜ』とのたまった。
病気の男が懇願した水が目と鼻の先にあったにもかかわらず、それをやろうとさえしなかった。」
 
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最後に、ペリー提督の日本評をひとつ。
 
「日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。
 
教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛情を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。
 
それゆえ外国人が、日本人の民族性に追従し、彼らの宗教や風俗習慣を尊重し、そして原始時代の伝統や神として崇められた英雄の賛美に好意をもって耳をかたむける。」
 
 
≪おまけ≫
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日本周遊紀行:西日本編 「はじめに」  


国に山河在り、人に歴史有り 』         

主に沿岸地方であったが・・、「日本一周」を無事大過なくやり過ごすことが出来た。 
そして概ね、「日本という国の形」を歴史文化、自然風土に素人的に触れることが出来、この国の活力を感じ入った次第です。  
これだけでも今回の周遊の旅の目的が達せられたと満足しているが・・、


東日本の特徴は、何と言っても奥深く雄大な太古の自然が、ソコ・ココに残されていることであろう。 
原始の自然は人類創生以前の地球の営みを見ているようで、圧倒的に迫ってくるものがある。 

東北では世界遺産の白神山地をはじめ津軽地方、下北半島の奥深さや特異な海岸(仏が浦)、三陸の緑と豪快な海岸線、そして優美な松島の海岸。 
北海道に到れば雄大かつ変化に富む山岳、広大な湿原、美しい景観の天然湖沼などの大迫力に圧倒される。 
中でも渡島半島の山地、サロベツ原野、宗谷丘陵、オホーツクの海岸線、知床、そして、野付から根室の海岸線、根釧原野など、道内を一周すると殆どの地域が国立、国定、道立公園の範疇に入り、世界遺産の「知床」やラムサール指定地など、湖沼、湿原、原生花園、原野など優美で広大な大自然に驚嘆したのである。



対して西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう。

例えば、我等現代人でもある本来の大和民族のルーツを思う時・・、
縄文期の頃までは、今の日本である北海道から琉球沖縄まで、人種の流入過程は異なるが、概ね同系、同種の縄文人であったとされる。 

ところが、弥生期から飛鳥期において大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が九州、そして中国・近畿・北陸地方にやって来て、従来の縄文人を駆逐し、ないしは融合し、同化していった。
つまり、弥生文化の覇権のため武装(金属の銅や鉄器)した技術集団、農業集団でもある、所謂、稲作キャンペーン集団とも云える新たな民族がやってきて技術面は勿論、文化面、宗教面においても全国に一大革命を起こすのである。 

つまるところ2000年にわたる、集団で定住化された「米」が主食になる稲作農業文化が、画一化された弥生人を創りあげ、国内においては旧来の縄文人の姿、形まで変えてしまったようである。 
即ち、文化や文明が歴史として現代にまで滔々と流れ下り、受け継がれて現代人と現代文明が形成されていったのである。 

但し、この様な弥生文化の駆逐は、北海道と沖縄には平安期の頃まで全く及ばなかったともされる。

両地域とも、本土のよう稲作文明は波及しておらず、従って、本土と並立した「弥生時代」というのは存在しないと言われる。
縄文時代の次の時代は、沖縄では「貝塚時代」(前期、後記)、東北北部から北海道では「続縄文時代」とも呼ばれる縄文様式の継続文化が営々と続いたのである。 
その現況が蝦夷・アイヌの民や琉球人の姿、形に、今ででも見ることが出来るとも言われる。


特に、西日本では、これら日本人(大和民)のルーツから、現在に至るまでの進化の過程を記紀(古事記、日本書紀)伝説、伝承や遺跡・史跡、痕跡、神社、仏閣等から伺い知ることが出来るのである。



ところで、歴史というものはどの時代を通じても、全て繋がりの連続性を持っていて澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。 
そして、多岐に渡る小河の歴史が寄せ集まり、厳選されて現代に繋がっているのである。 
更に、時代という綿々と流れてきた歴史大河は、主要事項が重なり合って後世に一つの現象を生み出し、影響を与えながら未来へと繋がっていくものでもあろう。 

こんなんが歴史の面白さでもあろうか・・? 。


西日本編』は、東日本編に引き続き今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」を主題に、景勝地や温泉等の観光面を併せてピックアップしながら紹介致します。



周遊は『西日本編』に移り、神奈川県厚木市を出発して、以下の各県順に巡りました。

『西日本編』: :行程・・・神奈川県厚木市(出発地)⇒ 神奈川⇒ 静岡⇒ 愛知⇒ 三重⇒ 和歌山⇒ 大阪⇒ 兵庫⇒ 四国全県(時計回り一周)⇒ 岡山⇒ 広島⇒ 山口⇒ 九州全県(福岡より西回り一周)⇒ 山口⇒ 島根⇒ 鳥取⇒ 兵庫⇒ 京都⇒ 福井⇒ 石川⇒ 富山⇒ 新潟⇒ 長野⇒・・・神奈川帰着

最初は神奈川県・三浦半島からです。


2010年 小生著作(orimasa)




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日本周遊紀行 『旅・旅・旅』 「昔の旅人:三人の挿話」

前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った「御三方」の旅の様子を記したい・・。

先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。

旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 

吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 
最大の難関は豪雪地帯の会津から越後への道のりで、冬場は今でも危険だといわれる峠越えを敢行する。 諏訪峠を5時間かけて峠まで上がり、そこで松陰は超人的な苦難を味わうことになる。
無論、安らぎの一時もあったようで、特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。
松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。



次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。

芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。

道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
この時の一句に

『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』

を詠んでいる。 
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。
そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。
この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500〜600kmの長道中である。 
しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。

普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。 
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。
いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。



松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である・・。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、当時既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない
 』・・子規

芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』

と軽く一句捻っている。

四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 
この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。 

「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。
巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京

余分ながら・・、この時、山形・最上川では・・、

『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』

と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は芭蕉の 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』 にある。

元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。
子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』


余りにも有名な句であるが・・、
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。

子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。
子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く人」と呼んだ。



小生が選んだ御三方とも、旅先は何れも主に東北・陸奥の旅であったが、これは偶然である。 
因みに、平安期の一時期を除いて、特に明治の夜明け頃までは、陸奥は”地の果て”という見方もあったようで、明治黎明期の或る長州人は、”白河以北は(陸奥)は一山一文の未開の地”とまで言ってのけた。

御三方は、この未開の・・?陸奥を目指したことに価値が有るのである。

 
さて、話を戻そう、(旅に関してであるが・・)
昔日は、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。

そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。
特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 
それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。
だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、移動手段はともかく、今も昔も変わることは無い。

文明が進んで、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いた。
その事を示す例として、日本の鉄道開発、敷設の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参詣のために造られた事が挙げられるのである。



小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」ではないが、確かめて知識を得るのも楽しみである。 
実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが・・。

いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである・・。

続いて、『日本周遊紀行』 東日本編に引き続き「西日本編」 を記載いたします。



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日本周遊紀行 『旅・旅・旅』・・・、旅の「はじめに」 

」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。
更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。 何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われています。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・・、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。
弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。
なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。
一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。


さて、「熟年」になった今日・・、
今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう・・。
少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。

例えば「旅」のことである・・、 
或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。
「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   


旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 
英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 
ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 
それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 
尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。
旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。

近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。

通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり「旅や旅行」であろう。
何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 


ところで、最近の若者は海外へ行きたがらないばかりか、国内の旅や旅行へ出かけない家庭内・内向き型の人物が多くなったと言われる。 何処へも行かず家にいて、親の脛を齧りながら好きな物を買い、美味しい物を食べ、あとはノンビリ自室に籠ってパソコンゲームに耽る。
何故、外に行きたがらないか・・?、今の世の中、平和で何不自由なく暮らせ、そこへ行くと外国や旅先は危険が多く、不自由であるからと・・!。

確かに、日本という国は世界に冠たる素晴らしい国である。 
しかし、若者が危険を避け、不自由を嫌って、生き抜くための激しい戦いに参加しないということは、もはや日本は亡国的段階に差し掛かっていて、自滅の道を歩んでいるのではないか・・?、とも言われる。


『人が旅をするのは到着するためではなく、旅をする為である。(ゲーテ)』
(仮に目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。 到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。 発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。)


「旅」をしようとするにもそれなりの目的やキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 
それは積極的、能動的であれ、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。
日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。


旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ一人旅はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである・・。
ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・?

よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。
だが「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである。 自然との触れ合いとか、異郷との交わり・・とか、何れも一端は示しているようであるが・・、 
しかし、筆者の場合は単純である、「好奇心」である、別世界を覗き見たい願望である、その単的な例が「山」であったのだが・・!!。



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日本周遊紀行 「旅のはじめに」


旅、旅行について・・、

「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。
更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る・・、 何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。 何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われています。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・・、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。
弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。
なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。


『人が旅をするのは到着するためではなく、旅をする為である。』   ゲーテ
(仮に目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。 到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。 発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。)

例えば「旅」のことである・・、
或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。
「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   

「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 
英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 
ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 
それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺の例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。
旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。

近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。

通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
非日常体験は多岐にわたるが、その中でも「旅や旅行」はその代表格であろう。
何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 

旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ「一人旅」はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである。
ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・?

よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。
だが前述の如く、「旅」にはしっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである。 自然との触れ合いとか、異郷との交わり・・とか、何れも一端は示しているようであるが・・、

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』  ・・と正岡子規は云っている。



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