『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(概要)

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日本周遊紀行 「旅の準備」


「日本一周の旅」への根拠は・・?

思えば・・、今までの旅や旅行は殆どが短期間でスポット的な小規模の「お出掛け」であり、確か、定年前の休暇で、お上(妻)さんと北海道の10日間というのが最長であった。 定年になって暇とお金(・・?、・・××)と体力は充分備わっているので、単独で長旅を考えた場合、果たして何処へ・・?と、とりあえず考えてしまう。 何処かの海外旅行・・? 何れかの観光旅行・・? ハタマタ道府県巡り・・などと多々目的はあろうが、ただ肝心なのは漠然とではなく、目的、目標をしっかり絞って決行する事である。
ところで、小生は日本(実は満州・・?)に生まれた日本人である(当たり前であるが・・)。従って日本の事をもっと知るべきである、という好奇心が頭をもたげるのである。 日本列島は細長い島国であり、海を眺めながら「海道を巡る!!」、道行きに地域の歴史や文化、自然を訪ねる・・、コレはいいと思った次第である。 言い換えれば「外国の事に関して」日本国内を在る程度知っておいて、其の後に行なうのが筋と考えている。 愛読書である司馬遼太郎の「街道を往く」シリーズを模じった訳ではないが、「海道を往く」である。 

実は何年か前、職場の仲間に定年で暇(ひま)に成ったら日本一周でもしようかな・・などと、ペロッと口に出したことも有り、又、若い頃よりボンヤリと夢に描いていた事も確かであった。 そして、何時の日にか実行することを心に決めていたのも事実であった。 
定年間際、その直後に先ず何を成すべきか・・??を考えながら、その夢が大きく膨らんで、そして、いよいよ現実のハコビと相成ったのである。  さて、現実のものとして実行のハコビ’まではよかったが、本当の意味であらゆる事を想定し具体的な運びをどうするか、を思案しなければならない。
若い時分なら、無計画で明日にでも飛び出して行けばいいものをと思うが、事実、情報等によるとヤングマン達は自転車や徒歩で日本一周、日本各地を何日も、何十日も巡り、苦労や危険を覚悟しながら体験している人達も中にはいられるようである。 しかし、熟年の小生はこれは無理、年甲斐も無く、ではなく年甲斐を考えて趣旨・目的・目標を明確にし、尚且つ短期間で効率よく実行しなければならないのである。

これらを条件を加味して、以下の実行項目を考察してみた。
1 日本列島を2分割し、2回に分けて実行
2 分割は静岡ー糸魚川構造線(フォッサマグナ)を基準に東日本と西日本
3 現在、住居は神奈川で、別宅が構造線上の白馬村に在る
4 先ずは、「東日本」の海道沿いを巡る
5 新潟・糸魚川を基点に日本海側を北上する
6 東北、本州北端より北海道へ、そして、その最北部の稚内へ
7 次にオホーツク海、太平洋を南下する
8 千葉房総より自宅へ帰還
9 手段はつまり脚(車)はワンボックスのマイカー
10 ネグラは車内か現地の安宿(前日又は当日予約)のカタツムリ・ヤドカリ旅行
11 安宿とはY・H、民宿、公営の宿、他
12 途上、出来得る限り「道の駅」を利用する
13 一日の走行目標は200〜300Kmで、陽の有る内
14 趣旨として最寄りの観光地、景勝地、名所旧跡等を巡る
15 地域の歴史や文化に興味を持つ
16 その町の個性、特徴、特色、主旨、趣向を知る
17 名の有る「温泉地」、地域や隠れた温泉地を訪ねる
(NHK・「ふだん着温泉」等)
18 データシートを作成し、その日の内にデータ、日誌等を記録する
19 持ち物・・装備品、持参品を事前にチェックし準備する
20 衣類、特に下着類は出来るたけ現地で洗濯処置
21 食、嗜好品、好みに応じて持参調理する、その他現地にて摂食
22 車への積載は能率、効率よく美的に、ケースの使用が良い
23 要所、要点は事前チェックし地図上に書き込む(地図は最新版)
24 カーナビは絶対必要、そしてフル活用(ナビソフトは最新版)
25 季節の良い時期を選ぶ(春期・5,6月頃 、秋期・9,10月頃)
26 春季、先ず東日本方面へ・・、日本海側、北海道、太平洋岸へ、
27 次年、「西日本」へ・・、先ず三浦、伊豆から東海道、近畿
28 そして四国、山陽道から九州北部、西九州、鹿児島へ
29 次に、東九州から北上して山陰、近畿(日本海)を巡り
30 北陸、能登に至って糸魚川から姫川、別宅白馬へ
・・と、ツラツラと並べて、自分なりに納得しながら着実に準備を進めた。 
但し、沖縄県については余りに諸島、群島が多いため熟慮した結果、後日の訪問となってしまった。 因みに、その後家族と沖縄旅行へ行くきっかけがあったので、其の沖縄の概要や模様は近日述べたいとと思っている。 尚、沖縄県は本島ほか49の有人島と多数の無人島からなるらしい。

さて、いよいよ出発である・・!!


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日本周遊紀行 「序文・昔の旅人たち」


前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った御三方:「吉田松陰、松尾芭蕉、正岡子規」の旅の様子を記したい。
先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。
旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 
吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 無論、安らぎの一時もあったようで特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。

次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。
芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。
道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。 この時の一句に

『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』
を詠んでいる。 
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500〜600kmの長道中である。 しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。
普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう。 
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。 いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。

次に「正岡子規」のこと・・、
さて松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、   
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』 子規
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』
と軽く一句捻っている。
四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。
他にも俳諧旅行で「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。 巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京
この時、山形・最上川では・・、

『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』
と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は、有名な芭蕉の『 五月雨を 集めて早し 最上川 』にあるともいわれる。
元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。 子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り:ひねり」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』 余りにも有名な句である。
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。 子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。 子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く吟人」と呼んだ。

ところで、昔日は(江戸期の頃まで・・)、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代でもある、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。
そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。 特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、今も昔も変わることは無いようである。
現代の文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。
その事を示す例として、近年では人々の足代わりに鉄道敷設が行われた。 その鉄道の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参拝の観光目的のために造られた事が挙げられるのである。

小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」(事前の下調べ)、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながら(事後の再確認)、アレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」程の大袈裟なものではないが、確かめて再び知識を得るのも楽しみである。 実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが。
いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである。

日本周遊紀行・「まえがき」 【終】

次回は、「旅の準備」


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日本周遊紀行 「はじめに」


『旅・旅・旅』・旅について・・、
「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。 更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。  何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われている。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。
一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。

さて、「熟年」になった今日・・、
今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう。 少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。
例えば「旅」のことである。 
或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。 「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   
「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。
近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。 通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり「旅や旅行」であろう。
何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 

『人が旅をするのは到着するためではなく、
             旅をする為である。』 (ゲーテ)
(仮に目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。 到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。 発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。)

「旅」をしようとするにもそれなりの目的やキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 それは積極的、能動的であれ、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。 日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。

旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ「一人旅」はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである。
ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・? よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。 だが「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである。 自然との触れ合いとか、異郷との交わり・・とか、何れも一端は示しているようであるが・・、

次回は、「三人の昔の旅人」 


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日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(3)

「四国」について・・、
四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれている。
面四ツとは、阿波(徳島)、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)のことであり、一にして四、四にして一の世界であるとしている。 徳島、高知・・等の県名は明治期以降に付けられたものであるが、それ以前の奈良朝の頃まで遡っても、やはり四つの旧地域名で示されていた。(戦国期の一時期、長宗我部氏によって統一されたこともあった)

四国で、イの1番に思い起こす事は、やはり四国・霊場のことであろう。 
今から1200年も前に、弘法大師が人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場である。
大師は、奈良後期の774年に地元、讃岐国多度郡屏風ケ浦(現75番・善通寺誕生院)に生まれている。 幼少のころより高い教育を受け、歴史や文学などを勉強し、基礎的な力をつけた。 ある時、出家し名を無空と改めて山岳修行者に身を投じ、石鎚山等で厳しい修業を重ねた。 20歳の時、和泉国槙尾山寺(西国四番札所)で得度出家し、名を「空海」と改めている。 延暦23年(804年)、空海30才のとき、時の政府より最澄(さいちょう・延暦寺開祖)らととに遣唐使として中国(唐)へ派遣され、2年間、唐の西明寺で修行している。 42歳で自身の宗教的な体験を一層深めるため、天皇の許可を得て「高野山」に堂宇を建立した。 その高野山の金剛峰寺において、空海は62歳で入定(聖者の死去)している。 延喜21年(921年)、醍醐天皇より「弘法大師」号を贈られた。 大師の教えは、現世に理想の社会を築き、人全てがそのまま仏となって幸わせが得られるという極めて現実的なものであった。

ところで、四国八十八ヵ所は、弘仁6年(815年)弘法大師42歳のときに開創され、後に大師の高弟が大師の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりとも云われる。
八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、「米」の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三、子供十三の厄年を合わせたともいわれている。
八十八の寺院めぐりは、不治の病や難病が霊場を巡礼するうちに全快したという話もあり、遍路道をたどる中で大師の「お陰」をいただき、心身の毒素が浄化されていくと言われる。 いわば巡礼地・四国は大自然の病院であるともいう。
四国の観音霊場の巡拝は、巡礼と言わず一般に「遍路」と言うらしい、「辺路」に通じている。 お遍路さんが着用する白い衣は死に装束といわれ、手にする金剛杖には五輪の梵字が刻まれ墓標そのものであるとするし、菅笠は、弘法大師と共に行くという意味で「同行二人」と記入する慣わしがあるという。 
遍路は、昔は辺鄙(へんぴ)の地を巡る道、即ち「辺路」で、死を覚悟した厳しい「修行」だった。 お遍路さんは何日も、何十日も懸けて弘法大師のご利益を戴くのである。


さて神代の国・「九州」である・・、
紀元前後300年、つまり約600年間は「弥生時代」といわれ、日本列島に日本という国の基礎ともいうべきいろいろなことが起きた時代であった。
縄文時代の末期には、大陸から九州北部に水田を利用した稲作技術や鉄の製造方法が伝わり、生活様式に急激な変化が現れてきた。 併せて、大陸及び朝鮮半島南部から九州北部への、渡来人の流入が相次いで起こり、北部九州に住む在来の人々と渡来人との間の混血が急速に進んだともされる。
現代の我々日本人は、この倭人といわれる人達の末裔であるといって良いであろう。
この新しいタイプの人達が、弥生時代の主役となり、弥生時代文化を花開かせ、「倭人」 といわれる日本人の祖となり、倭国(邪馬台国)といわれる国を形作った。 邪馬台国の北九州説(伊都の国、現在の福岡県前原市を中心とした地域・・?)である。

「古事記」や「日本書紀」では、高天原から九州に降臨した神々を主題にした物語であるが、高天原とは朝鮮半島(或いは大陸のどこか)を意味し、天孫族とは、朝鮮半島からの渡来人として無理なく解釈できる。 この物語は、この天孫族の神(天津神)が国津神(原住民の神)を征服していく物語である。 
そして、「天孫降臨」の物語は、九州南部の地より始まる。
天孫降臨したのは宮崎・高千穂の地(別な見方もある)であり、これ等の神々は天照大神
の子又は孫とされる瓊瓊杵尊 (ニニギ)の一行であった。 ニニギは、その子である火火出見尊 (ホホデミ・山幸彦)を生み、そのまた子である鵜草葦不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)を生むことになる。 この三神は、九州南部の地に各々の山稜(天皇の墓陵)及び神宮に、「神代三代天皇」(歴史上の天皇の祖)として祀られている。 更に、鵜草葦不合尊の子が歴代天皇の初代天皇とされる「神武天皇」であった。 
その神武天皇は九州から東征のため近畿に遠征し、そして橿原の地に「天皇」として初めて即位することになる。 この即位した年を紀元元年(紀元前660年)とし、即位日の2月11日を紀元節(現在の建国記念日)としたのである。
九州各地には、これら古代神話に登場する天孫降臨(天津神、天孫族、大和族)の神々の伝承が数多く伝わり、各社殿に祭られているのである。


最後に「日本海圏・北陸」について・・、
日本海に面する日本国土は、大陸とは一衣帯水(一筋の帯のように、細く長い川や海峡)の地域で、昔で言う筑紫、出雲、越の国、陸奥、蝦夷であり、何れも大陸と深い結びつきがあった。 縄文期の頃から流通はあったが、特に弥生期、有史期になると大陸文明が一期になだれ込むことになる。 それによって日本の古来の倭人(和人)が駆逐され、静かなる渡来人たちと融合した大和民族が出来上がったと言ってもいい。 ただ逆に古来、日本の文化文明が大陸へ持ち込まれた例は余り聞かない。 
因みに、一衣帯水の日本が大陸によって侵攻侵略され、植民地化され、征服され、果ては日本国土、国民が、有史以来滅亡するという国家存亡の危機が三度あったとされる。 一つに、飛鳥期の7世紀(663年)に起こった「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)で朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いにおいて日本は完膚なまでに敗れ、その後、唐・新羅軍の大軍が日本に押し寄せるという懸念があった。(これは心配に終わったが・・、実際に、九州各地や中国、近畿には防御城が20箇所も造られている)二つ目は、ご存知鎌倉期の「元寇」である。そして、三つ目が幕末から先の大戦時であった。 しかし、この三回に渡る日本本土侵攻は不発に終わり、幸なことに古代から現在に至るまで、そっくりそのまま現存しているのである。(現在、周辺諸島で不当占拠や干渉はあるが・・!)

日本海に面する地域、特に九州から越後にかけては「日本海沿岸文化圏」とも言われたが、
この文化圏と中央圏(大和、京)の交差点に当るのが「北陸」であった。 この北陸(主に若狭地方)と京を結ぶ「鯖街道」(小浜)なるものがあったが、更に面白いのが大和と結んでいたことであった。 それは小浜・若狭神宮寺における「お水送り」と、奈良・東大寺の「お水取り」の古式神事が、地下水脈で連結されていたのである。


そして「世界遺産」であるが・・、
西日本を巡っているうち、世界遺産の箇所に数箇所めぐり合う機会があった・・、
詳しいことは本文にお願いするとして、面白いのは、先ず我等夫婦が北海道旅行をし、「知床」を巡観した直後にその知床が世界遺産に指定された。 又、やはり夫婦で南紀地方(熊野一帯)を旅行した直後に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に認定されたのである。 思えば、世界遺産の奈良、京都の寺社群も全てではないが、そうであった。 そして、今度は小生が日本一周で周遊した後の直後、2007年(平成19年)7月1日に「石見銀山遺跡」が世界遺産に認定されている。


「旅のまとめ」について・・、
旅の要素には、三つの段階が有ると小生は思っている、 事前、事中、事後の三要素である。
何処へ、何時、何の為に、どの様に・・、「事前」つまり思い立った時点、計画、下調べが始まった時から既に旅は始まっているのである。 そして「事中」、実行段階で体感し、感性が刺激され、記憶に留まるのである。 「事後」は、記録、整理をしながら、それらの背景を再度調べてみて再確認する。 これらの事を能動的に行うことによって、旅は一層楽しく、記憶に残るものになると思われ、更に、最近は、ネットやホームページで公開することも出来る。
この度の外周旅行において、ただ通過しただけの村や町、地域が多数あったのだが、これらの「ところ」がどの様な特性や特色を有しているのか、歴史的建造物、史跡や寺社、これらの歴史や背景は何なのか、等々が気になるのである。 
これらの「事後調べ」を行うのに、書籍本は無論であるが、インターネットという便利で重宝な手段も有り、ネット情報等を多いに参考に活用させて戴いた。 その為の「整理の時間」に、旅の道中の時間の数倍にも増して期間を費やすことになってしまったのである。

本文中、出来るだけ自分なりに調査し、考察し、編集し、掲載したが、文中、引用していただいた中には、個別の保護や権利等の問題も含まれるかもしれません。 これらの当事者、関係者に、もしも御迷惑をお掛けしたなら、改めて御礼と御詫びを申し上げる次第であります。


   『渇いた心に、オアシスと清風を求めて、明日も旅たつ・・・』 orimasa・「風」

『終』


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日本周遊紀行・西日本編 【あとがき】(2)の続き

話が脱線して「出雲」の方へ行ってしまったが、「近畿圏」のことであった・・、
「近畿」(畿内とも云う)は古代から永年、日本の中枢であった。
ヤマト王権以前の邪馬台国(倭国)の所在地について、九州説と畿内説がある。 九州説は九州北部、卑弥呼(ひみこ)女王が住んでいたとする旧伊都国か、又は佐賀・吉野(弥生期の吉野ケ里遺跡)ともいう説がある。 対峙して「畿内説」にたてば、即ち大和王権がこの時期、既に成立していたとの見方である。 一般には「九州で成立して、瀬戸内海を東征しながら畿内に、さらに紀州熊野から北上して奈良盆地に至って国を統一した」とする邪馬台国東征説もある。 これは概ね、神武天皇東征神話マッチする。 何れにしても、旧来の大和王権が存在していたとしても、その後、大和へ入った新勢力によって新規ヤマト王権が成立したことは史実に近い。 所在地とされているのは主に大和の奈良盆地周辺である。 
「近畿」は昔は畿内とも云われ、難波宮や藤原京や平城京や平安京などの首都、もしくは過去の首都の所在地で、現代っぽい用語に直せば首都圏であり、日本の中枢であった。 
古代日本の地方区分は「五畿七道」(五畿は山城国、摂津国、河内国、和泉国、大和国)とも称して、現在の近畿地方中心部の5箇国と、それ以外の地方を七つに分けた七道(北海道を含めると八道)のことで、これは奇しくも現在、物議を醸している道州制でもあった。

さて、近畿・紀州といえば「熊野三山」であろう・・、
熊野の地名が初めて登場する文献は「日本書紀」である。 伊邪那美命(イザナミノミコト)の葬られた土地として登場し、併せて少彦名命(スクナヒコナノミコト)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)も登場する、いずれも日本神話に登場する「国造り」の神々である。
だが元々の熊野三神は、熊野の深山霊地を祖とする祖神、・自然神を崇めたものであった。 自然神は、本宮大社は元の社地・大斎原(おおゆのはら:熊野川の畔)の原生照葉樹林帯と熊野川、那智大社は那智の大滝、そして速玉大社は神倉山の岩山が御神体とされていた。 その熊野は平安期「仏教」が入り込んで、神仏習合・本地垂迹の大代表的地域になってしまったのである。

飛鳥、奈良期になって新しい文化「仏教」が渡来し(538年)た。 はじめ神殿の脇に小さな仏舎が建てられるが、その内、神殿の中に居候、間借していたものが次第に勢力が増してきたのである。 この時期から神と仏が対等になり、やがて、境内に堂々と神宮寺や別当寺が建てられ仏が神を凌駕するようになる。 つまり、小さな仏舎にいた居候の仏が神殿を乗っ取り、入れ替わってしまったのである。 神事を行うのにも、神殿の中で仏式の作法による坊さんがお経を詠むようになったのである。 
しかも、後に彼等は教団といった組織をつくり、門徒、宗徒らは袈裟を着て、首には数珠を下げながら、腰には刀を差し、手に槍を持って武力集団にまで成り上がり、武士達へ挑んでいったのである。(代表が比叡山・延暦寺)
「熊野三山」となったのは、これら神仏習合以降のことであり、「三山」という仏教的な呼び方から、仏教が大きな影響を与えたことが判るのであった。 「山・さん」というのは寺院に添える語の山号のことであり、特に、比叡山延暦寺など「開山、本山、山門」といった意味のことである。
本体(仏像)である仏や菩薩を「本地」といい、仮に神(神意)となって現われることを「垂迹」とい、また、仮に現れた神のことを権現(ごんげん)と称した・・、「本地垂迹」である。
 
これ以来大和地方の人々は、熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、後に浄土信仰が盛んになったときに、熊野は、やはり死者の国であるとして「浄土」と結びつけられた。 神仏習合や浄土信仰の隆盛により、本宮社は阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮社は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、那智社は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられようになり、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。 そして、「蟻の行列」とも喩えられた熊野詣が盛んになるのである。
以降盛衰1000年余を経て明治以降の神仏分離政策により、熊野三山の他の二つである本宮大社、速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂のみが破却を免れ、後に信者の手によって「青岸渡寺」として復興しているのである。 現在、熊野那智大社と青岸渡寺が隣接して建っていて、熊野三山中、今も神仏習合時代の名残りを留めている。

神仏習合文化に観られる日本人の寛大さ、寛容さ、即ち、融合性を表した特徴的文化は、此れは世界でも類例が無いとされる。 欧州では、他宗教同士が融合することなどは考えられず、忽ち戦争(宗教戦争)を引き起こしてきた。
日本人の“なあなあ”、“まあまあ”精神、つまり「物事をはっきり言わない」、「自主性がない」とも云われるが、むしろ曖昧だからこそ、その「曖昧力」が日本が世界有数の安全で豊かな国になれたともいう知識層もいる。
近畿地方の南端・・、
紀州沿岸が日本の調味料である味噌、醤油の発祥地であり、柑橘の梅、みかんの栽培でも知られる。 これが黒潮に乗って関東や房総へ達したこと(紀州と房総に共通する地域名称)等、歴史の流れの面白さを味わえた。

次回は、四国から


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