『日本周遊紀行』

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北海道・東沿岸

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根室半島北部、ノッカマップの「北方原生花園」




日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」


アイヌの反乱・・、

納沙布からの帰路は同じく道道35(根室半島線)の半島北側 (根室湾側)を戻る。
南側(太平洋側)が集落や港が多く点在して人々の生活が華やいでいるのに対して、こちらは路傍から覗う限り、温根元の小集落を過ぎてからは町並みはあまり見受けられない。 ただし、現在ではである・・??。


海岸は海食断崖が続いているようで、そして内陸は波打つ丘陵の原野が広がり中でも「北方原生花園」は広大で見事である・・!!。 
今は静寂の世界だが花の時期は多色多彩の賑わいを見せるであろう。 実は、別名この半島のことを花咲半島や花咲地区と称しているのは、この原生花園が由来なのかもしれない。 
そして、一時代以前はこの根室北部地区には人的痕跡が多くあったという。 


温根元の先に「トーサムポロ」という湖沼があり、これは当地の地名でも有るが、この地にオホーツク文化後期(3世紀から13世紀まで、オホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化)の頃の竪穴住居遺跡が多く発見されているところだという。

一般に海に近く、大きな湖沼や河川が存在する地域には自然環境や食域環境が整い、人が住みやすい状態になっている。 従ってこのような地形に人が住んだ痕跡や遺跡が存在する傾向はある。
例えば先刻訪れたオホーツク海域のサロマ湖や常呂町、網走周辺の地域に代表的な遺跡が存在している。 トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡や温根元遺跡などが立地しているのは不思議ではない。


続いて「ノッカマップ」という地域に来た。 
トーサムポロといいノッカマップといい異国の名称みたいであるが、これが蝦夷・北海道なのである。 ノッカマップというのはアイヌ語地名で「岬の上にある所」という意味らしく、現に、ノッカマップ岬という地が存在している。
ここも克っては多くの歴史の舞台であったといい、そして、この地は「根室発祥の地」だともいわれる。



「クナシリ・メシナの戦い」

「ノッカマップ」は嘗てはオホーツク界隈、北方地域の通商の中心地で、幕藩時代には大きな集落があり松前藩の役人が運上所(幕末、輸出入貨物の監督や関税の徴収などの事務に従った開港場の役所、今日の税関に当る)を設けていたという。 また、ノッカマップは民間の日露交渉等の発祥の地でもあるという。

そしてこの時期、蝦夷地最大と言われるアイヌ人の争乱があり、この罪でアイヌの民37人がノッカマップの地で処刑されたという出来事もあったらしい。 
処刑方法はこれまた残虐で、斬首された上、胴体は埋められ、首は藩へ持っていくために塩漬されたという。 
アイヌ人はこの血塗られた地を忌み嫌い、運上所と共に集落を今現在の「根室」に移したとされている。

現在のノッカマップは、こんな歴史は無かったかのようにひっそりとしている。



1912(大正元年)年5月、納沙布岬に近い「ごようまい」(珸瑤瑁と書くが難解である。根室市珸瑤瑁地区)という浜で、 砂に埋まっている石柱が発見された。 掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていたという。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられているが、この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、(文化九年は西暦の1812年)裏面には「寛政元年五月、この地において非常に悪いアイヌが集まり、突然に侍や漁民を殺した。 殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にもある。ここに供養し石を建てる」、と現代語に訳すと以上のような事が書かれてあったという。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということになり、果たして事実は真実の歴史はどうであったのか・・?。 


江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれていたが、蝦夷地は松前藩の植民地のように支配されていた。
当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができない。 そのため松前は蝦夷地の交易による利益で藩が成立していた。 
当時の交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは魚(サケ、ニシン、ホッケ、タラ)・鳥獣の獲物や毛皮、ワシの尾羽(矢の羽に使う)などであった。 
最初は、松前藩の重臣や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになり、その商人の代表的人物は飛騨国・増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)という人物であった 。
飛騨屋は松前藩に多額の金を貸していたが、藩はこの借金を返す代わりに根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたという。
しかし、根室や国後(クナシリ)地方には強力なアイヌの勢力があって、当初、飛騨屋の交易は順調には進まなかったらしく、次第に松前藩をたてに強引な取引を始めるようになった。

1789年(寛政元)5月、和人たちによって厳しい生活を強いられ、飛騨屋の商取引の横暴さに不満と怒りを持ったクナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽をはじめ飛騨屋の現地支配人などを次々に殺害した。 
さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた 飛騨屋の交易船を襲い、標津付近のアイヌも加わり海岸沿いにいた支配人、番人らを次々殺害し、メナシ地方(標津・羅臼付近)では49人を殺したとする。
結局クナシリ・メナシ地方合わせたアイヌが蜂起し71人の和人を殺したという。 このあたりにいた和人で生き残 ったものは数人いたが、殆ど全てが殺されたという。


この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧部隊260人をノッカマップに派遣し、取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力、脅迫、性的暴力、だまし、ツグナイ要求)の実態が明らかになった。 
これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせ、またアイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものも出る状態であったという。 
アイヌたちは次第 に「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らは「アイヌは和人に根絶やしにされるかもしれない(皆殺し)」という噂や脅しも加わって、遂に蜂起に到ったのであった。


この蜂起の事実が松前城下に伝わり、藩はすぐに鎮圧部隊が組織され近代兵器を準備して、根室のノッカマップに向けて出発し、たちまちアイヌの反乱兵を鎮圧した。 
この蜂起は、組織だった蜂起というよりは一揆のようなもので、松前の正規軍とは一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めたともいう。

その後、蜂起に関係したアイヌ人たちをノッカマップに集めさせ、やがてメナシとクナシリ合わせて300の人のアイヌがノッカマップに到着し取り調べが始まった。そして、その日の内に37人に対して重罪であるという理由で死罪が決定した。

この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが松前藩からは何の咎めもなく、結局、幕府は特にこの戦いに後新しい政策を打ち出すこともなく、この蝦夷地の出来事を黙認したのであった。 
しかし、その後、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対して、再度強い関心を示すようになり、幕府の目が次第に北に向くきっかけにもなった。


この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、更に本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなった。 アイヌ自身による独自の政治力、経済力が育つ可能性も非常に少なくなり、弱体化の道を辿ることになる。 
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力はつみ取られ、和人とは従属関係の支配下で働かされるということが日常的になっていった。

北海道の名付け親でもある松浦武四郎によると、アイヌへの支配は苛烈で、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに使わされ、そこで漁師達の性奴隷になったといい。 また、人妻は会所で番人達の妾にされたともされる。 男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうで、その結果、寛政年間には2000余であったアイヌ人口が、数十年後の幕末には半減していたという。 

このことはアイヌ人、アイヌ文化が衰亡してゆく過程の歴史の一コマでもあった。
この「戦い」は北海道にとっても日本に とっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても大変重要な出来事であり、そして根室市にとっても忘れてはならない悲惨な歴史の一コマであったとする。

近年、毎年秋になると当地・ノッカマップでアイヌの人たちが中心になって、「クナシリ・メナシの戦い」の犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )となった人々のの慰霊祭が行われていると言う。(アイヌ語で「イチャルパ」という意味)


因みに江戸期以降、和人の蝦夷地への渡来が増えるにつれてアイヌの人たちの生活が圧迫され、交易上の摩擦なども重なって各地で両者の間に争いが起きている。 
その内のアイヌと和人の三大戦いが「コシャマインの戦い」(15世紀中頃に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。 松前藩が出来るきっかけになったといわれる)、「シャクシャインの戦い」(1669年に日高・静内のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である)、それに「クナシリ・メシナの戦い」と言われる。


次回、霧多布湿原 

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日本の本土最東端・「納沙布岬」(諸島を除く)



【北海道・太平洋道】 根室⇒⇒⇒⇒函館



日本周遊紀行(64)根室 「納沙布岬・北方領土」


歯舞の集落を抜けると、周囲の景色はただっ広い草原の海岸に変わる。
そして間もなく「納沙布岬」へ着いた。 

先般、カミさんと訪れた時は風雨が激しく、車から一歩も出れない状態で早々に退散し、ホゾを咬む(臍を噬カむ:悔いること。後悔しても及ばないこと)想いであった。 たが、本日は薄曇りのマズマズの天候に恵まれていたのは幸いであり、北方の島もボンヤリながら見通せる事が出来た。 

納沙布岬は北緯43度22分、東経145度49分に位置する「本土最東端の地」で、日本で一番早い日の出が見ることができるため、(実際は緯度が高いため日本一早いわけではない。 千葉銚子の犬吠埼である)正月元日の早朝はお目当ての人々で相当な混雑が有るとか。 

岬の先端には道内最古の灯台が立ち、周辺は北方領土への思いを込めて造られた看板や石碑等が多く目につく。 
また、岬の手前には「望郷の岬公園」というのが在って、「望郷の家・北方館」などの施設のほかモニュメントなどもある。


前の稚内の項でも記したが、「ノシャップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味らしい。 地図を見ると、下顎に根室半島(納沙布)、上顎に知床半島で根室海峡が大きく口を開き、千島・北方諸島を今にも噛み付き、飲み込もうとしているようである。 
「北方領土は俺のもんだ・・!!」 と言いた気(げ)である。


北方領土の事は先にも記したが、海のすぐ向こうには現在ロシア連邦の実効支配が続いている「歯舞諸島」が望まれる。 歯舞諸島、貝殻島まではわずか3.7kmしか離れておらず、ロシアの巡視艇が海上に頻繁に姿を現すという。 

またこの辺りの海域は、日本海域とロシア海域が共に200海里(※)を取る事が出来ない海域の為、岬から歯舞諸島との間に日・露中間線(事実上の国境線)としてのブイがあるらしい。しかし、日本の漁船は生活のためしばしばこの境界を偶然または故意に越えてしまい、無許可で操業する結果となっていて、ロシア側に拿捕される事件が度々起こっているのも事実である。


(※)200海里とは、排他的経済水域(EEZ, exclusive economic zone)のことで、国連海洋法条約に基づいて設定される経済的な主権がおよぶ水域のことを指す。沿岸国は国連海洋法条約に基づいた国内法を制定することで自国の沿岸から200海里(約370km、1海里=1852m)の範囲内の水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利を得られる代わり、資源の管理や海洋汚染防止の義務を負うことになる。



北方領土」の返還を祈念するために作られた高さ13m、底辺の長さ35mのシンボル像がある。 その像の下には「祈りの火」と呼ばれる点火灯台があるという。 
沖縄県波照間島(八重山諸島にある日本最南端の有人島、人口は600人弱)から採火したもので、全国の青年団によるキャラバン隊の手により運ばれたものという。

1972年5月に、沖縄がアメリカ占領下から日本復帰へとげた。
日本の最南端に位置する島の波照間で、返還運動が全国に広がる象徴的意味合いを込め、又、その願いをこめて採火したものという。 
その時のカンテラが種火とともに北方館に展示されている。 
当初は、「全国民の北方領土返還に寄せる固い決意を返還実現の日まで燃やし続けよう」という事で24時間点灯されていたが、現在は燃料(ガス)経費の節約のため、北方館の開館時間(9:00〜17:00)のみ火が灯されているという。


終戦直後、旧ソ連が不法に占拠した北方領土は、60年以上過ぎた今も日本に返還されていない。
日露間の交渉は今現在暗礁に乗り上げていて、この先いっこうに光がさしてこないのが現状である。
稚内の項でも記したが、ソ連軍は昭和20年9月5日頃までに北方領土を占領した。 無論、終戦宣言の以降のことである。 
同年8月15日時点(終戦日)での北方領土の日本人島民は3120世帯、17300人を数え、7割以上が昭和元年以前から島に住むに人々であったという。 
39校あった国民学校(小学校)などへ子供が通い、千島列島の北端の島には水産会社の社員2500人がいた。 
ソ連軍が四島に侵攻した時、住んでいた一部の島民は着のみ着のまま北海道へ脱出したが、島に残った他の人々はシベリヤや樺太に抑留され強制労働をさせられた。 
其の後、一部は昭和24年頃までに日本へ強制退去させられたという。

北方領土は我が国固有の領土であるが、現在はロシアの不法占拠の下にあるため現状は判らない部分もあるが、北方四島の規模、大きさは択捉島は3,139平方キロで鳥取県とほぼ同じ、国後島は1,500平方キロで沖縄本島とほぼ同じ、 色丹島は255平方キロで隠岐の島本島とほぼ同じ、 歯舞群島、つまり水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島、貝殻島等で構成されていて総面積は101.平方キロと小笠原諸島とほぼ同じである。 
北方四島の総面積5000平方キロで福岡県より広く、沖縄県の2倍以上あるという。

地理的には、平均気温は8月で16度と涼しく北岸はオホーツク海、南岸の太平洋は千島海流(親潮)と黒潮の交流店で世界の三大漁場の一つともいわれ、サケ、マス、タラ、カニの宝庫ともいう。



【追記】

2006年8月16日、水晶島付近の海域で操業中の、根室市花咲港所属のカニかご漁船がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した。 日本政府はロシア当局に対し、北方領土は日本固有の領土であるとの前提に立って「日本領海内で起こった銃撃・拿捕事件であり、到底容認できない」と抗議した。 しかし、この海域はロシア側の実効支配海域であるため、ロシア側にとっては国境侵犯密漁事件としており、日本側の「この海域は日本領海」とする抗議とは根本的な点で相容れないために今回の問題をさらに複雑にしている。 紛争自体は致し方ないとして、ロシア側に少なくと「未必の故意」(みひつのこい:実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態)としての殺意はあったと考えられ、重大事件にしては日本政府の反応がいかにも鈍い。

因みに、アメリカの漁船が同じようにロシアに拿捕、銃撃され殺されていたらどうなっているか。 アメリカ政府の対応は日本政府とはまったく違っていただろう。 その相手との力関係が如実に現れるのが外交力、国力であり、戦力という背景なのかも知れない。
いずれにしても、アメリカに日本の国自体を守ってもらおうという受身の意識が、独立国としての自立心、自尊心を弱め、アメリカの傘を借りなければ力のある外国に対抗できないという状況になっている。

今後の日本政府のロシアに対する迅速かつ的確な対応を期待したいのと同時に、周辺の怪しげな国々を見聞きするにつけ「日本人、日本国はどうあるべきか・・!」を真剣に考え、再構築しなければならない時期が到来しているようにも思われてならないのである。


次回は、根室のアイヌ民族




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日本周遊紀行(63)根室 「珍客と歯舞」


根室に「歯舞」・・?、

根室市街に入った。 
言わずと知れた根室は「北方領土」の街である。

先にも記したが北方領土とは、北方四島のことで択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)のことである。 
地理上では半島先端の納沙布岬から歯舞諸島の一島「貝殻島」まで僅か4kmたらず、「水晶島」まで10km少々でいずれも指呼の間である。

根室市役所の部署に対策協議会や対策本部が置かれ、返還運動の様々な活動を行っていることは周知であるが、根室を訪れ、北方領土を視察する役人、政府要人、担当大臣等のお歴々を接待し、案内し、時には公演や懇談をしてもらうらしい。 

昨今発足した省庁の内、その環境省の中に「北方担当」というセクションが有り環境大臣が兼ねているようだが、北方領土返還問題が環境省の一部というのは些か解せなくもない、北方領土を環境保護の対象の島にでもしようというのか・・?、
本来取り扱うべき省庁は外務省ではないのか・・??。(尚、最近、中央省庁再編に伴う内閣府設置法の施行により「特命担当大臣」というのが法制化され、職位化されて国務大臣をもって充てられている。北方領土関係では「沖縄及び北方対策担当」いう名称になっている。)

現職の小泉総理は9月(平成16年)に巡視船にて北方領土海域を視察している、歴代総理で海上視察は初めてだとか。 しかし、一向に進展していないのである、中央政府としては、もっと強く捉えるべきと思うのだが。

産経新聞の「正論」欄(平成16年秋−伊藤憲一氏)によると、「政府は歴史を踏まえた対露大戦略を・・、」と題して、『日本の千島と樺太の一部放棄を定めたサンフランシスコ平和条約第二条C項は、ソ連(旧ソ連・現ロシア)の署名拒否によって死文化しており、日露間において択捉、国後、色丹、歯舞だけでなく千島、南樺太についても、領土問題は解決していない。 日本はこの立場を盾にロシアに国境線の画定を迫るべきだ・・、』と、述べている。 
大賛成である!!、 強行で来るものは、強圧で跳ね返すべし、これが外交の基本ではないか。

突飛な私事ながら・・、
北方領土返還と悪の枢軸といわれる北朝鮮の大量誘拐事件(金体制下での拉致事件=金正日政権崩壊)の解決と、どちらが先に解決するか、尚且つ小生の寿命(現66歳)と合わせて三者何れが速いかを見守っている次第である。



昭和初期の近年、根室にチョットした素敵な出来事が有った。

昭和6年8月、快晴の朝の根室港にリンドバーグ夫妻の乗った飛行機・シリウス号が着水したという。リンドバーグ(アメリカ人)は1926(昭和元年)年、ニューヨークとパリ間の大西洋横断無着陸飛行を33時間29分かかって成功したことで世界的に有名になった人物である。 このときの様子は「翼よあれがパリの灯だ」という映画にもななった。

1931年航空路調査のため、新婚間もないアン夫人と日本を訪れる際、千島を飛んでまず根室へきたのである。 リンドバーグ夫妻が泊まったのは二美喜旅館ということで、外国夫妻を人目見ようと押しかけた人々は当時の絵葉書にもなったという。 根室へは、落石無線局(根室の南側の港)と交信しながら到着したといい、リンドバーグ夫妻の大歓迎式は花咲小学校を会場にして盛大に行われたという。その後、落石無線局をも訪問している。

二美喜旅館に泊ったアン夫人は、根室の朝の様子を次のように記しているのが面白い・・。『旅館で印象的だったのは、朝、多くの人の行き交う下駄の音で目がさめたことでした。 小石を敷きつめた道を、みんな木の下駄をカラカラ引きずって行きます。それは手をたたくような、なんともいえない音楽的な音がするのです、』

その2日後、リンドバーグ夫妻は茨城県の霞ケ浦をめざして飛び立ち、そして東京、大阪、福岡をへて中国へ出向いている。
後年、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The Spirit of St. Louis」(スピリット・セントルイス)を出版し、これにより1954年のピュリッツァー賞を受し、晩年は、妻アンと共にハワイのマウイ島に住んだという。 
リンドバーグはこの時以降、自然環境(環境保護、保全)に力を注ぐようになり、多額の資金を寄付しながらマウイ島にて死去している、享年72であったとか。



国道44から道道35(根室半島線)を経て納沙布岬へ向かう。

はじめ北側から行こうと思ったが勘違いで南周りになってしまったようで、こちら側は太平洋岸である。 
こちらの沿岸には幾つかの漁港が点在する。 
落石、花咲、友知、歯舞漁港等、御存知「花咲カニ」はこの港の名を付けたものらしい。

「花咲ガニ」は北海道の東部にだけ生息する珍しい蟹で、現在は根室でしか水揚げされることのない貴重な蟹である。 しかも年々、入荷量が少なくなっていると。 
花咲ガニの特徴は、ゴツゴツした外観とは異なり、身は柔らかく、独特の甘さを多く含んだ濃厚な風味で、カニ仲間ではNo1と言わしめている・・?、また、出汁が多く甲羅はダシをとって雑炊などにする。

花咲港はまた海上保安庁の基地になっていて、北方領土の視察はこの港より発っしている。 ロシア船が入港する港でもある。



根室市域であるこちらの沿岸に歯舞地区がある。  

因みに、北方領土に歯舞諸島があるが、島の名称で「歯舞島」というのは無い。
歯舞諸島はここの歯舞村の一部地域であり、村の地名から付けられた「名」だという。 
歯舞と名前の付いた看板の前で写真を撮って、首都圏の人に「北方四島の歯舞諸島へ行って来た」と写真を見せ、戯れ事を言ったら面白かろうな、などと思ったが。 

歯舞海域は、わが国有数の昆布の産地どという。
大洋の恵みが肉厚の昆布を育み、身にぎっしりと詰まった味わいは数ある昆布のなかでも特に上質品とされているとか。 「昆布」といってもその種類は様々で、利尻や日高など特定の地方で採取されるものも有名であるが、歯舞で水揚げされる昆布は主に、「なが昆布」、「あつば昆布」、「猫足昆布」などと呼ばれるもので、豊潤な太平洋と厳寒な風土、さらに独自の潮流の影響から発育が非常によく、ビタミン・ミネラル・ヨードをたっぷり含んだ奥深い味わいが特徴となっているという。 

蛇足ながら、この辺りの昆布は旨味成分である「マンニット」(表面に付着する白い粉)と言われる成分が豊富で、干し上がった製品を一目見ただけでその質の高さが判るという。 
厚岸から根室半島に至るまで太平洋の「うねり」が大きく、そのうねりも歯舞漁港付近から納沙布岬にかけて比較的小さくなると言われる。 
海草が密集しているのはこのあたりが理由らしい。


次回は、 根室「納沙布岬」(尚、「風連湖、春国岱」については後の「観光・温泉」の項で述べます)



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北方四島は俺達のもんだ・早く還せ・・!!,と「叫びの像」





日本周遊紀行(62)別海 「根釧原野」


野付半島から再び国道244へ戻ると間もなく別海町に入った。 

この海道は野付国道、別名「北方ロード」ともいう。 何も北国にあるから北方ではなく北方領土の「北方」なのである。
成る程、国道の傍らから時折、彼方に大きく横たわっている国後島が傍観できる。 

暫く行くと国道の傍らに「別海北方展望塔」があつた。 広々とした駐車場が有って、そこに北方領土返還要求運動の高揚を期するために建てたのであろう、『四島への道・』がある。





『北方四島は俺達のもんだ・・!!早く還せ・・!!』 と叫んでいるようである。

この像は山形在住の実業家・鈴木博六氏が北方領土返還要求運動に情熱を込めて像を建立、町へ寄贈したものであるという。  
博六氏は、あの・・”デンデンデン、デン六豆、うまい豆・・”のコマーシャル・ソングでお馴染みの製菓会社で知られる、「でん六豆」の創始者であった。

無論、展望塔からは野付半島やオホーツク海に浮かぶ北方領土・国後島が一望でる。



更にR244の海岸線を南下する。

先程まで微かに遠望できた知床連山から派生している山並みは、すっかり姿を消し右手内陸方向は大平原地帯になっていた。 
平原といっても「マッサラ」ばかりでなく、起伏のある丘陵地、森林帯、草原帯と変化に富んでいる。 
この大平原地帯を「根釧原野」(こんせんげんや)と呼んでいるようである。 
この原野はいかにも北海道らしいというか道内でもでも最大級の広大さで、そのエリアは釧路より東部地域、阿寒から知床へ連なる高原、山岳地帯より南部地域一帯を指しているという。



因みに、この「根釧原野」(こんせんげんや)を地理上で観てみると・・、

釧路湿原を含むその東側である阿寒から知床へ至る山々より南側の平地、丘陵地帯を指し、その「原野」を景観で見ると海岸から内陸へ向かって大きく「海岸草原」、「森と湿原」そして「牧草地」との三つの各層に分けられるという。 

尤も、「根釧原野」と呼ぶとき使われる「原野」について北海道では、未開拓地や開拓まもない土地を明治時代以降に「原野」と呼んで来ている場合が多い。
特に釧路地方,根室地方の「原野」については人の手が入った二次林や森林伐採後でできた草原の部分と原始林、湿原や湖沼等の未開地の部分の両面をも指さしているようである。
つまり、原野といっても完全な原野ではなく、既に人の手が入った状態のものも「原野」と呼んでいるようである。


ここで「根釧原野」における各様相を地域的にみると・・、

先ず『海岸草原』とは花咲半島から落石岬(根室市)、恵茶人からホロト(浜中町)、湯沸岬(浜中町)、涙岬(浜中町)、尻羽岬(釧路町)などに見られる景観で、主に北太平洋シーサイドラインと呼ばれている道道の周辺にて良く見られる。

『森』とは、東から根室の温根沼西部に拡がる温根沼国有林、霧多布湿原西部から火散布沼、藻散布沼、厚岸湖を囲む厚岸道有林、別寒辺牛川中流にあるパイロット・フォレスト(パイロットファーム:実験農場、と同じ意味合いで、昭和31年頃から国策で進められた大規模造林地のことで場所は厚岸町の奥 標茶町との境あたりを指す)、上尾幌周辺に拡がる尾幌国有林などが森林景観として見て取れる。

『湿原』とは、湖沼や湾が自然に埋め立てられた湿原と河川流域湿原がある。 
湾・海岸に面している風連湖、温根沼、火散布沼、厚岸湖などの周辺にある湿原や霧多布湿原は前者であるが、河川の中上流域に広がる流域湿原は広大で釧路湿原、厚岸湖に注ぐ別寒辺牛川(べかんべうし)、上流域に拡がる別寒辺牛湿原、風蓮川流域湿原、標津湿原などである。 その河川は釧路川とその支流、別寒辺牛川、風蓮川、ヤウシュベツ川、西別川、床丹川、春別川、標津川などである。

又、『牧草地』としては主に国道44号線の北側で阿寒、知床へ続く山々の麓まで拡がり北海道は無論、日本の代表的な一大牧草地、酪農地帯を形成しているのである。


次回は、根室・「風連湖と春国岱」




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日本周遊紀行(61)標津 「標津と野付半島」


標津、そして野付の意外な歴史・・、

羅臼町域の境を過ぎてしばらく進むと、知床の山麓海岸から、やがて見通しの良い平坦部になり比較的大きな河川も多いようである。 
植別川を渡って「標津」(しべつ)に入る、広々とした平野が益々広がってきた。
ポー川という何とも愛らしい名前の河橋を渡る。
アイヌ語の「ポ」からで小さい・子供のような・・の川の意味らしい。
付近の標津川に比べ小さく、標津川を親に見立てれば子供のような関係に見立てて名付けられたものだと言えなくもない。 


この辺りワタスゲが有名で、国の天然記念物に指定されている「標津湿原」が雄大に広がる。 
一角には「三本木遺跡」などの案内標識もあった。 
やはり続縄文(弥生期)からオホーツク文化の史跡、集落住居跡が多数発見されているという。


湿原の平坦地をユッタリと多くの河川が流れる、その町内を流れる殆どの河川で「サケ」が遡上するという。 
「薫別川」や、特にサーモンパークのある「標津川」はサケの大群が遡上することでも有名で、TVやマスコミでも度々取り上げられる。 
尤も町名になった「シベツ」の語源は、アイヌ語で「サケのいる大川、または本流」を意味するという。その標津は秋サケの水揚げは日本一を誇るといい、今はそのシーズンであろう。

成長したサケは、生まれ育った川を溯り産卵をして一生を終える。 
そのサケを冬のキタキツネやヒグマの餌になり、北海道らしい自然の循環を繰り返しているのである。
また上流部は「オショロコマ」などの珍しい魚が多く生息しているという。 

オショロコマは北海道独特の呼び名でイワナの仲間、主に北海道中部以北および東部の山岳地帯である石狩、知床、日高あたりの高山河川に広く生息分布している魚である。 
然別湖などの封鎖された区域、カルデラ湖なのに棲むのを「陸封型」、他の河川の魚は「降海型」ともいうとか。


この辺りでも最大と思われるその標津川を渡る。 
サケが喜んで這い上がってきそうな悠々たる流れであり、この川を渡ったところが標津の町並みが広がっていた。


嘗ては、この標津の町には国鉄線が走っていたという。 
駅の名前は何故か「根室標津」と称していたらしいが、国鉄・標津線がそれであった。 
経路は釧網本線の標茶駅から分岐して中標津町の中標津駅を経由して、標津町の根室標津駅に至る。 泉川、西春別、計根別、上武佐の各駅であり、又、中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線で、共和、春別、別海などの各駅からなっていた。
1933年(昭和8年)以来の開業であったが、やはり赤字路線らしく国鉄再建法の施行により一時JR北海道に承継されたが、1989年(平成元年)4月に廃止されている。

尚、根室標津駅から知床半島の付け根を横断する今の国道244号線と概ね並行した「根北線」(こんぽくせん)が通る予定だったらしい。 
「根北」とは根室・北見のことであり釧網本線の斜里駅(現・知床斜里駅)から標津線の根室標津駅を結ぶ目的に建設される予定だった。
『根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道』と明治期の鉄道法で定められており、戦争などの影響もあって1957年に斜里駅〜越川駅がようやく開通した。 
その後、国道が開通するに及んで、沿線住民の流出などで乗客数は激減し、その存在意義は薄れ、北海道の路線の中で真っ先に廃止候補に上がり、わずか13年の短い営業期間で露と消えたという、まさに幻の路線だったと言える。
廃線路線は鉄道マニュアが時折訪れては郷愁を感じているらしいが、時と共に風化され、やがては自然に還るのであろう。



ところで、標津の市街地の一角、国道272の交差信号の近くの海岸沿いに「船長の家」という民宿がある。
小生の息子が旭川市在学中の頃、冬季にこの付近で交通事故(自爆)を起こし、たまたま通りかかった宿の主人に助けられ、宿にて介抱されて大変お世話になったところである。 
過る年、カミさんと道東旅行の際、立ち寄って挨拶お礼を申し述べた、が今回は目礼のみで通り過ぎることにする。


標津の町を抜けると間もなくの野付半島への分岐がある、その半島へ向かった。
この半島の雄大な自然については「温泉と観光の項」で述べるとして、驚いた事に、嘗てこの砂地の上には大きな街並みがあったという。
幻の歓楽街でその名を「キラク」という。

半島中央の森には擦文時代と思われる竪穴住居跡が多くあり、このひょろ長い半島に大昔から人跡が有ったことが標されている。 
又、近世江戸期の頃の酒徳利(焼酎)や寛永通宝などが出土し、さらに付近からは嘉永の年号が入った墓石なども見つかっているという。
町史によれば今から200年前の江戸後期・寛政年間の頃においても和人が住みついていたことが記されている。 
その根拠として地盤沈下(ナラワラ、トドワラの原因)をまぬがれている丘稜地帯には墓地や通行番屋跡が残存していて、墓地の規模から推測すれば少なくとも200人以上が埋葬されており、相当数の人口をもった街並みが形成されたようである。


現在、この一帯は荒涼たる草湿原にすぎないが、往時はトドワラ、ナラワラでも知れるとおり樹齢100年ほどの大森林が繁殖していて建物はこれら樹木によって造られ、巨大な通行番屋などが置かれ、大きいので建坪130坪にも及んでいたという。  
幕府によって野付崎に通行番屋が設けられ、北方至近の「国後島」へ渡る為の要所としての位置を占めていたらしい。 
又、18〜19世紀の初め頃までは有数の鰊漁場でもあり、春になると根室場所の各番屋から出稼ぎにくる人々でにぎわい鰊番屋、蔵なども多数建てられていたという。

別海町に「加賀家文書館」なるものがある。 
北海道の父と呼ばれる松浦武四郎との交友も深かったとされ、この地の歴史の表現者・加賀伝蔵の記録が多く残されているという。 
江戸時代末期、別海町が根室場所と呼ばれていた頃、蝦夷地に夢を抱き秋田県の八森町から代々にわたり根室場所請負人の用人として働いていたのが加賀家の人達であり、文書館には彼等が残した文書が保管・研究・展示されているという。 
その中の一文に「野付崎にはキラクという歓楽街があり、遊女もいたし鍛冶屋もあった」と記されている。 
野付は古来より人々が住み着き、江戸期には鰊漁で多くの人々が集まり漁番屋も多く、野付から国後島に往来する人々も多かったらしい。 
こうしたことが「歓楽街・キラク」としての残影を今に残しているのかもしれない。 
しかし、「キラク」というのは地名なのか街の形容語なのか、日本語の喜楽・気楽が語源であるとも言われるが「幻の街・キラク」の如く定かではない。


次回は、「根釧原野」



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