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遅ればせながら、平成20年・明けましておめでとうございます。
本年も、皆様方にとりまして良い年でありますよう心よりお祈りいたします。
「日本周遊紀行」は、本年初より本土最北端の地より南下することになりますが、是非お楽しみください。
本年も宜しくお願いいたします。
さて主に沿岸地方の「日本一周」を終えて、
概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来た。
今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」や温泉、絶景地等を
ピックアップして、当サイトに紹介致しております。
御意見、御感想宜しく・・!!。
周遊は、神奈川県厚木市を出発して、以下の順に巡りました。
『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着
尚、『西日本編』は、「東日本編」終了後、投稿致す予定です。
日本周遊紀行(53) 猿払・「或る海難事故」
「宗谷岬」よりは、いよいよオホーツク海沿岸を南下することになる。 心なしか、オホーツク沿岸は明るく輝いているようにも感じられる。
猿払村へ入っても、宗谷丘陵の草原状の伸びやかな風景が凹凸を繰り返しながら、延々と続いている。
気持ちも周りの風景に馴染んで何となく晴れ晴れとして、小気味良くアクセルを踏んでいる。
牧場の牛もノンビリ草を食んでいて、いかにも牧歌的な悠々たる世界である。
海岸の公園に来た・・。
猿払公園にはホテル、サイクリングの拠点、ゴルフやキャンプ場等の施設が整っている公園である・・。
この中に「インディギルカ号遭難碑」というのがあった・・、その昔大きな海難事故があったようで、そのための慰霊碑らしい・・。
インディギルカ号遭難とは・・??
昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)、オホーツク海に一艘の大型輸送船が咆哮していた・・、ソ連船インディギルカ号だった。
カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。
冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあり、この時の天気予報は北海道北部沿岸に暴風警報を出していたという。
同船はそれを聞かずか、或いは知らずに出航してしまったらしい・・。
本来、宗谷岬の前より西に進路を執らねばならぬのに、この時化と急潮流で猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。
そして「トド岩」という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転してしまった。
乗組員の内の数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たり、同時に周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童だったという・・。
しかし、その頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別、知来別、浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという・・、遭難者は700人を超えた。
昭和14年(小生の誕生年:満州国で誕生した年でもある)というと戦争の影が忍び寄っていた時期でもあり、その顕著なものがソ連との間に勃発した「ノモンハン事件」であった。このように日本とソ連は険悪な対立状態の間柄でもあった。
しかし、そんな最中でも村人の周辺各層の人は、人道的立場で命を懸けて事に当たったという・・。
この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っている。
序(ついで)に「ノモンハン事件とは」・・。
ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国(中国東北部・日本統治国)とモンゴルの間の国境線をめぐって発生した軍事衝突である。
満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の様相を決したという。
当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境の紛争に過ぎないとしたが、モンゴル国自体は、この衝突は「戦争」であると認識していたようである。
以上の認識の相違を反映して、この紛争については日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」と呼び、モンゴル国のみがハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。
戦役は、第一次ノモンハン事件(5月11日〜5月31日)、ノモンハン第二次事件(7月1日〜6日)と二度に亘る激しい戦闘の中、日本軍は多数の死傷者を出し、壊滅的な打撃を受けた。
その後、終戦締結がなされ、新たに国境線を画したが・・、日本軍の損失は戦死7720人、戦傷、戦病者合わせて計1万8979人に上った。
これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、1990年代からはソ連側資料が公開され、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになっている。
余談だが・・、
以降日本とソ連の関係は稚内の項でも述べた通りで周知であるが、現在も北方領土問題等の冷戦状態(・・??)が続いているようである・・、猿払村の人道的配慮は生かせれることなく・・。
後述するが、遥か以前にも同様の遭難事件が起きている・・、
1890年(明治23年)に和歌山県串本沖で、トルコの「エルトゥールル号遭難事件」というのが発生している。 この時同様に地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係が今でも続いている。
両遭難事件の因果は異なるであろうが・・、両国の現在に到るまでの対応の違いには注目しないわけにはいかない・・!!。
猿払村は日本最北の村・・、昔は相当な貧村に喘いだが、いまは日本一のホタテ漁を筆頭に北方漁業、広大な丘陵牧草帯を持つ酪農、そして湖沼、原生花園の大自然に恵まれた観光資源とが合体して大きく発展しているという。
次回は、 「オホーツクの地」
小生、若年よりの『旅』の記録です。
宜しかったらどうぞ・・。
http://www.geocities.jp/orimasa2001/
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