『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

北海道・東沿岸

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日本周遊紀行(56) 湧別・「廃線と屯田兵」

紋別の道の駅を出ると間もなく「コムケ湖」、「シブノツナイ湖」のすぐ横を通る。
いかにも北海道らしい清々とした地柄であるが・・、尤も、地図を見るとこの先、巨大な「サロマ湖」、「能取湖」、「網走湖」、「藻琴湖」そして「濤沸湖」とオホーツク海に面していて、同様の風景が展開しているのである。 
オホーツク沿岸の国道238を別名「オホーツク国道」ともいい、雄大な道で大草原、原野の広がりは眼の保養になること受け合いである。 この先、これら主要な湖の岸辺を行くようになるが・・。

湧別町、上湧別は概ね湧別川を挟んでいて、ユッタリした家並が広がっている。
「ユウベツ」とはアイヌ語で「鮫の住む川」という意味だそうで、これは昔、湧別川河口から近海にかけて相当数の鮫が生息していたことから、この名で呼ばれていたとも言われている。 
北海道の地名・名称が、アイヌ語から発生しているのが大多数有る中、それにしても「鮫が住む川」とは何とも驚きである。

湧別は湧別町、上湧別町と二つの行政域に別れ、上湧別町には中湧別という地域もあるようだ。 
湧別町はオホーツク海沿岸のほぼ中央部に位置し、東に道内で一番大きな湖であるサロマ湖を擁している。
それに対し「上湧別町」は内陸地域に位置し、海面、湖面には接していないようで、「鮫の住む川」である湧別川の下流域の全域を有しているようである。

昨今の政府号令の「平成の大合併」で湧別町、上湧別そして佐呂間町の合併話が起きたようであるが、今現在は実現していないようである・・。 
「オホーツク国道」・国道238号は、この町域を東西にクランク状に横断しながら佐呂間に至っている。 
この国道は、湧別町のシンボルロードと言われる道で、愛称を「オホーツク・リラ街道」と称しているようである。 
町では、このリラ街道を春先から花を楽しめる道路にしようと、平成11年から道路の両端に、町民の皆さんの手で千本桜の並木や湧別町に昔から自生していた「リラの木」(仏語読み:ライラックのこと)を植え、その間隔に花を植栽して「花いっぱい運動」を展開しているのである。

ところで、この「オホーツク・リラ街道」は、JRの跡地に整備されたものという。
一昔前はこの地・湧別町には国鉄・名寄本線の支線である名寄線や湧網線が走っていたが、こちらも国鉄再建法の施行により1989年(平成元年)に廃止されたようである。

国鉄「名寄本線」は、名寄市の名寄駅で宗谷本線から分岐し、網走支庁管内の興部町、紋別市を経て上湧別町の中湧別駅に達し、更にサロマ湖、オホーツク海、能取湖等の沿岸を巡って網走市の網走駅に至る「湧網線」が走っていた。
又、遠軽町の遠軽駅より中湧別駅までの「名寄線」も接続していて、云わば湧別町は鉄道の拠点だったのである。
当時の表現を借りれば「天塩国・奈与呂ヨリ北見国・網走ニ至ル鉄道」であり、道央とオホーツク海沿岸方面を結ぶ幹線鉄道として建設されたもので、1920年頃(大正9年)に全線開通している。 
しかし、現在の「石北本線」が全通すると、名寄線は遠軽を境に幹線鉄道としての役目を石北本線に譲ることとなり、その後、財政事情により名寄本線、湧網線など全線が廃線に追い込まれたようである。
一時は第三セクター化して部分存続させる案も浮上したらしいが、全線存続を強く主張したため、結局1989年に全線廃止されたという。 時代の趨勢とはいえ、廃止された特定地方交通線ながら唯一「本線」を名乗っていたし、その鉄道の拠点が一気に無に付してしまう・・、過酷と言えば過酷であったろう・・。   


湧別町の近代歴史の始まりは江戸末期(1808年)、滋賀県人が現地の人を使役し、漁業に着手ことにより始まると言われる。 
その後、明治27年には高知団体や広島団体が入植するが、中でも、1897年(明治30年) 屯田兵第1次200名が移住し、更に、1898年(明治31年) 屯田兵第2次199名移住してきたことから町としての発展がなされたという。
先にも記したが、「屯田兵」とは明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊のことであり、明治7年(1874年)に制度が設けられ、翌年から実施、明治37年(1904年)に廃止されている。

日本では、300年続いた徳川幕府が滅び、明治維新が起こり、各地で内乱が起きたが、こちら北海道ではロシアとの間に領土の争いがあり、「北海道を守るべし」として北海道の開拓を兼ねた「屯田兵制度」が生まれたのであった。
屯田兵の条件は先ず士族であること、17才から35才までの男子であること、15才から60才までの農業に従事できる家族が二人以上いることなどであった。
屯田兵には、3年間、扶助米、塩菜料、必要な農機具などが支給されたが・・、屯田兵の生活規則は厳しかったという。

屯田兵は家族を連れて入地するのが基本とし、入地前に建てられ用意された「兵屋」なる家と、未開拓の土地とを割り当てられた。
兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られ、当時の一般庶民の住宅よりは良かったという。 
生活規則として起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要し、通常の軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援などにも携わったいう。
また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ね、湧別町では、この時リンゴの植え付けに成功していて、リンゴの北限の地であるともいわれる。

町内には現在も、北兵村、南兵村、屯田市街といった屯田兵に因んだ名称が残り、平成17には「屯田兵村と兵屋」と題して、道民が選んだ「北海道遺産」にも認定されている。

『屯田兵の詩』
屯田魂、心の中にひそかに眠る
飛翔の街、上湧別を遠くに思うとき
心揺れ動いたことがある
未開の地に鍬を入れ
湧別原野に汗が沁みる
みんなで拓った(やった)

次回は、 あのカーリングの「常呂」です

日本周遊紀行(55) 紋別・「遺跡と遺骸」


紋別の市街に入る少し手前に「渚滑川」(しょこつがわ)という清流が流れる。 その渚滑川を挟んで砂丘地帯に約1キロにわたって続く海岸性原生植物の群落が広がる。 ハマナスの群落地として知られ、小さなハス沼を中心にエゾスカシユリ、エゾカンゾウなど50種類ほどの草花が咲く。 
そのハス沼の際にオムサロ・ネイチャーハウスがあり原生花園の案内と二階はオホーツク海やオムサロ原生花園の展望室になっている。 
この地、冬は流氷見物のメッカと言われ、巨大な圧力で押されて出来た流氷山脈を見るのに絶好地という。
又、国道を挟んで「オムサロ遺跡公園」がある。 
そう・・「紋別」は遺跡の街でもある。 市内様々な箇所に50数箇所以上あるといい、その中で代表的なのが「オムサロ遺跡」といわれる。

ここでは縄文時代からオホーツク文化期、擦文文化期までの様々な遺物が発見され、竪穴式住居跡が見られるという。 
オムサロ遺跡は、縄文時代から続縄文時代、オホーツク文化期、擦文時代等の歴史的連鎖性ともいうべき住居跡が200軒以上埋もれきらない状態で残されており、他にも竪穴住居や高床倉庫が復元されている。 一部公園化された園路沿いには、それらの住居跡を見ることができるという。 

北海道では、有史より其々異なった特有の文化が成立したと言われるが・・、それらの様子を大雑把に観てみると・・。
数万年前の氷河期の頃にはシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、この頃を「旧石器時代」としている。 
その後、本州からの影響もあって土器を中心とした縄文文化が興った。 
「縄文時代」は前期、中期、後期、晩期等に分けられるとされ、一万年以上も続いた文化といわれる。 

縄文晩期の頃、本州以南は多数の渡来人(主に大陸からの帰化人)が移住することで弥生時代(稲作と鉄が主流となる文化)を迎えるが、北海道にまではその弥生文化が伝播せず縄文文化が引き続きつづいた、 この時期を考古学上北海道では「続縄文時代」と呼んでいるようである。
つづいて、縄文とは異なる文様の土器に刻む「擦文時代」となって、これが7世紀頃に始まって12〜13世紀ころに終わりを遂げる。 時期は本州の奈良時代と平安時代に当るとされる。
擦文文化は土器を作る際、ヘラや刷毛で擦って作ったので、その名が付いたともいわれる北海道特有の文化である。
擦文文化から引き継がれたのがアイヌ文化といわれる。 更に、この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって12世紀ごろには鉄器を用い、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟したとされる。 
アイヌ文化は比較的新しく、その擦文人がアイヌ民族の祖ともいわれる。

道内において擦文・アイヌによって擦文時代が営まれていた頃・・、
前記したが、オホーツク海沿岸には海獣狩猟を中心とする北方大陸の文化を持った人々が道内に移住してくる。 
「オホーツク文化」と云われる時代であり、シベリヤ・カラフトの北方民族の文化で5世紀から13世紀頃まで続くが・・、同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質な文化であった。 
その後、和人の影響もあって「アイヌ文化」が成熟した頃、オホーツク文化は忽然と姿を消したといわれる。 これはアイヌ民族と完全に同化したか、或はアイヌに追われたともの考えられるという。
尚、全道に成立していた「アイヌ文化」も、江戸初期頃の松前藩が北方の宗谷場所等を開設したのをきっかけに次第に衰退していくことになる。
それまでアイヌの自由な漁獲の場であり、恵み豊かな権益であったオホーツク海沿岸やサロマの湖などの各所の魚場は和人等に収奪され、アイヌ人は漁業労働者として駆使されるようになる。 
又、和人の影響により生活様式も変化し、特に請負人によるアイヌ人の使役法が過酷を極めたために、男女数の不均衡・結婚機会の減少など人口増加を阻む諸要素が多くなり、アイヌ人を次第に衰亡に追い込む結果となったともいわれる。


紋別でも「金」が採掘されていた・・?、
紋別より遠軽に到る、ほぼ中間地に「鴻之舞」という地区がある。
浜頓別におけるウソタン川流域の金採取でも述べたが、ここ紋別市から遠軽町方面に抜ける山間部のルートのその場所では昔、金鉱山が在ってかなりの採掘量を誇ったという。 
戦前は東洋一の鉱山と言われた程で、鴻之舞鉱山といって紋別市鴻之舞にあり街としても大いに栄え賑わいをみせたという。
この鉱山は大正4年に発見されて以来、数人の共同所有であった鉱業権を「住友」が買取し整備開発したもので、この鉱山は数十年の長い歴史を有しており、その間戦前から戦後にかけて東洋一の金山として栄えたという。 
昭和46年末まで行われ、その総生産量は金 64トン、銀 950トン に達しており、一つの鉱山としては日本最大のものであったともいう。

しかし、昭和48年(1973)北の黄金郷として佐渡の金山と並び全国にその名を馳せた鴻之舞金山は資源枯渇のために閉山し、56年間の操業に実質的な歴史に幕を閉じている。 
それから歳月が流れ、現在は住んでいる人影もなく実質的な無人の地として大きく様変わりし、そのままの姿で自然に帰りつつあるという。 
町の元住人に言わせると「幾年故郷来て見れば咲く花鳴く鳥そよぐ風 ・・」という歌の「故郷の廃家」の歌詞が身にしみると言う。
「鴻之舞」の夢のような現実・・!!、それは浜頓別、枝幸に始まった ともいわ、オホーツク海沿岸におけるゴールドラッシュの端緒は、ウソタン川を始めとする砂金掘りの人達がつけたといわれる。

明治31年(1898)、堀川泰宗(ほりかわ たいそう・岩手県盛岡出身、北見で砂金山、旅館などを経営し、旧湧別村の村会議員も務めた、柔術の師範で大東流合気柔術を修業した。)の一行が、枝幸、頓別川上流のパンケナイで発見した砂金は、優秀な金田としてオホーツク・ゴールドラッシュの口火を切ることとなり、ウソタン川、ペーチャン川砂金発見の端緒ともなった。
最盛期の明治32年頃には、これらの砂金場には5千人以上の砂金掘りが押しかけ、盛んな頃では砂金掘りの作業をする時に体がぶつかりあった状態であったという。 
砂金掘り達の収入は、明治32年(1899)に「一人が一日200グラム程度を連日にわたって採取した」と言う記録もあり、当時地元での砂金の値段は1匁(モンメ:3.75g)あたり4円であったから、200グラムで210円ほどの金額になる。 
この頃の一人前の大工の賃金が1日80銭、出稼ぎが1日60銭であったというから、それは大変な金額であったということが判る。

噂がうわさを呼び、町全体がゴールド・クレージーとなり、漁夫は海を、農民は田畑を捨てて皆ペーチャンやパンケナイを目指した。 
狭い沢の砂金場には、料理屋や飲食店、雑貨店、床屋、風呂屋などがひしめき、熊の出るような山間部に突然集落が形成されたほどで、海岸部にある市街地の人口よりも砂金場の人口のほうが多かったというから、その賑わいは想像に難くない。 
そうした砂金狂騒も僅か2、3年の短期間であったという・・。

戦前の日本は、軍国主義で国家の政策は軍事最優先として推し進められていた。 
当然のことながら兵員を確保し、増強されたため成人男子はどんどん徴兵され国内の生産活動に従事する人員が欠乏した。 
そこで、目をつけられたのが中国や朝鮮の人々であり、日本政府は大陸から中国人や朝鮮人を強制連行し、日本国内各地の鉱山や炭鉱、土木作業に従事させた。
そして、ここ鴻之舞鉱山も例外ではなかった。
この頃、鴻之舞も同様に徐々に金の採掘量が低下し、それに比例するかのように人口も減少し、過疎化も急激に進行し、当時の最盛期には1万人以上いた町の人口も昭和40年代頃にはゴーストタウンと化し現在に至っているとのこと・・。
今では、鴻之舞鉱山跡は紋別の「遺骸」となってその姿を晒しているという。

次回は、 「湧別」

日本周遊紀行(54) 「オホーツクの地」

浜頓別のクッチャロ湖畔は、「オホーツク人・文化」の遺跡が多く出土しているという。 又、明治中期には一大金の産地として名を上げた。 

頓別川の上流部、ウソタン川では今でも砂金探しの観光地になっていて、地図を見ると、砂金山、金ヶ丘、ウソタン砂金地、金山神社等、金にまつわる名称が多く残っている。
明治33年に浜頓別を流れるウソタン川で発見された重さ768グラムの金塊が、日本最大のゴールドラッシュの始まりであったといわれる。

ところで、採取高というのは常に極秘とされているために正確な生産高を把握することが難しいといわれているが、地元の『殖民広報』によると砂金採取量は、明治32年をピークに年々減少していると記しながらも、明治32年176貫(660キロ)、33年120貫(450キロ)、34年107貫(401.25キロ)、35年52貫(195キロ)、36年32貫(120キロ)と記録されている。 又、『浜頓別町史』は大正7年までの産出高累計550貫(2650キロ)と記している。
現在のように機械力が駆使されていない時代に2トンあまりの採金は、驚異的な数字であり、ウソタン砂金地がいかに豊富な埋蔵量であったかを物語っている。

現在でも、ウソタン川近郊には「砂金採掘公園」なるものも在り、 500円の入場を払って砂金掘り体験をすることができる。 一日にとれる砂金の量は微量ながら、埋もれている夢とロマンの大きさはゴールドラッシュ時代の昔と変わりないという。 
毎年8月上旬には「ウソタン砂金フェスティバル」が開催され、又、周辺には砂金採掘全盛時代を忍ばせる石垣や金鉱跡などの遺跡も残っている・・。


さて、「オホーツク文化」についてであるが・・、
浜頓別、枝幸町(えさしちょう)、興部町(おこっぺちょう)界隈は遺跡が多く発掘されている。 尤も、当地域に限らずオオホーツク海の沿岸地域は古代遺構が数多く発掘されていて、この地は克って「オホーツク文化」が栄えた地なのである。 

オホーツク文化は、北海道特有の擦文文化(「手塩」の項で若干述べた)とアイヌ文化の中間に位置し、北海道の北部と東部辺りに7世紀から13世紀にかけてオホーツク海沿岸を中心に栄えた文化といわれる。
年代は、奈良時代から鎌倉時代の始め頃にあたるとされ、オホーツク文化の担い手をオホーツク人とも呼んでいる。 

そして、この文化は「アザラシ」と深い関係があるといわれる・・。 
オホーツク文化・・、当時の北方地域の人びとはアザラシの皮や腸を衣服にし、油を食料や明かりにして、肉を食料に骨を釣針やモリ先などにと無駄なく利用している。
オホーツク文化より後のアイヌの人びとも同様な暮らしをし、アザラシや魚の油を、ほたて貝に入れて明かりとしたりした。つまり、アザラシは当時の人々にとって最も生活に身近な動物だったのである。

オホーツク人は、ロシアや中国の国境近くのアムール川(黒竜江)の海域をサハリンから南下したと考えられ、彼らは先ず北海道の北部で生活し、しだいに東へ南へと範囲を広げていった。
オホーツク文化の痕跡は、東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいるが、その後のオホーツク文化はアイヌ文化に取り入れられたともいわれる。
人々は、アザラシ等の海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送り、彼らの遺跡から出土した生活痕からは多くの釣針やモリ先、アザラシやトドや魚などの骨が出て来ている。
これらの遺跡は海岸そばに限られ、内陸には存在しないという。
このことはオホーツク人の生活は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣狩猟に重点があったともいう。 このことは流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためとも考えられている。 

遺物に描かれた絵や模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたらしい。 又、海獣の他に既に豚と犬を飼い、どちらも食用にしていたらしい。 ただ、道東では豚飼育は低調だったが、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な動物を狩ったという。  

集落は海岸のそばに置かれ、住居は竪穴式で何十人も収容できる大型の住居や、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居もあり、大規模住居は中心集落で見られるという。
『古代人が生活し食べていくのに、オホーツク沿岸ほど良いところはない』といわれる、おそらく世界一だろうと・・・。

流氷と共にやって来るアザラシやオットセイなどの海獣はシベリヤやサハリンと酷似していて、流氷は無味漂白のように思えるが、実際は「食の倉庫」であったとも観られる。 
オホーツク海の魚貝類をはじめサケ・マスなどの回遊魚は、「食」のほうが川を上って向こうからやって来るのである。

又、気候・季節的にみても面白い・・??、
オホーツク気団という「寒気団」がある・・、これが発達して東風(コチ)が吹くと稲作がダメージを受ける「やませ」である。 
だが同時に、この北の地域は豊漁になる・・、大寒流がオホーツクから千島列島を抜けて太平洋に流れ込む、一部は日本海へ向かう。 此れが「親潮」である。
「親潮」という名前がいい、北の漁業者が感謝をこめて付けた名だそうで、この海流は栄養に富みサケ・カニ・タラ・ホタテ・ホッキ等魚貝や海藻を育てる。 
要するに、オホーツク海は稲作社会にとっては恐ろしい海だが・・、漁民にとっては「親のような海」なのである。
この現象は、今も変わることはない・・。

次回は、 紋別・「遺跡と遺骸」

遅ればせながら、平成20年・明けましておめでとうございます。
本年も、皆様方にとりまして良い年でありますよう心よりお祈りいたします。
「日本周遊紀行」は、本年初より本土最北端の地より南下することになりますが、是非お楽しみください。
本年も宜しくお願いいたします。



さて主に沿岸地方の「日本一周」を終えて、
概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来た。
今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」や温泉、絶景地等を
ピックアップして、当サイトに紹介致しております。
御意見、御感想宜しく・・!!。

周遊は、神奈川県厚木市を出発して、以下の順に巡りました。
『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着
尚、『西日本編』は、「東日本編」終了後、投稿致す予定です。


日本周遊紀行(53) 猿払・「或る海難事故」

「宗谷岬」よりは、いよいよオホーツク海沿岸を南下することになる。 心なしか、オホーツク沿岸は明るく輝いているようにも感じられる。 
猿払村へ入っても、宗谷丘陵の草原状の伸びやかな風景が凹凸を繰り返しながら、延々と続いている。
気持ちも周りの風景に馴染んで何となく晴れ晴れとして、小気味良くアクセルを踏んでいる。 
牧場の牛もノンビリ草を食んでいて、いかにも牧歌的な悠々たる世界である。
海岸の公園に来た・・。 
猿払公園にはホテル、サイクリングの拠点、ゴルフやキャンプ場等の施設が整っている公園である・・。
この中に「インディギルカ号遭難碑」というのがあった・・、その昔大きな海難事故があったようで、そのための慰霊碑らしい・・。

インディギルカ号遭難とは・・??
昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)、オホーツク海に一艘の大型輸送船が咆哮していた・・、ソ連船インディギルカ号だった。 
カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。
冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあり、この時の天気予報は北海道北部沿岸に暴風警報を出していたという。 
同船はそれを聞かずか、或いは知らずに出航してしまったらしい・・。
本来、宗谷岬の前より西に進路を執らねばならぬのに、この時化と急潮流で猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。 
そして「トド岩」という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転してしまった。
乗組員の内の数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たり、同時に周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童だったという・・。

しかし、その頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別、知来別、浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという・・、遭難者は700人を超えた。

昭和14年(小生の誕生年:満州国で誕生した年でもある)というと戦争の影が忍び寄っていた時期でもあり、その顕著なものがソ連との間に勃発した「ノモンハン事件」であった。このように日本とソ連は険悪な対立状態の間柄でもあった。
しかし、そんな最中でも村人の周辺各層の人は、人道的立場で命を懸けて事に当たったという・・。
この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っている。
  

序(ついで)に「ノモンハン事件とは」・・。
ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国(中国東北部・日本統治国)とモンゴルの間の国境線をめぐって発生した軍事衝突である。 
満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の様相を決したという。
当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境の紛争に過ぎないとしたが、モンゴル国自体は、この衝突は「戦争」であると認識していたようである。
以上の認識の相違を反映して、この紛争については日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」と呼び、モンゴル国のみがハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。

戦役は、第一次ノモンハン事件(5月11日〜5月31日)、ノモンハン第二次事件(7月1日〜6日)と二度に亘る激しい戦闘の中、日本軍は多数の死傷者を出し、壊滅的な打撃を受けた。 
その後、終戦締結がなされ、新たに国境線を画したが・・、日本軍の損失は戦死7720人、戦傷、戦病者合わせて計1万8979人に上った。
これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、1990年代からはソ連側資料が公開され、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになっている。

余談だが・・、
以降日本とソ連の関係は稚内の項でも述べた通りで周知であるが、現在も北方領土問題等の冷戦状態(・・??)が続いているようである・・、猿払村の人道的配慮は生かせれることなく・・。

後述するが、遥か以前にも同様の遭難事件が起きている・・、
1890年(明治23年)に和歌山県串本沖で、トルコの「エルトゥールル号遭難事件」というのが発生している。 この時同様に地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係が今でも続いている。
両遭難事件の因果は異なるであろうが・・、両国の現在に到るまでの対応の違いには注目しないわけにはいかない・・!!。


猿払村は日本最北の村・・、昔は相当な貧村に喘いだが、いまは日本一のホタテ漁を筆頭に北方漁業、広大な丘陵牧草帯を持つ酪農、そして湖沼、原生花園の大自然に恵まれた観光資源とが合体して大きく発展しているという。


次回は、 「オホーツクの地」


小生、若年よりの『旅』の記録です。
宜しかったらどうぞ・・。
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