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日本周遊紀行(89)津軽海峡・船中余談 「松浦武四朗」
http://www.c-player.com/_images/archive/d010E3QI9GVFPGOB0LQ10H2JCMD377CUEBU71H5DQ8Q40K9DSLVGIJ2/large 天塩川河口に建つ、松浦武四郎像と歌碑 『 蝦夷人の みそぎなしける 天塩川 今宵ぞ夏の とまりをばしる 』 『 ながむれば 渚ましろに 成にけり てしほの浜の 雪の夕暮れ 』 ところで、北海道を一周して又、この執筆中の調べ物から「松浦武四朗」という人物によく出会う。 関係した現地には歌碑や像、顕彰碑が各所に建立され、釧路市の中心街には「松浦町」という地名まであった。 往時の釧路市の議長が市史を調べるうち「松浦武四朗」が、『この道東の地(釧路)は将来、相当に発展するだろう・・』というくだりの文章を見つけて、町名を松浦町にしたというエピソードもある。 既に紹介したが・・?、 松浦武四朗は「北海道の父」といわれ、「北海道の名付け親」でもある。 北海道の地名や郡名に、アイヌへの敬愛の気持ちを込めてアイヌ語を生かした名前を付けたという。 武四郎が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話からであったという。 北海道の「海」は元々は「加伊」の読みであって、アイヌ人はこの地を「加伊」と呼んでいた。 武四郎はアイヌと交流するうちに『北海道』という名前を「北の国に生まれたアイヌの大地」という親愛の情を込めて名付け、支庁名、郡名についても武四郎は「地名はその土地の文化である」として、アイヌ語地名に基づいて選定を行ったという。 松浦武四郎は1818(文政元)年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)ともいわれ、一般には他の二人よりは余り知られていないようだが・・旅行家、探検家であり地理学者、登山家でもあった。 生家実家は伊勢神宮の参道に通じる参宮街道に面していた。 少年の頃、「お陰参り」といって伊勢神宮に60年に一度の大祭があり、この参道をお参りする人々が一年間に400〜500万人もいたといわれていた。 当時の日本の人口の一割以上の人が通ったことになるという、武四朗少年はこれをきっかけに「旅」に目覚めたという。 十代前半 から西日本の各地を旅行しながら長崎に着いた時、ロシアが蝦夷地に通商開港を願い出ているのを知って(このとき長崎は既にオランダ等と開港していた)急きょ蝦夷地へ向かった。 個人的には既に蝦夷地を三回徒歩していて、このとき「羊蹄山」等、冬の北海道の山を完登している。 又、これらの経験を見い出され幕府用人としても三回、蝦夷探検を実施している。 「北海道」を命名したのはこの時期であり、合わせて北海道の巨大地図をも完成させている。 描かれた地図は伊能忠敬が描いた蝦夷地図より更に厳密なものに成っていて、例えば北海道最大の河川「石狩川」は、現在日本の流域で2番目、長さで3番目であるが、その昔は相当に広く、長かったことが判るという。 これは河川の開拓や改修が頻繁に行はれた事によるものであるとのこと。 江戸時代が終わり明治時代へと変わると、明治政府は蝦夷地へ「開拓使」という役所をつくる。 政府は、数々の業績を持ち、蝦夷地通と誰もが認める松浦武四郎を初代「開拓判官」(現在の開発庁長官)に任命した。 明治政府の役人になった武四郎は、蝦夷地の新しい名前や開拓政策を提案する。 武四郎が目指した北海道は、アイヌと和人(日本語を母国語とする人々)が共に仲良く暮らすことができる大地であったが、しかし、一年余りで退任しているという。 それは何故か・・?、 武四郎の意思とは全くそぐわない、明治政府のアイヌへの政策であったといわれる。 アイヌは、1871年の戸籍法公布とともに「平民」として日本国に編入されるが、実際の戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされたのであった。 翌1872年には、伝統的の継承されてきたアイヌの文化や風俗は取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。 又、アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。 その後も、アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。 しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあり、法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようである。 この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの本業を営もうとするアイヌには一切援助は出さなかったいう。 この様な有様を見聞するに及んで武四郎は、開拓使の役人たちと度々口論になることが多かった。 政府要人に対しても意見書等を出し激論を交わしたりしたが、一向に改革する気配が無く、更に、旧幕府時代の「場所請負人」という悪業制度が引き継がれるに及んで、遂に開拓判官の職を辞してしまう。 この後は任官することなく、東京神田に隠居し、時折、大好きな山登りを楽しんだという。 松浦武四朗の気骨ある一面を示したとも云える。 次回からは再び本州に戻るが、その前に北海道東部の「温泉と観光」をどうぞ。 先ず、流氷の町・「紋別」 .【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍−穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」 《スキー履歴》 「スキー履歴」 . |
北海道・南沿岸
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日本周遊紀行(88) 「津軽海峡」
http://www.c-player.com/_images/archive/d011NAQ5RNFB55BER6CO7GQ565DRC416EBF18FMAVSIHFSFBTTNRIV7/large 小生を載せて、函館から大間へ向かう津軽海峡フェリー 北海道をグルッと一周、今は津軽海峡、海の上である・・、 16時20分(平成16年10月1日)、大間行きのフエリーは定刻に出航した。 9月24日18時、ここ函館に上陸して一週間で道内の海道を巡ったことになる。 「函館山」を左に見ながら、永かった北海道に別れを告げる。 牛が寝そべっているようにみえることから別称「臥牛山」ともいわれている通り、市街地から見える錐形の山と異なって、上部付近はなだらかな台地上をなしていた。 この函館山が左舷前方より次第に迫ってきて、やがて後方に去っていった。 傾いた夕日もやがてこの海峡に吸い込まれようとしている。 夕時・・、海は凪いでいた。 「津軽海峡」・・、 「海峡」とは、陸や島の間の海域を示す地形名であるが、一般的には同様の地形名である瀬戸や水道よりも規模の大きい場合に使われるようである。 しかし、瀬戸内海や紀伊水道は規模的にはどうなんであろうか・・?。 あの好奇心と知識欲の旺盛な吉田松陰は、竜飛崎に立って津軽海峡越しの蝦夷地を眺めてはいるが渡ってはいない。 海峡は、津軽までやってきた旅人でも嘗ては、その先の旅路を諦めるに充分な荒海であり、当時は容易に越すに越されぬ荒ぶる大自然そのものであったのだ。 しかし、荒々しい海峡を果敢に攻めた人物もいた。 伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四朗などは別格としても、この地で独立国家を夢見た土方歳三や榎本武揚、蝦夷の莫大な物産に目を見張り日本海の海運路を切り開いた高田屋嘉兵衛、ベイエリアに赤レンガ倉庫群を建設した渡辺熊四郎など、函館の地に大いなる夢を見た御仁人々だった。 ところで、小生、北海道へ渡る時も同様にこの海峡、海域を通っているが、津軽海峡は、この地(海)が最も幅が狭い海域なのである。(実際は汐首岬と下北半島の大間崎の間で、約19kmある) この海域に対し西側の松前の白神岬と津軽半島竜飛崎間は20kmとやや長い。 太古の昔、日本列島が今の形になる以前、津軽海峡は所謂、瀬戸か水道の様な狭い地域であったらしい。 中央部の海底は、峡谷のような地形で東西に伸びていたらしいが、この海底の水深が約140mと一番浅くなっている地帯が「竜飛⇔白神岬」の間である。 その為、ここを鉄道専用の「青函トンネル」(津軽海峡線)が通したのであった。 ところで、この海峡に実際の道路トンネルや道路橋はないが、名目上は国道279号、国道280号、そして国道338号などが横断しているのである・・?。 国道279号は、現在小生が乗っているこの連絡船航路がそうであって、起点が函館市若松町・函館駅前交点から、終点は青森県野辺地町の松ノ木平交点で陸上距離・107.0km、海上区間が津軽海峡(函館⇒大間、東日本フェリー航路)となっている。 大間の港には、国道279号からフェリーへと標識で表示案内されている。 国道280号は、起点が青森市長島2丁目(国道4号・国道7号終点)から、終点は函館市万代町(万代跨線橋交点=国道5号交点)で陸上距離・142.0km、海上区間は三厩⇒福島間の津軽海峡である。 青函トンネル建設時はこの区間のフェリー(東日本、三福)で資材の通運が行はれた。 又、江戸期、松前藩の参勤航路でもあり「松前街道」でもあった。 国道338号は、函館から下北半島の大間まで海上区間を含め国道279号と重複するが、下北半島では西岸・南岸(佐井、脇野沢、川内)を経由する道路であり、むつ市からは太平洋沿岸部を通り六ヶ所村、三沢、下田までの国道である。 この海峡、この船の下に「日本一のマグロ」が泳いでいるんだと思うと何だか不思議な気がする。 今はこの大海に一隻の船も見当たらないが、早朝、多い時で100隻近い船がマグロを追ってゴッタ返すという・・!。 大間は近海マグロの産地として昔から「1匹獲れれば数百万円」といわれる夢を追って、そしてそれを実現しようとする漁師で溢れる。 築地でも「大間産マグロ」は、今では1kgで4万、5万と値が付き200キロ超のマグロだったら一匹で1千万円にもなるという。 そもそも、マグロにはミナミマグロやキハダ、メバチ、カジキなどと色々あるが、大間のマグロこそ本マグロと言われる「黒マグロ」なのである。南太平洋で産まれて、その群れが黒潮にのって北上し日本沿岸にやって来る。 そして、親潮と黒潮のぶつかるエサの豊富な東北北部、津軽海峡は一大漁場となるらしい。 大間の沖の「弁天島」付近はその天然の餌場となり、真さに「大間の宝海」と言われる由縁なのである。 しかも一番値段のいい年末年始頃に良く獲れて最高の値段がつく、それは秋に豊富なエサ食したマグロが冬には身が締まり脂が乗るからといわれる。 大間のマグロの漁方はご存知「一本釣り」であるが。 他にも漁方は延縄(はえなわ:1本の幹縄に多数の枝縄《これを延縄と呼ぶ》をつけ、枝縄の先端に釣り針をつけた構成となっている)、曳縄(トローリング)、定置網などが知られるが、近年は養殖ものも増加しているという。 津軽海峡といい、マグロ漁といい、この海域は小説や物語には事欠かず、特に演歌が良く似合う恰好の水域なのであろう。 その代表的なのが、やはり此れであろう、 昭和52年にはレコード大賞も受賞している。 『津軽海峡冬景色』 唄:石川さゆり 上野発の夜行列車 おりた時から 青森駅は雪の中 北へ帰る人の群れは 誰も無口で 海鳴りだけを きいている 私もひとり 連絡線に乗り こごえそうな鴎見つめ泣いていました ああ津軽海峡・冬景色 次回は北海道の父・「松浦武四朗」
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日本周遊紀行(87)函館 「高田屋嘉兵衛」
http://www.c-player.com/_images/archive/d010QQD6J36TE6TKM5M31159L5IQGF9VOPC4HFKEC8CCHU1CDHANVIF/large 高田屋嘉兵衛公園に立つ銅像 「函館空港」の標識を見ながら町並みが軒を連ね、賑やかさと騒々しさが増してきた、都会に来たという実感である。 北海道に上陸した時に最初に世話になった、「湯の川温泉」を通過する。 時々市電と並行し、或るいは、すれ違いながら函館フエリー埠頭へ着いたのは、15時時半を回ってっていた。 函館は道内を出発する際にも些か述べたが、更に詳しく述べようとすると本稿は幾行、幾枚あっても足らない。 今回は、極めてかいつまんで「高田屋嘉兵衛」(たかたや かへい)について記してみよう。 江戸末期の函館は、日米和親条約や日米修好通商条約により日本初の国際貿易港として開港していらい外国人居留地も設置され、異国情緒タップリのロマン溢れる街並になっている。 この町並みの開祖といわれる重要な人物に「高田屋嘉兵衛」がいる。 嘉兵衛は、江戸時代後期、淡路島(現在の兵庫県津名郡五色町)の貧しい農民の子として生まれている。 18歳で廻船業者を志し淡路と大坂とを往復する瓦船(瓦を運ぶ専用船)に乗る。 寛政7年(1795年)1,700石積の「辰悦丸」を建造し、本格的に廻船業へ乗り出す。幕府役人である近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などとも接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。 又、幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌(うりさばき)方となり、函館の北洋漁業の基を築いた功労者である。 その卓越した商才と度胸で巨万の富を得た。 文化9年(1812年)ロシア船ディアナ号艦長ゴローニンが、偶々蝦夷(北海道)沖の地理を調査中、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸した途端、警備隊に捕らえられるという事件がおこる。 今度はディアナ号の近くを偶然通りかかった嘉兵衛の船が捕らえ、嘉兵衛を配下五人と共にカムチャッカへ連行抑留される。 囚われの身となった嘉兵衛は、ディアナ号の副艦長と話し合い、帰国後、松前奉行を説き伏せてロシア側に侵略の意図が無い事を納得させてゴローニンを解放し、併せて仲間の人質解放に尽力した。 直後、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられている。 晩年は、故郷淡路島に戻り、港や道路の修築など郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年、59歳で自宅で静かにその生涯を閉じている。 作家・司馬遼太郎が、高田屋嘉兵衛を書いた小説・『菜の花の沖』の中で、「今でも世界のどんな舞台にでも通用できる人物」と称している。 江戸幕末の1858年の頃「箱館」と呼ばれる小さな港だった時代、帆に風を受けて高田屋嘉兵衛はやってきた。 松前藩の横暴を嫌った嘉兵衛は、松前の地を敬遠して当時まだ寒村にすぎなかった「箱館」に事業拠点を構えたのである。 その後の函館の繁栄はここにはじまるのであるが。 嘉兵衛は、松前藩や藩士、そして藩に取り付く和人の商人どもを敬遠し嫌っている。 高田屋嘉兵衛の活動の場が蝦夷地に移り其処に足を踏み入れた時、「松前藩の暴政は修羅場の如くである」と嘉兵衛は感じていたのである。 豊臣と徳川の両方に取り入った歴代藩主は江戸から遠いのをいいことに、アイヌを酷使し、搾り取り、追いつめて、やりたい放題をやっていた。 藩は、蝦夷地沿岸の各所に漁場を設け、本土からやってきた商人らを手足にし、アイヌたちにニシンやサケや昆布をとらせて「動物以下に扱って搾りとった」、「藩は、その商人たちに寄生し、かれらから運上金(税金)をとるだけで暮らしている」と、嘉兵衛は嘆いた。 更に彼は、松前藩のアイヌ統治の手口を見たのである。 アイヌには和語の使用も学習も禁じ、穀物類の栽培も禁じたし、和人が種子を持ち込むことも厳禁した。 蓑も笠も草鞋も用いさせなかったし、道路の一本作らせなかった。 藩の狙いは、アイヌを原始狩猟時代の生産様式の段階に閉じ籠めてき、その方が搾取には都合がよかったのである。 嘉兵衛は、そんな藩を敬遠しながらも幕府とは常に接触をもち、航海商圏を北方領土や樺太にまで広げていくのである。 こんな時期にロシア人との人質事件が起きた。 彼は函館の町を興しながら、ロシア人達と人質を取った取られた、返せ返さないの難しい交渉事、国の争いを1人の外交官として人間性を発揮し解決していく。 そして最後には松前藩、幕府を説得する。 高田屋嘉兵衛は北海道、千島の漁場を開拓して得た利益を函館の開発に投入した。 函館の歴史を語るには欠かせない人物として今も市民の間では名高い。 因みに、昭和、平成の昨今、北の方角(北海道)は冴えないと言われる・・!! 北方領土返還、北海道拓殖銀行の倒産、それに北朝鮮絡みもあり北海道経済といえば平成不況の代表のようなものといわれるが、今その函館は如何であろうか・・??。 函館の昭和期は100万ドルの夜景、特異な町並み、名物・函館朝市場等々・北海道観光の拠点で人、人、人の大混雑であり、中高年団体や修学旅行の生徒でごった返しの時代であった。 その函館は、今現在も変わることはない・・!!。 それに対して今の「松前」はどうであろうか・・? 松前の本拠は無論、往時の蝦夷地を支配していた松前藩のことで、現在の松前郡松前町である。 当時、函館とは地理的にはほぼ同じ条件下にあった筈であるが、今の松前は江戸期の豪勢な面影は全く無く、死に体になってしまっているのが現状である。 これはもしかしたら「アイヌの怨念」によるものか・・??。 松前のJRローカル線は廃止され、菱形の北海道のしっぽの先とも言われて恐ろしく不便な土地柄になってしまった。 尤も、本州とは最短の距離に有って、いざアイヌ軍勢に逆襲されても津軽海峡を一っ漕ぎで逃げ帰れるから、というのが立地の理由もあったらしいが・・?、 その通り、幕末の松前藩は函館戦争においては土方軍勢に追い立てられ本州へ逃げ帰っているのである。 昭和33(1958)年、函館開港100周年の記念事業として函館山のゆるやかな斜面である「高田屋通り」のグリーンベルト宝来町の一角に4m程の彼の銅像が建てられた。 函館出身の彫刻家・梁川剛一氏の製作のよるもので地元の絵葉書にもなっているとか。 銅像としては東京・皇居前広場の「楠公像」(楠木正成)、土佐・桂浜の坂本竜馬像と共に日本三大像の一つとされる。 尚、嘉兵衛の死後から6年後、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落している。 2004・12月、函館市は戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町と合併し、新たに広大な函館市が発足している。 次回は「津軽海峡」
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日本周遊紀行(86)亀田半島 「恵山」
http://www.c-player.com/_images/archive/d010JCS2DVM26THQG84CEQGAG2T5585K9E3HF9QDS34H8JD67PB0PJU/large 亀田半島先端の「恵山岬」 「亀田半島」の全域は函館市になった・・、 余り一般的ではない呼び方だが、渡島半島の南東端、函館市から鹿部町を境界に海に突出した部分を「亀田半島」ともいう。 南は津軽海峡、北は内浦湾、東は太平洋に面する。その太平洋岸は山肌が海岸線に落ち込む険しい海岸でもある。 南茅部町の長い海岸、その東端のトンネルを抜けると「椴法華村」(とどほっけ)である。 「椴」の字が読めなくて往生したが、椴法華も珍妙な名前である。 やはりアイヌの言に曰くがあり、「トトポケ」の意から成っていて、「岬の裏側」とかいう意味があるという。 確かにこの先の向こう側には「恵山岬」が在る。 その亀田半島最東端にあたる「恵山岬」は太平洋に突きだしているため眺めが良く観光地にもなっている。 岬の近くには活火山である恵山(618m)がそびえ、海岸近くには温泉(恵山温泉郷)も湧出する。 その恵山岬へと向っている・・、 国道278は港・部落の入り口辺りで内陸へ向かっているが、我が車は直進する。 椴法華の港、浜町の細い部落道を慎重に進む。 この辺りの海域は津軽海峡を抜けた暖流と千島海流が交わる潮目に近く、海産資源が豊富である。 主な漁獲物はスルメイカ、ホッケ、スケトウダラ、コンブなど水産加工も盛んだという。 急坂を上りきった処に、サッパリと広がった高台が在った。 緑の芝生が眩しい「恵山岬公園」である。 今は人っ子一人いなく些か寂しい場所であるが・・、駐車場から岬灯台までは5分ほど歩かなければならない。 真白の恵山灯台が海岸線に映える。 道内でも古く1890年(明治23年)には点灯したという。 日本の灯台50選、100選に選ばれている。 振り返ると「恵山」の姿が雄雄しく端正で良い、裏側は爆裂火口の地獄谷からから噴煙を激しく噴き上げる活火山でもある。 この恵山は標高618mという普通の低い山だが、シラネアオイ、ムラサキヤシオツツジ、ミネズオウなどの本州では2,000m級の高山でしか見られない高山植物が群生しているといい、山頂からは北は羊蹄山、南は津軽海峡、下北半島の山々を望むことができる。 又、山麓の 「恵山つつじ公園」は、5月下旬から6月上旬に60万本ともいわれるエゾヤマツツジ、サラサドウダンツツジが咲き誇る。 そして、やはり温泉も有る。 恵山温泉郷は活火山の恵山の中腹から麓にかけて湧き出す温泉で泉質は硫化物、塩化物が主、酸性度が高くph2.1で濃い塩味がする。 湯の華が多く発生し、黄褐色をしていて極めて濃厚な温泉のようである。 国民温泉保養地にも指定されていて、施設は町営の日帰り温泉をはじめ各宿泊施設でも立ち寄り湯があり、300円程度とお手頃のようだ 。 ところで、恵山岬から海岸沿いに恵山町から戸井町へ行こうと思ったが, 「水無浜」というところでで道路が途切れている。 やむなく来た道を戻ることになった。 お互いの道は地域界まで来ているのに肝心な所で途切れている、何とも不便で不合理な事だ。町村同士(椴法華・恵山)何事か曰く因縁があって折り合いが付かないのか、それとも単なる自然条件のそのためか。 いずれにしても、真近に控えている大都市・函館側からはアクセスできないのは如何なものか、主要観光地だけに何とかならないものか。 尤も、今は「函館市」になっていた、大都市函館である。 その内、何とかしてくれるのであろうか・・?。 恵山岬から国道278号線へ通じる分岐までは狭い道が続く、この地点から函館まで47kmとあった。 函館から大間へのフエリー便は確認した結果16時20分、現在時刻は14時30分、何とか今日中に本州へ渡れそうではある。 相変わらず、R278は海岸間近を行く、恵山岬を境に大洋は内浦湾から津軽海峡になる。 戸井町へ入り、暫く行くと本州とは最短の岬といわれる「汐首岬」へ来た。 岬のことはともかく、この岬付近から山手の方角を見ると、コンクリート造りの鉄道のアーチ橋らしいのが見えている。 それはかなり古風なつくりではあるが、巨大なガッシリした造りで一種異様さも感じられる。当然、ここも合理化の名の下に廃線の憂き目をみたのだなー・・、と思っていた。 ところがこれは廃線ではなくて未完成線である事が判った。 戦時下、戸井町に要塞を建設するといった軍事的な目的で、函館本線の五稜郭から戸井までを結ぶ戸井線として工事建設が開始された。 概ね九割方の路盤が完成していたものの、戦時中ということもあり資材不足のため1943年(昭和18年)に工事は一旦中断してしまう。 だが終戦を迎え、結局建設は再開されないまま中止となり、その後放置されたままで現在に至っているという。 関連して、戸井は本州とは最短距離にあり、当時現行の青函航路の代替航路として青森県の大間との間に連絡船運行計画があったという。 戦争惨禍の遺構、「見果てぬ夢の跡」にしては、その壮大さゆえに悲惨さを禁じ得ない。 次回は函館・「高田屋嘉兵衛」
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日本周遊紀行(85)内浦湾岸 「鹿部、南茅部町」
砂原町の沿岸からから観る「駒ケ岳」の勇姿が良い。 http://www.c-player.com/_images/archive/d010DT9I4L3E8FOVSCGAV1FG53FPAHNIS0TV8AUV3P6M005PGVIBTS4/large 北海道の大沼・駒ヶ岳周辺は国定公園に指定された美しい景観で知られるが、渡島富士ともいい大沼側から見る湖沼を配した駒ケ岳が優美に映る。 だが、ここから観る駒ケ岳も天を指す弧峰で雄雄しく壮観である。 しかし、駒ヶ 岳は今も激しい噴火をしている活火山である。 1640年、寛永の大噴火では山体の上部が爆裂で南と東に相ついで溶岩流を伴なって崩れ落ちた。 南側山麓(七飯方面)では 低い土地、河川を埋めて大沼、小沼と、それらの中に点在する島々ができ今の姿になった。 また東側に(砂原、鹿部方面)崩れ落ちた山の一部は 内浦湾(噴火湾)に達し、大津波を起こした。 数ある噴火の中でも、この時が最大で大噴火と大津波で死者700名を出す大惨事となったという。 平成に入っても小規模な噴火を繰り返し、近くは平成12年にも数回激しい噴火があった。 今この地点からは風向きにより確認できないが、火口付近では現在でも弱い噴気活動を行なっているはずである。 従って登山、登行は禁止されているという。(平成16年末) 火山や火山帯の近くには必ずと云っていいほど良い温泉地が在る。 国道278の海岸沿いにあるのが「鹿部温泉郷」である。 温泉の町・鹿部でも特にめずらしいのが周期的に地面から噴き出す「鹿部間歇泉」である。 鹿部町の間歇泉は大正13年に温泉を掘っているときに偶然見つかったもので、日本でも大変珍しいといわれる。 間歇泉は、他に別府や諏訪、鳴子にもあるが世界的にはアメリカのイエローストーン公園の大間歇泉が有名であろう。 鹿部間欠泉は5〜6分間隔で103度もの熱湯が15mもの高さまで噴出すという。 こちらの間歇泉は公園施設の中にあり入場有料(300円)であるが、ここには足湯もあり脚を浸しながらブワーッ!!と吹き上げるのをのんびり見物できるのがいい。 鹿部町の温泉は泉源が30ヶ所以上もあり、ナトリウム・カルシウム-硫黄塩泉が主だが、それぞれ泉質が異なるの特徴をもつ。 適応症は、神経痛、関節痛、うちみ、痔症、リウマチ性疾患、創傷及び火傷、皮膚症などに効果があるという。 銭湯は亀の湯、寅の湯があり入浴料350円也。 間欠泉公園から少し行った所の国道沿いに「三味線滝」という優美な滝が在った。 高さ30m程の品の良い滝で、見ていてホッとする。 その名前の由来は流れ落ちる音が三味線の音色に似ているからと言われるが、果たしてどうであろう。 駒ケ岳を望むゆったりした低丘陵地から、海岸際に沿っている国道278(恵山内浦ライン)南茅部町に入る。 この辺りから風景は一変して、海岸近くまで山稜が迫り、背後の町界部は600m前後の山塊が波打っていて、海洋の町でもあるが山間の町でもある。 町は内浦湾に面する幅が5〜6kmの細長い町であり、山が迫る狭い海岸線に道路が通り家が並んでいる。 風光も道内では最も温暖な地域であろうし、漁業資源も豊富のようだ。 この幅の狭い地域に、山襞に沿って幾筋もの急峻な河川が流れ下る。 この川筋の段丘に大昔、人々が何千年もの間生活していた、長さ30キロメートル余りの海岸線には、ほぼ4キロメートルおきに縄文遺跡が連なって発見されているという。 一般に、縄文期とは早期から晩期までの凡そ1万年から2千年前あたりを云うが、この地区一帯には、それらの時代の殆どの期間に人々が在住し生活していたとみられる。 その考古学上の遺跡調査は1973年に始まり28年間に及んだといい、その規模は町内に88ヶ所、面積にして150万平方m、出土品総数は350万点にも達するとのこと。 南茅部地区は縄文人達による一大国家が形成されていた事になり、これは青森の「三内円山縄文人」の遺跡を凌ぐものとも云われる。 或いは青森などと盛んに交流等も行はれていたのでは・・??。 南茅部町は古代の香りのするロマンの町でもあった・・!!。 この南茅部町をはじめこれから訪れる椴法華村、恵山町、戸井町そして函館市による広範な地域の合併の話があるようで、しかも既に各市町村は合併協議の合意を得て平成16年12月には新しい「函館市」になることが決定しているという。 ところで道内の行くとこ、行くとこ合併協議がもちきりである。 合併についてはスムースに行われる所もあれば、中には地域の止むに止まれぬ事情、個々の議員さんの利害得失等で見送り解散になるケースも少なくないようである。 小生が「日本一周の旅」の最中でも着々刻々と合併の話が進行中であり、又、合併が済んで新しい市町村名に出くわし頭を悩ますこともあるが、この記録表示については出来るだけ従来の名称で記載しようと勤めている。 因みに、全国的にみて平成の大合併が始まる以前の1999年(平成11年)3月頃までは3200余の市町村であった。 合併が進んで以来、2004年11月現在では2400程度に減少したようだが、更に進行中で2005年(平成17年)にかけては合併のピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了した2006年(平成18年)4月には1800程度にまで減少したという。 つまり全国の市町村が、当初より4割以上も減少したことになる。 合併によって財政支援が受けられる「合併特措法」なるものの有効期限は2005・3月迄で、それ以降の恩典は無くなっている。 従って、この期日以降の合併の動きは鈍くなっているが、これ以降も都道府県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けては多少なりとも合併の動きが進むことが予想されるという。 全国の首長の皆さん、お国のために、わが地域のために奮闘努力してくださーい・・!! 次回は「椴法華・恵山」
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