『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

北海道・南沿岸

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日本周遊紀行(84)噴火湾 「八雲、森町」


八雲町へ入った・・、


農業が盛んな町のようで、柔らかい斜面の丘陵地には広大な畑と牧場に色分けされている。
牧場は、主に牛のようで畜産、酪農か主体であろう。 
以前、カミさんと訪れたとき、この辺りでKFCの農場・フアームを見物したはずだが・・??、あの時は確か「KFCプランテーション・ハーベスター八雲」とかいう名称だったと思う。 
名が示すとおりケンタッキーフライドチキン(KFC)の実験農場という形態を採ったレストランを中心にした施設だった。 国道5号線から内陸方面に入ると、とても雰囲気の良い並木道が続いていたはずなのだが、それがない・・?。

事実KFCは実験農場としての役割は終了したとして、別の経営母体に売却したともいわれるが・・?。



ところで繰り返し述べてきたが、北海道は元々はアイヌの住む地で蝦夷地といわれた。 
江戸期に松前藩が置かれて、これがきっかけで各地に和人が住み着くようになった。 
当時はアイヌとの交易や外国に対する北方警備が主な任務で、所謂、北海道の開拓や開発とは縁遠いものだった。
幕末になって内地国内では大きな時代のウネリ・変革がもたれされていた。 明治維新である。

明治期、版籍奉還、廃藩置県、そして身分制度の変化等に伴なって武士社会は崩壊し特に下級武士はいきなり平民に格下げされ、そして生活面でも苦境に陥った。 
明治中央政府は、これら身分制度によって生じた旧武士達の救済を兼ねて、未開地であった広大な蝦夷地の開拓、開発政策に乗り出したのである。 
先ず、蝦夷地に開拓使(黒田清隆等の特使又は長官、判官)を置き、指令による派遣(※屯田兵)や自由意思による移民政策を奨励し、併せて、北方の防衛(主にロシア)をも兼ねたものだった。

このような状況の中、この八雲町は徳川御三家の一つ「尾張藩」の旧臣達の入植により開祖、開発が行はれたのであった。 
生活に困窮する元武士たちは、旧臣授産(旧臣達の失業者または貧困者に、仕事を与え、生計をたすけること)の道を開こうと藩の支持、協力を仰いで新天地を目指した。 
この地に150万坪の下付を受け、藩土を移住させて拓いたのが「徳川農場」の始まりであり、この町の団体移民の最初であった。 
さらに移住者が増え、1881年(明治14年)には47戸、260余名だったという。 
農場では牧畜も手がけ、混合農業を行い、加えて味噌、醤油の醸造にも着手している。

ちなみに八雲町の名付親は旧尾張藩主「徳川慶勝」卿である。 


古事記に記されている・・、

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 
            八重垣作る その八重垣を
 』

(神が天井より天下へ降臨する時に八重の雲が湧き上がり、地上は楽園になろう)
を引用したもの。 
この歌は出雲開祖の神:スサノオノミコトが出雲の地を拓き、宮(出雲大社)を作ったときに詠んだと伝えられている。 
出雲地方(島根県)にも八雲村があり、この八雲町も同様の意味を込めて命名したという。


北海道を旅行すると土産店に「熊の木彫り」の彫刻が売られている。 この熊の彫り物は、ここ八雲町が発祥といわれる。 
同町内にある徳川牧場主・徳川義親が欧州旅行の際、スイスで熊をモデルにした木彫りの民芸品が売られているのを見付け、これを八雲農民の副業に奨励してその生活向上に役立たせようと考え、見本となる木彫り熊を買い求めて帰国したといわれる。 
そして、直後に八雲を訪れた義親はこれらの見本を農民に示し、出来上がった製品はすべて買い上げることとして制作を試みるよう奨励したという。

2005年10月、道内でも有数の酪農地帯である八雲町と、日本海に面した往時はニシンの千石場所として栄えた熊石町が合併し、新しい八雲町が誕生している。
太平洋と日本海の両太洋をを抱く珍しい地域になっている。



森町に入った・・、

山中に「濁川温泉」があり、そこに温泉利用した地熱発電所があるという。 
この発電所は10万世帯分の発電能力を持つといい、地下2,000メートルの熱水や蒸気を利用ししているが、しかしながら、地熱発電は火力に比べ採算が合わないといわれる。 
道内の地熱・熱水地帯は国立公園内がほとんどで、新規の開発にも制限があるといわれ、ここが北海道では最初で最後であるとか。 
思うに、日本は火の国・火山の国である。 
無尽蔵にあるこのエネルギー資源、排出ガスを伴わない環境に優しい、このエネルギーを国家を挙げて有効に利用できないものか・・??。 
この地熱を利用した農家では、トマトや葉菜の等、地熱によるハウス栽培が多くあるという。


森町市街地手前に「鷲の木」という海岸がある。 

時は幕末、慶応4年(明治元年・1868年)、江戸城が開放されて戊辰戦争も幕府軍の敗戦が決定的となり、戦後処理として西軍は榎本武揚が所持する軍艦を接収しようとした。 これをきらった榎本幕府軍2000名が、「開陽丸」を旗艦とする幕府艦隊8隻をしきいて江戸を脱出、出港してしまう。 途中、仙台に立ち寄った後、10月20日に、この地「鷲の木」に上陸しているのである。 
函館戦争の始まりであった。

10月26日に榎本幕府軍は函館・五稜郭を占拠し、松前城・江差を奪取して渡島半島の蝦夷地を手中にして、一時は蝦夷共和国を建国した。 
その後は開陽丸の不慮の沈没事故もあり、西軍は周辺で激戦を繰り返しながら函館周辺を制圧し、土方歳三ら多数の戦死者を出しながら、翌年5月17日榎本武揚は降伏する。
五稜郭が明け渡され、函館戦争を最後に戊辰戦争は終結した。
ちなみに新撰組(2004年、NHK大河ドラマ放映)副隊長で、後に榎本軍の陸軍参謀であった土方は自ら死地へ出陣している。 
因みに、函館戦争で多くの戦死者を出したが、榎本軍の軍幹部の死者は、「土方歳三」たった一人であったという。 残った幹部は全て新政府の要職に付いている。

森町はモリマチと呼ぶ。 道内で「町」は「ちょう」と呼ぶのが殆どであり、「マチ」と呼ぶのはこの森町だけらしい。 因みに、静岡県に、あの「森の石松」の出身地である森町は、同様に「モリマチ」と呼ぶのは周知である。



国道5号線をこのまま進むと、大沼から函館へ出る。
本来、一般の観光客は幹線(国道、鉄道)が走る森から函館へ向うのが普通であろう。 小生の今回の旅の目的は沿岸外周が目的なので、当然国道278方面へ向かう。
鷲の木辺りから海岸沿いの市街を行くと、左側真近に函館本線の「森」駅が在った。

海岸なのに、森とはこれいかに・・?」 

次回は、鹿部、南茅部町



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日本周遊紀行(83)噴火湾 「長万部」


長万部に至っている・・、「長万部」・・?、「オシャマンベ」と読む。


幼少の頃、親父に新聞記事か何かを見て、「この字なんて呼ぶの・?」、「オシャマンベだよ、北海道の地名で、たぶんアイヌ語だろう」、こんな会話を記憶している。 
長万部は、蝦夷・北海道らしいアイヌ語で面白い呼名だなーと、かねがね思っていたが、当たらずとも遠からずであった。

長万部」は昔,長万部川の河口付近にヒラメが豊富に生息していたため,アイヌ語で「オ・シャマンベ」(ヒラメのいる所)と呼んでいたもの。 これをもって元治元年,箱館奉行が「長万部」と名付けることを命じたらしい。 長万部は「ひらめ」かー・・!!。



長万部は昔から交通の要衝として栄えてきた。
渡島半島の付け根に在り、日本海側の漁場に通じる交通上の要(かなめ)であり、ここから往来するのが最短で便利であった。 

江戸後期〜明治初期にかけては黒松内道も完成し、鰊漁場として人々を集めて日本海の寿都(すっつ)へ向け多くの人々が歩いてたという。  当時長万部を巡視に訪れた松浦武四郎(北海道の父・北海道の名付親)の記録にも『山越内は大変な人で、人別改めで日によっては1万人にもおよび、長万部までの海浜は一条の蟻道のごとく黒くなって絶え間なく人が行きあった』と書かれたほどだという。

現在は、道路が小生が通ってきた国道37号と内陸道の国道5号、鉄道が室蘭本線と内陸の函館本線が函館を起点として、この長万部で分岐している。
更に道央自動車道は平成9年に、この長万部を起点として開通している。



長万部町中心街から北西方向の奥約20kmの地点、町民の 「ふるさとの山」、道内岳人にも人気のある長万部岳(972m)が聳える。 東斜面は急峻で山形もよく、高山の風格があるといわれるが・・、山のことではない、温泉のことである。

この長万部岳の東麓・二股川の上流に北海道でも有名な秘湯の一つでもあ「二股ラジウム温泉」がある。温泉の泉質は特異で、炭酸カルシウムが大量に含まれ、それによって巨大な石灰華(石灰の湯の花)ができている。 この石灰華の上に明治時代に開かれという古びた湯治宿がある。 
一軒宿の温泉で周囲は深い原生林に囲まれ、今でも重い病気の治療のために熱心に湯治する人がいるという。 湧出する温泉は純度の高い鉱泉水で炭酸カルシウムが大量に含まれ、その沈殿物である温泉湯華によって雄大な大積層が築かれ、巨大なドームが形成されている。 

この種の温泉湯華は世界中でも珍しく、アメリカの国立イエローストン公園のマンモス温泉郡と二股温泉の二ヶ所のみと云われており、大正9年に東京大学の脇水教授によって初めて科学的に調査研究され、実証されたといいう。

「石灰華」は温泉水に含まれた炭酸石灰成分が湧出によって温度、圧力が下がり沈殿したものといわれ、ドームは非常に巨大で長さ400m、幅200m、厚さ25mもあるという。 濃度の濃い温泉の特質として、浴室はいたるところが赤褐色になっていて手すりの鉄パイプや桶まで湯華がつき、浴槽にも分厚く湯華がついていると。 温泉の色も濃い褐色を呈し、タオルなどもすぐに茶色に染まってしまうとか。 源泉の温度は50度であるが、浴槽温は温めなので湯治向きには最適といえよう。
泉質は含ラジウム炭酸カルシウム泉、結晶の湯の華は各地へ持ち込んで、温泉として利用されているともいう。



長万部からの国道5号は、「噴火湾」を左に見ながら気持ち良い直線道路である。
しかし交通の要所だてあって車の量はさすがに多い、よそ見油断はならぬ・・!、それでも思わず、この海を唄った鳥羽一郎の「北斗船」を口ずさむ。



『北斗船』  鳥羽一郎 唄

みぞれまじりの しぶきを頭から
浴びて乗り出す 噴火湾
海は荒れても 行かねばならぬ
今年六十の お袋さんに
ハワイ旅行が させたくて


内浦湾を別名「噴火湾」というのは、北に有珠山、南にこれから向かう大沼・駒ケ岳、亀田半島先端の恵山の火山群を要しているからとか。 
明治時代に当地を訪れた英国人船長が、湾を取り囲む北海道駒ヶ岳や有珠山などの火山を見て「これはVolcano Bay=噴火湾だ」と語ったことに由来するといわれる。


次回は、八雲、森町


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日本周遊紀行(82)伊達 「円空と蝦夷」



思うに・・、


小生、北国の東北・北海道を巡ってきて気が付くのは、北国はやはり太古の大自然が残されているのが一大特徴であろう。 そしてやはり、文化的な香りが漂う土壌はやや西日本に軍配が上がりそう気がするのである・・??。

実を言うと今時既に「西日本の周遊」を終えていて、やはり感想というか印象に残ったのは歴史、文化の色の濃さであった。 特に著名な神社、仏閣、墓稜、歴史的遺産などの歴史を刻む建築物が大いに目を引いたのものであった。 

北海道にもアイヌ文化、蝦夷文化をはじめ歴史的な寺社など、又、古くは縄文期の遺構、遺跡等・・多く存在しているが、注目度としては西方のほうが、神話や古書を含めた歴史の広さや深さにやや軍配が上がりそうなのである。  


そうした中でも北海道へは何人かの文化人が渡来してきて、それなりの影響を残している。
幕府の役人、探検家として渡来した文化人は伊能忠敬、間宮林蔵、近藤重蔵、松浦武四郎、最上徳内など、商人、船乗りなど商行為のため渡来したのは高田屋嘉平衛、銭屋五兵衛など、又、文芸、絵画、書道、評論などで渡来した文化人は池野大雅、菅江真澄、大原呑響などとされている。

そして「僧侶」として布教のため渡来したのは、「円空」をはじめ木食、文翁、壮海、秀暁など各上人たちがいる。 
お節介のようだが、蝦夷・北海道文化や近代史に興味のある御仁は、これら先駆者といわれる人々のことをより深く調べ・研究することによって、より一層北海道への理解が深まるのではとも思われる。



そんな中、美濃(岐阜県)出身の「円空」が北海道に渡ったのは、江戸初期の寛文5年(1665)であった。 
鉈(なた)一丁を下げての遊行僧・円空は、北辺の地・蝦夷地でも意欲的に作仏活動を続けていて、現代から300年の風雪を経てもなお円空仏は今も人々の信仰を集めているという。

円空上人は寛永9年(1632年)、美濃国(現岐阜県)生まれ、早くから小僧として仏門に入り、やがて寺院を出て窟ごもりや山岳修行をするようになる。 そして美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深め、随所で「鉈作り」や「木っぱ仏」と呼ばれる仏像を彫刻し、残している。  
円空は、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを分別しながら刻み歩いたようである。

その足跡は、美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北そして北海道にまで及んでいる。 元禄8年(1695年)、故郷で64歳で亡くなるまでにその数は何と「12万体」に及んだともいわれ、晩年の作は他の追随を許さない境地に達し、日本の彫刻史上確固たる地位を占めているといわれる。

寛文6年(1663年)に流浪の身を咎められ、津軽藩の弘前城下からも追われて松前に渡ったことは知られてる。 その後、道南の渡島半島の各地を廻り、広尾や釧路の近くに至るまで多くの仏像を彫っている。
円空はその生涯の多くの時間を旅とその途上での仏像の制作に費やした人のようだが、なかでも30代半ばの蝦夷地(北海道)への困難な旅の目的は、有珠善光寺や太田権現という道南の古刹霊場に触れる事だったようで、彫り上げたその殆どの仏像は洞窟の中などに祀られているという。

因みに、「大田権現」は渡島半島西部・瀬棚町大成区大田にある日本海に面した社宮で、古く平安期の頃から祭られていて現在は「太田神社」とも呼ばれている。 参道は山道で急傾斜の崖を登り、更に、百数十段の急な石段を鎖・ロープにつかまって登る難所で、鉄ばしごやロープを伝う急な山道や絶壁を進むこと約40分、拝殿に「猿田彦命」が祀られている。 
太田山(485m)全体をご神体とする山岳信仰の場でもあり本殿は、太田湾を一望する山頂直下の切り立ったがけの岩穴にある。 
当初は庶民が地蔵尊を祀ったのが始まりらしく、その後「円空」等によって観音像が祀られた円空仏堂もあるという。 航海の守り神、霊神の加護として信仰されている。


円空が釧路まで足を延ばしたかは定かではないらしいが、釧路の厳島神社に円空の彫った観音仏が祀ってあり、日本で最も北東の地にある円空仏であるという。

円空が渡った江戸の初期には、松前藩によるアイヌに対する支配が浸透しつつあった時期だが、当時、円空の彫った観音像をアイヌの人たちが「アカンカムイ」として拝んでいたといわれる。 
円空は、アイヌの人たちの居住域をも旅しているので、アイヌの世話になることも多く、円空が彫った像がアイヌのカムイ(神)として祀られ、拝まれたこともあったと想像できるのである。



円空が仏像に「くすりのたけごんげん」などと銘打ったことについて・・、

円空が仏を彫るにあたって、背銘にそれぞれ「いわうのたけのごんげん」、「くすりのたけごんげん」、「たろまえごんげん」などと記されてあるという。
当時は蝦夷地といえど、遊行者でも自由に旅をすることはできなかった、そこで背銘にその名を刻し、仏が安置されるべき場所を書いたともいわれる。 
因みに、「いわうのたけ」は豊浦町礼文華の「いわう岳権現」(岩屋観音)、「たろまえ」とは苫小牧市高岳の「樽前岳権現」(樽前神社)であり、「うすおくのいん小島」は有珠善光寺・奥の院小島(洞爺湖中島)であり、そして「くすりのたの・・、」とは釧路市米町「久寿里岳権現」(厳島神社:アイヌの聖地といわれる)であることは明白であるという。

今の釧路・厳島神社は元々は阿寒大神、つまり厳島神社の原型といわれる円空仏がまつられていたという。 
釧路市史によると、『阿寒大神は、往古よりアイヌ人が「アカンカムイ」(アイヌの神)として祭祀してあったものと伝えられ、むかしは漁船が入港する時、社殿が見える所までくると必ず船を幾度か廻し豊漁と航海の安全を祈念し、また感謝して帰港したものといわれる・』と記している。

阿寒大神(アカンカムイ)は、「阿寒岳を霊峰とする山神さまでアイヌの神」とされているが、円空の「くすりのたけごんげん」が、釧路=久寿里(くすり)地方の霊峰の神に捧げられたことでアイヌにも深く受容されたといい、後には厳島神社が勧進されて海の神としても信奉されている。 
釧路地方のアイヌは松前藩にとっては大事な漁業労働者であり、彼らはアカンカムイを祭祀するが、和人の弁天(厳島神)や稲荷神などの海や漁業の神として、併せて祭祀していたという。 厳島神社は無論、芸州・宮島の厳島神社のことで「海の神」といわれ、航海安全と豊漁祈願のために本来、和人が分霊、勧請したものである。 

現在の釧路・厳島神社の祭神は宗像三神の市杵島姫大神(イチキシマヒメ)であるが、相殿として阿寒大神(アイヌの神)をはじめ、他に稲荷、金比羅などが祀ってある、何れも海や海運の守護神である。 久寿里(くすり)とは「釧路」の語源となったもので、原名アイヌ語のクシル、クシ「越える」 ル「路」からなり、「ここより各地へ道が通じていった」の意味とされる。

次回は、長万部 
尚、洞爺湖や有珠山、昭和新山は「温泉と観光」の項で述べています。



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日本周遊紀行(82)伊達 「伊達家と有珠善光寺」


北海道南部の伊達市は道内でも最も温暖な地といわれ、「北の湘南」とも呼ばれる。
伊達市の「伊達」は、あの奥州の勇・伊達家から由来し、伊達邦成(くにしげ)がこの地を開拓したことから付けられたものという。

伊達」を開いた伊達邦成(仙台藩一門、宮城・亘理地方)は伊達家の15代目当主である。 邦成は亘理(わたり: 仙台より南方25kmの地点、仙台城の南の守備要の位置にある、現・亘理町)の殿様であったが、維新の版籍奉還や廃藩置県の布令で新しい世の中になり、大名たちの土地は国の物となった。 
また、家来の平武士達は平民となり、一部の人々は生活が困難になった。 その為、家老の田村顕允(あきまさ)を筆頭に北海道で新しい暮らしをしようと考え、 明治3年3月、邦成は大工・人夫などあわせて250人々が先ず室蘭港に上陸した。 
その後、モンベツ(現、伊達市:JR駅名は伊達紋別)へ行って荒れた土地に入り、木を切り倒し、笹やぶを切り開いて粗末な小屋を建てて生活を始めた。 移住は明治14年まで9回にわたり行われ、延べ2700人余りが入植したという。

因みに、伊達を開拓した人たちは、国からの募集移民とは違い、食べ物・交通費・農具など自前でお金を出し合い、開拓したともいわれる。
温暖な地(平均気温10度上)の伊達は、道内で早くも米作りが盛んに行われ、又,内浦湾(噴火湾)では海面が黒くなるほど魚類が豊富であったという。これらが幸いして伊達家の人々は次第に、この地に土着していった。

ところで、昨今同じ道内で、石炭の街として有名であった「夕張市」が財政破綻して、四苦八苦している様子が報じられ、話題にもなっている。
現在、我が国自体の財政がきわめて厳しい状況にあるが、(国の借金は平成17年度で凡そ500兆円:国債発行額、国民総員の一人あたり400万円になる。
主要先進国でも最悪国といわれる)危機的な財政状況にあるのは地方財政も例外ではない、特に、財政基盤の弱い地方自治体の「家計」は火の車になっているという。
地方財政とは、都道府県・市町村の財政の総称で、特に財政力の弱い市町村が多いといわれる。 

こんな中、当地、「伊達市」は極めて財政は健全で、毎年の経常収支は道内の市町村でも筆頭クラスの黒字を計上していると言われる。 伊達市は全国で初めてのゴミの有料化を実施したことから、環境への取り組みにも優れている市として知られ、高齢者や障害者手当てを積極的に受け入れ、新しい福祉の考え方を模索・実践している(市民参加型の地方行政モデル)。
又、2005年には、小泉内閣の推進する構造改革の一環である都市再生のモデル都市としても紹介されてる。

国道37号と道央道伊達ICを結ぶ途中に「伊達開拓記念館」がある。
開祖・邦成公ゆかりの家、屋敷、史料、美術品等の貴重の品々が展示・所蔵してあり、周辺は緑豊かな広い庭園で、四季折々の趣が有り市民の憩いの場所になっている。 
伊達市は、伊達・仙台藩の藩祖:伊達政宗の血脈を汲む土地柄であるが、正宗は御存じ戦国の雄として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」といわれる。
その伊達政宗の国家経営が伊達家及び諸侯に浸透し、幕藩体制においても最優良藩であったといわれる。
各種事業での藩興しの傍ら、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したともいわれる。 一説には江戸中期には300万石を超えていたとも。伊達藩を祖としている伊達市は、脈々とその手腕を受け継いでいるのであろう。

合併特例法に基づく市町村合併で、伊達市は山間部の大滝村と合併することが決定しているという(壮瞥町を間に挟むため飛地合併となる)。 当初 1市1町1村(伊達市・壮瞥町・大滝村)が合併の協議会を開催していたが、2004年12月に一旦解散している。 その後、 1市1村(伊達市・大滝村)で協議会を再開し、2005年3月に合意・調印され、2006年3月に実施されるという。 
飛地の合併というのは行政区域がバラバラで、行政運営や都市計画上など、やり難い面も多いと思うが・・?。 

因みに、道内では昨日通過した「日高町」が同様の飛地合併になっている。 
2006年3月に新設合併される旧日高町・門別町の2町で新たに「日高町」となる、間には、平取町が入っている。 
尚、ほぼ同時期に後から誕生する「新ひだか町」(静内町と三石町とが合併)とは関係ないらしい。



伊達の市街地を抜けると広々とした見通しの良い丘陵地が広がっている。 
遠くの山並みは有珠山であろうか、手前を傍若無人に道央自動車道が横切っていて景観を損なっているが。
国道37号線は室蘭本線と並行して走っているが、この路線を跨いだ海岸寄りが「有珠」の駅前だった。 有珠は、こじんまりした町並みで、駅舎はチョット洒落た洋風がかった左右対称の建物であった。ただ、駅前は人の姿は見られず閑散としている。

有珠・ウスはアイヌ語の「ウシ」(湾)からでたものらしい、そう言えばすぐ近くに有珠湾の入り江があって、湾を取り囲むように町並みが立ち並んでいるようである。
国道をこのまま進めると、「有珠・善光寺」という古刹寺院があるらしく、長野の白馬に別宅を持つ小生にとって「善光寺」というのは長野の「善光寺」を思い起こし、懐かしい名前なのでチョット寄り道してみた。


http://www.c-player.com/_images/archive/d010DVF9GCRMUTKJ3PQVE4AU0BI2DF5JNDLF3KFC2NU5PD9VM253QJM/large
国の史跡に指定されている茅葺屋根の古刹・「有珠善光寺」本堂


茅ぶき寄せ棟造りの本堂をはじめ、重厚な建物が江戸時代のたたずまいを伝えている。
近年を含め江戸期の二度の有珠山噴火からも難を逃れてほぼ原型をとどめているという。その本堂伽藍もさることながら、庭園の素晴らしさ広大さに舌を巻く。 

有珠善光寺」は大洋・噴火湾に面して建っている。
当寺院は、徳川幕府から「蝦夷三官寺」(厚岸町の国泰寺、様似町の等じゅ院)なる指定をされているという。 根本堂の歴史は古く平安初期、比叡山の僧・慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し開基したと伝えられている。
江戸の芝・増上寺の末寺で総本山は京都・知恩院ということで浄土宗のお寺であり、長野の善光寺とは直接の関係はなさそうである。 

因みに長野の善光寺は、仏教伝来(538年)とほぼ同時に創建されたと言われる由緒あるお寺で、従って仏教が各宗派に分かれる以前のものであり、宗派は持たない。
つまり、宗派における付属の寺や末寺は無かったのである。

5万平方米にも及ぶという庭園は、古くから桜の名所として知られ、昭和初め頃までは有珠駅前から寺まで、数キロにわたって桜並木が続いていたらしい。(その多くは戦後の混乱期に燃料として伐採されてしまったらしい) 
花見は庶民の数少ない娯楽のひとつで、季節になると「桜列車」も出るほどの賑わいだったという。 もちろん、今も境内に咲く桜を見に多くの観光客が足を運ぶが。 
境内にある「有珠郷土館」には、釈迦如来大仏(道指定文化財)、円空上人の鉈作りの観音菩薩(同)などの文化財・宝物が数多く展示されている。

その「円空上人」は、全国各地を放浪して数多くの鉈作りの仏像を残し、日本彫刻史上に特異な地位を築いた人物として知られる。(登別・地獄谷の項で述べる) 円空は、善光寺を再興し本尊ほか一体を奉納し、また傍らの小祠にも三体を奉納したといわれる。
その前後に有珠山に登り、眼下の洞爺湖に浮かぶ「中島」を善光寺・奥の院と定め、あるいは湖中の中島(現在の観音島)に渡ったあと、善光寺・円空の彫像を納めたらしい。

次回も伊達市「円空と蝦夷」
 
 

【Yahooからの案内です】

(小生が折に触れて利用している旅、旅行の案内サイトです。尚、独自リンクは上、下記に記載)


 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

 
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日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文学とイヨマンテ」


前回に引続いてアイヌ文化の一端であるが・・、


アイヌは文字を持たなかった・・!!」、 その意味合いで好例がある。 
ユーカラ」という言語、アイヌ語をご存知の方も多いと思われるが、ユーカラ(Yukar)とは「物真似をすると」いう意味で、アイヌに伝承・口承されてきた叙事詩といわれる物語文学の一つである。 「孤児として育った少年が両親の仇を討つ物語や許嫁(いいなずけ)の奪還のため敵と戦う・・、」という戦いの数々の物語で広義には主に女性や自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩(民族その他の社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡を叙述する作品)のことである。

アイヌの人々が文字を持たないアイヌ語によって、自然の神々の神話や英雄の伝説を口伝えの言葉による豊かな表現で語り伝えてきた。 しかし、アイヌ語・アイヌ文化の衰退とともに、「ユーカラ」をはじめとする口承文芸の語り手も次第に少なくなっていったという。 
ただ近年アイヌ語・アイヌ文化の復興運動の中で、ユーカラをはじめとする口承文芸を習得しようとする気運もたかまり、研究や学問によって新しい「語り手」も育ってきているという。

「ユーカラ」を和人世界に紹介したのは言語・国語学者の金田一京助氏であり、そして、最大の伝承者はアイヌの「金成まつ」である。 
金成まつは、若い頃習い覚えた「ローマ字」で妹と永年手紙のやりとりをしており、日本語も堪能であったという。 「金成まつ」がユーカラを書きだすのは、先ず前人の書いたものを見習い、暗誦しているものを思いつくまま自由に書き流したもので、ローマ字を使って自分の言葉を記録したものである。 
これに、金田一氏が「訳と注」を付けて出版したものである。

それは、15年以上かけ70余冊、実に1万7千ページに及ぶ堂々たるアイヌ文学の巨冊が出来上がったのである。 金成まつはアイヌ名・イメカヌといい、執筆したのは晩年の54歳から70歳の期間であったといわれる。  彼女はクリスチャンで日高・平取の教会に勤務し、その後、35歳の頃から旭川郊外の近文(ちかぶみ:地名)で伝道に従事しながら、大正7年にアイヌ語の調査に来た金田一氏と出会っている。 
氏は、金成まつや妹の家族と親交をもちながら共同作業のような形で長期にわたり研究、執筆を続け、遂にノート17、000ページにおよぶ大著を完成するに至る。 金田一京助氏は大量のアイヌ文学記録化の功績が認められ、紫綬褒章を下賜されている。
同時に、「ユーカラ」は無形文化財に指定されている。

金田一氏が訳・注を付けて全7巻の「金成まつ・ユーカラ集」が三省堂から出版されている。



先にも記したが、アイヌの民族文化に「イヨマンテ」というのが有る。 熊の霊送りやお祝いのときに踊るもので神々への感謝の意味が込められている祭事である。 
熊猟で成獣を仕留めた際に残された仔熊を人里へ連れ帰り、1〜2年飼育した後、盛大な儀式を執り行って親元である神の国に「送る」儀式である。 この際「送る」とは、実際には「殺す」という行為である。
狩猟を主な生業の一つとしていたアイヌにとって熊は最も位の高い神の一つであり、熊の霊送り=イヨマンテはアイヌ民族の最大の儀式であると同時に、アイヌ文化の核心でもあるという。 
江戸期の頃までは、全道の各地に散在するコタンで盛大な「イヨマンテ」が行われていた。
だが、明治以降の同化政策によってアイヌの生活文化が急激な変容を受け、言語をはじ多くの習俗が現実の生活から遊離していったように、年間の最大の儀式であったイヨマンテも次第に行われることが少なくなってきたという。



白老町であるが・・、

この地は日本人が入植するはるか以前から、アイヌコタン(アイヌの大集落)があった地域であり、古文書にもいくつかのコタン名が記載されており、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいるという。

白老町の観光の一端として、観光客の人々に対し有志らがアイヌ民族の解説をしたり伝統芸能を披露したりして、それら文化的観光事業として時折、「イヨマンテ」が古来通りに行われていたといわれる。 
しかし、戦後に至ると、こうした儀式そのものも殆ど行われなくなり、以前のようにコタンをあげて実施していたイヨマンテは白老町でも昭和29年の町制施行記念の行事として盛大に行われたのが最後であったという。 
「イヨマンテ」は国の重要無形民族文化財に指定されている。


ところでアイヌの食文化の中での排泄行為、つまり「トイレ」の事についてであるが・・、
昔のアイヌ文化には便所は無く、一定の場所で用を足すという習慣はなかったという。 
アイヌ語で便所のことを「アシンル(asin-ru)」といい、「新しい路」という意味があるそうで、森の中の方々で用を済ませたという。 
しかし、近年になって倉の脇にあるゴミ捨場のそば等一定の場所で「用を済ませる」、つまり便所としての用途が定着したようで、それらの資料も残っているという。
この便所については、もう一つの違う使われ方がされたとも伝えられる。 それは熊のお仕置き場としてで・・、熊は神としてアイヌの間では大事に扱われてきたが、時として人を襲い噛み殺した場合など首をはねて、この便所脇に首を吊るし「人間を殺すと汚物をぶっかけるぞ」という、他の熊への見せしめだったそうである。


『イヨマンテの夜』伊藤久雄唄 (昭和24年)

アホイヤァーーーーー 「イヨマンテ」
熊祭(イヨマンテ) 燃えろかがり火
ああ 満月よ
今宵 熊祭 踊ろう メノコよ
タムタム 太鼓が鳴る
熱き唇(クチビル) われに寄せてよ
ああ ーーーー ーーーー ーーーー
あああ ーーー イヨマンテ


次回は仙台(伊達)縁の「伊達市
(尚、登別は後編の「温泉と観光」の項に記載します)



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