『日本周遊紀行』

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北海道・南沿岸

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日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文化」



苫小牧の市街地を抜けると国道は36号線となって再び海岸沿いを走りながら、間もなく室蘭本線と真近に並行して、白老町(しらおい)に至る。 

都市対抗野球で大昭和製紙が北海道(白老町)の代表として、出場していたので、その名称は承知しているが、一般に白老町は登別市、苫小牧市に挟まれ、存在感がやや薄いようであるが・・?。
登別は温泉の街、苫小牧は港湾都市、紙の街(新聞紙の生産は日本一)として全国的にもある程度の知名度があるが、白老はこれに比して地味なのは仕方がない。
白老町に日本人が始めて入植したのは幕末の頃、仙台藩がこの地に北方警備のため陣屋を建設し入植している、これが白老町の開祖と言われ、町内には仙台藩の陣屋史跡や資料館も在る。



「白老町」はアイヌの町である。

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この地には和人(日本人)が入植する遥か以前から、アイヌコタン(アイヌ人集落)があり、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいるらしい。 
室蘭本線に「白老」という駅がある。
駅の近くには「ポロト湖」が広がり、その湖畔にアイヌの人々が生活していた「ポロトコタン」が在って、その中に日本で唯一の「アイヌ民族博物館」がある。 
「ポロトコタン」は「ポロ(大きな)ト(湖)コタン(村)」のことで「大きな湖のほとりの村」という意味になる。コタンの入口には大きい像(コタンコルクルの像:部落の首長)が出迎え、北海道犬やヒグマの檻、アイヌの復元住居(チセ)などがある。 
チセ(アイヌ語で家)にて、アイヌ民族の楽器「ムックリ」の演奏やアイヌ民族舞踊の「イオマンテリムセ」の鑑賞をしたり、アイヌ文化の説明・紹介などをしているという。



アイヌは蝦夷地(北海道)の先住民であるが、江戸期頃より和人が各所に入植し、勢力を拡大するに従って葛藤を重ねながらも共存するようになる。 その後、明治政府の同和政策にて渾然一体となるか或いは衰退し、純粋なアイヌは近年では伝統文化を伝える見世物に成ってしまったようである。
思えばアイヌ民族は、「アメリカインディアン」やオーストラリアの先住民である「アボリジニ」などと同じ運命を辿ったことになるのだろうか・・?。 



「アイヌ」の事であるが・・、 

アイヌとは、「人、人間」を意味する。 
「アイヌ」=「人間」、つまり、アイヌ人という言い方は意味的にはおかしいかもしれない。アイヌ民族は「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで祈り、さまざまな儀礼を行う。 
それらの神々には火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、 舟、家財道具といった物神、更には家を守る神、山の神、湖の神などがある。 それらの神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶという。

アイヌ民族とよく言われるが、広い意味での民族としての分布があるようで、千島列島北端の占守島(シュムシュ島)からウルップ島までを「千島アイヌ民族」、 樺太(北蝦夷地)の南半分を「樺太アイヌ民族」、 そして日本固有の領土である北方四島を含む北海道から現在の青森県の一部を「北海道アイヌ民族」と分類出来るという。そして、これら分散しているアイヌ民族の文化圏をアイヌモシリ=「人間の国」(アイヌ=人間 モ=静かな シリ=土地)、で「アイヌ民族の国土」と呼んでいた。

又、江戸期における北海道、つまり蝦夷地を地理的に分類すると松前からみて、東の方を東蝦夷地、西の方を西蝦夷地とよんでいる。 詳しくは、渡島半島・八雲町あたりから内浦湾(噴火湾)、襟裳岬を経て知床岬にいたる太平洋岸に面した地域を指して東蝦夷地といい、これに対して熊石町以北、瀬棚、寿都、増毛、宗谷を経て知床岬にいたる日本海、オホーツク海岸の地域を西蝦夷地といっている。 
因みに、八雲町から熊石を結ぶ線から南の間を和人地と呼んでいたようである。



アイヌ人と琉球人は面相、体型、そして体質までもが似ているといわれる。 
元々、琉球から蝦夷まで古代の和人(北方モンゴロイド系人・・?)は同一人物系だったが。その後、大陸や半島からの伝来文化の影響を強く受けて急進化してきたのが和人(アイヌ以外の人々)で、ほとんど影響を受けずに小進化してきたのがアイヌと琉球人であるといわれる。


アイヌの歴史は、大和民族程の歴史ほど鮮明ではない・・!
 
それはアイヌ民族は元来文字をもっていなかったので物語や伝説、体験談や人生の教訓などの全てを口承(口伝え)によって語り継いできた、つまり文書による記録が存在しなかったためと言われる。
アイヌ民族は古来から固有の文字を持ってなかった・・!、
尤も日本のカタカナやひらがなは漢字から変化したものであり、漢字はお隣の中国から伝来したものを長いこと使ってきたもので、いわば借り物なのである。


アイヌ民族は、なぜ文字を使わなかったか・・?、

一般に、普通の人々が普通の生活をするのに文字などは必要では無いのであって、文字使用の目的、手段は主として記録として残しておく事の必要性から生じたといわれる。 それは、国家なり、支配者一族が指示命令を伝達したり、事績(歴史)の記録を残すことが、必要とされた文字記号の使用法だったと考えらるという。 
アイヌ民族にとっては社会構成上の段階的組織などはなく、従って文字の必要がなかったと、ある専門家はいう。 隣地(隣国)に和人がいて文字を使ってはいたが、江戸期の頃まではお互いに、特に文化面では干渉する事もなく、従って必要に迫られて和人から文字を吸収する必要がなかった。 
しかし、社会が急激に進歩し、明治時代になってアイヌの人々が必要と思われて日本語の文字を学べるようになった時には、今度は日本人への同化政策(アイヌの日本人化)がとられ、文字はおろかアイヌ語も次第に日常生活で使われなくなってしまった。



元々、物を書くということは「忘れないために書く」、従って「書くと忘れる」という対極の意味にもなり、書くと安心して忘れてしまいがちなのである。 
アイヌの熟年たちの話を聞くと記憶力、博識なことに驚かされるという。 必死に覚えた知識は頭の中に入っていて、何時でも取り出せる仕組みになっていたらしい。 
現代は情報化社会というけれど、我々は如何ほどの知識を蓄えているのか・・?、アイヌの知識人と呼ばれる人々はパソコンのような頭脳を持っていたのかも知れない。


次回は、引続き「アイヌの事」



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日本周遊紀行(80)苫小牧 「駒大苫小牧高」(2)



高校野球ファンの小生が「歓喜」した年・・!、


この年(2,006年)、駒大苫小牧は中京商(現・中京大中京)以来の73年ぶり3連覇を目指した。
3回戦、準々決勝と粘りの逆転勝ちをして観客を魅了し、決勝戦は駒大苫小牧のエース・田中将大投手と早実のエース・斎藤佑樹投手の投手戦となった。 
そして、20日の試合では延長15回引き分けで決着がず翌日の決勝再試合では、この試合で4連投となった早実斎藤投手の前に3対4で惜敗する。 
駒大苫小牧の3連覇はならなかったが。 しかし、北国のチームが3年連続決勝進出はまさに快挙であり、そしてこの決勝戦は歴史に残る一戦ともなった。 田中将大投手は試合後、「全力でやったので悔いはないし、涙も出てこなかった。」と語っている。

ちなみに夏の甲子園の決勝戦で、引き分け再試合になったのは1969年(昭和44年)大会の松山商(愛媛県)と三沢(青森県)の決勝戦以来・37年振り2回目である。 
この時は延長18回制だったので15回に縮小されてからは初めての決勝引分け再試合であるが、あの時は松山商が再試合で勝利を収めて優勝している。(詳細は「西日本編・松山市」の項で記す予定 ) 

又、駒大苫小牧は2005年夏の南北海道大会支部予選1回戦から2006年夏の甲子園準決勝・智弁和歌山戦まで「公式戦48連勝」を記録していたという。
史上2校目の3連覇がかかった駒大苫小牧(南北海道)と27回目出場で初優勝を目指した早稲田実(西東京)が対戦した試合は、延長15回を終えて1―1で譲らず規定により引き分け再試合となった。本格派右腕のエース、粘り強い打線など決勝で対戦する両校は似た部分が多く、チーム力も互角だが、3年連続決勝進出の経験と日程面での有利さで駒大苫小牧が頂点に近いと見ていた。 

ここまで4試合を戦った駒大苫小牧に対し早稲田実は5試合、先発が予想される駒大苫小牧の田中が2連投に対し早稲田実の斎藤は3連投になる。 さらに駒大苫小牧にとっては、田中が復調の兆しを見せたことは追い風でもあった。
しかし、結果は両エースは譲らず翌日再試合になる。

高校野球FanでTV観戦士の小生は、試合開始を今や遅しと待ち構えていた、それにしても凄い試合であった。 
田中(先発は菊池)と斎藤の投げ合いは予想通りであり、両チームともチャンスは作るが、あと1本が出ない、7回まで0対0、8回に両チームとも1点を入れた時には、これで試合は動くと想定したが更に投手戦が続く、両投手による力のこもった投球に酔いしれて気が付いたら夕刻になっていた。1点をめぐる攻防は更に延々と繰り広げられ固唾を呑んで見ている間に、こうなれば是非引き分け再試合になって欲しいと願うばかりになっていたが、遂にそれが実現し明日へともつれ込んだのであった。 甲子園らしい炎天下、野球の醍醐味を堪能させてくれた1日であり、又、明日1日楽しみを延ばしてくれたのは有難かった。 

次の日、37年ぶりの決勝再試合は大会を一層盛り上げたといってよい。 
TV、新聞は大見出しで大騒ぎをし、野球が低迷すると言われる中、野球Fanならずとも興味を注いだ。 特に、早実の斉藤投手がマウンドで汗を拭くシーンが話題となり、「青いハンカチ王子」といって女性連がもてはやし、久しぶりに「甲子園のアイドル」が出現したのであった。

さて、再戦もやはり投手戦模様で推移したようで、夏の大会は、猛暑の中でエース投手が連投に次ぐ連投で投げ抜くのが常であり、再度の決勝戦を見た限りでは田中投手は調子が万全でなく、むしろ斎藤投手のタフさばかりが際立ったようで、最後は両エースの微妙な調子の差が明暗を分けたようである。そして残念ながら駒大苫小牧高の三連覇はならなかったが、その戦いぶりと結果は多くの人々に、それ以上の強烈な印象を与えた。


平成18年度、仙台・楽天イーグルスに高校生ドラフト一巡目で入団した田中将大投手、甲子園決勝では球史に残る投げ合いを演じた斎藤投手は早稲田大へ其々進路が決まったようだ。 
田中にとっては、何かと斎藤と比較されたことが「嫌でした」と本音を吐露し、斎藤には夏の決勝、国体と敗れたがプロでは後れを取るつもりはない。 斎藤は4年後のプロ入りを視野に入れてるが「年俸とか、成績面とかで引き離していきたい」と言い切った。
勝利の女神は早実にほほ笑んだけれど、北日本勢が力をつけていることを全国に印象づけた。

因みに、1回戦チームと揶揄され、ほとんどの選手を地元出身で固めて山形県勢として初めて準々決勝まで進み、早実を終盤までリードして苦しめたのは日大山形高だった。
2回戦では山形県勢の初ベスト8なるかの注目の試合で、名門・今治西高との対戦は延長13回、今治が2点を挙げて勝負あったかなと思ったが、その裏3点を挙げてサヨナラ勝ちを演じたのだ。 

勝負の結果は「下駄を履くまで判らない」と言われるが、1回戦オンリーの県代表・山形ナインがそれをやってのけたところに意義があり、東北人の小生は当然山形勢を応援していたが、この結果には踊り上がったものだつた。

時に勝負の神様は残酷な演出をするものであるが、一発勝負の高校野球は特にそうであり、ここが又、たまらない魅力なのである。
駒大苫小牧高の選手諸君、感動を有難う・・!!。


【決勝】  
駒大苫小牧 1 - 1 早稲田実 ※延長15回引き分け(決勝での引き分けは37年ぶり2度目)
駒大苫小牧  000000010000000=1
早稲田実業  000000010000000=1



【決勝・再試合】
駒大苫小牧  000001002=3
早稲田実業  11000110x=4



国道235は沼ノ端のウトナイ湖を右に見る、この都会地近くにおいても湖は原野、湿原などの豊かな自然が形成されている。 すなわち動植物の宝庫、野鳥の楽園である。
マガンや白鳥の集団飛来地として、国際的にも知られ、日本では4番目にラムサール条約に登録されている地域であった。 
 
ここから国道はR236となり2車線の広い道を西へ行く、程なくして、右側に、その「駒大苫小牧高」が在った。ゆったりとした広い敷地に北海道らしく白樺の樹林が植栽されている、校門には全国制覇を祝う看板が、校舎には横断幕が掲げてあった。

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近所の親子ずれの小さな女の子が、小生を指差して「ママ、また写真撮りに来てるよ・・!!」の一言が心に残った。


次回は、 白老・「アイヌ文化



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日本周遊紀行(80)苫小牧 「制覇・駒大苫小牧高」


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2004年夏、初めて東北・白川の関、北海道・津軽海峡を越えて全国制覇を果たした「駒大苫小牧高校」



厚真川を渡ると「苫小牧市」にはいる。

苫小牧は北日本最大の港湾都市である。 北海道の空の玄関「新千歳空港」に隣接し、道都「札幌」の表側の玄関口でもあり、首都圏方面へ長距離フェリーも運航している。 
港湾での貨物、製造品の扱い額では人口10倍以上を有する札幌市を上回り、道内はおろか北日本有数の総合工業地として発展している。

こんな「苫小牧」に今年な夏(2004年)、とんでもない事が起きた。 
高校野球ファンの小生にとっても、しびれるような真夏の一日であった。


ところで、高校野球の優勝高は春夏を通じて北日本のチームは一度もない、つまり「白河の関」を未だ越えてないと、よく言われた。 
因みにこれまでの北日本のチームの最高成績を記してみよう。 

昭和44年、51回夏大会決勝戦、松山商(愛媛)0−0、4−2三沢高校(青森)延長18回引き分け再試合。
手に汗握る好試合で、三沢には勝つチャンスは十分にあったが、延長18回決着がつかず、翌日再試合となった、結果は野球王国、四国勢の粘りに今一歩及ばなかった 』   
昭和46年53回夏大会決勝戦、桐蔭学園(神奈川)1−0磐城(福島) 
何といっても磐城は我が母校である。 小さな大投手と言われた磐城の田村とアンダースローの大塚の壮絶な投げあい、1−0で迎えた9回裏二アウト三塁、次の打者は無念ながら一塁フライで終わりゲームセット・・、』   

平成元年71回夏大会決勝戦、帝京(東東京)2−0 仙台育英、 平成13年、73回センバツ決勝戦、常総学院(茨城)7−6仙台育英・・、といずれも決勝戦で敗れている。



2004年、第86回全国高校野球選手権大会は、8月22日(第16日)、決勝戦を迎え、駒大苫小牧(南北海道)対済美(愛媛)の決勝戦が行はれた。
互いに序盤から点を取り合い、逆転に次ぐ逆転の末、駒大苫小牧が13―10で振り切り、済美を破った。 
北海道勢としては勿論、北日本勢としては初の全国制覇を果たしたのだ。

駒大苫小牧は序盤に5点を失いながらも、4回に一気に逆転した。 
6回表に再逆転を許したが、その裏2点本塁打を放ち、すかさず同点。7回連打で3点差。8回にも1点を加え、毎回の20安打で強打の済美に打ち勝った。 済美は3点を追う9回、二塁打から2死一、三塁と攻め立て、合計19安打の猛攻を見せたが、選抜大会に続く初出場初優勝はならなかった。駒大苫小牧の今大会通算打率4割4分8厘は、第83回大会の日大三を上回る大会最高打率で華を添えた。 

TV観戦氏の小生も、あまりの激しい試合に手に汗にぎり、息を呑んだ。 
最終回の2走者でも尚不安がよぎる、西日本勢の粘りの野球には定評があり、いつもホゾをかみ悔しい想いをしてきた。 最後の打者を打ち取った瞬間は、一瞬呆然としたが、すぐ立ち上がり飛び跳ねてバンザイした。 目にはウッスラと泪がにじんだ。

北海道のチームでもやれる」、攻守に輝いた駒大苫小牧が高校野球の歴史を変えた瞬間だった。



決勝戦(8月22日)
済   美      230013010=10
駒大苫小牧    10230331X=13



エピソードを一つ・・、 

大会を制した駒大苫小牧の地元・苫小牧市の桜井忠市長にあてに、福島県白河市の成井英夫市長が23日、祝福の手紙を出した。『「駒大苫小牧高校」・・、全国優勝おめでとうございます・・!!、優勝旗の「白河の関越え」は北国チームの悲願でありました。 初めて実現させた駒大苫小牧高の活躍を讃え、そして白河市の知名度アップへの「貢献」にも有難く御礼を述べます。 ただ、優勝旗が東北を素通りし、津軽海峡まで越えてしまったことに一抹の寂しさもあります。 市職員達は「これで『白河越え』が死語になるかも・・、」という心配もあるようです』・・と。 

市長の現実的配慮に敬意を表したい。



驚いたことに次年・平成17年の第87回大会においても駒大苫小牧高は「連続優勝」を果たしてしまったのである。 決勝戦の結果は、駒大苫小牧(南北海道)が5―3で京都外大西(京都)を破り、大会史上6校目、1947年、48年の小倉(小倉中、福岡)以来57年ぶりの大会2連覇を果たした。



決勝戦(8月20日)

京都外大西 100000200=3
駒大苫小牧 10001120X=5

駒大苫小牧は5試合で2失策の堅い守備と勝負強い打撃、そしてタイプの違う3人の投手起用で熱戦を勝ち抜いた。 特に2年生・田中は150キロを記録する速球とスライダー、フォークなどが武器は、チーム最多の25回を投げきった。 
弱劣と言われた北海道のチーム、「北国の高校は夏の大会では勝てない」というジンクスを完璧に払拭し、揺るぎないものとした。 
連続で全国制覇したことは驚嘆に値するが、これらの連続優勝は平成18年の全国大会を顧みるに及んで、それは序章にすぎなかったのか・・?。 

全国高校野球選手権大会で2連覇した駒大苫小牧高がその後、野球部長が部員に暴力をふるっていた問題で日本高校野球連盟は当該部長に対しては有期の謹慎処分を、野球部については優勝を取り消しかという世間の注目を浴びたが結局、警告処分相当として同校の優勝は取り消すことなく有効であると決定している、当然のことである。

2006年の選抜大会では夏春連覇が期待されたが、更に、3年生の飲酒事件が起こり、出場が決まっていながら辞退するという事態も起きている。 しかし、これらの問題にも一向にメゲズ、2006年の全国大会には堂々と甲子園出場を果たしたいる。

そして、ヤンヌルカナ・・!!
再び再び、3年連続、決勝戦に勝ち進んできたのである。


次回も「駒大苫小牧高



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写真:新冠の道の駅:ハイセイコーの馬像



日本周遊紀行(79)日高地方 「新冠、門別、鵡川」


二十間道路の進入地点である道道71を横断すると、間もなく「新冠」(にいかっぷ)に入る。 新冠もサラブレット生産地としてよく耳にする町名である。
新冠川に沿って北上すると「明和牧場」がある、御存知「ハイセイコー」の産地である。

シンザンを越える強い馬は、近い将来おそらく出るであろう、しかしハイセイコーの人気を上回る馬はおそらく出ることはないだろう』とまで言われた馬である。

昭和48年、弥生賞が行われる中山競馬場には12万3千人という史上空前の超満員となっていた。 地方で連勝を重ね、初の中央進出であったためである。 その後も10戦10勝、ハイセイコーの不敗神話は頂点に達した。 
その後ダービーでも「あの怪物ハイセイコーが負けるわけがない」と、ハイセイコーは単勝支持率66.7%という圧倒的な一番人気で、ダービー史上最高でおそらくこれから先も破られることがないだろうと思われる支持率である。
しかしその「ダービー」でハイセイコーは3着と敗れたのだった。 勝ったのはハイセイコーの終生のライバルになるタケホープであった。 
その後の成績はあまりかんばしくなく、人気が実力を潰した感じであったという。 戦績は地方で6戦6勝、中央で16戦7勝。 
ハイセイコーを送る歌として騎手の増沢末夫が歌う「さらばハイセイコー」が作られ大ヒット曲となったのはご承知である。

国道235沿いに「道の駅・サラブレッドロード新冠」がある。名前の通り各名馬の像が並んでいる、道路際には一際大きくハイセイコーの馬像が建っていた。



馬をやらない小生が勝手に選んだ新冠産名馬:ハイセイコー、スピードシンボリ、ナリタブライアン、トウカイテイオー、タケシバオー

 


門別町」には日高地方唯一つの公営競馬場が在る、門別競馬場である。

克って北海道競馬のトレーニングセンターとして使用されていたコースを、改装して造った日本一新しい競馬場である。 コースは一周1,600mと中央競馬場にもひけを取らないが、スタンドは収容人数500人という小さなものであった。 
北海道主催の公営競馬場は、現在は門別の他札幌、旭川の三箇所であるとか。


序ながら北海道特有の「ばんえい競馬」について・・、

馬がそりを曳きながら力と速さを争う競馬の競走で、一般には「ばんえい競馬」と呼ばれ、乗馬に対し輓馬(ひきうま)で曳くことから「輓曳」(ばんえい)と表記される。世界で唯一、北海道でのみ行われている競馬である。

一般の平地競馬で使われているサラブレッド系種などの「軽種馬」は使わず、古くから農耕馬として利用されてきた体重約800〜1200 kg前後の「ばんえい馬」(重種馬)が、騎手と重量物を積んだ鉄製のそりを曳き、2箇所の障害が設置された直線200 mのコースを力と持久力を競う。 
荷物を運びきる事を重視しているので、ゴールは通常の競馬と違って「鼻の先」ではなく、最後尾が通過した時点で判断するのが特徴である。 速さだけだなく、パワーと持久力がもとめられ、一気に攻めたり、いったん止まって力を貯めたりと、坂の前で見せる旗手同士の駆け引きも勝敗のポイントになるという。

ばんえい専用の競馬場としては北見・岩見沢・帯広と、平地競走(北海道競馬)と併催する旭川競馬場の四箇所で持ち回りで開催していたが、近年のレジャーの多様化などで売り上げが伸び悩み、平成10年頃には赤字に転落する。 厳しい運営状況から旭川市・北見市・岩見沢市が撤退を表明、残る帯広市も単独での開催継続は負担が大きすぎるとして難色を示し、ばんえい競馬は60年の歴史に幕を閉じ、廃止が濃厚と見られていた。 
しかし、ファンらの嘆願やソフトバンク子会社の支援を申し出たことから、以降はは帯広市単独での開催継続が決まったという。

輓曳競馬の由来は北海道開拓期における余興や催事として行われたのが始まりで、木材を運び出していた馬の力比べに起源を持つという。 
当初は2頭の馬に丸太を結びつけ、互いに引っ張りあっていたというが、明治末期頃から荷物を載せたソリを引かせる現行の競走方式が登場した。 
最古の輓馬競走の競技記録として相撲好きな北海道らしく、ソリに土俵を乗せて競走が行われたことなども記載されているという。



馬をやらない小生が勝手に選んだ門別産名馬=スペシャルウイーク、シンボリルドルフ



国道235は鵡川町(むかわちょう)に入った。

今まで「馬」に関する記述が多かったので、ここらで話題を変えよう。
鵡川町のほぼ中央に日高山脈を源流とする比較的大きく道内一の清流・「鵡川」が蛇行を繰り返しながら穏やかに太平洋に注いでいる。
この川に秋になると大量の「シシャモ」が遡上すると言い、鵡川はシシャモの街で「町魚」にもなっている。 
シシャモは栄養豊富な魚でビタミンA、B2、D、Eが含まれている、勿論、カルシウムの所要量は高く、1日の必要量が7〜8匹で摂取できるという。 最近では『骨粗しょう症』や『老化防止』などの、手軽な食品として重宝がられている。

シシャモは和語で「柳葉魚」と書く、 ところが、全国で市販されている「子持ちししゃも」の90%は柳葉魚ではないという、カラフトシシャモといって価格が安く、外観や食感が柳葉魚に似ているが本物の柳葉魚の風味には到底かなわないそうだ。 カラフトシシャモの鱗は、小さくほとんど無いように見えるが、本物の柳葉魚の鱗は、大きくはっきりとしている。 スーパーや居酒屋でチェックしてみるとおもしろいかも。

鵡川町の柳葉魚で、一杯飲みながら本物の柳葉魚の風味を味わいたいものである。
時期になれば、地元の鮮魚店で全国宅配も有るという、純品は季節限定である。
国道235号と鵡川・鵡川橋のたもとに、その名も「シシャモパーク」と云う公園が在る。


更に、「馬」の話であります・・、

厚真町と苫小牧に挟まれた北側に「安平町」(あびらちょう:2006年3月、早来町と追分町が合併して誕生)というのがある、この町でも一頭の名馬を輩出している、「ディープ・インパクト」という馬である。

ところで「ディープ・インパクト」とは、数年前の上映された映画(1998年、アメリカ)の題名で、地球に巨大彗星が直撃することが明らかになり彗星を爆破しようとするが失敗、 彗星の一部がカリブ海を直撃してアメリカ全土を超巨大津波が襲う。 彗星本体の直撃まで後数時間、人々はどう行動するのか、というSFパニック映画である。若年期よりSF映画の好きな小生は、早速は拝見しているが。

そして更に米航空宇宙局(NASA)の探査機「ディープ・インパクト」が2005年1月、ケープカナベラル空軍基地から打ち上げられた。 こちらも同じく彗星で、この星に衝撃弾をぶつけ、彗星の内部構造を解明しようという大胆なプロジェクトである。「ディープ・インパクト」とは以上のことで馴染みのある名称だった。 

しかし、3度目の「ディープ・インパクト」では、馬をやらない小生にとってもディープのインパクトを与えてくれた。  そう・・、引き続き馬の話なのである。

凱旋門賞」というフランスで行はれた世界最高峰のレースといわれ、世界の最強馬決定戦の意味合いで「ディープ・インパクト」が出場したのであった。 本年(2006年)のその日、日本の放送史上初めて地上波での海外競走馬の生中継が行われたことでも話題となったが、しかし、ディープインパクトはレールリンク、ブライド(ともにフランス)の強襲に合い3着に終わった。 
しかも、その後、薬物使用と判定され失格処分になったが、ゴール前の得意の直線コースで、「らしさ」の切り裂くような走りが中央で揉まれて出来なかったのである。

ディープインパクト」は北海道早来町(現在の安平町)の「ノーザンファーム」で生まれている。その後、栗東トレーニングセンター(滋賀県栗東市・琵琶湖近辺)池江厩舎に所属する。 2歳でデビューするとクラシック(桜花賞、皐月賞、オークス、日本ダービー、菊花賞)へ順調に駒を進め、2005年に史上6頭目となるクラシック三冠馬(皐月賞 、東京優駿:日本ダービー、菊花賞)に輝いている。

シンボリルドルフ以来、史上2頭目となる無敗の三冠馬として2005年には社会現象的に注目される存在となったが、この年の締めくくりを飾る「有馬記念」ではハーツクライに破れ生涯初の黒星を喫した。
なお主戦騎手である武豊氏は、皐月賞における同馬の走りを「飛んでいる」ような走りと表現しており、以来ディープインパクトの走りは「飛ぶ」と表現されるようになる。そして有馬記念の敗戦の弁では「今日は飛ばなかった」と評している。

凱旋門賞の後、圧倒的戦績とファンの惜しむ声を振り切って年内限りで現役を引退することを表明した。 フランスからの帰国後はジャパンカップ、有馬記念を危なげなく制しシンボリルドルフ、テイエムオペラオー、アドマイヤドンに続く四頭目の七冠馬(クラシック三冠を含めG1を7勝)に輝き、2006年12月24日の有馬記念の圧倒的勝利を最後に引退、同日の最終レース終了後にそのまま引退式が行われた。

既に総額51億円の種牡馬シンジケートが組まれており、今後は、同じく北海道安平町の社台スタリオンステーションで種牡馬入りするという。戦績は14戦・12勝(勝率8割6分)1敗1失格。 「ディープインパクト」について武豊は、「走りたいと思う気持ちを強く持ちすぎていて、乗るのが難しい馬」と語っている。 

普段は人懐っこくておとなしく、厩舎では「お坊ちゃま」のニックネームで呼ばれていた。 厩務員の市川氏は「素直な性格」は「天然」だとも言って、非常に利口な馬で普通の馬が10回で覚えることをディープインパクトは2、3回で覚えると調教助手は語っている。

菊花賞で無敗の三冠馬となったディープインパクトだが、同じ無敗の三冠馬のシンボリルドルフ(17戦・14勝:勝率8割2分、3敗:2・3・6着)との比較という点においては、同馬の主戦騎手だった岡部氏が「ルドルフのほうが強い」と答えている。 しかし、自ら「ディープの追っかけ」と言うほどディープインパクトのファンでもあった。 
柴田政人騎手は「ルドルフを超えたというよりも、すごい馬が出てきたという感じで、ポテンシャル(潜在能力)は他の馬とはまるで異なる」と評している。


次回は苫小牧・「全国制覇・駒大苫小牧高」


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日本周遊紀行(78)日高地方 「静内の開拓期」


北海道・静内と四国・阿波・・?、


静内は江戸末期から明治初頭にかけて一種の過渡期を向かえる、それはアイヌ文化の終焉期、そして和人達による開拓期でもあった。



話は、突然であるが南国・阿波の徳島へ飛びます。

戦国時代、信長の後を継いだ豊臣秀吉によって天下はほぼ治まった。 
秀吉の重臣であった蜂須賀氏は、四国攻めに功が有ったとして阿波の国・一国を与えられる。 ご承知秀吉と蜂須賀の関係は、彼が幼名「日吉」の頃矢作川で出会って以来、終生子分になることを誓っていた。(小六、太閤記) 

その蜂須賀小六の重臣に稲田氏がいた。 
重臣とはいっても小六とは義兄弟の仲であり二人はともに豊臣秀吉のために戦い大いなる功績を残している。 蜂須賀氏が阿波16万石になったとき、城代家老であった稲田氏は1万4千石で淡路・洲本城を預かっている。 
稲田家は瀬戸内を中心に豊かな経済力をもち、また貴族や公卿とも縁組をするなど、その地位を高めていった。 一方、蜂須賀家は徳川家と縁組を持ち、松平家を名のるほどになる。

江戸末期、尊皇攘夷の風が吹く中、稲田家とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。 又、蜂須賀家は徳川近親であることから公武合体の中立を保つ。 
稲田家は維新戦争の際には官軍として多数の人員を派遣し、明治維新には大きな功績をのこしたはずであった。藩として方向性の異なる両家は、次第に確執を生ずるようになる。


明治政府は明治2年、「版籍奉還」、「廃藩置県」を実施した。 
特に武士の身分を士族と卒族(平民)に分け、俸禄も減じられた。 
稲田家は元々蜂須賀家の家臣だった為その減額は甚だしく、家臣は士族への編入を嘆願するとともに稲田家の分藩独立運動をおこした。 堪りかねて蜂須賀家の一部過激派が決起し、鉄砲、大砲を持ち込み洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃するという一大紛争となった。これに対し稲田側は一切無抵抗であったといわれ・・、被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り焼き払われた屋敷25棟にのぼったという。

明治政府はこの事件が一部の激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で激派を煽動していたりはしなかったか調査をし、仲裁に乗り出して解決に至った。 
その判決・決済は両者共に厳しいものとなった。 

徳島藩側主謀者10人に切腹、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。(武士社会に於ける、最後の切腹事件といわれる) 又、稲田家側は朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の「静内郡と色丹島」(後に返上、現北方領土)への移住・開拓が申し渡された。 
勤皇党で明治維新に大いに貢献した稲田家にとっても過酷な内容であった、が見方によっては両家の怨恨を無くする為に、お互いを遠ざけた結果とも云える。
この事件を「庚午事変」((こうごじへん:稲田騒動)と称してる。


明治3年、版籍奉還★(後の廃藩置県★につながる)がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた稲田邦植と137戸、546人の旧家臣たちは、三隻の汽船に分乗し淡路・洲本港を出発する。 そして春まだ浅い北海道・静内の海岸に到着した。  
ここに静内町の開拓の歴史の第一歩が刻まれたのである。  



この静内町の開拓の歴史、稲田家家臣の壮絶な開拓者魂を主題にした映画「北の零年」が本年(2005年)製作された。 これは製作費15億円を投じて長期ロケを敢行、豪華キャストに加えて延べ7000人のエキストラなど、すべてが近年の日本映画の常識を打ち破る文字通りの「大作」と言われる。 
キャスト吉永小百合、渡辺兼、豊川悦司、柳葉敏郎、石原さとみ、香川照之、石田ゆり子他、名優多数、来初春、2005年1月大公開された。

又、船山馨の時代小説「お登勢」はこの時代、ここ稲田藩を背景に描いている。そのNHK金曜時代劇で沢口靖子主演で本年秋TV放映された。

 

★「版籍奉還」(はんせきほうかん)

1869年(明治2)に明治政府によって行われた地方制度改革で、薩摩・長州など多くの大名が領土(版)、領民(籍)を朝廷(天皇を中心とした中央政府)に奉還したもの。 これにより形式上は中央集権の国家体制となったが、知藩事には旧来の藩主、大名が任命されたので実質的にはまだ不十分であった。 そのきっかけを作ったのが幕末動乱期の徳川慶喜で、将軍としての地位や徳川領を投げ捨て(実際は所領は取り上げられる)大政奉還を断行した。 この時を以って徳川幕府の各藩支配(幕藩体制)が終了したのであり、武士の統領である徳川家が先ず「版籍奉還」を行った一種の事例といえる。 その後は先ず薩摩・長州・土佐・肥前の各藩の藩主の連名によって「版籍」が「奉還」されることになり、他の藩もそれに倣って一斉に版籍奉還が行われた。 明治2年ことであった。



★「廃藩置県」(はいはんちけん)

明治維新後の1871年(明治4)に明治政府がそれまでの藩を完全に廃止し、地方統治を中央管下の府や県に一本化した政治改革である。 廃藩置県の主目的は年貢を新政府にて取り纏め納める、即ち中央集権を確立して「国家財政」の安定化を図る。 又、「国家徴兵制」を確立するもので、軍制を敷くために各藩から派遣された藩士が国家の兵士となり、国としての軍隊を構成することにあった。 これは富国強兵もさることながら、全国約200万人に上るとも言われる藩士の解雇と雇用にも関係するものであった。 藩が廃された結果、当初、地方は3府302県となり,知藩事に代わって府知事・県令(のちの県知事)が中央から派遣された。 更に府県を統合して3府72県とした。(更に後の1890年には、ほぼ現在の3府43県としている)



国道235号線の静内市街地より道道71(平取静内線)で内陸へ5kmほどいった所に静内の名所「二十間道路」が在る。 日高山地に向かって直線凡そ7km、両側にわたってエゾヤマザクラが約一万本咲き誇る。
ここは道内では松前公園に次ぐ桜の名所である。

大正5年、御料牧場を視察するための皇族方を迎えるために3年の歳月をかけて近隣の山からエゾヤマザクラをこの道路の脇に移植したのが始まりで、約1万本の桜が植えられたこの桜並木は、直線約7kmにわたる日本一の桜並木である。
幅が二十間(約36m)あるので「二十間道路桜並木」と呼ばれるようになったという。 ここを通り抜けた前方に新冠牧場の広大な敷地が広がる。 同牧場の前身は「新冠御料牧場」で宮中御料馬の生産、北海道固有の野馬「道産子」の改良を担った。

日露戦争下では陸軍の求めに応じて、多数の軍馬を拠出した実績などもある。 
当然、皇族や文武の高官の訪問も頻繁になる、その為、行啓道路として造成されたのが二十間道路である。 
そんな中に「龍雲閣」がある、牧草地帯の一角にぽつんとたたずむ御殿造りの木造建築物は、賓客の宿舎施設として1909年(明治42年)に建設されたもの。 桜の開花時期に一般公開されている。


馬をやらない小生が勝手に選んだ静内産名馬=タニノムーティエ、ウイニングチケット、トウショウボーイ、サクラローレル等々。  


静内は、2003年1月頃から新冠町、三石町と合併を協議し、当初は市に昇格予定で新市名称は「ひだか市」に決定していたが、その後新冠町から合併の時期の延期申し入れがあり、2004年12月7日をもって3町による合併協議は休止される事になった。 その後、三石町と新たに協議会を設置し、新町名を「新ひだか町」、合併期日を2006年3月31日とすることで合意している。

次回は日高・「新冠・門別



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