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日本周遊紀行(77)日高地方 「静内とアイヌの戦い」
アイヌと和人の最後の戦い・・、そして「アイヌ」は・・?、 国道235は沿岸地を北西に進む、日高本線・「日高三石・ひだかみついし」駅を右にみて、次の「春立・はるだち」駅付近からはすでに静内町である。 静内町は周辺の町と同様大部分は日高山地の領域に属するが、町並みは太平洋岸から内陸へ静内川を中心に発展しているようである。 日高支庁管内のほぼ中央に位置し夏は涼しく、冬は雪が少ないため道内では最も気候の温和な地域と言われる。 その気候風土と恵まれた自然環境から「北海道の伊豆」とも称されている。 現在、静内も同様に近隣の三石町、新冠町と合併協議が進んでいるらしい。 住み良い町「静内」は、やはり古代から住人は在ったようで、既に約9000年も前から石器や土器を使った人達が住んでいたことが遺跡の調査によって確認されている。 その後も紀元前後の縄文時代から、古墳(飛鳥)、奈良、平安時代へと移りかわり鎌倉、室町時代にはアイヌ文化になっていたといわれる。 ただ、北海道には時代の経過とともに独特の文化が栄えたことで知られるが、同一民族が同一文化を継承したとは一概にいえないともいう。 それはアイヌ民族は記録を持たず、文化の変遷にともなう民族の存亡や移動の記録、伝承がまったく観られないからだと・・。 そのアイヌ達は樺太(サハリン)、千島、北海道、そして東北北部に暮らしていたことが確認されている。 この「静内」も、昔からアイヌコタンが沢山あり豊かな大自然の中で狩猟、漁労、採取を中心に独自の生活を営み、様々な生活の知恵と風俗、習慣、言語、信仰を受けつぎ、自由で豊かな生活が営まれてきた地域である。 アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味である。 江戸時代も後期の頃、静内(シベチャリ)川で砂金が採れるようになり、これを目的に内地から和人が住み着くようになり、和人の移住が増えるにつれて利権等が絡むようになり、アイヌ人との衝突も起こり易くなった。 こんな時期に道内でも最大と言われるアイヌ民族の存亡をかけた「シャクシャインの戦い」が勃発するのである。 『シャクシャインの戦い』 1669年(寛文9)頃、日高から釧路に及ぶ地域集団の総大将である「シャクシャイン」を中心に松前藩の収奪に抵抗しておきた近世最大のアイヌ民族の反乱であり、静内町(しぶちゃり)を拠点として増毛から白糖にいたるアイヌがいっせいに蜂起した事件である。 松前藩はアイヌに対する交易の独占化をはかり、アイヌ自らの自由交易を禁止したのと合わせて、和人による不正な相場による取引が後を断たなかった。 藩は交換レートは今までの数倍にも引き上げた。当然、アイヌ人達は松前藩や和人商人に対する不満が高まった。 アイヌは「シャクシャイン」を中心とし、蝦夷地・樺太・千島に居住するアイヌウタリ(同胞)に決起を促し、アイヌの国に入り込んできて権益を貪る和人達を殺し食糧を確保して松前へ攻め入り、和人を撃退してアイヌの国を取り戻そうと呼びかけた。 呼びかけに応じ、石狩・宗谷・利尻などの一部地域を除く殆ど全道に及ぶアイヌがいっせいに蜂起し、殺害された和人の数は太平洋岸で120人、日本海岸では240人に達したといわれる。 アイヌの攻勢を攻めあぐねた松前藩は、1669年(寛文9)10月、和義を結ぶという理由で酒宴を開いた。 シャクシャイン以下74名のリーダー的アイヌ人は武装を解いて藩側の陣営を訪れ、宴席が盛り上がったところで全員が松前藩によって謀殺されたという。 騙まし討ちであった。 この乱の結果以降、松前藩は蝦夷地に勢力をひろげ、アイヌ民族に対する政治的・経済的支配をますます強めた。 また武器を取り上げ、鉄器の流入を制限してアイヌ民族の抵抗力を奪い、隷属化するようにした。 この戦いをもってアイヌ民族の悲劇が始まり衰亡、根絶へ向ったともいわれる。 静内川(シベチャリ川)流域には16世紀から18世紀に遺された「アイヌの遺跡」が5箇所ありこれは国指定史跡として保存されている。 シベチャリチャシ跡、ホイナシリチャシ跡、メナチャシ跡、オチリッチャシ跡、ルイオピラチャシ跡などがある。 チャシ(アイヌ語)とは 一般には「砦」・「城」と訳されているが、言葉から連想するような強固でしっかりとしたものではなく、元来あった自然地形を利用して築かれた簡便なもので、丘陵の突端の一部に壕をめぐらし、地上を地ならしして柵や見晴らしなどを施したものが多い。 北海道および東北諸県に五百近い址が残存しているという。 次回は、引き続き静内の「開拓期」
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北海道・南沿岸
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日本周遊紀行(76)日高地方 「三石」
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日本周遊紀行(75)日高地方 「様似・浦河」
国道336(浦河国道)は再び山地へ入ってきた。 山地といっても沿岸部を離れて山地に入ったのではない、海岸そのものが山地なのである。 正面に編み笠の様な端正な山がボンヤリと見えている、標識等で確認すると「アポイ岳」というらしい。 http://www.c-player.com/_images/archive/d011GKH19T8RE1UEJ5EF4H2KM1LIKEOEGQA62HLITE788DA2TIB3H5V/large 国道より見渡せる様似八景の「親子岩」、父と母と子が寄り添うように並んでいる。 様似町(さまにちょう)は日高山系の南部山塊にスッポリ収まったような地形の町で、山塊はむろん海岸にまで押し出し、それが断崖絶壁や奇岩怪岩となって大洋に落ち込んでいるのである。 これがまた美しい海岸美を形造っている。 この海岸を「日高耶麻渓」という。 永い年月をかけて、冬島地域の奇岩穴岩から幌満川河口までの間(約6キロ)の海岸線を侵食した絶景が日高耶馬渓である。 海岸からほぼ垂直に駆け上がる崖の美しさが、大分県の耶馬渓に似ていることから、この名称が付けられている。 因みに本当の「耶馬渓」は、九州大分の中津・日田・宇佐の3市と玖珠町とに跨る広大な地域で、全68景ともいわれる絶景が展開する景観地である。 大分県の北部、福岡県との県境を北流する山国川の中、奥流に位置し、英彦山(ひこさん)系の小山群が連なり、山岳地帯は溶岩侵食により奇岩奇峰が起伏し、小さな開けた平野に集落が点在している。 耶馬溪エリアは本耶馬、深耶馬渓、裏耶馬、奥耶馬とに別れ、「山国川」沿いに奇岩、奇峰群が圧巻である。 又、そこに壮観な石橋や禅海和尚が手掘りで掘ったという「青の洞門」なども有名である。又、古刹・羅漢寺や英彦山(ひこさん)など歴史の宝庫でもある。 「アポイ岳」である・・、 http://www.c-player.com/_images/archive/d010LTUOVEN9383E01E9I63LD9426L031TD3M38P7HL6RJ80730SM2O/large アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところある。 日高山系は帯広の北西、国道38号線の狩勝峠を境に、北は十勝連山、南に連なっているのが「日高山系」である。 この山系にはアポイをはじめ、チロロ、ヒパイロ、エサオマントッタベツ、イドンナップ、カムイエクウチカウシ、コイカクシュサツナイ、ペテガリ、ソエマツ、ピリカヌプリ、トヨニなど、いかにもチョット難儀なアイヌ語の呼称による山名が多く、標高・1600から1900mの山峰が連なる。 日高山系の東側を十勝地方、西側を日高地方と称しているが、アポイ岳、その奥のピンネシリ岳は日高の主脈からはチョット外れて稜線を成し、その南端に位置して海岸に迫っている。 標高も810mと低いが、山稜は気象条件によって2000メートル級の山と同じ様相であるという。 特徴的なのがこの山様で、ここにしか生育しない固有種を含む多数の貴重な高山植物が確認されており、「アポイ岳高山植物群落」は1952年(昭和27年)に国指定の特別天然記念物に指定され、1981年(昭和56年)には日高山脈襟裳国定公園の特別保護地区に指定されている。 つまりこれはこの山そのものが特別天然記念物であり、特別保護地区であると言うことで、北海道でも極めて稀で、人気の高い山なのである。 参考までに、高山植物群落が特別天然記念物に指定されているのは、当地北海道・アポイ岳、岩手県・早池峰山(はやちねさん)、長野県・白馬岳(しろうまだけ)と全国でも三カ所だけである。 余計だが長野県・白馬岳(しろうまだけ・2932m)は、我が別宅の在る白馬村(はくばむら)に連なる。 そして、本年(平成16年)8月、齢(よわい)65歳で4回目の登頂を行っている。 この際、稜線で強烈な雷に遭遇し、あわや・・! という目にあっている、後日のニュースで今年は例年になく雷雨が多く発生し、特に山間部では激しく、ここ一週間で同じ稜線で落雷のよる数人の死亡事故が発生していると報じていた。 尚、特別天然記念物の高山植物群落は、かの有名な「大雪渓」の上部から稜線直下に特に多く展開している。 尚、近年の白馬岳の登山記録です。 『白馬岳記録』 http://www.geocities.jp/orimasa2001/hakuba-1.htm 「アポイ岳」の山麓を通過した辺りから山容が次第に遠のき、丘陵地または平坦地になってきた。 まもなく浦河町にはいった。 所謂、日高地方とは浦河、三石、静内、新冠、門別の海岸沿いと平取、日高町の内陸部の総称である。 この太平洋に面した国道を「サラブレット・ロード」、又は「サラブレット銀座」と称している。 言わずと知れたこの日高地方は日本競争馬の一大産地であり、全国の8割以上がこの地方から生産されているという。 牧場で見る「馬」は端正そのもの、つまり「カッコイイ・・!」とはこれら馬のことであろう。 脚は細く絞まって、背が高く、鼻筋とおって首が長く、胸部たっぷりで胴が長い、全体に筋肉質で、いかにも走る為に造られた芸術品である。 伝統、血統が造りあげた一級品の「サラブレット」とは「徹底的に品種改良された・・!」という語源になっているという。 『サラブレットの生涯』 ★誕生期 誕生・哺乳期で1〜2再起 ★離乳期 母馬から離し、軽いトレーニング期に入る 2〜3歳期 ★セリ調教期 良血統馬は数千万から億単位の馬もいるという、買手の厩舎にて本格トレーニングに入る 3歳期 ★出走期 いよいよレースに出場、先ずは地方競馬から ★4歳期 レースの華「クラシックレース」が始まる ★競争期 厳しい競争の中、1着は勝ち、2着以降は負けといわれる、この時期に勝てない馬は淘汰されてゆく ★引退期 5歳期以降は引退期に入る、古馬といわれる、子孫を残す 「クラシックレース」とは4歳馬限定で、戦前より存在するG1競走のことを指す。 語源は近代競馬の「母国」イギリス。 日本では牡馬・牝馬による皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞と牝馬限定の桜花賞・優駿牝馬(オークス)を指し、同時にこれらの競走は優秀なる種牡馬及び繁殖牝馬選定のレースでもある。 この5つに春秋の天皇賞及び有馬記念を「8大競走」と言うが、シンボリルドルフの「7冠馬」、シンザンの「5冠馬」、ミスターシービー、ナリタブライアンの「4冠馬」という言い方は正式ではなく、あくまで「俗称」であると。 さて「浦河」である・・、 日高幌別川を渡ってすぐ、国道235と国道236の交差点がある。 ここを右へ行くと間もなく「谷川牧場」がある。 「馬」をやらない小生でも知っている名馬「シンザン」の故郷である・・! 御存知、五冠馬のシンザンは1961年にこの牧場で生まれている。 セリには300万円と、この馬にしては比較的安値で買われ京都の武田厩舎へ入った。 デビュー戦は3歳後半で見事に新馬戦を飾る。 4歳でG1レースの皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞の三冠を果たした。 この年は東京オリンピックが行はれた年でもあり、日本経済は大飛躍期で神武景気等と言われ競馬熱も最高潮に達していた時期でもある。 歳で秋の天皇賞、有馬記念を制し、日本初の五冠馬になった。 始めの頃は馬主(橋元)、調教師(武田)共その実力を見抜けずにいたし、調教時の動きも地味な方で勝ってもスレスレの勝利だった。 ただ調教師は後足の蹴りが異常に強いのに気が付き、蹄鉄を改良してから本来の強さが出現したといわれる。 全通算19戦15勝、他は2位とずば抜けた強さを発揮し名馬中の名馬、歴史に残る馬になった。 引退後も、シンザンは驚異的な生命力を発揮し35年3ヶ月目の1996年7月13日、生まれ故郷の谷川牧場で永眠した。 これは現在、日本サラブレッド最長寿記録となっている。人間なら百歳をゆうに超す年齢である。 戦後初の三冠馬でしかも天皇賞、有馬記念、宝塚記念といった当時の大レースを全て制し、生涯成績も2着以下はなしという完璧な競走成績であり、又、繁殖の成績も優秀で多数の名馬を送り出している。 に、サラブレッド最高齢を記録など生命力も抜群だったシンザンはまさに「サラブレッドの中のサラブレッド」である。 今後「シンザン」を個々の能力において上回る馬は現れるに違いないが、これほどまでに完璧な能力を示すのは容易なことではないだろうといわれる。 獲得賞金は当時で6000万円。 現在、京都競馬場にシンザンの銅像と蹄鉄が展示されている他、毎年1月の同場での3歳馬の重賞レースに同馬の名前を冠した「(日刊スポーツ賞)シンザン記念」が開催されている。 また毎年8月には当地で「シンザンフェスティバル」が開かれている。 馬をやらない小生が勝手に選んだ浦河町出身の印象馬=シンザン、タケホープ、ミスターシビー(以上ダービー)、ティエムオペラオー(皐月賞)、メジロマックイーン(菊花賞)など。 次回は、 日高・「三石・静内」
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日本周遊紀行(74)襟裳 「襟裳岬」 http://www.c-player.com/_images/archive/d0119FTJTSHE60E1VFJTU2EL0T190NJJFCFB706EBOQB0R8K94MSGN1/large 「襟裳岬」 「風の岬」に台風襲来・・!、 十勝港を過ぎると、いきなり山間に入ってきた。 小雨模様だった様気がだんだん強雨になってきて風もでてきて、路岸に打ち寄せる波浪も激しくなってきている。 広尾町から約30kmにもおよぶ国道は今までの平穏な様相から一変して、急峻な大地が連続して海に迫る壮絶な風景を呈している。 この海道・国道336は別称「黄金道路」と称している、この近辺から「黄金が産出する」という意味ではない。 日高山脈が太平洋に落ち込む海岸道路の建設は大変な難工事であった。 迫りくる断崖絶壁、落石、海からの高い波に耐えられるだけの盛り土、数々のトンネルや覆道と、実に道路に「黄金を敷詰めたよう」な膨大な金がかかったそうである。このことから、ここを「黄金道路」と称しているという。 今も修復工事が所々で行われていて、その度に片側通行を余儀なくされ、 更には国道は連続降雨が80mmで通行止めになるらしい。 厳しい海岸道路を過ぎるあたりが「庶野」(しょや)という集落へでた。 国道はここから内陸へ向け、岬の反対側の海岸へ延びている。 小生の車は「襟裳岬」へ向かうため道道34を更に進む事になる。 日高山地の荒々しい山肌もこの辺りで途切れて、見通しの良い低丘陵地帯の砂防林が現れてきた。 本来、地形的に地獄から天国へ来た様な気持ちに成れる筈であるが、ところが地獄は続いた。風雨が更に激しくなってきて暴風雨である・・!!、ラジオニュースが「台風情報」を報じていた。 昨日(29日)、台風21号は鹿児島県に上陸していて、鹿児島市では最大瞬間風速52.7m/sを記録したといい、その後台風は四国、紀伊半島から北陸、東北地方を横断し、本日(30日)午前10時には三陸地方にあるという。 ここ襟裳岬付近も台風の暴風雨圏の一端かも知れないのである。 岬の手前の辺りを「百人浜」といい、浜辺には悲しい歴史があったという。 襟裳岬は通常でも風が強く、別名「風の岬」とも言い海の難所で海難事故が多い。 嘗て、この沖で南部藩の御用船が転覆し、その船の乗組員がこの浜になんとか流れ着いた、しかし飢えと寒さで命を落としたという。 その数が100人にもなったため「百人浜」と名付けられたという。 気が付けば十勝港から険しい海岸道路を走行中、全くと言っていいほど対向車に会ってない、この岬付近も人の気配は全くなかった。それもそのはづ岬周辺は台風の影響をモロに受けて荒れ狂っているのである。しかし、雨量は未だ80mmには達していないらしく、車は風に揺れながらも何とか走れる。 恐怖の「黄金道路」と「百人浜」であったが、何とか「襟裳岬」へ着いた。 正面に円形のモニュメントに襟裳岬・風の館とあったが、横殴りの風雨は車を左右に揺らすぐらいの勢いである、とても車外には出られたもんではない。 仕方なく車フロントより記念写真・・?を収める。 そして、残念ながら早々に退散である・・!! 先にも記したが再びこの地を訪れている。 そしてその様子を次のように記していた。 『 襟裳岬は穏やかな快晴に恵まれていた。岬に立って紺碧の水平線に地球の丸味・・??を感じながら、大きく深呼吸する、実に気持ちがいい、岬先端より点々と派生している小島に「ゼニガタアザラシ」の子育ての様子を確認しようとしたが、できずに残念。 土産店の食堂で「えりもラーメン」を食し、岬を後にした。 風光が目に眩しいくらいの「百人浜」を行く・・、』 とある。 「襟裳の春は何もない春です・・、」と歌にも歌われているように、襟裳岬には風以外のものは一切ないように見える。 年間平均風速10メートルを超えるような場所には当然高木高樹は育たず、囲いをつけて育っている低木と草、岩、海の風景が襟裳岬周辺では見慣れた風景である。 このように一見殺風景なように見える岬であるが、実は海の恵みは多く豊かな海の幸を気前よく恵んでくれる大自然があるのです。 襟裳岬(えりもみさき)は北海道の形を大きく特徴付ける自然地形の一つで、最北端「宗谷岬」に対極するのがこの「襟裳岬」である。 日高山脈の最南端で太平洋に突き当たって長年の強風と荒波に削られ、徐々に落ち込む鋭角を成す南端部がこの岬である。 岬の先にある岩礁群も日高山脈の一部であり、沖合い7kmまで岩礁群が連なる。 そして高さ60mに及ぶ断崖絶壁が岬を囲み、展望は群を抜いている。 地名の由来はアイヌ語の「エンルム」(突き出た頭)から起こったといわれる。 岬上の襟裳岬燈台は北海道でも数少ない有人の灯台であり、常時3人の灯台守が駐在して船の航行の安全を守ると共に、気象情報を記録しているという。 1889年初点灯されている灯台は海抜73m、光達距離・22海里で、他にも霧笛や無線方向探知局などが備えられている。 これは沖合で暖流の黒潮(日本海流)と寒流である親潮(千島海流)とがぶつかり、濃霧が発生しやすい気象条件を有しているためである。 従って、この海域は多種にわたる暖流、寒流の魚たちが群らがり、世界有数の漁場ともなっている。 また、冷たい霧や強風が多い岬の周辺では、植物は丈が短く茎が太くなることで厳しい自然環境に適応している。 ヤマツツジは襟裳岬の丘陵に背丈を低く、まるで盆栽のような姿であたり一面を赤色に染める。 エゾスカシユリ、エゾカンゾウが時期になると絨毯のように咲き乱れ、又、襟裳の愛くるしい名物は、岬の突端の岩場を中心に棲息している「ゼニガタアザラシ」で、現在300〜400頭が確認され、双眼鏡でも観察が可能だという。 岬は「風の岬」と言われるほどの強風でも知られ、襟裳岬周辺は一年のうち風速10mを超える強い風がおよそ290日以上も吹くという場所で、その風の強い所に世界に類を見ない「風」をテーマにした「風の館」がある。 館内には、日高山脈襟裳国定公園や襟裳岬灯台の解説パネルおはじめ、襟裳岬の展望と襟裳の「風」を実感できるテーマ館となっている。 森進一が唄い、レコード大賞を受賞した「襟裳岬」で一躍有名となったが、実は「襟裳岬」の歌は二つある。 もう一つは島倉千代子の曲で、小生が少年期頃の昭和30年代の歌で、当時、適当にヒットした曲でもあり、若かりし「お千代さん」の絶頂期の唄でもあった。この歌が「襟裳岬」元祖であることは余り知られてないようだ。 森進一の「襟裳岬」に、「エリモは何もない春です・・、」と歌われていて、地元の人にとってある種の抵抗があり、苦情もあったとされているが、こと自然に関して言えば「全てが有る豊かな場所」なのである。 『襟裳岬』 森進一(昭和48年)吉田拓郎・曲 北の街ではもう 悲しみを暖炉で 燃やしはじめてるらしい 理由の分からないことで 悩んでいるうち 老いぼれてしまうから 黙り通した 歳月を ひろい集めて 暖めあおう 襟裳の春は 何もない春です 『襟裳岬』 島倉千代子(昭和36年)遠藤実・曲 風はヒュルヒュル 波はざんぶりこ 誰か私を 呼んでるような 襟裳岬の 風と波 憎い憎いと 恨んだけれど 今じゃ恋しい あの人よ 視界350度と言われる岬の先端に立つことも無く、灯台(全国でも数少ない有人灯台)の様子を確かめる事も無く、無念の気持ちで襟裳岬を後にする。 今は、「風はヒュルヒュル 波はざんぶりこ」等といった平穏な状態ではない、風はゴーゴー 波はドドドーン」である・・!。 はじめは海からの強烈な風だったが、今は陸側から猛烈に吹き付ける。車は左右に振られ、ハンドル持つ手も緊張がはしる。 再び、国道336に合流し、「えりも」の街並辺りで暴風雨も少々収まりかけて来たようで胸を撫で下ろした。 次回は、名馬の産地「日高地方」
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日本周遊紀行(73)大樹 「大気町・・?」
大樹町は大気の町であった・・!、 その大樹町の中心部を東西に貫流しながら太平洋に注ぐ延長60数キロの「歴舟川」の清流が流れる。 「清流日本一」といわれるこの川は水質測定では1987年から3年連続と91、93、2000年に「日本一きれいな川」と環境省がお墨付きを与えた。 国土交通省より「水の郷百選」にも選ばれ、ニジマスやヤマベなど川魚が豊富であり又、「カムイコタン」をはじめとする中流域には「十勝八景」といわれる大自然の優景が見られるという。 又、この川は「宝の川」とも言われ、周辺では砂金を採取していた記録があり、明治中期ごろが砂金採取の黄金期を向えて一獲千金を目指した人が大挙して訪れたという。 この歴舟川の河口の北方、浜大樹を挟んで巨大な公園が在る。 太平洋に面し「大樹町多目的航空公園」といい、全国的にも珍しい航空専門の公園である。 グライダーなどのスカイスポーツなどを楽しむ場としても利用してきたが、現在は主に航空宇宙の研究実験が優先的に行われているという。 国が進める一大プロジェクトとしてJAXA(宇宙航空研究開発機構)やNICT(情報通信研究機構)といった国の研究機関が主唱する「成層圏プラットフォーム」と銘打って、通信放送や地球観測、災害監視などに関わる数々の実験・研究を実施しているという。 このプロジェクトは高度約20キロの成層圏に全長250メートルの飛行船十数機を浮かべ、「定点滞空飛行試験」と称して様々な実験を行っているのである。 実験の主な目的は・・、 1、 新しい通信・放送: :デジタル放送、携帯端末、超高速インターネット、移動通信などの先端技術。 2、 地球観測: :海洋、大気などの現象観測。 3、 気象情報のキャッチ、災害監視: :詳細気象観測、山火事、赤潮等の監視 4、 高層における大型飛行船の研究: :特に、この飛行船は地上近辺で運航する現有の飛行船とは異なり、成層圏の高度において実験研究するもので高高度、気象環境ともに技術的に難しい問題が多くある。 それは成層圏は低温、地上より強い紫外線、風力、風速といった環境であり、それにに耐えうる軽量な材料、十分な浮力と滞空能力などを必要とすること。 又、長期間の飛行に必要な昼夜の推進の動力源である太陽エネルギーを使った太陽電池や燃料電池などの効率のよい電源の問題。 それに、長期の運行に必要な浮力ガスであるヘリウムの漏れを最小にすること、等々の研究であるという。。 これらはいずれも世界で初の実験・研究といわれる。 十勝の野は平坦地で日照率が高く一定方向に吹く風など、比較的気候条件には恵まれ安定しているといわれる。又、この公園は太平洋に隣接していて、元々そこに広大な「多目的公園」を保有していた。 これ等の理由で国策としての実験場に選定されたという。 大樹町多目的航空公園では、その他にも航空に関する未来を見据えての「宇宙間の航空機」や「無人航空機」の実験研究やパイロットテスト等、各種航空に関する研究も同時に行っているという。 太平洋に面しているため船舶からも、「あの巨大な物体は何だ・・!!」と遥かに空飛ぶ飛行船に驚いた漁業者もいたとか。 大樹町は航空の町であり、大樹町は大気町でもあった。 次回は「襟裳岬」
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