『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(97)田老 「三陸地方と津波」


リアス海岸と津波・・、


昨夕は、小本温泉の「黄金八大龍王の湯」という仰々しい名前の冷泉で身を清めた後、田老町までやってきてマイカー泊まりとなった。 
尚、小本温泉については、この後「温泉と観光」の項で述べています。


夜半よりバタバタと車を叩く雨の音が気になった。 山間の「道の駅・たろう」は小雨模様で、やや冷んやりとしていた。 先ず熱いコーヒーを口にして、眠気を取り払う。


三陸の田老町は、リアス式海岸の湾の奥に位置し、幾度も津波の被害を受けているため、総延長数kmにも及ぶ高さ10mの防潮堤を建設するなど、津波に対して強い街づくりを進めているという。

この辺りの地へ来たら、やはり三陸特有の様子を記さねばなるまい。
田老町を過ぎて宮古市あたりから、宮城県の松島の海岸線に至る地域は独特の地形をしている。 

一般に「リアス海岸」と呼ばれ、海岸線の入り組んだ「溺れ谷」といわれる地形が連続している。 
溺れ谷というのは、陸上の谷が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾のことで、最終氷期から後氷期に入った1万年から5千年前までの海面上昇で世界中の海岸にできたという。
大きな川の河口近くなどでは砂泥に埋められて平野となったが、砂泥の供給の少ない所(愛媛県南部・若狭湾・三浦半島南部・三陸海岸など)には今も残 っている。  
リアス」というのは、スペインのリアス地方で見られることから命名されたスペイン語で、リア (ria) は入り江を意味する。 

リアス海岸は複雑な地形、特異な様相をしているため、断崖絶壁、大小の鋭い奇岩、渦巻く波飛沫など、見るべきところが多く、景観地を形成している。 
特に、この先の大船渡湾に突出した末崎半島の碁石海岸やその南の唐桑半島は秀美な風景を呈していると。 
又、複雑に入り組んだ入り江は風の影響が少なく波も立たない、従って、三陸海岸は筏(いかだ)による養殖漁業が盛んで、カキやホヤとホタテガイなどが生産されているという。
波の無い、鏡のような静かな海面に、筏が浮かぶ様子は一服の風情でもある。


三陸地方の津波について・・、

ところで、三陸海岸のリアス海岸では入り江は湾口に較べて奥の方が狭くなっており、更に、浅くなっている。 
この様な地形は津波が襲来した場合、波高が通常よりも高くなって被害が大きくなる、そのため、高波を防ぐための高い防潮堤を設けている所が多い。 
この田老町も津波との闘いの歴史だという。 

なかでも慶長16年及び明治29年、昭和8年の3回は再起不能といわれるほどの壊滅的被害を受けている。そんな中 、昨年、2003年「津波防災の町」を宣言している。

現在では市街地を世界最大級の高さ10メートル、総延長2.4kmの防潮堤が街を囲み災害に備えてある。 コンクリートの壁は、軒を連ねる住宅を見守るように延々と町を横断している。 防潮堤建設と同時に、区画整理も行はれ災害に強い、安全な町ずくりが進められたという。
尚、このコンクリートの壁は、すばらしい自然景観を損なうとして、防潮堤には大壁画を施してあるとか。


三陸地方の主な津波被害

年代
地震
死者不明(人)
流出家屋(軒)
最大波高
慶長16
松島沖
1800
多数
不祥
明治29
三陸沖
22000
6880
24m
昭和 8
三陸沖
2700
5435
15m
昭和35
チリ地震
61
1500
6m



明治29年、三陸地震津波」での地域の津波高さは、三陸綾里湾奥:33.8m(本州最大)、吉浜村:24m、綾里村白浜:22m、宮古市重茂村姉吉:18.9m、田老町:14.5m、北海道襟裳岬:4mなどであり、因みに、ハワイは2.4〜9,1mであったという。  


この項も書き終わって暫くして、破天荒なニュースが飛び込んできた。 あまりの衝撃的な「地変」なので、ここに記憶としてと止めておきたい。
史上最悪の津波災害は、死者30万人を超えるとも・・!!! 
2004年12月26日(日)午前8時(日本時間26日午前10時)、 インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった。

次回は、「宮古


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日本周遊紀行(96)田野畑 「無医村に将基面氏」 


無医村だった田野畑村・・?、
 

十府ヶ浦の海岸線から再び山間に入ったところは「普代村」である。 この村は、丁度北緯40度にあたるという。 
「東北・西沿岸編」でも記したが、日本海側の大潟村(旧八郎潟)を通った北緯40度線は、秋田・岩手の北部を横断してこの村に達していた。 
記念碑のシンボル塔が海岸に建っている。 

又、この村に「鵜鳥神社」という社があり、平安時代の初めに創建されたと言われ、この宮は源義経によって建てられたとも言われている。 
義経は、実の兄・頼朝に追われ、平泉で自刀したが、人々は、義経は平泉から逃げ延び、蝦夷地を目指した、という「義経北方伝説」を残した。 
その途中、ここ鵜鳥神社に立ち寄ったと伝えられる。

平成17年度、NHK大河は「義経」が放送された。



田野畑村」も海の山岳地・海のアルプスと言われ、かっては陸の孤島であった。

沿岸に在りながら、大絶壁に阻まれ、周りは重厚な山地に囲まれている。 
深い谷、山地が人々の往来を遮った。あまりの道の険しさに、このまま行こうか、それとも引き返そうかと思案したという「思案坂」や「辞職坂」と言った呼称の地が国道45号の界隈に残る。 
このように陸の孤島といわれる村で、当然と云うにはおこがましいが、この地区は無医村というか、医者が来ても直ぐ辞めてしまうという。

この無医村だった田野畑村に医師として赴任し、19年にわたり地域医療に貢献した人物がいた。 将基面 誠(しょうぎめん まこと)という。 
チョット珍しく印象的な姓名であるが、昭和57年4月、千葉県がんセンター婦人科医長の要職にあった将基面氏は、医師が不在だった村の診療所に赴任し、以来、19年間にわたって村民の健康を守り続けてきた。 
在任中は医療の傍ら、幼児から高齢者まで一貫した健康管理に取り組み、また、医療と保健、福祉の体制を強化し、三者を総合的に推進する「ほっとピア構想」というのにも取り組んだ。 

平成8年には、これらの地域医療に対する功績が高く評価されて保健衛生と社会福祉の分野で最も権威のあるといわれる「保健文化賞」を受賞されたという。  
彼は医療の分野だけでなく、多方面にわたり村の振興に献身したとも云われ、「花笑みの村」と銘うって、「亡くなった妻が好きだった梅の花で、村を一杯にしてほしい」と副賞の全額250万円を村に寄付、診療所や公園などに約200本の梅の苗木を植樹してきた。 
今、これらの梅の木が美しい花を咲かせ、成長しているという。 

平成13年、田野畑村での村医を辞め妻の故郷・千葉県木更津に帰っている。
地域医療のあり方を描いた感動の人間ドラマとして、『無医村に花は微笑む』がフジテレビ系で2006年1月に放送された。 
医師・将基面氏を演じるのは三浦友和、その彼を支え続けながら45歳の若さで亡くなった妻・将棋面 春代さんを伊藤蘭が演じている。


http://www.c-player.com/_images/archive/d010F7PABUG3C4VE1GI8BH9AAVKVFTRFOD2F2II6D3MJSET869UU4KD/large
断崖絶壁が続く「北山崎」


田野畑の海岸線は、この山地をギザギザに切り裂いた様な断崖絶壁が連続する。 
この一角は「北山崎」といわれ、陸中海岸の中心的スポットでもある。 
JTBが自然資源・海岸の部で、国内で唯一最高ランクの特A級に評価し、名実ともに日本一の景観を誇る海岸であるという。 

更に、北山崎と並んで「鵜の巣断崖」と言われるのもある、200メートルの落差の圧倒的なスケールを誇る絶壁、中腹には「ウミウ」の巣があることから名づけられた。 
五列に連なる断崖は巨大な屏風の様だといい、展望台からの大パノラマが楽しめるという。

次回は「田老」



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日本周遊紀行(95)久慈、野田 「琥珀と塩」 


琥珀の「久慈」と塩の「野田」といわれたが・・、
 


国道45線は、別名「浜海道」と称している。 実際の国道はかなり内陸へと進むようになるようだ。 
山間の上下曲折を繰り返し、国道395と合流すると間もなく久慈市街、久慈湾が望まれた。 
久慈といえば、日本で唯一の「琥珀」(こはく)の産地であるという。


琥珀について・・、

琥珀」というのは数千万年前の松や杉などの樹液が、石のようにカチカチになって化石状になったものをいう。 
色は多様であるが主に黄褐色を帯び、ネットリした水あめ色が一般的なようである。 

久慈地方の琥珀は、中世代白亜紀後期のいわゆる「恐竜時代」に属するもので、およそ8500万年前のものともいわれる。
琥珀の中には、植物や虫の死骸が閉じ込められた、所謂、「虫入り琥珀」と呼ばれるものもあり、数千万年という気の遠くなるような時間の経過状態で、その姿を残しているのもあると。 
虫入り琥珀には、生物のDNAも保存されているといわれ、昆虫などの進化をはじめ、太古生物の生活環境さらには、当時の地球の様子などを知る手がかりを与えてくれる極めて学術的価値にも高い貴重な化石だと言われる。

そう、あの大ヒット映画、マイクル・クライトンの『ジュラシックパーク』(Jurassic Park)において、琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜の血液を採取し、その中に含まれているDNAを採取することで恐竜を蘇らせるという設定を用いた。
だが、実際にその年代の蚊が琥珀に閉じ込められていたとしても、長い年月の間に石の中で化石化するため、現実にはそのアイデアは実現し得ないともいう。 これはあくまでも小説の世界である。


古来、琥珀は「パワーストーン」、「マジカルパワー」を秘めてると信じられていた。 
昔は琥珀を称して「悪魔的なものに対する強い防御能力」、「生命を高揚する能力」、「心の奥に秘めた想いを伝えるテレパシー能力」、「物事に対するサクセス能力」などがあると信じられ、古代の貴人達に重用したといわれる。 

昔から珍重されてきた人類最古の宝石・琥珀。 
久慈地方の琥珀を使った勾玉・なつめ玉・丸玉などが、奈良県を中心とした有力者たちの古墳から数多く出土しているという。
交通手段のない古墳時代に久慈から奥州路・東山道を通って、大和朝廷に運ばれた琥珀、この道を「アンバーロード」とも呼ばれている。 
アンバーとは琥珀(こはく)のことである。

英語の電気(electricity、electrum など)の語源は、琥珀を意味するギリシャ語のelektronであり、琥珀を擦ると静電気が発生することが由来とされている。 しかし、琥珀そのものは電気を通さないため、この性質を利用し戦時中は絶縁体として使われていた。

現在、市街地の南西部の山麓に、国内に一箇所だけの「久慈琥珀博物館」があり、館内では琥珀のアクセサリーなど手づくり体験もできるという。
現在では、琥珀は宝石やペンダント、ネクタイピンなどの装飾品や装身具として利用されているのは周知である。



久慈の市街地から再び国道45は山間地に入る、そして又海岸へ出る、それらを何回か繰り返す。 そう、ここは「三陸沿岸」である。

久慈市から宮城県塩釜に至る太平洋岸は、大断崖や海食による洞窟や洞穴、奇岩に白波の立つダイナミックな「リアス海岸」が続くのである。 
久慈市から宮城県気仙沼市まで約180kmが陸中海岸国立公園に指定され、気仙沼から塩釜市付近まで約130kmを南三陸金華山国定公園域とされている。 
そのためか・・?、透明度が高く透き通った青い海が続く。


その海岸線を国道45号線が走る、間もなく「野田村」である。
この海岸沿いには野田村、普代村(ふだい)、田野畑村と県内では比較的小規模な村域が連なる。 
何れの村も、昨今の「平成の大合併」にも頓着せず、堂々と自主村域を維持しているところ立派と言えるだろう。 是非、頑張ってほしいものだ・・?!。


野田村についてだが・・、

そちこちの古い峠道には、かつて「ベコ(牛)の道」と呼ばれた狭い山道が残っているという。 
塩の道と言われる「野田塩・ベコの道」で、先人が築いた足跡は、現在は追分けの庚申塔や道祖神が、その歴史を刻み込んでいるという。

野田村の海岸では、古くから製塩が行われていたという。
ここで造られた塩は北上山地を越えて雫石や盛岡近在にまで運ばれ、米、粟、そば、豆などの穀物と交換されていた。 
この地方の塩を運ぶ人々は、牛の背につけて運ぶことが多かったので「野田ベコ」と呼ばれ、この塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいる。

私事ではあるが、信州白馬村の別宅に面したところにも「塩の道」が走っている。 日本海に面した糸魚川から内陸の信州松本へ至る街道であ。 
戦国期、塩に窮した武田信玄が、敵将でもある越後の上杉謙信に信濃の国に塩を送りよう要請したところ、快く引け受けてこの街道より塩をおくったとされている。 
ここも当時の面影である、庚申塔や道祖神など数多くの史跡が残っているが、その他にも日本の各地に「塩の道」は存在しているという。

海のない内陸部の人たちは、塩行商の野田ベコが来るのを待ちこがれていた。 
長くて厳しい東北の冬を過ごすには、塩漬けの保存食は必需品であり、当時は特に塩は生活に欠かすことのできない貴重品だったのである。

それに塩の道は、東北の内陸と沿岸部を結ぶ重要な交易の道でもあった。 
これには背景もある、野田の海岸で早くから鉄の生産が行われていたともいわれる。 
日本有数の砂鉄の産地でもあったこの地方では、塩を煮る鉄釜を容易に手に入れることができたようである。

「塩の道」を通して、野田村の歴史と文化が各地に伝えられている。 
塩の道とは、当時の一般庶民の生活の道でもあり、庶民文化の道であり、文化を伝える道でもあったといえる。 


南部牛追い唄』 岩手県民謡

田舎なれどもサーハーエ
南部の国はサー
西も東もサーハーエ
金の山コーラ サンサーエ

南部牛追い唄」は、南部の人里離れた奥山路を二晩も三晩も野宿を続けながら、ゆうゆうと旅する牛方達のよって歌われた「牛方節」で、哀調溺々たる中に落ちつきと気品を備えた陰旋の美しい唄である。 小生の好きな民謡の一つでもある。

野田の十府ヶ浦は、紫色の小豆砂に覆われ、山陸地には珍しい緩やかな弧 を描いて続く3.5kmの海岸線である。 
夏には、ここで村のビッグイベント「野田砂祭り」が行われるという。

次回は、「田野畑」



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日本周遊紀行(101) 三陸・「陸前高田」

国道.45にはリアス海岸の小さな半島を越えるたびに、いくつもの大小の峠を越えるようになる。
大船渡の細長い町並みを抜けると広田半島(末崎半島)・・?の付け根に当たる山地を行くようになる。 この通岡峠は、その中でも比較的大きめの峠であろう・・、標高はわずかに170mであるが海から一気に登るので、そのわりに道は急坂で険しい。
峠からは遠くに海を臨むことができ、すぐ南に神奈川県民としては懐かしい「箱根山」というのが聳えていて三陸を代表するような松の緑も秀麗で目を潤す。
この通岡峠を境に「陸前高田」に入る、峠直下では「三陸自動車道」のトンネルが掘削中のようでもある。

国道45のドライブで、そろそろ一息入れたいと思っていた時に「道の駅・高田松原」が現れた。 ゆっくり休憩しながら案内板を見ると、このすぐ裏手に名勝「高田松原」があった。 
小雨模様だった薄暗い様気も、今はすっかり晴上がっているし、そこまで脚を延ばしてみた。

三陸の海岸は、リアス海岸で断崖絶壁ばかりかと思われているが、実は平坦美景な砂浜も多少はある。 中でも有名なのが、ここ「高田松原」であろう、こちらも三陸を代表する景勝地で、約2km続く弓形の砂浜は、背後には樹齢300年を超える数万本の赤松や黒松が続いている。
日本百景にも数えられる白砂青松の浜はさすがであった・・。

「高田松原」は、往時の江戸初期の頃は、ただの砂浜や湿地帯であったという。
気仙川から運ばれた土砂が、広田湾の沿岸流によって堆積され、これが高潮の時や風によって飛び砂となり地域の人々は難渋していたという。 
高田松原は江戸初期(1667年)、菅野杢之助(かんのもくのすけ)翁が仙台藩の許しを得、地元民の力をかりて「松」を植栽したのが始まりで、三代にわたり植えられ保護されてきた。 
更に、享保年間(1716〜1736)には、松坂新右衛門翁が植栽を続け、ここに、現在にいたる松原の原型が誕生したとされる。 しかし、昭和35年のチリ地震津波では、200メートルにわたって砂浜が流失したという・・。
高田松原は、自然にできたものではなく、数百年の永年にわたり、人の手により作られ保護されてきたものであった。

地元・盛岡出身の歌人・「石川啄木」は折に触れてこの地を訪れ、高田松原や広田半島などの自然に浸り、時を忘れ、その美しい風景に感動して多くの歌や句に詠んでいる。

砂浜を漫ろ(そぞろ)歩きしながら・・、啄木の歌を思い出した。

「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹にハサマル」・・と、駄洒落ながら・・。

石川啄木は「一握の砂」の詩集の冒頭に・・、
『函館なる郁雨・宮崎大四郎君(啄木に対し変わらぬ敬慕の情を抱き、物資両面にわたって援助を惜しまなかった歌人・宮崎大四郎:郁雨・いくう)。 同国の友、文学士花明・金田一京助君(アイヌに造詣のある言語学者)に、この集を両君に捧ぐ。 予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。 従つて両君はここに歌はれたる歌の一、一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。・・明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。・・「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり・・』とある。 

表題の『一握の砂』の内、砂に纏わる歌集を集めてみた・・。       

「我を愛する歌」 より・・
「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
「砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日」
「大という字を 百あまり砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり」
「頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず」
「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ」
・・・・


啄木は、東京朝日新聞の朝日歌壇の選者になったのを機会に、更に歌人として精進したいと考え、従来、「一行」で発表した短歌を「三行書き」に改め、新作を加えて551首の『一握の砂』という題で明治43年に刊行している。 
望郷と漂泊の天才詩人として知られる石川啄木は、僅か26年の生涯ながら「歌は私の悲しい玩具である」、 「歌を作るのは不幸な日だ」と告白しながら、「一生に二度とは帰って来ない命の時の一秒」をいとおしみ、消え去る刹那の感動を見事に表現しているという。 

啄木は、岩手県玉山村(盛岡市北東の村、2006年:平成18年1月10日に、盛岡市に編入合併されて消滅した。)生まれ、1902年、盛岡中学を自主退学して上京し与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねている。
病気で帰郷の後、 故郷での代用教員、北海道での新聞記者生活のなどを経て、1910年「一握の砂」を発表、出版している。
1912年肺結核のため東京で26歳の若さで永眠。 第二歌集「悲しき玩具」は死後出版されたものという。
ただ、石川啄木が、この地「高田松原」の砂浜に、腹這いしたかどうかは、定かでない・・。


陸前高田市街地の北部、大船渡線で一駅の地区に「竹駒」という地区がある、あの演歌歌手「千昌夫」の出身地である。 
彼は高校2年のとき、修学旅行で上京した際、作曲家・遠藤実氏の門をたたき、「北国の春」を歌ったのは周知である。 北国の春は1977年発売、最終的に 300 万枚を売上げたという超ヒット曲で、今では日本以外のアジア各国でも大ヒットし、中国では、現在でも最も有名な日本の楽曲の一つとされている。

寒い北風の中、氷点下の冬を過ごす北国に住む人にとって春の到来を告げる南風は待ち遠しい・・。 「北国の春」は、千昌夫の故郷、出身地である陸前高田の竹駒地区を連想させるが・・、実際は、この歌を作詞した「いで・はく」は信州・南牧村の出身で、故郷の野辺山周辺をイメージして作詞したといわれる。

カラオケ好きの小生にとって「北国の春」は、良く唄う歌ではあるが、それ以前にヒットした「星影のワルツ」が強烈に印象に残っている歌なのである。 
私事ながら・・、東京へ転勤になって一人寂しい暮らしが始まった時でもあり、その孤独感を癒してくれた或る女性とのつかの間の「愛」を育んできたが・・、とある事情で露と消えてしまった時期でもあった。 
この時に大ヒットしていたのが「星影のワルツ」であり、巷では厭でもこの曲が流れていて耳に入る。 まるで悲壮感漂う小生の心境を謳いあげているような錯覚さえしたもんであり、この曲だけは歌好きの小生でも、今も歌うことが出来ないのである・・。

『星影のワルツ』 詩:白鳥園枝  曲:遠藤実(昭和43年)
1  別れることは つらいけど       2  一緒になれる 倖せを
  仕方がないんだ 君のため        二人で夢見た ほほえんだ
  別れに星影の ワルツをうたおう    別れに星影の ワルツをうたおう
  冷たい心じゃ ないんだよ        あんなに愛した 仲なのに
  冷たい心じゃ ないんだよ        あんなに愛した 仲なのに
  今でも好きだ 死ぬ程に         涙がにじむ 夜の窓

3  さよならなんて どうしても
  いえないだろうな 泣くだろうな
  別れに星影の ワルツをうたおう
  遠くで祈ろう 倖せを
  遠くで祈ろう 倖せを
  今夜も星が 降るようだ


次回は、 宮城県・「気仙沼」

祝・・!!100回記念
神奈川県厚木市を出発して→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県と巡り、今回で丁度100回になりました。
今後とも宜しくお願いいたします・・!!


小生、若年よりの『旅』の記録です。
宜しかったらどうぞ・・。
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日本周遊紀行(100) 「三陸地方と大船渡」

国道45は、相変わらず山坂が多い。
この辺りの三陸リアス海岸は、奥行き数キロにも及ぶ半島と入江や湾とが交互に入れ替わり、地図を見ても所謂、ギザギザの地形が連続しているのが判る。 
半島部分は概ね山岳地となっていて、ヘアーピンカーブの峠やトンネルを登り降りしながらの走行となる。
いつもの風景であるが、集落や街へでると概ね海岸であるが、しかし直ぐに山中へ分け入るのである。 こんなことの繰り返しで、些かウンザリしそうだが、気が付くと岩手の海道は黒松、赤松が多く、小雨に濡れて更に緑を濃く彩っている。 
過日、通過した日本海側、特に秋田県側の荒涼とした松枯れの風景とは対照なのが面白く気になったが、何故なのか些か疑問はあったが・・、深い緑は目には良いことは確かである。
(黒松については、後の項=「気仙沼」・・?あたりで記載します)
概ね並行して「三陸鉄道」が走っている。 この鉄道も、各半島付け根に当たる山岳地の殆どの部分がトンネルで、喘ぎあえぎ走っていることが想像される。 三陸の鉄道の歴史も新しく、近年僅かに20数年前の開通とか・・。 

一般に「三陸地方」と言われるが、東北地方東部の宮城、岩手、青森の三県に跨る太平洋岸沿いの地域を指している。 三陸とは陸前・陸中・陸奥(むつ)の昔の地名に基づく呼称である。
「陸前」は今の宮城県と一部は岩手県に属し、「陸中」は今の岩手県と一部は秋田県に属する。 「陸奥」は大部分は今の青森県と一部は岩手県に属する。 
広義に「陸奥国」は、江戸時代まで日本の地方区分である国の一つであり、奥州とも呼ばれた。 現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県の県域に相当する地域を称していたが、明治維新後の明治元年に、陸奥国は陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代の5ヶ国に分けられた・・?。

その三陸海岸は、宮古市を境に北部は隆起地形で断崖絶壁の海岸となっているため、港に適した場所が少ない。 
八戸市から久慈市辺りの海岸沿いでは、台地状でなだらかであるため、漁業よりも農業・牧畜などが盛んである。 一方、宮古市よりも南は沈降地形のリアス海岸となっているため、水深の深い入り江が多く、これが天然の良港となっているため漁業が盛んである。 世界三大漁場と言われる「三陸沖」には、この南部の漁港から主に出漁している。 この地域は平坦な台地状のところは殆どなく、海に面した急峻な谷間にできた僅かな沖積平野部が、陸上の主な生活の場となっている。

三陸海岸の南部「三陸町」は、国の市町村合併政策の先駆けとして、早々、隣町の大船渡市と2001年に合併を果たし、新大船渡市として発足している。 
その大船渡市は三陸町との合併により平成13年、「サンリク・オオフナト共和国」として「銀河連邦」に仲間入りしたという。 

「銀河連邦」・・??、 
普通このような呼称については、或る世界において用いられる架空の国、S・F、空想の社会での話であるが・・、実際は真面目に未来志向の研究がなされている共同体らしい。
今、日本の宇宙科学分野では、宇宙科学研究所(現、独立行政法人)と言う文部科学省管轄の研究部門が各地にあるという。 
これら各施設をかかえる2市3町が提携した友好都市関係のことを「銀河連邦」と呼んでいるらしい・・。 そして、構成している自治体、各市町を共和国、首長(市長・町長)のことを大統領と呼んでいるようである・・。  
北は秋田県から南は鹿児島県まで、研究施設のある市町(3市2町)が握手し共和国として、昭和62年11月に発足、誕生しているという。

因みに、各共和国と研究内容は・・、
「サンリク・オオフナト共和国」(岩手県大船渡市)=三陸大気球観測(昭和45年開設)の施設が在り、科学観測用の気球の飛行実験、気球追跡、気球との送受信施設などを研究している。
「ノシロ共和国」(秋田県能代市)=能代市南部の浅内浜に「能代多目的実験場」があり、鹿児島宇宙空間観測所から打ち上げられる観測ロケットや宇宙探査機打ち上げ用のM型ロケットの開発のため、必要な各種個体ロケットモーターの地上燃焼試験、およびエアターボラムロケットなどの将来型推進器の基礎研究を行っている。
「サク共和国」(長野県佐久市)=臼田宇宙空間観測所の施設が在り、ハレー彗星観測用惑星探査機「さきがけ」、「すいせい」やその後の火星探査機「のぞみ」、小惑星探査機「はやぶさ」等の惑星探査機との通信用観測を行う。太陽系内にて観測を行っている深宇宙探査機に向けての動作指令や、探査機からの観測データの送受信を行えるよう、東洋一の大きさを誇る64mパラボラアンテナを持つ。
「サガミハラ共和国」(神奈川県相模原市)=宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究本部相模原キャンパスがある(昭和58年開設)。飛翔体環境、構造機能等の試験等を行う。相模原は首都圏にも近く、全国の宇宙科学研究所施設の中核となってる。
 「ウチノウラ共和国」(鹿児島県内之浦町)=鹿児島宇宙空間観測所、観測ロケット及び科学衛星の打ち上げ、追跡、データ取得のための実験場を行う。

以上の共和国は、互いの研究状況を連携し共有しあい、その他の行政や文化、物産、女性問題・・?、スポーツ、又、子ども達との交流に伴う人材育成、観光物産振興等、広範な地域交流を通じて友好のきずなを深めいるという。


大船渡の景勝
碁石海岸==大船渡市末崎半島の東南端約6kmの海岸線を「碁石海岸」と呼び、背後のアカマツや草花が彩りを添えるなど、変化に富んだ素晴らしい海岸景勝地で、「国の名勝・天然記念物」に指定されている、「日本の渚・百選」。 なかでも、穴通磯(アナトオシイソ)は、碁石海岸を代表する絶景スポットで、波の侵食作用により大きな洞門が三つ開いたその姿は、まさに自然の造形美であると・・。 又、乱曝谷(ランボウヤ)は数十mの切り立った岸壁が向かい合う海の谷間で、激しくぶつかって砕け散る波濤の迫力は強烈であると・・。 
大船渡貝塚群==大船渡湾岸には、蛸ノ浦貝塚、下船渡貝塚、大洞貝塚など多くの貝塚や遺跡がみられ、何れも国の指定史跡になっている。 三陸沿岸は世界の三大漁場といわれ、北に親潮と南の黒潮がここで合流し、寒流、暖流の魚群が多く、食の豊富であった。この地は、縄文期から人が住み着き、生活を営んでいた形跡があり、貝塚からはアサリやカキ、ホタテなどのほか、マグロ、ブリ、カツオなどの魚の骨もあり、当時の海の豊かさを今に伝えている。


大船渡の市街地を抜けて、高台の展望休憩地に「新沼謙治の出身地」と大きな看板が目に入った・・。
彼の唄 では「津軽恋女」がいい・・、 

『津軽恋女』 新沼謙治
♪♪・・津軽の海よ 竜飛岬は吹雪に 凍えるよ
日毎夜毎 海鳴りばかり 愚図る女の泣く声か
津軽の女よ 別れ唄ひとつ 口ずさむ
濁り酒に 思い出浮かべ かじかむ心の 空を見る
降り積もる雪 雪 雪また雪よ
津軽には 七つの雪がふるとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の女よ ・・♪♪

次回は、 「陸前高田」

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