『日本周遊紀行』

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                石応禅寺・釜石大観音

日本周遊紀行(99) 三陸・「鉄の街」

「鉄の街」、釜石に入った。
ギザギザ三陸海岸、陸中国立公園のリアス海岸のほぼ中心に位置しているのが釜石市であろう・・。
山中の屈曲した上下動の激しい道で、時折、長いトンネルを抜けると入り江の突端の海岸に出る。 これらを繰り返しながら国道45は釜石港を過ぎ、高台の地に至ると釜石ならではの「鉄の博物館」が在った。

釜石は近代製鉄業発祥の地である。
釜石周辺は、既に平安期頃には砂鉄を原料とした製鉄が行われていたという。
江戸期には鉱山師(山師)らにより広大な磁鉄鉱と黄銅鉱を主とする鉄鉱石が発見され、幕末の安政年間には、「大島高任」(おおしまたかとう)が我が国最初の洋式高炉を導入、築造し本格的な銑鉄の製造に成功している。 
明治維新を迎えると、官営製鉄の釜石製鉄所となり、やがて富士製鉄、新日鉄と推移してゆくのであるが・・。  
昭和60年、創業100年の期を境に不況と鉄鋼業界の変質も加わり、順次高炉の火も消えていった・・。
現在では僅かに遺跡があるのみで、我国の鉄産業発達史上唯一の文化遺産として、その意義を残している。

大島高任は文政9年(1826)、南部藩・盛岡に生まれている。
大島家は代々馬医として南部藩に仕え、父・周意は南部藩医師として仕えていた。 
高任は17歳から家督にそって、医学を習得するべく江戸にて蘭学などを学ぶ。 そして、21歳の時長崎にて医学修業中の傍ら、西洋流兵法、砲術、採鉱、精錬なども学んでいる。
嘉永6年、その功績が水戸藩御用人「藤田東湖」(尊皇攘夷の祖)の目にとまり、水戸藩主徳川斉昭から招かれ反射炉を常陸・那珂湊に築造している。 その際、徳川斉昭は高任の才能を見抜き、水戸藩は300石で召し抱えようとするが・・、「臣籍220余年の恩義が盛岡藩にある」と言って辞退している。
その後、鉄鉱石が産出している盛岡藩の釜石・大橋へ出向き、大橋にて洋式高炉一座を竣工し、初出銑(高炉より熔けた鉄:銑鉄を取り出す)に成功する。

昨今の釜石は、新日本製鉄の跡地を利用して生け簀(いけす)などを造り、官民・第三セクターが一体となって珍魚の養殖に取り組んでいるという・・。
一つは「蝶鮫」(チョウザメ)の養殖である。 チョウザメは世界三大珍味として知られる”キャビア”の親である。 ロシアや北米などに生息しているが、生息数は極度に減り、幻の魚になるのではないかといわれる。 又、この魚の肉は淡泊な味で、身の締まりも非常に良く、和・洋・中華風いずれにも適しているそうである・・。
因みに蝶鮫の鱗(うろこ)は文字通り”蝶”の形をしているという・・。

もう一つはカレイの一種の「マツカワ」という魚のの養殖である。 
マツカワはカレイ科の魚で、天然物の水揚げが少なく、浜でも滅多にお目にかかれない幻の魚だという。 カレイ類特有の白身魚で、適度に脂肪がのり、身の締まりも良く鮮度の持ちも非常によい魚らしい。
釜石は鉄の産業から食品産業、養殖産業に切り替わりつつあるようだ・・。

次に、釜石で特筆すべき事は、やはり冬の花形スポーツと言われるラグビーであろう・・、小生も大ファンである。 
「北の鉄人」と呼ばれ、日本ラグビーの歴史に偉大な足跡を残した新日鉄釜石ラグビー部がある。 釜石が製鉄で華やかなりし頃、 新日鉄釜石ラグビー部は連続V7を含む通算8度の日本一に輝いたということは「知る人ぞ知る」であろう・・。
赤ジャージを身に纏い、主将・松尾雄治を擁して1978年度から1985年度まで、前人未到の日本選手権7連覇を達成したのはいまだ記憶に残る。 本社の業績が悪化し釜石製鉄所も苦しい中、地元の期待を背負い勝ち続けるその姿から「北の鉄人」と称されたのである。 東北を中心とした高校出身者を基礎から鍛え上げ、東北人特有の忍耐強さと、地域、会社をあげての応援で、その実力をいかんなく発揮した。
だが鉄人にも落陽は訪れる・・、松尾が引退した翌年、新鋭・神戸製鋼に敗北して以来の後、国立競技場に帰ることは無かった。 そして、合わせるように1990年には、溶鉱炉の灯も消えることになるのである。
  

釜石付近の観光地
御箱崎千畳==箱崎半島の先端にあり、広大な千畳敷や岩礁、入り江などが広がり、大自然の海岸美を堪能させてくれる。外洋に面しているので、海の色もひときわ美しく、荒れたときには波濤渦巻き圧倒される。陸中海岸を代表する景勝地である。
釜石大観音==昭和45年、鎌崎の先端に釜石港を見守るように立っている真っ白な観音様。 身長48m、胸元に魚を抱く魚藍観音で、正式な名称は石応禅寺・釜石大観音といい、人々の幸せと世界平和を祈願して落慶されたという。 大観音の内部は13階に分かれ、拝殿、三十三観音安置室などがある。 海抜120mの高さにあるこの展望台からは、釜石湾の美しい景観が一望できる。 
三貫島==箱崎半島沖合に浮かぶ無人島で、オオミズナキドリ、ヒメクロウミツバメの繁殖地として国の天然記念物になっている。
仙人秘水と仙人峠==釜石鉱山から湧く自然天然の水、体にやさしい弱アルカリ性ミネラルウォーターとされる。  この付近に内陸と沿岸を結ぶ「仙人峠」があり、往時は釜石街道の最大の難所として知られていた。 仙人峠の名前の由来は、仙人が住んでいたなどの説があり、古くから海岸部と内陸部を結ぶ最短の道として利用されてきたという。 平成18年の完成に向けて「新仙人峠道路」の開発も進められている。
五葉山==仙人峠の南に位置する五葉山は(標高1,351m)、作家・田中澄江の『花の百名山』にも掲載され選ばれていて、春はツツジ、初夏にはシャクナゲが咲き誇り、登山愛好者や市民からも広く愛されている。 自然が豊かでブナ、ミズナラ、ダケカンバなどの広葉樹や、ヒノキ、コメツガなどの針葉樹の原生林はすばらしいという。
又、五葉山県立自然公園は「21世紀に残したい日本の自然百選」に選定されている。

次回は、「三陸地方と大船渡

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日本周遊紀行(98) 三陸・「宮古:宮古湾海戦」

田老町は2005・3月、宮古市になる・・、
小雨の中、国道45を南下しながら、 山間地を抜けて見通し良くなったところが宮古市である。 入り江になっている宮古湾が大きく見渡せる。
宮古湾は向かい側・重茂半島(おもえ:三陸海岸最大の半島)の閉伊崎(へいざき)から凡そ10kmもV状に入り組んだ深い湾になっている。 
その湾口部・喉仏の様なところの先端に、陸中海岸を代表する景勝地である「浄土ヶ浜」がある。 300年以上前、この地を訪れたお坊さんが、「さながら極楽浄土のごとし」とその美しさに感嘆したことからこの名がついたとか。 このあたりの地質が白い石英であることから、太平洋の荒波に削られて様々な形状で林立する岩や砂浜は白く、透明度の高さを誇る美しい海(日本の水浴場88選)の群青とのコントラストが美しい。真夏にはこの景観を愛でながら海水浴客で賑わうという。

この浄土ヶ浜の南側に宮古港が広がっている。
宮古は、陸中海岸国立公園のほぼ中央に位置し、美しい海岸風景が続く宮古港は、古くから三陸沖の漁業基地として位置付けられてきた。又、浄土ヶ浜を初めとする美しく、勇壮な景観の海岸が多く存在する観光の町でもある。

古くは明治維新当時、宮古以北には艦隊が物資を補給できる良港がなかったため、蝦夷に向かう船は必ず宮古港に停泊したといわれる。
榎本武揚率いる旧幕府軍もまた蝦夷に向かう途中の明治元年(1868)10月に入港して兵糧等を補給、出航したとの記録が残っているという。
その凡そ半年後、宮古港内で維新史の戦争末期、日本海戦史に残る壮大な海戦が行はれたことは余り知られてない・・、「宮古港海戦」である。

明治2年3月、榎本武揚の率いる旧幕府軍は、箱館の五稜郭にたてこもって官軍と対峙していた。 この時、榎本軍を攻略すべく北上する政府軍の軍艦「甲鉄」を旗艦とする艦隊が、宮古湾に進入、停泊するとの情報を得た。 これを知った榎本は「甲鉄」の乗っ取りを企てるのである・・。 そして3月20日、榎本武揚率いる幕府軍艦、回天を旗艦に蟠龍、高雄の三艦が南下出撃する。
乗っ取り作戦には特に訳があった・・、 艦長・榎本が最も信頼していた幕府旗艦「開陽丸」が明治元年11月、大嵐のため江差沖で座礁し沈没してしまったのである、不慮の喪失であった。 海軍の将・榎本としては、何としても代替の新鋭艦が欲しかったのである。

時に宮古湾に投錨していた官軍の軍艦は、「甲鉄」を先頭に八艦停泊していた。 甲鉄はアメリカから購入した当時の最新鋭艦であり、艦砲の他にガトリング砲まで装備していた鉄鋼艦であった。
ここで榎本軍率いる旧幕軍の艦隊は、思わぬアクシデントに見舞われるのである。 南下の途中、暴風にあって各艦は離ればなれになってしまい、蟠龍が行方知れずとなり、24日には嵐がやや静まったものの、25日までに山田港(宮古湾)に到着できたのは回天と高雄のみだった。 25日早朝、回天は米国旗、高雄は露国旗を掲げて宮古港に接近したが、更に、高雄が機関故障を起こして作戦から離脱、旧幕府艦隊はやむなく回天のみで作戦を敢行することになった。

3月25日未明、「回天」は甲鉄に直角に接舷し、土方歳三を始め新選組の元隊員らが乗り込んで斬り込みを掛けた。 その壮絶無比な戦闘は、新政府艦隊「春日」の三等士官として乗り込んでいた「東郷平八郎」(後の海軍連合艦隊司令長官)はその衝撃を後年まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として対馬沖海戦(日本海海戦)のヒントになったと言われる。
しかし、回天の突入部隊は、ガトリング砲(速射砲・手動式機関銃)などの反撃で壊滅的損害を出し、わずか30分で回天は撤退した。 回天と甲鉄は甲板の高さに差があって、回天から飛び下りた斬り込み部隊の多くが足を挫き、そこをガトリング砲で狙われたと言う証言もある。 又、更に不運だったのが、追跡して来た新政府艦隊・春日(出撃体制にあって艦砲合戦がまともに出来たのは春日だけだったらしい)によって、機関故障中の「高雄」が田野畑沖で発見され、激しく砲撃されて座礁し、多くの乗組員が戦死している。 この時、座礁してやむなく上陸した乗組員を、政府軍兵が虐殺したとも伝えられている。 
尚、蟠竜と回天は後に合流し、二隻共に翌明治2年5月の戦闘まで生き残り、最期は函館湾で座礁・沈没している。
政府軍による虐殺行為は、「天下の官軍が蛮族の行為をおこなった」と酷評し、後の榎本達の助命嘆願の一因となる効果を生むのであるが・・。 事実、函館戦争終戦時は、榎本以下旧幕軍の主な幹部は土方を除いて殆どが助命されていて、尚且つ、新政府の役職に付いたという。
この海戦は、わが国近代海戦史上初の海戦であり、後の、日清、日露の海戦の勝利へとつながっていくのである。 
「宮古湾海戦」と銘打った国際戦史にも記録されたこの作戦は、近代戦史では、特に東洋では特筆すべき戦役であったとされている。

宮古市は昔から港町として栄え、今も漁業基地の街で三陸観光のベースでもあり、落ち着いた雰囲気の街である。 宮古港の北側に位置する浄土ヶ浜は、周囲の荒々しい海岸風景とは異なり、陸中海岸を代表する伸びやかな景勝地である。  
展望台へ向かう道の入口のところに「宮古港海戦記念碑」がある。

『宮古の名勝』
浄土ケ浜=ダイナミックな断崖や奇岩が複雑に入り組んだ岩塊が続く合間に、白い砂浜が在る、透明度の高い青い海と緑の松のコントラストは絶景。
トドヶ崎=最東端の岬、灯台は本州で最も東に位置する、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の手記の舞台となったことで知られる。
ロ−ソク岩=高さ40メ−トル、幅7メ−トルの文字通りのロ−ソクのように天にそそりたっている。
潮吹穴=荒波が押し寄せるたびに、幅約30センチの岩の隙間から海水が吹き上がり、荒天時には30メ−トルにも達する。
 

国道45号・陸前浜海道は、宮古湾を見納めると再び山中となる。 並行している三陸線も山間を曲がりくねって延びている。  最高所の「石峠」を越えると山田町である、間もなくその山田湾に出た。
山田湾には無数の筏が浮かぶ、カキ、ホタテに代表される養殖漁業であろう、又、ウニ、アワビなどの漁獲も多い、この街の活力源であり観光資源でもある。

その筏群の中にお椀を伏したような、コンモリした中央に浮かぶ大小の島を「オランダ島」という。
凡そ、360年前の江戸初期(1643)年、水と食料を求めたオランダ商船・ブレスケンス号が、山田湾に入り大島に停泊した。 知らせを聞いた大槌代官所の奉行はとりあえず給水を許可し盛岡藩主に報告、盛岡藩は幕府に指示を仰ぐ。
しかし、幕府からは逮捕命令が出てしまい、やむなく船長ら10人が逮捕され江戸に護送された。ただ、山田村民の強い解放願いもあって、江戸で取調べを受けた後は国内を見物しながらも、9カ月後、長崎からオランダへ帰っていったという。
このことがあって大島は後に「オランダ島」と名付けられた。 この事件は、ブレスケンス号事件として、地元では今も語りつがれていると・・。 
平成12年、オランダのザイスト市と山田町は友好都市の締結を行い、現在お互いの町を行き来する交流が続いているという。
山田港にオランダ島行きの乗船場・桟橋があって、今は渡し舟は停泊してないが、長閑な雰囲気が漂っている。 島の周囲は、緑の森、砂の浜、海の青が相まって大変な美しさである。


次に、「船越湾」沿いを行く、この辺りも実に良い眺めである・・!、「吉里吉里」(きりきり)という地名に目が止まった・・。 
昔、自称、吉里吉里人・井上ひさしの「吉里吉里王国」という本がベストセラーになったのを思い出した。  何かそれらしい因縁物が在るのか、それに因んだ様相があるのか、周囲を覗ったが見当たらない、 あくまで長閑な田舎町であった。 それにしてもユニークな名称を付けたもんですね・・、名付人に敬礼・・。
因みに、元々、「キリキリ」とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味しているらしく、吉里吉里の海岸線は美しい透明な砂と水が自慢のビーチであった。
 
次回は、 三陸・「釜石」

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日本周遊紀行(97) 「三陸地方と津波」


夜半よりバタバタと車を叩く雨の音が気になった。 
山間の「道の駅・たろう」は小雨模様で、やや冷んやりとしていた。 先ず熱いコーヒーを口にして、眠気を取り払う・・。

この辺りは来たらやはり、三陸特有の様子を記さねばなるまい・・。
田老町を過ぎて宮古市あたりから、宮城県の松島の海岸線に至る地域は独特の地形をしている。 一般に「リアス海岸」と呼ばれ、海岸線の入り組んだ「溺れ谷」といわれる地形が連続している。 溺れ谷というのは、陸上の谷が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾のことで、最終氷期から後氷期に入った1万年から5千年前までの海面上昇で世界中の海岸にできたという。

大きな川の河口近くなどでは砂泥に埋められて平野となったが、砂泥の供給の少ない所(愛媛県南部・若狭湾・三浦半島南部・三陸海岸など)には今も残 っている。  
「リアス」というのは、スペインのリアス地方で見られることから命名されたスペイン語で、リア (ria) は入り江を意味する。 
リアス海岸は複雑な地形、特異な様相をしているため、断崖絶壁、大小の鋭い奇岩、渦巻く波飛沫など、見るべきところが多く、景観地を形成している。 特に、この先の大船渡湾に突出した末崎半島の碁石海岸やその南の唐桑半島は秀美な風景を呈していると・・。 又、複雑に入り組んだ入り江は風の影響が少なく波も立たない、従って、三陸海岸は筏(いかだ)による養殖漁業が盛んで、カキやホヤとホタテガイなどが生産されているという。
波の無い、鏡のような静かな海面に、筏が浮かぶ様子は一服の風情でもある。


三陸地方の津波について・・、

ところで、三陸海岸のリアス海岸では入り江は湾口に較べて奥の方が狭くなっており、更に、浅くなっている。 この様な地形は津波が襲来した場合、波高が通常よりも高くなって被害が大きくなる、そのため、高波を防ぐための高い防潮堤を設けている所が多い。 
この田老町も津波との闘いの歴史だという。

なかでも慶長16年及び明治29年、昭和8年の3回は再起不能といわれるほどの壊滅的被害を受けている。そんな中 、昨年、2003年「津波防災の町」を宣言している。
現在では市街地を世界最大級の高さ10メートル、総延長2.4kmの防潮堤が街を囲み災害に備えてある。 コンクリートの壁は、軒を連ねる住宅を見守るように延々と町を横断している。 防潮堤建設と同時に、区画整理も行はれ災害に強い、安全な町ずくりが進められたという。
尚、このコンクリートの壁は、すばらしい自然景観を損なうとして、防潮堤には大壁画を施してあるとか・・。

   ?H1>三陸地方の主な津波被害』
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「明治29年、三陸地震津波」での地域の津波高さは、三陸綾里湾奥:33.8m(本州最大)、吉浜村:24m、綾里村白浜:22m、宮古市重茂村姉吉:18.9m、田老町:14.5m、北海道襟裳岬:4mなどであり、因みに、ハワイは2.4〜9,1mであったという。  


この項も書き終わって暫くして、破天荒なニュースが飛び込んできた。 あまりの衝撃的な「地変」なので、ここに記憶としてと止めておきたい・・。
史上最悪の津波災害は、死者30万人を超えるとも・・・!!! 
2004年12月26日(日)午前8時(日本時間26日午前10時)、 インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。 
この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった。


次回は、 「宮古」

日本周遊紀行(96) 「田野畑村」

十府ヶ浦の海岸線から再び山間に入ったところは「普代村」である・・。 
普代村は、丁度北緯40度にあたるという・・。 「東北・西沿岸編」でも記したが、日本海側の大潟村(旧八郎潟)を通った北緯40度線は、秋田・岩手の北部を横断してこの村に達していた、 記念碑のシンボル塔が海岸に建っている。 
又、この村の「鵜鳥神社」は平安時代の初めに開山し、 後に源義経によって建てられたと言われている。
源義経は、実の兄・頼朝に追われ、平泉で自刀したが、人々は、義経は平泉から逃げ延び、蝦夷地を目指した・・・という「義経北方伝説」を残した。 その途中、ここ鵜鳥神社に立ち寄ったと伝えられる・・。
平成17年度、NHK大河は「義経」が放送された。


「田野畑村」も海の山岳地・海のアルプスと言われ、かっては陸の孤島であった。 沿岸に在りながら、大絶壁に阻まれ、周りは重厚な山地に囲まれている。 深い谷、山地が人々の往来を遮った。 
あまりの道の険しさに、このまま行こうか、それとも引き返そうかと思案したという「思案坂」や「辞職坂」と言った呼称の地が国道45号の界隈に残る。 
このように陸の孤島といわれる村で、当然と云うにはおこがましいが・・、この地区は無医村というか、医者が来ても直ぐ辞めてしまうという。

この無医村だった田野畑村に医師として赴任し、19年にわたり地域医療に貢献した人物がいた。 将基面 誠(しょうぎめん まこと)という、チョット珍しく印象的な姓名であるが・・
昭和57年4月、千葉県がんセンター婦人科医長の要職にあった将基面氏は、医師が不在だった村の診療所に赴任し、以来、19年間にわたって村民の健康を守り続けてきた。 
在任中は医療の傍ら、幼児から高齢者まで一貫した健康管理に取り組み、また、医療と保健、福祉の体制を強化し、三者を総合的に推進する「ほっとピア構想」というのにも取り組んだ。 
平成8年には、これらの地域医療に対する功績が高く評価されて保健衛生と社会福祉の分野で最も権威のあるといわれる「保健文化賞」を受賞されたという。
彼は医療の分野だけでなく、多方面にわたり村の振興に献身し、「花笑みの村」など「亡くなった妻が好きだった梅の花で、村を一杯にしてほしい」と副賞250万円を村に寄付、診療所や公園などに約200本の梅の苗木を植樹してきた。 今、これらの梅の木が美しい花を咲かせ、成長しているという。

平成13年、田野畑村での村医を辞め妻の故郷・千葉県木更津に帰っている。
地域医療のあり方を描いた感動の人間ドラマとして、『無医村に花は微笑む』がフジテレビ系で2006年1月に放送された。 医師・将基面氏を演じるのは三浦友和、その彼を支え続けながら45歳の若さで亡くなった妻・将棋面 春代さんを伊藤蘭が演じている。


田野畑の海岸線は、この山地をギザギザに切り裂いた様な断崖絶壁が連続する。 
この一角は「北山崎」といわれ、陸中海岸の中心的スポットでもある。 JTBが自然資源・海岸の部で、国内で唯一最高ランクの特A級に評価し、名実ともに日本一の景観を誇る海岸であるという。 
更に、北山崎と並んで「鵜の巣断崖」と言われるのもある、200メートルの落差の圧倒的なスケールを誇る絶壁、中腹には「ウミウ」の巣があることから名づけられた。 五列に連なる断崖は巨大な屏風の様だといい、展望台からの大パノラマが楽しめる。


次回は、 「三陸地方」

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日本周遊紀行(95) 「久慈、野田」

国道45線は、別名「浜海道」と称している・・、が実際の国道はかなり内陸へと進むようになる。 山間の上下曲折を繰り返し、国道395と合流すると間もなく久慈市街、久慈湾が望まれた。 

久慈市は、日本で唯一の「琥珀」の産地であるという。
「琥珀」というのは数千万年前の松や杉などの樹液が、石のようにカチカチになって化石状になったものをいう。 色は多様であるが主に黄褐色を帯び、ネットリした水あめ色が一般的である。 
久慈地方の琥珀は、中世代白亜紀後期のいわゆる「恐竜時代」に属するもので、およそ8500万年前のものといわれる。
琥珀の中には、植物や虫の死骸が閉じ込められた、所謂、「虫入り琥珀」と呼ばれるものもあり、数千万年という気の遠くなるような時間の経過を感じさせない状態でその姿を残しているのもあると・・。 
虫入り琥珀には、生物のDNAも保存されているといわれ、昆虫などの進化をはじめ、太古生物の生活環境さらには、当時の地球の様子などを知る手がかりを与えてくれる極めて学術的価値にも高い貴重な化石といえる。

そう、あの大ヒット映画、マイクル・クライトンの『ジュラシックパーク』(Jurassic Park)において、琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜の血液を採取し、その中に含まれているDNAを採取することで恐竜を蘇らせるという設定を用いた。
だが、実際にその年代の蚊が琥珀に閉じ込められていたとしても、長い年月の間に石の中で化石化するため、現実にはそのアイデアは実現し得ないともいうが・・、これはあくまでも小説の世界である。

古来、琥珀は「パワーストーン」、「マジカルパワー」を秘めてると信じられていた。 
昔は琥珀を称して「悪魔的なものに対する強い防御能力」、「生命を高揚する能力」、「心の奥に秘めた想いを伝えるテレパシー能力」、「物事に対するサクセス能力」などがあると信じられ、古代の貴人達に重用したといわれる。 
昔から珍重されてきた人類最古の宝石・琥珀・・、久慈地方の琥珀を使った勾玉・なつめ玉・丸玉などが、奈良県を中心とした有力者たちの古墳から数多く出土しているという。
交通手段のない古墳時代に久慈から奥州路・東山道を通って、大和朝廷に運ばれた琥珀、この道を「アンバーロード」とも呼ばれている・・、アンバーとは琥珀(こはく)のことである。
英語の電気(electricity、electrum など)の語源は、琥珀を意味するギリシャ語のelektronであり、琥珀を擦ると静電気が発生することが由来とされている。 しかし、琥珀そのものは電気を通さないため、この性質を利用し戦時中は絶縁体として使われていた。

現在、市街地の南西部の山麓に、国内に一箇所だけの「久慈琥珀博物館」があり、館内では琥珀のアクセサリーなど手づくり体験もできるという。
現在では、琥珀は宝石やペンダント、ネクタイピンなどの装飾品や装身具として利用されているのは周知である。

 
久慈の市街地から再び国道45は山間地に入る・・、そして又海岸へ出る、それらを何回か繰り返す・・。 そう・・、ここは「三陸沿岸」である。
久慈市から宮城県塩釜に至る太平洋岸は、大断崖や海食による洞窟や洞穴、奇岩に白波の立つダイナミックな「リアス海岸」が続くのである。 久慈市から宮城県気仙沼市まで約180kmが陸中海岸国立公園に指定され、気仙沼から塩釜市付近まで約130kmを南三陸金華山国定公園域とされている。 そのためか・・?、透明度が高く透き通った青い海が続く。

その海岸線を国道45号線が走る、間もなく「野田村」である・・。
この海岸沿いには野田村、普代村(ふだい)、田野畑村と県内では比較的小規模な村域が連なる。 何れの村も、昨今の「平成の大合併」にも頓着せず、堂々と自主村域を維持しているところ立派と言えるだろう・・、是非、頑張ってほしいものだ・・?。

野田村についてだが・・、
そちこちの古い峠道には、かつて「ベコ(牛)の道」と呼ばれた狭い山道が残っているという。 塩の道と言われる「野田塩・ベコの道」で、先人が築いた足跡は、現在は追分けの庚申塔や道祖神だけが、その歴史を刻み込んでいると・・。
野田村の海岸では、古くから製塩が行われていたという。 ここで造られた塩は北上山地を越えて雫石や盛岡近在にまで運ばれ、米、粟、そば、豆などの穀物と交換されていた。 この地方の塩を運ぶ人々は、牛の背につけて運ぶことが多かったので「野田ベコ」と呼ばれ、この塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいる。

私事ではあるが、信州白馬村の別宅に面したところにも「塩の道」が走っている、日本海に面した糸魚川から内陸の信州松本へ至る街道であ。 
戦国期、塩に窮した武田信玄が、敵将でもある越後の上杉謙信に信濃の国に塩を送りよう要請したところ、快く引け受けてこの街道より塩をおくった・・、とされる。 ここも当時の面影である、庚申塔や道祖神など数多くの史跡が残っているが・・、その他にも日本各地に「塩の道」は存在しているという。

海のない内陸部の人たちは、塩行商の野田ベコが来るのを待ちこがれていた。 
長くて厳しい東北の冬を過ごすには、塩漬けの保存食は必需品であり、塩は生活に欠かすことのできない貴重品だったのである。
それに塩の道は、東北の内陸と沿岸部を結ぶ重要な交易の道であった。 これには背景もある、野田の海岸で早くから鉄の生産が行われていたともいわれる。 日本有数の砂鉄の産地でもあったこの地方では、塩を煮る鉄釜を容易に手に入れることができたのである。
「塩の道」を通して、野田村の歴史と文化が各地に伝えられている。 
塩の道とは、当時の一般庶民の生活の道でもあり、庶民文化の道であり、文化を伝える道でもあったといえる・・・。 

『南部牛追い唄』 岩手民謡
田舎なれどもサーハーエ    沢内三千石  (以下繰り返し)
南部の国はサー        お米のでどこ
西も東もサーハーエ      つけて収めた
金の山コーラ サンサーエ   お蔵米


「南部牛追い唄」は、南部の人里離れた奥山路を二晩も三晩も野宿を続けながら、ゆうゆうと旅する牛方達のよって歌われた「牛方節」で、哀調溺々たる中に落ちつきと気品を備えた陰旋の美しい唄である。 小生の好きな民謡の一つでもある・・。

野田の十府ヶ浦は、紫色の小豆砂に覆われ、山陸地には珍しい緩やかな弧 を描いて続く3.5kmの海岸線である。 夏には、ここで村のビッグイベント「野田砂祭り」が行われるという。


次回は、 「田野畑」

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http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』

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