『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

宮城県

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ ]

イメージ 1

「塩竈神社」本殿

日本周遊紀行(105) 宮城・「塩釜」

昨日から相変わらずの小雨模様であった。
日本周遊の旅に出て、幸いにして殆どの期間が秋日の好天に恵まれてきたが、旅の終わりになってどうやら雨に遭遇したようである。 四季晴雨の豊かな国土・日本である・・、雨も良しとしよう。

松島の「湯の原温泉」を早々に後にした。
塩釜市の繁華街で・・、とは言っても街は未だ朝の寂の中だが・・、小生の好物、「吉野家」で朝定を食し、人心地がついた・・。

塩釜市は、「鹽竈神社」の門前町である。
地域名は、現在の通称文字である「塩釜」であるが、本来は鹽竈神社から由来しているので、「鹽竈」が正しいともいわれる。 しかし、現代の用語としては、余りにも字画が煩雑難解であり、従って、鹽と塩は同意語であることから、鹽を塩と変えて「塩竈」としているようである。 
公の機関の官公庁、公文書等、本来の意味を尊ぶ呼称としては「塩竈」としているが、竈の字も、これまた字画・字形としては難解であるので、一般的な書き方は「塩釜」になっていて、これで良いことになっているらしい。 
しかし本来「釜」は、ご承知ご飯を煮炊きする「かま」であり、「竈」は「かまど」と称して「釜」を載せて下から火で焚くものである。 「釜」と「竈」は、類似語のようで同意語ではないといい、疑問を呈する人もいるこた・・。
「鹽竈」を「塩釜」としたのは、些か無理があったようだが・・、それにしても、昔の人は難解な字を平気で使用していたものである。

鹽竈神社は文字通り製塩の神様で、御神体に塩の神が祀られている。 製塩が行われた地域には全国に何箇所か、この名称の神社があるという。 
因みに、鹽竈神社は奥州一の宮である。 一の宮、二の宮というのは、平安期に朝廷が社宮を核付けしたもので、その国で最も社挌の高い神社のことをいい、宮中央(朝廷)から各国に国司が赴任したときなどに一の宮、二の宮、三の宮と巡拝しなければならなかったという。

塩釜の隣町が「多賀城市」である。
多賀城は奈良・平安期に朝廷の国府「多賀城」が築かれた地であり、東北の中心地であった。 坂上田村麻呂が蝦夷(エミシ)の人々との争いを封じるため、都よりはるばる遠征して来て、北の拠点としたのも、この地であった。 
陸奥国の総鎮守、多賀城から見て北東の方角に位置する鬼門として建てられのが「塩竃神社」であったという。

その塩竈神社は、塩釜市街地の西、その名も宮町に広大な境内を有して鎮座している。
陸奥国の一宮であり、全国にある塩竈神社(塩釜神社とも表記する)の総本社でもある。
塩土老翁神(シホツチノヲヂ)を主祭神とし、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、経津主神(ふつぬしのかみ;いずれも古事記、日本書紀に登場する日本の神々)を相祭神とする。 塩土老翁神は、海や塩を神格化した神と考えられ、神武天皇や山幸彦(火遠理命:ホオリノミコト・神武天皇の祖父)を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。
境内に、「志波彦神社」が同座している。 祭神は、志波彦神(しはひこのかみ)とされているが、志波(しは)と鹽(塩・しほ)の読みから塩土老翁神とする説もある。

神社の由緒は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
奥州藤原氏など歴代の領主からも崇敬され、伊達政宗は仙台城築城の際に社殿を修造し、以降、歴代の仙台藩主が手厚く保護したという。

塩釜神社境内には「シオガマザクラ」という貴重な桜の一種があり、毎年メディアに取り上げられるほど有名である。
塩竈神社の主各殿、志波彦神社及びシオガマザクラは国、県の文化財に指定されている。

堀川天皇(平安時代後期の第73代天皇)は、次のようなシオガマ桜の歌を詠んでいる。
『あけ暮れて さぞな愛で見む 塩釜の 桜が下の 海士のかくれ家』

次回は、伊達仙台・「伊達政宗」

下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。
http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』

日本周遊紀行(104) 石巻・「北上川流域の盛衰」

石巻へ来た、市街の中心を清冽な「北上川」が流れ注ぐ。
この北上川は「旧北上川」と称している・・が、 一方、「新北上川」が追波湾に注いでいることは、先回(103・「牡鹿半島」)の項で述べた。
「新北上川」は、旧北上川の流量調節や、農業・水運のため、昭和の初頭、津山(柳津)で分流し、旧追波川を改修、合流させ運河として造成したものという。
北上川は岩手の中枢を流域とし、往時は水運文化として栄え、栄華を極めた地域である。  その流域には、一関、平泉、衣川、前沢、水沢、胆沢(いさわ)、江刺、金ヶ崎、北上、花巻といった、既に大和朝廷の古代から知られる地域名が多く並んでいる。 

古代奈良期の頃は、この辺りは未だ東国・蝦夷といわれた処の中心で、蝦夷・エミシの棟梁である「アテルイ」という人物が古代東北を治めていたことは、東北の歴史に興味のある人は周知のことであろう・・。
大和の国統一を計る朝廷は宮城・多賀城に根拠を持ち、幾度となくエミシの中枢である水沢、胆沢を攻めるが、アテルイによってことごとく阻まれてる。 そして最後に登場するのが征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(・・後述)で、彼によって決着をつけられるのだが・・、この時期に北上川は多いに利用され改修もされたという。
後には俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化したエミシ)と呼ばれる安倍氏の反乱である「前9年の役」などを経ながら藤原全盛期を迎えることになる。 平泉の藤原三代の中尊寺、毛
越寺(もうつうじ)等に代表される奥州・藤原文化のように東北独特の文化圏を形成した。 それには「北上川」が社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。

宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」といえる。 
ただ、岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は、『古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。こんな国が他にあるだろうか・・』・・とも。
北上川には、国指定史跡、名勝、天然記念物の多くが川沿いに分布しているが、それは苦難の歴史を秘めていることでもあり、今は只、ゆったりと流れている。
 

江戸時代の石巻港は、北上川水運によって南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名であった。
伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。

旧北上川河口から松島湾岸を経て阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約60kmに及ぶ日本最長の運河「貞山運河」(ていざんうんが)が延びている。 この運河により、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野の全ての水系、および、福島県の阿武隈川水系がつながっている、この運河を「貞山堀」とも呼ばれる・・。 伊達政宗の命により開削されたため、諡号(しごう:主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のこと)を名付けて「貞山公」と名付けられたという。

戦国末期(1558年)の頃より、阿武隈川河口から北上川河口まで、政宗が堀削に着手してから明治期の1884年頃まで永々と掘りに掘って、仙台湾の海岸線約130kmの内、凡そ半分の約60kmに及ぶ日本最長の運河が出来上がったのである。 
運河は、岩手県北上盆地・宮城県仙台平野・福島県中通りの広大な河川交通・物流に供するものであったが、仙台平野においては、江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路、排水路としての機能も重要であった。
しかし、北上川の度々の洪水や鉄道輸送との競合によって、近年はその役割を終えている。 現在は、物流に用いられる例はまれであるが、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーに用いられている。 運河沿いの一部には自転車専用道路も設置されているとか・・。


次回は、 宮城・「塩釜」
( 『松島』については「温泉と観光」の項で記載します)

下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。
http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』

日本周遊紀行(103) 「牡鹿半島」

国道45はこの後、志津川町からは内陸へ向うので、ここで分かれて沿岸沿いの国道398を行くことになる。
志津川の市街地を通過して、志津川湾を見ながら、神割の岬から北上町(石巻市)に入ると、やがて、R398は北上川の河岸を行くようになる。 砂州を両側に形成しながら雄大に流れ、河口がまた広大である・・!!、間もなく新北上大橋を渡る。

こちらの河川はその名も「新北上川」と称している。
北上川は、岩手県、宮城県を流れる北上川水系の本流で一級河川、流路延長249km、流域面積は東北最大であり、また、日本の河川としては勾配がかなり緩いことも特徴となっている。
岩手県岩手町の「弓弭の泉」(ゆはずのいずみ)を主な源流とし、東に北上山地、西の奥羽山脈の間の岩手県中央部である盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを貫流しながら北から南へと流れる。 宮城県に入り、仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、登米市、津山町付近で洪水防止のため新たに開削された「新北上川」と「旧北上川」とに分かれる。 
新北上川はその後東へ向きを変え、石巻市北上町で追波湾(おっぱわん)に注ぐ、古称では追波川とも呼んでいた。 旧北上川は迫川・江合川と合流、南流し石巻市で石巻湾に注ぐが・・、このことは後ほど・・。

国道を南下し鎌谷峠のトンネルを抜ける、再び海岸へ出ると女川街道となる、又の名を「リアスブルーライン」ともいうらしい・・。 女川市街の手前まで来ると、崎山展望公園があり、ここからの女川湾が雄大に見渡せる。 沿道の桜の並木が多く、名所になっているらしい・・。
牡鹿半島の付根にあたる、女川町(おながわ)は東北の原子力発電の街としても知られている。女川原発では、現在3機が稼動し、東北電力全体の電力量の13%にもあたる発電が操業中とか・・。 ちなみに全国の総電力量の約30%は、原子力発電によって造られると言われる。
その女川町は又、金華山沖漁場という日本有数の漁場を抱える。 そこは暖流・寒流が交差する豊かな漁場で、豊富な魚種が数多く水揚げされることで知られる。
女川町は小さな町域であるが、豊かな漁場と原子力発電などの交付金によって財政は豊かであり、そのためか、周辺地域(北上町、牡鹿町など・・)が石巻市と合併する中、石巻市域に囲まれながらも自主独立を保っている。


牡鹿半島はオガ(男鹿半島・秋田)だはなく、オシカと呼ぶ。 
小生は勘違いで宮城の「オガ」と読んでいたが・・。 その半島の牡鹿町は、永い間「捕鯨の街」だったらしい・・。
日本沿岸では、昔からセミクジラの回遊があり、湾や入江に迷い込んだ”クジラ”やシャチ等を捕獲していた。 また南氷洋での操業が始まった昭和初期には、国内の大手捕鯨会社が集まって、牡鹿の鮎川浜は捕鯨の基地となっていた。 
しかし、昭和47年、捕鯨を取り巻く国際的な環境が変化し、圧力も年々増し、ついに昭和62年(1987年)を最後に、一部の鯨種を除いて捕鯨が全面禁止となってしまったという。
日々の食卓に欠かせなかったクジラ肉が姿を消し、有数の捕鯨基地であった牡鹿町もかっての面影はなくなった。 
現在、ミンククジラについては、IWC(国際捕鯨委員会)でも資源量が十分であることがすでに確認されている。 国と牡鹿町では、沿岸捕鯨の再開とともに、南氷洋で増え過ぎたミンククジラの「年間50頭の捕鯨の再開」をIWCなどで訴え続けているという。
半島の大部分を占める牡鹿町は、2005年4月1日に石巻地域1市6町で合併し、石巻市となった。

牡鹿半島のすぐ東に、気象通報でお馴染の離島である「金華山」が在る。
奈良朝期、東北地方で我が国最初の金が産出され、朝廷に献上されたことから「金華山」と呼ばれるようになったという。 
港の正面に、その名も「黄金山神社」が鎮座している。
1200余年前に創建されたという、歴史ある黄金山神社の本殿、拝殿等の社殿が立ち並び、祭神は、金銀財宝を司る金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)、金山毘賣神(カナヤマヒメノカミ)であると・・。
金華山は、出羽三山、恐山とともに東奥三大霊場とされ、明治以前までは女人禁制の島・霊島として、全国から尊崇を集めていたという。 
島全体が鬱蒼(うっそう)とした原生林が生い茂り、四季おりおりの美しさがある。また野生の鹿が「神の使い」として大切に守られ、参拝の人々を出迎えてくれるし、角切りの神事も行われてるという。


次回は、石巻・「北上川流域の盛衰」

下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。
http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』

日本周遊紀行(102) 三陸南部・「気仙沼」

白砂と松の緑で目の保養をし、更に国道45を南下する。
広田湾を見ながら、「宮城県」に入ったようである・・。 
三陸名物のリアス海岸を味わえる場所としては唐桑半島もその一つであろう、半島の何れからも、断崖絶壁が広がり、眼下には大小の鋭い奇岩・怪岩が連なる。 半島の東側にある二つの岬、シンボルは巨大な石柱で「折石」という・・、高さ16m、幅3mの大理石の石柱で、荒波の海にヌッとそそり立っている。 なんでも「折れ」と頭につくのは三陸大津波で先端が折れたかららしい・・。 
風光明媚な海岸線が続く唐桑半島であるが、その地形から過去に大きな津波の被害を受けてきた地域でもある。 

G・S(ガソリンスタンド)に寄り、昼時(ひるどき)なので「何処っか、美味しいラーメン屋はないかね・・、」、「すぐ其処に有りますよ・・、」・・と小生の車のプレートNoを見ながら「気仙沼はフカヒレラーメンですよ・・!」・・。
言われるままに紅いノレンをくぐって早速食してみた、ヌルッとした食感はサッパリ味で良い、汁も実にいい味を出していた。

フカヒレといえば、漁業で栄えた港町・気仙沼が本場である。
ふかひれはサメのヒレを晒して干した白色か淡黄色の半透明状の食品のことで、高級中華料理の材料として知られてる。 フカヒレスープやフカヒレ姿煮として加工され、ふかひれラーメンやふかひれ寿しは気仙沼の味として全国的にも有名である。 
栄養価としてもコンドロイチンやコラーゲンが多量に含み、不老長寿、百薬の源と健康食としても優等生である。

気仙沼の見所はやはり大島瀬戸を挟んで、目の前に浮かぶ「大島」であろう。 緑の真珠の島といわれ、気仙沼湾入口の周囲22kmの島で、亀山、十八鳴浜、海中公園、竜舞崎と景観が並ぶ・・。
平成18年、気仙沼市と本吉郡唐桑町が合併し、新気仙沼市が誕生する。


国道45は別名「東浜海道」ともいう、並行して気仙沼線が海岸を行く。
元吉町の大谷海岸から小泉海岸は明るい景観が続く、特に小泉海岸は砂浜の美しいところである。 「白砂青松100選」にも選ばれ、若者がサーフィンに興じていた。

歌津町も緑の濃い街で小さな町域であるが、しかしそれなりの歴史があった。
源頼朝の奥州討伐により藤原氏は壊滅し、その後、歌津一帯は鎌倉・源氏の支配下になり、さらに戦国期、豊臣秀吉時代から伊達氏の所領となる。 
伊達藩政以前は、歌津をはじめ三陸一帯の海岸には、一本の黒松もなく、見渡す限り荒涼たる浜で怒涛が岩をかみ、飛沫は遠く飛散して内陸に及び、作物は塩害に晒されたという。 この状態を見て「伊達政宗」が殖産のため防潮林の育成策を打ち出し、それから三百余年の今日まで、種子が次々と飛散して三陸沿岸一体が黒松林で覆われるようになったと伝えられている。
三陸界隈の松林は、自然林ではなく人工林だったのである・・。 
南下の途中、緑濃き三陸地域に感心していたが、古人の英知に改めて敬服し、敬意を表したい・・。

志津川町・歌津町は合併協議が順調に進み、来年度「南三陸町」として新たに発足することが決まっている。


次回は、 「石巻」

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ ]


.
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
orimasa
orimasa
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事