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日本周遊紀行(117)潮来 「水郷と潮来節」 



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水郷潮来の中心部・前川あやめ園

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♪♪「潮来花嫁さんは舟でゆく・・」



「潮来出島の 真菰(まこも)の中に・・、」の潮来節は・・、

昨夜は「道の駅・潮来」で車中泊となった。
夜半中、雨の音に悩まされながら、寝不足のままの起床となったが周囲を見渡すと、雨に煙る中にも水の郷らしい雰囲気が感じられる。 

そう、ここは「水郷潮来」であった。 
潮来は南に広大な霞ヶ浦、北浦を控え、近くに利根川と外浪逆浦(そとなさかうら)、常陸利根川に挟まれ、すぐ横に前川が流れる、まさに水の地帯である。 
昔は陸の道より、水運、水の道として栄えたといわれ、江戸時代に奥州各藩の産物を江戸に運ぶ中継港としての役割を果たし繁栄した。 
現在はこの前川下流から、常陸利根川を挟んで水郷観光の中心をなしている。



カスリのモンペに潮来笠をかぶった女船頭が操るサッパ舟と呼ばれる舟に乗って、水路をゆっくりと行き来する。 
白無垢の花嫁さんが嫁ぎ先へ舟で行く情景を、「潮来花嫁さんは舟でゆく・・、」の歌でも親しまれ、昔ながらの風情を今でも残し、水郷の情緒が味わえる場所柄なのである。 

アヤメの咲く町としても有名で、5〜6月には「前川あやめ園」を中心とした3箇所の「あやめ園」に、500余種100万万余株の”あやめ”が咲き乱れ、町が活気づく。


茨城が生んだ詩人、野口雨情の「船頭小唄」もこの地を歌ったものという。 

船頭小唄』 野口雨情(詩) 中山晋平(曲)

己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき)
同じお前も かれすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒




 『 潮来出島の 真菰(まこも)の中に
         菖蒲(あやめ)咲くとは しほらしや
 』

と「潮来節」にも唄われている。

潮来町の恒例行事、「あやめ祭り」や「潮来祇園祭り」には盛んに潮来節が唄われ、中でも恒例になった「潮来節おどりの競演」は唄と踊りが競演するコンテストで年々盛んになっているとか。



水郷潮来は、古くから江戸と東周りの東北地方、西回りの瀬戸内を結ぶ海上・ 内陸水運の中継港として栄えた。 
この地は、多くの商人や旅人が集う、にぎやかな宿場町であり、旅心を癒す三味の調べが流れていた。
潮来節はそんな旅人の心を捉え、江戸時代に大流行したといい、水郷潮来の回船によって日本全国に広まったという。 
遠くは阿波踊りで知られる徳島の「よしこの節」や「佐渡おけさ」のルーツは潮来節だともいわれる。 
又、江戸唄の三味の節回しを重んじた「都都逸」(ドドイツ・粋歌)や「端唄」(ハウタ・はやり唄)も元唄は「潮来節」といわれるという。 

津軽・南部地方の巫女の名称である「イタコ」(特に恐山における霊媒者)の名は、こちらの地名から起こったとされ、「口寄せ」(巫女などが神がかりになって霊魂を呼び寄せ、その意思を伝え告げること)の際に踊るのは「潮来おどり」が元になっているという。



潮来節」に見られるように古来、七と五という語数は日本人・日本語の感性、語感に合うといわれる。
言葉遊びとして既に平安初期には「短歌」としての、一つの文化を形造り、江戸時代には一般庶民の人々が、「洒落」や「」な言葉遊びとして十分楽しんでいたという。 
七七七五の語調も同様で、「述べて」、「語って」、「重ねて」、「崩す」といわれ、最後の五音で粋にあきらめる感覚で、「潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとは しおらしや」 という「潮来節」が大元になっているのである。 


この歌詞が多いに生かされているのが、囃子詞(はやしうた)といわれる都都逸(どどいつ)・端唄(はうた)・小唄・俗曲(ぞっきょく)と言われるものである。 
この七七七五は、実は近世歌謡調(流行歌)の原型でもあるという。 

もっとも今の若者の間では、語形に捉われない語り調、話し調が主流ななっているようだが・・?。 

イヤハヤ「潮来節」は富んだ広がりが有るもんです。



都都逸』 四選

「口でけなして 心で褒めて 人目しのんで 見る写真」

「遠く離れて 会いたいときは 月が鏡に なればよい」

「恋し恋しと泣く蝉よりも 泣かぬ蛍が身を焦がす」

「櫻という字を よくよく見れば 二階の女が 気にかかる」

(2貝の女が木にかかる・貝=女=・・)



端唄』 二選

梅は咲いたか

梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳やなよなよ 風しだい
山吹や浮気で 色ばっかりしょんがいな



奴さん

エー奴さんどちら行く ハアコリャコリャ
旦那お迎えに さても寒いのに供揃い
雪のセ降る夜も風の日も サテ お供は辛いね
いつも奴さんは高端折 アリヤセコリャセ
それもそうかいな


次回は「銚子」 



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日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の要石宮」 



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鹿島神宮の要石宮



「鹿島神宮」の要石宮について・・、

大鳥居をくぐり、参道をまっすぐに東へ歩くと赤い楼門が構えている。 

楼門内、参道の右手に拝殿があり、拝殿の後方に本殿、御神木、鏡石と並ぶ。 
更に、参道はまっすぐに奥に延び、突き当たりに奥宮がある。 
奥宮から左手へ降りていくと、御手洗池、右手奥へ進むと「要石」(かなめいし)が祀られている。

要石社は、鹿島神宮を地震や津波から除ける神様であることは、余り知られていない・・?、神社参道の最奥に奥宮があり、そこの「要石宮」は地中の鯰(なまず)を押さえている・・、と伝えられ、震災除けの神といわれる。
実際、日本の各地に要石神社があって、震災除けの霊験があると伝えられている。 


鹿島市のすぐ南、水郷の地である千葉県香取市香取(佐原市と小見川町、山田町、栗源町が合併して誕生)に香取神宮(かとりじんぐう)が鎮座している。
下総国一宮で、日本全国に約400社ある香取神社の総本社であり、祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)である。
前に紹介した鹿島神宮の武甕槌神と共に日本書紀・古事記にでてくる重要な神で、出雲の国譲りの神話にて日本での支配を古代出雲から大和朝廷(天皇)へ譲るために大変活躍した神である。

この二つ神社に共通しているのが「要石(かなめいし)」である。
この要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm位、直径40cm位)で、地下の部分が非常に大きくけして抜き取ることができないとされ、鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしているといわれる。
昔、水戸黄門(徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したといわれており、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われる。

この石は地震を抑える石であるとしての信仰が続いてきたとされる。
昔から、この地方は地震が多く、これは地中に大なまずがいて暴れるからだと信じられており、鹿島・香取の両神様がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしているといわれている。
このため、この地方では地震は起きるが大きな被害はないといわれている。
ただ、安政の大地震(1885年10月)では多少の被害が出たという、この時は地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったとの話は一応納得である。



 『 揺ぐとも よもや抜けじの 要石 
            鹿島の神の あらん限りは
 』


大昔は地震は、地中に住む怪物蟲の仕業であるとの解釈もされていたようで、その蟲がいつのまにか地震を予知できる「なまず」に置き換えて考えられるようになったという伝承もある。



小生の知ってるもう一つに、旧東海道の宿場・沼津の先に「原」の宿が在る。 
今の東海道線の原駅近く「千本松原」で有名なところだが、この松原の一角に「要石神社」というのがある。 
東海地方を襲った安政の大地震の時、東海、関東地方は地震と津波により大災害を発生させたが、ここ「原の宿場」は地震、津波とも全く無害だったと言われる。 
鹿島、原には要石といわれる大岩魁が、地表露出部こそ小さいが地中部では連なっているともいわれる。

昨今、東海、関東地域における地震予測が公表されているが、一度、原の「要石神社」にも、お参りしなくてはと思うが・・。


蛇足ながら・・、

実は小生、西日本周遊の旅に出て間もなく、千本松原のこの千本街道を通っていたが、残念ながら要石神社のことは記憶の外にあってお参りしていなかったのである。 
あの時は当地でも名の有る松蔭寺という古刹に立寄ったのであった。 ところで、拙宅の檀家寺は臨済宗妙心寺派で京都の妙心寺に本山を置くが、この禅宗・臨済宗の寺院を起こしたのが当地出身で臨済宗「中興の祖」といわれる「白隠禅師」であり、この地域の原駅近くの「松蔭寺」の出身でもある。



 『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり 
             富士のお山と 原の白隠
 』

と詠われ慕われている。

当地で生まれ、幼少より聡明で15歳で松蔭寺にて出家、19歳で諸国行脚の旅に出て修行を重ね、やがて五百年に一人の名僧と言われる臨済禅・中興の祖と仰がれる。 
明治天皇より「正宗国師」の諡号を送られている。


次は水郷の里・「潮来」




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日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の祭神」 



「諏訪大社」でも述べたが、「武甕槌神」(タケミカヅチ)とはどの様な神であろうか・・??

「古事記」における神話の「イザナギ」、「イザナミ」の「神産み」において、伊邪那美命(イザナミ)が生んだ火の神・火之迦具土神(ヒニカクヅチノカミ)が元でイザナミは火傷で死んでしまう。
愛する妻を失ったイザナギはその怒りから、迦具土神(カクヅチ)の首を十拳剣(トツカノツルギ:神話での剣)で斬り落としてしまう。 
その時に飛び散った火神の血(赤い焔)から刀剣三神の(甕速日神:ミカハヤヒノカミ、速日神:ヒノハヤヒノカミ、それと武甕槌神:タケミカヅチ)が生まれた。

迦具土神は火雷の神ことで、雷神、剣神としての性質を持つ。 
武甕槌の「タケ」は猛々しさを表し、「ミカ」は神秘的でいかめしい事を表しているとい。 ミカを「甕(土器)」と見る説もある。


記紀(古事記、日本書紀)の「国譲り神話」(大和の神が、出雲の神を屈服させ、国を奪い取る物語り)によれば、荒ぶる神々の平定のために高天原の神々を葦原中国に派遣したが、ともに大国主神に従って復命せず失敗を重ねる。
天照大神(アマテラス:伊勢神宮)は業を煮やし、そこで、天鳥船神(アメノトリフネ:息栖神社)、武甕槌神(タケミカヅチ:鹿島神宮)と経津主神(フツヌシ:香取神宮)を派遣することにした。(何れも由緒ある「東国三社」の神々)

出雲の稲佐の浜に降り立った彼らは、十拳剣を波間に突き立て、その剣先に胡座をかいて大国主神(オホクニヌシ:出雲大社)に国譲りを迫った。 
しかし、大国主神は事代主神(コトシロヌシ:美保神社、恵比須神社)に、この国の全権を任せていると答えた。 
武甕槌神は、天鳥船神を使って事代主神を連れ戻し、国譲りを納得させた。 
しかし、それに納得しなかったのが建御名方神(タケミナカタ・大国主の子、諏訪大社)であり、暫く睨み合いが続いたが、やがて戦いへと発展してしまう。 
だが力の差は歴然であった。 武甕槌神の手は氷柱や剣先に変化し、建御名方神を追い込んで行く。
建御名方神は逃げ出すが、執拗に追跡し信濃国の諏訪湖まで追いつめ、遂に屈服、服従させたのである。
それらを大国主神に伝えると、「もはや何も問題はないでしょう。この国(出雲)を差し上げます」と答えたという。



これが「国譲り神話」の一幕であるが、古代史の観点から見ると、武甕槌は元々常総の「土着神」であったとされている。 
武甕槌神の鹿島神宮は、大和政権の東北遠征において重要な拠点だったことから、神話同様、重要な置位に昇格したといわれる。 
鹿島神宮の分社が、東北地方に集中していることからも伺える。

武甕槌神が葦原中国平定のため派遣された際、建御名方神が、「然欲爲力競よし、それなら力比べをしようぜ・・!)」と言った後、武甕槌神の腕を掴んで投げようとした描写がある。
武甕槌神はその際、手をツララへ、またツララから剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆に武甕槌神は、建御名方神の手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったという。 
この事象が、以降の「大相撲」の起源になったとされる伝説がある。



大化改新で有名な中臣鎌足(藤原氏の祖・死の直前,天智天皇から最高の冠位と「藤原」という姓を賜った)の出身も鹿島であり、彼を祖とする藤原氏は武甕槌を氏神として篤く信仰している。 

奈良期の768年に、藤原不比等(飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家、天智天皇の寵臣、藤原鎌足の次男)が武甕槌神を大和の国に勧請し、春日大社の第一殿に祀った。 
鹿島神宮は武芸の神としても有名で、剣術の道場にはよく鹿島大神と書いた掛け軸を飾ってある。


引き続き、「鹿島神宮




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日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮」



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鹿島神宮楼門と本殿(拝殿)





大洗からは国道51を行くことになる。 
旭村、鉾田町、大洋村は来年(2005年)「鉾田市」として発足することになっているらしい。

北浦と鹿島灘に挟まれた砂丘陵地を行くと、間もなく「鹿嶋市」である。
行政名では「嶋」で、山編に鳥と書いて鹿嶋(かしま)と称するらしい。 
だが、一般的な地域名や固有名は「鹿島」であり、先に市制施行していた佐賀県鹿島市からクレームが来て、古書の「鹿嶋神宮」の表記に因んで、「鹿嶋市」として市制施行したという。 
鹿嶋神宮が、いつの頃から鹿島神宮に書き方が変わったかわ定かでない。 


因みに、鹿島神宮では鹿が神の使いとして崇められ、神宮の鹿園には30数頭の日本鹿が飼われている。 
藤原氏により鹿島神宮を大和の国へ分霊し、「春日大社」の遷宮創建に際して、西暦768年に白い神鹿の背に分霊を乗せ、多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良の都まで行ったとされている。

英語で鹿の枝角(つの)をアントラー (antler) と言い、「鹿島アントラーズ」のチーム名の由来ともなっているのは周知かどうか・・?。


国道のすぐ横に、その巨大な鹿島サッカースタジアムがあった。 

このホームグランドである鹿島アントラーズは、1993年に発足して、いさなり初代ステージチャンピオンになっている。 
その後はステージ優勝4回、年間優勝2回、カップ戦でナビスコカップ2回、天皇杯2回のタイトルを奪取している、Jリーグの名門チームだ。
発足当時、ブラジルから招請した、現日本代表監督のジーコをはじめ、ジョルジーニョ、アルシンド、ビスマルク等の海外組をはじめ、秋田、相馬、本田、柳沢、小笠原・・etc、 といったスーパースターを輩出している。


そのスタジアムの近くに「鹿島神宮」がある。

鹿島市・JR鹿島線の鹿島神宮駅の傍に「鹿島神宮」が鎮座している。

「鹿島」という名称が並んだが、因みに「鹿島」と言う地名は「神島」から成ったとされ、古記にも表記されているらしい。 
その鹿島という地名は、全国的にも分布していて、地名地図事典では16ヶ所くらいで在るそうだ。
共通するのは海辺に近く、海と陸地の接点あるいは境界領域に位置している地域である。
陸地の最果ての地点、あるいは最先端の場所として意識されているようで、従って、ここ鹿島も畿内の大和朝廷から見ると、東国のはて(涯)と見なされていたようである。


鹿島神宮は皇紀元年、西暦紀元前660年の創祀とつたえられ、「東国三社」の一つにも数えられている名社である。 

東国三社とは、「鹿島神宮」のほかに千葉県佐原市の「香取神宮:沼尾社(経津主神・フツヌシノオホカミ)」、鹿嶋市の隣りの茨城県神栖町の「息栖神社:坂戸社(天児屋命・アメノコヤネノミコト)」で、いずれも鹿島の大神と共に東国開拓、そして先導した神とされ、同様の神武皇紀の時期に創建された二千数百年の歴史をもつ古社である。


その昔、「お伊勢参りの後の三社参り」と呼ばれるほどの篤い信仰を集め、これらの社は、何れも茨城と千葉の県境、水郷と呼ばれる一帯で、利根川、常陸利根川、霞ケ浦、北浦などを中心とした水の豊かな情緒溢れる土地に鎮座している。

「常陸国風土記」の香島郡の項に・・、
『 孝徳天皇の御代、神郡が置かれ、其処に有ませる天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三所を合せて、惣べて香島の天の大神と稱ふ 』とある、この「天の大神の社」が当社・鹿島神宮のことである。 
当時は、坂戸社と沼尾社を合せた神宮とされていたが、現在、両社は境外摂社となっている。 

「鹿島神宮」は武勇の神として古くから皇室や藤原氏の崇敬を受け、さらに鎌倉期以降は武家政権の信仰も得てきた。

当時、「神宮」というのは最高位の神位で、伊勢神宮、香取神宮と鹿島神宮の三神宮だけだったとされていた。 
常陸国一宮で、旧社格は官幣大社であり、「武甕槌神」(たけみかづちのかみ)を主祭神とする。 
香取神宮に祀られている経津主神(ふつぬしのかみ)とともに武芸の神とされている。


引続き「鹿島神宮の祭神




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日本周遊紀行(115)水戸 「水戸黄門」 




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水戸駅前の黄門様と助さん、格さんの像



「この紋所が目にはいらぬか・・!!」の水戸黄門・・、



徳川頼房の三男、水戸藩二代藩主が「水戸光圀」である。

水戸藩主は徳川御三家の中でも唯一江戸常勤が定められ、将軍を補佐する役目を受け持っていたため「天下の副将軍」と言われた。 

徳川家康の孫に当たる、御存じ『水戸黄門』としても知られ、諡号(しごう:帝王・相国などの貴人の死後に奉る、贈り名)は「義公」と称した。
光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。 

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、麺類をはじめ、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆などがあるという。 
肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」を無視して牛肉、豚肉、ヒツジなどを食べていたともいう。 

学問を好み、若い頃には中国の歴史書「史記」などの歴史書を愛読し、遂に、大書「大日本史」を著わすことになる。



当書は、初代の神武天皇の時代から後小松天皇までの百代の帝王の治世を、「紀伝体」といわれる文体で記した日本の歴史書で、徳川光圀によって執筆が開始され、光圀死後には水戸藩及び水戸徳川家の事業として執筆・校訂が継続されて明治時代に完成したという。 
完成させるまで実に250年の歳月を要したことになる。

紀伝体」(きでんたい)という名前は史書において、「本紀」と「列伝」の下の文字を取って付したもので、歴史叙述の一体裁を現したもの。 歴史現象の総体の中で「本紀」(帝王代々の年譜)、「列伝」(列侯、特に国に仕えた官僚、爵位を持った家臣の一生や周辺の異民族の民俗を書き並べたもの)の他に、「志」(天文や地理・礼楽・制度など特殊な分野の変遷)や「表」(制度の一覧)などに分類して記述すること。 中国の史記で試みられ漢書で確立、以後中国の正史は多くはこの体裁をとっている。 
個人や一つの国に関しての情報が集約して紹介されているため、その人物や国に関しては理解しやすいという。


この「大日本史」の編纂により、学芸が振興し隆盛となって「水戸学」を生み出し、後世(幕末)に大きな影響を与えたとされる。 

一方では、藩の年間財政収入の3分の1近くをこの事業につぎ込むこととなり、領民への負担が多く、そのため農民の逃散が絶えなかったともいう。(一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたとも言われる。) 

○公○民とは、農家に割り当てた米による租税率で、徳川家康は慶長6年から10年に亘り、全国の総検地を行い、課役の法を定めて、四公六民を常率としていた。 
だが、全国260余藩の大名は、各自に税率を定めていたとされ、七公三民では重税と言われた時代である。
八公二民が如何に重税であったかか判ろうというものである。



因みに、幕末の「尊皇攘夷」の元となった水戸学では、水戸徳川家は天皇と対立した場合、天皇側につくために将軍を出さないように作られていたと考えらていた。
しかし、結果的に幕末第15代将軍「徳川慶喜」を出すことになる。

だが、風雲急を告げる江戸幕末、水戸学の精神は尊王攘夷運動に強い影響を与え、明治維新の原動力の一つにもつながった。 
ただ、明治維新後における政府の保護は得られず、元水戸藩士が明治の主要役人になっていることは余り見えてこない。

水戸光圀の「大日本史」の編纂実績は、250年後の明治の時代に「親政」を生むことになる。水戸学における「尊王攘夷」は幕末の革命に繋がり、攘夷はともかく尊王の精神は明治政府に受け継がれ、天皇親政の時代が平安期以来、再来するのである。 

これが昭和の終戦まで続くことになる。



水戸光圀が「水戸黄門」としての諸国行脚伝説が生まれ、講談や歌舞伎の題材として流布され、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされたことは周知である。 
尤も、その内容は大半がフィクションであるが。


光圀は、大日本史編纂のために家臣の各層の学者らを日本各地へ派遣したといわれているが、彼自身が諸国を漫遊したという史実はないとされている。 

在世当時の光圀は名君としての誉れが高く、亡くなったときには・・、

『 天が下 二つの宝 つきはてぬ 
           佐渡の金山 水戸の黄門
 』

という狂歌が流行ったという。 
このような名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われるのである。


劇中「水戸黄門」の家臣に、助さん・格さんが登場し、人気の的になっている。 
名は佐々木助三郎、渥美格之進であるが。

通称・助さんは実在の光圀候の家臣であった「佐々十竹」(じっちくは号、本名宗淳:むねあつ)がモデルであるといわれ、大日本史編纂の専門校「彰考館」の総裁であったともいう。
佐々氏は戦国武将、あのアルプス越えで有名な佐々成政の末裔(実姉曾孫)であり、その縁から佐々姓を名乗っていたという。 讃岐国出身で15歳のとき僧侶となったが、仏教以外の諸学問にも通じていた。38歳のとき仏教に疑問を持ち寺僧と大論争をした末に寺を追われて、還俗して水戸藩に仕えるようになる。 徳川光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いたという。

一方の格さんは、まじめで実直と言う設定であり、彼のモデルは、水戸藩士の安積澹泊(あさか たんぱく:通称、覚兵衛)といわれる。 
安積氏は江戸中期の儒学者で、光圀を助けて「大日本史」を編纂し、その歴史観は水戸学の基礎を築いたともいわれ、評価されてるという。


次回は、鹿島神宮




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