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日本周遊紀行(128)千葉 「千葉城」
四層五階の「千葉城」って実際に在ったの・・? 今の千葉市に根拠を持った「千葉城」(別名、亥鼻城・いのはなじょう)は、源平争乱の時期、常胤の父・千葉常重によって築城されたといわれる。 当時の千葉城は都川の下流、東京湾に臨む「亥鼻丘」(千葉市亥鼻:いのはな)に築かれ、西は絶壁、北は都川が自然の水堀となり、南は細長い侵食谷、東は台地が続く天然の要塞であったという。 だが、城郭としての天守や石垣はなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した典型的な中世期の城郭であったという。 その千葉城跡の遺構は今はほとんど残っておらず、土塁や堀切の一部にその面影を留めるのみであるという。 尚、亥鼻山の北側の麓には史跡・「お茶の水」という井戸がある。 千葉氏の祖・平良文(平安中期の武将、千葉氏を含む坂東八平氏の実質的な祖とされる)の子、忠頼が生まれた時にこの泉が湧き出しと伝えられ、以降、千葉氏は代々この水を産湯としたと伝えられる。 源頼朝が千葉城に立ち寄った時、千葉常胤はこの湧水で茶を献じたという。 現在、亥鼻丘の千葉城跡は「文化の森」と呼ばれ、市民の憩いの場所になっていて、園内には昭和42年に四層五階の天守が小田原城を模して築かれたという。 天守の前には千葉常胤の銅像が建つ。 しかし、今の模擬天守閣は、もちろん鎌倉から室町期においては、このような天守閣がありようはずもなく、復元ではなく近世の天守閣に擬した創作物であるとされている。 周辺には、北東の台地上に千葉大医学部があり、台地続きの南側に千葉県文化会館、千葉県立中央図書館、千葉城の西約400mの低地には千葉県庁などといった公共施設が多い。 ただ、前述したように、元々の千葉城は天守閣など持たない中世期の木造の平城であった。 従って、この四層五階の「千葉城郭」に関し史実とは異なるのではないか・・?、これは行政による偽造であり、捏造だと一部有識者が問題提起しているようである。 又、歴史の偽造を平気で行う当局・千葉市も問題であるが、それを批判しないで持ち上げるマスコミ・新聞もおかしいのではないか・・?、という批判も相次いだと言われる。 観光目的の見世物であり、似非物のお城だとすれば・・、これは一体どうなるのだろうか・・?。 千葉市繁華街中心、千葉駅東方に妙見様と言われる「千葉神社」がある。 初め、千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立されたもので、千葉氏宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、宗家の相続元服は代々この寺で行われたという。 また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていたという。 江戸期までは、真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって千葉神社となり、本尊も祭神:天之御中主大神(アメノミナカヌシノカミ:古事記でいう天地創造の神で、天孫降臨以前の高天原の最初の神とされる)に改められた。 ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年、神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が「妙見信仰」として祀られている事には変わりがないという。 「妙見様」とは妙見菩薩のことで、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩で人の福寿を増すといい、特に、眼病平癒を祈る妙見仏の本尊として広く信仰されているという。 千葉市内のもう一社:上総の国の「寒川神社」についても触れておこう。 我が相模の国(神奈川)の一宮である寒川神社とは兄弟神に当たるからである。 千葉市のほぼ中心地に寒川町(さむかわちょう:千葉市中央区寒川町)という地名があって、こじんまりではあるが「寒川神社」が鎮座している。 相模の寒川神社が元宮であろうといわれているが実際には不明だとか、元は明神社と云われて寒川地区の総鎮守であり、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比女命を相神に祀っている。 天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を寒川神社に改めている。 尚、「寒川神社」とはどのような神社なのか・・?これらの詳細は私論を含めて「日本周遊紀行:西日本編」の「茅ヶ崎:寒川神社」の項に記載いたします。 更に、千葉についてだが・・、 戦国末期、豊臣秀吉が天下を統一すると、関東の地を徳川家康に与えている。 次いで家康が江戸に幕府を開くと、両翼とされる相模の国同様、「房総・千葉」は江戸のおひざ元として、経済的にも軍事的にも重要な地になった。 幕府は、当地に外様はもちろん譜代の藩も置かず、天領、旗本領として直轄支配していた。 こうして「千葉」は江戸幕府直轄地として発展し、現在に至っているのである。 次回は大東京、お江戸の象徴・「江戸城」
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千葉県
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日本周遊紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」
「千葉」の由来と千葉氏、上総氏・・、 アクアラインの「海ほたる」から周囲を眺めると大東京のビル群、左に横浜、川崎、そして直ぐ右手に隣接して千葉のタウンと日本の中心である大都市圏がパノラマに見渡せる。 チョット詮索して「千葉」の地名の由来について・・、 これは諸説あって古代のアイヌ語とか、安房の国の地勢や自然を形容して表現されたものとか、定説は確かでないようである。 房総の内陸地形は1000mを越えるような急峻な山岳地は存在しなく、せいぜい300m前後の山々というより低山か、高目の褶曲した丘陵地が連続している。 地図を眺めても、縦横に道路が走り交差していて、その間に広がる多くのゴルフ場などが点在し、その数は日本一を誇るともいう。 開発される前の大昔の千葉・房総は、時期ともなれば重畳たる緑の絨毯が広がっていたに相違ない。 「千」や「万」に形容される言葉に、「千も万もない」、「あれやこれやと言うには及ばない」、「千も万も論は無用」という意味でもあろう。 「房総」を形容すると、濃緑の葉の広がり繁る様はまさに「千・万の如し」なのである。 この様な地域には自然発生的に「千葉」という語が生じたと考えれば、無理はないように思えるが・・?。 しかし、「千葉」の語源を詮索しても、これは余り意味の成さないが、奈良期以前の書物や歌本にも「多くの葉が繁るところ」の意味合いで、「千葉」という形容言葉は使われていたようである。 又、平安時代中期に作られた総合辞書で地名などが記載してある有名な「和名抄」(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょうともいい、平安時代中期に作られた辞書)にも、「下総の国千葉郡千葉郷」と既に記されているという。 そして、この地域に既に在った「千葉」の名称によって、中世より在来した「千葉氏」が起こったとされるのは妥当であろう。 「千葉氏と上総氏」 千葉氏といえば、やはり平安末期の頼朝挙兵時に照準を合わせねばならんであろう。 一般に、「千葉氏」は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた大豪族といわれている。 平安末期、千葉氏は下総国(千葉県北部)の在庁官人(国府に勤める役人)で、千葉の庄などを治める一領主にすぎなかった。 その後、源頼朝に挙兵から一貫して源氏に味方・協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から西方の地まで、全国各地に領地を与えられることになる。 平安末期、奢れる平氏も清盛亡き後、さすがに箍(たが)が緩んできた。 期に乗じて、都(京)付近では以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)が摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平家追討を発して挙兵するなど、争乱、内乱が始まり、以仁王への同調者らによって各地に雌伏する源氏へと伝達されていった。 そのうちの一人である「源頼朝」も都より伝達され、源氏累代の家人とされる相模、伊豆、武蔵の武士団への呼びかけを始める。 そして治承4年(1180年)、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝がついに挙兵、伊豆在住・監視役の山木兼隆を襲撃して殺害する。 その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが、数にまさる平家の大群に手痛い敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく、三浦半島から海を渡るのである。(石橋山の戦い)。 それ以前に、つまり挙兵前から頼朝は房総の上総広常、下総の千葉常胤(ちば つねたね)らとも気脈を通じ合っていて、特に常胤の子・胤頼は挙兵の少し前に相模の三浦義澄(三浦地方の豪族)とともに頼朝の配所で三者の密談もされていたという。 こうして房総に渡った頼朝は、敗者でありながら源氏の棟梁として房総三国を参下に治めることになる。 日本史上の大きな変わり目の中、千葉氏の房総での果たした役割は非常に大きいものがあり、頼朝が鎌倉を幕府拠点として選んだのも千葉常胤の献策だったとも言われている。 平安末期当時の房総は、平氏の分流である「上総氏」と「千葉氏」が勢力を競っていたが、上総氏の方が領地、勢力とも圧倒的に優位にあったとされる。 旗揚げに際して頼朝がもっとも頼りとしたのは、房総の地では両者の上総広常と千葉常胤であったことは云うまでもない。 この時、常胤は頼朝からの使者・安達藤九郎盛長を迎えたときには感激し、一族を挙げて味方すると宣言したという。 併せて、頼朝に相模の鎌倉を本拠にすることを進言し、頼朝支持の態度を明確に示したのであった。 一方、頼朝からの使者に対する広常の態度はすっきりしないものであったという。 千葉常胤は下総地方の平家方の掃討作戦を展開していて、下総国府で頼朝が再旗揚げした時は即刻参会したが、その時の総勢は僅か三百余騎であった。 だが、後に、上総広常が頼朝に参向したときに率いていた数は二万余騎であったという。 この数字を比較しても千葉氏と上総氏の勢力の差は歴然としていた。 しかし、常胤に対する頼朝の信頼は広常より勝っており、後の千葉氏の発展は、このときの常胤の真意、行動が発端になったものといってよい。 その後、千葉介常胤は頼朝から「師父」とも呼ばれるほどの深い信頼を得て、重臣として参戦してゆくことになる。 一方の房総平氏の宗家にあたる上総広常も木曾義仲や平家との戦いに活躍しつつ、房総に広大な勢力を持ち拡大してゆくことになる。 だが、上総広常は拡大した勢力を盾に、その振る舞いに傲慢な所が多く、遂には頼朝の不信をかい恐れさせたともいう。 やがて広常は、謀叛の疑いで頼朝に誅殺されることになる。 これによって千葉氏(千葉介と名乗る)は、上総の一族も支配下に治め事実上、房総一の惣領となった。 その後も、千葉常胤は一族を率いて頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に尽力する。 その功績を認められて千葉氏は、陸奥や西国、下総など数ヶ国の所領を与えられ、「千葉六党」といわれるほどの大勢力となった。 千葉氏は、平安時代から続く日本屈指の古族で歴史も非常に長いため、そこから分かれた一族たちも膨大な数がある。 彼らは下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えていった。 しかし、お膝元の下総の千葉宗家は、室町期において鎌倉公方と古河公方の対立や安房の里見氏の勃興もあり、又、千葉氏自体の内紛などが起因して弱体化が進み、千葉氏十四代胤直の時に宗家は滅亡することになる。 次回も引続き「千葉」 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(127)袖ヶ浦 「アクアライン」
http://www.c-player.com/_images/archive/d010SCGODR3A75TMF5OG3VTEN16RMGPC2DJ55RMCVJ4EIQM93B9IGRA/large 木更津より海上部の「アクアライン」 「東京湾・アクアライン」・・、 袖ヶ浦蔵波台に、小生の実弟家族が住んでいる。 北国を遠路遥々(はるばる)巡ってきた、その様子を一言、二言話しをしてみよう、不在ならそのまま帰路をとろうと尋ねてみた。 幸い奥さん(義妹)が在宅であったので事の様子を話し、ついでに四方山話(よもやまばなし)をしながら館山で求めた手土産を納めた。 そして、心配りの渋茶と添え物を戴き、身も心も仄々(ほのぼの)として宅を辞した。 弟は学卒以来、土木建設の会社に一途に身を置き、千葉湾岸工業地域の造成開発、建設に勤しんでいる。 特に昨今開通した東京湾横断道路、愛称「東京湾アクアライン」の建設に携わり、その完成を見た時、一種安堵感と至福感を味わったと、しみじみ話していた。 これから、この東京湾アクアラインを渡ることになる。 東京湾上に道路が開通した・・!、 1997年12月、東京湾に自動車専用道路が開通した。 その名を愛称では「東京湾アクアライン」といい、正式名称は「東京湾横断道路」という。、 ここ木更津から東京湾を横断して神奈川県川崎市へ至っている自動車専用高速道路である。 木更津沖合い4.4km に造られた人工島「海ほたる」を接点として、海上ルート約5km と海底ルート約10km、つまりトンネルと橋梁を15kmで結ばれている。 世界で最も長い水底トンネルは本州と北海道を結ぶ青函トンネルで、長さは53.8kmとアクアトンネルの5倍以上の長さがある。 しかし、この青函トンネルは鉄道トンネルであり、自動車が通行できる最長の水底トンネルと限定すれば、アクアトンネルが最長となるという。 文字どおり最先端のテクノロジーを駆使した20世紀最後のビッグプロジェクトであり、世界の様々な分野から注目を集めたという。 海上ルートを支える橋梁の上・下部は、あらかじめ陸上で製作した構造体を海上輸送し、クレーン船や台船を使って設置。 トンネル部は外径14.14m、重量3,200tにも及ぶ世界最大級のシールドマシンが掘り進んだ。 また、海中に設置した汚濁防止膜や杭打ち時の防音対策などは、環境保全にも細心の配慮を施した工事として、世界的にも大きな評価を得ているという。 総工費は約1兆4,000億円、この高額建設費のため通行料が非常に高く、当初普通車で4000円以上であたが、現在は3000円である。実際、想定していたほどの利用車が無いのが現状で、年間の欠損は数百億円とか、昨今の道路公団の民営化で果たしてアクアラインは・・??。 木更津からは海の道を、川崎からは長いトンネルを抜けると、そこは東京湾のど真ん中、周辺の景色を360度一望できる「海ほたる」があり、海上に浮かぶ巨大なパーキングエリアである。 1階から3階までは駐車場で約480台収容でき、4〜5階には食堂、レストランや東京や神奈川のお土産、房総の名産・海産物、東京湾アクアライングッズなどを取りそろえたショッピング施設がある。 情報コーナーには、アクアラインの概要や建設に使用した各種工作物、巨大シールドマシンの断片などが展示してある。 ここの産かどうかは定かでないが、特大な貝付きの生牡蠣(なまがき)を買い、手土産にして袖ヶ浦の実弟宅で食したのが思い起こされる。 「海ほたる」の5階・展望ゾーンから見る千葉市街から大東京のビル群は、小雨の中にやや霞んで見えていた。 次回は、「千葉」
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日本周遊紀行(126)木更津 「袖ヶ浦と日本武尊」
http://www.c-player.com/_images/archive/d011P5AU92ECQ5AMSJG82KKSV9BSMU86NSEBBRHR2JUAR8TIVFC33EH/large 木更津の太田山公園に、2人の像が向かい合う形で立つ「きみさらずタワー」 木更津、袖ヶ浦の地名は「日本武尊」の東征時の古事による・・、 木更津、袖ヶ浦、そして東京湾を隔てて横須賀(観音崎)の周辺は「日本武尊」(ヤマトタケル)の神話伝説の残る共通地域であった。 日本武尊は、幼少の頃より時折、何かに付けて耳に、或いは目にする人物・・?で、神話とされる「記紀」(古事記、日本書紀)に神として、人物として、はたまた半神半人として、神話の中でも最も武力に優れた英雄物語として描かれている。 日本神話の英雄・ヤマトタケルには、「日本武尊」(日本書紀)、「倭建命」(古事記)の二つの漢字、そして小碓命(オウスノミコト)などの表記がある。 日本武尊は景行2年、第12代景行(けいこう:初代神武天皇=紀元前660年)天皇の第2皇子として生まれている。 皇子は皇太子の地位にありながら、大和朝廷の勢力範囲を広げるために、日本中を遠征して回ることになる。 先ず、九州日向(現宮崎県地方)へ命じらて遠征し、朝廷に従わない熊襲建(クマソタケル)を知恵をもって征伐する。 この時、小碓命は、熊襲建の「建」とって倭建命(ヤマトタケルノミコト)と称えることになる。(建は、勇敢な者という意味を持つ)大和にある宮に戻る途中も山の神、川の神、河口の神などの大王(朝廷)に従わない荒ぶる神々たちを次々征伐し、出雲の国の部族、出雲建(イズモタケル)を征伐するときも頭を使って勝利し、国を平定していく。 次に、倭建命は東国の征伐を命じられる。 西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたが、東国は大和朝廷の力が及んでいる訳ではなく、苦戦が予想された。 皇子は東国への遠征に向かわれる途中、「伊勢」に立ち寄ることになる。 先ず、亀山に立ち寄り「忍山神社」祀官・忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘とされる弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃(きさき)に迎える。 伊勢の地は、皇子の叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の導きで天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭祀している地であり(伊勢神宮)、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣)を授けた。 この剣は昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲で八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に、その尾から出たといわれる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)がこの国に御降臨した時に、一緒に持たせたものという由緒ある宝剣である。 後の天皇の「三種の神器」(八咫鏡:ヤタノカガミ、 草薙の剣:クサナギノツルギ、 八尺瓊勾玉:ヤサカニノマガタマ).の一つである。 皇子が駿河の国(静岡県東部)へ指しかかった時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付ける者があった。 皇子はこの時、この剣で周りの草を薙ぎ払い火から免れたとされ、故事により、この剣をその後に草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ぶようになったといわれる。 その後、日本武尊は上総の国(今の千葉県)に渡海するため、走水の村(三浦半島・観音崎)へ向う。 因みに、日本神話の英雄ヤマトタケルには、「倭建命」(古事記)と「日本武尊」(日本書紀)の二つの漢字表記があり、この先は日本武尊を表記することとする。 三浦半島東端、観音崎は旗山崎(御所ヶ崎)とも云われ、「走水」(はしりみず)という言う地名が今も残る。 日本武尊が東征したとき、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたという説話に由来している。 合わせて、この地に日本武尊とその妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祭る「走水神社」が鎮座している。 ここから日本武尊は対岸の房総へ渡ろうとしたが、海上は風波 が強く、船出もできず数日間ここに滞在していたが、ついに船出を決意し一気に渡ろうとしたところ、船が沈没しそうになってしまった。 この時、弟橘媛命が、これは海神の怒りであると信じ、日本武尊の身代わりになることを決意し、海に身を沈める。 この時・・、 『 さねさし相模の 小野に燃ゆる 火の火中に立ちて 問ひし君はも 』 と歌を詠んで身を投げたとされる。 「さねさし」とは相模の枕詞、 「 あの相模の小野で、敵の仕掛けた猛火に包まれて危うい時も、あなたは私のことを心配して声を掛けて下さいました。 あの時の優しい思い出を胸に抱きしめて私はこの荒れ狂う浪に身を投じて海神の怒りを鎮めにまいります。 ああ、やさしきあなた。 」 というのが媛の辞世の大意であった。 女性が男性に向けた歌で、古今東西これほど哀惜に満ちた崇高なものは無いともいわれる。 村人が、弟橘媛を哀れみ、日本武尊を慕うあまり建てたのが「走水神社」であると伝えられている。 日本武尊は、駿河から相模に入り、三浦半島の走水から船で房総半島に渡るが、このルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国であるといわれる。 房総半島への渡り道、「走水の海」は流れが早いことから付けられた名で、今の浦賀水道のことである。 一行は走水の海で激しい嵐に見舞われるが、姫が入水してからはそれまでの嵐が嘘のように静まる。 この時、海岸には姫のクシや衣が流れついたという、古代、クシには魂が宿ると言われ、流れついた弟橘姫のクシ、衣を納めて建立したのが木更津に鎮座する「吾妻神社」であるといわれる。 「吾妻」についても、日本武尊が蝦夷の東征を終えて凱旋される途中、足柄峠に差し掛かった時、遥か相模の海の方を見られて媛の悲劇が胸に迫って涙が止まらず、「 吾が妻はや・・」(吾が妻はもはやいない)と嘆かれた。 ここから東国のことを「吾妻」と呼ぶようになったという。 吾妻とは、都から東方の諸国の総称で「東国」のことである。 「常陸風土記」にも・・、 『 いにしへは、相模(さがむ)国・足柄の岳坂(やまさか)より東の諸(もろもろ)の県(あがた)は、すべて吾妻の国をといひき 』 とある。 そして、房総に渡った日本武尊が弟橘姫を偲んで詠ったのが・・、 『 君さらず 袖しが浦に 立つ波の その面影を 見るぞ悲しき 』 「君さらず、袖しが浦に立つ波の」、この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったと伝えられている。 この歌を詠んだとされる場所は現在の木更津市大田地区、国道16号沿いの太田山公園であり、2人の像が向かい合う形で「きみさらずタワー」が立っている。 タワーは高さ28mで中ほどに展望台があり、東京湾から東京の摩天楼や富士山を一望することが出来る。 特に夜景は絶景だとか。 次回は、「袖ヶ浦」
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日本周遊紀行(125)君津 「久留里」
歴史ある「久留里」は君津市の地域であった・・、 地図を見て確かめると、成る程、君津市域の湾口部は僅か3km程度しかないの近距離の幅である。 そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 その為でもあろう、現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。 だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。 その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。 そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。 久留里の地名は戦国期から見られるという。 16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が武蔵から房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)が行はれる。 このとき秀吉より里見家参戦指示がでる。 だが里美氏は内部事情が生じて参戦に遅参してしまう。 戦局は秀吉が勝利し、小田原北条は滅亡する。 しかし、充分な戦果を出せなかった里美家は、その罰として上総全域および下総南部の所領が召し上げられ、安房一国のみと減領されてしまう。 結果、没収した上総、下総の領地は、徳川家康に与えられてしまう。 従って里見氏は、逆に久留里を最前線とする徳川氏と対峙することになる。 更に、慶長19年(1614年) 大久保忠隣失脚事件に連座したとして、里見忠義は安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となってしまう。 里美家は房総より失脚し、久留里城は最前線としての役目も終わり一時は廃城になりかける。 江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建されている。 以後、久留里は黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していた。 現在は、城山公園として模擬の天主が立つ。 「久留里城」は、「雨城」、「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。 久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。 近年はこの水を観光資源として、「名水の里」として宣伝されているとか。 この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。 「上総掘り」について・・、 千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。 房総の地域は久留里地方はともかくとして、全体には地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされている。 このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 「上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという。 人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導も行われているという。 工法は径5〜15cmの鉄管が、深さ150〜500mの穴が地中に向かって掘られる。 まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量をはずみで地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 現在でも人力による掘削法として使用されている。 上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。 「木更津」・・、 さて、狭い湾岸の君津を過ぎてしまうと、すぐに「木更津」である。 戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる 木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えたという。 江戸湾を往来する木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)とも称していた。 「五大力船」は、海上輸送が発達した江戸時代に主に活躍し、昭和初期まで用いられてきた廻船で、主に東京湾内のほぼ全ての輸送に用いられ、穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。 基本は海船造りの構造であるが、河川を航行できるように喫水が浅く船体の幅が狭くなっている。 そのため、海からそのまま河口に乗入れて市中の河岸に横付けすることができる。 海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使用できるよう舷側に棹走りと呼ばれる台が設けられている。 更に木更津については思わぬ伝承があった。 次回はそれらについてチョット詳しく述べることにする。 『木更津甚句』 千葉県民謡 アア・・ 木更津照るとも お江戸は曇れ かわいお方が ヤッサイモッサイ ヤレコリャ ドッコイ コリャ コーリャ 日にやける 船は千来る 万来るなかで わしの待つ船 (お囃子、同じ) まだ見えぬ と船乗衆が唄ったのであろう・・、「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい。 次回、木更津の古事
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