『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(21)浜松 「遠州・浜松」



楽器と自動車産業の活気ある町・「浜松」


R150はバイパスの「遠州大橋」を指していた。
海岸に迫る「あばれ天竜」の有料大橋(100円)を渡ると、間もなく天下の国道1号線に合流する。
この辺り浜松の高層ビルが覗える。


浜松市は2005年7月1日に平成の大合併による県西部の11市町村(浜北市、引佐町、細江町、三ケ日町、雄踏町、舞阪町、天竜市、佐久間町、水窪町、龍山村、春野町)を編入大合併したことで、人口、面積とも静岡市を上まわり県内最大となっている。

国内の市としても高山市に次いで2番目に広い広域自治体で、2007年4月には政令指定都市移行をめざしているという。


面白いことに、浜松市民の中には静岡県の県庁所在地である静岡市に対してのライバル心が多く見られるという。
産業面では常に優位に立ち、合併によって人口、面積とも上まわり、更にその意識は強くなっているとも・・?。

又、名古屋の衛星都市として見られるのを嫌い、一方、浜名湖を挟んだ豊橋市とは「相愛関係」にあるという。
豊橋は昔の三河地方であり、風土から政治色まで浜松の遠州地域と似ている部分が少なくないためだとか。


浜松には「浜松まつり」という、勇壮な大イベントがある。
毎年5月3日から三日間にわたって開催される凧揚大会で、G・W期間では全国有数の人出で賑わう人気の祭りだ。
主に町単位で参加し、男子誕生による端午の節句にちなんだ初凧と、町同士が凧糸の切り合いを行う凧合戦の二つからなっている。
古来、浜松城下の各種職人町同士の対抗意識から自然発生的に生まれた祭りであったらしく、特に糸きり凧揚げ合戦は通称「喧嘩凧」といわれ、人々の意識を高揚させ、競争意識、対抗意識を助長しているともいわれる。
室町期より存在したといわれる永く伝統ある浜松祭りは、浜松人独特の気風を醸成していったのかも知れない。


だが、何といっても浜松市(主に旧市域)は工業都市として有名であり、製造品出荷額は約2兆円を超えるという。
浜松の工業の大半は小規模工場であるが楽器、自動車・オートバイに関連する大企業は世界的にも著名であるのは周知である。
特に、「日本の楽都」と呼ばれる程、楽器産業が盛んな都市で、特にピアノは全国シェアの100%を占める独占産業である。

市内にはヤマハや河合楽器製作所、ローランドの本社がある。
ヤマハは、山葉寅楠(やまは とらくす:和歌山市出身、山葉家は紀州藩士の家柄である)がオルガンを製作したことから始まったという。楽器工業の他には、半導体・スポーツ用品・自動車部品メーカーで、本業の楽器以外に様々な分野で事業展開している総合企業、グローバルメーカーである。
御存じ、オートバイは子会社「ヤマハ発動機」として独立している。

河合楽器は日本の楽器メーカーとして世界第2位のシェアを占める。 ヤマハに勤務していた河合小市が独立し、河合楽器研究所を設立したのに始まる。
ピアノを中心とした楽器製造・販売のほか、近年はカワイ精密金属等(長野県)でピアノの部品素材のノウハウを生かした半導体素材の生産も行っている。

あの連合赤軍あさま山荘事件(1972年2月19日に始まる、軽井沢にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が起こした事件である)として、当時、連合赤軍に占拠された軽井沢の浅間山荘を所有していたのは、河合楽器であった。

この二大メーカーが、1960年代の高度経済成長とともに浜松の楽器産業は飛躍的に発展し、世界的な楽器の生産地となっている。


輸送機器 では本田技研工業の創業の地で、現在もオートバイ(中型・大型二輪車)の主要工場がある。
また、スズキの本社工場もあり、浜松のヤマハ(厳密には隣の磐田市)、スズキ、ホンダの三社が、日本はおろか世界のオートバイ産業をリードしているといっても過言ではない。
現在の浜松のオートバイ産業は、全国の60%以上を占めている。更に軽自動車は50年前(1955年)に日本で初めて浜松地域で製造されて以来、全国の30%以上を生産され、小型四輪自動車も、浜松は全国有数の生産地域となっている。


浜松は江戸時代から綿織物の産地として栄え、明治時代には現在の「笠井」を中心として綿織物の大生産地となっていた。
これらの産業基盤が、現在の機械産業の基礎と成っているとも云われる。
自動車メーカーのスズキは、大正期・鈴木式織機株式会社(創業者・鈴木道雄氏)として設立 し発足している。 
因みに、トヨタ自動車は豊田織機が前進である。



浜松の「鈴木さん」

ところで、先日、偶々(たまたま)テレビを見ていて、日本の姓名・苗字に関することを放送していた。
苗字の数の多いビッグ3は佐藤、鈴木、高橋と言われるが鈴木という姓は、小生の周辺にも知人、親戚は居るが、ここ静岡、中でも浜松が圧倒的に多いという。 
先ず、電話帳を調べて浜松市のページを開くと鈴木姓が記載されているのは33ページ、「佐藤」、「高橋」が3ページ半とその多さは群を抜く。

或る篤志研究家により静岡県の「鈴木姓」の状況を調べたところ、県内世帯の記載件数はの3・7%にあたる4万7242件、世帯数で4倍強の東京都を抑え、47都道府県中、堂々のトップで、単純計算では全国の鈴木家の11・9%が静岡在住ということになるという。

又、静岡でも特に鈴木氏が多そうな浜松市西部の篠原地区で、或る幼稚園では「園児325人中64人が鈴木姓。年中組の一つの組では母29人のうち11人が鈴木です」と言う。
そのことは、小学校でもこの傾向は変わらないという。

因みに、あるお寺を訪ねたところ境内には「鈴木家之墓」が林立し、御堂に安置された位牌も「鈴木」ばかりが目につくという。
若い住職さんは「墓の地図を作ったのですが、鈴木さんの墓は多すぎて、檀家(だんか)さんに聞かれても場所を即答できません」と苦笑いしていたという。
問えば約200人の檀家のうち8割が鈴木姓、同姓同名の鈴木さんが亡くなったのを勘違いし、元気な方の家にお悔やみに訪れたという笑える・・?、話も結構あるという。


鈴木姓は古来熊野信仰と関係が深いといわれる。

熊野地方は平安期の頃より「熊野三党」(鈴木、榎本、宇井)が支配していたといわれる。
特に、全国に3000を超す熊野神社は、鈴木一族が神官となって広めたともいわれ、明治になって姓を付ける時、身近にいる由緒ある存在として鈴木姓を名乗った人が多かったのではとされる。
熊野神社が多いのは静岡や愛知、神奈川、福島などに多く、やはり鈴木姓が多いと分析されているらしい。

鈴木姓の都県別ビック3は静岡が47242、東京が43303、愛知が39991(1999年、名字図鑑)であり、人口の比率からすると静岡が断然多いのである。




今切口側の防潮堤から望む「浜名大橋」


国道1号(浜名バイパス)を行く。 本来有料道路であったが、本年早々に無料化された。
ほとんど海上にある浜名大橋、浜名湖が遠州灘に通じる開口部をひと跨ぎするこの橋は、トコンクリート橋としては国内最大級を誇る優美な橋といわれる。

特に、ここからの眺めは最高である。
左に太平洋・遠州灘が視界いっぱいに広がる、右に弁天島島越に浜名湖が光る。
あまりに広大な景観に思わず車のスピードが緩む、しかし運転しながら眺めるのは危険だ・・!!。

浜名大橋の下、浜名湖と太平洋が繋がっているところを「今切口」と云うそうで、室町期の大地震と翌年の暴風雨により陸地が切れて外海とつながったと言われている。


R42へ出て、あとは渥美半島を一気に「伊良湖岬」へ向かう。

次回は、渥美の「伊良湖」


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日本周遊紀行(20)掛川・袋井 「山内氏と名刹」


イメージ 1
新装成った遠州・掛川城




城下町・掛川

遠州灘に面する大東町、大須賀町は平成17年4月1日、掛川市と合併し新「掛川市」となっている。
従来の掛川の街(掛川市)は内陸部にあって、沿岸部を通る小生にとっては縁の薄い地域であった。
しかも、この沿岸道のRI50からは間に2〜300mの山塊が横たわっていて掛川の市街は全く見通せることもできない。
しかし大東町、大須賀町と合併し新掛川市に成ったことで、その縁が生じてしまったのである。 従って、歴史の街・「掛川」のことを、些かなりとも触れねばなるまい。


市内中心部の掛川の街はJR掛川駅を中心に東名高速、東海道(国道1号線)、そのバイパスと交通網が接近集中している。
その駅前のほぼ中心地に新装成った「掛川城」が小高い丘に構えている。

この城は日本初の本格木造建築であり、「東海の名城」とうたわれた往時の美しさを忠実に復元したもので、天守閣をはじめ、その他の造営物は市民の寄付により再興されたという。
合わせて、駅から掛川城までの周辺地では都市としての殺風景な姿を一変させ、城下町風の美的景観が整備されたという。 

又、市内の中心部を東西に大田川の支流である「逆川」が流れる。
この川が、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、「掛川」にと改名されたといわれる。
掛川市の由来でもある。



古来より掛川(掛川城)は東海道の東西交通の要衝としてその意味は大きかった。
掛川城は通称、懸川城、懸河城ともいった平山城(平地にある丘陵を利用して造った城)である。
古くは室町時代中期に守護大名であった今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられ、そのまま朝比奈氏が城代を努めていた。
戦国期、信長によって今川氏が滅ぼされると三河の徳川家康の支配下になり、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った

「関が原」の後の1590年代には、豊臣秀吉の家臣であった「山内一豊」が城主となり、掛川城の大規模な城郭修築を行っている。 この時点で天守閣、大手門の建設と共に城下町の整備により、東海随一の名城とも呼ばれていた。


山内一豊は戦国期の武将で織田信長に仕え、その後豊臣秀吉の家臣として小田原の役後、遠州掛川に六万石の藩主として治まる。 
関ヶ原合戦では東軍・徳川家康につく、この時、一豊は「味方につく以上は、居城・掛川城を兵糧ごと差し上げる所存」といって、家康や周囲の臣を驚かせた。
その義を以って、戦勝高禄で土佐24万石に封じられた。

有名な「妻の内助の功」の話は、彼がまだ織田家の小侍であった頃、信長が「各々(おのおの)馬を参じよ」と指示を出す。 この時、馬を買う金がなく困っている彼を見て、妻が黄金10枚を渡し、無事駿馬を買うことができた。
この「美談」で一豊は織田の家中で一種の名士となったという。

山内一豊とその妻、千代を描いた小説に司馬遼太郎『功名が辻』がある。
2006年(平成18年)にはNHKの大河ドラマ「功名が辻−山内一豊の妻」が、ほぼ原作通り放映された。
戦国期の侍、信長、秀吉、家康をはじめ関係武将が続々登場し、取り巻く女性陣も艶やかに、特に一豊の妻・千代の「良妻賢母」ぶりを主題にして、物語は展開した。キャストに千代:「仲間由紀恵」、山内一豊:「上川隆也」、織田信長:「舘ひろし」など。

歴史時代物が好きな小生にとって実に楽しみで、尚且つ、戦国物はたまらない。

因みに、高知市の「はりまや橋」の近くに「掛川町」が存在した。
これは、掛川から高知に移住した山内一豊の家臣が、居を構えた事に由来するのだが、現在では掛川町は「はりまや町」となっているらしい。

高知市には山内一豊が建立した「掛川神社」も存在する。
この神社は、一豊が高知に入城した際、掛川城の北東(鬼門)にある龍尾神社(主祭神・素盞鳴尊・スサノオ、山内家の守護神)を高知城の北東に勧請したものであり、掛川に因んで命名されたという。




袋井の名刹・・!」

浅羽町は本年4月1日より袋井市に吸収合併され、新「袋井市」が誕生している。
袋井市は何といっても遠州三山が有名であろう・・?、過ぐる年、上さん(妻)と訪れたことが有るが、この遠州路・袋井、森町から三ケ日の内陸沿いには名刹・古寺が多いのである。

其の内の代表的古刹を紹介しておこう。     
先ず、JR鉄道の南に位置する、法多山尊永寺(ほったさんそんえいじ)は奈良朝初期の創建で真言宗の名刹である。 今川、豊臣、徳川などの武将の信仰も厚く、本尊は正観世音菩薩で浅草観音と同じく、ご利益は厄除け開運。正月の初詣には東海一円の人々が訪れ、名物の厄除けだんごと桜の名所が売りだとか。

次に、萬松山可睡斎(ばんしょうざんかすいさい)は、室町初期に開山された曹洞宗の寺院で、徳川家康が命名した寺院として有名。古来火の神といわれる秋葉山本宮秋葉神社から三尺坊大権現が遷座され火防災除の寺であり、春先のユリや初夏の牡丹が美しい寺、又、元タレントの「ポール・牧」氏が修行した修行寺としても有名である。

又、医王山油山寺(いおうさんゆさんじ)は奈良朝初期、行基により開山、真言宗の古刹で、本尊は薬師如来で行基自身の作と伝えられる。古くは石油が出たところから「油山寺」の名が付いたといわれる。ユニークなのは、この寺は目の守護、眼病平癒のお寺として信仰を集めている。自然と一体となっている寺院で国の指定文化財である三重塔や山門は見所であろう。

次回は、「遠州・浜松」



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日本周遊紀行(19)御前崎 「灯台と原発」 



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御前先灯台



「灯台巡り」

今回の「日本全国海岸線巡り」の大きな目的の一つに岬巡り、灯台巡りも楽しみの一つにしている。
日本は島国で四方が海に囲まれ、従って海の航路の安全を守るために灯台は欠かせない。 
特に岬の先端の灯台は重要である。 


地の端にポツンと立って、一晩中クルクルと海を照らす灯台という存在に、ほとんどの人には意識されず、役に立つのかどうかもわからない。 
でも、それを必要とするものにとっては、絶対になくてはならないのである。  

陸地の端を巡る小生にとって、このような灯台に挨拶をしないわけにはいかないのだ。 
灯台は航路を照らす、と思われがちであるが、実はそうではなく、自身・おのれ(灯台)の存在を知らしめているだけなのである。 
しかし、「灯台下暗し」ともいわれる・・?。



御前崎は東に駿河湾、西に遠州灘を控えて、最南端の鋭角の岬である。 
国道150の海岸線から眺めると、程よい高地を成していて、灯台設置には絶好のポジションであることが解る。 
御前崎の築港、漁港を左に見ながら、道なりにそのまま行くと、岬の先端を回って浜岡町に抜けてしまうが、途中に分岐があり、灯台の案内板に従って登ってゆくと、そこに白亜の灯台が凛として屹立している。

周囲は、絶好の展望地で太平洋と浜岡の砂丘が遥かに見渡せる。 
周辺に広がる自然公園には「御前崎ケープパーク」が整備され、灯台からも洒落た造りの石段を歩いて海辺に通ずる、自然と親しめるようになっている。


ところで、ここ御前崎は海域を二分する地形で海流、気象現象が厳しく、また暗礁が多いともいわれ、昔から航海の難所であるという。 
江戸幕府はこの地に見尾火灯明堂(みおびとうみょうどう))なるもので明りを照らした。
この燈明堂は、江戸期の寛永年間(1635年)年に建てられた江戸時代の燈台で、木造お堂形式の建物である。 
当時は、幕府から1ヶ月当たり9升の灯油や灯芯、障子紙が支給され、毎夜、村人2人が行燈(あんどん)の火を絶やさないよう火の番をし、翌朝、日が昇ると板戸を閉めて帰ったと伝えられている。 
1871年(明治4)年にカンテラ燈台が竣工し、その座を譲るまでの実に240年という長きにわたって、御前崎沖を航行する船の安全を見守ってきたという。

明治5年、英国人R・H・ブラントン(日本における灯台の父と言われる)の指導のもと現在の西洋式灯台の建設工事を開始し、明治7年に点灯を開始している。 
回転式の一等閃光レンズ(直径259cm)を使用した灯台としては我が国最初のものであった。現在は海抜53mの地点から光達19海里(航海上の距離の単位。1海里は1852メートル。緯度1分の長さに相当)まで光を放つ。 
日本の灯台50選の一つ、参観灯台で一般人も見学できる。



1957年(昭和32年)公開当時一世を風靡した長編大河映画「喜びも悲しみも幾年月」が製作された。 
高峰秀子、佐田啓二主演の灯台守夫婦の半生を描きながら、各地の灯台を描き、生きることの意味をさわやかに問う傑作である。その後昭和61年、「新・喜びも悲しみも幾年月」が加藤 剛、大原麗子、中井貴一出演で再映画化された。中井貴一は、佐田啓二の長男で、つまり二代目である。映画は、ここ御前崎灯台も題材として登場している。


喜びも悲しみも幾年月』詞曲:木下忠司 唄:若山 彰

おいら岬の灯台守は     冬がきたぞと海鳥鳴けば
妻と二人で沖ゆく舟の    北は雪国 吹雪の夜の
無事を祈って灯をかざす   沖に霧笛がよびかける
灯をかざす         よびかける

星をかぞえて波の音きいて
ともにすごした幾年月の
喜び悲しみ目にうかぶ
目にうかぶ


近年の若者達は知らないと思うが、「端やん・・」、こと往年の「田端義夫」が切々と歌い上げた「ふるさとの燈台」はこの御前崎灯台がモデルとされている。

『ふるさとの燈台』 唄・田端義夫(昭和28年)

真帆片帆 唄をのせて通う     年経りて 星に月に偲ぶ
ふるさとの 小島よ        むらさきの 小島よ
燈台の岬よ            燈台の灯りよ
白砂に 残る思い出の       そよ風の 甘き調べにも
いまも仄かに           思いあふれて
さざなみは さざなみは      流れくる 流れくる
胸をゆするよ           熱き泪よ



御前崎から再びR150へ出て、遠州灘の沿岸を並行して進む。
先ず目に付くのが広大な敷地をもつ浜岡原発である。中部電力、所管の原発で1976年、国内でも比較的早期に営業運転している。
原子炉は現在五機有し、総発電量は500万kwの能力を有し、その内、5号機が最大出力の138万kwで、今年(2005年)1月営業運転をはじめた。 
過去に比較的古い1,2号機で配管破断事故や原子炉水漏洩事故等々を起こし、周辺住民とのトラブルを生じている模様で、特に近年東海地震の発生が取りざたされ、浜岡原発はそのほぼ中心に位置するため、耐震性が懸念されているという。
あるジャナリストは、「世界で最も危険な原発は、日本の浜岡だ・・!!」とも言っているようである。

地震といえば、過去の地震で最大だったと想定されるのが、1854年の安政東海地震でマグニチュード8.4程度という。 当事者は、これを参考にマグニチュード8.5を安全基準に設計しているという。 
又、地震に伴う津波は最大6m程度を想定し、原発敷地の前面には高さ10〜15mの砂丘があることから、津波に対する安全性は確保されていると言っているが、果たして・・。


その砂丘の事である

国道150の沿岸は濃い緑の松林が続き、その向こうは有名な大砂丘になっている。
御前崎から天竜川(御神渡り:おみわたり、で有名な長野県中央部の諏訪湖が水源)の河口にかけて、遠州灘沿いの海岸線に続く広大な砂丘地帯で通称「遠州大砂丘」と称している。 

河口を利用した漁港以外に港湾施設はなく、各町域をまたいで約30kmもの砂丘が延々と続く日本一の砂丘地帯である。
鳥取、吹上(鹿児島県)と並び、日本三大砂丘のひとつに数えられるが、なかでももっとも幅が広いのが浜岡砂丘だという。

砂丘は、その昔「あばれ竜」と呼ばれた天竜川の流砂が打ち上げられて出来たものである。
近隣に影響を及ぼしていた砂の害を防止するための手立てとして浜岡砂丘の特徴は、粗朶(そだ)という木の垣根を立てて風や風砂を防御する方法である。
垣根は斜め45度に立て、風を抑えながら、砂は垣根に堆積しながら45度方向に移行してゆく、つまり内陸部住地、耕地への風砂防止策(柵・策を労する・・?)である。
この人工斜め砂丘は松林の防風林と相まって、浜岡独自の景観を呈している。

榛原郡御前崎町と小笠郡浜岡町は2004年4月1日に合併して市制施行し、「御前崎市」が誕生している。

次回は「掛川


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 日本周遊紀行(18)相良牧の原 「お茶と意次」 



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牧の原台地を新緑の茶畑群が一面に覆う。柱は防霜ファン



「牧の原台地」


大井川を渡り吉田町から榛原町、相良町を行くと、右手方向の高台に沿って緑の絨毯が敷き詰められている。 茶畑である。 
日本国内の約半分の生産量を占める静岡県の内、およそ7割が標高150メートル前後の、この「牧之原台地」で作られているという。


明治維新の時、幕府の瓦解で食の糧(かて)を無くした幕臣が大挙して静岡に移住し、そのなかで元新徴組隊士200人余が隊長・中条景昭とともに荒地の牧の原台地に入り開墾したという。 
それに続いて大井川渡しで失職したの川越人足達数十人も加わった。 
開墾は苦難の連続で脱落者も出たが、やがて近隣農民達にも開墾を促され、牧の原台地は東洋一の大茶園に変貌した。


ここでチョットお茶談義を・・、

お茶の銘柄で「やぶきた」とよく言われるが、これは米のコシヒカリ・ササニシキと同じ品種の名称で、全国で8割以上が「やぶきた」品種を栽培しているという。 

よく言われることだが・・、
緑茶」とは製造工程で高温の蒸気を当てるため、葉の中の酸化酵素が働かなくなり、鮮やかな葉緑色がそのまま残ることから言われる。
ここが酵素で酸化発酵させる紅茶やウーロン茶との違うところであり原料は同じらしい。 

緑茶には、旨味成分としてアミノ酸のアルギン酸やテアニン、渋味成分のタンニン、カフェインなどを含み、栄養成分ではビタミンCとEや各種ミネラルを含み、滋養飲料として重宝がられる所以であろう。 

製法では「深むし茶」、「浅むし茶」と比較されるが、深蒸し茶はその名のとおり茶葉を蒸す時間が長いため苦味や渋味が柔らかになって飲みやすい。 いわゆるマイルドな味わいのお茶をいう。 
蒸し時間の短い若蒸し製法(浅むし茶)は、お茶の葉の質がストレートに出る製法で、長時間蒸すことにより香りと渋味を消してしまった深蒸し茶にくらべ、香りや甘みが増すという。

最近の消費者は渋味を嫌い、また忙しいため、お湯をそそぐとすぐに出る深蒸し茶の需要が高くなっているともいう。
しかし、丹精込めて育てた山のお茶のすばらしさを味わうには、若蒸し茶が最適だとも愛好家は言う。



榛原町の海岸は遠浅の砂浜が延々と続き、砂丘には松林が品良く連続している。

特に「静波海岸」は良い。
100メートル位沖まで歩いていけるほど遠浅で、その名のとおり波静かな静波海水浴場は逸品である。
水質も良く、規模も東海一の静波は全国的にも知られ、毎年夏には100万人前後の海水浴客で賑わうという。

元々水好きな小生、子供が幼少の頃はこちらへ数回訪ねたことがある。 
車にテントを載せて、東名の吉田インターからは一投足で「静波オートキャンプ場」へ着く。
松林に囲まれたオートキャンプ場は設備も良く整っていて、実に勝手が良かった。 そして、なにより海は目の前にあった。 
よちよち歩きの赤ちゃんでも安心して、波打ち際で遊ばせることが出来るのは、ここぐらいだろう。



相良(さがら)の街へ至る。 

ここは善と悪との評判高い、大名「田沼意次」(たぬま おきつぐ)の城下街である。
紀州藩主・徳川吉宗が将軍として江戸に上がった時、300石の旗本として御供をした父意行(もとゆき)の子として江戸で生まれている。 
八代将軍の徳川吉宗に登用され、九代将軍家重、十代将軍家治に仕える。
遂に老中を兼任するまでに至り、相良藩5万7千石の大名に取り立てられた。 

このころより「田沼意次」を中心とした幕府の閣僚は、農業より商業を優先した数々の政策・幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれ権勢を振るう。
町人・役人の生活が商業金銭中心のものとなり、その為、贈収賄が横行したとも言う。 
「意次」も政策実行のため「袖の下」を利用し、所謂「ワイロ政治」と呼ばれた。

この時代、天災、飢饉、疫病が多発し、江戸商人への権益を優先したことを理由に賄賂疑惑を流され、田沼政治への批判が高まる。
更に、急激な改革が保守的な幕府閣僚の反発を買い、将軍家治の死亡後に遂に失脚することになる。 失脚後は蟄居を命じられ、領地も没収される。

次の松平定信(陸奥・白河藩主)の時代になって「倹約政策」が実行され、賄賂や庶民の贅沢は一切禁じらた、「寛政の改革」という。

1758年に田沼意次が相良藩主となり、12年かけて築城した相良城は、三重の堀をめぐらし、建物も「けやき」づくりで、遠く海上からも眺められ、まるで竜宮城のようであったと言われている。 
「相良」における藩政は、下町の整備、産業の奨励、飢饉対策や相良湊の整備など地元民には多いに貢献している。

 『 白河の 清きに魚も 住みかねて 
          もとの濁りの 田沼恋しき
 』 

現代ではかなり問題であるようが・・!!


次回は、「御前崎



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日本周遊紀行(17)焼津 「日本武尊と大井川」 



焼津は「日本武尊」伝承の地


焼津へ到達した。 
昔から全国一遠洋漁業の盛んな街であり、焼津漁港の全水揚げの6割がカツオ、3割がマグロといわれる。 
江戸期には焼津産の鰹や鯛を駿府城に隠居していた徳川家康にも献じたといわれ、所謂、駿府城御用達でもあった。


焼津は静岡市との境に「東海の親不知」とも言われる駿河湾に面した深海湾が、険しい大崩海岸というリアス式海岸を形造っている。
この険しい地を、日本坂トンネル(1979年7月、トンネル内で発生した事故火災により、数十人の死傷者と170台の車が延焼したことで有名)を抱える東名高速やJR、国道がひしめきあっている。

それとは対照的に南側には、大井川の扇状地である志太平野が焼津の町・港を形成している。
この様な特殊な海岸地形が、昔から漁業が盛んだったともいわれる。



JR焼津駅の南西約1kmに「焼津神社」が鎮座している、祭神に「日本武尊」(ヤマトタケル)を祀っていて、この地はその伝説の地でもあった。

古事記における日本神話では日本武尊の東征のとき、この地の国造(くにのみやっこ:古代の世襲の地方官)が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち陥れようとした。 日本武尊は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで熱田神宮の神体である)で周囲の草を薙ぎ、向火(迎え火:山火事などを抑えるのには有効といわれる)を放って難を逃れたと伝える。 
その様相が烈火のように見え、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名されたといわれる。
又この後、この剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と命名されたとされる。
尚、日本武尊の東征の様子は、東日本編の「千葉・木更津」の項で記載してあります。
千葉・木更津URL::http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-16-5.htm



意外と水量が少ない広大な大井川河口付近。(河口に一番近い大平橋より)



市内を過ぎると、道は地方道(県道)31号を行くようになる。 石津辺りの松並木が実にいい雰囲気を造っている。 
大井川町の海岸部は、大井川河口のデルタ地帯といえる見通しの良い平坦地が続く。
その大井川の港を迂回して河口に一番近い「大平橋」を渡る。

広大な河口は砂州と水流の部分が半々ぐらいであろうか、橋の長さも2kmに及ぶようだ。 
大井川は,3,000m級の山、南アルプスを源流とする大河であり、日本でも有数の急流河川として知られる。   
だがこの辺り、広い川幅の河口の割には比較的水量は少なく見受けられる。 渇水期でしかも上流に多くのダムが作られているせいもあろうか。

しかし、昔は違っていたとよく言われる。

  『 箱根八里は 馬でも越すが、
           越すに越されぬ 大井川
 』

といわれるように、往時は東海道を基点に上・下流の遠方まで橋は架けられていなかった。


大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。
流域の平均年降水量は3千mmと多雨地域に当たり、古くから水量の豊富な河川であった。 
加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にある為土砂流出量も多く、広大な河原を形成している。 
中流部は「鵜山の七曲り」に代表される大蛇行地帯でもあり、こうした特徴的な河川形態が大井川を国境として利用され、駿河国と遠江国の境界線であった。 
ただ氾濫により度々流路が変わるため、紛争の原因にもなりやすく、徳川家康や武田信玄の対立の導火線になったといわれる。

江戸時代には江戸防衛のために架橋や渡船が禁じられていたという。 
そのため人や馬の背に乗せて旅行者や荷駄を渡河させる川越(かわごし)が行われた。これによって、東海道でも1,2を争う難所とされ、増水の際は川留めとなった。



慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東海道筋の大名は秀吉の恩顧に反し、揃って東軍・徳川方に付き、その功あって戦後は山内一豊は土佐へ加増転封されたのを始め、堀尾吉晴(ほりお よしはる:豊臣政権三中老の一人、出雲松江藩)や中村一忠(秀吉重臣・一氏の嫡男、伯耆米子)等の諸大名は西日本へ転封となった。 

その後は、東海道筋は天領・親藩・譜代(徳川家近臣)の大名で固められ江戸の防衛に当っていた。 
大井川に関しては、当時平均水深が80cm余りあり急流であったことから、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たす為、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされたという。 
この為武家大名・庶民問わず大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河する川越(かわごし)が行われた。
こんなことで、大井川を渡河する拠点の宿場町として「金谷」等が発展したという。


この河口上流・東海道線に「金谷」の駅が在る。
名物、大井川鉄道のSL列車が大井川に沿って「千頭」まで上る。 SLの郷愁を感じつつ、大井川の清流と広大な川根茶の畑を眺めながら、秘境・寸又峡の景観に触れ、温泉に浸かる。 
2,3度訪れたことがある良き旅の思い出であるが、尚、千頭駅からさらにアプト式鉄道井川線(スイスで生まれた、歯車を使って急坂を登る特殊鉄道で、2本の線路の間に歯車用のレールを付けたもの。急な坂を専用機関車を連結し力強く登って行く)で接阻峡温泉駅そして南アルプスのふところ深く「井川」まで延びている。
秋の紅葉シーズンに是非訪れたい処である。

次回は「牧の原、御前崎



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