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日本周遊紀行(13)沼津 「原と白隠」
伊豆長岡から国道414にて沼津へ向かう。 市街地から狩野川の港大橋をわたって、沼津魚市場方面へ。 千本港町、沼津魚市場は早朝から魚介類の取り引きの威勢のよい掛け声が響く。 周辺には寿司屋や飲食店、土産品店が軒を並べ、沼津港で水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を味わうことができる。 先達て上さん(妻)と、この地を訪れて時期物ではあるボリュームたっぷりの「サクラエビ」の唐揚げが絶品だったのを思い出す。 更に、県道380号線を行く。 松の林が限りなく・・?、続く海道で緑の美しい景観は、日本100選の「千本松原」である。 狩野川の河口から、富士市の田子の浦にかけて続く総延長約10kmに及ぶ海岸線で、千本どころか30数万本の松の木が植えられておるという。 旅の僧・増誉上人が近隣の人々に呼び掛け、5年の歳月をかけて復活させたと伝えられている。 増誉上人は、千本山乗運寺(浄土宗・千本松原の近くに寺院がある)の開祖で、始め長円といった。 増誉上人をめぐる千本松原の物語は、今なお人々に語り伝えられているという。 一説によると、天正8年(1580年)武田対北条の激しい戦いが行われた時、無惨にも千本松原の松を伐り倒してしまったという。 荒廃したこの地に、一人の旅の僧(長円)がやって来て、土地の人々が塩害に苦しんでいる姿を見るにみかね、一本一本お経を唱えながら松の苗を植えたという。 千本松原の恩人として、千本公園に像が建てられている。 チョッと序ながら、沼津に縁のある歌舞伎の話。 先般、新橋演舞場で中村吉右衛門、中村歌六、歌昇兄弟達による演目で、「伊賀越道中双六:沼津」を拝見した。 日本の三大仇討ちの一つとされている「伊賀越の仇討ち」(他に「曾我兄弟の仇討ち」、「赤穂浪士の討ち入り」)を狂言風の歌舞伎にしたもので、昔から歌舞伎や講談に取り上げられている有名な演目である。 歌舞伎では大長編の通し狂言「伊賀越道中双六」として演じられ、「沼津」はその第六段として登場し、この中で沼津の宿や千本松原が物語の背景として形作られている。 伊賀越道中双六「沼津」の段のあらすじ 《上杉家家老・和田行家の息子志津馬(渡辺数馬)は沢井股五郎(河合又五郎)の奸計で家宝の刀正宗を質にとられた上、役目落度で勘当される。志津馬の姉お谷を妻に望んで断られた股五郎は行家を殺し、出入りの呉服屋十兵衛の案内で九州相良へ逃亡。足を負傷した志津馬は馴染みの遊女瀬川、今は本名お米の故郷・沼津で養われている。 「沼津」の段のあらすじ お米の老父平作は荷持人足。荷持をさせた縁でお米の美しさに魅かれた十兵衛は貧家に泊まるがこの人物が親子兄弟と判り、千本松原の地で平作は命をすてて十兵衛から股五郎の行方を聞きだす。》 「千本松原」中間地にJR東海道の原駅がある。 今は普通の町並みであるが、旧東海道の原宿で東海道五十三次の13番目の宿場であり、昔は相当に賑わったところである。 この一角に「松蔭寺」がある。 『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり、 富士のお山に 原の白隠 』 白隠 白隠 慧鶴((はくいん えかく・正宗国師)、江戸中期の名僧である。 1686年、駿河国・原宿(現・静岡県沼津市原)長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、のちに病となるも、内観法(身心を安楽にする観法)を授かって回復し、信濃の国・飯山の正受老人の厳しい激励を受けて悟りを完成させたという。以後は地元に帰って布教を続け、衰退していた臨済宗を復興させている。 現在ある臨済宗十四派(京及び鎌倉の大本山寺院)は全て白隠が中興したとされている。 その内の代表である京の妙心寺は広大な境内を持つ臨済宗の大本山で江戸期に中興され、その第一座に白隠禅師が住持(僧衆の長)している。 因みに、小生の田舎(いわき市白鳥町)の菩提寺・龍勝寺は、京都・大本山妙心寺の末寺である。 白隠は江戸中期(1763年)、隣町で三島市の龍澤寺を中興開山し、現在、両寺には彼の描いた禅画、禅筆が多数保存されている。 禅師の墓は原地区の松蔭寺にあって、県指定史跡となっている。 師の著書の一つに「夜船閑話」(やせんかんな・過度の禅修行による病いの治療法として、身心を安楽にする観法を説いたもの)がある、小生、入院療養中の時、その解説書を読んだが、現代にも通ずる古式健康法とでもゆうのだろうか・・? 原から更に松林をゆく、この辺りの松林は手入れがされてなく、雑木下草に覆われて雑然としている。 せっかくの常緑樹林が美観を損ねているのは残念である。 道は東海道線と並行してゆく。 吉原は、今は製紙業が盛んな街だが、昔は東海道・吉原宿で風光明媚なところ、目前に田子の浦をひかえ、万葉集にも詠われた地であった。 『 田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける 』 (田子の浦をずっと歩いて、やっと見晴しの良い地点に出て見ると、遥かに雪が降り積もっている富士山が望まれた) 誰でもご存知の名句である。 時は奈良時代、山部赤人が詠んだ万葉集の一句であり、小倉百人一首にも選ばれている名句である。 次回は「蒲原、由比」 【小生の主な旅のリンク集】
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静岡県
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日本周遊紀行(12)伊豆長岡 「温泉と源氏」
内浦湾の優美な西浦や淡島を左に見ながら、伊豆長岡温泉へと向かう。 市街地の主要道を左に曲がり、ナビに従って「源氏山」の麓の温泉街へ来た。 この辺り一帯を「古奈温泉」とも称している。 古奈温泉(こなおんせん)は伊豆長岡の中でも1300年の歴史ある温泉地で、伊豆では伊豆三古湯(伊豆山:熱海、修善寺、古奈)の一つとして数えられ、弘法大師や源頼政、源頼朝、北条氏らにも所縁のある由緒ある温泉場でもある。 老舗旅館が軒を連ねる通りの一角に「あやめ小路」という石畳小路があり、浴衣姿で散策し、昔ながらの温泉街の風情を感じるには良いところである。 ここの角に目的地の立寄り湯の「あやめ湯」があった。 近所のお上さんさんであろうか・・?、 「 こちらの温泉に入りたいけど、駐車場はどちらですか・・? 」 「 駐車場は特に無いようだけんど、お風呂に入りに来たんなら、ここへ止めてもいいよ 」 気さくな返事が返ってきた。 確かに大きな駐車場で、看板に西淋寺専用駐車場とあった。 すぐ横はお寺の参道になっている。 お寺の人かな・・?。 先ず、湯に浸かろう。建物はひなびた銭湯風で洒落た敷戸の玄関から300円の入湯料をはらって早速湯船へ。 透明なお湯があふれている、気持ち良い掛け流しである。 さっそく漬かるとけっこう熱い、お湯は癖がなくさっぱりしている。 泉質はアルカリ性単純温泉、泉温60度、熱い湯に浸かっていると体の芯まで熱くなってきた。 この辺り「あやめ小路」、「あやめ湯」、「あやめ祭り」、と「あやめ」の呼称が多い。 別にあやめ花の名所でもないらしいが・・?。 平安期、この地に、「あやめ」という女性(にょしょう)が誕生し、成長した後上京して近衛家の院に仕える。 その美しさは宮廷随一といわれ、和歌も嗜(たしなむ)んで、やがて歌道に優れた武人・源頼政公と結ばれた。 しかし、頼政は源平の戦いで露と消え、あやめ御前は伊豆長岡・古奈の里へ戻り、頼政の霊を弔いながら89年の生涯を静かに閉じたといわれる。 あやめ御前の霊は、この寺「西淋寺」に祀ってあるという。 平安末期、源平の争乱で平家打倒の真の先兵は「源の頼政」とも云われる。 頼政は摂津源氏の祖である。 保元の乱(1156年;天皇と院の争い)の時に後白河天皇方について戦い、又、平治の乱(1159年;院の体制近臣の争い・源平の争いで平清盛と源義朝の合戦、この時嫡子頼朝が伊豆のこの地へ流人となる)では源氏でありながら平氏方に付き、平氏政権では軽役人から何とか従三位にまで上る。 ところが、京で栄華遊興に耽る平家に業をにやし1180年、75歳という高齢の身でありながら以仁王(もちひとおう・後白河天皇の子=皇太子)に平氏打倒の話を持ち掛ける。 以仁王がその気になったものの、謀反の動きは平氏方に漏れ、体制を整えないまま合戦に突入してしまい、宇治の平等院あたりで討ち死にしてしまう。 この事がきっかけになって、以仁王の令旨(皇太子、親王および王の女院の命令を伝える文書)に呼応して立ち上がった源義仲、源頼朝らによって平氏政権は滅亡することになる。 それは既に頼政、以仁王の死後のことでもあったが。 あやめ御前は、頼政をこの地に弔っている。 そして、この地で源氏の旗を揚げた頼朝によって頼政の復讐もかなったのである。 歴史は因果である。 その時期、あやめ御前は鎌倉で旗上げした頼朝に逢っているかもしれないのである。 その時、どんな話をなされたのか、興味津々である・・?。 伊豆長岡の市街から狩野川の千歳橋を渡ると、伊豆鉄道の伊豆長岡駅に出る。 一つ手前の駅が「韮山」で、この辺りが蛭ケ小島といわれる所である。 平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母・池禅尼(平忠盛の正室)の命乞いによってこの地に配流されている。 1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされる。 流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったとされ、箱根、伊豆山、三島の三社詣でや天城山での巻狩りを楽しみ、そして北条政子との結婚などの逸話も残る。 このあたりは狩野川の流域にあたり、後年「蛭ケ小島」と呼ばれるようになったとう。 現在は周辺の公園整備が進み、平成16年、富士に向かって頼朝と政子が寄り添って立つブロンズ像「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」が立っている。 伊豆長岡;蛭ヶ小島公園に立つ、新婚当時の頼朝と政子のブロンズ像 1180年、以仁王の令旨、頼政の訓令を以って頼朝は兵を挙げた。 一行は真夜中に北条館を出発、蛭ケ小島の近くの山木館へと向かった。 激戦の末ついに陥落、流人・頼朝の監視役だった山木判官平兼隆は討ち取られた。 源平合戦の初戦、頼朝の旗揚げは勝利で飾ったのであったが、その後、源氏・鎌倉時代が到来することになる。 伊豆長岡は良き温泉と源氏の故里でもあった。 伊豆長岡町は2005年4月1日、韮山町、大仁町と合併して「伊豆の国市」が誕生している。 伊豆の国市は京・平安期の頃は流人の国と言われてきたが、縄文・弥生時代の文化から始まり、源頼朝や北条氏にまつわる数多くの史跡を残している。 又、韮山は後の室町期、伊勢新九郎長氏、後の北条早雲(小田原北条)が一時、伊豆全土を支配下した拠点でもあった。 因みに、伊豆半島で伊豆と付く行政地域名は「中伊豆町」「東伊豆長」「南伊豆町」「西伊豆町」「伊豆市」そして、「伊豆の国市」で六市町と多彩である。 伊豆の人は、これだけ「伊豆」という地名に愛着、執着があるのだろう、くどい様だが解る気もする。 次は東海道・「沼津」
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日本周遊紀行(11)戸田 「造船と日露友好」
国道136号線は土肥からは中伊豆の湯ヶ島から伊豆中央道(下田街道)にも通じている。 小生は、土肥からの海岸沿いの県道17号(沼津土肥線)で大瀬崎へ至ることになる。 この辺りは、本州にも近い伊豆半島の付根付近に在りながら、急峻な山岳地であるため近年まで陸の孤島的存在であった。 車道陸路が通じるのは近年の昭和に入ってからで、尚、暫らくしてからのことであった。 この日は平日とあって道は交通量は少ないものの、九十九(つづら)折れが多く極端に狭い所もあり、対向車には充分注意しながら舟山の展望駐車帯に着く。 本来、富士の展望が秀麗なところだが、今朝は薄雲がその姿を隠している。 七曲を繰り返しながら、戸田(へた)の小さな港へ着いた。 波止場に面した処に、程よくコンビニ(ヤマサキ)があって、戸田の美しい港を見ながらの朝食となった。 御浜岬の先端部の真っ赤な鳥居が印象的である。 http://www.c-player.com/_images/archive/d010JO1RJ5CF80RCUC16K9394EKDRT78GHQKK7RCMVE7SPOE7HSCM3V/large 戸田港の防波堤のように延びる「御浜岬」(戸田観光協会) 小生個人的には、「戸田村」は西伊豆では最も好きな地域であった。 東名高速を使うと比較的短時間で行けるし、港や顎の形をした静かな御浜湾と御浜岬は、美景であり心が和む。 子供達が未だ幼少の頃、夏の時期に何度も訪れたことがあり、御浜の白い砂浜での海水浴は実に良かった。 「戸田村」は、最近までは伊豆半島そして静岡県として唯一つの村域だったが、平成の大合併で無理やり・・?、沼津市と吸収合併されたようである。 ところで、今般の平成の合併劇で「村」が、隣の町や市と吸収合併されて、どんどん姿を消しているという・・!!。 しかし、中には行政上、何とか遣り繰りして村を存続させる。 或いは、「 多少の財政上の困難さを覚悟しても、おらがの村はそのまま残すんだ・・! 」という声も聞こえる。 更に、地方の何処かの「村」は、”合併して本来は町か或るいは市に昇格せれるべきところを、わざと村(むら)として存続させた”という事例を聞いた事もある。 その行政の長が曰く、 『 今、「村」は貴重な自然豊富な地域なのであり、素朴な人々が住む桃源郷のようなものである。 村は、風土的にも日本の原風景でもあり、貴重な自然遺産でもある。その貴重な「村」という名目が、行政上の損得勘定で無くなってしまうのは、いかにも残念である 』と、 合併相手の町長もしくは村長も、その意を汲んで「村」として新たに発足したという。 合併しても尚且つ、本来町以上の行政組織に成るところを敢えて「村」とした、その行政の長に改めて敬意を表したい。 尚、「村」としての行政上の立場は、憲法に基づく地方自治法においては「村は地方公共団体の一つで、都道府県と対等の関係にあり市・町と並立する」としている。 「村」の読み方を「そん」、「むら」のどちらになるのかは各自治体で規定しており、「そん」で統一されている県、「むら」で統一されている県、「そん」「むら」が混在する県があるという。 因みに、行政単位の「村」がない都道府県は西から長崎県、佐賀県、山口県、広島県、兵庫県、愛媛県、香川県、福井県、石川県、滋賀県、三重県、栃木県そして静岡県である(2008年4月現在、13県)。 その静岡県は2005年4月、「戸田村」が沼津市と合併したことから村としての歴史に閉をじ、村の無い一県になったのである。 この静かな戸田の村に江戸末期、意外な歴史が存在した・・!!。 江戸末期、この戸田の港にロシア人が大挙して訪れ、その後、この港でこれらのロシア人を帰国させる為に、日本で初めての洋式船「戸田号」が完成し、無事ロシア人を祖国へ送り届けたという。 ロシア人・47人の命をである。 1854年、ロシア使節・プチャーチンが、日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。(この項は先般「下田」の項で述べた)だがこの年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を襲う。 後に安政の東海地震と呼ばれたこの震災は、大きな津波を伴い下田の町も一瞬にして呑み込み、被害は町全体に及び、875戸中871戸が流失全半壊し、死者は122人と全滅に近い大惨事になった。 津波によって生じた渦巻きにより停泊していたディアナ号も大破してしまい、その時に、亡くなった水兵の墓は今も下田・玉泉寺の敷地内に残っている。 損壊したディアナ号は、船底に穴が空きロシアに帰れる状態ではなくなり、取り敢えず修理をする為の港を捜していた。 そんな時に湾が入り江を成して、しかも三方が険しい山に囲まれ、情報が漏れにくい戸田湾を選定したという。 しかもこの戸田村を探し当てたはロシア人という。 そして、ディアナ号が下田から自力で戸田に向けて出航したが、途中、駿河湾で座礁し、さらに曳航中、嵐に遭って現在の富士市の富士川河口付近の三四軒屋(現富士市三四軒屋)沖で遂に沈没してしまう。 この時、ロシア人達は三四軒屋から、収容施設の整った戸田村に徒歩で一泊二日の行程で整然と並んで戸田村にやって来たという。(ロシア人達は船は懲りたので、駿河湾岸を歩いたともいう) 因みに、富士市五貫島の「三四軒屋緑道公園」の一角にディアナ号の錨が展示してある。 全長4メートルの大きな錨と並んでプチャーチンの提督像が立ち、この地がディアナ号ゆかりの地であることを今に伝えている。(昭和51年8月に三四軒屋沖の海中から引き揚げられたものであるとか) その後、ロシア人が帰国する為の船の建造が急がれた。 戸田号はロシア人が帰国する為の船であり、津波の影響で結局、駿河湾へ沈んでしまった軍艦・ディアナ号の代替として造られた。 はじめは言葉の障害もあり、大変な難工事だったという。 ロシア人は早く帰りたいと願い、日本の船大工も職人の誇りを掛けて外国へ安心して航海できる丈夫な船をとの思いが通じ、僅か、三ヶ月で出来あがったという。 この時出来上がったのが戸田号で、日本で初の洋式船舶であったという。 「戸田号」は戸田村を出航した。 太平洋から津軽海峡を渡り、樺太のアムール川をさかのぼり、後は歩いてサンクトペテルブルグまでプチャーチン以下47人は無事に着いたという。 この地の船大工による洋式造船技術を習得したことが、後の日露戦争、太平洋戦争、そして戦後まで続く造船大国の礎となったともいわれる。 第一号として洋式船・戸田号が完成して以来、その後何と同型艦が11隻も作られ、開国要求のために当時の鎖国体制を破って入港してくる諸外国の艦船に対する守りとした。 ただ、この時携わった技術士、職人、船大工達が、その後、全国に派遣されていったことは余り知られていないという。 そして、石川島、三井、三菱などの現在では世界に名を轟かせている造船会社も、発足当時は、この地の船大工、職人の獲得に凌ぎを削っていたという。 戸田号を造船した所は「牛ヶ洞」と言うところで、県道の岬入口辺りに、この名前のバス停がある。 そしてその地に、「戸田号造船地、日本洋式帆船発祥記念碑」の石碑が立っている。 戸田号を建造した戸田の職人のうちの一人に「上田寅吉」がいる。 洋式船舶の造船技術を会得した彼は、後に長崎の海軍伝習所の一期生に入り指導的立場で活躍した。 当時彼は平民ではあるが給金を貰い、後に苗字帯刀(江戸期の武士の身分の象徴)を許されたという。 同期生には勝海舟がいた。 後に海舟は咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断していることは周知である。 二期生には榎本武楊がいて、後の開陽丸の建造に携わる。 間もなく明治維新となり、上田寅吉は榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になるが、明治三年釈放されて横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成っている。 又、長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造製している。 後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の艦船のほとんどを設計したという。 「緒明菊三郎」(おあき きくさぶろう)は、戸田号造船時には13才だった。 雑役をしながら洋式造船の技術を学び、後に江戸に出て船舶業て財を成し、東京のお台場で緒明造船所を造った。 日清戦争、日露戦争の頃は日本の造船、海運王にまで成ったが、お台場の土地を使用出来たのは同じ戸田村の出身の船大工、上田寅吉の縁で榎本武揚が世話をしといわれる。 その後、緒明家は静岡銀行の創業者して著名である。 因みに、プチャーチンは明治14年明治天皇から外国人では始めて、日本で最初に最高の勲章・勲一等旭日章を授与している。 帰国した彼が和親条約の改定や通商条約の締結交渉で、その後、数度来日している。 その時に、航海中の和船が、時化でカラフトなど北方へ流され、漂流民となった日本人を親切に扱い度々帰国させたという。 その数は何十、何百人とも言われる。 人道上最大の貢献をしたということで、日本で最高の勲章を貰ったのである。 岬の先端、赤い鳥居のある猪口神社の近くに造船郷土資料博物館がある。 安政元年(1854年)に戸田沖に沈没したロシア軍艦・ディアナ号艦長プチャーチンの遺品や代船(戸田号)建造の記録が保存展示されている。 又当時、現地で三人のロシア人が死亡したとされ、それらの霊が宝泉寺に眠っている。 戸田町の南外れに、その「宝泉寺」があり、ロシア使節のプチャーチン提督が泊まった寺として知られる。 船が完成までの約三カ月間、ロシア船員も滞在し、境内には滞在中に亡くなった乗組員の墓がある。 ところで、今年(2005年)は日露修好150周年記念に当たる。 ロ日友好協会では、ロシア連邦サンクト・ペテルブルグ市、国内では下田市、戸田村、富士市の各地で祝典行事が行はれたという。 戸田村(現沼津市戸田)の海岸に建立されたモニュメントの除幕式を行い、又、下田市の海岸で開かれた政府主催の記念式典には外務省の招待で関係者、山口戸田村代表が出席した。 この式典には日本側から小泉首相、ロシア側からロシュコフ駐日ロシア連邦大使も出席し、日露両国の恒久的な友好関係の樹立を誓い合った。 「戸田」は日本造船界の礎であり、日露友好関係の原点でもあったのである。 「夕映えの丘」の高所から見る、戸田港と御浜岬の景色は抜群であった。 井田の村落も美しいところである。 額ほどの田んぼの向こうに、ひっそりと集落が並んでいる。井田地区は「美しい日本の村」景観コンテストで「全国農業協同組合中央会会長賞」を受賞したという。 高い位置より大瀬崎を眺めながら駿河湾の内浦を行く。 今までの山腹道路と違って本来の海岸線を行く、やや入り江になっているため穏やかな海面である。 次回は源氏の故里・「伊豆長岡」 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(10)土肥 「温泉と金」
松崎を過ぎると程なくして「堂ヶ島」である。 新緑の松林越しに深青な海の色が対比をなして実にいい。 西伊豆には珍しくニュー銀水、堂ケ島温泉ホテル、小松ビューホテル、アクーユ三四郎といった巨大ホテルが自然にマッチして建ち並んでいる。 堂ヶ島温泉は、化粧の湯(美人の湯)と言われるように良質の温泉がフンダンに湧出している。 又、「伊豆の松島」と称され、伊豆を代表する景勝地として知られるように断崖絶壁の奇岩・奇勝と相俟って富士の夕日は有名である。 堂ケ島で一際美景なのが三四朗島であろう。 干潮時になると幅30mの石の橋で陸地と結ばれ、歩いて渡ることができるという。 所謂、陸繋島(りくけいとう:砂州によって陸地とつながった島)の島で、この石の洲を土地の人は古くから瀬浜と呼び、海静かな春の干潮の時は磯遊びの好適地となっている。 洞窟の天井に穴の開いた「天窓洞」に入る遊覧船も人気らしい。 この洞内には鎌倉洞と呼ばれる穴があり、伝説によれば、この洞は鎌倉まで続いていると言われているらしい・・?。 昭和10年の早春、歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻が堂ヶ島を訪れた際に詠んだ詩。 『 島の洞 奥に窓あり 潮ゆれて 孔雀の色を 我が船に投ぐ 』 鉄幹 『 堂ヶ島 天窓洞の 天窓を 光りてくだる 春の雨かな 』 晶子 堂ヶ島からは国道136は山中へ入る。 トンネルも多いが、道路は良質ですれ違う車も無く、快適である。 田子、安良里といった海岸へ通ずる道が時々交差する。 ミニ山岳ハイウェイといったところか。 まもなく宇久須川の河口の小さな平野部に出た。 チョッとした家並みが並ぶ「宇久須」というところである。 ひなびた漁港にある穴場的な場所で夏の海水浴客は人気、通常は海釣りのスポットでもある。国道沿いに日帰り入浴施設もあり、豊富な湯量が湧き出る。 泉質はリュウマチや神経痛などに効能があると言われている硫酸塩泉で、民宿が主の宿泊施設が多いが、ホテルニュー岡部といった大ホテルも在った。 港の両端は黄金崎や恋人岬といった景勝地もあり、その名の通り夕日を浴びて岩肌が黄金色に輝くという。 又、港から内陸の山岳地へ向かう仁科峠に通ずる山道がある。 その先には標高700〜800mの場所に宇久須牧場広がる。 近くに宇久須キャンプ場も在り、晴れた日は宇久須の港と駿河湾が一望できる。 伊豆といえば「海」と頭の中でイメージする人も多いと思うが、”伊豆の山々・・・、”の歌の文句のように、伊豆は山地のイメージもつよい。 宇久須の海岸から再び国道は、山地へ入り山際をグングン登る。 明るく見通しの良い道で、常時、彼方の海岸線が見えてる。上りきった辺りにかなり大きく、立派な施設のある展望台へ来た、「恋人岬」とあった。 さすがに展望抜群で、大海原が眼前に開け、左方角に宇久須の港が見下ろせる。 手形のモニュメントの横に、駅風の案内板があって・・、 『 ここはこいびとみさき、といおんせんから、つぎはけっこんへ 』・・と掲示してあり、熟年で一人旅の小生にとっては、いささか苦笑気味であったが。 岬の本来の展望台はこの先500m位先にあるようだ。 途中に愛の鐘というのがあった。 若いカップルが、おて手つないで思いに耽り、ゆっくり散策しながら、愛の鐘を鳴らして下さい・・!! 西伊豆・土肥 何年か前だか定かでないが、「上さん」(妻)と土肥周辺を周遊観光した折、泊まった宿屋が「牧水荘・土肥館」であった。 港よりやや奥まった処の旅館(ホテル・・?)で、露天風呂の豪快さに驚いたもんだった。 天然掛け流しの豊富な温泉に、西伊豆随一を誇るといい、数種類の大露天風呂や洞窟風呂に我々はびっくり仰天し、一晩とはいえ大満足したのを覚えている。 「牧水荘・・」の由来は大正期の悠遊歌人といわれた「若山牧水」が伊豆周巡の際、この土肥館をこよなく愛し、延百余日に亘って百数十の詩歌を詠み、晩年は常宿としていたことによるという。 『 幾山河 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく 』 牧水 牧水の残した、遺作品や遺品が多数、館内に飾ってあったのを記憶している。 四季温暖な気候に恵まれている土肥温泉では、明治以来多くの旅人が避暑、避寒に来遊しており、その中には著名な文人・墨客が宿泊逗留したという。 大正の頃には牧水のほかに、島木赤彦、与謝野鉄幹晶子夫妻をはじめ倉田百三、三好達治、川端康成、中島敦、井上靖、堀江史郎などが土肥を訪れ取材し、土肥を背景にした作品を作り出し、文学で見る近代土肥温泉の歴史でもあったという。 史跡・土肥金山」に展示されている金塊; ;実物で、さすがに三菱財閥である (当時:2005年頃、1gいくら位であったか現在の金価格と比較して計算してみてください) もっとも、「土肥」が最も賑やかになったのは、「土肥金山」が発見され、採掘による事業振興があったからだ、ともいわれる。 室町初期に発見された金山は、江戸時代に第一期黄金時代を、明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った伊豆最大の金山である。 推定産出量は、金40t、銀400tといわれ、 昭和40年に閉山している。 坑道の総延長は述べ100km、海底180mまで掘り起こしているという。 一般に、金・1g採取するのに金鉱脈の岩石350kgを掘り出す必要があるといわれる。 金鉱岩石は掘られた後、微細に砕かれ、水洗いし、選別される。 これを何回も繰り返して金の粒子を取り出し、その後、高温の炉で精錬される。 純金(99.99%、一般にフォーナインと言っている)40t採掘するのに、どの位の金鉱岩石を掘り出したか計算して戴きたい。 金鉱山の跡地は、今は観光用として利用され、江戸時代の採掘作業の風景を等身大の電動人形が再現をしている。 因みに現在まで世界各国で掘られた金の全採掘量は、概ね 25mプール一杯分とかと、どこかで聞いた・・? 我が家に1kg(三菱M製)の金のインゴット(純金塊)2個所有しているが(これは内緒・・?)、こちらの黄金館(資料館)には 250kg(三菱マテリアル製)の大金塊が展示してある。 現在の金相場を1g≒1500円として、・・??、世界最大の金塊としてギネスに登録されているとか。 尚、この資料施設を運営しているのは土肥マリン観光株式会社というが、実質、資本経営(親会社)は三菱M、つまり三菱マテリアル(株)という非鉄金属の製錬、金属加工の会社である。 「土肥」(とい)という地名は、その昔伊豆の先住人達が温泉が土中から沸き、金が産出される二毛作・・?に適した肥沃な土地であることから、「土が肥ゆる」で土肥の字があてられたともいわれる。 土肥の山中に中村という在郷がある。 「湯河原」の項でも記したが、平安期、相模の国の湯河原は「土肥の郷」といわれ、郷主・土肥実平は頼朝時代には信頼厚い側近であった。 実平は桓武平氏の中村氏の中村宗平の次男とされている。 つまり、その祖先は西伊豆の土肥の庄ではないか・・??と極一部いわれるが、史実には無いらしい。 現在、土肥は行政上の呼称は土肥町とは呼ばない。 政府指令の平成の大合併において、早々、2004年 4月1日- 静岡県田方郡修善寺町、天城湯ヶ島町、中伊豆町それに土肥町の4町が合併して、「伊豆市」として市制施行している。 因みに行政名は土肥支所になり、本庁市役所は修善寺(旧町役場)になっている。 次回は「戸田の造船」
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日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎の町並み」 道の駅の「花時計」 引き続き西伊豆・「松崎」について・・、 西日本周遊の第1日目で、しかもマイカー泊まりのためか、やや緊張気味で早朝4時半には目が覚めてしまった。 ここは、松崎より少々内陸へ入った大沢温泉の「道の駅」であり、正確な名称は「花の三聖苑伊豆松崎」という。 明るくなった朝のしじま(静寂)中、公園に出て深呼吸を二つ、三つ、空は高曇りで雨の心配は全くなさそうだ。 新緑の小山に囲まれた園内は、今は盛りと多種多彩な花々が咲き競い、訪れる人々慰めてくれる。 その中でもパンジーやスミレ・・?で作られた巨大な花時計が目を引いた。 大きな花時計に立って様子を覗う。 白い長短の針の上を赤い極細の秒針が絶え間なく時を刻んでいる。 特に、文字盤には数字といったものは無く、それでも凡その時間は読み取れる。 まだ五時半前である。 眠気覚ましに道路へ出てゆったり散歩を楽しむ。 木々の緑が美しく何でも、ここの道の駅周辺の大沢地区は既に時期は過ぎたが桜の名所でもあり、松崎町は桜葉(桜葉漬で作られた桜餅が代表)の生産が日本一だという。 園の前の道路から、時おりフルスピードで車が横切る。 そろそろ頭のほうも冴えてきたようだ。 花いっぱいの公園としゃれた花時計をカメラに収めて、いざ出発とする。 松崎の町はまだ眠りの中にあるようだ、しかし、漁業関係者であろう、例の軽トラックが行き来している。 西伊豆の松崎は温泉と観光と歴史の町だが、当然、漁業の町でもある。 岩地・石部・雲見を中心とした水産漁獲は、宿泊・観光施設との連携によるところが大きいようだ。 特に駿河湾に生息するタカアシガニは西伊豆の特産品で、足をひろげると何と3メートルを超えるという世界最大のカニである。 今では、かなりの高級品らしいが一度は食してみたいもんである。 松崎には、一介の左官建築職人から絵心を加えた名人、名工となって名を残し、松崎の町並みを一新したという「入江長八」という人物がいる。 入江長八は、江戸末期、松崎に生まれ、12才で左官建築の弟子となり19才で江戸を出て左官の修行をつむが、同時に3年間、狩野派の絵も学び、江戸から明治にかけて活躍し左官の名工と言われた人物である。 左官とは、壁を塗る職人、壁塗りのことでその材料は「漆喰」といわれるものである。 日本の木造建築の独特の塗壁材料で、消石灰に布のり・苦汁(にがり)などを加え、これに糸屑・粘土などを配合して練ったもので接着効果・施工性、亀裂防止のため“つなぎ”を高めたものである。 現代風には、石膏・石灰・セメントなどをそのまま、または砂などをまぜて作ったモルタル漆喰をもいう。 代表的な建築物である城郭や土蔵など、伝統的建物に塗られた漆喰壁が広く知られているが、色粉を加えた色漆喰や材料に糊を使わない土佐漆喰など、その種類は多々ある。 漆喰は、勿論、鏝(コテ)で塗り上げるものであるが、「鏝絵」とは、左官職人が鏝を使い、漆喰をレリーフ状に盛り上げ、民家の戸袋や壁、母屋や土蔵の妻壁や持ち送りに絵柄を塗り出したもので鏝絵には家内安全、火災除け、不老長寿といった施主の願いを表現したものであるという。 入江長八は漆喰塗物に、更に装飾的、絵画的な要素を取り込んで芸術性を意識し高めたものといわれる。 松崎の町並みからチョッと南へ行った岩科地区にある「旧岩科学校」 松崎の町並みは、「なまこ壁通り」と言って江戸末期頃の建物が並び、火災や保温・防湿・防虫などに役立つと言われ、格子模様が歴史的な古い町並みと調和し、独特の雰囲気を醸し出している。 中でも代表的な建物で、「旧岩科学校」がある。 明治13年開校という洋風の建築物で、甲府の旧睦沢学校、信州松本の旧開智学校と並ぶ歴史をもち、国の重要文化財の指定されている。 特徴なのが社寺風建築と洋風建築を取り入れ、「なまこ壁」を十分に生かしたものである。 なまこ壁とは、土蔵などの漆喰を風雨から保護するため、平たい瓦を竹釘で打ちつけて並べ、瓦と瓦の間の目地を漆喰でなまこのような形に盛り上げた壁のことをいう。 江戸時代の初め、武家屋敷の長屋や長屋門の壁に使われたのが始まりだそうであり菱形、馬形、亀甲、七宝などの型がある。 次回は、西伊豆・「土肥」 【小生の主な旅のリンク集】
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