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日本周遊紀行(9)伊豆松崎 「松崎と依田勉三」
伊豆松崎・「道の駅・花の三聖苑」の花時計 石廊崎を後にして再びR136へ出た。 道は一層烈しく曲折登降を繰り返し、妻良、子浦から松崎を目指す。 子浦から伊浜辺りはマーガレットの産地で「マーガレットライン」の愛称がついている。 子浦の町営マーガレット畑を中心に沿道を整備し、この辺りの海岸と合わせて眺望ポイントになっているとか。 今は時期外れで見れないが花の見ごろの3月から4月にかけては一見、キク(マーガレットはキク科の花)の様な白い花を青い空と海をバックに美事に咲かせる。 途中、波勝崎への標識看板を目にしたが、波勝崎は東日本最大の野生のサルの生息地という、波勝崎苑を中心に生息している。 所詮は人間が餌をやって育てているらしく、完全な野猿とは云い難いらしい。 伊豆半島は、「山岳半島」とは前にも記したが・・、 この辺り伊豆西南地域も海から山がそのまま始まる様に、急峻な崖がそそり立ち、絶壁を形造っている。 衝立や屏風のような断崖があるかとおもえば、海食された岩肌は複雑怪奇な岩の洞門や洞窟のような奇岩怪岩を造り上げている。 「海金剛」といわれる波勝崎の奇岩が乱立する海域で、和歌山の紀伊大島の東端にも同名の名所が存在する。 元々は朝鮮半島、海の南北境界38度線近くの北朝鮮の景勝地を海金剛と称していて、名峰金剛山から由来していると想像する。 「赤壁」とは・・、 波勝崎の南、松崎町界近くに、衝立岩「赤壁」がある。 文字通りの赤色の断崖絶壁で、これは、かの中国長江の「赤壁」を準えたものであろう、『三国志』の中の「赤壁の戦い」の古戦場として有名になった赤壁は、後漢末期の208年、曹操と孫権・劉備の連合軍が実際に闘った場所である。 だが、当の赤壁自体はそんなに巨大なものではないようで、どちらかと言えば、その後背にある歴史的名所や陳列館が観光的に名を成しているともいう。 小生若い頃、吉川英二の「三国志」を読んでいたが、全く記憶は薄れている。 赤壁は島根県隠岐諸島の知夫里島の西海岸にも存し、高さ50メートルから200メートルにも及ぶ断崖絶壁が1キロにもわたって続いて雄大な眺望と自然の造形美を誇っている。又、姫路市 の海岸、八家地区に小赤壁が在る。播磨灘工業地域のド真ん中に、これだけの自然が残っていた。 赤壁の近くに「蛇のぼり」、「うりもりさん」といった珍名な名所もある。 又、雲見の海岸リエリアも見るべきものが多く、「千貫門」、「烏帽子岩」、「牛着岩」等、沿岸全体に言える。 これら何れも、陸上から望むより、海上船舶のから眺めた方が良さそうだ。 その為か、この地域はシーカヤックやダイビングの一大スポットにもなっている。 そして「松崎」である。 ここ松崎と北海道との関係・・?、 海、山、温泉と自然が豊かな「松崎」は歴史、文化の香りも高い。 それだけに高貴な人物も輩出しているようで、芸術家・入江長八や国鉄総裁・石田礼助、依田勉三・・等々を輩出している。 その「依田勉三」について・・ 昨年「東日本一周」で北海道・十勝地方の大樹町を周遊している時、晩成温泉や晩成キャンプ場といった名称に気が付いていた。 又、今年(205年)5月、縁あって、やはり大樹町、帯広を巡った折、十勝地方の開拓については依田勉三氏の「晩成社」によることを知った。 一般に北海道の開拓といえば官主導の屯田兵や旧幕府家臣によるものが大勢である・・、 ところが帯広・十勝地方は一般民間人に拠るもので、静岡県の 「伊豆松崎」出身の依田勉三率いる晩成社(一種の会社組織)一行が明治16年に入植したのが開拓の始まりといわれる。 「晩成」といえば帯広の製菓店・六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」のマルセイは晩成から名付けたと言われ、実際に「晩成」という名のお菓子もあるらしい。 また、大樹町の「晩成温泉」は、そのものの名前である。 依田家の歴史を遡ると・・、 依田家のルーツは信濃源氏だといわれ、代々信濃国小県郡依田村(現在の長野県小県郡丸子町)の依田城に居をおく豪族であった。 平家追討の兵をひきいる木曽義仲をこの城に迎え入れたという記録もある。 戦国期依田氏は甲州武田氏に属し、武田勝頼のために駿河と遠江の城を守っていた。 武田信玄病歿後、後を継いだ勝頼も、天目山(山梨県大和村)の戦いで織田信長の軍に敗れ、ついに武田氏は滅亡してしまう。 こうして依田一族は伊豆の松崎へ隠遁し、やがて人里はなれた大沢の里に居を構えたという。 その後、代々庄屋として山林の伐採、炭焼きで江戸との通商を行い、財を成すようになった。 時は移り江戸末期、「勉三」は依田家の三男として生まれている。 家歴、家業を知る勉三は幼少時分より開拓精神を植つけたらしい。 少青年期とり勉学に励み、慶応義塾にて福沢諭吉の講義も受けたという。 やがて未知の北海道へあこがれ、明治初期ついに単身現地へ渡り、人跡未踏の十勝原野の踏査にとりかかった。 そして帰郷後の翌15年、兄の佐二平(松崎町の名士)に十勝の将来性を力説して、農場建設のために兄を社長とする「晩成社」を設立した。 社名は「大器晩成」にちなんだものという。 晩成社開拓団27名は明治16年3月、北海道向け出発した。 十勝地方は秋田県ほどの面積に匹敵し、十勝連峰や大雪山系をひかえ、そこから流れ出る簾のような大小河川が十勝平野の肥沃な大地を形造っている。 そこの中心に在るのが帯広市である。 帯広を含む十勝地方は農業が主産業で、その殆どが大型機械による大規模畑作営農が中心であり、周辺の農家1戸あたりの平均耕地面積は約30haで、北海道の平均17ha、全国の平均1.6haを大きく上回っているという。 伊豆松崎町と帯広市は硬い契りの「友好姉妹都市」を結び、役所前には提携記念塔もある。 平成14年、帯広市は開基120年に当たる。これらを記念して書籍「依田勉三の生涯」を出版(潮出版社)又、この本を元に映画「新しい風・若き日の依田勉三」が昨年大公開された。 松竹映画配給:出演は北村一輝、富田靖子、風間トオル、岩崎ひろみ、曽根英樹、他・・、 尚この映画は第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いている。 伊豆松崎・「道の駅・花の三聖苑」(奥の建物は「かじかの湯」) 松崎町より内陸方向へ4kmほど那賀川沿いを行くと、「道の駅・花の三聖苑」がある。 三聖とは、幕末から明治期にかけて活躍した松崎出身の三人の偉人たちのことで、幕末の漢学者である土屋三余、明治期の実業家として名を馳せた依田佐二平、その弟で北海道・十勝平野の開拓者である依田勉三をいう。 1kmほど先に大沢温泉が在り、、大沢温泉ホテルを営む依田邸の母屋がある。 約320年前、元禄年間初期の建築だろうという、江戸時代の重厚な庄屋建築の面影を残している。 道の駅の公園入口には、直径11mの巨大で且つユニークな花時計があり、時報ごとに違う曲が流れるという。 さらに苑内には、日帰り温泉施設で、男女別の岩風呂と、清流の音を聴きながら入れる露天風呂を備えた温泉会館「かじかの湯」がある。 今夜はこの温泉に浸かりながら。 次回は、西伊豆へ・・、
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静岡県
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日本周遊紀行(8)南伊豆 「石廊崎」
http://www.c-player.com/_images/archive/d011AJQJVCFI0D803GQIE2S528G19GFGI8IDCLCFHV0UJH96249254R/large 石廊埼灯台(伊豆灯台) 伊豆半島の東海岸を南下したR135はここ下田でR136となって西伊豆方面へ向かっている。 小生もそれに従って進むことにする。 吉佐美から標識にしたがって石廊崎方面へ、河口の青野川の対岸は美しい海岸が広がっている、「弓ヶ浜」である。 白砂の浜が弓なりに広がる美しい浜で、背後には松原の緑が迫る詩情豊かな景観である。 伊豆西南海岸といわれる県道から、石廊崎の取り付部である石廊崎港の遊覧船乗り場へ来た。ここは湾というか入り江というか、外洋から凡そ1kmも細長く入りこんだ先端にあたり、小波一つない静かな港である。 ここから石廊崎灯台へは15分程のやや急な登り道である。 路の脇には数件の土産店が軒を並べているが日曜の午後とあって、いずこもお暇な様子である。 一汗流してやっと灯台へ達した。 石廊埼灯台(いろうざきとうだい)は伊豆半島・南伊豆町の最南端の石廊崎に立つ、白亜の塔形をした中型灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれている。 1871年(明治4)10月(旧暦では8月)に、設置・初点灯している。 かの、「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントン(イギリスの工兵技監にして建築家、スコットランド人、明治政府の招聘により来日したお雇い外国人のひとり。 数多くの灯台の設計・設置を手がけた)の設計による八角形の木造灯台として建設され、日本では、10番目に古い洋式灯台だそうである。 昔から石廊崎沖は航海の難所でもあり、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多くあったので、航行関係者からは是非にと、灯台が求められていたのであった。 http://www.c-player.com/_images/archive/d010PJLN5O7ACVPHLAD84CL34IUILA5TOAPPV5IBO3BEUVN24SDQVBI/large 伊豆南端、先端部の「石廊埼」 灯台周りには囲いがあって、見物できないのは残念である。 灯台から更に進むと紺碧の大海原が広がっていて、高さ50m〜100mの断崖絶壁に黒潮が激しく波を打ちつけている。 又、断崖にへばりつくように鉄柵の遊歩道があって、その先の大岩を刳りぬいた部所に石室(いろう)神社の社が鎮座している。 その又突起の絶壁上に注連縄を張った小社が恐る恐る据わっている、実に迫力ある風景である。 特に岩の上から見る朝日は絶景で、正月のご来光は人気のスポットであるとか。 神社は奈良時代には開祖された様で「役の行者」にも因縁があり、中古以来、金剛山石室権現と尊崇されていたという。 石の廊下をつたって石室に安置されていたもので、維新後の神仏分離で伊波例命(イハレヒコノミコト:海上交通の守り神)を奉斎し、石室神社とされたといわれる。 石の廊下に石室で、社名も石室(いろう)神社と呼称しているようで、変じて一帯を石廊崎と称するようになったとか。 いずれも海上交通や縁結びにご利益があるという。 水平線に地球の丸さを実感・・・?? しながら、石廊崎を後にした。 西伊豆・「松崎」へ、 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(7)下田 「露使節・プチャーチンと北方領土」
「ロシアと北方四島」 ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節・プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。 日米和親条約締結の話を聞きつけ、ロシアも日本と通商を求めるべく來日したもの。 同年、幕府役人との数度による交渉の結果、長楽寺にて日露和親条約が締結される。 この日露和親条約が日米和親条約と大きく異なるのは、日露の国境が決められ、択捉島とウルップ島の間に国境線が記載されたことで、この日を以って北方領土の日(2月7日)として設定している。 因みに、先の大戦以降、未だに北方領土はロシアに占有されたままである。 長年に亘って日・ロとの返還交渉が成されてきたが、現代に到るまで解決されてない。 その返還については日本の長年の悲願である。 北方領土とは北海道東方、歯舞(ハボマイ)、色丹(シコタン)、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の四島のことである。 昨年(2005年)10月東日本一周の際、北海道東方沿岸で国後島を遠望し、納沙布岬では歯舞諸島を真近に望めた。 これら地域、特に根室半島は北方領土返還の拠点になっていて、立て看板や石文が辛く、切なく、それらを物語っている。 「蛍の光と北方領土」 ところで、「蛍の光」という唱歌があるのは周知だが、「北方領土」のことも歌詞にあるのは大方は判っておらず、まして、最近はあまり歌われていないようである・・?。 この歌は、明治14年(1881年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられている。 作詞は稲垣千頴(いながき ちかい)、作曲者は不詳であるが、元々はスコットランド民謡である。 明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞したものが採用され、「蛍の光」となったという。 歌詞の舞台は異なるが、遠く離れた友を思う心根は、原曲であるスコットランドも日本も共通である。 大日本帝国海軍では「告別行進曲」という題で、やはり各種学校の卒業式典曲として「仰げば尊し」と一緒に、最近まで使われ歌われた。 現在は『蛍の光』は二番までしか歌われていないが、本来は四番まである曲であった。 三番と四番は、辺境の地であっても、それは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。 以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)に掲載された時のものである。 前述の通り、戦後・昭和24年以降はこの中の1番と2番のみしか歌われていない。 『蛍の光』詞:稲垣 千頴 スコットランド民謡 蛍の光 窓の雪 書(ふみ)読む月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れゆく 止まるも行くも 限りとて 形見に思う 千万(ちよろず)の 心の端を 一言(ひとこと)に さきくとばかり 歌(うと)うなり 筑紫(つくし)の極み 陸(みち)の奥 海山遠く 隔(へだ)つとも その真心(まごころ)は 隔てなく ひとつに尽くせ 国のため 千島の奥も 沖縄も* 八島のうちの 守りなり 到らん国に 勲(いさお)しく 努めよ我が背 つつがなく ※ 歌詞の内容に問題があるとされ、現在音楽の教科書等では第三節以降が省略されている。 この「蛍の光」は、悲しいまでに美しい旋律(メロディー)である。 幼少の頃は歌詞を理解してなくとも、歌ったり、聞いたりしただけで胸にジーンときたものであった。 しかも、1番から4番まで理解して歌う時、万感迫るものがある。 「蛍の光」の1、2番は同窓の友や師との告別の意味であるが、3,4番は、将来は国のために心を合わせて協力するという歌である。 「蛍の光」を、この形、1から4番までしっかりと歌い続けていれば、北方領土の問題は日本人の意識にもっと深く存在し得たはずであろう。 戦後の風潮、教育でこれらの感慨を全て捨て去った現在、所々にそれらの付けが回ってきている。 日本人の精神そのものが、今の北方四島を見ているようである。 尚、「蛍の光」のメロディは、本国のスコットランドや日本だけでなく、その他の各国にも浸透している。 イギリスやアメリカ合衆国などでは新年(スコットランドでは大晦日から)を祝う歌であり、台湾やフィリピンでは新年と卒業式の両方で歌われ、かっては大韓民国(韓国)の国歌でもあったという。 次いでながら、「蛍雪の功」という言葉がある。 「蛍の光」の歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる。 一途に学問に励む事を褒め称える中国における故事が由来となっている。 東晋の時代(とうしん;3世紀、中国の西晋王朝に対して江南に建てられた王朝で、西晋に対し史書では東晋と呼んで区別している)の車胤(しゃ いん;東晋の官吏)は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。 同様に、同じ頃の孫康(そんこう;東晋から劉宋にかけての人物・官吏)は、夜には窓の外に積もった雪の反射する光で勉強していた。 そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。 尚、プチャーチン提督が来日していたこの年(安政元年)、東海地方を巨大な地震が襲う、「安政の大地震」と言われるもので、この下田も津波によって全滅に近い甚大な被害を被っている。 津波てロシア軍艦・ディアナ号も大破し、亡くなっ水兵は今もこの玉泉寺の敷地内に眠っている。 長楽寺は了仙寺の近くに在る。 詳細については西伊豆・「戸田」(へた)の項で記載します。 次回は伊豆南端:石廊崎まで行きます
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日本周遊紀行(7)下田 「ハリスとお吉」
http://www.c-player.com/_images/archive/d0111NQ85PVRCCQPM1S8MC04EH6ML9R2AB3V5IM226R1T8Q8GTR08K4/large http://www.c-player.com/_images/archive/d011KGDEQ93M5R9F8FUJ222RGPDD9BSRFMGRQQ0U4RHPU8A4VR2B4J7/large 幕末開国の歴史の中心舞台となり、ハリスがアメリカ総領事を置いた「玉泉寺・本堂」と隣接するハリス記念館 「総領事官・ハリス」 先刻、通ったR135より爪木崎方面へ向かう途中に「玉泉寺」があった。 先の了仙寺とは対照的に人っ子一人居ない静寂の寺院であり、門前に” 安政年間・日本最初・米国領事館 ”の石碑があり、石段を登った本堂右手に「ハリス記念館」があった。 ペリーが去って、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき初代日本総領事「ハリス」が下田に着任し、この玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置された。 それから3年もの間オランダ人通訳・ヒュースケンと共に下田に滞在し通商条約締結に向けての幕府との交渉に臨む。 そして、翌1857年に下田協約(日米通貨協定、領事裁判権等)を結ぶ。 又、初め江戸入府を許可されなかったが、後に許されて陸路天城を越えて(前に記した天城峠越え)江戸城へと向かう。 ハリスは外国人としては初めて将軍・家定に拝謁し、家定は「 遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい 」と述べている。 その後、幕府と根気強く条約交渉を進めた結果、1858年6月日「米修好通商条約」を横浜艦上で調印することに成功する。 ハリスは実は親日家であったという。 ハリスの滞在日記『ハリス日本滞在記』の中で「 私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀であることを、繰り返し云う。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と記している。 日本人を「特異で、半ば野蛮な国民」と称したペリーとは大違いである。 「唐人お吉」 下田一と評判の高い芸妓だった「お吉」が、17歳でハリスの世話人として上がる。 病弱で動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる女性を幕府に要求していた。 幕府は交渉を優位に進めようと政略をもってお吉を送り込むが、そのことを知ったハリスは激怒し、3日で帰宅させてしまう。 その後、ハリスの人柄も聞かされ、支度金として受け取った25両のこともあって、改めて彼女の家族側から領事館にお願いし、奉公することになった。 ハリスに仕えた期間はほんの僅かだったが、その後のお吉は不運だった。 「唐人」とののしられ蔑まれて、その後三島や横浜と移流する。 後には下田での商売はうまくいかず酒に溺れて、遂に明治24年豪雨の夜、下田・蓮台寺の稲生沢川の淵に身を投じ自らの命を絶っている。 波瀾にみちた51年の生涯は、あまりにも哀しい終幕で、この事件は幕末開国に伴う一悲話として小説や芝居の題材にもなっている。 お吉は身よりもなく「宝福寺」の住職に法名を戴き境内に厚く葬られた。 先代の水谷八重子の舞台が評判になったのをきっかけに、芸能人達によって墓石も寄進され、法要祭は下田の女連によって今でも行われている。 宝福寺は下田駅と了仙寺の中間、通称「まいまい通り」に在る。 引続き「下田」である。 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(7)下田 「黒船祭とペリー」
「下田黒船祭」 今井浜温泉、河津浜温泉からR135は内陸の高所を行く。 その後、再び白州の浜に出た、伊豆白浜という。 白浜の地名は 他に安房の白浜、南紀の白浜を記憶している。 スイセン(1月頃30万本の自然のスイセンが咲きほこる)と須崎御用邸(昭和46年に三井の静かな入江に御用邸がたてられ、天皇陛下や、皇室関係の方が、海洋生物の研究やお休みにお出でになる)で有名な爪木崎を左に見ながら、とりあえず伊豆急の下田駅に向かう。 駅は鉄道・伊豆急の終着駅で東京から下田は凡そ2時間半で結んでいる。 観光案内所で歴史的名所のガイドを伺いながら、パンフを戴く。 聞くところによると5月20日〜22日つまり本日まで「下田黒船祭」の真っ最中で、各処々でイベントが行われているとか。 ソウ云われれば、商店大通りでは賑やかに出店や露天商が並んでいて、着物のお嬢さんのソゾロ歩きや港街らしくセーラー服の若き水兵さんの姿も見かけた。 黒船祭は、当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約が締結された5月に、毎年行われてる。 思えば今年は種々の記念の年に当たっている様だ。 太平洋戦争の終戦60年、日露戦争の終結100年、そして江戸末期の開国から150年と。 この下田こそが、江戸期の長い鎖国から世界への扉を開いた地である。 先ずそれらの跡を訪ねて観よう。 駅前から稲生沢川沿いを行くと、下田公園の手前に「ぺりー艦隊上陸の地」があった。 船体を真っ黒なタールで塗りつぶした4隻の艦船が「浦賀」に来航したのは、1853年6月であった。 母国アメリカを出航した後、大西洋からアフリカ喜望峰を回りインド洋を抜け、香港・琉球(沖縄)を経由し226日にも及んだ長い航海の末、日本へとやっと到達した。 ペリーは久里浜(浦賀)にて、開国開港を要求する国書を幕府に受け取らせると、翌年再び来日し返答を聞くことを約束して一旦日本を去った。 時を経て再び来日したのは翌年1854年、今度は9隻の艦船を率いて、無断で江戸湾(東京湾)の測量や乗組員を強引に横浜に上陸させ、条約草案を押し付ける等、威圧行為を行いながら、幕府との話し合いの場を設けることに成功する。 強引な手段に出たのには、前任の東インド艦隊司令長官が浦賀奉行に呈よく追い帰されたという経緯があった。 そのため万が一の場合には「武力行使も辞さない」といった断固たる決意で臨んだ為といわれる。 腹を決めた幕府は江戸近隣での開港を嫌い、下田・函館両港の開港案を提示する。 ペリーはさっそく下田周辺の海洋等の事前調査を行う、外洋と接し安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「 天然にしてこれほどの良港は望めない 」と絶賛したそである。 遂に艦隊を集結させたペリーは乗組員と共に、この地に上陸する。 http://www.c-player.com/_images/archive/d011EVOMD2PFHT6PEJ5M3ET415GLFURF1LM2EPAL48JO9100GHM56M0/large ぺりー上陸地(下田黒船祭にあたり、胸像には花輪と花束が手向けてある) 上陸地の園地にはペリーの胸像があった。 ここから「了仙寺」までは300mもあろうか、石畳の道に風流な弥治川、ナマコ壁の屋敷前に架かる朱色の橋、小公園やガス灯など情緒あふれる散歩道、下田の町の風情を感じさせ、若者に人気のおしゃれストリートになっている。 通称「ペリーロード」と呼んでいる。 その先に了仙寺は在った。 さすがに大きめの駐車場の横は土産店が並び、その前に紫色の花木鉢が並んでいる。 聞くと「 アメリカジャスミンでこの寺の名所名物だよ、中庭は今が盛りだよ 」と言う。 成る程、肩ぐらいはあろうかと思われる位のその名もアメリカジャスミンが庭一面に今が盛りと満開の花を咲かせていた。 本堂も古式な由緒を感じさせる。 http://www.c-player.com/_images/archive/d011K77455PMJQ32Q3NC3GN6H8L0HJI3KTCS7A43O35K1B2ISV2M87O/large 了仙寺と真盛りのアメリカジャスミンの庭園 ペリーや艦船の乗組員たちは、このペリーロードを軍楽隊の演奏と共に派手に行進をしながら了仙寺へと入ったことだろう。 ペリーは下田の町家を下見、見聞しながら幕府側代表と何度も交渉を進め、念願の全12ヶ条から成る日米和親条約(神奈川条約)を締結したという。 初め、街を歩く白い色や真っ黒い鬼のような形相の大男に恐れをなして家の中に閉じこもっていた下田の町民も、フレンドリーでユーモラスなアメリカ人とすぐに打ち解けることができ、敵対心を抱いて接していた幕府役人を尻目に、友好関係を築き上げていったという。 又、ペリー一行が下田に上陸して最初受けた日本人の印象は、自分たちが考えていた一見した以上に、生活や教育水準の高さ、職人たちの手の器用さに驚き、尚且つ、日本の風習にも相当なカルチャーショックを受けたようである。 引続き下田での「ハリスとお吉」
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