『日本周遊紀行』

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静岡県

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写真 ぺりー上陸地(下田黒船祭にあたり、胸像には花輪と花束が手向けてある)
写真 了仙寺と真盛りのアメリカジャスミン庭園


下田黒船祭・・、
今井浜温泉、河津浜温泉からR135は内陸の高所を行く、再び白州の浜に出た、伊豆白浜という。白浜の地名は 他に安房の白浜、南紀の白浜を記憶している・・。
スイセン(1月頃30万本の自然のスイセンが咲きほこる)と須崎御用邸(昭和46年に三井の静かな入江に御用邸がたてられ、天皇陛下や、皇室関係の方が、海洋生物の研究やお休みにお出でになる)で有名な爪木崎を左に見ながら、とりあえず伊豆急の下田駅に向かう。駅は鉄道・伊豆急の終着駅で東京から下田は凡そ2時間半で結んでいる・・。

観光案内所で歴史的名所のガイドを伺いながら、パンフを戴く・・、聞くところによると5月20日〜22日つまり本日まで「下田黒船祭」の真っ最中で、各処々でイベントが行われているとか・・、ソウ云われれば、商店大通りでは賑やかに出店や露天商が並んでいて、着物のお嬢さんのソゾロ歩きや港街らしくセーラー服の若き水兵さんの姿も見かけた・・。黒船祭は、当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約が締結された5月に、毎年行われてる。
思えば今年は種々の記念の年に当たっている様だ・・。太平洋戦争の終戦60年、日露戦争の終結100年、そして江戸末期の開国から150年・・と。この下田こそが、江戸期の長い鎖国から世界への扉を開いた地である・・、先ずそれらの跡を訪ねて観よう・・、駅前から稲生沢川沿いを行くと、下田公園の手前に「ぺりー艦隊上陸の地」があった。 

船体を真っ黒なタールで塗りつぶした4隻の艦船が「浦賀」に来航したのは、1853年6月であった。母国アメリカを出航した後、大西洋からアフリカ喜望峰を回りインド洋を抜け、香港・琉球(沖縄)を経由し226日にも及んだ長い航海の末、日本へとやっと到達した。ペリーは久里浜(浦賀)にて、開国開港を要求する国書を幕府に受け取らせると、翌年再び来日し返答を聞くことを約束して一旦日本を去った。 
時を経て再び来日したのは翌年1854年、今度は9隻の艦船を率いて、無断で江戸湾(東京湾)の測量や乗組員を強引に横浜に上陸させ、条約草案を押し付ける等、威圧行為を行いながら、幕府との話し合いの場を設けることに成功する。
強引な手段に出たのには、前任の東インド艦隊司令長官が浦賀奉行に呈よく追い帰されたという経緯があった、そのため万が一の場合には「武力行使も辞さない」といった断固たる決意で臨んだ為といわれる。腹を決めた幕府は江戸近隣での開港を嫌い、下田・函館両港の開港案を提示する。
ペリーはさっそく下田周辺の海洋等の事前調査を行う、外洋と接し安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「天然にしてこれほどの良港は望めない」と絶賛したそである。遂に艦隊を集結させたペリーは乗組員と共に、この地に上陸する・・。

上陸地の園地にはペリーの胸像があった。
ここから「了仙寺」までは300mもあろうか・・、石畳の道に風流な弥治川、ナマコ壁の屋敷前に架かる朱色の橋、小公園やガス灯など情緒あふれる散歩道、下田の町の風情を感じさせ、若者に人気のおしゃれストリートになっている。通称「ペリーロード」と呼んでいる、その先に了仙寺は在った。
さすがに大きめの駐車場の横は土産店が並び、その前に紫色の花木鉢が並んでいる。聞くと「アメリカジャスミンでこの寺の名所名物だよ・・中庭は今が盛りだよ・・、」と言う。成る程、肩ぐらいはあろうかと思われる位のその名もアメリカジャスミンが庭一面に今が盛りと満開の花を咲かせていた・・。本堂も古式な由緒を感じさせる。 

ペリーや艦船の乗組員たちは、このペリーロードを軍楽隊の演奏と共に派手に行進をしながら了仙寺へと入ったことだろう。
ペリーは下田の町家を下見、見聞しながら幕府側代表と何度も交渉を進め、念願の全12ヶ条から成る日米和親条約(神奈川条約)を締結したという。 
初め、街を歩く白い色や真っ黒い鬼のような形相の大男に恐れをなして家の中に閉じこもっていた下田の町民も、フレンドリーでユーモラスなアメリカ人とすぐに打ち解けることができ、敵対心を抱いて接していた幕府役人を尻目に、友好関係を築き上げていったという。又、ペリー一行が下田に上陸して最初受けた日本人の印象は、自分たちが考えていた一見した以上に、生活や教育水準の高さ、職人たちの手の器用さに驚き、尚且つ、日本の風習にも相当なカルチャーショックを受けたようである・・。

引続き下田での「ハリスとお吉」

『湯の町エレジー』 詞 野村俊夫 曲 古賀政男 唄 近江俊郎
伊豆の山々 月あわく     淡い湯の香も 路地裏も
灯りにむせぶ 湯のけむり   君住む故に なつかしや
あああ 初恋の          あああ 忘られぬ
君をたずねて 今宵また    夢を慕いて 散る泪
ギターつまびく 旅の鳥    今宵ギターも 咽(むせ)びなく

「伊東温泉」・・、
熱海のはずれにある網代温泉からは海岸近くでもかなり高所を走るようになる、屈曲した道をしばらく行き最高所から一気に下った処は宇佐美の海岸である。湾曲した砂浜の海辺は透明度も良く、夏は海水浴客で賑わう、民宿の町といってイイほど民宿が多く、我が家も毎年ここにはお世話になるところである。
ここは、すでに伊東市であった・・。
東海岸のR135沿いは大温泉タウンが並ぶ、湯河原、熱海、そして伊東温泉だ。
温泉街は熱海にも劣らぬ程のホテルや旅館が並ぶ、温泉は源泉の数が780本、毎分の湧出量は34,000Lもあり熱海より多い、又、飲食店も多く昔の歓楽街的温泉の要素も多く現存する。
ところで熟年の方なら存知よりも多いと思うが、あの古賀メロデーの元祖ともいえる「湯の町エレジー」はここ伊東を舞台に生まれたともいう・・。
あのギターの奏でる前奏、間奏のメロデーは、なんとも湯の街の哀愁にピッタリの曲で、小生、若かりし頃ギターをカジッタ時に最初に覚えた曲でもあった・・。 

東伊豆・・、
また伊東はもう一つの顔がある。
南部は概ね丘陵地帯になっていて、大室山の麓にある伊豆高原や一碧湖周辺は四季を通じて一大レジャー基地になっている。城ヶ崎海岸は大室山の大噴火で溶岩が海に落ち込んだ際に形成されたリアス海岸で、断崖絶壁は見る者を圧倒する景観だ・・、特に門脇崎の吊橋から、絶壁に白く飛沫を上げる波濤を見下ろすときは冷や汗ものだ・・。
伊豆高原から赤沢温泉、北川温泉を経て熱川温泉へ、この辺りは天城山系の最高峰、百名山でもある「天城山・1406m」がいきなり海岸へ落ち込んでいるところで、そのためR135も細々と通っている。
かなりの高所の国道沿いに標識があり、細い急な路地を下ると、まもなく海岸沿いに熱川の細長い温泉街があった。

高磯の湯・・、
処々のホテルには温泉の掘削井戸があって、そこからモウモウと噴気煙が上がっている、源泉温度はほぼ100℃に達しているという高温泉である。温泉街の外れに目的の波打ち際の「高磯の湯」があった。季節的に水を抜かれた青いプールの脇を通って露天風呂へ、ライダー連が数人いて些か騒々しいが、やはり露天風呂はいい・・、湯は真透明でごくわずかに細かい白っぽい湯の花があるようだ、海岸なのでやや塩味がする。しかし周囲は野生味が感じられないのは残念、コンクリートの床で海際は鉄柵で囲ってある、湯に浸かると紺碧の海原は見えない、人工物が自然を邪魔しているのだ・・、早々に退散した・・。 ついでに熱川温泉は大田道潅が発見したといわれるが・・。

天城トンネル・・、  
稲取温泉から河津浜へ・・、 ここは伊豆半島中央を貫く幹線路R136、R414、修善寺、湯ヶ島、湯ケ野の合流点になる、通称中伊豆とも称している。こちらも趣のある温泉地や自然が多い、なかでも何かと有名な天城峠は御存知だと思う・・が、川端康成の「伊豆の踊り子」は天城峠つまり旧天城トンネルが舞台になている。
明治38年に完成したトンネルは全長445メートル、アーチ・側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては日本に現存する最長のものであるとか。有形文化財に登録され、2001年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されている。 また、「日本の道百選」にも選ばれている。
今は静寂を保つこのトンネルは歴史的にも、文学的にも観光の名所になっている。
トンネルの手前には旧峠道が延びている、トンネルができる前の往時の路は、急峻な地形や切り立った崖の上で、そのため天城越えで尊い命を落とした人もいたという。
幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため, 下田より江戸に上ったときに通ったのがこの峠である、そのときのハリス一行の日記には,
『路は狭く, 鋭角で馬の蹄を置く場所もなく、ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く。 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ. 』
と記されていることから, 相当な難所であったことが判る。
旧天城トンネル、更に新天城トンネルの完成で北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮された。

次回、伊豆南端の下田は、「黒船祭り」の真っ最中であった。

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写真 熱海海岸と寛一お宮の像



「熱海温泉」・・、
総じて云える事だが、伊豆半島は山岳半島であろう、多くの山々は海岸線まで迫り出している。 特に東海岸のすぐ後ろは箱根高地から伊豆箱根スカイラインが天城高原、天城山辺りまで天空を走っている。このスカイラインの下、伊豆半島の付根部分を丹那トンネル(たんなトンネル)が1934年に開通している。 東海道本線の熱海駅〜函南駅間にある複線規格のトンネルで総延長7804m、完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長であった。火山地帯特有の断層と温泉湧出という難工事で16年の長期間と事故による67名という犠牲者を出している・・。 
それまでは箱根の連山をぐるっと北側を廻る、現在の御殿場線が東海道線であった。このトンネルの開通で日本の大幹線といわれる東名阪の交通事情は大きく進展したといわれる・・。 
この丹那トンネルの東の入り口が「熱海」である、古くからの温泉地であり、地名は「海から熱い湯が湧き出ていた」ことからであろう・・。山地丘陵地の狭いエリアに大型ホテル・旅館が立ち並び、国鉄東海道本線開通以降、首都圏からの保養客が押し寄せ一大保養地になった。かつては新婚旅行や社員旅行の定番の行き先であったが、社員旅行自体の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽傾向にある、2000年代に入り温泉を引いたマンションが増加しているという。 保養マンションが主であろうが新幹線を使用すれば首都圏へは通勤圏内でもある。

熱海温泉は日本の三大温泉(熱海、別府、南紀白浜)の一つ。 また、日本の三大温泉場(別府、熱海、伊東)の一つとされ、源泉湧出数500本以上、古くは大半の源泉が硫酸塩泉であったが、近年ボーリングによる源泉開発を多数行った結果、海沿いの源泉は海水の混入量が増えているという・・。
熱海のスポットと言えば海岸にある「お宮の松」と「寛一・お宮の像」であろう。 尾崎紅葉の「金色夜叉」から模じったもので、その前に砂浜のサンビーチが広がっている。 

市街地より東方山地に「伊豆山神社」がある。
頼朝が鎌倉に幕府を開くに及んで、幕府最高の崇敬社として箱根とともに二社を関八州鎮護とした。 元はといえば頼朝の恋人であった北条政子が、密かに逢瀬を楽しんだ神社といわれる。父に逆らって恋人の元に抜け出してゆく「政子」は、後に政権を握ることなど考えもしなかったに違いない。源氏旗揚をした後、この社にせっせと戦勝祈願をしたという。

『新金色夜叉』 曲・詞・宮島郁芳 
熱海の海岸を散歩する     僕が学校おわるまで
貫一お宮の二人連れ      何故(なぜ)に宮さん待たなんだ 
共に歩むも今日限り       夫に不足が出来たのか 
共に語るも今日限り       さもなきゃお金が欲しいのか

 
次回は、伊東温泉・・、

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