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日本周遊紀行(26)知多 「羽豆岬」
知多半島、「羽豆岬」の今昔 河和を過ぎたあたりから、海の青が濃くなったような気がした。 外海が近くなったせいかと思ったが、上空が晴れ渡ってきて空の青が海の青を一層際立たせているのだろう。 南知多の先端の港、師崎港を左に見ながら岬の先端へ向かう。 立派な駐車場があったが、有料だったのでミニ公園の入口部に車を止めた、一応駐禁の場所であったが・・!。 羽豆神社の参道石段が目の先にあった。 丘の方角からあまり上手とはいえないペット(トランペット)の音色が心地よく響いてくる。社の前で一礼して、その横に中年のおじさんがペットの子犬を同伴して練習に励んでいた。 「コンチワ・・やってますね・・!、展望台へはこちらでよろしいですか・・?」 「耳ざわりでスイマセン・・、はい、今日は空気も澄んでて見晴らしは良いですよ・・!」 「どうも・・」、気さくな一声に、気さくな返事が返ってきた。 途中、緑の林を歩く。 これは天然記念物の「うばめがし」という木で、姥目樫と書くらしい。 ブナ科の常緑高木で高さ8〜9mに達し、暖地の山地や海岸に生える特性があるといい、幹は直立しないで横に伸び、葉は小形で硬い。 雌雄同株で5月頃黄褐色の小花をつけ、果実はドングリ状で渋味少なく食用になるという。 材は堅く、火力の強い木炭に適し、若芽はタンニンに富み、付子(ふし・タンニン材として薬用・染織用・インク製造用に供する。昔はその粉を女性が歯を黒く染めるのに用いたという・・お歯黒)の代用として重宝された。 この辺り一帯の社叢(しゃそう・神社の森)樹林は、国天然記念物に指定されているという。 数分の遊歩道の緑のトンネルは、別名「恋のロマンスロード」と呼ばれているらしい。 歩いていると、キラキラと輝く海が見えてきて、木々のトンネルを抜けた先に展望台が現れた。 ここからの眺望は360度、圧巻そのものである。師崎港を眼下に、篠島・日間賀島は目の前だ、東に三河湾、南に伊良湖岬・神島・鳥羽・伊勢を望み、西に伊勢湾・鈴鹿の山並みも一望される。 又、波紋のきらめく大、中、小の船の往来が長閑(のどか)である。 知多半島の先端部である師崎(もろざき)地区は昔から尾張国の支配者との関係が深かった地域である。 その象徴であるのが羽豆神社で、今は「うばめがし」に囲まれて静寂の中に鎮座している。 社の創建は7世紀、延喜式内(平安期に制定された神社の格式、序列)に列する古社で、祭神は「建稲種命」(タケイナダネノミコト)といって尾張氏の祖神に当たるという。 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が景行天皇より東国平定の命を受け、尾張国初代の尾張国造(くにのみやつこ)の子である建稲種命(タケイナダネノミコト)を副将軍として水軍を統率し東征に向かった。 東征の帰途、命は駿河の海で命を落とし、その衣服が羽豆岬に漂着したことから、それを御神体とし、岬に祀ったのが羽豆神社であるという。 この地は古代尾張水軍の拠点でもあり、江戸期には尾張徳川家累代義直、頼宣、光友、義誠、吉通などが参詣した水軍の祭神でもある。 又、神社の後方には、克って「羽豆城」があったという。 南北朝時代、南朝方の千秋昌能(せんしゅうまさよし)によって、南朝方の拠点として築城されたという。 千秋氏は藤原南家(奈良時代における藤原家の家系)季範(すえのり)の子孫で、その娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。 羽豆城は南朝方が東国より吉野に入る中継地としても利用されていたが、宗良親王(むねながしんのう・後醍醐天皇の皇子)や新田義貞など著名な武将が羽豆城に滞在したという。 羽豆城主を継いだ二男の加賀守季忠(すえただ)は織田信長の武将としても活躍するが、永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で今川軍の先鋒隊と戦って討死している。 その子季信(すえのぶ)は、信長の命により熱田大宮司職に専念したという。 戦国期までは水軍の拠点として盛衰をたどるが、江戸期の安定期に入ると次第に重要視されなくなり羽豆城は廃されていった。 伊勢湾口の波に洗われる「羽豆岬灯台」 羽豆岬周辺の海岸線は、伊勢湾口の海上権をおさえる拠点として古代より政治的・軍略的・経済的に海運交通を統制・監視する上において地理的に重要な位置を占めていた。
そんな城は、灯火の役目も担っていたのかもしれない。 しかし現在、この地に灯台が無いのは些か不思議な気がするが・・?、気がつくと岬の先端から伸びる小島の上にチョッと地味な灯台が立っていた。 現在、城跡を示すものはの石碑の他は何もない。 先ほどのペットのおじさんに一言礼を云って、羽豆岬を後にした。 知多半島の西部海岸道は伊勢湾を見ながら実に温和で良い、この海岸近郊地域は海の楽しみもも多そうである。 内海の千鳥ケ浜は、東海随一とも呼ばれる砂の美しい海水浴場で、海水浴シーズンには名古屋方面から100万人の観光客が訪れるという。 又、温泉も在る、南知多温泉郷といって内海、山海、豊浜地区の総称をいう。 天然温泉は地下1300mに眠る化石温泉で近年掘り当てたもので、薄茶色のナトリウム・カルシウム塩化物強塩泉で切り傷、火傷、慢性皮膚病等に良いとされる。 道中、天然温泉「白浜の湯」の日帰り温泉ランドが目についたが、入館1200円とチョッとお高いので遠慮した。 道々、「こうなご」の看板が目に付いた・・、 「小さな女の子」と書いて、関東地区同様、小女子(こうなご)と呼ぶようだ。 この伊勢湾も特産地の一つで今頃(5月〜6月)が旬、獲りたてで乾燥したものを、これまた東海地方(愛知・岐阜・三重)で代表的な醤油の一種である「たまり醤油」(少量の小麦を加えるか、又は大豆のみで製造する、そのため他の醤油に比べ、うまみ成分が多く、味がまろやかで濃いといわれる)で調理し、「つくだ煮風」にして食すのが絶品らしい。 小女子(こうなご)は「イカナゴ」のことで、小さいものを小女子と称しているようで、成魚のイカナゴを大女子(おおなご)と字をあてる地方もあるとか。 名前の由来は「いかなる魚の子なりや」と問うに、何の魚の子か判らなかったことから「イカナるコか・・」が、イカナゴと呼ばれるようになったという俗説がある。 瀬戸内海の明石海峡あたりが本場らしいが、地形や汐の干満、風によって発生する潮目のところに多く産するという。潮目にはイカナゴを含めて様々な魚が集まるり、エサとなるプランクトンが豊富であることから。 因みに、似たような小魚に「ちりめんじゃこ」というのもある。 こちらはイワシの稚魚で、良く見ると頭の形が違うらしい。 次回は、野間・「縁と因縁の地」
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愛知県
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日本周遊紀行(25)吉良 「刃傷事件の主君」
刃傷事件の吉良家、地元では・・? 三ヶ根山の西の麓に吉良町が広がる。 「吉良」(きら)の名は八ツ面山(やつおもてやま;現、西尾市にある低山)に産する雲母(キララ又はキラ)の呼び名から起こったとされ、中世(13世紀の頃)の三河国吉良荘の領主は足利氏の支族・名門吉良家が領していた。 その吉良家は東条吉良氏と西条吉良氏に分家することになる。 吉良氏といえば、誰もが「忠臣蔵」の悪役吉良上野介を思い浮かべるが、この上野介義央は、西条吉良氏の末裔にあたる。 江戸時代初期には著名な領主に旗本・吉良上野介義央(きら-こうずけのすけ-よしなか)がいた。 石高は高家筆頭4200石で、万石未満の旗本ながらも官位は従四位上(浅野内匠頭は従五位下)を授かっていた。 この氏が江戸元禄期、江戸城内における公式の儀式、場所である殿中・松之廊下において播州赤穂藩五万石の藩主浅野内匠頭に斬りつけられる、という刃傷事件が起きる。 その要因、原因は多々取りざたされているが、いずれにしても将軍綱吉は即刻、藩主・内匠頭に即日切腹、播州赤穂藩には、お家断絶を申し付けた。 これより浅野家の赤穂藩は消え、藩士はすべて浪士になったのである。 刃傷事件から1年9ヶ月後、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が江戸松坂町の吉良邸に乱入し、激闘の末、吉良上野介義央の首級を挙げ、泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓前に供えた。 「忠臣蔵」のお蔭で、赤穂四十七士の忠義が300年にわたって称賛されている一方で、吉良氏は「日本一悪いヤツ」にされ、その名は黒い影に覆われてしまった。 つまり、”日差しが強ければ強いほど影は濃くなる”ように。 しかし、地元・吉良町では吉良上野介は新田開発や産業の振興などに尽くした名君として長く慕われていた。 刃傷事件のその後、赤穂浪士ゆかりの赤穂市とは長く遺恨の関係にあった。 しかし1990年以降、双方の話し合いによって理解し合い、交流が始まり、今では忠臣蔵イベントやスポーツなどを通して活発な交流が行われるようになっているという。 因みに、遺恨の事で・・、 幕末、戊辰の役で長州軍(官軍)と会津軍とが、会津城下で最後の凄惨な戦闘が起こり、会津軍は降伏する。 その後、戦後処理において、その処置の仕方や会津藩全藩の国替え(不毛の地、陸奥国津軽斗南地方、事実上の全藩の遠島処分)に伴って、会津藩士は過酷な苦渋を強いられる。 この遺恨は末代まで引き継がれ、今日になっても会津若松市と山口県萩市は話し合いは持たれるものの、未だ遺恨の関係が続いているといわれる。 「一色町」の鰻・うなぎは日本一・・?、 国道247は、吉良町から矢作古川の松大橋を渡ると一色町に至る。 吉良町辺りから沿岸部は見通しの良い平坦地が続く、矢作川の沖積平野で、所謂、デルタ地帯である。 矢作川(やはぎがわ)は、中央アルプスを水源とする一級河川の清流で、清流魚である天然アユの豊漁の地としても知られる。 矢作古川は元の本流であり、江戸から明治期、氾濫を抑えるため新たに開いた水路が、はるか西の方、碧南市と西尾市を流れる(明治水路)。 岡崎市街の旧東海道に架かる矢作橋は日吉丸(後の豊臣秀吉)が野武士の棟梁である小六(蜂須賀子六正勝)と出合った場所として知られているが。 この話は創話と承知であろうが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に両人の「出合之像」というのがあるらしい。 蜂須賀子六は藤吉郎と共に信長に遣え、後に秀吉が西国を治めると同時に、蜂須賀子六正勝は阿波・徳島の一国を授かっている。 一色町は、この矢作川のデルタ地帯の一角にある小さな町域である。 だが、この小さな町域に「日本一」と称する品目が数種類あるという。 中でも秀たる物に「鰻の生産高が日本一」だそうだ。 現在、ウナギを養殖生産しているのは、静岡県(浜名湖産)、鹿児島県と愛知県が圧倒的に多く、全国の63%を占めている。 愛知県は、昭和58年に静岡県を抜いてから平成9年まで14年連続首位を守ってきたが、昨年、鹿児島県に一位の座を占められる。 愛知県の生産量は全国の31%を占め、うち一色町の生産量は県内生産量の75%で、全国では23%を占めているという。 市町村単位で言えば、一色町が15年連続で「日本一のウナギ天国」を誇っているのである。 矢作古川と国道南側一帯には広大な水面が広がっている。 これが鰻の生簀(いけす)で、矢作川の肥沃な表流水を水源としている。 そのため井戸水を使用している他市町村の「うなぎ」に対し、限りなく天然に近い栄養豊富な、美味しいうなぎが養殖できるようになったのだという。 矢作川本流の矢作川大橋を渡り碧南市へ入った。 渥美半島と知多半島に囲まれた三河湾は、いわばカニのハサミにあたり、湾岸部はその口に相当する、つまり天然の良港なのである。 碧南の大浜地区は背後に尾張地方を望み、その地形から古く南北朝・室町時代頃から大浜湊として千石船が出入する湊町として栄えたところでもある。 そのためか大浜地区は、今でも神社仏閣や古き良き建築物が多く点在する。 最近ではこの景観地区を国の施策に則って、「歩いて暮らせる街づくり」というモデルプロジェクトを選定し、人と自然が調和した新しい町並み造りに励んでいるという。 衣浦港の衣浦トンネルは、碧南と半田地区の埠頭を結ぶ延長1.7kmの海底トンネルで、港湾都市・半田市の象徴でもある。 衣浦港の一角に昔ながらの半田運河(十ヶ川)が連なり、面して黒塀や蔵が情緒を醸しだしている。 ここは醸造業(酒、酢)に代表され、今でも現役で活躍しているという。 衣浦港を潜る衣浦トンネルを出ると半田市街へ向かう県道265号となるが、小生は師崎方面(知多半島先端)と標識のある道へ左折し、2車線の高架道路の工場地帯を抜けていく。 高架道路は途中までで、道なりに走っていると十字路に出て再び国道247に合流した。 知多半島には中央部に南知多道路という有料道路が走るが、もちろん小生は沿岸の一般国道247号を行く。 蟹のハサミの付根に当たる東西部には臨海工業地が広がり、東部の豊橋地区は国内でもトヨタ自動車を中心とし、最大規模の自動車製品及び部品の輸出入拠点となっている。 又、こちら西部地区は、衣浦港を中心に鉄鋼、輸送機械工場や発電所が集まる工業地である。 又、中央部の蒲郡、幡豆町は温泉や観光施設が特色を出しているようである。 知多半島の内浦に面する武豊町辺りから、静かな海辺と漁港が連続して気持ちをホッとさせる地域である。 特にこの辺りはアサリの潮干狩りが盛んのようで、それらの案内板が多く目に付く。 美浜町の河和から南知多町の先端「羽豆岬」は向かう。 次回は知多の「羽豆岬」
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日本周遊紀行(24)蒲郡 「三ヶ根山」
蒲郡の沿岸より望む竹島と三ヶ根山の山並み 三ヶ根山頂に眠る「殉国七士廟」;東條英機(元陸軍大将)、武藤章(元陸軍中将)、松井石根(元陸軍大将)、木村兵太郎(元陸軍大将)、土肥原賢二(元陸軍大将)、広田弘毅(元総理大臣)、板垣征四郎(元陸軍大将) 田原の市内を抜けて県道2号から三河湾大橋を渡っての豊橋へ向かう。 元有料道路だけあってさすがに立派な橋である、記念に写真を一枚。 次に豊橋の湾岸線R23を行く。 バイパスだけにかなり快適に走れる。 三河湾の周辺地はトヨタ自動車田原事業所をはじめ自動車産業が盛んで、豊橋港湾を中心とした施設は日本第一位の自動車貿易港でもある。 一方、蒲郡は豊橋の港湾都市に比して、海辺の観光都市と言えるであろう。海岸沿いに四っつの温泉が湧き、蒲郡には海辺の五館という水族館、海の科学館や博物館が並び、蒲郡のシンボルともいえる「竹島」が浮かぶ。 竹島は長さ387メートルの橋で陸地と結ばれ、島全体が国の天然記念物に指定されている。 4月上旬から6月下旬には海岸で潮干狩も楽しめる。 海道より比較的近場の三谷温泉に行ってみたが、立寄り温泉らしいものは無く、宿屋の方も午前の早い時間帯というせいもあって、今は静まりかえっている。 次に、東を渥美半島、西を知多半島に囲まれた三河湾に喉仏の様に突き出た西浦半島の先端に広がる西浦温泉を訪ねた。 岬の先端にある浜辺の温泉で、古くから風光明媚な場所として知られる。 30数年も前、小生の新婚旅行に訪れた温泉地でもある。 今では海岸線からの斜面に沿って設備の充実した大型旅館やホテルが林立し、「東海の熱海」とも形容される近代的な温泉になっている。 岬の高台から眺める三河湾の360度のパノラマ展望も見事である。 又、海岸は400メートルほど続く砂浜が波穏やかで、夏は海水浴客で賑わう。 西方には穏やかな海に小島(沖島)が浮かび、赤に染まる夕日を眺めながらの湯浴みは最高だともいう。 西浦温泉は泉質はアルカリ性単純泉、単純緑バン泉など効能はリウマチ、神経痛、皮膚病など効能豊かな温泉としても知られる。 三河湾に面して一際目立つ山並みが連なる。 標高300mを超える三ヶ根山の山塊である。 三ヶ根山 (さんがねさん) は三河湾の展望台で、近年まではロープウェイや回転展望台が有り、我らも楽しんだ記憶がある。 当時は相当に賑わっていたようだが、近年では三ヶ根山スカイラインの開通や観光客の減少に伴って、その役目を終えたようである。 山頂付近には殉国七士墓(極東軍事裁判で絞首刑となった、東条英機ら七人の霊をまつった墓)がある。 殉国七士の遺骨は、人目を避けて密かに伊豆山中に祭られていたらしいが、幾星霜を重ねた後の遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地・三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立され、墓碑と共に安置されることになった。 東京裁判と殉国七士 敗戦のやむなきに至った日本の行為を米中英ソ等の戦勝国が東京裁判で裁き、票決により昭和23年12月東條英機、広田弘毅、板垣征四郎等、いわゆるA級戦犯(A級・・??、 A、B、Cの区分のこと)とされる氏たちの絞首刑を執行した。 A級戦犯のA,B,Cとは罪の重さ、軽さのランク付けではなく、GHQ(連合国總司令部)が戦犯選定のさいに用いた犯罪の内容・種別を示しているもの。 A級は戦略戦争を遂行した「平和に対する罪」、B級は戦争法規・慣例にした「通常の戦争犯罪」、C級は民間人に対する迫害や殲滅(せんめつ)を実行した「人道に対する罪」という内容だが明確な法的根拠は無く、「A級戦犯」は呼称・通称にすぎないという。 東京裁判(極東国際軍事裁判)では26人が「A級戦犯」として起訴され、7人が処刑された。 その後、いわゆる靖国神社には東京裁判での終結、未決で死亡した14人が祭られているという。 尚、処刑された7人は密かに埋葬され、その遺骨がこの三ヶ根山の頂きの眠っているのである。 処刑後の昭和23(1948)年12月23日、米軍による久保山火葬場(横浜市保土ヶ谷区)で米軍によって火葬にふされた。 この時、遺骨は米軍の手にあり、処刑された後、殉死した7人が英雄にまつりあげられるのを恐れた連合国は遺骨を持ち出すことすら禁止し、飛行機で空中に遺骨を撒き散らす予定であった。 これを知った日本人の係官は幸いクリスマスの時期であったため、監視の目をくぐりぬけて遺骨を密かに持ち出したという。 七士の間違いの無い遺骨が、日本人の手に入ることができたのである。 そして火葬場のすぐ隣の禅宗の興禅寺に仮埋葬した。 久保山火葬場は無論、米軍占領下にあり、厳重な警戒網を突破して懐中電灯を点滅しつつ竹竿の先に缶等をつけ苦心惨憺、息を殺しつつ、とうとう全部を収めたという。 だが、興禅寺にいつまでも隠匿しておく訳にはいかず、いつ発覚して持ち去られ、いかなる処罰にあうか知れない。 そこで東京裁判の弁護士を勤めた三文字氏や林逸郎氏等の人々や七士の遺族の人々が極秘のうちに相談した結果、遺骨を熱海の松井家に一端移す事になった。 その後、三文字氏等が「興亜観音」を訪れ「知り合いの、ある人の遺骨ですが、時期の来るまで、誰にも分からぬ様に、秘蔵して置いて貰いたい」と依頼した。 この間、関係人は大変な苦労があったようだが、昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコで講和条約が整い、以後は、米軍の日本取締りは非常に緩められた。 そして、それ以降は七士の遺骨の持ち出しの秘話や、またその遺骨が興亜観音の境内に埋蔵されている事なども新聞等にぽちぽち報道されるようになり、興亜観音に七士の遺骨を弔う人も多くなったという。 興亜観音にある「七士之碑」は、昭和34(1959)年4月19日に建立されたもので、碑の文字は元総理・吉田茂氏の筆によるものである。 観音像は、昭和15(1940)年2月、時の親中派の陸軍大将・松井石根(まついいわね)の発願によって、日中戦争(支那事変)での日中両軍の戦没者を「怨親平等」に、ひとしく弔慰、供養するために建立されたものだという。 「興亜観音」は熱海市から伊東市へ向かう海岸道路ぞいの興亜観音というバス停から、急峻な坂道を上って20分ほどのところ、豊穣な緑の放つ香り高く濃密な空気が支配する場所という。 更に又、昭和35(1960)年8月16日には、愛知県幡豆町の三ヶ根山に「殉国七士墓」が建立せられて盛大に墓前祭が行われた。 そこに埋葬された遺骨は、三文字氏、林逸郎氏等によって発起されたものであり、明らかにこの興亜観音にある骨壷から分骨したものであるという。 碑は、日本の地理的中心地であり、太平洋、そしてその向こうのアメリカに向けられ建っているという。 墓中の魂は、戦後60年の間変わり往く日本の姿をどのように見つめていたのだろうか・・?。 次のことは私観だが・・、 仮に東京裁判を良しとしよう、A級戦犯といわれる諸士の執行を良しとしよう。 しかし事後の処置、処遇に関しては特に、サンフランシスコで講和条約が整った後は、完全に国内の公の問題であろう。 先の戦争で犠牲となった人々を慰霊する中心施設として「靖国神社」がある。 A級戦犯とされる「殉国七士」も同様に祀られているのは周知であるが、現在の日本の姿を思うとき、戦争で犠牲となった人々の上に成り立っている事を忘れてはなるまい。 遺族、関係者の他にも国民及び、国民を代表する現代の人々は、こぞって靖国神社にお参りすべきであり、例祭においては追悼の行為をしなければならないのである。 60年以上経た今日、特定国がA級戦犯だ・・!、靖国参拝だ・・!と非難し問題視しているようだが、それはそれとして、このことは国内の公の事柄である。 日本的原理原則に基ずいて、日本の先導者達は国外的にも、国内的にも毅然とした態度で処理し、決して政治の道具にしてはいけないし、されてもいけない事なのである。 三ヶ根山の頂きに眠る「七士の霊」は、当時の極限状態であった日本を導いた因果について遥かに遠く、眼を海の彼方にやりながら太平洋戦争の真因を探求しているのであろう・・?、 これは現世の日本国人にも必要なことで、併せて、この事は歴史を学ぶことであって、遠い過去のことを同じ民族として糾弾することではないのであろう・・?。 いずれにしても戦争(集団的殺戮の争い)は永遠に避けたいものである。 次は、吉良の「刃傷事件」 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(23)田原 「渡辺崋山」
田原の渡辺崋山は、我が「厚木」にも縁があった。 田原市は2003年8月、田原町と赤羽根町と合併(編入合併)し、新市として成立していて愛知県では32番目の市である。 又、2005年10月には更に渥美郡渥美町(伊良湖)を編入合併する予定らしく、概ね渥美半島の全域は田原市となる。 その田原市の国道259号のど真中、繁華街の一角に道の駅「田原めっくんはうす」があった。 昨夜は遅くこの道の駅で車中泊まりとなり周囲を傍観する余裕は無かったが、今朝、気がつくと駐車場は広く、建物も大きく、すっきりしている。 しかし妙な名前の「めっくんはうす」とは何ぞや・・!、 近くの看板に黄色いハートマークが微笑み、その周りを「芽」のようなものがぐるり取り囲んでいる。 そして説明には『 四方八方に出ている手足は、花の芽、野菜の芽、そして村おこしの芽であり、文化の芽、産業の芽、発展し成長する元気な「街」を表しています。これらの芽を発展させる「家」としてこの名前が付けられました。 』とあった。 明快かつ前向きな「宣言」で、なるほど、めっくんは「芽っくん」だったのである。 それにしても、やはり妙な呼称である。 今は早朝で人影は無いが、都会の中の道の駅としては大きな方で、地元の野菜や果物をはじめ、衣料品まで揃う売店もあり、日中は多くの人で賑わうという。 田原には「渡辺崋山」がいた。 学者として、画家として、また政治家として活躍した渡辺崋山(通称は登:のぼる)は、1793年、江戸の田原藩上屋敷で生まれている。 後に田原藩家老となり、殖産興業につとめ藩政改革を行い、田原藩の繁栄に貢献している。 特に、天保の大飢饉(天保7、8年の大飢饉)には備蓄倉庫内の米穀によって、藩内に一人の餓死流亡者も出なかったことから、幕府は田原藩を優良藩として唯一表彰している。 崋山の指導力による功績であった。 又一方では崋山は、鎖国時代にあって西洋事情を研究し、蘭学者の高野長英、小関三英(こせき さんえい:江戸時代後期のシーボルトの門下生、医者・蘭学者。出羽国の庄内地方・鶴岡出身)、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら:豊後・日田出身、幕末開国のため、日露和親条約や日米修好通商条約に調印、1868年・明治元年に勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞くと割腹自殺)、江川英龍(太郎左衛門:江戸時代後期の幕臣で伊豆・韮山代官、東京湾岸のお台場を作った人物で知られる)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。 特に江川は、崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を行っている。 こうした崋山の姿に藤田東湖(幕末に活躍した水戸藩の政治家、学者、尊王攘夷の先駆者)は「蘭学にての大施主である」と呼んでいる。 崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての呼び名であった。 しかし、幕府守旧派の目付・鳥居耀蔵等により、これらの活動が発覚、糾弾され、幕政批判という名目の蛮社の獄(江戸幕府が洋学者を弾圧した事件)に連座しているとして有罪となり幽閉、国元に蟄居を命ぜられる。 謹慎中の崋山の窮乏を助けるため、弟子たちが江戸で開いた画会が、蟄居中不謹慎とうわさされ、藩主に累(るい)が及ぶのを恐れた彼は、天保12(1841)年に自害している。 渡辺崋山は、国家のために殉じた一人であった。 画家、文化人でもあった渡辺崋山は、江戸末期当時、経済の要衝で「小江戸」といわれるほど繁栄していた、わが町・厚木(神奈川県厚木市・小生在住の地)を物見視察している。 崋山はこの時の紀行文「游相日記」に『 厚木の盛なる、都とことならず。 家のつくりしさまは江戸にかわれど、女・男の風俗かわる事なし 』・・、と書き、厚木の豪商や大山街道の繁栄ぶりを描いてる。 同時に厚木の風景画・「厚木六勝」の絵を残している。 崋山の画業は、困窮した生活をしのぐために生来好きだった絵を学び、武士の身分であって画会をも開いたという奇才の持ち主であった。 藩重役の家に生まれたものの当時の田原藩は財政難を極めて、俸禄はわずかしか支払われず、加えて父が病気がちであった為に幼少期は貧困の中を送っている。 弟や妹は次々に奉公に出され、この悲劇が後の彼に勉学を習わせ、社会に貢献する姿とあわせて、戦前の「修身教科書」に偉人として掲載されていた。 因みに、当時の修身教科書は、勇気、堪忍、公益、衛生、度量、博愛、自信、清廉などの多くの徳目とともに勝海舟、野口英世、二宮尊徳、渋沢栄一、山田長政等の偉人達が掲載されている。 昨今の「教育」でよく言われることは、父母や先生を敬い、友人を大切に学業を修め、知育徳育を成就する社会性、公益性、しいては国家国民の繁栄を教えようとする意思、熱意に欠けるといわれる。 つまり、修身的教科を等閑(とうかん:物事をいい加減にすること、意を用いないこと、なおざり、おろそか)にしているようであると。 尤も、これには戦後アメリカが進駐した際に推進した「修身、日本歴史及び地理学停止に関する件」というお題目で、修身教科書を回収し、道徳教育を停止させ、本来日本人にあった倫理意識を破壊させることを目的としていたのであった。 この占領軍の政策に日本の左翼思想家(主に労組、日教組など・・)が呼応便乗し、戦後教育が行はれていったのであった。 その結果が今の日本社会、国内現象での家庭、学級崩壊や子供の暴力や凶悪犯罪の蔓延等、社会規範や道義の退廃につながり、実に目を覆うばかりであるとの論評が多い。せれている。 果たして納得する部分もある。 戦後60年、真の教育の再来を期すばかりである・・!!。 田原の街並は、田原城跡や市立博物館などの時代的景観を残して実にいい。 崋山の自刃の地、墓所、崋山会館等、渡辺崋山の痕跡が町内の各所に残る。 次は、蒲郡・「三ヶ根山」 .
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日本周遊紀行(22)渥美 「伊良湖岬」
珍しく海辺に立つ「伊良湖岬灯台」 渥美半島の突端を目指して一路、西方へ向かって行く。 渥美町の和地あたりから見通しの良い海岸沿いの道になる。 遥か山上に白亜の建物がが在り、伊良湖ビューホテルと麓の案内にあった。 ここを過ぎると美しい砂浜が続く。 「恋路が浜」といって「日本の渚百選」の他、「道百選」、「音百選」、「白砂青松百選」と色々な名が付く名所である。ここまで来ると渥美半島突端の岬は近い様だ。 広いスペースの駐車場があるが夕刻でもあり人影もまばらであった。 岬の先端はこれより更に徒歩で向かうようだ、舗装されたゆっくりした登りの歩道を行き、今度は急な階段を下るとよく整備された波打ち際の遊歩道に出た、ここに白亜の灯台があった。 通常、灯台は岬の高所高台に存するが、伊良湖灯台は岬先端の海上にあり珍しいケースであろう。 これには一寸した訳があったようだ・・?。 伊良湖の海峡は伊勢湾、三河湾の広大な海域の激しい潮の出入のある処である。 この海域は日本三大潮流と言われる伊良湖水道(三重県鳥羽市-愛知県渥美町)であり、他に大畠瀬戸(山口県柳井市)、早崎瀬戸(長崎県口之津町)といわれる。 又、日本三海門の一つとも言われ、(伊良湖水道、阿波の鳴門、音戸の瀬戸)昔は『 安房の鳴門か、音頭の瀬戸か、伊良湖度合いが恐ろしや 』と船頭衆の歌にも唄われている。 この海域の伊良湖岬と対して鳥羽市の神島(海峡中央部にある島)の間にある伊良湖水道がある。 水道中央部には海上交通安全法で定められた伊良湖水道航路があり幅約1,200メートル、長さ約3,900メートルの狭い航路が指定されている。 名古屋、四日市、三河方面の大型船舶が1日100隻以上通行し、小型船舶が多数往来していて海運事故が発生し易いところである。 こんな訳でここの岬の灯台の役目は大きい。 その為、少しでも近く、海上にあるほうが良いのであろう。 灯台とは逆に、岬の高台には管制塔とともに白亜の立派な建物が立つ。 「伊勢湾海上交通センター」で、伊良湖水道航路における船舶航行の安全を図るため、海上交通情報の提供と航行管制の業務を行っているという。 こうして眺めていても、海上には大型船が多数行き来しているのが判る。 灯台の遊歩道から海岸の波打ち際に沿って、元の場所へ戻る。 「恋路が浜」の長い海岸線と遠く高台に在るホテルの風景が一服の絵のように美しい。 民俗学者の柳田 国男氏がここに遊び、拾った椰子の実の話を島崎藤村にしたところ、藤村がその風景を想像して創ったのが「椰子の実」の詩とされている。 『椰子の実』 詞 島崎藤村 曲 大中寅二 名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷)の岸を 離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月 旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる 枝はなお 影をやなせる われもまた 渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ 思いやる 八重の汐々(しおじお) いずれの日にか 国に帰らん 伊良湖フェリーターミナルは夕刻も迫り、最後の航海も終えたのだろう、今は静まりかえっている。 桟橋付近は日没真近の夕陽が美しい。 時間的にかなり遅くなったが、生活感の余り感じられない伊良湖を後にする。 R259通称「田原街道」を行く。 市街へ着いた頃はすっかり闇に包まれていた。 賑やかな街の一角に、奇妙な名前の道の駅「田原めっくんはうす」があり、今夜はここで車中の人となる。 次回は田原・「渡辺崋山」 【小生の主な旅のリンク集】
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