『日本周遊紀行』

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刃傷事件の吉良家、地元では・・?

13世紀の頃、吉良の荘は足利氏の支族・名門吉良家が領していた。 
江戸時代初期には著名な領主に旗本・吉良上野介義央(きら-こうずけのすけ-よしなか)がいた。 高家筆頭4200石、万石未満の旗本ながらも官位は従四位上(浅野内匠頭は従五位下)・。 この氏が江戸元禄期、江戸城内における公式の儀式、場所である殿中・松之廊下において播州赤穂藩五万石の藩主浅野内匠頭に斬りつけられる・・、という刃傷事件が起きる。
その要因、原因は多々取りざたされているが、いずれにしても将軍綱吉は即刻、藩主・内匠頭に即日切腹、播州赤穂藩には、お家断絶を申し付けた。これより浅野家の赤穂藩は消え、藩士はすべて浪士になったのである・・。 
刃傷事件から1年9ヶ月後、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が江戸松坂町の吉良邸に乱入し、激闘の末、吉良上野介義央の首級を挙げ、泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓前に供えた。
「忠臣蔵」のお蔭で、赤穂四十七士の忠義が300年にわたって称賛されている一方で、吉良氏は「日本一悪いヤツ」にされ、その名は黒い影に覆われてしまった、日差しが強ければ強いほど影は濃くなるように・・。

しかし、地元・吉良町では吉良上野介は新田開発や産業の振興などに尽くした名君として長く慕われており、その後、赤穂浪士ゆかりの赤穂市とは長く遺恨の関係にあると言われてきた・・が。 しかし1990年以降、双方の話し合いによって理解し合い、交流が始まっている。 今では忠臣蔵イベントやスポーツなどを通して活発な交流が行われるようになっているという。
因みに、遺恨の事で・・、幕末、戊辰の役で長州軍(官軍)と会津軍とが、会津城下で最後の凄惨な戦闘が起こり、会津軍は降伏する・・。 その後、戦後処理において、その処置の仕方や会津藩全藩の国替え(不毛の地、陸奥国津軽斗南地方、事実上の全藩の遠島処分)に伴って、会津藩士は過酷な苦渋を強いられる。 この遺恨は末代まで引き継がれ、今日になっても会津若松市と山口県萩市は話し合いは持たれるものの、未だ遺恨の関係が続いている・・といわれる。

「一色町」の鰻・うなぎは日本一・・?、
国道247は、吉良町から矢作古川の松大橋を渡ると一色町に至る。
吉良町辺りから沿岸部は見通しの良い平坦地が続く、矢作川の沖積平野で、所謂、デルタ地帯である。
矢作川(やはぎがわ)は、中央アルプスを水源とする一級河川の清流で、清流魚である天然アユの豊漁の地としても知られる。矢作古川は元の本流であり、江戸から明治期、氾濫を抑えるため新たに開いた水路が、はるか西の方、碧南市と西尾市を流れる(明治水路)。
岡崎市街の旧東海道に架かる矢作橋は日吉丸(後の豊臣秀吉)が野武士の棟梁である小六(蜂須賀子六正勝)と出合った場所として知られているが・・。この話は創話と承知であろうが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に両人の「出合之像」というのがあるらしい。 蜂須賀子六は藤吉郎と共に信長に遣え、後に秀吉が西国を治めると同時に、蜂須賀子六正勝として阿波・徳島の一国を授かっている・・。

一色町は、この矢作川のデルタ地帯の一角にある小さな町域である・・。 
この小さな町域に「日本一」と称する品目が数種類あるという。中でも秀たる物に「鰻の生産高が日本一」だそうだ。 現在、ウナギを養殖生産しているのは、静岡県(浜名湖産)、鹿児島県と愛知県が圧倒的に多く、全国の63%を占めている。 愛知県は、昭和58年に静岡県を抜いてから平成9年まで14年連続首位を守ってきたが、昨年、鹿児島県に一位の座を占められる。 愛知県の生産量は全国の31%を占め、うち一色町の生産量は県内生産量の75%で、全国では23%を占めているという。 単町では一色町が15年連続で「日本一のウナギ天国」を誇っているのである。
矢作古川と国道南側一帯には広大な水面が広がっている。これが鰻の生簀(いけす)で、矢作川の肥沃な表流水を水源としている。そのため井戸水を使用している他市町村の「うなぎ」に対し、限りなく天然に近い栄養豊富な、美味しいうなぎが養殖できるようになったのだという。

矢作川本流の矢作川大橋を渡り碧南市へ入った。
渥美半島と知多半島に囲まれた三河湾は、いわばカニのハサミにあたり、湾岸部はその口に相当する、つまり天然の良港なのである。 碧南の大浜地区は背後に尾張地方を望み、その地形から古く南北朝・室町時代頃から大浜湊として千石船が出入する湊町として栄えたところである。そのためか大浜地区は、今でも神社仏閣や古き良き建築物が多く点在する。 最近ではこの景観地区を国の施策に則って、「歩いて暮らせる街づくり」というモデルプロジェクトを選定し、人と自然が調和した新しい町並み造りに励んでいるという。

衣浦港の衣浦トンネルは、碧南と半田地区の埠頭を結ぶ延長1.7kmの海底トンネルで、港湾都市・半田市の象徴でもあろう。衣浦港の一角に昔ながらの半田運河(十ヶ川)があり黒塀や「蔵」が情緒を醸しだしている。ここは醸造業(酒、酢)に代表され、今でも現役で活躍しているという。 
衣浦港を潜る衣浦トンネルを出ると半田市街へ向かう県道265号となるが、小生は師崎方面(知多半島先端)と標識のある道へ左折、2車線の高架道路で工場地帯を抜けていく。 高架道路は途中までで、道なりに走っていると十字路に出て再び国道247に合流した・。 知多半島には中央部に南知多道路という有料道路が走るが、もちろん小生は沿岸の一般国道247号を行く。
三河湾は渥美半島と知多半島に囲まれた、言わば蟹のハサミに似ていて港湾部はその口元に当たろうか・・?、ハサミの付根に当たる東西部には臨海工業地があり、東部の豊橋地区は国内でもトヨタ自動車を中心とした、最大規模の自動車製品及び部品の輸出入拠点となっているが、こちら西部地区は、衣浦港を中心に鉄鋼、輸送機械工場や発電所が集まる工業地である。又、中央部の浦郡、幡豆町は温泉や観光施設が特色を出しているようである。 知多半島の武豊町辺りから先は、静かな海辺と漁港が連続して、気持ちをホッとさせる地域である。 特にこの辺りはアサリの潮干狩りが盛んのようで、それらの案内板が多く目に付く。 美和町の河和から南知多町の先端「羽豆岬」は向かう・・。

次回は知多の「羽豆岬」・・、



 

道路向かい側のコンビニ・ローソンで早い朝食を済ませ、田原を後にする。
市内を抜けて県道2号から三河湾大橋を渡っての豊橋へ、元有料道路だけあってさすがに立派な橋である、記念に写真を一枚。次に豊橋の湾岸線R23を行く、バイパスだけにかなり快適に走れる。
三河湾の周辺地はトヨタ自動車田原事業所をはじめ自動車産業が盛んで、豊橋港湾を中心とした施設は日本第一位の自動車貿易港でもある。  
「蒲郡」は、豊橋の港湾都市に比して、海辺の観光都市と言えるであろう。海岸沿いに四っつの温泉が湧き、蒲郡には海辺の五館という水族館、海の科学館や博物館が並び、蒲郡のシンボルともいえる「竹島」が浮かぶ。 竹島は長さ387メートルの橋で陸地と結ばれ、島全体が国の天然記念物に指定されている、4月上旬から6月下旬には海岸で潮干狩も楽しめる。
海道より比較的近場の三谷温泉に行ってみたが、立寄り温泉らしいものは無く、宿屋の方も午前の早い時間帯というせいもあって、今は静まりかえっている。 
次に、東を渥美半島、西を知多半島に囲まれた三河湾に喉仏の様に突き出た西浦半島に広がる西浦温泉を訪ねた。 岬の先端にある浜辺の温泉で、古くから風光明媚な場所として知られる。 30数年も前、小生の新婚旅行に訪れた温泉地でもある。今では海岸線からの斜面に沿って設備の充実した大型旅館やホテルが林立し、「東海の熱海」とも形容される近代的な温泉になっている。 岬の高台から眺める三河湾の360度のパノラマ展望も見事であるが、400メートルほど続く砂浜は波穏やかで、夏は海水浴客で賑わい、又、穏やかな海に小島が浮かぶ情景から、赤に染まる夕日を眺める湯浴み、翌朝は昇る朝日が目覚めを迎えてくれるという。
西浦温泉は・・、泉質はアルカリ性単純泉、単純緑バン泉など・・、効能はリウマチ、神経痛、皮膚病、婦人病、冷え性、疲労回復、美肌など。

三ヶ根山 (さんがねさん) は三河湾の展望台で、近年まではロープウェイや回転展望台が有り、我らも楽しんだ記憶がある。当時は相当に賑わっていたようだが、近年では三ヶ根山スカイラインの開通や観光客の減少に伴って、その役目を終えたようである。
山頂付近には殉国七士墓(極東軍事裁判で絞首刑となった、東条英機ら七人の霊をまつった墓)がある。敗戦のやむなきに至った日本の行為を、米中英ソ等の戦勝国が東京裁判で裁き、票決により昭和23年12月東條英機、広田弘毅、板垣征四郎等、いわゆるA級戦犯(A級・・??、 A、B、Cの区分のこと)とされる氏たちの絞首刑を執行した。
A級戦犯のA,B,Cとは重さ、軽さのランク付けではなく、GHQ(連合国總司令部)が戦犯選定のさいに用いた犯罪の内容・種別を示している。 Aは戦略戦争を遂行した「平和に対する罪」、Bは戦争法規・慣例にした「通常の戦争犯罪」、Cは民間人に対する迫害や殲滅(せんめつ)を実行した「人道に対する罪」だが明確な法的根拠は無く、「A級戦犯」は呼称・通称にすぎないという。
東京裁判(極東国際軍事裁判)では26人が「A級戦犯」として起訴され、7人が処刑された。その後、いわゆる靖国神社には東京裁判での終結、未決で死亡した14人が祭られている。そして処刑された7人がこの三ヶ根山の頂きの眠っているのである・・。

処刑後の昭和23(1948)年12月23日、米軍による久保山火葬場(横浜市保土ヶ谷区)で米軍によって火葬にふされた。この時、遺骨は米軍の手にあり、処刑された後、殉死した7人が英雄にまつりあげられるのを恐れた連合国は、遺骨を持ち出すことすら禁止し、飛行機で空中に遺骨を撒き散らす予定であった様である。
これを知った日本人の係官は幸いクリスマスの時期であったため、監視の目をくぐりぬけて遺骨を密かに持ち出したという。七士の間違いの無い遺骨が、日本人の手に入ることができたのである。そして火葬場のすぐ隣の禅宗の興禅寺に仮埋葬した。
久保山火葬場は無論、米軍占領下にあり、厳重な警戒網を突破して懐中電灯を点滅しつつ竹竿の先に缶等をつけ苦心惨憺、息を殺しつつ、とうとう全部を収めたという。だが、興禅寺にいつまでも隠匿しておく訳にはいかず、いつ発覚して持ち去られ、いかなる処罰にあうか知れない。 そこで東京裁判の弁護士を勤めた三文字氏や林逸郎氏等の人々や七士の遺族の人々が極秘のうちに相談した結果、遺骨を熱海の松井家に一端移す事になった。 その後、三文字氏等が「興亜観音」を訪れ「知り合いの、ある人の遺骨ですが、時期の来るまで、誰にも分からぬ様に、秘蔵して置いて貰いたい」と依頼した。
この間、関係人は大変な苦労があったようだが・・、昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコで講和条約が整い、以後は、米軍の日本取締りは非常に緩められた。 そして、それ以降は七士の遺骨の持ち出しの秘話や、またその遺骨が興亜観音の境内に埋蔵されている事なども、新聞等にぽちぽち報道されるようになり、興亜観音に七士の遺骨を弔う人も多くなったという。
興亜観音にある「七士之碑」は、昭和34(1959)年4月19日に建立されたもので、碑の文字は元総理・吉田茂氏の筆によるものである。 観音像は、昭和15(1940)年2月、時の親中派の陸軍大将・松井石根(まついいわね)の発願によって、日中戦争(支那事変)での日中両軍の戦没者を「怨親平等」に、ひとしく弔慰、供養するために建立されたものだという。
「興亜観音」は熱海市から伊東市へ向かう海岸道路ぞいの興亜観音というバス停から、急峻な坂道を上って20分ほどのところ、豊穣な緑の放つ香り高く濃密な空気が支配する場所という。更に又、昭和35(1960)年8月16日には、愛知県幡豆町の三ヶ根山に「殉国七士墓」が建立せられて盛大に墓前祭が行われた。 そこに埋葬された遺骨は、明らかにこの興亜観音にある骨壷から香盒(こうごう)1ヶ分ほどを分骨したものであり、三文字氏、林逸郎氏等の発起されたものであるという。碑は、太平洋そしてその向こうのアメリカに向けられ建っている。墓中の魂は、戦後60年の間変わり往く日本の姿をどのように見つめていたのだろうか・・?。

次のことは私観だが、仮に・・、仮にである・・、
東京裁判を良しとしよう、A級戦犯といわれる諸士の執行を良しとしよう。
しかし事後の処置、処遇に関しては特に、サンフランシスコで講和条約が整った後は、完全に国内の公の問題であろう。 
先の戦争で犠牲となった人々を慰霊する中心施設として「靖国神社」があった。A級戦犯とされる「殉国七士」も祀られているのは周知であるが、現在の日本の姿を思うとき、戦争で犠牲となった人々の上に成り立っている事を忘れてはなるまい。遺族、関係者の他にも国民及び、国民を代表する現代の人々は、こぞって靖国神社にお参りすべきであり、例祭においては追悼の行為をしなければならないのである。
60年経た今日、中国や韓国がA級戦犯だ・・!靖国参拝だ・・!と問題視しているようだが、それはそれとして、このことは国内の公の事柄である。 日本的原理原則に基ずいて、日本は国外的にも、国内的にも毅然とした態度で処理し、決して政治の道具にしてはいけないし、されてもいけない事である。
三ヶ根山の頂きに眠る「七士の霊」は、当時の極限状態であった日本を導いた因果について遥かに遠く、眼を海の彼方にやりながら太平洋戦争の真因を探求しているのであろう・・?、これは現世の日本国人にも必要なことで、併せて、この事は歴史を学ぶことであって、遠い過去のことを同じ民族として糾弾することではないのであろう・・?。
戦争(集団的殺戮の争い)は永遠に避けたいものである・・。

次は吉良の刃傷事件と・・、

田原の渡辺崋山は、我が厚木にも縁があった・・、

田原市は2003年8月、田原町と赤羽根町と合併(編入合併)し、新市として成立していて愛知県では32番目の市である。 又、2005年10月には更に渥美郡渥美町(伊良湖)を編入合併する予定らしく、概ね渥美半島の全域は田原市となる。
その田原市の国道259号のど真中、繁華街の一角に道の駅「めっくんはうす」がある。
昨夜は遅く周囲を傍観する余裕も無かったが、今朝気がつくと駐車場は広く、建物も大きく、すっきりしている。 しかし妙な名前の「めっくんはうす」とは何ぞや・・!、
近くの看板に黄色いハートマークが微笑み、その周りを「芽」のようなものがぐるり取り囲んでいる。 そして説明には『四方八方に出ている手足は、花の芽、野菜の芽、そして村おこしの芽であり、文化の芽、産業の芽、発展し成長する元気な「街」を表しています。これらの芽を発展させる「家」としてこの名前が付けられました。』明快かつ前向きな「宣言」で、なるほど、めっくんは「芽っくん」だったのである。 それにしても、やはり妙な呼称である・・。
今は早朝で人影は無いが、都会の中の道の駅としては大きな方で、地元の野菜や果物をはじめ、衣料品まで揃う売店もあり、日中は多くの人で賑わうという・・。

田原には渡辺崋山がいた・・。
学者として、画家として、また政治家として活躍した渡辺崋山(通称は登:のぼる)は、1793年、江戸の田原藩上屋敷で生まれている。後に田原藩家老となり、殖産興業につとめ藩政改革を行い、田原藩の繁栄に貢献している。 
特に、天保の大飢饉(天保7、8年の大飢饉)には備蓄倉庫内の米穀によって、藩内に一人の餓死流亡者も出なかったことから、幕府は田原藩を優良藩として唯一表彰している。崋山の指導力による功績であった。
又一方では崋山は、鎖国時代にあって西洋事情を研究し、蘭学者の高野長英、小関三英(こせき さんえい:江戸時代後期のシーボルトの門下生、医者・蘭学者。出羽国の庄内地方・鶴岡出身)、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら:豊後・日田出身、幕末開国のため、日露和親条約や日米修好通商条約に調印、1868年・明治元年に勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞くと割腹自殺)、江川英龍(太郎左衛門:江戸時代後期の幕臣で伊豆・韮山代官、東京湾岸のお台場を作った人物で知られる)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。 特に江川は、崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を行っている。
こうした崋山の姿に藤田東湖(幕末に活躍した水戸藩の政治家、学者、尊王攘夷の先駆者)は「蘭学にての大施主である」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての呼び名であった。
しかし、幕府守旧派の目付・鳥居耀蔵等により、これらの活動が発覚、糾弾され、幕政批判という名目の蛮社の獄(江戸幕府が洋学者を弾圧した事件)に連座しているとして有罪となり幽閉、国元に蟄居を命ぜられる。
謹慎中の崋山の窮乏を助けるため、弟子たちが江戸で開いた画会が、蟄居中不謹慎とうわさされ、藩主に累(るい)が及ぶのを恐れた彼は、天保12(1841)年に自害している。
渡辺崋山は、国家のために殉じた一人であった・・。

画家、文化人でもあった渡辺崋山は、江戸末期当時、経済の要衝で「小江戸」といわれるほど繁栄していた、わが町・厚木(神奈川県厚木市・小生在住の地)を物見視察している。
崋山はこの時の紀行文「游相日記」に『厚木の盛なる、都とことならず。 家のつくりしさまは江戸にかわれど、女・男の風俗かわる事なし』・・、と書き、厚木の豪商や大山街道の繁栄ぶりを描いてる。 同時に厚木の風景画・「厚木六勝」の絵を残している。 

崋山の画業は困窮した生活をしのぐために、生来好きだった絵を学び、武士の身分であって画会をも開いたという奇才の持ち主であった。 藩重役の家に生まれたものの当時の田原藩は財政難を極めて、俸禄はわずかしか支払われず、加えて父が病気がちであった為に幼少期は貧困の中を送っている。 弟や妹は次々に奉公に出され、この悲劇が後の彼に勉学を習わせ、社会に貢献する姿とあわせて、戦前の「修身教科書」に偉人として掲載されていた・・。因みに、当時の修身教科書は、勇気、堪忍、公益、衛生、度量、博愛、自信、清廉などの多くの徳目とともに勝海舟、野口英世、二宮尊徳、渋沢栄一、山田長政等の偉人達が掲載されている。

昨今の「教育」でよく言われることは・・、父母や先生を敬い、友人を大切に学業を修め、知育徳育を成就する社会性、公益性、しいては国家国民の繁栄を教えようとする意思、熱意に欠けると・・。 つまり、修身的教科を等閑(とうかん:物事をいい加減にすること、意を用いないこと、なおざり、おろそか)にしているようであると・・。
尤も、これには戦後アメリカが進駐した際に推進した「修身、日本歴史及び地理学停止に関する件」というお題目で、修身教科書を回収し、道徳教育を停止させ、本来日本人にあった倫理意識を破壊させることを目的としていたのであった。 この占領軍の政策に日本の左翼思想家(主に労組、日教組など・・)が呼応便乗し、戦後教育が行はれていったのであった。その結果が今の日本社会、国内現象での家庭、学級崩壊、こどもの暴力や凶悪犯罪の蔓延等、社会規範や道義の退廃につながり、実に目を覆うばかりである・・、と論評せれているが・・果たして納得する部分もある。戦後60年、真の教育の再来を期すばかりである・・!!。
田原城跡や市立博物館あたりの街並は、時代的景観を残し実にいい。崋山の自刃の地、墓所、崋山会館等、渡辺崋山の痕跡が田原市町内の各所に残る。

次は蒲郡・「三ヶ根山」

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          珍しく海辺に立つ「伊良湖岬灯台」


渥美町の和地あたりから見通しの良い海岸沿いの道になる・・。遥か山上に白亜の建物がが在り、伊良湖ビューホテルと麓の案内にあった。ここを過ぎると美しい砂浜が続く、「恋路が浜」といって「日本の渚百選」の他、「道百選」、「音百選」、「白砂青松百選」と色々な名が付く名所である。ここまで来ると渥美半島突端の岬は近い様だ・・。広いスペースの駐車場があるが夕刻でもあり人影もまばらであった。岬の先端はこれより更に徒歩で向かうようだ、舗装されたゆっくりした登りの歩道を行き、今度は急な階段を下るとよく整備された波打ち際の遊歩道に出た、ここに白亜の灯台があった。

通常、灯台は岬の高所高台に存するが、伊良湖灯台は岬先端の海上にあり珍しいケースであろう、これには一寸した訳があったようだ・・?。
伊良湖の海峡は伊勢湾、三河湾の広大な海域の激しい潮の出入のある処である、この海域は日本三大潮流と言われる伊良湖水道(三重県鳥羽市-愛知県渥美町)、大畠瀬戸(山口県柳井市)、早崎瀬戸(長崎県口之津町)。又、日本三海門と言われる伊良湖水道、阿波の鳴門、音戸の瀬戸とも言われ、昔は『安房の鳴門か、音頭の瀬戸か、伊良湖度合いが恐ろしや』と船頭衆の歌にも唄われている。
この海域の伊良湖岬と対して鳥羽市の神島(海峡中央部にある島)の間にある伊良湖水道がある。水道中央部には海上交通安全法で定められた伊良湖水道航路があり幅約1,200メートル、長さ約3,900メートルの狭い航路が指定されている。 名古屋、四日市、三河方面の大型船舶が1日100隻以上通行し、小型船舶が多数往来していて海運事故が発生し易いところである。
こんな訳でここの岬の灯台の役目は大きい、その為、少しでも近く、しかも海上にあるほうが良いのである。岬の高台には立派な「伊勢湾海上交通センター」もあって、伊良湖水道航路における船舶航行の安全を図るため、海上交通情報の提供と航行管制の業務を行っている。こうして眺めていても、大型船が多数行き来しているのが判る。 

灯台の遊歩道から海岸の波打ち際に沿って、元の場所へ戻る・・。
「恋路が浜」の長い海岸線と遠く高台に在るホテルの風景が一服の絵のように美しい。
民俗学者の柳田 国男氏がここに遊び、拾った椰子の実の話を島崎藤村にしたところ、藤村がその風景を想像して創ったのが「椰子の実の詩」とされている。
 
『椰子の実』 詞 島崎藤村  曲 大中寅二 
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん

伊良湖フェリーターミナルは夕刻も迫り、最後の公開も終えたのだろう・・、今は静まりかえっている。桟橋付近は日没真近の夕陽が美しい・・。
時間的にかなり遅くなったが、生活感の余り感じられない伊良湖を後にする・・。R259通称「田原街道」を行く、市街へ着いた頃はすっかり闇に包まれていた。賑やかな街の一角に、奇妙な名前の道の駅「田原めっくんはうす」があり、今夜はここで車中の人となる・・。 オヤスミナサイ・・!!

次回は田原と渡辺崋山

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