『日本周遊紀行』

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三重県

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日本周遊紀行(40)熊野 「花の窟神社」  ,




巌魁が御神体の「花の窟神社」



伊弉冊尊(イザナミノミコト)の御陵とされている「花の窟」 ,

獅子岩から1kmほどの先の右手に巨岩が林の間から見え隠れしている。 
こちらが「花の窟」と言われる、その名も「花の窟神社」(はなのいわや)である。

この巨岩塊が花の窟神社の御神体であり、高さ70mに及ぶ岩壁が聳えている。
小さな鳥居の脇には、似合わぬ程の大きな石柱に「日本最古 花の窟神社」と記されていて、その奥には社のような建物のようだが、実は社殿では無くチョット似合わぬが神門のようなものであろう。

この神社は、本来の社殿がなく拝殿のみであり、まさに「自然崇拝、自然神信仰」の神社なのである。 地元の人々はこの神社に日本中の八百神(ヤオヨロズノカミ)が、遊びに来られると信じているようである。

主祭神は日本創生の神・「イザナミの命」であるが、ここは、イザナミの墓がある場所ともされている。 
全国に、イザナミ神を祭る神社は幾多もあるが、「御稜」(尊い方の墓地)として存在している場所は唯一ここだけといわれ、この岩盤の向こうは、黄泉の国へ通じる場所とも云い伝えられている。
実際には、縄文期頃の古くからの漁民の葬送地、祭祀の遺跡ともいわれ、花の窟の名称は太古から花をもって祀る土俗・風習があったからと言われる。

花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火の神・加具土命(カグツチノミコト)を産み、この地で亡くなったとされ、後に葬られた御陵であるといわれる。
この花の窟には無数の洞窟があり、又、巌の表面には窪みが数箇所ある。 
これらは死者の霊が一旦とどまる場所、他界への入り口という信仰があって、昔は近辺に水葬の伝承もあることから、水葬の基点として神聖視されたとの説もある。

又、岩の窪みが女陰の形に想定されることから母神である伊弉冊尊を祀り信仰していたとする説もあり、 至近の新宮市に鎮座する神倉神社の御神体である「ゴトビキ岩」を陽石(父神)として、花の窟と対をなすとの見方もあるようだ。

神社は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続き、信仰は厚いという。

境内の案内板に・・、

『 神代の昔より花を供えて祭るので花の窟という。 窟の頂上より掛け渡すお綱は神と人をつなぎ神の恵みを授けてくださるお綱なり 』

と記されている。

「日本書紀」に記されている事が今に引き継がれ、2月2日と10月2日には神々に舞を奉納し、地元・有馬の氏子や人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。 

綱は藁縄7本を束ねて花をつけた3つの縄旗で、日本一長いといわれる約170メートルの大綱を岩窟上45メートル程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木に渡すという。
この神事は太古の昔から行われていて、「三重県無形文化財指定」されている。 


花の岩屋」の石碑は、紀州藩・徳川宗直(ムネタダ)が1723(享保8)年に寄進したものと言われ、国学者・本居宣長も

『 木の国や 花のいは屋に 引く縄の 長くたえせる 里の神わさ 』

の歌を詠んでいる。



又、この地は熊野三山参詣の本宮社と速玉社(新宮社)の分岐点に当たり、いわゆる熊野古道として残されている。 
伊勢道より遥々やって来た参詣人達は、先ずここ「花の窟」をお参りして、其々、本宮大社、又は、速玉大社(新宮大社)に向かうのである。




さて、次に向かおう・・

沿岸地域に迫る重畳たる紀の国、木の国、鬼の国の山塊も、鬼ヶ城、獅子岩あたりで終わりをつげ、今度は対照的に明るく開けた、そして、ほぼ直線で平坦な熊野灘の海岸を行くことになる。 
実に開放感たっぷりで気分も爽快である。 
すぐ右手に紀勢本線のローカル列車がのんびりと走っている。 左は防風林と思しき青松群が平行していて、時折、紺碧の海原がキラリと光らせている。

ここは御浜町(みはま)の「七里御浜・ひちりみはま」で、町名が先か地名が先かは定かでないが、この浜は特徴ある浜様を呈しているようである。
道の駅「パーク七里御浜」もあったが、その向い側の浜辺の休憩所・阿田和PAに車を止めて海辺をのぞいて見た。 

遥かなる水平線の青松と白砂の海岸(・・?)が延々と続いている。 
浪打際をよく見ると、白砂と違って玉砂利が敷きつめられた砂礫の海岸であった。 
これが、ゆるやかに円弧を描きながら延々と続いている。そんな風景を見るだけで、気分が晴れ、大らかになれるが気分がする。

気が付くと、小波が打ち寄せるときもそうだが、返す波の時に小石の転がる音が、「シャラシャラ」と何とも心地良い音がよく響いてくるのである。 
これらの玉砂利は「御浜小石」と呼ばれ、黒色や青色、オレンジ色などカラフルで、色の模様や形も多彩なためアクセサリーとしても人気を呼んでいという。 
そういえばこの地方は碁盤の黒の碁石である「那智黒石」の産地でもあった。 

半島を流れる急流河川の熊野川が途中で岩盤や地質帯を渓谷が削り、砂礫となって御影石やカラフルな縞模様の石などになる。 玉砂利の海浜では日本一長いとも言われる。
序でながら、この玉砂利は素足で歩くと健康に良いといい、昨今の健康ブームでこの浜を素足で歩く人が増えているという。



「花の窟」付近からは熊野本宮へ到る道が今のR311号線として分岐している。 
神木から阪本の間には横垣峠道、そして風伝トンネル付近は風伝峠道と、いずれも古来の熊野古道の雰囲気が残っているという。 

尚、R311は熊野川・瀞峡、本宮社から大峯山、吉野山と龍神から高野山と近畿主要地を縦断する東側の入口にも当たる。 又、本宮社より熊野街道・中辺路を経て、西海岸の田辺に至る。 


紀勢本線の「鵜殿」の駅前を過ぎ町内を通り越すと、視界を左右に振る程の広大な川幅を有する熊野川が、水の動きもユッタリとして流れ動いている。 
川岸を走って熊野大橋にかかる頃には、向う岸にこんもりした森が見渡せる。
既に新宮市であり森は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」である。

地域は既に「紀州・和歌山県」に入っていた。


熊野三山は、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(はやたまたいしゃ)、熊野那智大社(なちたいしゃ)の三つの神社の総称で、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

尚、世界遺産に関した「熊野三山」界隈は別項・に記載してあります

世界遺産: 『日本の世界遺産』
 http://orimasa2005.web.fc2.com/
世界遺産:『紀伊山地の霊場と参詣道』
http://orimasa2005.web.fc2.com/nk-1.htm


次回は新宮・「神倉神社



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日本周遊紀行(40)熊野 「熊野地方」  ,



熊野市と熊野地方

地域は既に熊野、正しくは「熊野市」に入っていた。
熊野というと、普通、熊野地方のことで紀州・和歌山の地域と錯覚しそうであるが、熊野市はれっきとした三重県である。
三重県は通常は名古屋圏、中京地区で東海地方(東海三県:愛知、三重、岐阜)とも言われるが、こと熊野市に到っては県の最南部、紀伊半島に深く入り込んで和歌山県と接している。 
従って、市は歴史、風俗、習慣とも紀州圏・熊野地方の属していると見るべきだろう。

尤もで、市の中心市街地は古くから木本地区で、この地は奥熊野代官所が置かれ、熊野地方一帯の行政の中心であった。 
それゆえ明治の廃藩置県で三重県に編入された時には支庁がおかれ、現在も三重県の熊野地方を管轄する官公庁が多く存在するのである。



クマノ(熊野)とは一体如何なる意味をもつのか・・?、

一般に「熊野」とは、熊野三山が鎮座する所謂、熊野地方をいうが、嘗ての紀伊国・
さて、「熊野」という地名が何を意味しているのか、語源としては定かでないが、「クマ」、「カミ」で「神のいます所」や「クマ」は「こもる」で「神が隠る所」の意、又、「クマ」は「こもる」で「死者の霊魂が隠る所」の意、と諸説はある。

いずれにしても「熊野」とは開けた明るいイメージはなく、木々が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地という意味合いが強い。 
実際、熊野3600峰といわれ、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の厳しい所が多く、人が農耕をして暮らすにも不便な場所であった。
飛鳥以前には、それこそ熊野は「神のいます所」、「神が隠る所」で神域であった。


熊野の地名が初めて登場する文献「日本書紀」では、熊野は伊邪那美神(イザナミ)の葬られた土地として登場する。 その墓所は市街隣地「花の窟」というところであった。(次回詳細)

奈良期になって仏教が倭国に入ってきても大和地方の都人から見たら、熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、大和とはまるで違う異界として意識されていた。 
従って、人々は熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、この事が高じて後に死者の国である「浄土」と結びつけられ、浄土信仰が盛んになったとされている。

後の神仏習合という新しい思想では、熊野三山である「本宮」は阿弥陀如来の西方極楽浄土、「新宮」は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、「那智」は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。


熊野が広く世に知られるようになったのは平安期以降で、都・宮中での上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われ、熊野信仰に熱が入り、熊野は浄土信仰の日本第一の大霊験所として地位を確立した。
その後、貴族が止むようになると武士や庶民による熊野詣が盛んになり、参詣道も整備されて遂には「蟻の熊野詣」とも称されるようになった。

現代においても、それらの信仰は曲折があったにせよ世代に引き継がれ、又、これら諸々の施設である遺跡や遺産は、一般無信仰の人々にとっても好奇の対象とされ観光化されてていって、相変わらず多くの人を参集しているのである。

そして、遂には世界遺産:「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されるまでに到った。

世界遺産には神仏習合「熊野」以外にも紀伊山地では修験道の「吉野」、密教の「高野山」と三つの異なる宗教の山岳霊場が選ばれ、それら三大霊場を結ぶ参詣道である「熊野参詣道」、「大峯奥駈道」、「高野山町石道」などが選定されている。

或る著名人が、この紀伊山地の世界遺産の重要性、特徴的で、尚且つ異色なのを次のように挙げている。

『 それは三つの霊場がそれぞれ「異なる宗教」の霊場であるという点です。修験道の吉野、神仏習合の熊野、真言密教の高野山。異なる三つの宗教の霊場が紀伊山地にある。それぞれが在るだけでなく熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。このことはとても大切なことだと思います。 神と仏が敵対するのではなく、融合し、共存している。異なる宗教が敵対せずに共生している。この共生の文化こそが世界に誇るべき日本の文化遺産なのです 』・・と。



尚、熊野地方の世界遺産については、別項に記載してます。


日本の世界遺産リンク:
http://orimasa2005.web.fc2.com/

熊野の世界遺産リンク:
http://orimasa2005.web.fc2.com/nk-1.htm 



次回は熊野・「花の窟神社



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日本周遊紀行(39)尾鷲 「紀伊の鬼」  ,




三重県熊野市木本町の海岸にある鬼の国の象徴・「鬼ヶ城」




一鬼から九鬼、九鬼義隆、「鬼が城」そして鬼は修験道に通ず

尾鷲」はNHKのラジオ第2放送の気象通報でお馴染みの名称である。
「おわせ、風力3、晴、1013ミリバール」(今はミリバールとは言わないが・・) 

ところで尾鷲の北部地域の大台ケ原や大杉谷あたりは日本国内で最も雨量の多いところである。 この尾鷲では1968年9月26日、最大日降水量(1日の降水量)806mmという、とてつもない雨量を観測している。 これは地域別にみると、国内の最高記録になっているという。

市の後背部は広大な山域を有し、温暖多雨な気候と合い間って尾鷲は林業が盛んである。
中でも「尾鷲ヒノキ」は、鮮やかな赤みと強靱な良質の材木として全国的にもその名を知られてる。

又、江戸期から良港として知られている尾鷲漁港はブリの水揚げでも全国有数を誇るよいう。 大正期には一面の浜は、足の踏み場が無いほど大漁が続いたという。
九鬼岬の氏神・九木神社の例祭はブリ漁が本番を迎える1月に行われ、「鰤(ブリ)まつり」としても有名だとか。
この九木神社は九鬼氏の祖を祭ってあり、その九鬼の祖は藤原隆信という説もある。
そして地名の九鬼は、あの九鬼水軍発祥の地であるともいわれる。(前項、英虞湾でも述べた) 
尾鷲の九鬼は市街地を抜けてR42が分岐するR311を行く、長い「九鬼山トンネル」を抜け入り江に出たところが「九鬼の浦」である。

南北朝の頃に佐倉中将(伊勢国、四日市奥の佐倉)と呼ばれた藤原隆信は、吉野南朝の宮廷に仕えた宮人であった。 
戦乱の末、九木浦へ落ち延びてからは藤原姓を改めて「九鬼氏」と称し、直ちに築城や水軍を養成したと言われる。
その後、勢力をのばし、紀伊の名族として知られるようになる。 

英虞湾の項でも述べたが、九鬼嘉隆は第九代目の分家にあたり、波切を舞台に水軍を主力として、志摩の波切から伊勢鳥羽へと勢力を広げ、五万石の大名へと出世する。 
だが、こちら本家の九鬼家はこれに反して衰退してゆくことになる。


その「九鬼」ついて 
くき」という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山や谷などを指すという。 
又、鬼は鬼道すなわち修験道のことで、「九鬼」のように上につけられた数字は修験道場の開かれた順番であるともいわれる。

平安時代から鎌倉・室町にかけて天台・真言などの修験僧や、また山岳信仰を奉じる修験者たちが各地に進出して修験道場を開いた。 
この熊野地方は新宮がその本拠で、新宮から1番目の市木は「一鬼」、二木鳥(二鬼)と東に向かい、尾鷲市内では三木里(三鬼)、七鬼、八鬼、そして九鬼と続くという。 
九鬼は、元はといえば修験道場として栄えた所で、それが地名になったのであった。

序ながら九木神社は南北朝時代、後醍醐天皇をお守りして南朝を奉戴し、初め「九鬼神社」であったが、徳川政権時代に入って北朝に縁のある徳川氏の命により、南朝に寄与した九鬼氏の名及び関係する呼名を改めて「九木」としたものであるという。 



国道42は熊野の山深い矢ノ川峠を行く
長いトンネルを越えた山中に「道の駅・熊野きのくに」が在った、そう、ここは既に熊野市である。 時刻も昼時なので軽い食事を戴き、合わせて紀の国、木の国、「鬼の国」の清涼な雰囲気をゆったりと味わう。

面白いことに
この道の駅・「熊野・きのくに」の経営母体は、「鬼の国・物流共同組合」という。 組合の鬼の字は、「オニ」と呼ぶか、「」と呼ぶか定かでないが、鬼の国からの由来であろう。 
この先の名勝に「鬼ヶ城」というのがあり、鬼は修験道に通じ深山幽谷、波濤打砕のこの地はいかにも鬼が出そうで妙に納得するのである。


吉野方面へ通ずるR309(東熊野道)と合流して、やがて熊野灘の御目当て「鬼ケ城」に出た。 
早速、「鬼ヶ城センター」為るものに500円の駐車料金を払って出向いてみた。
断崖絶壁、というほどでもないが岸壁が奇妙な形をしていて目を引く。 
人力で造作したと思われる岩場の階段には転落防止の鉄柵が施してあり、若干のスリルも味わえる。 

千畳敷と言われる「鬼床」は造ったような広い平面盤で、その上部の巨大な岩魁が覆い被さっている。 ここでは雨露も凌げ、波濤と遥か大洋面を望みながら鬼(修験者)が修行するには好適地であるようだ。
隅っこで地元のおばさんが地元産品の小店を気だるそうにを開いていた。

鬼ケ城」は、伊勢志摩から延々と続くリアス式海岸の南端に位置し、熊野の山塊が熊野灘に突落ちてくる岩壁が、永久の時の波蝕作用で出来上がった洞窟である。 
岩場全体が名勝で、古くから紀州名物として親しまれている。 
鬼ケ城の海岸線に沿って、約1キロの遊歩道があり、この間には、熊野灘の荒波の浸食による大小様々な洞穴があって、大きなものには夫々に名称が付けられているようである。

この「鬼ケ城」を中心として、地元有志会(熊野市観光協会)において、毎年8月17日に「熊野大花火大会」が開催されていることは全国的に知られている。 
各種スターマイン、二尺・三尺玉、海上自爆水中花火、海上自爆三尺玉、ナイアガラと見どころはつきない。
お目当ての見物(みもの)はなんといっても鬼ケ城仕掛けで、岩場や洞窟に花火を直置きするという荒技で、信じられないほどのド迫力の地上大爆発の連続が数分も続くという。 是非、一度は拝見したいものだ。




熊野灘に向かって吼える「獅子岩」


鬼ケ城のトンネルを抜けると、これまた名物の「獅子岩」が在る。
鬼ケ城ほどの大迫力とスペクタクルは無いものの、「日本のスフィンクス」(・・?)とも呼ばれる獅子岩は、高さ25m、周囲約210mの岩塊で、地盤の隆起と波の浸食によって造形されたもの。 
あたかも獅子が太平洋に向かって吠えているかのような姿からこの名が付いた。 学術的価値も高いものだと言われている。

次回、「熊野地方」


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 日本周遊紀行(38)紀伊長島 「マンボウと古道」  .



「紀伊長島マンボウ」という道の駅・・?、

神武台峠は南島町と次の道程の紀伊長島町の町界にあたる。
峠からヘアーピンカーブを下り、新道の孫太郎トンネルを抜けると、内陸からやってくるR42と合流する。 
間もなく道の駅「紀伊長島マンボウ」で小休止とする。

紀伊長島までは判るが、マンボウとはいかに・・?、 聞くところ、マンボウは紀伊長島のシンボル魚となっているとか。
昔、紀州の殿様が領内を見まわりに長島浦(紀伊長島町)へやってきたとき、浦の人びとはお殿様に一番おいしいと思われる「マンボウ」という魚を食膳に出した。 
殿様は「 カツオはいつも食べてはいるが、このマンボウとやらははじめてだ。こんなおいしいものとは知らなかった。今後、浜に揚げたなら、必ず和歌山のお城まで届けよ 」と言った。 

浦の漁師たちは、すっかり困ってしまい、それ以来、長島浦の浜にはマンボウは一匹も揚がらなかったという・・??。 
ところが、漁方の家ではマンボウの肉を相変わらず食べていた。 実は捕まえたマンボウは、沖で切りきざみ形をわからなくしてから手桶に入れて家に持って帰ったからである。 
この習慣はずいぶん長い間つづき、戦前までマンボウは魚姿で長島の魚市に出されることはなかったという。

「マンボウ」はフグ科の魚類で、巨体と独特の体型が愛らしいのが特徴である。
全長4m、体重1500kgに達し、身体はタマゴ形で胸ビレが小さくて尾ビレがない。 尾ビレのように見えるのは背ビレと尻ビレが変化したもので、遊泳時はこれを大きく左右に動かして進む。 各地の水族館では人気者で、肉は白身で柔らかく、刺身(肝和え)や天ぷらなどで食べられて美味しいという。



紀伊長島は古来、交通の要衝といわれた

紀州の南海道を熊野古道の「大辺路」(おおへじ)と称し、新宮より東の「東熊野路」を経て紀伊長島に達する。 
更に、ここより北方内陸へは「伊勢路」で引き継がれ伊勢、松坂へ通じている。
総じて大阪・住吉から伊勢までを熊野街道熊野参詣道)ともいっている。(何れも2004年:平成16年7月世界遺産に登録されている。 世界遺産ついては後述)
現在は国道42号にある「荷坂峠」が紀州の玄関口となっているが、昔は荷坂峠の西に位置するツヅラト峠が熊野古道の主役であったという。

紀伊長島の北方、R42と紀勢線が交差する荷坂トンネルの北方に「梅が谷」(紀勢線の駅名でもある)があり、ここより西方向の栃古を経て「ツヅラト峠」へ至り、志古より紀伊長島に到る。 
峠は、大内山村と紀伊長島の町境であるが、昔は伊勢−熊野の国境でもあった。 
ツヅラトの名は「九十九折れ」に由来し、山道はまさにヘビのように曲がりくねっている。 

ツヅラト古道は約千年の昔、伊勢神宮より熊野三山詣での道として開かれた信仰の道であり、海抜357mの峠は熊野古道有数の難所でもあった。
峠の南側は約300mにわたって階段状の石畳が続くが、10世紀頃から民衆の力で築かれたものといわれている。
山間の大小さまざまな坂を上下しながら進む道は、容易に通行でなかったことが窺える。

様々にして坂道を登りつめ、この峠に立って初めて熊野の海「浄土に続く海」を見ることができたという。 
山脈の遥か向こうに補陀落極楽浄土、「補陀落」については後述)の光る海を眺め、巡礼の人々は信仰の聖域に辿り着いた実感に、疲れも吹き飛ぶ心地になったといわれている。
だがしかし、ここ紀伊長島の峠から熊野までは、まだまだ道のりは遠い・・!!。


伊勢と熊野の国境にあたる荷坂峠が、熊野街道のこのルートに転じたのは江戸初期の頃であり、昔からの難所でトンネルも多く樹林に囲まれた荷坂峠には、かつて茶屋も店開きしていたという。
江戸時代に刊行された「西国三十三所名所図会」には、
『 向こうを眺望すれば東海の蒼海・びょうびょうとして、風景言語に絶す 』
と、遠く広がる熊野灘への想いが綴られてる。

現在は、地元のボランテアの人々によって古(いにしえ)の古道はよく整備され、ハイキングと古道を偲ぶ歩道として人気があるという。 
今は国道42線が走り、海よりの荷坂峠越えに変わっている。

紀伊長島町と海山町(みやまちょう)の2町が合併し「紀北町」(きほくちょう)となる、時に平成17年10月。 海山町は文字通りの海と山の街であった。 
海山の路は尾鷲に向かっている。

次は紀伊海岸の「」とは・・?、
 
 
 
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日本周遊紀行(37)紀伊地方 「古代伝承の地」 



イメージ 1

イメージ 2
錦地区の山頂にある「神武台」とそこから見下ろす「錦の港」の美景


神武天皇上陸の地

南島町の海岸は三陸海岸に似た、典型的なリアス海岸である。
リアス海岸というのは三陸地方でものべたが、スペイン北西部、ガリシア地方のリアというところで多く見られることから命名されたといわれ、スペイン語でリア (ria) は深い入り江を意味する。 
日本では岩手県の三陸海岸や志摩半島から南紀にかけての海岸線、また福井県の若狭湾沿岸、福岡県・佐賀県の玄界灘沿いなどが代表的なリアス海岸である。

その海岸、又は海岸線は入り組んだ地形をしており、「溺れ谷」といわれる地形が連続している状態をいう。
溺れ谷とは陸上部の谷筋が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾のことで、最終氷期の1万年から5千年前までの海面上昇で世界中の海岸にできたといわれる。
大きな川の河口近くなどでは砂泥に埋められて平野となったが、土砂泥の供給の少ない所にこのような地形が残っているという。



国道260号線が走る複雑な海岸線の高台から見下ろす贄湾(にえわん)の入組んだ浦の風景が良い。 
島を挟んで阿曽浦と贄浦を結んでいる大小の橋が遠望できる
以前は、砂洲や海崖で形成されていたため、険しい陸路しかなく、渡船が主な交通手段だったという。 しかし、南島大橋と阿曽浦大橋の親子大橋が架けられたことにより、現在では阿曽浦から最短の距離での行き来が可能になった。 又、海と空の青、山の緑に映える美しいピンク色の橋は町のシンボルにもなっているとか。
入り組んだ内湾、阿曽浦では、真珠養殖やヒオウギ貝がとれ、外海では伊勢エビ刺網や真鯛の養殖も行われているという。

 
相変わらず屈曲した山のアップダウンロードや幾つかのトンネルを抜けると、広大な神前湾が望まれる。 その名も神前浦というところには、仙宮神社というお宮があり、ここには「猿田彦命」を祀り伊勢神宮に関わりの深い神社といわれる。
又、仙宮(せんぐう)神社の浜寄りの道路わきに老松に守られるようにしてひっそりと佇んでいる「倭姫命腰掛岩」というのがあった。

伊勢に向かう旅の途中、倭姫命はこの地を通り旅の疲れを癒そうと休憩されたという伝説があるという。
伊勢内宮の手前に猿田彦命と倭姫命が少々離れて祀ってあるが、どちらも伊勢神宮遷宮に所縁のあるミコトである。 その由緒は倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。(伊勢神宮) 大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人(伊勢神宮などで諸務をつかさどった官人)に任じられている。

南島町には神前浦、神前湾などの呼称もあり、いかにも神宮に縁のありそうな名前である。



再びトンネルの多い、海沿いの山岳ロードである。
一人のサイクルトラベラー(自転車旅行者)の青年が車を引きながら登ってくる、登り下りの多いこのような道程は叶わないであろう。 
こちらは、いわゆる自動の車で・・、お察し申し上げます。


暫くして「錦浦」へ出た。 
規模は小さいながら鄙びた漁港と品のいい海水浴場の組み合わせが良い。
西行法師が熊野三山から海路二見浦へ向かう途中、錦の漁村を通りかかり余の美しさに詠んだ歌が「山家集」に載っている。
 
  『 海に敷く 紅葉の色を 洗ふゆえに
          錦の島と 言ふにやあるらん
 』

」は古くから「風待ち港」としても栄えた港町で、一流の歌人・西行の心もとらえたのであろう。


ここから更に明るい峠に出ると「神武台展望所」と、真新しい看板があった。 
急な階段と尾根道を数分登って行くと、「神武天皇上陸記念地」としてあり、立派な展望塔があり石碑も在った。

石碑には『 伊波礼彦尊(いわれひこのみこと:古事記、後の神武天皇)が西暦239年、九州の美々津浜を船出し大和制圧のため、日向の国(宮崎県)を出発された。途中、長髄彦(なかすねひこ)の強力な抵抗に遭い、陸路からの進軍をあきらめ船より進軍した。紀伊半島に迂回し熊野灘を北上、遂に大和入りに成功して橿原で即位された。この大和入りの上陸地点とされる学説には、錦浦とするもの、二木島とするもの、那智勝浦とする説などがある。古代の遺跡や遺物を実査した二人の著名な考古学者と歴史学者が「錦浦は太古より開けて高度な文化を誇った豪族大家の住ませし所」と論証している。この錦浦は大和の宇陀地方とは最短距離にあり、遺跡や遺物が示すように、恐らく古代の熊野灘沿岸には、錦浦の他にこれといった集落もなく、錦浦だけが海に開けた唯一の水陸交通の拠点であったと推定されている。
 (以下、略) 
この事から、神武天皇が上陸したとされる地点は唯一錦であろうと推定される。昔から地元では、神武天皇がお座りになったという石があると言い伝えられている。 平成16年(2004年) 紀勢町 』
と書かれている。

ここから見渡す熊野灘と海岸線は豪快そのものであり、なにより真下に見える錦湾の錦漁港が絵のようである。 

気が付けばここは既に紀勢町であった。
この錦地区は神話の時代、神武天皇が東征の際に上陸した地点であるといわれている。 錦地区には神武山と呼ばれる山も在る。 
そして、この地区には各所に10数基の古墳が確認されており、古墳時代(日本の3世紀後半〜4世紀初めの飛鳥時代の頃から奈良時代を指す)の夥しい量の遺跡物が出土しているという。

当時、この地方は国内屈指の文化をほこる大都市であったと推測されているという説もあるとか。 遺跡のなかに「海獣葡萄鏡・かいじゅうぶどうきょう」や「三角縁神獣鏡・さんかくぶちしんじゅうきょう:町指定文化財」といった、中国の隋・唐時代(6〜7世紀・奈良平安朝)の様式のものが発見されている。

」というのは、古代、権力の象徴であった。
鏡は神霊性を有すると考えられ、この世界の政治的支配、帝王権力の支配として神秘化し神霊化したものとされていた。
海獣葡萄鏡」の主文様は獅子と葡萄の蔓(つる)から構成されていることから命名されている。 又、「三角縁神獣鏡」と言う名前は、鏡の縁の断面部分が三角形になっており、背面の模様に「神と獣」が刻まれているという。

一般に大型の古代鏡は、太陽光を捉える、そして反射する「ヨリシロ」として神聖視されてはいたともいわれ、直径30cm近くになると2kgを越える銅の塊になり、このため大型鏡は移動させるなどという事は通常では無く、現存する鏡は支配者の権威を現す象徴であり、或いは「御神体」とも考えられるという。
序ながら、11月30日は「い(1)い(1)ミ(3)ラー(0)」の語呂合わせで、「鏡の日」という記念日らしい。



「神武天皇」について
神武天皇が奈良の橿原で天皇として即位したのは、紀元前660年旧暦1月1日(紀元節)であるとの説が一般的である。 無論、古事記、日本書紀に言われる神代のことである。

奈良時代の1300年前に編纂された古事記や日本書紀は、日本で最古の歴史書といわれ、日本人の起源や日本国土の造成が日本神話によって語られている。 
この神話によると高天原(天上の国・神の国)を中心とする神々がその大半を占め、イザナキやイザナミ(日本国土の神)、アマテラス(イザナギの子・日の神・高天原の統治者)、山幸彦と海幸彦(アマテラスの子孫)、神武天皇(アマテラスの子孫・山幸彦の孫)等が主流で登場する。

アマテラスの子供達が初めて国土へ降りてくる(天孫降臨)、この地が九州の地「日向の高千穂」といわれる。 
その後にアマテラスの子孫である神武天皇(実際には未だ即位しておらず、日本書紀では神日本磐余彦尊:カンヤマトイワレヒコノミコト という)が45歳のとき、兄弟や子供から「 東に良いところがあると聞く。おそらくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る 」(大和の国)と言われ、兄弟3人と共に日向を発つ。
これが一般に神武天皇の東征といわれる。

一行は直接大和に行ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。
始め九州北部から中国地方を回って生駒山(大阪)から大和に入ろうとしたが、大和族の抵抗が激しく失敗する。 次に海路にて熊野から大和の国へ入ろうとし、この時、紀の国の「錦浦」に上陸したとも伝わる。

錦浦は当時この地方の文化の中心であったことは記したが、尚且つこの地は大和の地に最短の距離にあった。 
神武天皇はやっとの思いで熊野につき、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末に大和の国の主・長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地(奈良・橿原神宮は神武天皇の御陵)に宮を築き、即位する。
ここに初代天皇といわれる神武天皇が誕生するのである。 
時に紀元前660年2月11日であったとする。 この日、2月11日を建国記念日(旧紀元節)としているのは周知である。 


紀伊地方の「南島町」は 2005年10月、隣接する南勢町との合併により南伊勢町となった。、隣町の「紀勢町」は2005年2月、大宮町、大内山村と合併、大紀町になっている。

次回は「紀伊長島と古道


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