『日本周遊紀行』

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三重県

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日本周遊紀行(32)津 「高虎と伊勢平氏」 


伊勢はナー 津で持つ 津は伊勢で持つ
 尾張・名古屋は ヤンレ 城で持つ
」    

・・と伊勢音頭で唄われている。

もっとも伊勢音頭といっても関東節・伊勢音頭、正調・伊勢音頭、古調・伊勢音頭、道中・伊勢音頭と多彩にあるらしく、共通なのは冒頭の唄いだしが、すべからく「 伊勢は津で持つ・・・」から始まるという。 



世界で一番短い名前の街・「」は、仁徳天皇(古代大和朝廷期・古事記の頃)の昔は「安濃津」と呼ばれ、日本三津の 一つとして栄えた名港であった。
そのため、市内には至る所に 名所、旧跡があり、当時の面影を色濃く残している。

日本三津とは中国から見た三つの重要な港を意味し、中国との貿易港の一つとして機能していたといわれる。 
薩摩の坊津(鹿児島県坊津町)、筑前の博多津(福岡県福岡市)、それに勢の安濃津(三重県津市)である。
安濃津は明応7年(1498年)の大地震による破壊的被害で集落は15世紀代に一旦廃絶する。


城郭造りの名人・藤堂高虎が伊予今治から加増転封となって、伊賀国・伊勢国の津・伊賀上野城主となったのは関が原合戦後の慶長13年(1608)の事だった。 
高虎は先ず織田信包が築いた津城(現、津城址)の大改築を行ない城下町を整備し、同時に津の街並みの整備に取り掛かる。 

政治の要としての丸之内や 武家屋敷、町屋、商屋、寺町等を配し、町の発展を図るなど津のまちづくりを行い、 現在の津の町の礎をつくった。 
津の城下では北に安濃川が流れ、南に岩田川が沿っている、そこから堀川を掘って入船出船とした。

藩主殿様もここから御座舟で伊勢湾から外洋へ向かったといい、今でも船頭町などの町名が残る。
又、町はずれを通っていた御伊勢参りの伊勢街道を城下に引き入れ、宿場町としての賑わい発展を図ったとされる。

現在の津の街並みの整然とした姿は、高虎の都市構想を往時に見ることが出来る。
又、大都会にありながら海岸線の優美さは特筆すべきもので、海水浴場や風致施設の臨海公園、大学施設等、古くから開けた文化の香りがする。 
これも高虎以来の町造りの理念が現代に生かされているのである。


戦国武将・藤堂高虎は一農民として近江国藤堂村(滋賀県甲良町)に生まれている。
はじめ近江の浅井長政に仕え、その後、織田信長、羽柴秀吉(豊臣秀吉))に見出され、徳川家康にと、歴代三君に仕えている。 

関ケ原の戦いにおいては東軍に属し、その功により戦後、伊予今治に20万石を与えられる。 江戸城改築などにも功があり、最終的には伊賀・伊勢津藩32万石に加増されている。 

家康の信頼はとりわけ厚く、外様大名にありながら側近として遇された。 
大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、『 国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ 』と述べたとも言われている。 
徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。 

家康の死後は日光東照宮の造営にも当たっている。
高虎は、築城技術にも長け、宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城などの築城、名古屋城の修築などでも知られる。




中世(平安期、)の頃「」は、阿濃津と呼ばれていて、この地は伊勢平家発祥の地とも言われる。
平安中期・935年の平将門(坂東平氏)の乱の後、将門を討った平貞盛らが伊勢国に移り住み、伊勢守に任じられるなどして伊勢国に定着した。
これが「伊勢平氏」の起こりだと言われ、後の平氏は安濃津氏とも称していた。

この系統の子孫に当たる「平忠盛」は市内西郊外の津市産品の地に生まれたといわれ、平清盛(平家の棟梁)の父でもある。 
平清盛は平安末期、平治の乱で源義朝を破り、中央政権で太政大臣にまで登りつめ、平氏一門は隆盛を極めたことは周知である。
清盛をして、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、時に『 平氏にあらざれば人にあらず 』とまでいわしめた。

武家平氏として子孫の活躍で知られるのは平氏政権を作った伊勢平氏であるが、鎌倉期の執権北条氏を輩出した坂東平氏など、一般に平氏といえば桓武平氏の流れをくむ坂東平氏を指すことが多いという。 
しばしば「東国の源氏、西国の平氏」と言われるが、源氏の本拠地は摂津、大和、河内など関西であり、東国は平氏系武士の土着地であることから、「関西の源氏、関東の平氏」と言う方が実態に近いといわれる。

又、平氏は早くから東国に移り、地名を苗字としていた一族が多いが、西国で平氏の名をを残したのは伊勢平氏など数少ない。
権勢を握った平清盛の一族を特に「平家」と呼ぶのに対し源姓を名のった一族は多く、源家は複数になるため、通常は「源家総体」という意味での「源氏」と呼び、源家という言い方はあまり用いない。

因みに、伊勢平氏が滅亡したのは「壇ノ浦の合戦」であるが、この時、平家の棟梁だった平宗盛は入水したが、息子の平清宗とともに源義経によって助け出され、鎌倉の源頼朝のもとに送られる。
鎌倉で頼朝と面会した後、京への送還の途中で近江の国・篠原で、義経のにより斬首された。これによって平家の血筋は完全に消滅し、近江の国が伊勢平氏終焉の地となったのである。

伊勢音頭』 三重民謡
伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつヨー
尾張名古屋はヨーホイソーリャー
城でーもつヨー

花は桜か、山は富士のー山ヨー
城は尾張のヨーホイソーリャー
名古屋の城ヨー


「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は 城で持つ」という歌詞を聞けば、すぐに「伊勢音頭」が思い浮かぶ。
古調、正調とは別に日本全国には「ヤートコセ ヨーイヤナ」という唄ばやしを持つ「○○伊勢音頭」(御当地伊勢音頭)が多く伝承されている。
言うまでもなく、五十鈴川のほとりに鎮座する伊勢神宮に詣る人々が全国から集まり、荷物にならないお土産として伊勢発信の「音頭」が全国に広まっていったといわれる。
又、伊勢信仰で天照大神を祀った伊勢神宮につかえる「御師(おし、おんし)」が、全国を廻り一般庶民に広がったという。

次回から伊勢神宮について、チョッと詳しく


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日本周遊紀行(31)関 「鈴鹿峠」 




歌川広重の「東海道五十三次・関」


亀山、関は古今東西、交通の要衝
中京・名古屋地区から関西を結ぶ近代の交通網である鉄道(東海道本線、新幹線)や高速道(名神高速)は岐阜・関が原を越えて琵琶湖畔沿いに向かっている。
ところが、旧来の東海道、概ねそれに沿った現在の国道1号線は三重県の亀山・関辺りまで南下して関西に向かっているのが特長であろう。

更に亀山は、この道路の関JCT(ジャンクション)が示すとおり今も昔も交通の要衝として知られる。
南下すると国道23号、伊勢自動車道の津から伊勢へ、西方へは国道25と名阪国道が奈良から大阪へ向かう。 又、国道1号線・東海道(旧東海道も同じ)は滋賀・大津から京、大阪へ向かっている。 
鉄道も名古屋、大阪を結ぶ関西本線が、ここ亀山で紀勢本線が分岐している。


そして古代、7世紀以前には既にここの地に「鈴鹿の関」が置かれていた。 
越前の「愛発の関」(あらち・敦賀の南、疋田付近に部落や学校名で僅かにその名が残る=若狭・近江・越前のちょうど結節点にあたり、日本海の海産物等を京へ運ぶための要衝でもあった)、美濃の「不破の関」(岐阜県不破郡関ヶ原町・関が原の合戦より以前のもう一つの天下分け目の戦い、7世紀に起った「壬申の乱」の合戦地)とともに日本三古関と呼ばれ、いずれも、都と東国を結ぶ交通の要衝として栄えた。 
関町(平成17年1月亀山市と合併、新亀山市となる)は、この関所の町が地名の由来となっている。


因みに、この古代の三関は飛鳥期の7世紀に勃発した「壬申の乱」以降、ほぼ同時に設けられたという。
天武天皇は天下の変乱に備えると共に通行人たちの中で謀反を起こす者や狼藉物を監視、調べるために美濃の不破、越前の愛発、伊勢の鈴鹿に三関を置き、関使を遣し固めさせたという。 
このことは天武天皇の子息である舎人親王(とねりしんのう)が編纂した「日本書紀」にも記されている。

古代の大戦で有名な「壬申の乱」は、壬申年(672年)、天智天皇の子大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子の叔父、甥の間で起こった皇位継承をめぐるクーデターである。
一か月余の戦いの結果、大友皇子は自害し、大海人皇子が翌年正月即位して天武天皇となった。
即位以後、天武天皇は自らの正統性を示すため、国史の製作を発足したのが「日本書紀」である。


余録であるが・・
大津京(近江京)・天智天皇の時代、日本は戦乱(白村江の戦い)を絡めて中国(唐)や朝鮮(百済)の文化が大量に流入し、「大化の改新」など日本は飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点、大変革をもたらした時期であった。

「日本書紀」によると、天皇が大津宮に遷都した後、水時計を宮に備えて時刻を計ったと記されている。 この時、「時」を初めて鐘と太鼓で民衆に知らせたという、西暦671年6月10日のことである。 

だがこれは単なる「時の事始」ではなかった。
天智天皇は大化の改新を起こし、中央集権に向けた大政治改革に乗り出していた矢先でもあり、「白村江の戦い」(九州で後述)の後、大陸や半島から攻撃される脅威もあった。 こうした難題を乗り切る為には秩序ある強力な政治や軍が必要であり、そのため統一した時刻を定め、国民に共有させようとしたのであった。 

日本人が時刻を気にし、よく時を守る民族とされるのも、その大昔からのDNAが伝わっているのかもしれない。 この日、6月10日が「時の記念日」に制定され、日本で初めて人々に時刻を知らせた日として1920(大正9)年,東京天文台が定めたという。 
時の記念日は単に時間の記念ではなく、古代から国造りの為の記念であり、古代の息吹きが感じなければならない日なのである。



江戸期に入ると亀山宿、関宿、坂下宿は東海道の宿場町として賑わった。 
中でも関宿は西の追分とも言われ、鈴鹿峠越えの東海道と加太越えの大和・伊賀街道が、それぞれ分岐していたため参勤交代や伊勢参りなど、多くの人や物が行き交い賑わった。 
明治時代の中頃には、関西鉄道(現関西本線)と参宮鉄道(現紀勢本線)が相次いで開通し国有化されたことから、亀山は両線が分岐する鉄道の街としても発展した。

東名阪道の亀山I・Cにほぼ隣接して、旧東海道の「関宿」がある。
慶長6年(1601)、徳川幕府が宿駅の制度を定めて以来、東海道五十三次第47番目の屈指の宿場として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わった。 
天保年間の記録には屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣(大名の供人が多くて本陣のみに宿泊しかねる時、予備にあてる宿舎)2軒、旅籠42軒、酒食店99軒があったと記されている。

明治時代になり宿駅制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加し宿場は栄えていたというが、明治中期の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受ける。 
町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなったためである。 その後は、国道1号線が旧街道からはずれた位置を通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町 へと変化し、現在に至っているようである。

関宿は、旧東海道の宿場の殆どが旧態をとどめない中にあって、唯一往時の町並み(江戸末期から明治初期の建物が多い)が残ることから、昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その保存とともに歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んでいるという。

建物群を鳥瞰(高い所から広範囲に見おろすこと)すると、道路に面した間口は狭く(小さく)、奥行きが長い建物が多く目立つ。
これは江戸期独特の建築手法で、道路に面した間口に応じて税金が決められたからといわれる。


国道1号線は、この旧町並みの300m南側のJR関駅前を通っている。 
車社会の現代、旧街道からはずれた位置を通ったことが旧町並みを温存することになり、幸いする結果になったといえる。
街並みの外れた辺りから旧・新道(東海道)が合流し、R25の名阪道が分岐する。 
1号線(東海道)は、ここから鈴鹿峠(東海道、西の最難所といわれる)の登りにかかると、峠の手前に鈴鹿馬子唄会館がある。


鈴鹿馬子唄』 三重県民謡
坂は照る照る 鈴鹿は曇る(ハイ ハイ) 
あいの土山 エー雨が降る (ハイ ハイ)


鈴鹿馬子唄は、一つの仇討事件を物語風に謡ったものであるという。
「江戸中期、小万の父は、元久留米藩の剣道指南役であったが同僚の恨みを買い殺されてしまった。身重の妻は、仇を追って関宿まで来たが、ここで子供を産んで、間もなく亡くなる。この時、子供の行く末と仇討のことを旅篭の主人に託したのである。子供5歳になった時、宿の主人から両親の悲劇を聞かされた、この子が小万である。それからの小万は、雨の日も雪の日も亀山に剣術修業に通い始めた。列女小万が18才の時、仇の男と亀山城大手門前の辻で出会い、晴れて父の仇を討ち果たした。列女小万の墓碑は関の街並みの福蔵寺に眠るという」

次回は「津」、往時の安濃津



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写真:巌魁が御神体の「花の窟神社」・・、

獅子岩から1kmほどの先の右手に巨岩が林の間から見え隠れしている。こちらが「花の窟」
と言われる、その名も「花の窟神社」(はなのいわや)である。この巨岩塊が花の窟神社の御神体であり、高さ70mに及ぶ岩壁が聳えている。
小さな鳥居の脇には、似合わぬ程の大きな石柱に「日本最古 花の窟神社」と記されていて、その奥には社のような建物のようだが、実は社殿では無くチョット似合わぬが神門のようなものであろう。
この神社は、本来の社殿がなく拝殿のみであり、まさに「自然崇拝、自然神信仰」の神社なのである。 地元の人々はこの神社に日本中の八百神(ヤオヨロズノカミ)が、遊びに来られると信じているようである。
主祭神は「イザナミの尊」であるが、ここは、イザナミの墓がある場所ともされている。 全国に、イザナミ神を祭る神社は幾多もあるが、「墓」が存在している場所は唯一ここだけであるという。 この岩盤の向こうは、黄泉の国へ通じる場所とも云い伝えられている。 実際には、縄文期頃の古くからの漁民の葬送地、祭祀の遺跡ともいわれ、花の窟の名称は太古から花をもって祀る土俗・風習があったからと言われる。

花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火の神・加具土命(カグツチノミコト)を産み、この地で亡くなったとされ、後に葬られた御陵であるといわれる。
花の窟には無数の洞窟があり、又、巌の表面には窪みが数箇所ある。これらは死者の霊が一旦とどまる場所、他界への入り口という信仰があって、昔は近辺に水葬の伝承もあることから、水葬の基点として神聖視されたとの説がある。又、岩の窪みが女陰の形に想定されることから母神である伊弉冊尊を祀り信仰していたとする説もある。至近の新宮市に鎮座する神倉神社の御神体である「ゴトビキ岩」を陽石(父神)として、花の窟と対をなすとの見方もあるようだ。
神社は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続き、信仰は厚いという。
境内の案内板に・・、

『 神代の昔より花を供えて祭るので花の窟という。 窟の頂上より掛け渡すお綱は神と人をつなぎ神の恵みを授けてくださるお綱なり 』と記されている。
「日本書紀」に記されている事が今に引き継がれ、2月2日と10月2日には神々に舞を奉納し、地元・有馬の氏子や人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。綱は藁縄7本を束ねて花をつけた3つの縄旗で、日本一長いといわれる約170メートルの大綱を岩窟上45メートル程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木に渡すという。この神事は太古の昔から行われていて、「三重県無形文化財指定」されている。
「花の岩屋」の石碑は、紀州藩・徳川宗直(ムネタダ)が1723(享保8)年に寄進したものと言われ、国学者・本居宣長も

『 木の国や 花のいは屋に 引く縄の 
長くたえせる 里の神わさ 』
の歌を詠んでいる。
この地は熊野三山参詣の本宮社と速玉社(新宮社)の分岐点に当たり、いわゆる熊野古道として残されている。 伊勢道より遥々やって来た参詣人達は、先ずここ「花の窟」をお参りして、其々、本宮大社、又は、速玉大社(新宮大社)に向かうのである。

さて、次に向かおう・・、
沿岸地域に迫る重畳たる紀の国、木の国、鬼の国の山塊も、鬼ヶ城、獅子岩あたりで終わりをつげる。今度は対照的に明るく開けた、そして、ほぼ直線で平坦な熊野灘の海岸を行く。 実に開放感たっぷりで気分も爽快である。 すぐ右手に紀勢本線のローカル列車がのんびりと走っている。左は防風林と思しき青松群が平行していて、時折、紺碧の海原がキラリと光る。
ここは御浜町(みはま)の「七里御浜・ひちりみはま」で、町名が先か地名が先かは定かでないが、この浜は特徴ある浜様を呈しているようである。
道の駅「パーク七里御浜」もあったが、その向い側の浜辺の休憩所・阿田和PAに車を止めて海辺をのぞいて見た。 遥かなる水平線の青松と白砂の海岸(・・?)が延々と続いている。浪打際をよく見ると、白砂と違って玉砂利が敷きつめられた砂礫の海岸であった。 これが、ゆるやかに円弧を描きながら延々と続いている。そんな風景を見るだけで、気分が晴れ、大らかになれるが気分がする。
気が付くと、小波が打ち寄せるときもそうだが、返す波の時に小石の転がす音が、「シャラシャラ」と何とも心地良い音がよく響いてくるのである。これらの玉砂利は「御浜小石」と呼ばれ、黒色や青色、オレンジ色などカラフルで、色の模様や形も多彩なためアクセサリーとしても人気を呼んでいという。 そういえばこの地方は碁盤の黒の碁石である「那智黒石」の産地でもあった。 
半島を流れる急流河川の熊野川が途中で岩盤や地質帯を渓谷が削り、砂礫となって御影石やカラフルな縞模様の石などになる。玉砂利の海浜では日本一長いとも言われる。
序でながら、この玉砂利は素足で歩くと健康に良いといい、昨今の健康ブームでこの浜を素足で歩く人が増えているという。

「花の窟」付近からは熊野本宮へ到る道が分岐している、今のR311号線に沿ってであるが。神木から阪本の間には横垣峠道、そして風伝トンネル付近は風伝峠道と、いずれも古来の熊野古道の雰囲気が残っているという。 尚、R311は熊野川・瀞峡、本宮社から大峯山、吉野山と龍神から高野山と近畿主要地を縦断する東側の入口にも当たる。又、本宮社より熊野街道・中辺路を経て、西海岸の田辺に至る。 速玉道は御浜古道がR42・御浜海道に沿って保存されている。
これらは、2004年7月に、世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録されたことは周知である。

紀勢本線の「鵜殿」の駅前を過ぎ町内を通り越すと、ゆったり川幅の熊野川である。 
川岸を走って熊野大橋にかかる頃には、向う岸にこんもりした森が見渡せる。既に新宮市であり森は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」である。地域は既に「紀州・和歌山県」に入っていた。
熊野三山は、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(はやたまたいしゃ)、熊野那智大社(なちたいしゃ)の三つの神社の総称で、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

尚、世界遺産に関した「熊野三山」界隈は別項・に記載してあります
http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2007/folder/297910.html?m=lc&p=6


次回は新宮・神倉神社

熊野市と熊野地方・・、

地域は既に熊野、正しくは「熊野市」に入っていた。
熊野というと、普通、熊野地方のことで紀州・和歌山の地域と錯覚しそうであるが、熊野市はれっきとした三重県である。三重県は通常は名古屋圏、中京地区で東海地方(東海三県:愛知、三重、岐阜)とも言われるが、こと熊野市に到っては県の最南部、紀伊半島に深く入り込んで和歌山県と接している。従って、市は歴史、風俗、習慣とも紀州圏・熊野地方の属していると見るべきだろう。
尤もで、市の中心市街地は古くから木本地区で、この地は奥熊野代官所が置かれ、熊野地方一帯の行政の中心であった。それゆえ明治の廃藩置県で三重県に編入された時には支庁がおかれ、現在も三重県の熊野地方を管轄する官公庁が多く存在するのである。

熊野とは何・・?
一般に「熊野」とは、熊野三山が鎮座する所謂、熊野地方をいうが、嘗ての紀伊国・牟婁(むろ)郡をいい、紀伊半島南部の地域を指していた、従って紀州・和歌山県というイメージがどうしても強い。紀伊国・牟婁郡は古くは熊野国として存在していたが、だが、明治になって熊野川を境に二つの県に分けられ、熊野川以西は現在の和歌山県に、熊野川以東は現在の三重県に属することになったという、政策的事実もあった。
さて、「熊野」という地名が何を意味しているのか、語源としては定かでないが、「クマ」、「カミ」で「神のいます所」や「クマ」は「こもる」で「神が隠る所」の意、又、「クマ」は「こもる」で「死者の霊魂が隠る所」の意・・と諸説はあるが・・。いずれにしても「熊野」とは開けた明るいイメージはなく、木々が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地という意味合いが強い。実際、熊野3600峰といわれ、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の厳しい所が多く、人が農耕をして暮らすにも不便な場所であった。
飛鳥以前には、それこそ熊野は「神のいます所」、「神が隠る所」で神域であった。
熊野の地名が初めて登場する文献「日本書紀」では、熊野は伊邪那美神(イザナミ)の葬られた土地として登場する、その墓所は市街隣地「花の窟」というところであった。(次回詳細)
奈良期になって仏教が倭国に入ってきても大和地方の都人から見たら、熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、大和とはまるで違う異界として意識していたともいう。従って、人々は熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、この事が高じて後に死者の国である「浄土」と結びつけられ、浄土信仰が盛んになったということも十分に考えられるのである。
後の神仏習合という新しい思想では、熊野三山である本宮は阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、那智は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。
熊野が広く世に知られるようになったのは平安期以降で、都・宮中での上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われ、熊野信仰に熱が入り、熊野は浄土信仰の日本第一の大霊験所として地位を確立した。その後、貴族が止むようになると武士や庶民による熊野詣が盛んになり、参詣道も整備されて遂には「蟻の熊野詣」とも称されるようになった。
現代においても、それらの信仰は曲折があったにせよ世代に引き継がれ、又、これら諸々の施設である遺跡や遺産は、一般無信仰の人々にとっても好奇の対象とされ観光化されてていって、相変わらず多くの人を参集しているのである。
そして、遂には世界遺産:「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されるまでに到った。

世界遺産には神仏習合「熊野」以外にも紀伊山地では修験道の「吉野」、密教の「高野山」と三つの異なる宗教の山岳霊場が選ばれ、それら三大霊場を結ぶ参詣道である「熊野参詣道」、「大峯奥駈道」、「高野山町石道」などが選定されている。
或る著名人が、この紀伊山地の世界遺産の重要性、特徴的で、尚且つ異色なのを次のように挙げている。
『 それは三つの霊場がそれぞれ「異なる宗教」の霊場であるという点です。修験道の吉野、神仏習合の熊野、真言密教の高野山。異なる三つの宗教の霊場が紀伊山地にある。それぞれが在るだけでなく熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。このことはとても大切なことだと思います。 神と仏が敵対するのではなく、融合し、共存している。異なる宗教が敵対せずに共生している。この共生の文化こそが世界に誇るべき日本の文化遺産なのです 』・・と。

尚、熊野地方の世界遺産については、別項に記載してます。
http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2007/folder/297910.html?m=lc&p=6


次回は熊野・「花の窟神社」・・、

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           鬼の国の象徴・「鬼ヶ城」


「尾鷲」はNHKのラジオ第2放送の気象通報でお馴染みの名称である、「おわせ、風力3、晴、1013ミリバール・・・」。(今はミリバールとは言わないが・・) ところで尾鷲の北部地域の大台ケ原や大杉谷あたりは日本国内で最も雨量の多いところである。 この尾鷲では1968年9月26日、最大日降水量(1日の降水量)806mmという、とてつもない雨量を観測している。これは地域別にみると、国内の最高記録になっているという。市の後背部は広大な山域を有し、温暖多雨な気候と合い間って尾鷲は林業が盛んである、中でも「尾鷲ヒノキ」は、鮮やかな赤みと強靱な良質の材木として全国的にもその名を知られてる。
又、江戸期から良港として知られている尾鷲漁港はブリの水揚げでも全国有数を誇る。大正期には一面の浜は、足の踏み場が無いほど大漁が続いたという。九鬼岬の氏神・九木神社の例祭はブリ漁が本番を迎える1月に行われ、「鰤(ブリ)まつり」としても有名だとか・・。

この九木神社は九鬼氏の祖を祭ってあり、その九鬼の祖は藤原隆信という説もある。そして地名の九鬼は、あの九鬼水軍発祥の地であるともいわれる。(前項、英虞湾でも述べた) 尾鷲の九鬼は市街地を抜けてR42が分岐するR311を行く、長い「九鬼山トンネル」を抜け入り江に出たところが「九鬼の浦」である。
南北朝の頃に佐倉中将(伊勢国、四日市奥の佐倉)と呼ばれた藤原隆信は、吉野南朝の宮廷に仕えた宮人であった。 戦乱の末、九木浦へ落ち延びてからは藤原姓を改めて「九鬼氏」と称し、直ちに築城や水軍を養成した。その後、勢力をのばし、紀伊の名族として知られるようになる。 分家の九代「九鬼嘉隆」の頃は水軍を主力として、志摩の波切から伊勢鳥羽へと勢力を広げ、五万石の大名へと出世する。 だが、こちら本家の九鬼家はこれに反して衰退するが・・、
その「九鬼」ついて・・、 
「くき」という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山や谷などを指すという。 又、鬼は鬼道すなわち修験道のことで、「九鬼」のように上につけられた数字は修験道場の開かれた順番であるともいわれる。
平安時代から鎌倉・室町にかけて天台・真言などの修験僧や、また山岳信仰を奉じる修験者たちが各地に進出して修験道場を開いた。この熊野地方は新宮がその本拠で、新宮から1番目の市木は「一鬼」、二木鳥(二鬼)と東にむかい、尾鷲市内では三木里(三鬼)、七鬼、八鬼、そして九鬼と続くという。 九鬼は、元はといえば修験道場として栄えた所で、それが地名になったのである。
序ながら九木神社は南北朝時代、後醍醐天皇をお守りして南朝を奉戴し、初め「九鬼神社」であったが、徳川政権時代に入って北朝に縁のある徳川氏の命により、南朝に寄与した九鬼氏の名及び関係する呼名を改めて「九木」としたものであるという。 

国道42は熊野の山深い矢ノ川峠を行く・・、長いトンネルを越えた山中に「道の駅・熊野きのくに」が在った、そう、ここは既に熊野市である。 時刻も昼時なので軽い食事を戴き、合わせて紀の国、木の国、「鬼の国」の清涼な雰囲気をゆったりと味わう。
この道の駅「熊野きのくに」の経営母体は「鬼の国・物流共同組合」という。 鬼は「オニ」と呼ぶか、「キ」と呼ぶか定かでないが、鬼の国からの由来であろう・・。 この先の名勝は「鬼ヶ城」といい、鬼は修験道に通じ深山幽谷、波濤打砕のこの地はいかにも鬼が出そうで妙に納得するのである。
吉野方面へ通ずるR309(東熊野道)と合流して、やがて熊野灘の御目当て「鬼ケ城」に出た。 早速、「鬼ヶ城センター」為るものに500円の駐車料金を払って出向いてみた。
断崖絶壁・・というほどでもないが岸壁が奇妙な形をしていて目を引く。人力で造作したと思われる岩場の階段には転落防止の鉄柵が施してあり、若干のスリルも味わえる。 千畳敷と言われる「鬼床」は造ったような広い平面盤で、その上部の巨大な岩魁が覆い被さっている。 ここでは雨露も凌げ、波濤と遥か大洋面を望みながら鬼(修験者)が修行するには好適地であるようだ。
隅っこで地元のおばさんが地元産品の小店を気だるそうにを開いていた。

「鬼ケ城」は、伊勢志摩から延々と続くリアス式海岸の南端に位置し、熊野の山塊が熊野灘に突落ちてくる絶壁が、永久の時の波蝕作用で出来上がった洞窟である。岩場全体が名勝で、古くから紀州名物として親しまれている。 鬼ケ城の海岸線に沿って、約1キロの遊歩道があり、この間には、熊野灘の荒波の浸食による大小様々な洞穴があって、大きなものには夫々に名称が付けられているようである。
この「鬼ケ城」を中心として、地元有志会(熊野市観光協会)において、毎年8月17日に「熊野大花火大会」が開催されていることは全国的に知られている。 各種スターマイン、二尺・三尺玉、海上自爆水中花火、海上自爆三尺玉、ナイアガラと見どころはつきない。お目当ての見物(みもの)はなんといっても鬼ケ城仕掛けで、岩場や洞窟に花火を直置きするという荒技で、信じられないほどのド迫力の地上大爆発の連続が数分も続くという。是非、一度は拝見したいものだ・・。

鬼ケ城のトンネルを抜けると、これまた名物の「獅子岩」が在る。鬼ケ城ほどの大迫力とスペクタクルは無いものの、「日本のスフィンクス」(・・?)とも呼ばれる獅子岩は、高さ25m、周囲約210mの岩塊で、地盤の隆起と波の浸食によって造形されたもの。あたかも獅子が太平洋に向かって吠えているかのような姿からこの名が付いた。学術的価値も高いものだと言われている。

次回、熊野と熊野地方・・?

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