『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

和歌山県

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]

 
 
 
日本周遊紀行(50)広川 「広村の津波と浜口梧陵」  ,


先ず、有名な「広村の津波」の話であります

ほぼ三角形の形をした湯浅湾の最奥部の面しているのが、現在の「広川町」である。
ここの海岸地帯は昔は「広村」と称して漁業を主に営む寒村だった。
この村は、地形からして古くから津波で甚大な被害を受けてきた。 その為、既に室町時代には豪族・畠山氏による堤防が小規模ながら築かれていたという。

阪和道の広川I・Cから国道42を目指して海岸に向けて直進すると、小高い土盛りの堤防らしき物に突き当たる。 高さ約5m、延長約600mの堤防(広村堤防)であり、その一角に、「浜口梧陵」の偉業をたたえる「感謝の碑」が建っている。


津波と「稲むらの火」

今からおよそ150年前、安政元年(1854年)、紀州・広村は大きな地震(安政南海地震)とそれに伴う大津波に見舞われる。 村は全滅に近い大きな被害を受けた。 
浜口梧陵(儀兵衛)はこの時、道筋にあたる水田の稲むら(稲束を積み重ねたもの、浜口家の稲むら)の束に松明で次々に火をつけ、村人を安全な場所に導いた。
広村では339戸に被害、流出家屋125戸で家屋はほぼ全滅、死者も30人を出したが大半の人々は避難して助かることができたという。
儀兵衛はこの時以来、被災者の救済や村の復興に尽力するとともに、私財を投げ打って約3年10か月もの歳月を費やし、広村に大堤防を完成させた。

この広村大堤防は、昭和21年の南海地震の大津波が広村を襲ったとき、村の大部分を守ってたいう。
この実話は小泉八雲によって、明治29年の三陸沿岸の津波災害の惨状と、浜口梧陵の偉業をヒントに、「A Living God;生き神様」という短編小説を書いている。 
又、小学校教材の「稲むらの火」と題し、国語読本(5年生)にも掲載されたという。


【追記】
近年の地震発生は阪神・淡路大震災から10年、新潟中越大地震から数ヶ月、そして福岡西部沖地震もあった。 更に、地震列島日本にあって、昨年のインド洋の物凄い津波被害は驚きであった。
2004年12月26日午前8時(日本時間26日午前10時)インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。 
この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった。
そして、あの時この時の教訓としても「稲むらの火」が注目を集めたという。


浜口梧陵の生涯

浜口梧陵」(儀兵衛)は、1820年、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業を営む豪商浜口家の分家の長男として、ここ紀州・広村(現在の和歌山県広川町)に生まれている。
少年時代に本家の養子になり34歳ごろに七代目儀兵衛を相続している。(後年梧陵を名乗る)

安政元(1854)年、梧陵35歳の時に紀州広村において安政大地震に遭遇、私財を注ぎ込み震災の救済と復興にあたる。 
浜口家(ヤマサ醤油)は江戸にも店があり、千葉と和歌山を行き来するかたわら、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を深めていた。 
開国論を賛じ、外国と対抗するには教育が大切と、広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いている。現在の耐久中学、県立耐久高等学校の前身でもある。

幕末に生まれた浜口儀兵衛は、実業家としての働きと共に卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから明治政府にも招かれ、和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て中央政府へ進出、初代・駅逓頭(郵政大臣・総務大臣に相当)になって近代的な郵便制度の創設に当たったといわれる。

現在(2006年)、小泉総理の下で郵政民営化の論議が盛んであるが、(小泉首相の信条)やがて、平成の時代には民営化はされよう。
明治期、初代の郵政大臣になった浜口梧陵は、既に郵政事業は民間に任すべし、と持論を展開していた。
『 郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、将来は民間の経営にゆだねるがよい 』・・と。 
梧陵は代々の大事業家として、紀州和歌山藩の藩政改革の責任者として、又、莫大な私財を投じて津波防災堤防を建設した者として、公益の事業は国や藩自らが行わなくとも、「」の活動を通じて社会に貢献し、実現することができると考えていたのである。

一方、当時の逓信改革の先鋒だった「前島密」(まえじまひそか)は、『 今、日本は諸外国に比して弱小で切迫した状況下にある。中央集権の実現と海外圧力に対抗する国家の組織強化は緊急を要する。郵便通信は「国家の神経なり、急ぐことを第一」として官営の名の下での公益達成の追求が必要である 』・・とした。

二人の持論は政略の無い国家的持論で、どちらも正論であったが、当時の世相論理としては前島論が支持されて、官営としての郵便網が完成している。 

しかし目を転じて平成の世は如何か・・?、
世界の中の日本の状況、経済の安定性、国家財政の窮迫、これらに鑑み、国は三位一体(国庫支費を削減する:税源を地方に移譲する:地方交付税を見直す、という三つのことを同時に実施)・地方分権を目指し、小さな政府で官から民へと移行しつつあるすう勢である。
今にして浜口梧陵の精神が生かされる時では・・と思われるが・・?

更に追記
郵政民営化」は、先ず郵政民営化法案が小泉内閣と国会賛同を経て平成17年(2005)に成立している。 その後、議決された法律に基づき平成19年(2007)10月に実施され、郵政公社が日本郵政グループに分社化された。
旧郵政省から継承されて運営してきた郵政事業は、郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)と郵便局の窓口サービスを国から民間会社の経営に移行した。

梧陵は国会の研究、開設のため欧米の見学行を企画し、65歳で欧米の制度を視察している。 
大いに国家に授益せんとして海外への視察旅行中、アメリカ・ニューヨークで客死した。享年66歳だった。
生前、広村の村人たちが梧陵の積年にわたる恩に報いるため、「浜口大明神」なる神社を建てようとする動きがあった。 しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかったという。
広川町役場前に「稲むらの火広場」の銅像が建ち、耐久中学校の校庭に「梧陵翁」の銅像が建つ。

次回は、紀州・「神の地・和歌山」 



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)
  FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」
   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床
   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007
   九州旅行2008   沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」  
 
.
 
.
.
 
 
日本周遊紀行(49)印南・由良 「日本の味」



紀州南部は、日本人の「味」の古里であった


更に地域が前後するが、印南町(いなみちょう)の事である、こちらはカツオブシの発祥の地といわれる。
暑い時期に大量に釣れるカツオを永く保存し、遠くへ送るための技術としてカツオブシの製法が発明されたいわれる。 

印南の漁師たちが操業中遭難して土佐の港に漂着した、以来、土佐の宇佐浦に住み着いて「土佐の宇佐に造っていた漁業基地」で生まれたため「土佐節」と呼ばれた。
土佐人は「宇佐はカツオブシの発祥地」である、と言うが間違いではない。 だが、元々は宇佐にいた「印南」の漁師たちが考案したものであるという。
因みに「土佐の一本釣り」として知られる漁法も、印南の漁師が伝えたものという。

かつお節」或いは、かつお節らしものは既に縄文期の頃から食されていた、というのは遺跡などからも明らかにされているという。 
そのルーツを文献から辿ってみますと、鰹節に関する文献は数多くあり、中でも「古事記」にも「型魚」という言葉で登場しているらしい。
カツオの加工品が当時の貴重な贈答品、賦役品になっていた。

日本人が普通に食するようになり発展したのは江戸中期であり、紀州・印南浦(印南町)の人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(焙乾法とも)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。
古来、かつお節は武士の「兵糧食」として欠かせないものであり、「三河物語」等の兵法書に兵糧食としての記述があるほか、「かつおぶし」が「勝男武士」という名前で、縁起のよさもあることから日清・日露戦争でも使われたという。



次に「由良」の興国寺と調味料について

小生、関東・相模の人間として、先ず由良町の「興国寺」のことを記さねばならない。
克って、白隠禅師(駿河の国・原の名僧、松蔭寺)によって「紀に興国寺あり」と云わしめ、宗風一世を風靡し「関南第一禅林」として世に知られた名刹とされている。 国道42号線沿いにある臨済宗妙心寺派(拙宅、同様の宗派)の古刹寺院で、開祖は鎌倉時代の無本覚心(むほんかくしん・法燈国師)である。

時は鎌倉期、鎌倉三代将軍・実朝が、弟・公暁に鶴岡八幡宮で殺されたことは、あまりに有名であり「鎌倉の項」でも述べた。 

「ホームページ」 http://orimasa2005.web.fc2.com/km-1
「鎌倉紀行」 http://orimasa2005.web.fc2.com/km-1


その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢である宋(中国)へ渡る船の準備を「由良」の港で行っていた。
主人の死を知った葛山は、その苦諦(くたい:この世界の一切存在は苦であるという真理)を弔うため高野山に入る。
その時に知り合ったのが若い「覚心」であった。
故主人・実朝の供養ぶりを知った当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え一寺を建てた。
これが興国寺の始まりで、無本覚心が開山したものである。

覚心は、開山まえの修行中、道元禅師(曹洞宗・永平寺の開祖)に参じて宋(現在の中国)に渡り、尺八を吹きながら修行し、虚無僧(こむそう)姿で帰朝したという。
これが、現在の虚無僧の起源で、この寺は虚無僧寺院(主に普化宗という日本の仏教の禅宗のひとつ。普化とは、尺八を吹きながら旅をする虚無僧行で有名)の総本山でもある。


金山寺味噌と溜醤油

覚心和尚は中国の径山寺(キンザンジ)で修行し、この時、食事を摂りながら味噌の作り方を学び、日本に広めたのが「金山寺味噌」であるという。
この金山寺味噌を生成する際、桶底に溜まった液から、溜醤油(たまりじょうゆ)というのが誕生し、更に加工したのが醤油であるといわれる。 
覚心は、醤油の製法をもあみ出し、隣の湯浅町に伝えたという。

その後、湯浅の職人が黒潮ルートで房総半島に渡り、銚子において醤油醸造業として発展し、更に江戸期に利根川水運が開発されるに及んで、江戸、関東に広まるのである。
又、紀州徳川藩は湯浅醤油を庇護し、全国に販路を拡大することになる。 
現在も「湯浅醤油」は昔ながらの製法で造られているという。

紀州南部の沿岸地は、南部には紀州梅、有田の蜜柑、そして味噌、醤油、カツオブシと、日本人の食、味の発祥地だったのである

次回は広川 「広村と津波



【小生の旅のリンク集】
周遊ぶろぐ  FC2ブログ  FC2HP   gooブログ  yahooブログ  C・掲示板
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集
山のエッセイ
 
 
 
 
 
.
.
 
 
日本周遊紀行(48)有田 「蜜柑・みかん」 



梅の後は、「蜜柑(みかん)」のことである、  

」の南部町から「みかん・蜜柑」の有田へは地理的にはチョッと飛んでしまうが、有田市を中心とした有田川沿いの地域は古くから蜜柑の栽培を地域ブランド・有田みかん、紀州みかんとして全国に名を馳せている。


『 沖の暗いのに 白帆がみえる あれは紀の国 蜜柑船 』

江戸期、紀伊国屋文左衛門が「有田みかん」を積み込んで、江戸へ船出する光景をの風流俗曲に唄ったものである。
紀伊国屋文左衛門の生誕地は諸説あるが、有田郡湯浅町別所あたりが有力とされている。

江戸・元禄時代の1685年、台風の当たり年だった江戸では蜜柑が不足しており、価格も高騰しているに違いないと考えた文左衛門は、港に山済みされた出航待ちの蜜柑1200両分、7000篭を積み込んで嵐の中、船磁石(船のコンパス)を頼りに太平洋へと漕ぎ出した。

蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは大歓声をあげて文左衛門を迎え、命懸けの航海は成功をおさめる。 蜜柑は何と元手の30倍の金額で売却できたと言われている。 
故郷で産するミカンを江戸に運び、帰りの船で江戸から塩鮭など江戸前の海産物を上方に運送して財をなした文左衛門は未だ20代であったという。

彼が活躍したのは江戸時代の前期、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令した時代であった。 
財を成した彼は、江戸の京橋・本八丁堀に材木問屋を開業している。 老中・柳沢吉保と結びつき御用商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負ったりもした。
こうした事業は巨利を生み、一時期の全盛をきわめたが、日常生活でも金銭を惜しまず、吉原で豪遊したため「紀文大尽」とまでよばれた。
その活躍は江戸中で評判となり、彼は有名人になり俗曲やカッポレに歌われるまでになったという。
しかし、幕閣が引退したことで幕府御用達の特権も奪われ、商売も奮わなくなり衰退してゆく。 深川八幡に閑居した後、66歳で没したという。


日本一の梅の町である「みなべ町」のことは先に述べたが、ここ「有田」は古くから日本一の蜜柑の産地である。 
紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸まで運んだ蜜柑は、当然「有田みかん」である。
今でこそ関東以西の各地から(主に太平洋側)生産、流通されているが、我等幼少のころは「温州みかん」といって、和歌山産の有田みかんが主流であった。


よく温暖地は蜜柑(みかん)で、寒冷地は林檎(りんご)が生産地として一般的であり、蜜柑が青森で生産され、鹿児島で林檎が育ったとは余り聞かない。 
ではどの辺りが生産地として境界に当たるのか・・?、
実は小生の住む神奈川県辺りが境目と言われる。 
味の良否、産出量の違いはともかくとして東西が融合した、蜜柑、林檎、梨、葡萄、桃、梅、等の国内の代表的な果物の大半は小規模ながら育生されていると聞く。


ともあれ今、日本、世界には数百種類ほどのみかん科の果樹、つまり柑橘(かんきつ)があるという。 その中でも日本人に一番身近で親しみのあるのが「みかん」の愛称で通用している「温州みかん」である。
そして、その本場とされているのが和歌山県の有田であり、「有田みかん」である。


温州みかん」の温州とは一体何か・・?、 

中国・浙江省の温州地方から入ってきたのがミカンの産地を称して、「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか。 しかし、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないともいわれる。 
日本の蜜柑の発祥地は鹿児島県長島ともいわれる。

紀州・有田に「温州みかん」として移入されて来たのは江戸中・後期頃であった。、
有田の人々も温州みかんの品種の良さに目を付け、更に改良を重ね、気候風土も適合して、有田の農家は本格的に温州みかんの栽培を始めたと云われる。 

明治初期には、有田から東京神田の青果市場へ初めて温州みかんが出荷され、大変な甘味で美味なると評判をよび、高値で取引されるようになった。 
東海道線が開通するに及んで、有田みかんは海上輸送の熊野灘経由を止め、大阪経由の鉄道便を利用するようになると天候に左右されずに計画的に出荷出来るようになる。 
当時の箱詰めみかんの販路は東京7割、大阪2割、名古屋1割であったとされてる。

最近の蜜柑ブランド名は産地地域の名称が主で、温州みかんという名称は消えつつあるようだが・・?

次回は、印南、由良「日本の調味料」の発祥地



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)
  FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」
   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床
   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007
   九州旅行2008   沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」  
.
 ...

.
 
 
日本周遊紀行(47)南部 「南高梅」 


南部地方の「南高梅」 


国道42を一山越えれば南部町である。  
『 一目百万、香り十里 』と言われ、南部(みなべ)梅林や岩代大梅林といった日本一の梅園の大パノラマが特徴である。
そして日本一の、みなべの南高梅・梅干の産地であることは周知である。

は中国が原産で、約1500年前に日本に伝えられたという。 
中国では古来、青い梅を真っ黒に燻して烏梅(うばい)として健康食に利用されてきた。 
日本では平安期より既に梅干として利用していたという。

 
南部地方は、元よりあまりコメが育たない田畑であった。 
これを見た南部地方を治める「田辺藩主」は、以前からあった「やぶ梅」に注目し、米のできないやせ地や山の斜面に生命力のある梅を植えさせ、梅の育成につとめたという。
やぶ梅」は果肉が薄く小粒であったが、果肉をこめかみに貼り頭痛を治したり、握り飯に入れたり、その価値は大きいものであった。 
江戸期に入ると田辺藩主が好んで梅の栽培を奨励し、この地区を免税にしたことから一気に広まっていった。 
又、梅を栽培するのにも、この地方の自然環境も大いに役だった。 
先ずこの地方が温暖で多雨であること。 更に、地質的にも植物の成長には欠かせない 炭酸カルシウムの成分が多く含んでおり、梅は特にカルシウムを好むという。
南部の土は梅の生長にうってつけだったのである。

梅の種類は300種もあるというが、其々の土地に適した品種が定着している。 
その内の一つ「南高梅」は南部で誕生、定着した梅である。
明治期、「 大果で豊産、陽光面が美しく紅色に着色する個体 」、これらを母樹とした高田梅という品種が更なる品種改良が行なわれ、昭和期になって県立南部高等学校の研究によって今の南高梅ができたという。 
南部高等学校を通称「南高(なんこう)」と呼び、高田梅の新品種であることからこの梅を「南高梅」と命名したという。


現在、「南高梅」は梅の条件とされる「 皮が薄く、種が小さく、果肉が厚く柔らかい 」という要素を全て持ち合わせ、ミネラル分も多く含み、みなべ町で栽培される梅の7割以上を占める梅のトップブランドとして全国に、世界に知られるようになった。
今では日本の梅の収穫量の約半分は南部と周辺で収穫されているという。

南部」は、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む、2004年(平成16年)10月1日に内陸隣接の「南部川村」と合併し、平仮名表示の「みなべ町」となった。

日本一の梅の町である「みなべ町」役場には「うめ課」という担当業務があるとか。

次回、有田の「蜜柑・みかん」



【小生の旅のリンク集】
周遊ぶろぐ  FC2ブログ  FC2HP   gooブログ  yahooブログ  C・掲示板
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集
山のエッセイ
 
 
 
 
 
.
 
 
 
日本周遊紀行(46)田辺 「弁慶と闘鶏神社」 



イメージ 1
田辺市湊町に鎮座する闘鶏神社


田辺は武蔵坊弁慶の出身地、その闘鶏神社との取り合わせは・・?、

崎の湯を後にして、昨日の牟婁の温、白良浜海岸から湯崎と白浜地域を半周して田辺へ向かう。 
県33号をそのまま田辺市街へ行くと、ほぼ中心に「闘鶏神社」なるものがある。


闘鶏神社とは妙な名称である。

鶏(にわとり)の種類の一つにシャモ軍鶏)がいる。
最近では余り見かけなくなったが、遠い昔から世界中で行われてきた闘鶏を目的に品種改良された屈強頑丈な鶏である。 
現在では、動物保護団体、宗教団体などの反対にあって闘鶏はほとんど禁止状況に置かれているが、大昔からの歴史もあり、人々の暮らしの中で楽しみの一つに挙げられた事実がある。
この熊野の国の田辺も闘鶏が盛んだったようで、或る事がきっかけで闘鶏神社の名が付いたと言われる。


鶏神社は、由緒正しき熊野参詣の宮であった。

紀元400年代(古墳時代)に創建されたという闘鶏神社は、元々は由緒正しきは「田辺の宮」、「新熊野権現宮」と呼ばれていたらしい。
熊野権現(現本宮大社)を勧請し田辺の宮と称したが、更に、後に熊野三所権現(熊野速玉大神、那智大社、熊野本宮大社)を勧請し、熊野三山各社の御祭神に替えたと云う。
いわば三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を担ったとされる。

神社は熊野街道の分岐点(大辺路・中辺路)である要衝地としての田辺に鎮座している。
遥々、京・大阪から「熊野詣」に来た人々の多くは、ここからが本来の険しい「中辺路参詣道」、「大辺路参詣道」である。
これら先の急峻な道には耐えられず、ここで「熊野まで来た・・!!」ということにして、多くの人々が熊野三山に擬して拝み、引き返したとのことである。 
熊野三山側が「出張サービス」をして、この地に鎮座した権現宮なのである。

主意書によれば歴代の上皇、法皇、公達の高家の人々も熊野参詣時は当宮に参詣宿泊し、心願成就を祈願したといわれる。


闘鶏神社と湛増、弁慶の因縁

JR紀伊田辺の南方400mのところに、その熊野別宮・闘鶏神社が鎮座して、境内には「@湛増」と「弁慶」の像がある。 
田辺市は「弁慶」の生誕地であることは地元では広く信じられていて、熊野別当湛増(熊野水軍の首領)の子だとも言われるが詳細は不明だという。 

弁慶が若い時分には鬼若と命名され、比叡山に入れられ自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。 
その後も乱暴狼藉を繰り返し、「京」では千本の太刀を奪おうと道行く人を襲い、既に999本まで集めてあと一本ということろで五条大橋で義経と出会う。
大橋で笛を吹きつつ静かに通りすがる義経めがけて弁慶は挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経に適わず返り討ちに遭ってしまう。弁慶は降参して、それ以来義経の純朴な家来となった。 
時代は移って源平の合戦の頃、「一の谷」の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになった。 
熊野水軍の統率者である熊野別当・湛増への働きかけが戦の勝敗のポイントとなり、源・平双方共「湛増」を味方に引き入れようと激しさを増していた。
義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に戻り、父・湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽を源氏、紅い鶏七羽を平家に見立てて(紅白の運動会などの対抗戦は、源平合戦が由来)闘わせ、「神意」を確かめた。

結果、白い鶏が圧倒したことで弁慶の「源氏」側についた。
湛増指揮のもと弁慶を先頭に総勢ニ千余人、二百余隻の舟に乗って堂々と「壇ノ浦」に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たしたのである。(@NHK大河ドラマ「義経」で放映・・)

後には兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行、山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。 
平泉で急襲を受けた弁慶は義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて仁王立ちのまま死んだ。 
怪力無双の豪傑と主に対する従順なる僕として、古来「弁慶」は日本人に愛され、各種物語の舞台や弁慶に因む言葉や名前が多く残るのである。

この時の闘鶏の地が「田辺の熊野別宮」で、それ以来この宮を「闘鶏神社」と異名を付けたと言われる。 武蔵坊弁慶の出生地とされる田辺市には「弁慶まつり」があり、彼に所縁のある史跡も多いというが・・。


田辺は辺路の分岐点でもあり、口熊野とも称した。

田辺は、熊野三山への主要な参詣道である中辺路(内陸国道311号沿い)と大辺路(海道R42号に沿う)の分岐点にあたる、別称「口熊野」とも称している。 
中辺路は、熊野古道でも最も良く整備保存されている古道で、歴史国道にも指定されていて川湯温泉や湯の峰温泉、本宮大社に到る古道である。
大辺路は海の景観の良い海道で、山道で白浜温泉、串本、那智勝浦温泉から那智大社や青岸渡寺、新宮大社に到る道である。


田辺の、「南方熊楠」(みなかた くまぐす)翁の事

紀伊山地・・」が、2004年に世界遺産に登録されたが、明治後期から大正期にかけて南方熊楠の自然保護活動によって、熊野の大自然は護られたといわれる。 
この活動が無かったら、熊野の神仏に纏わる自然林は伐採され、跡形も無くなり、古道は破壊されて今日の世界遺産どころではなかったかもしれないのである。

南方熊楠 (みなかた くまぐす:1867年4月15日〜1941年12月29日)は、和歌山が生んだ博物学者、菌類学者、民俗学者で、菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。
幼い時から、驚くべき記憶力の持ち主で、歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者でもある。 
東大に入学するが同期には夏目漱石、正岡子規、秋山真之(海軍参謀中将・日露海戦でバルチック艦隊を破る“本日天気晴朗ナレドモ浪高シ”“皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ”などの名句がある)などがいたが、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ、翌年、落第を契機に中退してしまう。 
19才の時にアメリカに渡り、粘菌の魅力に採りつかれて研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど、苦学しながらもその後には渡英する。 

その抜群の語学カと博識で、大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表しているという。 
また、孫文と知り合い意気投合、以後、親交を結んでいる。 33才で帰国すると、紀州・田辺に居を構えている。
それ以降も、精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。
一切のアカデミズム(学問・芸術至上主義、また、学問・芸術における権威主義的傾向)に背をむけて・独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は、奇人呼ばわりされたが、実はやさしい含羞(がんしゅう:はにかむ、てれる)の人でもあり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。


昭和天皇に拝謁し、標本進献した南方熊楠

南方熊楠は明治政府の発した「神社合祀」(神社整理ともいう・複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させる)には真っ先に反対し、運動を始める。 
神社林が伐採されることにより、研究材料である隠花植物(いんか・・、花や種子を生じないで胞子で繁殖する植物及び菌類の総称・コケ、シダ、藻類)や粘菌が絶滅してしまうことを危惧したというが、同時に自然保護運動に傾注し、(自然保護運動の先駆者)明治政府や地元行政官を説得し、これを成功させるのである。
こうして熊野の森は護られたのである。
1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島(和歌山県田辺市)に行幸をした際、熊楠は粘菌などに関する進講を行っている。 
この時キャラメル箱に入れた粘菌標本を、昭和天皇に進献したエピソードはよく知られているという。

1941年(昭和16年)、75歳にて死去。田辺市中屋敷に南方熊楠旧居があり、白浜半島先端に@南方熊楠記念館(博物館)が在る。
南紀の海を望む館の前には、昭和天皇御歌碑が建つ。
後年(1962年)昭和天皇は、南紀白浜に再訪された時、海上の神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んでいる。


『 雨にけふる 神島を見て 紀伊の国 
            生みし南方 熊楠を思ふ
 』

と熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる 。

闘鶏神社の社殿背後に仮庵山(かりほやま)という、鬱蒼とした自然林が在る。 

南方熊楠は仮庵山のことをクラガリ山と呼んでいたようで、熊楠は「 @当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と述べている。 
クラガリ山の老楠が伐採されたとき、熊楠は猛烈に講議し、そのお陰でそれ以上の伐採は免れたという。 
熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」としていたともいう。

田辺は2005年5月に龍神村、中辺路町・大塔村、本宮町と合併し、新しい田辺市となった。 これにより面積が1,000km2(全国市町村・22位、全国市・16位)を超える近畿地方最大の面積を持つ市となっている。

次回は、南部(みなべ)の「南高梅


【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)
  FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」
   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床
   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007
   九州旅行2008   沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」  
.
 ...

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
orimasa
orimasa
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事