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日本周遊紀行(45)南紀白浜 「崎の湯」 




白浜名物「崎の湯」(波が荒い時は波打ち際の浴槽は使用不可になる)


南紀白浜の海辺の「崎の湯」は絶品であった

白浜の「かんぽの宿・白浜」は白を基調とした三階建てで、「くの字」に曲がった建物はチョットしたホテルを連想させる。 清楚な館内はホテルの堅苦しい雰囲気を取り除いた気楽な感じでもあった。

順調に目覚めた後は、先ずは朝湯に駆け込む。 

著名な温泉場故の当然24時間営業である・・?。
良質な温泉の場合は小生、必ずと言ってもいいほど、滞在した宿では三回入浴することにしている。 先ず到着後の食事前に一風呂、就寝前に二風呂、そして翌朝の目覚めに三風呂というふうに。

脱衣所では海が傍であるせいか、開いた窓の隙間から強い潮風の香りが感じられる。
白浜に来てるんだなと実感である。  浴室はこじんまりとしてはいるが清潔感があり、露天風呂も揃っていた。
しかも内湯に炭酸泉、露天風呂は含食塩重曹泉といった2種類の構成になっていて満足である。


眠気をサッパリと洗い落とした後は、朝食までの時間を観ながら「千畳敷」へと散歩へ出かける。 宿の横からスロープを下った、松林の向こう側にあり、徒歩で3分位であろうか・・?。

千畳敷は白浜の名所の一つになっていて、観光プポットになっている。
白浜の中心地より1kmぐらい下った、瀬戸崎から太平洋に向かって突き出した、広大に広がる岩盤地帯をいう。
今日も快晴無風、早朝の陽光が岩肌に反射してキラキラと光り輝いて見える。
 

心身ともリフレッシュして、「かんぽの宿・白浜」を出発とした。
先ずは昨日定休日であった「崎の湯」へ向かう。


豪華、波打ち際の露天風呂・「崎の湯」
白浜でも波打ち際の露天風呂という特徴があり、白浜の数ある外湯のうち最も人気があって、どうしても訪れて見たかった場所である。 
海岸道より路地風の横道を入ると、わりとゆったりした駐車スペースが在った。 入浴客としては小生が、どうやら一番のりらしく、午前8時から開場している事は昨日訪れていて既に承知していた。 300円の入湯料を払い、何故か瓦屋根つきの門構えを潜って浴場へ向う。

木戸を開けると木の塀で囲まれて、手前側と海岸よりの奥にと二箇所の野天風呂があった。 粗末な(純朴で良い・・)脱衣場もこの一角にあり、手前側の石垣の間から出る湯口の周りは既に析出物でびっしり、勿論、湯船の回りもである、温泉成分の濃さが判るというものだ。

何はともあれ、早速、湯に浸かる。
露天浴槽に入りながら波立つ大洋を見ることができ、潮騒の音が心地よい。 海辺に近い浴槽などは大きめの波がくるとザザーッと飛沫を被る時もある。
いやはや正しく、風流さもさることながら、豪快そのものでもある。
源泉温度は83℃というが、適度に下げてあって小生が入ったときは丁度の適温湯だった。


聞くところによると、この湯はつい最近までは無料であったらしいが、2003年から拡張工事(特に女性湯)と改修のため、工事費用に数千万円かかり、そのための有料徴収しているとのこと。
因みにこの「崎の湯」は日本最古の湯と言い伝えられ、先に記したが日本書記に有間皇子や斎明天皇、中大兄皇子も浸かったと記録が残っている由緒正しき温泉なのである。
入口の表示板にも八代将軍・吉宗(江戸幕府の第八代将軍・徳川御三家の紀伊藩の出身)の入浴も記録されているという。


帰りしな係員のオジサン(小生も完全なるオジンだが)が小生に寄って来て、

「 相模No だけど神奈川からかね・? 」
「 ハイ、厚木です 」
「 私は相模原だけど、数年前、定年退職で白浜に住宅を求め、住むようになったかですよ・・なつかしですな・・! 」
「 いやー、そうですか、それにしても結構なところへいらっしゃって、結構な仕事も見つけられて、結構な事ですね 」

・・と、しばらく雑談にふける。
聞くところ、未だ開店間もないのが毎度のことで間もなく駐車場は満杯になるそうだ。
気が付くと数台の車が横付けされ、すでに浴客が向っていた。 やっぱり、この湯は有名どころで人気もナンバー1らしい。


実は私達夫婦は2002年9月に南紀地方の主要部、つまり熊野三山参詣や熊野古道の一部を観光している。 
その後、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのであった。
これらの紀行内容について、ここ南紀白浜が出発地であったことも併せて、別の項世界遺産と「紀伊山地の霊場と参詣道」として記しているのでお楽しみいただきたい。
ただ、今回の「日本周遊」の旅とは、進行方向は異なるので地域によっては記述の内容が、若干重複している箇所があるかもしれない。

日本の世界遺産   『紀伊山地の霊場と参詣道

次は、田辺・「弁慶と闘鶏神社



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日本周遊紀行(45)南紀白浜 「温泉と都人」 


イメージ 1
白浜湯崎にある立寄り湯の「牟婁の湯」


平安期・都人の保養地・「牟婁の温湯」

峠のトンネルを抜けると白浜町である。
下りきったところが「椿温泉」で白浜温泉の隠れた温泉地だといわれる。 
海岸の岩間から湧出している冷泉で、その泉質はきわめて良質、湯治には最適といわれている。 江戸時代から紀州藩の武士や近郷の農家の湯治場で、奥白浜温泉との名称でも親しまれているという。 
国道沿いに数件のホテルや旅館が海に面して点在している。 
明るい砂浜の海岸は海水浴場のようだ。


紀伊の名湯・「白浜温泉」
国道42号は富田川岸から富田橋を渡り、更に白浜温泉方面への県道34号に分かれる。 
白浜空港下のトンネルを抜け、名勝の三段壁や千畳敷(別項記載)を通過して温泉中心街の湯崎へ向かう。 
海岸に出たあたりで、外湯で磯浜にある「崎の湯」を覗いたが、あいにく本日は定休日とのこと・・残念無念!!。


この辺りはすでに硫黄の香りが感じられる、気が付くと崎の湯の入口付近には源泉タワーがモウモウと白煙を噴出している、さすがに温泉地・白浜である。 
近くにオッサンらしい(小生もオッサンだが・)人が居たので・、

「 崎の湯は休みなんすね・・、他に外湯というか、共同湯てのはございやすかね・・? 」、
「 温泉かね・・、ホレ、あすこに見えるんが ムレの湯ちゅう、共同浴場だがね・・、
 」 

確かに白っぽい二階建の建物が防波堤越しに見えていた。 


海沿いからY字路になっている間に在り、浴場の前は小さな園地と駐車場になっていて、何やら石碑がデンと座っていた。 
玄関上に大きな看板で「牟婁の湯」(ムレでなく、ムロと読む)とある。おもムロ(シャレたつもり)に引き戸を開けて中に入る。
復古調のフロントがあり、なかなかいい雰囲気である。
浴室は両窓がついて明るく、二つの浴槽が有って、それぞれ違った源泉の湯が注がれている、聞くと其々源泉種が異なると言う。 


牟婁の湯に早速、浸かる・・熱い!!、でも気分爽快・・!
源泉湯船には、各々名前が付いていて「行幸の湯」という、何とも意味深な名である。 
こちらは含重曹食塩泉といい、入るとツルツルし泉温はかなり高い。 
飲泉も可能で味は、さすがに海辺のせいか塩っ辛い。 他方は「砿湯(マブユ)」といい、こちらは食塩泉でもっと塩っ辛い味がする。 
熱くて(源泉70〜80度)当然水で薄めてはいるが、元々温泉成分が濃いためか、温泉臭が充満していて満足である。 
一つの施設で二種類の湯が味わえる、さすがに名湯・白浜である。

外の石碑には「湯崎七湯」としてあって


『 ふる国の 磯のいで湯に たずさわり 
             夏の日の海に 落ちゆくを見つ
 』


茂吉(斉藤茂吉)とある。 


湯崎温泉は奈良朝以前より「牟婁の温湯」と呼ばれ、明治初期から崎の湯、屋形湯、阿波湯、疝気湯、元の湯、浜の湯、砿湯の七湯を「湯崎七湯」と称し、来泉客に親しまれた。 
併せて、明治初期 鉛山村の図と記されていて、下に当時の温泉の略図が描いてある。

白浜は鉛山村・・?白浜は先ず奈良朝の日本書紀や万葉集などに「牟婁の温湯」、「紀の温湯」という名で登場してくる。 
戦国後期に鉛鉱山が発見され、江戸期には紀州徳川藩の直轄領となっていて、その頃から鉛山村と称していたようだ。 
鉛が採れなくなった頃から鉛山温泉、湯崎温泉と名前が変わって湯治場として発展し、昭和15年、町制の施行によって「白浜町」となったという。


白浜は往時、貴人の保養地として有名であり、しかも、ある種の事件の背景にも成っていた。 
奈良朝期、大化の乱(大化の改新)に関係した有間皇子(ありまのみこ)、斉明天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじが・後の天智天皇)らが湯崎の仮御所として保養に来られた。
又、斉明天皇の他にも持統天皇、文武天皇等が行幸し、白浜温泉は都人にとっては、この上もない保養地であったという。

日本書紀」によると、この白浜の地で有間皇子(孝徳天皇の子、中大兄皇子等が行なった「大化の改新」によって大化元年・645年、父の孝徳天皇が即位している)は謀反のかどで中大兄皇子に裁かれ絞首されている。 
大化の改新から13年の後であった。


序ながら、中大兄皇子、藤原鎌足等が行なった「大化の改新」とは・・?、
飛鳥時代に発布された改新之詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革であり、天皇中心、中央集権の政治への転換した一大政治改革である。
6〜7世紀にかけて、聖徳太子の上宮王家(上宮:聖徳太子の別称)を滅ぼし、大和の朝廷で権勢を振るう大豪族・蘇我一族の蘇我蝦夷(そがのえみし)、その子入鹿(いるか)は専横を極め、天皇家を凌ぐ力をもった。 

しかし、中大兄皇子らのクーデターで宮中での蘇我入鹿は暗殺、蘇我蝦夷は自殺した。 
この蘇我宗家の滅亡事件をこの年の干支に因んで乙巳の変 (いっしのへん) という。 その後の中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足らによる一連の改革を、年号「大化」としたため大化の改新と呼ぶに到った。


《追記》
以前から奈良の明日香村ではキトラ古墳や高松塚古墳といった。
飛鳥時代の古跡が発見されていて、周辺には石舞台や大型建物跡の遺跡も見つかっていた。 

又、本年(2005年)、今度は蘇我一族の館、特に、理想と野望の独裁者と言われる「蘇我入鹿」の邸宅の一部とみられる建物跡が明日香村の甘樫丘(あまかしのおか・天皇の宮殿のあった飛鳥盆地を見下ろす超一等地)で見つかったという、事実であれば世紀の大発見とも言われる。
これらの事柄は、乙巳の変、大化の改新、壬申の乱(じんしんのらん)といった事件の中で日本書紀に記載されている事項と一致する部分もあるとか。 

元来、古事記や日本書紀は伝説、伝承部分が多く、事実、真実は少ないとされてきたが、昨今の遺跡の発掘等によって、これらの史書の信憑性が高まるのではともいわれている。
 

白浜温泉は日本三古湯(白浜、有馬、道後)にして、また三大温泉地に数えられる湯処である。


さっぱり湯から更に車を進めると、「白良浜」の海岸が南国情緒たっぷりに広がっている。 間もなく海水浴シーズンで、この温泉場も一段と賑やかになることだろう。 
白良浜沿いの浜通りから入ってすぐ、銀座通りに「足湯横町」なるものが真新しく出来上がっていて、足湯に浸かりながら飲み物や軽食を食することが出来るという。
全国初の試みとか・・??、何ともユニークでご満悦なことだろう。

白浜の湯とメインタウンをぶらついて、今夜の宿、千畳敷の真近くにある「かんぽの宿・白浜」に入った。
尚、「熊野地方」については、世界遺産・「紀伊山地の霊場と参詣道」に記載しています。

世界遺産  『<a href="http://orimasa2005.web.fc2.com/a10-mokuji.htm">紀伊山地の霊場と参詣道</a>』 

次回、更に「白浜



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日本周遊紀行(44)すさみ 「枯木灘」


枯木灘残照

左に串本の人気スポット「串本海中公園」を見ながら、「すさみ」へ到る。
すさみ」とは、ひらがなの妙な名前だなと思ったが、元々は「周参見」であり、周参見村が前身であった。 
読み難いので安直に「すさみ」にしたのだろうか・・? 


こちらにも大辺路街道の熊野古道が残る地域である。
JR周参見駅の国道42号沿いから、途中山間に分け入って、熊野灘を望む屈指の景観と往時の佇まいを残す、「長井坂」を抜けて見老津駅(みろつ)にかけてのコースである。
周参見の街外れ、周参見川辺りには熊野古道所縁(ゆかり)の「周参見王子神社」が残る。

古くから紀州の海、周参見の沖合いを航海する船乗りの間では、この地方を「枯木灘」と呼んでいた。

明治43年(1910年)発行の「周参見村郷土誌」には、『 周参見港より以南二色の袋港に至るの海上数十里一帯を枯木灘と称し、古来東牟婁郡大島港出港の上り船は、周参見港湾に寄港して風を避くるの外他に良港無きを以て、其海上を枯木と称し船人警戒するところなり、 』とあって、古くから呼称されていたことが伺える。

和歌山県が昭和29年、県立公園として「枯木灘海岸」の名称で制定し、周参見町と江住村の境界から、串本町有田の錆浦までの地域を指していた。

この枯木灘の参見駅湾に浮かぶ「稲積島」がいかにもいい。
神武天皇ゆかりの島というが、神武東征の折、食糧の稲をこの島に積み上げたという伝説からきた島名であるといわれる。 
青の海面に半円状のホッコリして浮かぶ緑濃い島で、色彩コントラストが良くここから望む夕景もまた絶品という。

地元紀州・新宮出身の作家・中上健次が長編小説『枯木灘』を描いている。
中上健次は1975年(昭和50年)、『』で第74回芥川賞を受賞している作家で、所謂、「紀州サーガ」と呼ばれる紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、独特の土着的な作品の世界を作り上げた。

又、最近では@歌手・都はるみが『枯木灘残照』を歌っていた、残照とは日が沈んでも、なお空に残っている光や夕焼けをいう。

枯木灘残照』  詞 道浦母都子

両手(もろて)にて君が冷えたる頤(おとがい)を
包みていしは冬の夕駅
君に妻われに夫(つま)ある現世(うつしよ)は
姫浜木綿(ひめはまゆう)の戦(そよ)ぐ明かるさ
歳月(とき)はながれて 歳月はながれて いまひとり
あゝ残照の枯木灘
 

歌の文句はチョッと判りにくいが、@歌人・道浦母都子(みちうら もとこ)の文語調の歌詞が良い。



紀伊は、紀伊山地と言われるほど、重畳たる山脈でその殆どは覆われている。 
しかもこの地域は日本一雨量の多いところである。 
折り重なるような山稜の間を、屈曲しながら多くの河川が急流を成して、太平洋、熊雄灘に落ち込んでいる。
これらの河川は上流、中流をとわず多種多様に造形されて自然の景勝を見せている。

@日置川は紀伊山地のほぼ中央部に水源を発し、中辺路や大塔村を経て日置川町、熊野灘、枯木灘に注ぐ、途中、日置川峡谷をはじめ多くの景勝地が見れる。 
水量も年間通じて多く、アユ釣りの本場であり、カヌー族のポイントでもあるという。

@日置川町は古座川同様、河川名を地域名にしていて、河口付近は巨大な中洲を形成している、このあたりも古座川に類似している。 
国道42は新道、旧道が折り重なるように、日置川の中洲を渡る。

日置の町はそんな河口のデルタ(三角州)地帯に、正に川と海の狭間の三角地帯に形成されているユニークな街である。
町のキャッチフレーズにも「山と川と海の街」と、真にズバリである。 
町の西側海岸は「志原海岸」といって、日置川が運んできたのだろう小さな玉砂利の明るい開けた浜辺が続く。

近くに「道の駅・志原海岸」が在ったので、小休止して、後は今夜の目的地「白浜」へ向った。

次回は「白浜



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日本周遊紀行(43)串本 「潮岬」  、



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潮岬灯台



潮岬で「地球の丸さ」を感じる・・??、

古座町の国道海岸を行くと、陸続きのような大幅な「大島」が至近である眺められる。
海岸を更に行くと、その大島に向って奇妙な岩の柱が縦隊になって並んでいる、名勝「橋杭岩」である。

詳細は別項、「世界遺産・南紀熊野」に記載
http://orimasa2005.web.fc2.com/nk-2.htm



日本中の海岸線を走っていて、海辺の風景を眺めるにつき壮絶なる断崖絶壁や多種多形の奇岩怪岩を目にし、自然の悪戯(いたずら)に思わず息をのんだり、呆れたりする。
昨年の東日本周遊の時で印象的だったのは、青森県・下北半島の佐井村の「仏ヶ浦」であろう。
国道(R338)が近くを通っているとはいえ、一般観光客には近ずき難く、人跡僻地のような海岸に奇岩が幾重にも屹立しているのである。
この橋杭岩は仏ヶ浦には及ばないにしても、弘法大師の伝説も有り、西日本では有数の景勝地であろう。


串本の街中より潮岬の灯台・・、

潮岬は、串本と砂州で結ばれた陸繋島(りくけいとう・砂州によって陸地とつながった島、潮岬・函館山など)で、この陸繋島全体を潮岬と言っているようである。
陸繋のつながった部分は殆どが串本の市街地となっていて、国道、鉄道も岬本島の陸繋部分にのりあげているようである。

潮岬へ向かうには西寄りの海岸を行くようになる。 足下の岩礁地帯が不気味である。 
対岸の海岸線もすっきり見えて、串本の海中展望塔らしき建物もぼんやり覗える。 
岬に着くと、そこは、さっぱりした広場は芝生で覆われていて(望楼の芝)、のんびりリラックスできそうである。
本州最南端の石碑などが設置してあり、眺めるまでもなく太平洋は絶景で、地球の丸さが実感できるのである。


「地球の丸さ」・・??、

ここで『閑話休題』、地球の丸さを机上で実証してみよう。
北海道・室蘭の「地球岬」でも記したが、水平線や地平線が丸く見えて、これが「地球の丸さ」を現しているというのはどうも錯覚らしく、地球の「丸み」は人の目の視界が感じさせるのだといわれる。

実際、或る大型客船の乗組員が4〜50mのマストの上から見ると水平線は丸く見え、(どう見ても角ばっては見えないだろう)その水平線までの距離は10数kmにすぎないという。
つまり半径10数kmの円の弧(円弧=水平線)を見ていることに成る。 
因みに、富士山(標高3776m)から見える水平線までの距離は凡そ220kmといわれ直径・440kmの円が見えてることになる。

地球規模で計算してみと、地球の平均半径を6000km(実際は6371km)とする、これを1億分の1に縮めると半径6cmの円 となる。
ノートに描くには丁度良い大きさで、実際に円を鉛筆で書いた場合、周囲の黒い線の幅は約 0.5mmとして、0.5mmを1億倍すると50kmになる。 
エベレストの山頂は8850mであるから、当然この線の幅の中に入ってしまう。 
これに人間の絵に描くとすると、人間は細菌より小さくなる。
序に、旅客ジャンボ機の飛行する高さは凡そ10km、積乱雲の高さは最も高いものでも20kmぐらいで、通常の人間の活動は、この「鉛筆の線の幅」の中に入ってしまうのである。 
つまり地球は、これほどデカイのであり、丘の上から海上の水平線を見て、「地球は丸い」と思うのは錯覚らしい。

地球の丸さを実感するには、昨今の映像からも判るとおり、どうやら人工衛星なみの高度(300〜1500km・静止軌道35000km)以上が必要ということになるらしい。
 



本州最南端に位置する潮岬灯台は、岬の突端に真っ白な姿で立っていた。

多くの灯台は、人里離れた小高い山の上などにあるのが普通だが、潮岬灯台は公園の一角にあり、皆がくつろぎながら身近に感じる灯台である。
灯台の基部には資料室、展示室らしい四角い建物が付帯し、灯台上部には見学用の展望テラスも在る。
小生は時間の都合で入場は控えた。


江戸末期、多発する海難事故にそなえて幕府は、イギリス・フランス・オランダ及びアメリカ四カ国と締結し、江戸条約というのを結んで主用地に灯台建設を決めた。

観音埼・剱埼(神奈川・三浦半島)・野島埼(千葉房総)・佐多岬(鹿児島大隈半島)・潮岬そして、隣の大島の樫野埼等・・、これらの灯台を「条約灯台」と言われるていた。
条約灯台とは、イギリス公使パークスから提示され、各国代表者との商議して決められた約束のもとに建設された灯台のことである。

潮岬と大島東端に立つ樫野埼灯台は、閃光灯の灯台としては明治初期には開設した日本最古のものといわれる。 
設計と建設指導者は、イギリス人技師「リチャード・ヘンリー・ブラントン」という人によって行われた。 

彼は、8年間日本に滞在して、困難に立ち向かいながら日本全国の沿岸に30余りの主要灯台を建設し、日本の灯台システムを確立した人物で、日本の灯台の父といわれる。
彼の胸像が横浜に貢献した人として、横浜スタジアムのある横浜公園の中、日本大通に続く入口近くにある。 台座の銘板に「リチャード・ヘンリー・ブラントン Richard Henry Brunton 1841-1901」とある。



串本・大島は実際の島で、途中、苗我島を挟んで二つの橋で結ばれている。 樫野埼灯台は大島の東の岬にある。 
この大島は「エルトゥ−ルル号遭難地」としても知られている。

明治23年、宮様夫妻(小松宮彰仁殿下)がトルコを訪問し国王に拝謁した答礼として、オスマン・トルコ帝国(現、トルコ共和国)のアブドル二世は、明治天皇への特派使節としてオスマン提督を日本に派遣した。 使節団650人は横浜港に入港し、3ヵ月間、両国の友好を深めた後、エルトゥ−ルル号は日本を離れ帰路に就いた。 

しかし、この時期、猛烈な台風に遭い、紀州・和歌山の串本沖で沈没してしまう。
このとき乗組員中600人近くが死亡したといい、69人は地元民・大島の村民による懸命の活動により救助された。
そして後に、日本の巡洋艦でトルコに送還されたのだったが、このことは、善意の遭難事件としてトルコの歴史教科書にも掲載され、国内でも同様で、当時、子供でさえ知らない者はいなかったという。 

その後、イランイラク戦争時の邦人のトルコ航空機による大量救出(NHKの「プロジェクトX」で両国に放送された)やトルコ大地震の義捐等、トルコと日本の間では、この遭難事件が縁で今も密接な親善関係が続いているという。

熊野灘の海流激しきこの海域を、本州最南端の潮岬灯台は西の海域を、大島の樫野埼灯台は東の海域を今も照らし続けている。


串本節』 和歌山民謡

ここは串本 向かいは大島
仲をとりもつ 巡航船
アラヨイショ ヨイショ
ヨイショ ヨイショ ヨイショ

潮の岬に灯台あれど
恋の 闇路は照らしゃせぬ
(以下繰り返し)

一つ二つと橋杭立てて
心とどけや 串本へ

串本といえば、この歌にあるように大島へは連絡船が売り物であった。
近年は串本大橋が架橋されて車で便利にアクセスできるようになり、時代の流れを感ずる。
 
次は、周参見の「枯木灘



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日本周遊紀行(42)古座 「古座川」  ,



清流・古座川と水爆実験の犠牲・第五福龍丸の因縁・・?、

紀伊浦神は静寂な浦神湾に面するが、熊野の古道はここを起点に熊野灘から分かれ山間に入りこんで、小さな峠越えを繰り返しながら那智の浜をめざしている。 
古道は浦神駅から国道やJRと別れて裏手の道に入り、休平を越えてその先太田川、市屋峠、ゆかし潟へと進む。

道の途中には石の階段、地蔵尊の道標等、古道の面影が随所に残り、コースの途中には先に通過した湯川温泉・南紀勝浦温泉等といった名湯も点在している。
ゴールの浜の宮王子(補陀洛山寺)で本道(R42)と再び合流し熊野速玉大社へ向かっている。


紀伊田原から古座の町に入る。

ほぼ中央に一級河川の古座川が流れる。 
海岸よりは「古座町」であるが、内陸部には古座町でなく「古座川町」もある。 むろん古座川を中心とした街で、町名の由来も川の名を当てたものであろう。 
清流・古座川は天柱岩、一枚岩、滝の拝といった10kmにも及ぶ奇岩巨岩が並び、上流では、まぼろしの滝、七川ダムといった名勝、景勝が並ぶ渓流でもある。


古座川河口付近には巨大な中洲がある。
現在は草むして水鳥たちのコロニーとなっていが、克っては住宅や工場が建ち並び、上流部には広場があって各種の興行や運動会なども開催されたという。
その中洲の下流部には木造漁船を造る造船所があって、一昔前の1947年(昭和22年)、かの「第五福龍丸」がここで建造されたという。 
そして、竣工した第五福龍丸は、日本有数のマグロ基地である焼津に引き渡された。

そして、1954年(昭和29年)3月、遠洋航海のマグロ漁にでた第五福龍丸は、中部太平洋・ビキニ環礁で行われたアメリカの「水爆実験」で被災し、「死の灰」を浴び、23人の乗組員が急性放射能症となったことは年配者の方ならご存知かもしれない。


乗組員たちは・・

『 夜明け前の暗やみの中に白黄色の大きな火の柱(せん光)が天に向って立ちのぼるのを目撃、空は黄色みがかった白から赤に、そしてオレンジに染まり、船員のひとりは、「太陽が西からでた」と叫んだ。その6、7分の後、大爆音があたりをゆるがせ、やがてキノコ雲が・・』
広島に投下された原爆の約1000倍の威力という。 

そして、被爆から半年後「久保山愛吉」氏が死去した。
間際に臨んで「 原爆被害者は、私が最後にしてほしい・・! 」と絶叫しつつ死んだという。

当時の世相は東西冷戦の最中と朝鮮戦争休戦後という状態であった。
そのため、日本国内で起った強烈な反核運動が反米運動へ移ることを恐れた米国は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「 米国の責任を追及しないこと 」との確約を日本政府から受け、事件の決着を図ったよいう。 
そのため被災者に渡った補償金は微々だったともいう。

実験後の死の灰や残存放射能の影響で、マーシャル諸島周辺には健康被害者が多発、政府に認定された島民は2003年末で約1870人に上り、うち約840人が死亡したという。


映画・「ゴジラ」の真意は・・?、

といころで、「ゴジラ」という映画はご存知の方も多いが、このビキニ環礁の水爆実験が映画のできるきっかけになったことは余り知られていないようだ。

ゴジラ」は水爆実験で太古の眠りから覚め放射能を帯びた怪獣となったゴジラが東京湾に上陸し、超高温の放射線を吐きかけて人間や建物を次々と消し去り、破壊していくという。
この映画は後に「 原水爆の恐怖と戦争の悲惨さを怪獣という形で象徴させた反戦・反核映画 」ということで評価も生んだ。


古座町には、「第五福龍丸」建造記念碑があり、東京・新木場「夢の島」にも、都立・第五福龍丸展示館があるという。

平成17年4月1日、和歌山県古座町は、串本町と合併し「串本町」となっている。

次回は、串本・「潮岬



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