『日本周遊紀行』

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和歌山県

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日本周遊紀行(41)新宮 「神倉神社」  ,



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巨大な岩塊がご神体の「神倉神社」



熊野川を境に三重県から、「紀の国」・和歌山県となる

河口付近の大河・熊野川は、熊野神社(速玉大社)を抱くように、巻くようにS字状に屈曲蛇行しながら流れる。
本来、川は急激蛇行などを嫌い、河跡湖(三日月湖)などを形成しながら、直線に流れようとするのが自然である。 だが、この地は堅い岩質である千穂ヶ峰・権現山という山塊に阻まれているためである。 


千穂ヶ峰の北部中腹には、御燈祭などで知られる「神倉神社」が鎮座している。
速玉大社は、元々は神倉山に祀られている神倉神社が元宮であったが、後に現在地に遷宮された社であり、そのため神倉山の古宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになり、町名の由来にも成っているという。

現在の神倉神社は、熊野速玉大社の摂社にあたり、新宮市西端の権現山の中腹に社殿はある。
神社社殿は急斜面の参道の上にあり、参道は見る者を圧倒するほどの、自然石を組み合わせ、積み重ねた数百段の石段からなる。 社殿裏には巨岩群があって、これが神倉神社の御神体の「ゴトビキ岩」と呼ばれるものである。


岩塊の周囲は注連縄で括(くく)られている。
ゴトビキ岩の下からは、弥生時代の遺跡である銅鐸などの破片も発掘されていて、おそらくは昔の縄文時代の祭事場ではないかと想定されている。
神道や神社などというものが存在する以前にゴトビキ岩は神として崇拝されていたのであろう。

古代の人は絶壁の上に神が宿ると信じていたらしく、自然岩を神体としているのは、先に記した「花の窟神社」や、滝を御神体とする那智の「飛瀧(ひろう)神社」とともに、古代の熊野の自然崇拝の姿を今日に伝えているものとされる。

熊野三所大神(熊野三山の神)が、熊野において最初に降臨した聖地が神倉山とされ、神倉山は熊野の根本であるとも考えら、熊野根本大権現とも呼ばれた。 

今でこそ速玉大社の摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)であるが、本来は速玉大社の御祖神であったのである。
尚、速玉大社など新宮周辺の所縁地については、別項で記載してます。

日本の世界遺産: 
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/

『紀伊山地の霊場と参詣道</a>』:
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-4-3.htm 



新宮の市域は、大半が熊野の山地である。 
狭い街の中央を国道42号が南北に貫通していて、市の外れよりR168が熊野川に沿って、その上流域である「瀞峡」や「熊野本宮社」へ向かっている。


小生はこのまま国道42号線を下る。 

宇久井の浜、赤色海岸と海の蒼を堪能しながら、紀勢本線(愛称・きのくに線)と並行しながら、那智勝浦の町へ入る。
那智大社方面へ向かう道の角に「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)がある。
世界遺産にも登録され、平安初期、南方に補陀洛浄土(海の彼方にある極楽浄土)を目指し渡海する上人達の出発点として知られてる。 


補陀洛渡海とは・・

生きながらにして小さい船に閉じ篭もり、観音浄土を目指すという。
つまり、生きたまま海の彼方にある観音浄土へ向い、生身のまま成仏(じょうぶつ)・即身仏(そくしんぶつ)になるという、日本宗教史上における稀有な現象として知られ、チベット仏教伝来の修行信仰の一つとされる。

補陀洛山寺は渡海上人を送り出し、また、その上人を御祭りしているお寺である。
現在は御堂が僅かに1棟座してはいるが、由緒ある寺院で「世界遺産」にも登録されている。
尚、詳細は

日本の世界遺産: 
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/

『紀伊山地の霊場と参詣道</a>』:
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-4-3.htm

へどうぞ。



南紀・東海岸から・・、 

国道沿いには那智勝浦温泉のホテルの各種看板が目立つ。 
中でも那智勝浦港への大きな案内版があり、港はこの国道より2kmほど先に在る。
この港の周辺が「勝浦温泉」の中心で、入江や岬、島に巨大ホテルが乱立している。
中でも、先般、我ら夫婦が泊まった「ホテル浦島」は、この地域で1、2を競う大きなホテルで独特な温泉である「大洞窟温泉忘帰洞」でも有名である。  (詳細は別項リンクに記載) 

南紀勝浦温泉は、良質の温泉と熊野三山周辺の行楽観光の拠点として人気があり、さらに昨年(2004年)熊野三山周辺地域が世界文化遺産に指定されたことで、一層の賑わいをみせるだろう。



湯川トンネルを抜けると湯川温泉・・、

その昔熊野詣での湯治場として栄えたといわれる由緒ある温泉場である。 
一昔前は、こじんまりした温泉街であったが、R42の新道建設で分断され、中途半端な位置づけにされたために観光客が少なくなったといわれる。 
近年は、豪奢な勝浦温泉とは一線を画す方針を貫いており、保養、湯治を中心としている家庭的な小型旅館が数件存在する。 
当然、遊興ムードとは一切無縁で、根強いファンも多いという。


温泉場の一角、国道のすぐ右手に共同浴場の「桜湯」があったので、入浴することにした。 
建物のすぐ前に車を止めて、シャレタ引き戸の玄関から入る。
手持ち無沙汰のオバサンに、チョッと高目の500円の入浴料金を払って早速湯船に浸かる。 
他に客は無く、独り占めの貸切状態である。 お湯はさらりと透明・無臭で、とりたてて特徴は無いようであるが、檜の露天風呂は緑の景色が穏やかで良い。 
この湯場は、公営の浴場かなと思いきや、私的なもので隣の「旅館さくら」と同一であった。


この先の国道沿いに「ゆかし潟」という、妙な名称の「汽水湖」(淡水と海水が混じり合う瑚)がある。
湯川海水浴場まで細い水路でつながっていて、そのため小さな汽水湖を形成しているらしい。
多くの車が行き交う国道42号線沿いにありながら、湖のような静かな佇まいを見せていて、春は桜が咲き誇り、冬には多くの水鳥が訪れるという。


温泉でさっぱりして先を急ぐ、湯川のシーサイドを抜けると丘陵地帯になる、左に大きな岬半島が見えてきた。鯨で有名な「太地」の岬である。 
400年も前から鯨の町として知られ、昨今では国際捕鯨委員会(IWC)による日本の商業捕鯨の中止によって、図らずも衰退してゆく。

優美な玉ノ浦の入江海岸を左に眺めながら、突端にあたる「紀伊浦神」へ至る。 
古来、この地の「玉の浦」は、熊野海道・大辺路の中でも風光明媚な地として知られ、熊野往来の道すがら、万葉歌人らが多くの詩を残している地でもある。


『 荒磯(ありそ)ゆも まして思へや 玉の浦の 
               離れ小島の 夢にし見ゆ
 』  詠み人知らず

(荒磯よりもいっそう心惹かれたからか、玉の浦の離れ小島を夢にまで見えることだ)



ところで、世界遺産に登録された熊野古道は「小辺路」(高野山を起点として熊野本宮大社へ、高野街道)、「中辺路」(田辺市から本宮大社〜那智大社から補陀洛山寺の浜の宮王子へ至る内陸山間の遍路道)、「大辺路」、「伊勢路」、「奥駆け道」等がある。 大辺路は、中辺路に対し海の道に当たり、田辺市から新宮速玉大社に到る、概ねR42に沿っている。
実際に世界遺産に登録されている古道は歴史的遺産ということで、条件としては痕跡を整備し、古跡が残っていて、しかも現在でも活用可能であることらしい。

日本の世界遺産: 
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/

『紀伊山地の霊場と参詣道</a>』:
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-4-3.htm


小生は、今後この所謂昔の「大辺路」か、大辺路に沿いながら紀州の和歌山を経て攝津の大阪まで巡ることになる。

次回は「古座川



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「ダンジリ」の岸和田と楠木正成の係わり合い・・、 

加太国民休暇村の園地から大川トンネルを抜けると、和歌山から大阪府内へ到る。
大阪府南端の岬町から阪南より再び阪和道へのる。 岸和田P・Aで一服しながら気が付くと、休憩舎の建物の壁に「岸和田だんじり祭り」の勇壮なポスターが数枚貼り付けてあった。 

岸和田に関して、チョッと歴史を紐解くと・・、
現在の岸和田地区は南北朝時代初め、「岸」と呼ばれていたらしい。
1334年(建武元年)楠木正成の甥御・和田高家(正成の弟・正季の子)が、正成の命で「岸」に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田殿」と呼ばれるようになり、 「岸」と「和田」で「岸和田」の地名の起こりになったと云われている。
江戸中期,藩主・岡部氏は城内三の丸に稲荷社を建立。 稲荷祭は京都の伏見稲荷を城内に勧請し祭礼を施したもので、五穀豊穣を祈願した庶民の祭りになった。 1785年、例祭の際北町、大津から古い地車を借りたが、大きすぎて大手門が通れない為、杉丸太で柱を造り替え、城内に入ったという。これが現在も行われている「だんじり祭」の地車引きの始まりとなったとされている。江戸時代のだんじり祭は6月・8月・9月と年3回行われていたらしい。江戸期発祥以来約300年続いていて、現在では大阪の「だんじり祭」といえば、誰もがまず岸和田だんじり祭を連想させるほど有名になっている。

岸和田の勇壮且つ迫力でパワフルな「だんじり祭り」の「だんじり」とは、檀尻・楽車・山車とも書き、大阪、関西、西日本の祭礼で行われる曳物のことをいい、東京地方の山車(ダシ)・屋台に相当する意味をもつ。岸和田では、特に「地車」と書いて「だんじり」と称しているようで、地車(じぐるま)とは、一般的に車体が低く4輪で重い物をひく車のこと。
「ソーリャ、ソーリャ」の威勢のよいかけ声に、太鼓や笛などの音が響き渡るなか、重さ約4トンのだんじりが街中を駆け回る。スピードに乗せて曲がり角でだんじりを一気に方向転換させる豪快な「遣りまわし」が決まるたび、見物客からはひときわ大きな歓声と拍手がわき起こる。
だんじりの山車は、欅の白木造りで重さ約4トンもあり、唐破風の大屋根と後部には小屋根がつき、その下に精巧な彫刻を施してある、いわゆる「下だんじり(岸和田型)」といわれる。欄干を巡らした座室より太鼓・鉦・笛の囃子を奏する。緩やかな囃子の音と共にゆっくり曳き廻され、辻に近づくにつれ囃子が早くなり曳き手は駆け足になる。 辻にくると、屋根に上った「大工方」と称するリーダーの掛け声、指示で勢いよく回り込む。「遣り回し」(やりまわし)と呼ばれ、大工方、梶取りの前梃子、後梃子、曳き手など、すべての息が合わないとうまく曲がれず、狭い路地などは勢い余って人家の屋根などを壊してしまうことも珍しくない。 遣り回しが、華麗にきまると観衆からどよめきと拍手がわき上がる。

この辻巡行が、いつ頃から激しくなったか、又、どうして激走するようになったかは定かでないが、町内地車の競り合い、岸和田城内にある神社への宮入りの際のだんじりが、「コナカラ坂」という坂を一気に駆け上がる・・、といった事由があるかも知れない。 日没後は、昼とは対照的で祭囃子とともに優雅に曳かれる。
氏子は岸和田地区(岸城神社の氏子14町と岸和田天神宮の氏子5町)と春木地区(弥栄神社の氏子14町)から、其々だんじりが引き出され、9月14・15日の両日に祭事は行なわれる。だんじりの地車には華美な彫刻の装飾が施されているが、 岸和田縁の楠木正成をはじめ後醍醐天皇など「太平記」の南朝側の英雄を飾ることが多いようだ。

冒頭にも記したが、岸和田は南北朝時代の英雄・楠木正成の支配地であった・・!。
その岸和田のほぼ20km東方、金剛山の麓に「千早」という地名があり、更に「千早赤坂村」がある。ご存知、大楠公・楠木正成の出生地であり、鎌倉軍と激戦を繰り広げた地でもある。
正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれている。 河内、和泉を中心とした悪党(百姓、農民を保護し、周辺土地、地域の安全を計る武装集団)、豪族であったと考えられている。
鎌倉末期、元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと、傘下に入り赤坂城にて挙兵する。 反幕のかどで、後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、こんどは護良親王(後醍醐天皇の皇子)とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府軍と戦う。
1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の「建武の新政」がはじまると、正成は新政の要職と河内・和泉の守護となる。(この時期に岸和田城が造られた) 鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実離れした政策の数々に武士は不満を募らせ、主導的立場にあった尊氏も新政を離反し下野する。尊氏追討の命を受けた新田義貞だが箱根で激戦の末敗北し、足利軍がさらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、しかし、楠木正成や北畠顕家らの宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し九州へ逃れる。 足利尊氏は九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、楠木正成は新田義貞の旗下での出陣を命じられ、そして「湊川の戦い」(神戸市)で尊氏の実弟・足利直義の軍との戦い敗れて戦死する。
正成は、弟・正季と「七生報国」(七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん)を誓って差し違え亡くなった。 彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、身内らも正成と同じく南朝方について戦った。正行は父・正成の仇を打つべく高師直(北朝・足利尊氏の軍師)軍と大阪・四条畷で決戦(四条畷の戦い)を挑むが、大敗して戦死している。この時、岸和田を領していた和田高家らも参戦、同時に討ち死にしたといわれるが・・?。
楠木正成は、南北朝時代幕開けの武将であった・・、
南北朝時代とは、日本史の時代区分の室町時代(足利時代)前期で、1336年、新田義貞、楠木正成が敗れた後は、後醍醐天皇は吉野に遷幸する(南朝)。 一方、勝利した足利尊氏は、光明天皇を践祚(せんそ・天皇の位を承け継ぐこと)する。(北朝) 以降、両朝が合体するまでの1392年までの57年間をいう。 広義には、建武新政期を含めて鎌倉幕府滅亡の1333年(元弘3)よりの60年間をいい、時代区分としては室町時代に含めるのが通常とされる。

東に金剛山そして葛城山の山稜が天空を走っている、北方に遠慮がちに信貴・生駒の山並みも見えている。浪速・大阪の人に言わせれば夕日は大阪湾に沈み、朝日は東方のこれらの山脈からキラキラ光ながら出現するという。 その向こうは奈良盆地であり、古代の大和朝廷の都・飛鳥地方である。 飛鳥の古代人は、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬の念をもって拝んだことだろうし、太陽信仰はこの辺りから生まれ、天照大神が天皇の祖先として祀られるようになった。では、山の向こうの太陽は、どのような地から昇るのであろうかと浪速の彼らは考えた・・?。そのことを確かめるために東へ向かって行くと、辿り着いた地が伊勢の地である。 海岸の二見が浦へ出ると、海から突き出た大小の岩の間から、サンサンと輝く太陽が昇ってくるではないか。彼らは驚き、平伏して拝礼した。 彼らは、この岩を夫婦岩と名付け、そして伊勢の肥沃な地に天照大神を御祀りする「伊勢神宮」を開いたともいう。

金剛山・葛城山は、紅葉新緑自然いっぱいの山稜で、金剛山は日本200名山の1つでもあり、関西のハイカーに人気のある山である。 又、信貴・生駒は名刹古社の歴史跡が多く、稜線には「信貴・生駒スカイライン」が走っていて、大阪、奈良の大展望に優れているという。

次回はお待たせ大阪の「浪速とミナミ」

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        写真:賑やかな、でも薄気味・・な「淡島神社」



奇態なお宮・「淡島神社」・・、

紀ノ川の紀ノ川大橋を渡って、加太の岬へ向う。
途中、広大な住友金属の製鉄工場群を見ながら、南海加太線が並行する。道路脇に淡島神社という案内板があったのでチョッと寄ることにした。加太の港町から左手の海岸線を辿ってみると、正面に大陸のような淡路島が横たわっていた。間もなくお目当ての神社正面に達した、こちらは「淡島神社」である。朱色の鳥居の向うは数件の門前市をなしていて、高台へ向う白の階段の向うに、これまた朱色の社殿が鎮座していた。
この神社は、由緒ある神社ではあろうが、実に面白くて、なかなかユニークで珍奇なのである。 建物のいたる所にダルマさん達、七福神とか、干支の人形、市松人形、花嫁人形、お面群、境内の一角にはタヌキさん・・と、一面に土間であろうと、通路や階段であろうと、玄関(・・?)であろうと夥しく、数え切れないくらい安置・・?されていて、いやはや賑やかなのである。 そして今度は、社殿の中は、こと如く雛人形が満載であった・・これにもまたびっくり・・!!。
この神社は、薬の神様とされる少彦名命を祭神とし、婦人病や安産祈願など「女性のための神様」として昔から信仰されているらしい。女性の信仰と漂泊神の信仰であると言われ、現在は雛流しの神事が有名であるとか。
お雛の節句とは、自分に憑いた悪気を祓う日で、けがれや災いを人形に負わせて流す風習がある。奉納される人形を、白木の船に乗せて加太の海に流す、早春の神事が今も残っている。 神社の祭神である、神功皇后(ジングウコウゴウ)と少彦名命(スクナビコナ)の男女一対の御神像が、男びな、女びなの始まりという。
余りに稀有な神社で目を白黒させながら、こんどは北上する。

加太海水浴場の先、城ヶ崎岬付近から「友が島」群が勇壮に望まれる。 
実は友ヶ島と呼ばれる島は無く、「地ノ島」、「沖の島」、沖の島に寄り添うように「虎島」、「神島」の小さな島があり、この四島を総称して「友ヶ島」と呼んでいる。 向こうに見えるは淡路島、紀淡海峡、又の名を友ヶ島水道。 島々の海峡「加太の瀬戸」、「中の瀬戸」は1km足らず、沖ノ島の西端から淡路の洲本・由良港の成ヶ島までは凡そ4kmである。
太平洋の大海が瀬戸内海へ向って動き出すとき、ここで強力な海流を引き起こす。 淡路の南端、鳴門海峡では同時に巨大な渦潮を起こすことはよく知られる。
因みに「瀬戸」とは「狭門」(セト)の意、幅の狭い海峡のことで、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずる。 「瀬戸際」は激しい潮流に立つ:「生死の瀬戸際に立つ」である。
この地は、大阪湾から太平洋へ抜ける交通の要衝でもあり、難所でもある。 紀伊国屋文左衛門が、大阪、江戸へ帆船を巡らしたのは加太の地でもあったとされ。その、みかん船の帆柱が淡島神社に奉納されていて、願い事を唱えながらこの帆柱の穴をくぐり抜けると、願い事が叶うと言われている。

嘉永7年、米国艦隊司令長官ペリーが率いる黒船4隻が浦賀に来航してから1年後、紀州藩は、幕府の命により加太に友ヶ島奉行を置き、友ヶ島に藩士を常住させている。それ以来友ヶ島は国を守る上で重要な島となった。明治21年には陸軍の用地になり、明治期に要塞、砲台が築かれてから第2次大戦の敗戦まで一般人は近づくことも禁止されていた。 現在でも要塞、砲台の遺構が残り、昭和24年に、瀬戸内海国立公園の一部となって以後、全国的な観光地として開発が進められた。

次回からは、いよいよ大阪に入ります。先ず世に知られる「岸和田・ダンジリ」

紀の国の鉄砲集団「雑賀党」・・、 

中世の頃、和歌山は「雑賀」(さいか)と呼ばれ、農業生産や鍛冶といった技術が秀出ていた。 又、紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。
種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、「根来衆」に続いて雑賀の民もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する、雑賀党、雑賀衆とも呼ばれる彼らは、大名の属臣になることを好まず、自立独立制を尊重していた。現在でも、紀州和歌山の人々は、独立自尊を尊ぶといわれる。
戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大社・大寺院の勢力が強かった地域であった。 

紀ノ川を、20kmほど遡った辺りの岩出町に「根来寺」がある。
高野真言に所縁のある寺院で室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石もの稀有壮大なる規模にまでなっていた。 戦国期、豊臣秀吉との攻防で寺社の殆どが消失したが、現存している国宝、日本最大といわれる木造建築多宝塔は、高さ40mで往時の面影を止め聳え立っている。 秀吉の根来攻めの時に受けた弾痕が、今でも残っているという。(5箇所)
ここに本拠をもった根来衆は、大きく分けて学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方とに分かれるという。 学侶方は、学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は、寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。つまり、僧兵武装集団での根来衆は、この根来寺行人方のことである。 
彼らは、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。そして雑賀党と同盟して戦国期になると、やがて織田信長や秀吉と対立してゆくことになるが・・。
鉄砲伝来は、「種子島」というのは常識であるが、殆ど同時に紀州にも伝わっていることは、余り知られていない。 鉄砲伝来は天文12年(1543)、ポルトガル人3人が中国の船に乗って漂着したことに始まる。
数丁の鉄砲の内、種子島の当主・時堯(ときたか)は、その内の1丁を根来寺から来ていた「杉の坊」に与えた。 時堯は、島の鍛冶師に命じて生産させ、たちまち成功する。その生産技術は1,2年後には根来衆と堺に伝わった。両地は、今で言うIT産業の最先端技術を保有したのである。 信長いまだ九歳だった時分である・・。
こうして根来衆は、3000丁の鉄砲を持ち、1万の僧兵を擁し、和歌山の雑賀党とともに日本の二大鉄砲集団を形成したのである。

雑賀衆の有力な家系の一つに「鈴木氏」というのがいる。
戦国時代に紀伊国・十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)を本拠地としていた土豪で、鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集して雑賀衆をつくり、その指導者的な立場にあったという。江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物が雑賀城主として数万石を領していたという説もある。
雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降の事で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れ、16世紀の半ばには鉄砲で武装したある程度の規模の傭兵的集団として活動していたともいう。
元より鈴木氏を名字とする家は多くの流れが知られているが、その殆どは穂積を本姓としており、穂積氏は又、日本古代の氏族・物部氏を祖先に持つとも言われる。穂積とは、祭礼の際に田に指す神木のことをいい、又、刈田に積まれた稲穂のこととも言う。いずれにしても稲作にまつわる祭礼と縁の深い姓であると考えられている。
当本文、「浜松」の項でも記したが・・、
鈴木氏は、熊野三山信仰と関係が深く、穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系である。鈴木氏は熊野神社の勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗って全国的に神官として分散したと考えられ、鈴木の名字は東日本を中心に全国的に広まっていったといわれる。
雑賀党の鈴木氏は、穂積姓鈴木氏の分派でもある。

次回は、「加太半島」

紀の国の母なる川「紀ノ川」・・、

和歌山は、神話の舞台としてよく登場することは先に述べたが、その理由には、大和盆地(奈良)に発生した古代の政権(大和朝廷)が全国を統一し、その後、国内外にまで進出する過程で大量の兵員・物資を輸送する際に、大和盆地の南に位置する「紀ノ川」の水運を利用したといわれる。 見知らぬ国から国へ、異国からの不思議な話など、古代の和歌山は日本の窓口、世界への窓口の中心だったとも想像できるのである。

和歌山城を少し西へ行くと、紀の国の名河「紀ノ川」が広大に、 滔滔(とうとう:水の盛んに流れるさま)と流れる。
水源は、奈良県と三重県の県境をなす台高山脈の南部、大台ケ原にあり、標高1500m から1700mほどの高山地帯で、吉野熊野国立公園に属している。この地域は、わが国屈指の多雨地帯で一日の降水量300mmを数えることもあり、この多量の水は大自然を育み、文化の交流を支え、現実に日本有数の淡水魚群を生み出しながら和歌山湾に流れ込んでいる。
和歌山出身の代表的作家、有吉佐和子の作に『紀ノ川』がある。この物語は「家と女」という、日本の伝統の流れに身を任せる母、激しく抵抗する娘、そして新世代の孫娘。この三代の血の流れを紀ノ川の流れに喩えて重ね合わせ、その情景の中で日本の女の物語が静かに編みこまれている。
小説『紀ノ川』は、花(はな)と呼ばれる主人公が、紀ノ川上流の九度山(紀の川中流域九度山町)から下流の六十谷(むそた:和歌山市北部の紀ノ川沿い・六十谷橋)に嫁ぐ朝の情景から始まる。九度山にある慈尊院で、花嫁と祖母は故郷の川をしみじみ眺めながら、その美しさを讃えている。 物語はその後、花が明治の嫁として伝統に生きる姿、その母に反発する娘、花の思いを受けとめる外国育ちの孫娘などが絡む。 和歌山の激しく、華やかな時の流れを、紀ノ川と代々連なる女性の営みに喩えたのかも知れない・・?。又、川筋の風土とか人情が巧みに織り込まれている。
有吉佐和子は、和歌山には幼少の時分と疎開時と合わせても6〜7年くらいしか居なかったらしい。しかし、地名の使い方、土地にまつわる話や言葉使いは実にうまいと、地元の人も教えられるほど、文句の付けようがないと言いわれた。
小説「紀ノ川」は、昭和34年(1959年)に28才の若さで書いた出世作で、作家・有吉氏は惜しまれながら53歳の若さで急死している。
 
和歌山県の最北部、既に高野山の北側の登り口でもあり、大阪との府県境にもなっている地域に「橋本町」が在る。 ここは「紀ノ川」の中流域といえるところで、川は南北に分けて流れる地帯でもある。この地は、日本女性として、初の金メダリストになった人物の出生地であり、紀ノ川は天然プールで、その練習場でもあった。

『 がんばれ、がんばれ、・・・、前畑がんばれ!前畑がんばれ!・・・あと5m、あと5m、あと5m、・・・、勝った、勝った、勝った・・・前畑、勝った!勝った、勝った、前畑勝った!!・・』
その時、NHK・河西三省アナウンサーがデッドヒートの模様を、何度も何度も連呼した実況中継が日本中を沸かせた。なんと、このとき「頑張れ」を、38回も言ったといわれている。 当時は、今の時代とは異なり、音声だけの「ラジオ」での実況だから、聞いている人達は、テレビのように、戦いの様子を眼で見ている訳ではない、何か、よく状況は分からないが、ただ「頑張れ、頑張れ」とだけ・連呼する声を聞いて、兎に角、前畑が大したことをやってんだと想像したもんである。そして、勝負が決まった後に、「勝った」 を15回も言ったそうである。
第11回ベルリン・オリンピック(1936年8月11日)での競泳女子200m平泳の前畑秀子の優勝の瞬間であった。  時代は、日本が国際連盟を脱退し、やがてドイツ・イタリアと手を結び第二次世界大戦へ突入する前夜でもあった。前畑秀子の金メダルには、そのまま日本という国の勝敗がかかっているような勢いであったともいう。前畑は、ベルリンオリンピックの想像を絶するプレッシャーの中で、自分の力のすべてを出しきり、プレッシャーをバネにするという強い精神力が、金メダルをもたらしたのだろう。日本女子初の金メダリスト・前畑秀子、その後、日本女子水泳競技に金メダルをもたらすのは、昭和27年のヘルシンキオリンピックの青木まゆみ選手で、実に36年間待つことになる。
1990年、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。

『前畑優勝熱闘譜』
「ベルリンオリンピック女子二百平水泳決勝実況放送」 NHK・河西三省アナウンス。

『……切らないで下さい、スヰツチを切らないで下さい、もう予定時間ですが、切らないで待つて下さい、そのまゝ待つて下さい……強敵はスタートのよいドイツのゲネンゲルです。はじめ抜かせて、あとでぐんぐんつめるのがわが作戦です。大日章旗を揚げるか揚げないかの境目です。そのまゝ切らずに待つて下さい、スヰツチを切らないで下さい……ホイツスルが鳴りました、各選手は一斉にスタート台に並びました。たゞ今ピストルが鳴ります……跳びこみました、跳びこみました一斉に跳びこみました。これは我が前畑とゲネンゲルの競泳でございます、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、跳びこんだときは我が前畑嬢と同じ、我が前畑嬢と同じ、第二コース、第三コース、オランダのワールベルグは割合に出ましたが、前畑嬢僅かにリード、前畑嬢僅かにリード、オランダのワールベルグが大分出まして前畑嬢と列んで居ります、我が前畑嬢三五、三五米、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、第一コースのイギリスのストレー、イギリスのストレーも出て居ります、イギリスのストレーも出て居ります、大部分各選手は列んで居ります、非常に心配であります、非常に心配であります、イギリス、イギリスの、イギリスのストレーが先づ最初のターンをしました、我が前畑嬢つゞいて第二位、しかし我が前畑嬢悠々たるペースをもつてつゞいて居ります、ぐんぐんと、我が前畑嬢折返し四〇米、折返し四五、折返し四五、列んで居ります、前畑、ゲネンゲル二人が出ました、イギリスはおくれました、イギリスはおくれました、僅かに一と掻き、一と掻き我が前畑嬢はリードして居ります、ゲネンゲルよりは僅かに一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルと前畑嬢の接戦となりました、他は大分おくれました、他の選手は大分おくれました、前畑嬢一と掻きリード、前畑嬢一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルよりは一と掻きリードして居ります、一と掻きリード、あと五米で一〇〇のターン、あと五米で一〇〇のターン、あと二米、あと二米、たゞ今前畑ターン、前畑ターン、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、我が前畑一と掻きリード、一と掻きリード、まさに大接戦、火の出るやうな大接戦、まことに心配でございます、心配でございます、ゲネンゲルも強豪、つゞいて居ります、我が前畑僅かにリード、僅かにリード、一二五、一二五、一二五、僅かにリード、僅かにリード、ゲネンゲル、強豪ゲネンゲルがつゞいて居ります、地元ドイツの応援は旺んにゲネンゲルに声援をおくつて居ります、他の選手は大分おくれました、ゲネンゲルと前畑二人だけの競争でございます、他の選手は大分おくれました、前畑あと一〇米で一五〇、あと一〇米で一五〇、僅かに一と掻きリード、前畑かんばれ!前畑かんばれ!あと二米でターン、あと二米でターン、ターンしました、ターンしました、たゞ今ターンしました、一と掻き僅かにリード、前畑がんばれ!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!あと四〇、あと四〇、あと四〇、あと四〇、前畑リード、前畑リード、ゲネンゲルも出て居ります、ほんの僅か、ほんの僅かにリード、前畑僅かにリード、かんばれ!前畑がんばれ!かんばれ!かんばれ!あと二五、あと二五、あと二五、僅かにリード、僅かにリード、僅かにリード、前畑!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!ゲネンゲルも出て居ります、がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!前畑、前畑リード、前畑リード、前畑リードして居ります、前畑リード、前畑がんばれ!前畑がんばれ、リード、リード、あと五米、あと五米、あと四米、三米、二米、あッ、前畑リード、勝つた!勝つた!勝つた、勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑の優勝です、前畑の優勝です、ほんの僅か、ほんの僅かでありましたが、前畑優勝、前畑日章旗を揚げました、前畑さんありがたう!ありがたう!優勝しました、女子競泳で初めて大日章旗が揚がるのです。
 今、前畑さんはプールで二着になつたゲネンゲル嬢とニツコリ笑つて握手して居ります、笑つて喜んで居ます‥ 』

この橋本町には、もう一人のオリンピック金メダリストがいた。
前畑氏から20年後の昭和31年(1956)、豪州のメルボルンで同じく200m平泳ぎで金をとった「古川 勝」選手である。彼の異名は“人間潜水艦”といわれ、戦後初の水泳の金メダルをもたらした。
世間は、丁度テレビがお茶の間に普及しだした時代であり、小生にもあの時の感動の映像が、頭に残っている。 スタート直後から45メートル潜り続け、ターンするとまた潜る。五輪前から驚異の世界新を連発した古川は、決勝でも潜水泳法で挑み、見事2分34秒7のタイムで圧勝した。彼は、ベルリン五輪女子200メートル平泳ぎで、前畑秀子が女子初の金メダリストとなった、その橋本市古佐田地区にある前畑家の近所で誕生している。前畑氏同様、紀ノ川で鍛えた体には平泳ぎの天才の血が受け継がれていたのであろう。
彼の潜水泳法は、短期間で身につけ、息継ぎなしで75メートルはもぐれたという。五輪後、国際水連は、潜水泳法を禁止にし、古川のあまりの強さが禁止を早めたという。「紀ノ川」近くにある橋本市役所に前畑選手優勝70周年、古川選手優勝50周年の顕彰碑が建つ。

本流は、和歌山県内では紀ノ川、奈良県に遡ると吉野川と呼ばれる一級河川で全長136km。 その源流域は、その名も「川上村」である。 最初の一滴が生まれる源流の村で、吉野杉という有名な木材を産出する中心地として栄えた。この水源の村に「森と水の源流館」があり、更に「源流学」というのがあるそうだ。 
水源地の森を含めた山々を守り、源流部の森を造り、下流には森の腐葉から出る富養の水、清い水を流す。そのためには、流域一体となった取り組みが必要であり、それも上流から叫ぶだけでなく下流域が積極的に取り組んでくれることが大事で、和歌山市もこれらに応えてくれていると。自然や環境、そこに棲む生き物たちと、人々が一帯となった取組の学門が「源流学」と云うそうである。
尤も、紀ノ川、吉野川の源流である「大台ケ原」では、一年360日が雨といわれる。日本最多の雨地帯であるが、日本の秘境と言われる原生林を育み、300種というコケ類を密生させ、天然のダムの役目も果たしているのである。

次回は、同じく和歌山の「雑賀党」

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