『日本周遊紀行』

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和歌山県

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紀の国は「木の国」から変じたもの、そして三神とは・・、

市域のほぼ中央を南海電鉄・貴志川線が走る。路線の長さが僅か10キロ少々と短いが、駅の数が何と12を数える。 元々、この鉄道の敷設は日前国懸神宮、竈山神社(かまやまじんじゃ:祭神・彦五瀬命で神武天皇の兄君)、伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)の三社詣でや他の神社の参詣が目的の一つになっているといわれる。
この沿線には岩橋(いわせ)、千塚古墳群、大池遊園近くには先史時代の土器や縄文土器をはじめ、おびただしい古代遺跡が発掘されているという。 貴志川八幡宮や大国主神社が鎮座する終点の「貴志」は、紀州の飛鳥と呼ばれるほど多くの遺跡が残されてる。
和歌山駅の東南、秋月地区に和歌山三社の一つ、「日前国懸神宮」(ヒノクマ・クニカカスジングウ)がある。呼び名が少々ややこしいが、元来、古代における国造(くにずくり)の神々の呼称は難解なものであるという。 形式的に伊勢神宮は、内宮、下宮が一対になっているが、こちらも日前・国懸の各宮が対になっていて、地元の人は、この呼び名が煩わしいのか「にちせんぐう」と呼び、付近を通る貴志川線の駅名も日前宮駅(にちせんぐうえき)と呼んでいるという。
この神宮は、天の岩戸神話で天照大神を導き出すために作られた「神鏡」が祀られているという。これらの鏡はいずれも伊勢神宮内蔵の神宝である八咫鏡と同等のものであり、八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。日神(天照大神)に対する日前神という名称からしても、特別な神であると考えられる。
又、朝廷遠征に際し、伊勢が大和への東の出口に対して西の出口であったため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれる。日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神格を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。
又、日前大神は、「紀」の國造りの祖として伊勢神宮に次ぐ大神として崇められてきたが、そして宮司は代々「紀家」である。 紀氏の家系の祖は遥かに遠く、日本で最も古い家系の一つとされて天皇家と出雲大社の千家氏と、それと日前宮の紀氏であるとされている。紀氏の遠祖は神武天皇東征の時期ともいわれ、神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは大和朝廷の時代から紀伊国造に任じられている。

紀の国(紀伊の国、紀州、俗名・木の国とも書き読む)は、神武・古代の時期から興ったものとされてる。尤も、紀の国は、元を正せば「木の国」から起こったとされる。
和歌山三社のもう一つ、その名も和歌山市伊太祁曽に鎮座する「伊太祁曽神社」(いたきそじんじゃ)のことは記したが、主祭神として五十猛命(イタケルノミコト:別名、大屋毘古神・オオヤビコノカミともいう)を祀っている。記紀(古事記、日本書紀)では五十猛命は、父・神素戔鳴尊(スサノオノミコト)と共に木種を持って高天原から韓地(カラクニ:新羅国)に天降るが、その地には植えずに大八洲国(オオヤシマグニ=日本)に渡り、父神の命を受けて日本中に種をまき、木を植て廻り、最後に紀伊国の鎮まったとも記されている。つまり木の神が鎮まった地、木の国であり後に「紀の国」になったともされる由縁である。五十猛神は単なる木の神ではなく、この大地に生えている樹木のすべて、つまり木種を司る神であり、我々の周りの緑豊かな環境を作り出す植樹の神、あるいは人間がいろいろな形で生活に利用する木材の祖神でもある。伊太祁曽神社は、紀伊国(木の国)の一ノ宮として崇敬を受け、昭和、平成の各年代、天皇陛下の参拝をも賜っている。
和歌山三社のもう一つ「竈山神社」は、五瀬命を祀る。 五瀬命は神武天皇の長兄にあたり、この地で戦死したとされる。記紀には、「天皇東征の際戦死したの兄五瀬命の墓が紀伊国の竃山にあると記されていて、当所に直ちに社を建てて斎祭したので竃山墓と竃山社とした」とある。相神に神武天皇をも祀る。

「和歌山」の地名は、日本の古代国家の誕生を語り継ぐ記紀神話(古事記、日本書紀)の中にも数多く見られるといい、和歌山は古代から伝説・伝承の時代を経て、今日まで営々と築いてきた精神や生活の文化の歴史の跡が色濃く残る地域である。

次回、紀州の「雑賀党と紀ノ川」

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        秀吉の舎弟・秀長築城の名城・「和歌山城」・・、

阪和道(海南・湯浅道路)から和歌山市内の和歌山城へ向うことにする。
I・Cから国道24を和歌山市街方面、和歌山駅を右に見ながら程なく和歌山城・天守閣が見渡せた。入城口を見つけるため、そのままぐるりとお城の回りを走り駐車場を探すと市役所前のお城側に広い駐車場を見つけた、・・と思ったら観光バス専用である。 観光バスが一度に、こんなに来ることがあるのかね・・?と疑念をもちながら、どうやら、スペースの小さい城内の300円の有料駐車場に入れる事が出来た。 有料にしては余り整備されてない駐車場であるが・・。 
石垣に沿って作られた石畳の階段を上り天守閣のすぐ下まであがった、ここで又、入城料350円である。 金銭をケチるわけでないが、平日の観光客相手に、いかにも小銭を収受している感じで、何やら気分を損なわせる・・?。
城郭は、三層大天守と二層小天守、二基の隅櫓を多聞櫓で結んだ連立式天守式といい、付属する天守曲輪と、本丸御殿の曲輪の二つの独立した曲輪がある。 又、岡口門が、国の重要文化財に指定されているのをはじめ、石垣、堀、門・・等の遺構が残る。 表側にお堀端を構え、こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえる威容は、さすがに御三家にふさわしい風格を醸し出してる。 残念だったのは、一般の入場口が裏坂や新裏坂といった脇道にあたり、お城の顔とも言うべき「一の橋大手門」から入場、退出が出来ない仕組みに成っていた事であった。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の「豊臣秀長」に築城させたのが始まりである。豊臣秀長というと戦国時代としては表舞台に出ず、馴染みが薄いように思われるが、秀吉が天下を掌握した第一の功労者で天下の名補佐役といわれ、生涯ナンバー2を守り抜いた人物である。
戦国期、陽に陰に激しく抵抗した紀州一円を平定したのは、秀長の武力はもちろん才覚と人格によるところが多いという。 彼が果たした功績は非常に大きく、握った権限は著しく強かった。特に、後半生は眩いばかりの栄光に包まれている。 116万石の大封を得、従二位権大納言の高位に至り、天下の政事の中枢に深くかかわり、百戦不敗の武功を誇り得た。そして、生涯の絶頂期に永い病の末に生涯を終えて、自らの大封を養嫡子に譲ることが出来た。つまり、この人は功績を積み、出世を重ね、至福のうちに天寿を全うしたのである。
戦国期、英雄人傑が輩出し一家一国を築いた数多(あまた)の中で、天下人と呼び、余りに著名な信長、秀吉、家康の三雄に次ぐ英傑であるとも言える。このような豊臣秀長により築城された和歌山城ではあるが、本人は中央中枢で多忙を極めていたため、城代として桑山重晴(秀長家老から秀吉直参)が勤めていた。

江戸期・徳川幕府が成立してからは、加藤清正の息女を正室とする家康十男・「徳川 頼宣」が紀伊国・和歌山55万5千石に転封され、紀州徳川家の家祖となって徳川御三家が成立している。 第五代紀州藩主「吉宗」の時、徳川将軍家の血筋が途絶えたことが因で、江戸幕府八代将軍へと抜擢、就任している。

紀州・和歌山は、将軍・吉宗も出所した徳川御三家の一つとして知られる城下町である。 和歌山城を中心にして、町は放射状に発展してきた。 温暖な気候で海は万葉にも詠われた「和歌の浦」と川は「紀ノ川」と・・。 そして、和歌山市内及びその隣接地域には、数多くの神社仏閣が存在する。 数多くというが唯の数ではない、市域の地図を広げると数えるだけで60〜70位にもなり、小さめの地図だと名称を記載するだけで、その面が埋まってしまう程である。 市内を数分歩くと何れかの神社・仏閣に行き当たる、こんな具合であろう。 和歌山市は、多様な神の町なのである。

次回は、和歌山 「紀の国の三神」

有名な広村の津波の話であります・・、

ほぼ三角形の形をした湯浅湾の最奥部の面しているのが、現在の「広川町」である。ここの海岸地帯は昔は「広村」と称して漁業を主に営む寒村だった。この村は、地形からして古くから津波で甚大な被害を受けてきた。その為、既に室町時代には豪族・畠山氏による堤防が小規模ながら築かれていたという。
阪和道の広川I・Cから国道42を目指して海岸に向けて直進すると、小高い土盛りの堤防らしき物に突き当たる。高さ約5m、延長約600mの堤防(広村堤防)であり、その一角に、「浜口梧陵」の偉業をたたえる「感謝の碑」が建っている。

今からおよそ150年前、安政元年(1854年)、紀州・広村は大きな地震(安政南海地震)とそれに伴う大津波に見舞われる。村民36名の死者を出し、住居は全滅に近い大きな被害を受けた。 浜口梧陵はこの時、道筋にあたる水田の稲むら(稲束を積み重ねたもの。浜口家の稲むら・・?)の松明で次々に火をつけ、村人を安全な場所に導いた。その後、彼は被災者の救済や村の復興に尽力するとともに、私財を投じて堤防を築いたのである。 広村堤防は、昭和21年の南海地震で津波が広村を襲ったとき、村の大部分を守ってたいう。
この実話は小泉八雲によって、明治29年の三陸沿岸の津波災害の惨状と、浜口梧陵の偉業をヒントに、「A Living God(生き神様)」という短編小説を書いている。 又、小学校教材の「稲むらの火」と題し、国語読本(5年生)にも掲載されたという。

近年では阪神・淡路大震災から10年、新潟中越大地震から数ヶ月、そして福岡西部沖地震もあった。 地震列島日本にあって、昨年のインド洋の物凄い津波被害は驚きであった。
2004年12月26日午前8時(日本時間26日午前10時)インドネシア西部、スマトラ島沖でマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震が発生した。この地震により高さ10m以上もの津波が発生、インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国でこれまでに30万人を超える死者と150万人の避難者を出す最悪の津波大災害となった。
そして、あの時この時の教訓としても「稲むらの火」が注目を集めたという。

「浜口梧陵」(儀兵衛)は、1820年、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業を営む豪商浜口家の分家の長男として、ここ紀州・広村(現在の和歌山県広川町)に生まれている。少年時代に本家の養子になり34歳ごろに七代目儀兵衛を相続している。(後年梧陵を名乗る)
安政元(1854)年、梧陵35歳の時に紀州広村において安政大地震に遭遇、私財を注ぎ込み震災の救済と復興にあたる。浜口家(ヤマサ醤油)は江戸にも店があり、千葉と和歌山を行き来するかたわら、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を深めていた。 開国論を賛じ、外国と対抗するには教育が大切と、広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いている、現在の耐久中学、県立耐久高等学校の前身でもある。
幕末に生まれ、7代浜口儀兵衛という実業家としての働きと共に、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから明治政府にも招かれ、和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て中央政府で初代駅逓頭(郵政大臣・総務大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設に当たったといわれる。

現在(2006年)、小泉総理の下で郵政民営化の論議が盛んであるが、(小泉首相の信条)、やがて、平成の時代には民営化はされよう。
明治期、初代の郵政大臣になった浜口梧陵は、既に郵政事業は民間に任すべし、と持論を展開していた。『郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、将来は民間の経営にゆだねるがよい』・・と。 
梧陵は、代々の大事業家として、紀州和歌山藩の藩政改革の責任者として、又、莫大な私財を投じて津波防災堤防を建設した者として、公益の達成は国や藩自らが行わなくとも、「私」の活動を通じて社会に貢献し、実現することができると考えていたのだろう。
一方、当時の逓信改革の先鋒だった「前島 密」は、『今、日本は諸外国に比して弱小で切迫した状況下にある。中央集権の実現と海外圧力に対抗する国家の組織強化は緊急を要する。郵便通信は「国家の神経なり、急ぐことを第一」として官営の名の下での公益達成の追求が必要である』・・とした。
二人の持論は政略の無い国家的持論で、どちらも正論であったが、当時の世相論理としては前島論が支持されて、官営としての郵便網が完成している。 しかし目を転じて平成の世は如何か・・?、世界の中の日本の状況、経済の安定性、国家財政の窮迫、これらに鑑み、国は三位一体・地方分権を目指し、小さな政府で官から民へと移行しつつあるすう勢である。今にして浜口梧陵の精神が生かされる時では・・と思われるが・・?

【追記】
「郵政民営化」は、先ず郵政民営化法案が小泉内閣と国会賛同を経て平成17年(2005)に成立している。その後、議決された法律に基づき平成19年(2007)10月に実施され、郵政公社が日本郵政グループに分社化された。旧郵政省から継承されて運営してきた郵政事業は、郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)と郵便局の窓口サービスを国から民間会社の経営に移行した。

梧陵は、国会の研究、開設のため欧米の見学行を企画し、65歳で欧米の制度を視察している。 大いに国家に授益せんとして海外への視察旅行中、アメリカ・ニューヨークで客死した、享年66歳だった。
生前、広村の村人たちが梧陵の積年にわたる恩に報いるため、「浜口大明神」なる神社を建てようとする動きがあった。 しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかったという。
広川町役場前に「稲むらの火広場」の銅像が建ち、耐久中学校の校庭に「梧陵翁」の銅像が建つ。

次回は、紀州・和歌山について・・、

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紀州南部は、日本人の「味」の古里であった・・、

更に地域が前後するが、印南町(いなみちょう)の事である。こちらはカツオブシの発祥の地といわれる。
暑い時期に大量に釣れるカツオを永く保存し、遠くへ送るための技術としてカツオブシの製法が発明されたいわれる。 印南の漁師たちが操業中遭難して土佐の港に漂着した、以来、土佐の宇佐浦に住み着いて「土佐の宇佐に造っていた漁業基地」で生まれたため「土佐節」と呼ばれた。土佐人は「宇佐はカツオブシの発祥地」である、と言うが間違いではない。だが、元々は宇佐にいた「印南」の漁師たちが考案したものであるという。
因みに「土佐の一本釣り」として知られる漁法も、印南の漁師が伝えたものという。

「かつお節」或いは、かつお節らしものは既に縄文期の頃から食されていた・・、というのは遺跡などからも明らかにされているという。そのルーツを文献から辿ってみますと、鰹節に関する文献は数多くあり、中でも「古事記」にも「型魚」という言葉で登場しているらしい。カツオの加工品が当時の貴重な贈答品、賦役品になっていた。
日本人が普通に食するようになり発展したのは江戸中期であり、紀州・印南浦(印南町)の人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(焙乾法とも)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。
古来、かつお節は武士の「兵糧食」として欠かせないものであり、「三河物語」等の兵法書に兵糧食としての記述があるほか、「かつおぶし」が「勝男武士」という名前で、縁起のよさもあることから日清・日露戦争でも使われたという。


次に「由良」の調味料について・・、

小生、関東・相模の人間として、先ず由良町の「興国寺」のことを記さねばならない。
克って、白隠禅師(駿河の国・原の名僧、松蔭寺)によって「紀に興国寺あり」と云わしめ、宗風一世を風靡し「関南第一禅林」として世に知られた名刹とされている。
国道42号線沿いにある臨済宗妙心寺派(拙宅、同様の宗派)の古刹寺院で、開祖は鎌倉時代の無本覚心(むほんかくしん・法燈国師)である。
時は鎌倉期、鎌倉三代将軍・実朝が、弟・公暁に鶴岡八幡宮で殺されたことは、あまりに有名であり「鎌倉の項」でも述べた。 その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢である宋(中国)へ渡る船の準備を「由良」の港で行っていた。主人の死を知った葛山は、その苦諦(くたい:この世界の一切存在は苦であるという真理)を弔うため高野山に入る。その時に知り合ったのが若い「覚心」であった。
故主人・実朝の供養ぶりを知った当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え一寺を建てた。これが興国寺の始まりで、無本覚心が開山したものである。
覚心は、開山まえの修行中、道元禅師(曹洞宗・永平寺の開祖)に参じて宋(現在の中国)に渡り、尺八を吹きながら修行し、虚無僧(こむそう)すがたで帰朝したという。 これが、現在の虚無僧の起源で、この寺は虚無僧寺院(主に普化宗という日本の仏教の禅宗のひとつ。普化とは、尺八を吹きながら旅をする虚無僧行で有名)の総本山でもある。
覚心和尚は中国の径山寺(キンザンジ)で修行し、この時、食事を摂りながら味噌の作り方を学び、日本に広めたのが「金山寺味噌」であるという。
この金山寺味噌を生成する際、桶底に溜まった液から、溜醤油(たまりじょうゆ)というのが誕生し、更に加工したのが醤油であるといわれる。 覚心は、醤油の製法をもあみ出し、隣の湯浅町に伝えたという。
その後、湯浅の職人が黒潮ルートで房総半島に渡り、銚子において醤油醸造業として発展し、更に江戸期に利根川水運が開発されるに及んで、江戸、関東に広まるのである。
又、紀州徳川藩は湯浅醤油を庇護し、全国に販路を拡大することになる。 現在も「湯浅醤油」は昔ながらの製法で造られているという。

紀州南部の沿岸地は、南部には紀州梅、有田の蜜柑、そして味噌、醤油、カツオブシと、日本人の食、味の発祥地だったのである。

次回は広川(広村)と津波・・、

「梅」の後は、蜜柑・みかんのことである・・、  

『沖の暗いのに 白帆がみえる あれは紀の国 蜜柑船』
江戸期、紀伊国屋文左衛門が「有田みかん」を積み込んで、江戸へ船出する光景をの風流俗曲に唄ったものである。紀伊国屋文左衛門の生誕地は諸説あるが、「有田郡湯浅町別所」あたりが有力とされている。
江戸・元禄時代の1685年、台風の当たり年だった江戸では蜜柑が不足しており、価格も高騰しているに違いないと考えた文左衛門は、港に山済みされた出航待ちの蜜柑1200両分、7000篭を積み込んで嵐の中、船磁石(船のコンパス)を頼りに太平洋へと漕ぎ出した。
蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは大歓声をあげて文左衛門を迎え、命懸けの航海は成功をおさめる。蜜柑は何と元手の30倍の金額で売却できたと言われている 故郷で産するミカンを江戸に運び、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなした文左衛門は、未だ20代であったという。
彼が活躍したのは江戸時代の前期、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令した時代であった。 財を成した彼は、江戸の京橋・本八丁堀に材木問屋を開業している。 老中・柳沢吉保と結びつき御用商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負ったりもした。こうした事業は巨利を生み、一時期の全盛をきわめたが、日常生活でも金銭を惜しまず、吉原で豪遊したため「紀文大尽」とまでよばれた。その活躍は江戸中で評判となり、彼は有名人になり俗曲やカッポレに歌われるまでになったという。
しかし、幕閣が引退したことで幕府御用達の特権も奪われ、商売も奮わなくなり衰退してゆく。 深川八幡に閑居した後、66歳で没したという。

日本一の梅の町である「みなべ町」のことは先に述べたが、ここ「有田」は古くから日本一の蜜柑の産地である。 紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸まで運んだ蜜柑は、当然「有田みかん」である。今でこそ関東以西の各地から(主に太平洋側)生産、流通されているが、我等幼少のころは「温州みかん」といって、和歌山産の有田みかんが主流であった。
主文から外れるが・・、
よく温暖地は蜜柑(みかん)で、寒冷地は林檎(りんご)が生産地として一般的であり、蜜柑が青森で生産され、鹿児島で林檎が育ったとは余り聞かない。ではどの辺りが生産地として境界に当たるのか・・?、実は小生の住む神奈川県辺りが境目と言われる。 味の良否、量の多少はともかくとして、蜜柑、林檎、梨、葡萄、桃、梅、・・、国内の代表的な果物の大半は小規模ながら育生されていると聞く。
ともあれ今、日本、世界には数百種類ほどのみかん科の果樹、つまり柑橘(かんきつ)があるという。 その中でも日本人に一番身近で親しみのあるのが「みかん」の愛称で通用している「温州みかん」である。そして、その本場とされているのが和歌山県の有田であり、「有田みかん」である。

では「温州みかん」の温州とは一体何か・・? 
中国・浙江省の温州地方から入ってきたのがミカンの産地を称して、「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか。 しかし、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないともいわれる。 温州みかんの原木は、中国からであろうとされたが、最近にいたって南東アジア方面から(ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー)南中国へ、更に琉球沖縄を経てわが国の肥後の国・天草郡西仲島(鹿児島県長島)伝来し、 そこで、突然変異したものが「温州みかん」の原型ともいわれている。ともあれ、日本の蜜柑の発祥地は鹿児島県長島ともいわれる。
紀州・有田に、「温州みかん」として移入されて来たのは江戸中・後期頃で、有田の人々も温州みかんの品種の良さに目を付け、更に改良を重ね、気候風土も適合して、有田の農家は本格的に温州みかんの栽培を始めたと云われる。 
明治初期には、有田から東京神田の青果市場へ初めて温州みかんが出荷され、大変甘味で美味なると評判をよび、高値で取引されるようになった。 東海道線が開通するに及んで、有田みかんは海上輸送の熊野灘経由を止め、大阪経由の鉄道便を利用するようになると天候に左右されずに計画的に出荷出来るようになる。 当時の箱詰めみかんの販路は東京7割、大阪2割、名古屋1割であったとされてる。

次回は、印南、由良「日本の調味料」の発祥・・、

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