『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

和歌山県

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南部地方の「南高梅」とは・・、

国道42を一山越えれば南部町である。  
『一目百万、香り十里』と言われ、南部(みなべ)梅林や岩代大梅林といった日本一の梅園の大パノラマが特徴である。そして日本一の、みなべの南高梅・梅干の産地であることは周知である。
梅は中国が原産で、約1500年前に日本に伝えられたという。 中国では古来、青い梅を真っ黒に燻して烏梅(うばい)として健康食に利用されてきた。 日本では平安期より既に梅干として利用していたという。
南部は奈良後期、この地方を支配していた御名部(みなべ)親王が梅を好んで植えたという記録が残っているという。 江戸期に入ると田辺藩主が好んで梅の栽培を奨励し、この地区を免税にしたことから一気に広まっていった。 さらに、紀州藩主の時代「吉宗」は梅干の保存を奨励したことから、更に隆盛になったという。
梅を栽培するのにも、この地方の自然環境も大いに役だった。 先ずこの地方が温暖で多雨であること。又、地質的にも植物の成長には欠かせない炭酸カルシウムの成分が多く含んでおり、梅は特にカルシウムを好むという。南部の土は梅の生長にうってつけだったのである。
梅の種類は300種もあるというが、其々の土地に適した品種が定着している。その内の一つ「南高梅」は、南部で誕生、定着した梅である。
明治期、「大果で豊産、陽光面が美しく紅色に着色する個体」、これらを母樹とした高田梅という品種が更なる品種改良が行なわれ、昭和期になって県立南部高等学校の研究によって今の南高梅ができたという。 南部高等学校を通称「南高(なんこう)」と呼び、高田梅の新品種であることからこの梅を「南高梅」と命名したという。
現在、「南高梅」は梅の条件とされる「皮が薄く、種が小さく、果肉が厚く柔らかい」という要素を全て持ち合わせ、ミネラル分も多く含み、みなべ町で栽培される梅の7割以上を占める梅のトップブランドとして全国に、世界に知られるようになった。今では日本の梅の収穫量の約半分は南部と周辺で収穫されているという。
「南部」は、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む、2004年(平成16年)10月1日に内陸隣接の「南部川村」と合併し、平仮名表示の「みなべ町」となった。
日本一の梅の町である「みなべ町」役場には「うめ課」という担当業務があるとか・・。

次回、有田の蜜柑・・、

田辺は武蔵坊弁慶の出身地、その闘鶏神社との取り合わせは・・、 

崎の湯を後にして、昨日の牟婁の温、白良浜海岸から湯崎と白浜地域を半周して田辺へ向かう。 県33号をそのまま田辺市街へ行くと、ほぼ中心に「闘鶏神社」なるものがある。
闘鶏神社とは妙な名称であるが・・・、
鶏(にわとり)の種類の一つにシャモ(軍鶏)がいる。最近では余り見かけなくなったが、遠い昔から世界中で行われてきた闘鶏を目的に品種改良された屈強頑丈な鶏である。現在では、動物保護団体、宗教団体などの反対にあって闘鶏はほとんど禁止状況に置かれているが、大昔からの歴史もあり、人々の暮らしの中で楽しみの一つに挙げられた事実がある。この熊野の国の田辺も闘鶏が盛んだったようで、或る事がきっかけで闘鶏神社の名が付いたと言われる。

闘鶏神社は元々は由緒正しきは「田辺の宮」、「新熊野権現宮」と呼ばれていたらしい。熊野権現(現本宮大社)を勧請し田辺の宮と称したが、更に、後に熊野三所権現(熊野速玉大神、那智大社、熊野本宮大社)を勧請し、熊野三山各社の御祭神に替えたと云う。云わば三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を担った。
神社は熊野街道の分岐点(大辺路・中辺路)である要衝地としての田辺に鎮座している。遥々、京・大阪から「熊野詣」に来た人々の多くは、ここからが本来の険しい「中辺路参詣道」、「大辺路参詣道」である。これら先の急峻な道には耐えられず、ここで「熊野まで来た・・!!」ということにして、多くの人々が熊野三山に擬して拝み、引き返したとのことである。 熊野三山側が「出張サービス」をして、この地に鎮座した権現宮なのである。主意書によれば歴代の上皇、法皇、公達の高家の人々も熊野参詣時は当宮に参詣宿泊し、心願成就を祈願したといわれる。

JR紀伊田辺の南方400mのところに、その熊野別宮・闘鶏神社が鎮座して、境内には「湛増」と「弁慶」の像がある。 田辺市は「弁慶」の生誕地であることは地元では広く信じられていて、熊野別当湛増(熊野水軍の首領)の子だとも言われるが詳細は不明だという。 弁慶が若い時分には鬼若と命名され、比叡山に入れられ自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。その後も乱暴狼藉を繰り返し、「京」では千本の太刀を奪おうと道行く人を襲い、既に999本まで集めてあと一本ということろで五条大橋で義経と出会う。大橋で笛を吹きつつ静かに通りすがる義経めがけて弁慶は挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経に適わず返り討ちに遭ってしまう。弁慶は降参して、それ以来義経の純朴な家来となった。 
時代は移って源平の合戦の頃、「一の谷」の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになった。熊野水軍の統率者である熊野別当・湛増への働きかけが戦の勝敗のポイントとなり、源・平双方共「湛増」を味方に引き入れようと激しさを増していた。義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に戻り、父・湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽を源氏、紅い鶏七羽を平家に見立てて(紅白の運動会などの対抗戦は、源平合戦が由来)闘わせ、「神意」を確かめた。結果、白い鶏が圧倒したことで弁慶の「源氏」側についた。湛増指揮のもと弁慶を先頭に総勢ニ千余人、二百余隻の舟に乗って堂々と「壇ノ浦」に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たしたのである。(NHK大河ドラマ「義経」で放映・・)
後には兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行、山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。平泉で急襲を受けた弁慶は義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて仁王立ちのまま死んだ。 怪力無双の豪傑と主に対する従順なる僕として、古来「弁慶」は日本人に愛され、各種物語の舞台や弁慶に因む言葉や名前が多く残るのである。
この時の闘鶏の地が「田辺の熊野別宮」で、それ以来この宮を「闘鶏神社」と異名を付けたと言われる。 武蔵坊弁慶の出生地とされる田辺市には「弁慶まつり」があり、彼に所縁のある史跡も多いというが・・。

田辺は、熊野三山への主要な参詣道である中辺路(内陸国道311号沿い)と大辺路(海道R42号に沿う)の分岐点にあたる、別称「口熊野」とも称している。 中辺路は、熊野古道でも最も良く整備保存されている古道で、歴史国道にも指定されていて川湯温泉や湯の峰温泉、本宮大社に到る古道である。大辺路は海の景観の良い海道で、山道で白浜温泉、串本、那智勝浦温泉から那智大社や青岸渡寺、新宮大社に到る道である。

田辺に関しては、「南方熊楠」(みなかた くまぐす)翁の事も書かねばなるまい・・、
「紀伊山地・・」が、2004年に世界遺産に登録されたが、明治後期から大正期にかけて南方熊楠の自然保護活動によって、熊野の大自然は護られたといわれる。 この活動が無かったら、熊野の神仏に纏わる自然林は伐採され、跡形も無くなり、古道は破壊されて今日の世界遺産どころではなかったかもしれないのである。
南方 熊楠 (みなかた くまぐす:1867年4月15日〜1941年12月29日)は、和歌山が生んだ博物学者、菌類学者、民俗学者で、菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。幼い時から、驚くべき記憶力の持ち主で、歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者でもある。 東大に入学するが同期には夏目漱石、正岡子規、秋山真之(海軍参謀中将・日露海戦でバルチック艦隊を破る“本日天気晴朗ナレドモ浪高シ”“皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ”などの名句がある)などがいたが、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ、翌年、落第を契機に中退してしまう。 19才の時にアメリカに渡り、粘菌の魅力に採りつかれて研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど、苦学しながらもその後には渡英する。 その抜群の語学カと博識で、大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表しているという。 また、孫文と知り合い意気投合、以後、親交を結んでいる。 33才で帰国すると、紀州・田辺に居を構えている。
それ以降も、精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。一切のアカデミズム(学問・芸術至上主義、また、学問・芸術における権威主義的傾向)に背をむけて・独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は、奇人呼ばわりされたが、実はやさしい含羞(がんしゅう:はにかむ、てれる)の人でもあり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。
明治政府の発した「神社合祀」(神社整理ともいう・複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させる)には真っ先に反対し、運動を始める。 神社林が伐採されることにより、研究材料である隠花植物(いんか・・、花や種子を生じないで胞子で繁殖する植物及び菌類の総称・コケ、シダ、藻類)や粘菌が絶滅してしまうことを危惧したというが、同時に自然保護運動に傾注し、(自然保護運動の先駆者)明治政府や地元行政官を説得し、これを成功させるのである。こうして熊野の森は護られたのである。
1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島(和歌山県田辺市)に行幸をした際、熊楠は粘菌などに関する進講を行っている。 この時キャラメル箱に入れた粘菌標本を、昭和天皇に進献したエピソードはよく知られているという。
1941年(昭和16年)、75歳にて死去。田辺市中屋敷に南方熊楠旧居があり、白浜半島先端に南方熊楠記念館(博物館)が在る。南紀の海を望む館の前には、昭和天皇御歌碑が建つ。
後年(1962年)昭和天皇は、南紀白浜に再訪された時、海上の神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んでいる。

『 雨にけふる 神島を見て 紀伊の国 
          生みし南方 熊楠を思ふ 』
と熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる 。

闘鶏神社の社殿背後に仮庵山(かりほやま)という、鬱蒼とした自然林が在る。  南方熊楠は仮庵山のことをクラガリ山と呼んでいたようで、熊楠は「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と述べている。クラガリ山の老楠が伐採されたとき、熊楠は猛烈に講議し、そのお陰でそれ以上の伐採は免れたという。 熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」としていたともいう。

田辺は2005年5月に龍神村、中辺路町・大塔村、本宮町と合併し、新しい田辺市となった。これにより面積が1,000km2(全国市町村・22位、全国市・16位)を超える近畿地方最大の面積を持つ市となっている。

次回は、南部(みなべ)の「南高梅」・・、




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白浜の名物露天風呂・「崎の湯」


南紀白浜の浜辺の「崎の湯」は絶品であった・・、

白浜の「かんぽの宿」は白を基調とした三階建てで、「くの字」に曲がった建物はチョットしたホテルを連想させる。清楚な館内はホテルの堅苦しい雰囲気を取り除いた気楽な感じでもあった。
順調に目覚めた後は、先ずは朝湯に駆け込む。 著名な温泉場故の当然24時間営業である・・?。良質な温泉の場合は小生、必ずと言ってもいいほど、滞在した宿では三回入浴することにしている。先ず到着後の食事前に一風呂、就寝前に二風呂、そして翌朝の目覚めに三風呂というふうに。脱衣所では海が傍であるせいか、開いた窓の隙間から強い潮風の香りが感じられる。白浜に来てるんだなと実感である。浴室はこじんまりとしてはいるが清潔感があり、露天風呂も揃っていた。しかも内湯に炭酸泉、露天風呂は含食塩重曹泉といった2種類の構成になっていて満足である。
眠気をサッパリと洗い落とした後は、朝食までの時間を観ながら「千畳敷」へと散歩へ出かける。宿の横からスロープを下った、松林の向こう側にあり、徒歩で3分位であろうか・・?。千畳敷は白浜の名所の一つになっていて、観光プポットになっている。白浜の中心地より1kmぐらい下った、瀬戸崎から太平洋に向かって突き出した、広大に広がる岩盤地帯をいう。今日も快晴無風、早朝の陽光が岩肌に反射してキラキラと光り輝いて見える。
 
心身ともリフレッシュして、「かんぽの宿・白浜」を出発とした。先ずは昨日定休日であった「崎の湯」へ向かう。
白浜でも波打ち際の露天風呂という特徴があり、白浜の数ある外湯のうち最も人気があって、どうしても訪れて見たかった場所である。海岸道より路地風の横道を入ると、わりとゆったりした駐車スペースが在った。入浴客としては小生が、どうやら一番のりらしく、午前8時から開場している事は昨日訪れていて既に承知していた。300円の入湯料を払い、何故か瓦屋根つきの門構えを潜って浴場へ向う。木戸を開けると木の塀で囲まれて、手前側と海岸よりの奥にと二箇所の野天風呂があった、粗末な(純朴で良い・・)脱衣場もこの一角にあり、手前側の石垣の間から出る湯口の周りは既に析出物でびっしり、勿論、湯船の回りもである、温泉成分の濃さが判るというものだ。何はともあれ、早速、浸かる。露天浴槽に入りながら波立つ大洋を見ることができる、海辺に近い浴槽などは大きめの波がくるとザザーッと飛沫を被る。いやはや正しく風流さもさることながら豪快そのものでもある。源泉温度は83℃というが、小生が入ったときは丁度の適温湯だった。
聞くところによると、この湯はつい最近までは無料であったらしいが、2003年から拡張工事(特に女性湯)と改修のため、工事費用に数千万円かかり、そのための有料徴収しているとのこと。
因みにこの「崎の湯」は日本最古の湯と言い伝えられ、先に記したが日本書記に有間皇子や斎明天皇、中大兄皇子も浸かったと記録が残っている由緒正しき温泉なのである。入口の表示板にも八代将軍吉宗(江戸幕府の第八代将軍・徳川御三家の紀伊藩の出身)の入浴も記録されている。
帰りしな係員のオジサン(小生も完全なるオジンだが・・)が小生に寄って来て、
「相模 No だけど神奈川からかね・?」
「ハイ、厚木です」
「私は相模原だけど、数年前、定年退職で白浜に住宅を求め、住むようになったですよ・・なつかしですな・・!」
「いやー、そうですか、それにしても結構なところへいらっしゃって、結構な仕事も見つけられて、結構な事ですね」・・と、しばらく雑談にふける。
聞くと、未だ開店間もないのが、毎度のことで間もなく駐車場は満杯になるそうだ。気が付くと数台の車が横付けされ、すでに浴客が向っていた。やっぱり、この湯は有名どころで人気もナンバー1らしい。


(実は私達夫婦は2002年9月に南紀地方の主要部、つまり熊野三山参詣や熊野古道の一部を観光している。その後、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのであった。これらの紀行内容について、ここ南紀白浜が出発地であったことも併せて、別の項「世界遺産と熊野地方」で記しているのでお楽しみいただきたい。ただ、今回の「日本周遊」の旅とは、進行方向は異なるので地域によっては記述の内容が、若干重複している箇所があるかもしれない。)

次は「田辺」、弁慶と闘鶏神社

都人の保養地・「牟婁の温湯」・・、

峠のトンネルを抜けると白浜町である。 
下りきったところが「椿温泉」で白浜温泉の隠れた温泉地だといわれる。 海岸の岩間から湧出している冷泉で、その泉質はきわめて良質、湯治には最適といわれている。 江戸時代から紀州藩の武士や近郷の農家の湯治場で、奥白浜温泉との名称でも親しまれているという。 国道沿いに数件のホテルや旅館が海に面して点在している。 明るい砂浜の海岸は海水浴場のようだ。
R42は富田川岸から富田橋を渡り、更に白浜温泉方面への県道34号に分かれる。 白浜空港下のトンネルを抜け、名勝の三段壁や千畳敷(別項記載)を通過して温泉中心街の湯崎へ向かう。 海岸に出たあたりで、外湯で磯浜にある「崎の湯」を覗いたが、あいにく本日は定休日とのこと・・残念無念!!。
この辺りはすでに硫黄の香りが感じられる、気が付くと崎の湯の入口付近には源泉タワーがモウモウと白煙を噴出している、さすがに温泉地・白浜である。 近くにオッサンらしい(小生もオッサンだが・)人が居たので・・、「崎の湯は休みなんすね・・、他に外湯というか、共同湯てのはございやすかね・・?」、「温泉かね・・、ホレ、あすこに見えるんが ムレの湯ちゅう、共同浴場だがね・・、」 確かに白っぽい二階建の建物が防波堤越しに見えていた。 
海沿いからY字路になっている間に在り、浴場の前は小さな園地と駐車場になっていて、何やら石碑がデンと座っていた。 玄関上に大きな看板で「牟婁の湯」(ムレでなく、ムロと読む)とある。おもムロ(シャレたつもり・・)に引き戸を開けて中に入る。復古調のフロントがあり、なかなかいい雰囲気である。浴室は両窓がついて明るく、二つの浴槽が有って、それぞれ違った源泉の湯が注がれている、聞くと其々源泉種が異なると言う。 早速、浸かる・・熱い!!、でも気分爽快・・!
源泉湯船には、各々名前が付いていて「行幸の湯」という、何とも意味深な名である。こちらは含重曹食塩泉といい、入るとツルツルし泉温はかなり高い。飲泉も可能で味は、さすがに海辺のせいか塩っ辛い。他方は「砿湯(マブユ)」といい、こちらは食塩泉でもっと塩っ辛い味がする。熱くて(源泉70〜80度)当然水で薄めてはいるが、元々温泉成分が濃いためか、温泉臭が充満していて満足である。 一つの施設で二種類の湯が味わえる、さすがに名湯・白浜である。
外の石碑には「湯崎七湯」としてあって

『 ふる国の 磯のいで湯に たずさわり 
         夏の日の海に 落ちゆくを見つ 』
茂吉(斉藤茂吉)とある。 

湯崎温泉は奈良朝以前より「牟婁の温湯」と呼ばれ、明治初期から崎の湯、屋形湯、阿波湯、疝気湯、元の湯、浜の湯、砿湯の七湯を「湯崎七湯」と称し、来泉客に親しまれた。 併せて、明治初期 鉛山村の図と記されていて、下に当時の温泉の略図が描いてある。
白浜は鉛山村・・? 
白浜は先ず奈良朝の日本書紀や万葉集などに「牟婁の温湯」、「紀の温湯」という名で登場してくる。 戦国後期に鉛鉱山が発見され、江戸期には紀州徳川藩の直轄領となっていて、その頃から鉛山村と称していたようだ。 鉛が採れなくなった頃から鉛山温泉、湯崎温泉と名前が変わって湯治場として発展し、昭和15年、町制の施行によって「白浜町」となっている。

白浜は往時、貴人の保養地として有名であり、しかも、ある種の事件の背景にも成っていた。 
奈良朝期、大化の乱(大化の改新)に関係した有間皇子(ありまのみこ)、斉明天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじが・後の天智天皇)らが湯崎の仮御所として保養に来られた。又、斉明天皇の他にも持統天皇、文武天皇等が行幸し、白浜温泉は都人にとっては、この上もない保養地であったという。
「日本書紀」によると、この白浜の地で有間皇子(孝徳天皇の子、中大兄皇子等が行なった「大化の改新」によって大化元年・645年、父の孝徳天皇が即位している)は謀反のかどで中大兄皇子に裁かれ絞首されている。 大化の改新から13年の後であった。

中大兄皇子、藤原鎌足等が行なった「大化の改新」とは・・
飛鳥時代に発布された改新之詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革であり、天皇中心、中央集権の政治への転換した一大政治改革である。
6〜7世紀にかけて、聖徳太子の上宮王家(上宮:聖徳太子の別称)を滅ぼし、大和の朝廷で権勢を振るう大豪族・蘇我一族の蘇我蝦夷(そがのえみし)、その子入鹿(いるか)は専横を極め、天皇家を凌ぐ力をもった。 しかし、中大兄皇子らのクーデターで宮中での蘇我入鹿は暗殺、蘇我蝦夷は自殺した。 この蘇我宗家の滅亡事件をこの年の干支に因んで乙巳の変 (いっしのへん) という。 その後の中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足らによる一連の改革を、年号「大化」としたため大化の改新と呼ぶに到った。

【追筆】・・
以前から奈良の明日香村ではキトラ古墳や高松塚古墳といった、飛鳥時代の古跡が発見されていて、周辺には石舞台や大型建物跡の遺跡も見つかっていた。 又、本年(2005年)、今度は蘇我一族の館、特に、理想と野望の独裁者と言われる「蘇我入鹿」の邸宅の一部とみられる建物跡が明日香村の甘樫丘(あまかしのおか・天皇の宮殿のあった飛鳥盆地を見下ろす超一等地)で見つかったという、事実であれば世紀の大発見とも言われる。これらの事柄は、乙巳の変、大化の改新、壬申の乱(じんしんのらん)といった事件の中で日本書紀に記載されている事項と一致する部分もあるとか・・。 元来、古事記や日本書紀は伝説、伝承部分が多く、事実、真実は少ないとされてきたが、昨今の遺跡の発掘等によって、これらの史書の信憑性が高まるのではともいわれている。
 
白浜温泉は日本三古湯(白浜、有馬、道後)にして、また三大温泉地に数えられる湯処である。
さっぱり湯から更に車を進めると、「白良浜」の海岸が南国情緒たっぷりに広がっている。 間もなく海水浴シーズンで、この温泉場も一段と賑やかになることだろう。 白良浜沿いの浜通りから入ってすぐ、銀座通りに「足湯横町」なるものが真新しく出来上がっていて、足湯に浸かりながら飲み物や軽食を食することが出来るという。全国初の試みとか・・??、何ともユニークでご満悦なことだろう。
白浜の湯とメインタウンをぶらついて、今夜の宿、千畳敷の真近くにある「かんぽの宿・白浜」に入った。

更に「白浜」へ続きます・・、

左に串本の人気スポット「串本海中公園」を見ながら、「すさみ」へ到る。 
「すさみ」とは、ひらがなの妙な名前だなと思ったが、元々は「周参見」であり、周参見村が前身であった。読み難いので安直に「すさみ」にしたのだろうか・・? こちらにも大辺路街道の熊野古道が残る地域である。 
JR周参見駅の国道42号沿いから、途中山間に分け入って、熊野灘を望む屈指の景観と往時の佇まいを残す、「長井坂」を抜けて見老津駅(みろつ)にかけてのコースである。
周参見の街外れ、周参見川辺りには熊野古道所縁(ゆかり)の「周参見王子神社」が残る。

古くから紀州の海、周参見の沖合いを航海する船乗りの間では、この地方を「枯木灘」と呼んでいた。 
明治43年(1910年)発行の「周参見村郷土誌」には、『周参見港より以南二色の袋港に至るの海上数十里一帯を枯木灘と称し、古来東牟婁郡大島港出港の上り船は、周参見港湾に寄港して風を避くるの外他に良港無きを以て、其海上を枯木と称し船人警戒するところなり・・、』とあって、古くから呼称されていたことが伺える。
和歌山県が昭和29年、県立公園として「枯木灘海岸」の名称で制定し、周参見町と江住村の境界から、串本町有田の錆浦までの地域を指していた。
この枯木灘の参見駅湾に浮かぶ「稲積島」がいかにもいい。神武天皇ゆかりの島というが、神武東征の折、食糧の稲をこの島に積み上げたという伝説からきた島名であるといわれる。青の海面に半円状のホッコリして浮かぶ緑濃い島で、色彩コントラストが良くここから望む夕景もまた絶品という。
地元紀州・新宮出身の作家・中上健次が長編小説『枯木灘』を描いている。
中上健次は1975年(昭和50年)、『岬』で第74回芥川賞を受賞している作家で、所謂、「紀州サーガ」と呼ばれる紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、独特の土着的な作品の世界を作り上げた。
又、最近では歌手・都はるみが『枯木灘残照』を歌っていた、残照とは日が沈んでも、なお空に残っている光や夕焼けをいう。

『枯木灘残照』  詞 道浦母都子
両手(もろて)にて君が冷えたる頤(おとがい)を
包みていしは冬の夕駅
君に妻われに夫(つま)ある現世(うつしよ)は
姫浜木綿(ひめはまゆう)の戦(そよ)ぐ明かるさ
歳月(とき)はながれて 歳月はながれて いまひとり
あゝ残照の枯木灘
・・・・  

歌の文句はチョッと判りにくいが、歌人・道浦母都子(みちうら もとこ)の文語調の歌詞が良い。

紀伊は、紀伊山地と言われるほど、重畳たる山脈でその殆どは覆われている。 しかもこの地域は日本一雨量の多いところである。 折り重なるような山稜の間を、屈曲しながら多くの河川が急流を成して、太平洋、熊雄灘に落ち込んでいる。これらの河川は上流、中流をとわず多種多様に造形されて自然の景勝を見せている。
日置川は紀伊山地のほぼ中央部に水源を発し、中辺路や大塔村を経て日置川町、熊野灘、枯木灘に注ぐ、途中、日置川峡谷をはじめ多くの景勝地が見れる。 水量も年間通じて多く、アユ釣りの本場であり、カヌー族のポイントでもある。
日置川町は古座川同様、河川名を地域名にしていて、河口付近は巨大な中洲を形成している、このあたりも古座川に類似している。 
国道42は新道、旧道が折り重なるように、日置川の中洲を渡る。
日置の町はそんな河口のデルタ(三角州)地帯に、正に川と海の狭間の三角地帯に形成されているユニークな街である。町のキャッチフレーズにも「山と川と海の街」と、真にズバリである。 町の西側海岸は「志原海岸」といって、日置川が運んできたのだろう小さな玉砂利の明るい開けた浜辺が続く。
近くに「道の駅・志原海岸」が在ったので、小休止して、後は今夜の目的地「白浜」へ向った。

次回は「白浜」に着きます・・、

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