『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」  、


平家終焉の序章 、

昨夜、あれだけ鮮明に見えていた神戸の街は、今朝はモヤのベールに包まれてボンヤリとしか望めない。
関西圏では京都や大阪が数回、また岡山や四国、はたまた昨夜の有馬温泉といい、過去に所によっては数回訪れてはいるが、大阪と並ぶ主要都市「神戸」は一度もなかった。
結局、今回も素通りすることに、なってしまったが。

東の横浜、西の神戸といわれているが、エキゾチックで異国情緒あふれる神戸は、昔の面影を残す港の雰囲気溢れる町並みであろう。 
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深の有る扇状の入り江部に発展した理想的な港湾・神戸港を有する日本を代表する港町である。
市域中央に横たわる六甲山地の山上の高原一帯は日本における別荘・リゾート等の発祥地として有名であり、昨夜訪れた有馬温泉は六甲北麓、神戸市街の反対側に当たる。 
有馬温泉は日本三古湯の一つとして古来より名高い保養地であり、今では神戸市街の喧騒を六甲山系がシャットアウトし、都市神戸の奥座敷として願っても無い至近距離、好位置にある。


「神戸」という地名 、

神戸」は、かんべ、ごうど、じんこ、こうべ、といろんな読み方が有る。
主に地域の氏神である神社の経済的基盤を支えた住民や土地の地域のことを指していて、日本各地に神戸(読みはいろいろ)という地域名として存在する。

神戸は、現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封(住民が租税や課役を神社に納めたり、祝などの役職を務めることで神社に奉仕した地)の集落、つまり神戸の地であったことに由来しているという。
神戸の民は、生田神社をはじめ、神戸三社(他に、長田神社や湊川神社)、市内ある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わり、それが、現在の灘五郷という「灘の生一本」で知られる日本酒の一大生産地につながったと言う。
(なだ)とは本来、風波が荒く航海の困難な海のことを意味するが、酒類業界では通常清酒の主産地である神戸市東部から西宮市今津(灘区、東灘区)に至る大阪湾に面した約12kmに及ぶ沿岸地帯を指している。


気候や立地に恵まれた神戸は、すでに古代から歴史の中に登場している。
大阪湾、瀬戸内海に面している神戸は京・大阪にも至近で、古くから海運、貿易港として、「」とともに発展を遂げ、奈良時代には既に存在した港「大輪田泊」という名称で登場し開港している。
平安後期には、その利点に目を付けた平清盛が、自国の荘園だったこともあって神戸の港・大輪田の泊を改修し、中国(当時は「宋」)と貿易を行っている。 
この時期、清盛は京都から神戸の福原に首都を移転して、所謂、現在の兵庫区を中心に「福原京」が設けられた。 つまり、海洋国家としての樹立をめざしたのであろう、実際のところは、源氏勢力から一時的に逃れるため、自らの強い勢力圏に天皇を移そうとしたという背景もあった。

そうした福原の建設途上、東国における源平の争乱はますます激化し、遂に、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫した。
清盛は状況に抗しきれず、遂に福原をあきらめ平安京への還幸を決意することとなる。 
その後、清盛亡き後源氏の勢いは益々盛んで、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。 宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、邸宅のことごとくを焼き払っている。 
その後の源平合戦では英雄・源義経が、この地の「一の谷の戦い」で源氏が大勝利していることは周知である。

古書・平家物語には・・! 、
『 山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり』とある。

当時の福原の都の一角でもある平家の拠点・一の谷城は、現在の神戸市須磨区一の谷町にあたる。 そして義経が京を出発し丹波街道の篠山から一の谷へ到る途中に鵯越があるが、この地が六甲山系の西の山麓でもある現在の神戸市兵庫区鵯越町に当たる。 一の谷の逆落としを決行するのは、現在の須磨の鉢伏山(須磨浦公園)の海に向かった急斜面といわれている。
有名な「鵯越の逆落とし」で、義経を主将とする源氏軍はこの地で平家軍を破っている。 平家の予想を裏切る奇襲作戦だったようで、 平家物語には「およそ人間の仕業とは思えないことだ」と記されている。


詳細な場所については説が分かれているようだが義経は、この峻険な高地に立った時、この攻撃は無理だと内心思ったという。 傍らに居た佐原十朗義連(三浦党、三浦義連・よしつら)が、「こうゆう崖は、われわれ三浦の方では、普通の地形で、いわば三浦の者にとっては馬場のようなものだ」といったという。
人の目から見るとたしかに難攻な斜面であるが、馬の目で見るとそうでないかもしれない。 三浦党は馬の目をもっていたのだろう・・!。
義経の鵯越えの逆さ落しはこうして生まれたという。


青葉の笛』 ―敦盛と忠度―  

一の谷の 軍破れ         
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛


神戸の地は、150年後の南北朝時代においても再び戦乱に塗れれた。

次回は、皇将・楠木正成の最後



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日本周遊紀行(56)神戸 「有馬温泉」  、



イメージ 1
有馬温泉立寄り湯「銀の湯」


三古泉・三名泉の一つである「有馬温泉」 、

国道176号を宝塚駅を過ぎて少し走り、中国道を左折すると県道51号の有馬街道に入る。 
道端には古い道標が残っていて、これは太閤秀吉が有馬街道で迷う人のないようにと、有馬への道標を刻ませたという道標だという。

すぐに急な登りのヘアピンがあってそこからカーブが連続する。 
六甲の北の山麓にあたり、前方にはパノラマのように「蓬莱峡」の景色が広がっている。
灰褐色の鋭い岩が乱立している光景は不思議な風景である。

蓬莱峡を過ぎて、長い上り坂を登りきったところに「船坂」の集落がある。
ここは標高400m近くあって寒冷な気候を生かし、今でも冬季には昔ながらの製法で「寒天づくり」が行われているという。
寒天といえば長野県中部の諏訪地方が全国一寒天の生産地である。
寒天は、寒風吹きすさぶ厳しい寒さと昼間の晴天という気温差による気候が寒天作りに適しているそうで、材料は海のもので天草(テングサ)を原料として作られている。

テングサは、現在は伊豆、伊豆諸島あたりから諏訪地方へ出荷されているようである。 
テングサは天草と書くが、一昔前は「心太草」とも書き、「太」がテンになり、それがなまってトコロテン(心太)になったらしい。 このトコロテンを寒晒したものが寒天である。
食用としては太古の奈良時代以前から食されたようで、当時は僧侶の間で盛んに食べられており、朝廷の供物にも用いられていたという。
今ではダイエット、健康食品として新しい姿を見せている。


西宮へ至る六甲北道路を直進し、更に芦屋に至る芦有ドライブウェイを過ぎると間もなく「有馬温泉」である。
清らかな有馬川沿いを行くと風情のある朱色の太閤橋が見えた。 近くに神戸が始発の神戸電鉄有馬線・有馬温泉駅が伺える。 
主要道路は、温泉街の中心ともいえる善福寺の前あたりが、程よく行き止まりになっている。 車を置いて暫し周辺の様子を確かめる、奥まった周辺は坂道の多い傾斜地に旅館やホテルが密集しているようだ。
左手に有馬温泉の名物湯「金の湯」が在ったが、残念ながら休館であった。 伺うと「銀の湯」は開業しているらしい。

有馬温泉の由来は神代の時代に遡るという、三古泉・三名泉の一つである。
孝徳天皇が妃ともに有馬温泉に滞在中、待望の皇子が生まれたので名を「有間」と名付けたといい、後の有馬皇子である。 
有間皇子は、大化の改新や皇位継承をめぐる複雑な争いの中で19歳の若さで散っていった悲運の人である。 日本書紀には、皇子は奇しくも紀州・白浜の湯で政変を企んだとのかどで絞首にされたと記されている。 奇しくも生死とも温泉に関係した皇子であった。

中世には清少納言は枕草子で有馬温泉に言及している。
太閤秀吉が愛した温泉地としても有名で、秀吉は有馬を何度も訪れている。
温泉寺の近くに「湯山御殿」を建てたと伝えられていたが,極楽寺本堂横の庫裏下から岩風呂や蒸し風呂,庭園跡などが発掘され、当時を偲ぶことが出来るという。 現在,太閤の湯殿館という資料館が開設され,遺構が保存されている。


大阪より1時間、神戸三宮より30分とアクセスも良く、関西の奥座敷として親しまれる。泉質は、含鉄強塩泉の金泉(金の湯)と呼ばれる赤褐色の湯と、無色の炭酸泉・銀泉(銀の湯)の2つ、交互に浸かれば相乗効果があると言われる。

車を池坊満月城ホテルの駐車場に預けて、先ずは銀の湯へ向かう。
西南の方向、温泉寺と念仏寺の急坂、階段を行く、有馬でも一等地の高台である。
この辺りは太閤秀吉が有馬を訪れていた頃は、足元から湯が湧き出していたと言われ、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼ばれていたらしい。
丁度この地に「太閤の湯殿館」というのが在り、秀吉の湯殿跡といわれるところらしい。
念仏寺は、太閤秀吉・北政所の別邸跡と言われる由緒ある寺院で、雰囲気も良く見晴らしも素晴らしい。

温泉寺と念仏寺の先に「銀の湯」が在った。
金の湯のモダンな洋風に比して、こちらは木造の純和風造りで、瀟洒な雰囲気をだしている。暖簾(のれん)をくぐり自動販売機で券を買い、受付でロッカーの鍵を貰って、そそくさと浴場へ。 
中は「太閤の蒸し風呂」と言われるサウナと泡風呂、一般浴槽のみで、残念ながら露天風呂はなかった。 せっかくの有名温泉地で、しかも周辺は自然豊かな所なので露天風呂も欲しいところであるが。 

先ずは有馬の湯に浸かる、金の湯とはお湯の質が異なるようで、こちらは炭酸泉・放射能泉(ラジウム泉)の無色透明な温泉で、全体にさらっとした感じの湯である。
情報によると、源泉からの湯量が低下した場合は不足を補うために加水することがあり (不定期) 、湧出温度が低いため加温して、循環(補充)しながら塩素による消毒を実施しているという。
さすが古来名泉といわれた有馬温泉も、現在では湯量、湯温には悩まされているようである。

銀の湯の裏手高台に温泉神社があった。
南側に愛宕山公園も隣接していて清閑な地にあり、この山の中腹に有馬の氏神・温泉守護神として崇められている。
歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇・白河法皇などの参拝が記されているといい、草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命(大国主の若い頃の名前・大黒さま) と少彦名命 (スクナヒコナ・医薬の神) とされ、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されている。


温泉タウンで、格安安価な宿を探したが、いずれもべらぼうに高価で断念し有馬を後にした。
一旦、中国道の西宮北I・Cから山陽道へ行き、一気に淡路へ向かうことにした。
夜のライトに照らされた優雅な明石海峡大橋を渡って、淡路島の北端「道の駅・あわじ」にて今夜の宿、車中の人となる。 対岸の神戸の夜景が、眩しいくらいの輝きを見せ付けていた。

次回は「神戸

 
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日本周遊紀行(55)宝塚 「女の城に日本の紳士」  ・



女の城に日本の紳士がいた・・!  、


尼崎での鎮痛な気分を切り替えて、有馬温泉へ向かうため幹線道2号線から地方道42号を北上し、先ずは宝塚方面へ進む。 
阪神の沿岸地区の所謂、産業地区から、ようやく離れて新鮮な緑や川面の緑青が目に付き心が癒される。 西の方角は六甲の山並みが見え、緩やかな傾斜を辿りながら延びてきて、やがてこの辺りの武庫川を境に平地となっている。 

宝塚、西宮郊外、芦屋は六甲の山裾が東、東南へ延びて丘陵地形造り、阪神地区のベットタウンとして発展している。 
特に、芦屋地区は、当時は別荘地としても有名であった。 武田繁太郎の昭和30年代・芦屋マダムの生態を描いた「芦屋夫人」が猥褻(わいせつ)小説かどうかは別にして、当時流行の「有閑マダム」の代名詞になったのは事実である。 
宝塚市は、小林一三氏が手がけた阪急電鉄経営の宝塚歌劇が有名であり、美しき女性専門の歌劇団の所在地でもある。 又、関西の奥座敷として、温泉や芦屋市・西宮市とならんで高級住宅地としても知られる。


夕刻時分とあって、街へ近ずくにしたがい、R176と中国道の宝塚I・C付近からは一段と賑やかかさが伝わってくる。 間もなく緑豊かな公園の中に「手塚治虫記念館」(「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「火の鳥」などアニメ、漫画で知られる手塚治虫は宝塚出身)があり、その隣に巨大な建造物、赤い屋根の豪奢な建物が直ぐ目の前に現われてきた。
赤茶のスペイン風瓦屋根と白壁の外観が際立つ、南欧のお城をイメージしたと言われている宝塚歌劇団の本拠地、「宝塚大劇場」である。
数々の名公演や名女優を輩出した女性憧れの地、女の園であり、又、東京宝塚劇場や東宝系の映画制作、映画館の元祖とも言うべき本山でもある。

 
宝塚という場所は、元々は温泉地であったらしい。
宝塚電鉄並びに宝塚歌劇団の創始者小林一三翁が鉄道の乗客誘致のために温泉を作り、その余興として1913(大正2)年16人の少女によって結成された「宝塚唱歌隊」が宝塚歌劇団の前身であった。 そして翌年の1914年(大正3年)、プールを改造した劇場で初演の幕が上がり、間もなく1世紀にわたる歴史が始まったという。


宝塚歌劇団とは、阪急東宝グループを母体とする男役も女役もすべて女性が演じる劇団で、(スタッフは男性もいる)本拠地は兵庫県宝塚市の当地において、花、月、雪、星、宙(そら)の五つの組が交代でレビューや芝居を公演している。 
劇団員になるには、「宝塚音楽学校」への入学競争率約40倍・・!、「東の東大、西の宝塚」と言われるほどの難関を卒業する必要がある。 音楽学校時代の二年間の予科、本科。入団してからの研究科、と宝塚歌劇団そのものが大きな学校である。
各組には、トップスター、トップ娘役がいて主にこの二人を中心に舞台は作り上げられるという。
歌劇団退団後も、芸能界で活躍する女優も多く、大地真央、黒木瞳、天海祐希等、又、扇千景元国土交通相も宝塚歌劇団出身である。 小生の好きな「ズカ・ジェンヌ」OB・・否、OGは八千草 薫であったが・・!これは余計・・。



次に、今度は女性の事でなくは男性の事なのである 、

話は大きく転じて、
先の大戦(太平洋戦争)での敗戦の結果、占領軍が上陸して大臣、閣僚のお偉方が平身低頭して右往左往する中、ただ一人、占領軍・司令長官・マッカーサーに「NO」といった男・「白州次郎」のことである。 
この地、宝塚市は白洲家の出身地であり、白洲次郎は1902年(明治35年)、に生まれている。 
英国留学、更に英国赴任の時、駐英大使だった「吉田 茂」と面識を得、終戦時、英語が極めて堪能な彼は、終戦の始末を就けるべく吉田 茂の側近として、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。

先ずエピソードを一つ、
彼は年末の或る日、天皇陛下からマッカーサー一家に贈るクリスマスプレゼントを託され、丁寧に手渡そうとした。マッカーサーは「その辺に置いておけ」というニベもない仕草を見せた。その瞬間、白洲は怒りを爆発させ、「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、“その辺に置けとは何事か・・!”」と、そのままプレゼントを持ち帰ろうとした。驚いたマッカーサーは彼に陳謝し、テーブルを用意して鄭重に贈り物を置いたという。 これらの振る舞いにマッカーサー及びGHQは、白洲を「占領下、ただ一人の従順ならざる日本人」と評している。
GHQに従い、日本国憲法の起草に尽力した白洲は「この憲法はGHQによって創られたものであり、後に日本国民自身の手によって、作り替えねば、戦後は終わらない・・!」と称している。 
彼の一言は重要である・・!!、あれから今日までの幾星霜、「日本国憲法」はどうなっているか・・??。

サンフランシスコ講和会議の吉田茂首相の演説の場面は、時折、終戦記念などでTVでも放映されているが、この時予定としてはGHQと外務省が用意した演説原稿を英語で話すはずだった。 
これを知った白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」と怒って、大きな巻紙に全文・日本語に書き換えて首相に渡したという。
吉田首相に独立国の面子として日本語で演説するように諫言し、実際、首相は羽織袴姿でテーブルの前に立ち、大きな巻紙をクルクル開きながら日本語で演説していたのである。 

白洲次郎は、185cmの長身、流暢な英語力、それに持って生まれた明晰な胆力で占領軍・米国首脳陣と対等に渡り合ったのである。そして条約締結、日本の独立が叶った時、秘書官として同行していた宮沢喜一(元総理)は、初めて白洲が泣くところを見たという。 
吉田茂も、白洲を高く評価し「白洲三百人力」と呼んだ。

その後、白州は、少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、「通産省」を設立するなど白洲と吉田は一蓮托生となり、吉田が退陣すると自らも政界から姿を消し、実業界へと転進し活躍するのである。
幼なじみの作家・今日出海(こん ひでみ)に「育ちのいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を残して、1985年(昭和60年)、83歳で世を去った。

ところで、その日本国憲法は、1947年に施行されて以来改正されたことはない。 
日本国憲法施行以来、自衛隊の合憲化や天皇性などを提言する側から、憲法草案がいくつも発表されてきた。そして、時の政権、自民党(自由民主党)の政策には、憲法改正が優先政策事項として挙げられ、「憲法改正草案大綱」なども作成しているが、いずれも保留又は撤回されている。
2006年、小泉総理から若手の安倍 晋三内閣総理大臣(2006年9月)へバトンタッチされてからは、彼の信条である憲法改正論議がようやく活発になってきた。 安倍総理は政策の中で、施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会でも「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、60年近くを経て現実にそぐわないものとなっている、しかるに21世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べ、日本国憲法の改正手続に関する法律案を、2007年の通常国会での成立を目指すとしており、 2007年夏の参院選では憲法改正を最大の公約に掲げている。

このブログを書いている最近(2008年11月)になっていて、現在の総理大臣は代わりに代わって麻生太郎氏である。 奇しくも麻生太郎は、当時、憲法草案に当たった吉田茂の孫である。 果たして、吉田茂の側近であった白洲氏が、「GHQによって創られた日本国憲法は、作り替えねば戦後は終わらない・・!」と言わしめた現憲法の事が、麻生氏の頭の中に有るかどうか・・?見守りたい・・!!。
特に憲法問題は、北朝鮮における拉致(人攫い問題)を含む南北統一問題、北方における領土問題、中国の東シナ海問題にも関連してくる・・!。

【追記】
NHK総合が、激動の昭和史を駆け抜けた一人の「侍」―白洲次郎・伝説の生涯を初ドラマ化!放送は2009年2月28日(土)から放送された。
白洲を異色の俳優・伊勢谷友介、妻の正子を中谷美紀が演じるほか、岸部一徳(近衛文麿役)・原田芳雄(吉田茂役)など白洲の親子愛・夫婦愛を描いている。


大阪、尼崎、宝塚と巡って記録に留めたい事がある・・、
1995年(平成7年)1月17日、阪神大震災が発生してから丁度10年目に当たる。 
道中巡って震災跡らしきものは全く見ていない。 巡った辺りは震源よりやや外れていたため、被害は軽微だったのであろうか・・?、又は完全復興したのであろうか・・?、
しかし、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場は大きな被害を受けたようで、およそ2ヵ月半の間公演不能の状態になったという。
午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。 地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した。死者:6,433名、 負傷者:43,792名、避難人数:30万名以上、被害総額:10兆円規模といわれる。 大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった。

尚、「阪神大震災」については、更に「神戸」の項で記載します。

次回は、「有馬温泉」



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 日本周遊紀行(54)尼崎 「千の風になって」  .



鎮魂の尼崎に、「千の風・・」が舞う、

今、「千の風になって」という唄が、静かなブームになっているという。
小生が何となくこの歌を見聞きしたのは何時の事だったか定かではないが、近々であることには違いない。 確か・・?、盲目のテノール歌手である「新垣勉」が、NHKの番組でこの曲を朗々と心に響くような歌い方で聞いた時であろう。 
その時は歌詞の内容は殆ど理解せぬまま、ただ、美しいハーモニーとメロディーのみが印象に残っていた。

この歌「千の風になって」は、悲しみの歌であり、悲しみを乗り越える歌でもあり、悲しみを忘れさせる歌であり、明日への希望の歌でもあるといわれる。 
人生には不都合、不運、不具合が付き物で、事故や災害で亡くなった方,病気でなくなった方や残された周りの方にとって,この歌はとても優しい歌であり、多くの人々を感動させているといわれる。

この歌が感動を呼ぶのは、多くの人々の「心痛める現実」にあり、それらを共有、共感し、歌詞のような気持ちを持つことによって、やっと救われるようなる。 
又、美しい曲を聞いていると「それ」を忘れてしまいそうになり、悲しみの当事者にとって,その一瞬でも違った心持ちになれるからではないかと・・!。

この近畿圏である兵庫、神戸界隈は近年大いなる悲劇に見舞われた。 
10年前(平成7年)の「阪神淡路大震災」(神戸の項で記載)そして、この度の「尼崎列車事故」である。
震災の回忌・追悼式や慰霊祭は元より、教会や各地各所、各人が寄り添って、この「千の風になって」を演奏し、唄われるという。

過ぎ去った時間を墓の前で悔いる人達を、彼らは『 空や木々の間を吹き渡っていて、死んでなんかいません 』と言う。 
慰霊や鎮魂は死んだモノたちではなく 残された者達の為にあり、過去を悔いながらも 墓の前にひざまずく足が、又、希望へと前に進めるようにと。

2005年には、地元・宝塚歌劇団が阪神大震災から10年のチャリティーコンサートとして歌はれ、又、劇映画も製作され、本も出版されたという。 
2004年には、前述の盲目の沖縄のテノール歌手「新垣勉」が唄った。 
この頃はまだ世間には知られていない流行以前の曲であったが、やはり全盲の歌手として活躍している「塩谷靖子」氏の優しい歌声と深い表現力が話題になり、あの、聖路加国際病院・名誉院長「日野原重明」の推薦するCDが新聞などの報道により話題を呼んだという。

その後、やはりテノール歌手の「秋川雅史」や「中島啓江」などによって唄われている。 
特に、この詩を新井満が日本語に訳し、曲をつけたものを、NHK紅白歌合戦(2006年)では秋川雅史がこの歌を熱唱し、多くの人々に感動を与えた。 
その後、問い合わせが殺到、翌年1月のオリコン総合チャートで1位を獲得している。

これらの歌詞は、新井満や塩谷靖子氏らによって翻訳詩、作曲されている。
また、海外では米国での「アメリカ同時多発テロ事件」(2001年9月11日)で亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。 
米紙によるとすでに1977年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したといい、1987年には女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。


ところで、「千の風になって」の歌の内容は凡そ判ったが、原歌曲は一体、何処の、誰が、何のために創ったのか・・??、 甚だ、興味津々である。
以前、朝日新聞の「天声人語」(新聞の一面コラム・囲み記事、短評欄)に、「誰が創ったのか判らない一編の短い詩が、欧米や日本で静かに広がっている。 愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である」とある。

この詩の起源に関してはいくつかの説があるが、原作者はメアリー・フライ(Mary Frye)という、アメリカ人女性が書いたのが最初の詩とする説が有力であるという。
メアリーが同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなる。しかし、当時のドイツは、反ユダヤ主義の風潮の為に帰国出来なかった、そのことが原因で落ち込んでいた、そこで彼女のために一片の詩を書くのである。 
メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に一息に、込み上げる詩を書き付け、紙切れを差し出した。「これ、私が書いた詩なの、私の思う《人の生と死のあり方》なの、あなたのためになるかどうか分からないけど・・」
マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。 「私この詩を一生大切にするわ」、暫くして、彼女の家族の友達が、詩をはがきに印刷して人々に送り、これが人々に「人伝い」で広まった、これが最初のだといわれる。

そして、明らかになった事実は、メアリー・フライが友の癒し・追悼の為にこの詩を書き、この詩になんら「著作権」が設定されていない事実であった。 そのため、人々は自分の文体や言葉で自由に表現でき、その人の共有財産になったという。ということで原作者の彼女は、一銭の報酬も受けていないのである。
この件についてメアリー本人は次のように話している、「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ、今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・多分」


千の風になって』 原作詞:アメリカ メアリー・フライ 訳詞・作曲:新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています

『A THOUSAND WINDS』
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.


次回、女の城・宝塚に「日本の紳士


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写真:城崎温泉概略図
写真:城崎温泉駅
写真:城崎温泉の極楽寺参道と参道横の元湯


日本周遊紀行(197) 城崎 「城崎温泉」(3)

城崎温泉(きのさきおんせん)は、平安時代から知られている温泉で1300年の歴史をもつといわれ、飛鳥時代にコウノトリが傷を癒したという伝説が伝わっている。 又、8世紀初頭の養老年間、道智上人が千日の修行を行った末に湧出したのが城崎温泉の始まりともいわれる。(現在の外湯・「まんだら湯」) 上人は「温泉寺」の開山僧でもある。
温泉寺は由緒ある古刹で、「鴻の湯」の向かい側、薬師橋を渡ったところに参道・山門があり、大師山の中腹に位置する本堂の他多宝塔などが建つ。 ここには大師山へのロープウェイが架かり中間駅に「温泉寺駅」がある。 大師山山頂からは温泉街はもとより、円山川の緩やかな流れとその先に広がる日本海の見事な景観が眼下に広がる。

城崎温泉は江戸時代には「海内第一泉・かいだいだいいちせん:日本一)」とも呼ばれていて、今もその碑が湯の町中心街、王橋のたもと外湯・「一の湯」として残っている。 一の湯は江戸時代の頃までは「新湯(あらゆ)」と呼ばれていたが、医師・香川修徳が泉質を絶賛し、「海内一」の意味を込めて「一の湯」に改名したともいう。
温泉の目玉は昔ながらの外湯めぐりが主体で、外湯はそれぞれ守護神を持ち、温泉を神の恵みとした敬虔な信仰心として崇め、それに元ずいて湯浴みを行ったという。 一の湯の他に「鴻の湯」、「まんだら湯」、「御所の湯」、「地蔵湯」、「柳湯」、「さとの湯」 の七箇所、其々工夫を凝らし特色を出している。
江戸時代の温泉番付によると城崎温泉は西の関脇(最高位は大関)にランクされ、山陰の名湯とされていた。 温泉街の各所に多くの碑があるように、文人墨客に愛された湯の街であり、明治以後も「城の崎にて」を書いた志賀直哉をはじめとする多数の文豪が来訪している。

「手ぬぐいを さげて外湯に 行く朝の 旅のこころと 駒下駄の音」   与謝野 寛


ところで、志賀直哉の「城の崎にて」の城崎が消えてしまった・・!!??、
この度の「平成の大合併」で日本国中の由緒ある町村名が消えてしまった事例が多い。
西の大関と言われる大分・湯布院町(由布市)であり、関脇が城崎町(豊岡市)であり、 東北の小京都・角館(仙北市)、焼物の里・あの狸でお馴染みの信楽(しがらき・甲賀市)、いずれも屈指の観光地であったが、あっさりと消えてしまったは惜しいことである。
東の大関は静岡・修善寺(伊豆市)、名作・「伊豆の踊子」も形無しであり、同じく静岡のサッカー王国、清水の次郎長でお馴染みの清水市(静岡市)、関脇は上州の歴史ある温泉場・伊香保(渋川市)、他にも、日本一のブドウとワインの産地・勝沼(甲州市)、日本のエーゲ海と言われた岡山・牛窓町(瀬戸内市)と、懐かしい市町村名なども失われていて、 他にも無数にあるという。
「地名」には、歴史的背景や地勢的由来などの謂れがあるのだが、住民の浅はかな興味本位の投票と、行政諸氏の石頭連が何の惜しみも無く、かなぐり捨ててしまうことは残念である。


早朝目覚めたので朝飯前に今一度、写真撮影方々温泉街を訪ねてみた。
先ず最初に駅前に出る。 古い温泉地のわりにはモダンな駅舎で「城崎温泉駅」という。 京都発着の山陰本線は福知山、豊岡と内陸からやってきて、ここ城崎から概ね山陰地方の沿岸を辿りながら終着の下関に至っている。
2005年4月1日に城崎町が隣の豊岡市と合併したことに伴い、2005年3月1日に「城崎駅」から「城崎温泉駅」へと改称されたらしい。 さすがに合併によって由緒ある自治体名である「城崎」が消える危機感を感じ、城崎ブランドを守るため地元有志・議会などの要請により,旧城崎町が経費を全額負担して「城崎温泉駅」が実現したという。
この「城崎温泉駅」は第一回近畿の駅百選にて、第14位の選定駅であるという。
因みに、駅百選というのは、「鉄道の日」(明治5年9月12日(新暦1872年10月14日)に、新橋駅と横浜駅とを結んだ日本初の鉄道が開業した事を記念したもので、1922年に鉄道記念日として制定された)記念行事の一環として、2000年から2003年までの4年間で、国土交通省近畿運輸局管内(京都府、大阪府、滋賀県、兵庫県、奈良県、和歌山県)の特徴ある駅を公募等で募集し、選考委員会で100駅を選定したものである。 

駅前にお寺のお堂を模した豪奢な造りの吹き抜けの建物の「足湯」である。 ここで目覚めの顔、手足を洗う。 その奥に日本最大の駅舎温泉「さとの湯」が城崎温泉街の外湯の一つとして機能しており、無料で利用できる足湯で、電車の待ち時間をゆったりとすごすことができるのは嬉しい。
役場である城崎支所には「温泉課」という窓口も有るという。

湯の町の朝は早い・・!、
すでに観光客・泊客は朝7時開湯の外湯を目指しているようである。
大谿川にかかる柳の緑が朝風に、ソロリと揺れている、又、湯の里通りの瀟洒な家並みに朝日が当たり始めた。 温泉街の外れ、突き当りの月見橋を左折すると西山公園があって、この先に極楽寺がある。 ここにも城崎温泉の元湯があり、露出した岩肌の間からモウモウと湯蒸気を上げている、看板に28号源泉とあった。
何処かの旅館の女将であろうか・・、品の良さそうな粋な和服姿で参道からこちらにやって来る。 軽く黙礼を交わしすれ違った。
松林が覆う長い参道の奥に本堂らしき重厚な建物が目に入る。 
極楽寺は京都・大徳寺の末寺で江戸・寛永年間、沢庵和尚により再興された禅寺という。 境内は禅寺らしく、白砂で心の文字が描かれた枯山水の庭園・「清閑庭」や城崎温泉の開祖である道智上人が、独鈷(とっこ・仏具)といわれる仏具で岩の壁をたたくと湧きだしたと言われる「独鈷水」等がある。 予約すれば座禅や法語の修行を行ってくれるらしい。

そろそろ人の往来も目立つようになったところで戻るとしよう。

次回は、与謝野・「丹後の国」


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