『日本周遊紀行』

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写真:山陰の鄙びた漁港・「居組港」の美景


日本周遊紀行(194)浜坂 「温泉町」

鳥取砂丘から福部村、岩美町の海岸沿いを行く。
国道9号線は山口・下関を出発して以来、主に山陰を巡ってきたが、ここ鳥取市域を過ぎて間もなく内陸へ向かい京都に達している。 小生は引き続き、沿岸道の国道178号線を走ることになる。

それにしても海岸線が美しい・・!。
岩美町の海岸は「浦富海岸」(うらどめかいがん)と称して、自然が彫刻した岩と白砂青松の海岸美は、文豪の島崎藤村も絶賛した景勝地として知られている。 「山陰の松島」と呼ばれ「日本の渚百選」、「平成にっぽん観光地百選」にも選ばれている名所である。 約15kmにわたって続くリアス式海岸は変化に富み、西部には海食や風食によってできた奇岩、洞門、断崖絶壁が点在している。 
緑の老松がおいしげる千貫松島、菜の花が一面に咲き乱れる菜種島など、奇岩や断崖は迫力満点であるという。 浦富海岸のなかでも、特に絶景地とされるのが環境庁の海中公園地区にも指定されている城原海岸で、その幽玄な美しさから神秘の霊境とされ、文豪の島崎藤村がこの地を訪れたとき、「松島は松島、浦富は浦富」と絶賛したという。
浦富は文字どうり「浦が富んでる地」である。

道路標識は、これより「兵庫県」とあった。
リアス海岸の高所から小さな港へ向かってヘアーピンカーブを曲がりながら下りてゆくと居組の港である。 三連に並んだ坊主山・・?、のような島が港に浮かび景観を造っている。
もし、好事家が「日本港100選」を選ぶなら、この地は選ばれるに違いないだろう。 適度の広さで砂浜が広がり、その奥には小さな灯台のある防波堤が左右に続き、漁船の着く市場がある。そして防波堤の上に見える絵に描いたようなお椀型の小山が三つ並ぶ。
この風景は、一見の価値がある・・!!。

間もなく浜坂町に至ったが、この地も山陰地域での有数の温泉場である。
浜坂温泉郷は国民保養温泉地としての指定を受け、一般家庭や旅館・民宿、町営住宅など、ほぼ全戸数に配湯されているという。 その為であろうか、環境庁(現 環境省)より国の省エネルギー・モデル事業の全国第1号に指定されている。
浜坂温泉郷は近隣にある七釜温泉(しちかまおんせん)、二日市温泉(ふつかいちおんせん)、浜坂温泉(はまさかおんせん)の三つの温泉の総称であり、2005年10月に浜坂町と内陸に接している「温泉町」とが合併して「新温泉町」が発足するという。
「温泉町」は、山郷の温泉・湯村温泉からその名が付いている。 平安時代初期に開湯したという古い歴史があり、山峡に佇む閑静な湯治湯として親しまれている。 「湯けむりの郷」とも称し、1981年のNHKドラマ「夢千代日記」のロケ地として、その風情が全国に知られるようになり、以来「夢千代の里」とも称しているようだ。
行政名が旧、新とも「温泉町」という形容的で、やや大様な名称であるが、形容イコール実態ということで納得であろう。 気が付けば小生の実家のあった地名も、旧名は福島県の「湯本町」であった。

更に、これより東の海岸は山陰海岸国立公園に指定されていて、国の名勝天然記念物・「但馬御火浦」という名所もあった。 但馬御火浦(たじまみほのうら)は、香住町と浜坂町に跨る香住海岸の伊笹岬から浜坂海岸の観音山の間の約8kmの岩礁海岸を云う。 
日本海の荒波により彫刻された断崖絶壁、洞門、柱状節理・岩脈、岩礁が連続する岩礁海岸と島々の景勝地で、中でも世界最大級の洞門「釣鐘洞門」は特に著名である。 国指定の名勝・天然記念物でいずれも山陰海岸国立公園に属する。
次は間もなく「餘部」であった。

次回は、餘部


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           写真:天下の名城・「姫路城」


日本で最も美しいと言われる「姫路城」は別名「白鷺城」ともいう・・、

この大幹線道・国道2号線は早朝というのに、交通量が多く神戸、大阪方面へ向かう流通大型トラックが目に付く。 30分程して姫路市街に入り、国道2号線をそのまま東へ進むと、やがて姫路城の天守閣が遠望できるようになる。 大手前通りからお城の方角へ向かうと、お堀端に沿って幅広い道路が東西に走っている。その中央に大手門があり、ここから入園(入城ではない)する、まず、広大な三の丸公園が目の前に広がる。 早朝のせいか観光客は少ないが、中年の夫婦や各グループがウォーキング、ジョギングを楽しんでいる。
正面中央に丸く囲まれた園地の中心に、巨大石で「世界遺産・姫路城」の刻印が刻まれている。そしてその背後に遠く、高く姫路城・天守閣が聳えていた。 城郭へは、正面管理棟の「菱の門」辺りから入城するのであるが、現今は、時間外で入ることはできない、入城は600円とか・・。
通りすがりの人と、話をする機会があった。 和歌山の人で「全国の名城」を見物旅行しているという、小生自身のことも若干話し多いに納得されたようである。一週間ほど前に小生の地元「小田原城」を訪門されたといい、旅行の目的とは色々あるもので、小生も大いに感心させられた。
園内より東の方角へ行き、出来るだけ本丸・天守閣に近ずくと、朝日に照らされて白く輝く五層の大天守閣が天に突き上げ、その威容を誇っていた。 この大天守は、三つの小天守を白壁の渡櫓が結んでいる。 空に向かって建ち並ぶ天守群と白く美しい白壁の広がの様は、天を舞う白鷺のように譬えられ、姫路城は別名「白鷺城」(しらさぎじょう・はくろじょう)ともいわれる。

姫路城は、鎌倉末期の元弘三年(1333:鎌倉時代終焉)に、播磨の守護職・赤松則村(南北朝時代、湊川の合戦で楠木正成を破った)がこの場所に砦を築いたのが始まりと言われる。「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もあるが・・。
山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には黒田氏や戦国期・天正八年(1580)羽柴秀吉が西国支配の根拠地として入城し、翌年三層の天守閣を築いているる。
関ヶ原の合戦後、徳川家康の女婿・池田輝政(秀吉の仲介によって家康の次女督姫・とくひめを娶る)がその戦功により姫路城主となり、戦国末期から江戸初期の慶長年間から八年の歳月をかけ大規模に城域を拡張し、姫山に五層七階の天守を築いたのが今の城郭である。輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたりもした。本多忠政が嫡子・忠刻とその妻千姫(徳川秀忠の長女)のために西の丸に化粧櫓を築き、1618年頃、今日の名城としての全容を完成させている。
その後、榊原氏や酒井氏などのを経て明治維新後陸軍省に引き継がれ、明治末期に荒れた城の修復をし、昭和30年代から八年の歳月を費やして天守閣群を解体修理し今日に到っている。 現在、大天守と三つの小天守およびこれらを結ぶ渡櫓(以上は国宝) をはじめとし、化粧櫓などの櫓27棟、門15棟、土塀およそ1km(以上重要文化財)と内濠、外濠の大部分は当時のまま残っているという。中濠より内は、特別史跡に指定され、また1993年(平成5年)、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
尚、上記の「昭和の大修理」により「50年は保つ」といわれていたが、今日、大修理から45年が経過し漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の白漆喰の塗り替え、瓦の葺き替え、耐震補強を重点とした補修工事が予定されているという。2009年(平成21年)度着工、2014年(平成26年)度竣工予定としている。
事業費は30億円弱と見積もられ、工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部の公開は続け、大天守を覆うように素屋根を設置するため天守からの展望や外観の展望は望めないが、修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討されているという。

ところで江戸時代の初期には全国に大小180ほどの城があったとされるが、その殆どが、明治維新の際の取り壊しや、戦災によって滅失し、名城・名古屋城や熊本城も例外ではなかった。その中で、姫路城は幾多の危機を乗り越え、奇跡的にも往時の姿をよく残しているという。そして現在、その建築物のほとんどが、国宝や重要文化財に指定されいる。日本三大国宝城の一つ(他に松本城、彦根城)に数えられ、築城以来の姿をよく残していることもあって時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」とも言われる。 現在、国宝に指定されている城は、松本城、彦根城、犬山城と、そしてこの姫路城の4つのみである。


姫路城の勇姿を何枚かカメラに収めて姫路を後にした。
今度は山陽道を西に向かう。備前I・Cより岡山ブルーラインへ、瀬戸内海が深く入り込む片上湾の入江を跨ぐ片上大橋を渡る。 青空の下、紺碧の海が光る。 周囲は、たくさんの小島が海に浮かび、湾では無数の筏が浮かぶ素晴らしい景観である、牡蠣の養殖が盛んなようである。 「道の駅・黒井山グリーンパーク」で小服を入れる、ここは、子供たちのための楽しい施設が盛りだくさんで、家族連れで一日中遊べそうである。
ブルーラインを邑久(おく)インターチェンジから、県道39号を南下して「牛窓」に向かう。
牛窓は、海沿いのリゾート地として知られる。 オリーブが生い茂った小高い丘から見える瀬戸内の小島や、ヨットハーバーなどがかもし出す雰囲気から、「日本のエーゲ海」とも呼ばれているが、実際、目にしたのは、きらめく海に長く延びる防波堤があるわりには、船の姿も見あたらない不思議な港の風景である。 謳い文句とは裏腹に、普通の港のようで特に観光地らしい景観は見られなかったようであるが・・?、場所を間違えているのか、名に言う美風の景観地は他にあるのかもしれない。

次回は、裸祭りの「西大寺」・・、

相生湾では例年、賑やかな「相生ペーロン祭」で盛り上がる・・、

純中華風の真っ赤な建物は白龍城、ペーロン城といい、1階がその名のとおり中華料理店で2階が温泉になっていてペーロン温泉という。 650円の入浴券で、黒御影石の浴槽にドップリと身体を漬かる、浴室は落ち着いた雰囲気で朱色が目立つ建物の外観からするとかなり落ち着いて見える。 温泉は、無色透明で海岸のせいか薄い塩味がする、他は特に変わった浴感はないが、湯上り肌がサッパりすべすべになったようである。 露天風呂は、表のベランダらしきところに浴槽があった。この露天からは、運河のような湾を挟んで、IHI ・石川島播磨重工業(株)の巨大工場が見えている。

この運河のような湾で、日本でも数少なく有名な「相生ペーロン祭・相生ペーロン競漕」が行われるのである、そう、この露天風呂から見物できちゃうかも知れない。
「ペーロン」は、西暦の紀元前300年頃の中国の戦国時代、湖南地方で「楚」(春秋戦国時代の国)の宰相・屈原が身を投げ、鎮魂のために龍船(白龍・パイロン)を浮べて競漕したのが始まりであると伝えられてる。 日本へは、1655年に長崎港へ伝えられたとされ、ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンが訛ったものといわれている。日本国内でのペーロン祭は、相生、長崎、沖縄で行われている。
相生のペーロンはやはり長崎から伝わったようで、1922年(大正11年)に長崎県出身の播磨造船所従業員によって伝えられ、相生港祭りとして始まってという。 相生湾で開催されるペーロンは艇長1名、舵取1名、太鼓1名、銅鑼(ドラ)1名、漕手28名の計32名が乗り組み、4隻のペーロン船が競漕する競技で、1レースは片道300mのコースを往復し、600mでタイムを競うという。
相生湾に沿って、ペーロン祭の見物用にもなる相生ボート公園があり、コーナーにはペーロン艇のモニュメントが建立されている。

白龍城・ペーロン温泉のフロント奥には軽食コーナーと休憩用のお座敷があり、軽めの夕食と一日のまとめを記録した。 車内で、何となくムッ・とした暑さで目が覚めた。早朝のやわらかい陽光が車内に射し込む、潮の香りが鼻を撫でる、相生の朝は清々しかった。未だ朝の5時半であるが、頭をスッキリさせて先ずは待望の姫路へ向かうことにする。
瀬戸内海特有の穏やかな気候風土に恵まれている「相生」は、西播磨テクノポリスの副都市として、産業・経済の発展途上の都市でもある。 又、交通の要衝で、山陽自動車道、国道2号線、国道250(はりまシーサイドロード)、それに国道373(上方往来道)、鉄道では山陽新幹線、山陽本線、赤穂線が其々合流か、近辺を往来している。
天下の国道2号線は関西主要部を結ぶ幹線で、大阪の梅田新道から北九州の門司までの国道である。門司では、九州を縦断し鹿児島方面の国道3号線に連絡する。むろん梅田新道では、東京日本橋からの国道1号線が2号線を引き継ぐ。沿道には、神戸・姫路・岡山・福山・広島・下関などの関西の主要都市を通貫する。東京日本橋から九州・鹿児島まで1,2,3号線の各線が結んでいる。
因みに、国道1号線の所謂、「旧東海道」は大江戸・日本橋から京都の三条大橋までであるが、いずれも、この大幹線道路の基点は、東京都中央区日本橋の「日本橋」である。 又、主要地方へ向かう幹線道の基点も、この日本橋である。

ここで東京近郊に住む小生でもあるので、チョッと「お江戸日本橋」について・・、
「お江戸日本橋七つ立ち」の歌で知られるこの橋は、江戸時代から現在に至るまで文字通り日本を代表する橋として、わが国の歴史とともに歳月を重ねてきた。 その最初の架橋は1603年、関ヶ原で徳川方が勝利した3年後であった。江戸幕府(家康)は、江戸に到る五街道を定め、この橋を起点として整備を進めた。更に明治になってからは日本の道路元標をこの橋の中央に据え、各地の道標との距離を測定する基点とした。
現在使われている橋は、明治建築界の三大巨匠の一人、妻木頼黄(つまき・よりなか)のデザインで、構造設計は当時の東京市主任技師だった米元晋一が担当し、1911年(明治44年)に完成したものという。
ルネッサンス様式を取り入れた二連アーチ式であり、欄干の前面には東京の繁栄を願って麒麟の像が、また中央には、その守護を願って獅子の像が据え付けられている。なお、この橋の門柱に彫り込まれた「日本橋」という文字は、最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫(きごう:毛筆で文字や絵をかくこと)によるものという。
往時の初代橋は当然、木造の橋だった。この辺りは江戸の中でも最も賑わっていた所で、浮世絵による名所絵(風景画)に描かれる日本橋には背後に富士山が描かれることが多く、江戸の象徴とも言えた。この橋の袂には橋と川の織り成す景観を楽しむために水面近くまで階段で下りることができ、橋と流れの調和や上り下りの行き交う渡し船をみることができるスペースが設けられていたという。 その一つは「瀧の広場」と称し、ナイアガラ瀑布のように壁面を水が流れ夏には涼しさを誘い、目を楽しませてくれたというる。 この豪勢で美しい橋は、これまでの歴史から見ても、またその美観から言っても、日本における第一級の橋としての威容と、親しみやすさを兼ね備えていた。 このような経歴とその風格から1999年には、橋の米寿を祝って国の重要文化財にも指定された。
現在の「日本橋」は、花崗岩製の第十九代のものであり、承知の如く上部に首都高速道路が被さっていて、圧倒的悪観を呈している。 昨今、この高速道路の移設が話題になっているという。 以前から東京の景観破壊の元凶として首都高はしばしば槍玉にあげられていたが、それを、除くことはあくまでも理想論でしかなかった。しかし、環境時代と言われる今日(こんにち)、小泉純一郎首相が日本橋の首都高を移設する一大事業に号令を出し、私的な有識者懇談会が発足している。 当の石原都知事は、慎重姿勢を見せているらしいが・・果たして・・?。

次回は、待望の「姫路城」へ・・、

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写真:赤穂城の傍らに、四十七士の像が整然と並ぶ「大石神社」


「忠臣蔵」という言い方は、史学・学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという・・、

四国と別れて、瀬戸大橋から中国・山陽道へ到る。
高松自動車道の善通寺I・Cから坂出JCTを経て、瀬戸内三橋の中央、瀬戸大橋を行く、所謂、「児島・坂出ルート」である。
迫力のある巨大大橋は、ある種の人工美を誇り、余りの圧倒的美観に車を路上で止めてカメラに収める。首都圏ならともかく、地方ではさすがに車の量は少ないからチョッとの駐車は安心である。 途中、与島PAで景観を楽しむ、そしてランプ橋といわれるループ状の道を下りる。 与島PAは海面近くであり、瀬戸中央自動車道(いわゆる瀬戸大橋)の橋自体が航路上を跨ぐため、水面からの高さが非常に高い。このため、島との高低差が大きいため、ループ橋で高度を稼いでいるのである。この辺りの海域は瀬戸内航路の主要部になっていて、時折、大型船も航行しているようである。 倉敷方面の岩黒島、櫃石島に架かる「斜張橋」といわれる富士山形をした橋形が並ぶ。これまた美観である・・!!。 
この坂出、倉敷を結ぶ瀬戸大橋は、六つの長大大橋が三種類の橋形で架かっている。 斜張橋の他に、長い距離に適している「吊橋」が南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋、下津井瀬戸大橋、三角形を組み合わせて安定した形の「トラス橋」の与島橋である。いずれも世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観である。因みに、下津井瀬戸大橋が、香川県坂出市と岡山県倉敷市との県界に当たる。
時折、ゴーという走行音が聞こえるのは鉄道電車の音であろう、そう、この橋は道路と鉄道の併用橋で、上部が自動車道(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(瀬戸大橋線)になっている。鉄道で四国へ渡る場合は、岡山駅から南に進み茶屋町、児島を通って瀬戸大橋を通り、宇多津(うたづ)に至る路線である。宇多津〜高松の予讃線を合わせて瀬戸大橋線と呼んでいる。瀬戸大橋線を走る特急は岡山発松山・宇和島行き特急「しおかぜ」、高知・中村・宿毛行き特急「南風」、特急「南風」に併結されて運行される徳島行き特急「うずしお」、そして東京発高松行きの寝台電車特急の「サンライズ瀬戸」などが走る。サンライズ瀬戸は、現在東京発22:00⇒高松到着07:26・乗車時間9時間26分・乗車券14,670円(普通乗車券11,010円, 特急券3,660円)・走行距離804.7km。 
瀬戸大橋は、道路鉄道併用橋としては世界一の規模を誇るそうだ。
橋の構成から岡山・鷲羽山トンネルは、世界初の二階建で四つ目のトンネルになってる。上の二つは車、下の二つは鉄道専用になっている。 6つの橋と4つの高架橋の総延長12.3kmで、鉄道併用橋では世界最長だという。 総工費・1兆1,200億円で、工事の期間は9年半、1978年(昭和53年)10月10日に着工して1988年4月10日に開通している。 強度は、秒速66mの風(家が倒れたり、ビルが崩れる)が吹いても大丈夫な様に設計されているそうで、また100年に一度起こるかも知れない様な大地震(マグニチュード8)が、土佐沖 100kmの場所で起きても大丈夫な様に造られているという。
瀬戸内の島々も合わせて雄大な眺めを堪能し、尚かつ、人間の底知れない科学の力に驚嘆しつつ、出発することにする。  この四国を離れ、岡山・倉敷のJCTより逆戻りする感じで山陽高速道を行く。

赤穂ICを下りて旧赤穂城を目指す、ご存知、「忠臣蔵」の赤穂城である。
I・Cから凡そ3km、海岸近くに赤穂城址があった。その石垣跡は風雨に晒されながらも、昔の面影をしっかりと残している。そこに、丸みを帯びた石碑に「赤穂城址」とあり、すぐ横に説明用の看板があがっている。 看板には『赤穂城は生保2年(1645年)、浅野長矩の祖父・長直が常陸国・笠間から入府し、近藤三郎三衛門正純に築城設計を命じ、実に13年の歳月を費やし、寛文元年(1661年)完成したものである。 城郭の縄張りは・・・・昭和46年3月、赤穂城址は国の史跡に指定され、本丸等の整備が進められている』とあり、城郭境内略図が記されている。図によると、ここは「塩屋門」にあたるところのようだ。
奥の敷地には当時の赤穂藩士の屋敷跡になっていて、「片岡 源五右衛門」、「間瀬 久太夫」、「磯貝 十郎左衛門」、「大石 瀬左衛門」等、御馴染みの赤穂浪士の屋敷が点在する。更に奥の方に「大石神社」が在った、参道両側には大石良雄(内蔵助)を筆頭に四十七義士像が整然と並んでいる。 
城郭跡周辺には本丸表門、三之丸への大手門、三之丸に連なる二重の隅櫓等、整然と復元されている。赤穂城周辺では、現在でも発掘調査が行われているという。
追記、赤穂城は2006年には、財団法人日本城郭協会の選定する日本100名城に選ばれている。

この本丸表門から1701年(元禄14年)、家老・大石内蔵助を先頭に浅野家家臣団の一行が、播州赤穂・浅野家五万三千石の城を無血開城にて退出していったのである。 幕藩体制が安定しつつある元禄の世、突如として起こった大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士による主君の仇討ちは、ここから始まるのである。
元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、江戸城・殿中松の廊下で高家筆頭(江戸幕府の職名、幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼をつかさどった家)の吉良上野介義央に刃傷に及び、即日切腹、播州浅野家は断絶となった。 その後、元禄15年12月、大石内蔵助を始めとして47名が、吉良邸に討ち入り吉良上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭の仇を討った。 いわゆる「忠臣蔵」の物語である。
この元禄15年末に起きた赤穂浪士の討ち入りは、二つの意味で世を動かす大事件であったと言われる。一つは無論、名家の当主、吉良上野介暗殺という刑事事件として。 もう一つは武家政権の徳川幕府が開かれてから凡そ一世紀、時代は泰平を謳歌する元禄の世に、「武士道とは・・?」という根源的な問いを突きつけた事にある。
辱めを受け、無念の思いを残して切腹した主君・浅野内匠頭の仇を晴らしたのは、成る程武士として「あっぱれ」である。 しかし、内匠頭に即刻切腹を命じる一方で、吉良に「お咎めなし」としたのは幕府であった。 その幕府は、開祖の徳川家康以来、朱子学(儒学、おおまかには大義名分論のうち 何が正で、何が邪か、と言う事の根本思想)を根本理念とし、「臣下は分を守るべし」を強調し、所謂、戦国期よりの「非道」を戒めてきた。
赤穂浪士事件は「義挙」かもしれないが、幕府にすれば守るべき「分」を越えていたとも言えるのである。 然るに、これは皮肉なことで朱子学者の間では「浪士の仇は、内情は吉良であるが、実質は一方的な裁定を下した幕府ではないのか」という声も上がっている。 官学者の筆頭とされる林大学頭(信篤のぶあつ・幕府の行政学者、儒学社))は、「天(幕府、将軍)は、忠義の臣を助けなかった」と嘆いたのは知れるところである。 
一方、武士道の根本を書した「葉隠」(宮本武蔵の愛読書)を著した肥前藩士・山本常朝は、「主君が死んで、仇を討つまでが長すぎる。(1年9ヶ月)肝心の吉良殿が死んでしまえばどうにもならぬ。上方のものは世間の覚えをめでたくするのは上手だが、無分別ではないのか」と評している。 要するに、「江戸城で浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ時、何故、成否をかえりみず、即刻行動しなかったのか・・、それが武士道ではないのか」と批判しているのである。
討ち入りの時、大石蔵之助が山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らして志士を鼓舞するが、その山鹿流の始祖「山鹿素行」直伝の浅野家・家臣たちは、殆どが「無条件開城」を主張したといい、これらも葉隠や山鹿流の教えには無い行動であるという。 時は元禄であり、時流と時代背景がそうさせたのかもしれないし、「武士道」も個人差が出る程度の哲学になっていたともいう。
尚、旧赤穂藩士の吉良邸討ち入り事件の元禄赤穂事件を題材をとった、歌舞伎や演劇・映画の分野での創作作品である「忠臣蔵」という言い方は、赤穂浪士方を善、吉良方を悪とし、赤穂浪士に対する賞賛の意をこめた呼名であり、客観性がなく非歴史的であることから、学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという。

赤穂城は「海平城」といわれる。今でこそ発電所、施設、企業が沖合いに並ぶ産業地であるが、往時、お城の前は広大な砂浜が広がっていて、塩田開拓が盛んであったという。
浅野長直(初代赤穂藩主、浅野内匠頭長矩の祖父)は、赤穂城築城と平行して城下町の整備に取り組むとともに、入浜式塩田の開拓と塩の流通にも力を注ぎ、赤穂浅野家の繁栄の礎を築いた。 一方、三河の吉良家も三河湾での製塩が盛んであり、この塩の製法、流通が浅野家、吉良家の間に若干の確執を生み、赤穂事件の遠因になったとも言われる。

『 あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる 
浮世の月に かゝる雲なし 』
大石内蔵助が見事本懐を遂げて、晴れやかな胸のうちを残した和歌である。

国道250で姫路へ向かう、途中、道の駅「あいおい」が在った。
相生湾の最奥の海に面したところに、「白龍城」とかいう中華風のカラフルで豪奢な建物があり、ここが道の駅で、その名の通り中華料理が自慢らしい。
又、ここには何よりの温泉があった、ペーロン温泉という天然温泉らしい、すぐ近くには飲食店も並んでいる、時間も頃合だし、温泉に浸かり、食事を摂って、この地に車泊としよう。

次回、相生のペーロン・・、


 

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         瀬戸内海の最大の「瀬戸」、鳴門の渦潮と大橋・・、

洲本城址から海岸線をそのまま直進して「由良」方面へ向かったが、マリーナあたりで、沿岸を行く県道は工事区間も多く道路事情が良くないとの情報を得たので、やむなく引き返すことにした。
「由良」は、淡路国が徳島藩主・蜂須賀氏の領地となり、家老の稲田氏一族が由良城代として居城していた。古来、友が島を挟んで紀州・和歌山には至近で、浪速・大阪や紀州とも海運が盛んであった、それは南北に細長く横たわる「成ヶ島」を正面にした由良は、昔から天然の良港であったのである。 しかし、由良の地は背後は険しい山が控えていて発展性の乏しい城下でもあった。 1631年、稲田氏は 由良の地幅が狭く城下の経営には適さないとして、城下町ごと洲本に移転することになる、所謂、「由良引け」が行われた。以後は洲本が淡路の中心となっている。

戻って、国道28の内陸を行く・・、
淡路国道とも言われ中央部は松の緑の美しいところであり、その名の如くこの辺りを緑町と称している・・?。 そして、淡路島の南端の「福良」の港へ出た。
鳴門海峡を臨む「福良」は、古くから福良港として明石の瀬戸に始まり、阿波に至る阿波路の要衝として知られる。 往時より阿波への渡り口として「福良の渡」と呼ばれ、豪快な渦潮を眺めながらの渡海であった。近年の大正期の頃からは汽船航路、更に車社会の陸上交通の発展に伴い、四国へのフェリー航路も相次いで開設された。だが、昭和60年の大鳴門橋開通に伴い、ついに渡津としての役割を終えた。
波止場の正面にはかなりモダンな半円状の建物が在る、そこに鳴門海峡クルージング咸臨丸が停泊している。 又、建物をくぐって海辺に出ると、次に見えたのは堂々とした白の帆船・「日本丸」で、両船は福良の港にレプリカ船として渦潮観光に活躍しているようである。
咸臨丸は、1856年オランダで建造され、1860年に勝海舟等によって日本人ではじめて太平洋横断しアメリカへ渡った蒸気帆船である、その勇姿をいまに復元したものという。 又、日本丸は昭和5年(1930)文部省航海練習船として神戸の川崎造船所において進水した。 地球を約45周半(延べ183万KM)航海し、昭和59年まで「太平洋の白鳥」、「海の貴婦人」と呼ばれながら訓練航海に従事し、日本丸がその間に育てた実習生の数は11,500名にもおよぶという。現役を退いた日本丸は10を越す湾岸都市からの熱いラブコールを受けたが、第2の人生を横浜で過ごすことになり、現在、帆船日本丸は、MM21(横浜ミナトミライ21)の「日本丸メモリアルパーク」にて一般公開されている。

鳴門海峡の淡路の最先端である門崎岬へ向かった見た。先端は「道の駅・うずしお」があり、ここは既に「大鳴門橋」が頭上に架かっている。
車を置いて徒歩2〜3分のとことろに観潮台があり、又、巨大な大鳴門橋の下部ゾーンが見渡せる。小粒な人間が、これだけ巨大なものを造りだせるものなんだと承知はしていても現物を間近に見せられると、やはり感嘆し圧倒される。 渦潮は、小生どの程度の規模か判断がつかないが、左方に小島(飛島)があり、その付近が帯状に白く泡立っているのが確認できる。多分、渦潮なのだろう・・、本日の潮目は何日頃なのかのか不明であるが・・?
渦潮の発生要因としては・・、勿論、大海の海水が瀬戸内海へ流入、流出する際、淡路島という障壁の隙間をぬって、北側からは明石海峡、南側がここ鳴門海峡の狭窄の地を直接流れこみ、渦を巻きながら激しく流動する時に起こる。それは、鳴門海峡は中央部がぐんと深く約100mほどあり、この部分は潮流は抵抗なく早く流れる、この流れを本流と呼ぶ。 一方、本流の両岸は浅瀬になっているため、抵抗があって流れは緩やかである。 渦潮は、この本流と両岸の緩やかな流れの境目付近で、本流の速い流れに巻き込まれるような形で発生するという。  大きなものになると直径20メートルにも達し、渦が巻いている時間は数秒から数十秒、渦が出来ては消え、消えては新たな渦が発生し、そして消え、また発生する。上記のようなメカニズムにより、鳴門の渦潮は潮の干満によって発生し、大潮の新月の頃及び満月の頃に最大規模になる。

大鳴門橋は、本州四国連絡橋の神戸〜鳴門ルートに属し、渦潮で有名な鳴門海峡の大毛島、孫崎と淡路島門崎を結び、昭和51年7月に着工、工事費約1千億円で建設でされた。
1985年6月に開通して以来、本年(2005年)で20年の節目を迎える。橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m、海面より45m、マグニチュード8の地震、風速83mに耐え得る構造になっているという。 橋は上下2層式となっており、上部は片側2車線の道路、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっている。しかし、本州よりの明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたため、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性は無くなってしまったともいう。 尚、紀淡海峡に鉄道を通し、和歌山から鳴門に至る鉄道について、大鳴門橋を活用しようとする模索は続けられているというが、果たしてどうなることか・・。 
尚、四国側の橋端は大毛島といって、一見四国本土のように見えるが、小鳴門海峡という細い海峡を挟んで、その名のとおり島である。この島には、ほぼ中心に大鳴門橋・高速道の鳴門北I・Cがあり、又、県道11号が最北端の観潮船乗り場、記念館や鳴門公園等を経て孫崎の岬に至っている。 小鳴門海峡には、本島へ到るのに「小鳴門橋」という赤い瀟洒な橋が架けられている。

門崎の観潮台を後にして、四国側へ渡るために一旦、淡路島南I・Cまで戻る。
因みに、淡路島は本州最大の島は衆知のとおりで、暫くは洲本市・津名郡・三原郡の1市10町体制が続いていたが、平成の大合併に伴って、2005年1月には三原郡4町が「南あわじ市」に、2005年4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が「淡路市」となった。残る五色町は2006年2月11日に洲本市と合併し、新たに「洲本市」となる予定である。 したがって淡路島は北部、中央、南部の三市の行政区域になることが決まっている。

次回は、阿波・鳴門と四国霊場「霊山寺」・・、

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