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日本周遊紀行(64)閑話休題 「四国について」  、



高知へ到ったが、その前にチョッと閑話休題・「四国」について

阿波・徳島を周って、土佐の高知に到った訳だが、ここで「四国」について触れて見よう。
一般に四国は北四国、南四国といって瀬戸内海側と太平洋側とに区分される、だが、気候、風土的には瀬戸内海沿岸地域、四国山地地域、南四国地域の三地域にも分けられる。
瀬戸内海は日本最大の内海で、穏やかな波や美しい島々があり、一大美観で大半が国定公園に指定されている。
瀬戸内海とは、北側は関門海峡、東側は鳴門海峡、そして西側には豊予海峡(速吸瀬戸)と何れも強力な潮の流れの激しいところの内側の海域を指した名称である。
因みに、「瀬戸」とは幅の狭い海峡、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところを指す。

瀬戸内海沿岸地域の気候の特性は年間降水量が少なく、しばしば渇水になる特性があるようだ。 これは後日、高知の沿岸(太平洋側)と愛媛の瀬戸内側を巡るうち、河川の水量が全く異なることに気がついている。
特に、この時期になると(4〜6月・・?)高知の四万十川等は満々と水量が豊富なのに対して、瀬戸内側の大小河川は、ほぼ完全に渇水状態であったこと。 これはダムの残水量等、時折、生活上問題にもなっているようで、吉野川水系の明浦ダムが渇水に見まわれ、連日水不足がニュースや新聞のトップ項目に挙げられるなど全国的にも話題となっている。

又、四国山地地域は、四国の中央部を東西に貫く山地で、中央構造線の南に千数百メートル級の急峻な山々が連なり様々な様相をなしている、四国山脈ともいう。
この地域では多くの自然と景観が合間って信仰の地でもある。険しい山々が荘厳で神々しいことから古代より山岳修行が盛んであり、西日本最高峰の石鎚山や剣山などはその代表格である。 さらには弘法大師ゆかりの四国八十八箇所遍路は、四国の全山、全域が霊場といっても過言ではない。

南四国地域は、気候は海洋性で温暖湿潤であり、台風の通過も多い。
徳島に四国一の河川である急流・吉野川が流れ、高知に四国二の河川てある四万十川の清流が流れる。 然るに水資源が豊富で住民の節水意識が薄いとも言われるが、これは北四国がたびたび水不足に見舞われる地域であるのとは対照的である。 それは四国山地の影響度もある。

経済的に観ると、北四国が瀬戸内海ベルト地帯の一環として経済発展したのに対し、南四国は発展から取り残され、所得水準や工業生産高では大きく差が開いているとも云われ、全国的に見ても開発が遅れた地域であるとみなされているようだが。 
しかし、近年は四国各地を結ぶ「四国縦横断自動車道」の開通など交通の便が改善されたこともあり、現在では四国を南北のブロック分けすることは少なくなっているともいう。



四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれていて、更に、「伊予之二名島」とも記されている。
伊予国の愛比賣(エヒメ)と土佐国の建依別(タケヨリワケ)、阿波国の大宜都比賣(オオゲツヒメ)と讃岐国の飯依比古(イイヨリヒコ)との男女二神ずつが一対として表わされている。
つまり、伊予の愛・ヒメと土左の建依別 (愛らしい姫様と力強い建の男)、阿波(粟)の大宜都ヒメと讃岐の飯依ヒコ(男女一対:両方とも穀物・食事関係して神)を現しているという。 俗に言う、愛媛女と土佐男、讃岐男に阿波女といわれる。 
「伊予之二名島」の二名とは、その二対のことであった。 讃岐は香川県,伊予は愛媛県,土佐は高知県,阿波は徳島県である。 


四国は、国造時代から四カ国が寄り添いあって現代に到っている。 
尤も、領土的には変遷もあったようで、伊予国守・高安王(たかやすのおおきみ・敏達天皇の孫である百済王の後裔といわれる)が阿波、讃岐、土佐三ヶ国を合わせて領したこともあった。
一時期、中世の細川氏、戦国初期の長宗我部元親が四国を一国として統治していたが、長宗我部は豊臣秀吉によって征伐され、元の鞘(四ヶ国)に戻っている。


さて、これより訪ねる土佐の高知であるが 
奈良後期、国郡の制が定まり、駅制が整備されてからは京都と四国の国府を結ぶ官道の往来が賑やかになった。
国の格付は土佐が中の国で、他の三ヶ国は上の国といわれた時期もあり、都から見れば土佐は最も遠い国であったが為かもしれない・・?。
国守では、「土佐日記」を著した土佐守・紀貫之が有名(後述)で代表格であろう。 この頃から平安末期頃まで、土佐は遠流の国となり、貴き方々(都人)が流人として配流されている地域となった。 

戦国末期、土佐は長宗我部氏のあと、1601年(慶長6)に山内一豊が20万石余で入国している。(NHK大河ドラマ「功名が辻」で放映、詳しくは後述) その後の江戸末期、土佐の国から日本を背負い立つ傑物も現れている。
土佐もっこす」という言葉もあり、一本気で骨太で信用がおけるが、頑固で融通がきかないといった土佐人の県民性を表した言葉のようで、古事記に言う、土佐は「男の国」なのである。

次回は、高知の「室戸崎


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日本周遊紀行(63)海南、海部 「大師と海部氏と甲浦」  ,



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鯖大師(八坂寺)・本坊


四国・海南地域は歴史の表舞台でもあった

道の駅・日和佐を出ると海岸部から離れて再び山間部を走る。
海岸線は「南阿波サンライン」といって極めて風光明媚な所,と言いたい所だが起伏が激しく悪路も予想されるので国道55を直進することにした。 
Jr牟岐線とともに日和佐トンネルなど大小トンネルを抜けながら山間部を走る。 山河内からも延々と山間部を走り続け、寒葉坂峠を境に牟岐町に入る。ここからは下り勾配を4〜5キロ走り山間部を抜けて平野部を牟岐川に沿って行くと牟岐の街へ出る。 
途中、海上に浮かぶ出羽島の姿が美しく、牟岐町きっての観光の目玉らしい。

Jr牟岐線はここの地名を付けたもので、牟岐駅は当初の牟岐線の終点であったが、近年この先の海部まで延びている。この沿線に沿って明るい海岸が見通せる、景勝「八坂八浜」と称している。その名のとおり屈曲した八ッ坂があり、その度に八ッ浜が見られるという、路行く者には大変な難所の海岸線だった。この中間に「鯖大師」、別名でその名も「八坂山・八坂寺」というのがある。

日和佐の23番薬王寺から室戸岬の24番最御崎寺までは凡そ80キロの長丁場で、歩けば2日以上かかる距離であり、1日歩いても一つの札所にさえ行き当たらない。 そのため、番外札所と言われるのが八坂寺であった。鯖大師は別格二十霊場にも数えられ、弘法大師と鯖に因んだ話が伝わっていて、鯖の話はこの八坂八浜の大坂を舞台にしたものである。
「 馬の背に鯖を積んだ馬追に、大師が鯖を1匹くれとたのんだ。馬追が断ると大師は次のような歌を詠んだ。 」

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 
         大師にくれで 馬の腹や(病)む
 』

すると馬が苦しんで歩けなくなった。
驚いた馬追が鯖を差し出すと大師は別の歌を詠んだ。

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 
         大師にくれて 馬の腹や(止)む
 』
そうすると馬の苦しみはおさまったという。
」と「」と「」で歌の違いが判り、面白い。


高台を走る道路は時折、優美な海岸風景を見せている。 左手に浅川湾を見ながら走る。
再び山間部を走り、間もなく海部川の清流を渡ると海部町である。海部川は四万十川より美しいといわれる清流で時期になると鮎の太公望で賑わうという。
ところで、海部町は四国・徳島でも極めて小さな町域である。しかし歴史は古く、中世よりこの地方を「かいふ」と呼称し、海部氏が海部川流域を支配しながら勢力を拡大していたとされる。 

中世・平安時代から室町時代にかけて、現在の海南地域(海南、海部、宍喰)は、「海部郡司の領地」であったとも「宍咋庄」という荘園に属していたともいわれる。 そして、中世の阿波南部・海部地方に勢力をもっていたのが「海部氏」であった。
水軍の側面も有する海部氏は特産品である「海部刀」をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によって大いに勢力を伸張したものと言われる。 記録によれば、114万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
戦国初期、四国を制覇しつつあった長宗我部元親によって滅ぼされているが、江戸期は、蜂須賀氏の出城で、隣国土佐高知の防衛線としての要をなしていたという。


海部川を渡って、すぐのところが海部町である。
所謂、海南地域といわれる海部町、海南町と南隣の宍喰町と三町で合併の話が進んでいるらしいが、最初は宍喰町に反対論が多かったという。海南町役場と海部町役場は、海部川を挟んだ対岸に位置しており1kmも離れていない。 いわば海部川を共有した兄弟といった感じの関係なのである。宍喰町が疎外感を覚えるのも判らぬでもないが、その後どうなっているかは定かでない。
追記:2006年(平成18年)3月31日 海部町、海南町、宍喰町と合併し、新しく「海陽町」が発足している。

 宍喰町の国道55沿いには洒落た「道の駅・宍喰温泉」があった、真向かいには、雄大な太平洋が広がる。 
この道の駅は、通常の観光ターミナルの他に、道の駅としての宿泊施設と王宮のような建物で南国情緒を漂わせる「ホテル・リビエラししくい」、そして温泉が同居していた。 
物産館の横に、尾崎将司の「すこやかに さわやかに おおらかに」と石碑が建っていた。 
尾崎 将司は、ここ海部郡宍喰町の出身のプロゴルファーである。「ジャンボ尾崎」の別名でもよく知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記され、世界ランキングの自己最高位は8位としてあった。
この町を境に、いよいよ高知県に入る。

東洋町・甲浦について 、
「東洋町」とは大仰な地名である。 
行政名は東洋町であるが、どうも地域に馴染んだ名称は甲浦(かんのうら)が一般的のようで、地名、港湾名、学校名、はたまた神社、駅名の名称まで甲浦である。

山内一豊が土佐に移封されることに決まった慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月に、この地、甲浦に上陸し、8日に浦戸城(高知)に入城している。
又、この甲浦で「佐賀の乱」(明治7年に江藤新平・島義勇〈しまよしたけ:北海道開発、特に札幌の開拓の父とも呼ばれる〉らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ)に破れた江等新平が捕まっているという。 
江藤は、鹿児島から四国に渡り高知で再起を計ったが失敗し、虚しく立ち去らねばならなかった。更に高知から東進して、ここ甲浦に至った。この進行には艱難を極めたらしく、江藤をして「自分は母の胎内から出て、未だかつてこんな苦痛に遭ったことがない」と言わしめた。この時既に甲浦にまで江藤の人相書は出回っていた。

甲浦は、当時上方へ渡る船の入出する港であり、江藤らがここを通過することが十分予想されたのであって、江藤はこの網に引っかかったのである。佐賀の乱の敗走から1ヶ月であった。
甲浦という僻村が歴史に登場したのは、江藤の騒動が最初で最後かも知れない・・?。 
この様な鄙びた町に、東洋町と言う大仰な地名、否、行政名を誰が付けたのだろうか・・?。たしかに東に大洋を望む地域だが・・、いっその事、高知の東の端に当たるので「東端町」にでもすれば良かったものを、と勝手に思ったりして。 

甲浦地区の一集落に点在する古い建築様式に、「仏頂造り」という建築物が在る。
昔ながらの和式住宅が建ち並ぶ通りに、家の雨戸にあたる部分が面白い形状をしているのである。 板でできた戸が、上半分と下半分に分かれており、それぞれ上下に開く、ちょうど観音開きを横向きにしたような形である。開くと上半分は庇のようになり、下半分は縁側のようになる。
克ってはこの甲浦は、土佐藩主山内氏が参勤交代の際にも利用され、藩主の宿舎や関連施設、浦奉行などが置かれていた。 
街道集落でもあった甲浦では、この仏頂様式の縁側で商品を陳列したり、旅人を接待したりしたという。この造りは人で賑わう玄関港と台風の通過地という場所で生まれた生活の知恵でもあったようである。 
街並みは徐々に最近の一戸建て住宅に更新が進んでいるようであるが、いくつかの古い民家には、今も仏頂造りが残っている。


甲浦駅は鉄道の終点でもある。 
JR牟岐線がR55と並行して、更に海部駅から甲浦までを結ぶのが阿佐海岸鉄道である。 一応、徳島(阿波)と高知(土佐)を結んでいることになり、「阿佐」の線名に相応しい。 
もともとこの海部から高知市に近い駅を結ぶ、国鉄阿佐線として計画されていて、室戸岬を経由する気宇広大な計画だったのだが、国鉄再建、民営化に伴って工事は中断されてしまったという。一方、高知県側の後免−奈半利間は「土佐くろしお鉄道」が開業している。

次回は、閑話休題:「四国」について、


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日本周遊紀行(62)日和佐 「薬王寺」  ,


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医王山・薬王寺の「瑜祇塔」


那珂川町の国道55の「道の駅・公方の郷なかがわ」で一服入れる。 公方の郷とは貴き御方に所縁があると思ったが、やはり室町将軍・足利氏が居留した地であった。
室町後期、政治の腐敗を嘆き淡路島で病死した第10代将軍足利義植(あしかがよしたね)の養子・義冬は、父の悲願を果たすため上洛したが戦いに敗れ、阿波の守護・細川持隆に迎えられ、この地に落ちついたという。その後、足利氏は九代270年にわたってこの地に居住し、漢文学などを広め「阿波公方」として人々に親しまれたという。これが公方の郷の由縁であった。
那賀川町、羽ノ浦町は、平成18年3月に阿南市に吸収合併されるとのこと。
阿南市街は、国道55のバイパスで知らぬ間に通り過ぎてしまった。その後は、自然豊かな四国とは思えぬほどの重工業の港湾が広がっている、橘港である。 古くは天然の良港として知られており、昭和初期には阪神〜高知航路の中継港として栄えたが、今では、火力発電、造船、鉄工所などの大企業がひしめき、徳島県東部における工業の集積拠点としての役割を果たしているようである。

国道55は別名「土佐東街道・土佐浜街道」と称している。浜街道とは言いながら、現在は山中険路の道であるが。 由岐町と日和佐町の町界あたりの地名に「星越」というのがある、星をも越すような高度がある・・?というのはチト、オーバーではあるが、かなりの高所を走っているのは確かなようである。 山間からどうやら見通しのきく平地に出たようだ、日和佐の街である。


二十三霊場・「薬王寺」 ,
日和佐の町内に入ると国道沿いに名刹が在った。「医王山・薬王寺」である。
我々年配者には有難そうな厄除けのお寺さんであり、誰が詠んだか、御詠歌(巡礼または信者などが詠う和歌)としてこんな歌碑があった。

『 皆人の 病みぬる年の 薬王寺 
            祈願のくすりを 興えましませ
 』
御本尊も、当然と思える薬師如来である。

山門をくぐり 桜並木の参道から本堂への石段を登りつつ、振り返ると日和佐城と日和佐湾・太平洋が望まれる。 石段は、女厄坂の33段、男厄の42段とあり、大師堂、地蔵堂から本堂に達する。 この上には61段の還暦の厄坂というのもあり、山腹の高目に密教特有の円形のお堂に四角い屋根の「瑜祇塔」(ゆぎとう・多宝塔の原型とされているのが瑜祇塔であり、一重の屋根と円筒形の厨子、そして屋根の上に聾える五本の相輪が特徴)が建ち、屋根の上には五智を表す五つの相輪が立つ。
瑜祇塔は、通常の寺仏堂とはチョッと変わった斬新な印象を与えてくれる不思議な塔で、神秘的な香りが感じられる。建造は比較的新しく、昭和39年に四国霊場開創1150年を記念して建てられたという。内部には宝物展示室や地下の戒壇巡りなどがあるという。
自分の厄年に、厄坂の石段を一段ずつコインを置いてゆくと、願いが叶うという薬王寺。
寺院は行基菩薩の開基で、弘法大師が厄除けを願って薬師如来像を刻んで本尊とした。 阿波・「発心の道場」の23番、最後の霊場で、24番からは土佐の高知の地で、「修行の道場」へ進むことになる。

薬王寺の山腹より日和佐の町が一望でき、日和佐湾が青く光る。
湾の小山状の上部に「日和佐城」がこじんまりと遠慮がちに見えてる。 海城というか、山城というか・・? お城・天守閣は昭和期の近年、観光用に増築されたものらしいが、本来、室町時代にこの地に拠った肥後守・日和佐氏の築城であるが、戦国期、四国を統一した長曽我部元親(土佐高知の戦国武将、四国全土を統一しているが・・)に降伏している。

日和佐の町内を少し行くと、程なく「道の駅・日和佐」である、ここで小服を入れる。
JR牟岐線日和佐駅と国道に接して立地しており、四国でも国道とJRの駅が一体になっているのは珍しいのでは・・?。 ここには温泉が在る、足湯もある。小生も一足浸かることにした。 物産館の敷地内で湧出する温泉を利用したもので、お遍路さんの足を癒す「休足所(足湯)」としては最適であり、発案担当者に感謝したい。
弘法大師が薬王寺を開いた際、その麓から湧く泉を発見したという古泉でもあり、飲用、また温浴に適した水として、人々に効能を知らせたと伝えられている。 少々の硫黄臭があり、無色透明でサラリとした湯は単純硫化水素泉。 神経痛やリウマチ、慢性皮膚病、慢性金属中毒症、糖尿病などに効能があるという。地下30メートルから豊富に冷泉がわき出ているという。

尚、日和佐町は、2006年3月に由岐町と合併て「美波町」となっている。 大浜海岸に産卵のため上陸してくるアカウミガメで有名、これを主題とした2009年のNHK連続テレビ小説「ウェルかめ」の舞台にもなった。

次回は、海部(かいふ)の海部氏



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日本周遊紀行(61)小松島 「源義経」 , 



源義経、「屋島の戦い」の奇策

徳島の隣はすぐに小松島である。 
小松島は戦国期以後、蜂須賀候が入国して以来、阿波の商業、金融、港湾流通の中心地として栄えたところで、現在でも和歌山や大阪方面とは流通が盛んあところである。 
この港は又、一の谷の合戦後、屋島の合戦で義経一行が上陸した地点として歴史上有名である。今でも市内各地に義経ゆかりの場所が点在しているし、数々の伝説が残る地でもあるという。

国道55が牟岐線と交差するあたり「阿波赤石」駅がある。
このあたりの港を「勢合」といって義経手勢150騎が、ここの港に漂着し勢揃いしたことから、この名が付けられたという。 
ここから、R55に概ね沿って恩山寺の入り口から勝浦川より徳島方面を、義経ドリームロード・義経街道と言って、弦張坂、弦巻坂、旗山、くらかけの岩、天馬岩、弁慶の岩屋などと義経にまつわる伝説の場所が数多く残されている。


平氏は、1184年の一ノ谷の戦いの敗戦後、讃岐国・屋島(現、高松市屋島)を本拠とし内裏(安徳天皇の住まうところ)を置いている。 
義経は「一ノ谷」の後、摂津国の港・渡辺津(大阪)に軍を集めていた。
平氏軍を追討するにあたり渡辺津を出航しようとするが、義経は、戦奉行の梶原景時と激しく論争をしている。(この時の論争を景時の讒言として鎌倉・頼朝へ伝わり、義経追放の一因にもなっているという) 
暴風雨のために景時は出航を見合わせようとするが、義経は景時を振り切って、僅か5艘150騎で風雨をついて出航してしまう。

義経の兵団は、通常3日の航路を6時間ほどで阿波国・勝浦(現・田野町勢合)に到着した。
義経は在地武士団の新居見城主・近藤六親家(こんどう ろくちかいえ)を味方に引き入れつつ、案内役として屋島へ向けて徹夜で進撃している。
徳島を抜けて、現在の県道1号線を北上、大阪峠を越えて、播磨灘の海岸沿い(R11沿い)から、僅か1日でに屋島の対岸に至った。
干潮時には騎馬で渡れる(当時は海を隔てた島であったが、現在は陸続きである)ことを知った義経は、強襲を決意。 少兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけ一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽して、内裏を捨てて海上へ逃げ出したのである。
この源平の戦いは「一の谷」以来、再び義経の機略によるもので、「屋島の戦い」と称している。

屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。
何とか九州に渡ろうとするが、既に源範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。
義経は水軍を編成して、最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」に臨むことになる。



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第18番霊場・母養山恩山寺


十八番霊場・「恩山寺」

恩山寺へ向かう。 
恩山寺は小松島市の郊外、「義経ドリームロード」より少々入った緑濃き、小高い山の中腹に建っている。 
義経が屋島へ向かう折、戦勝祈願したかどうかは定かでないが、山門 をくぐって石段を上った境内にのすぐ右に地蔵堂がある。 小さな地蔵像が数多く並 んでいて、左に大師堂、庫裏があり、内に納経所がある。 さらに正面の石段を40段程上 ると、どっしりとした本堂が建っていた。  

聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基した奈良期の寺院で、当初は女人禁制の寺であった。弘法大師がこのお寺に止まっていたとき、母堂の玉依御前が大師を訪ねたが、女性の身なれば入山することができない。 そこで大師はひと七日(一週間)滝に打たれ修行をし、女人解禁の秘法を修めたといわれる。
それでやっと大師は母君を迎え入れることができ、この寺で孝行を尽くしたという。 この時大師が修行をしたのが、赤い欄干のかかっている橋の下であり、そのことを記念して、びらん樹が植えられている。
また、大師の母君はここで髪の毛を剃って出家された。 その髪の毛は、剃髪所に納められている。そのことから、母養山恩山寺と寺号を改めた。

駐車場から竹林の茂る参道を少しのぼってたどりつく境内には、 樹齢約300年の大きなイチョウの木や、樹齢約350年という立派なソテツの木がある。
長い階段を上ったところにある本堂の左側には細い階段があり、 約300mほど歩けば恩山寺自然公園の展望台に出ることができる。 ここからは小松島港や市街地、紀伊水道を一望できる。

次回は、日和佐



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日本周遊紀行(60)徳島 「阿波おどり」  .



「踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らなソンソン」

徳島市は、吉野川とその支流がつくり育てたデルタ(三角州)の上に発達した人口26万人余の県都である。 このデルタの中心、JR牟岐線とR11が接するあたり、その背後に徳島城址の城山が見えてる。 
徳島城は阿波17万石・蜂須賀家の城であることは先に記したが(淡路の項)、この城は天然の吉野川と、ここより引き入れた掘割川を防衛堀とし、正面に大海を望み防衛と進攻を兼ねた。

戦国後期、乱世も豊臣秀吉によって納まりかけた時期、1585年、後に秀吉に仕えて美濃・墨俣城の築城や中国遠征での対毛利戦で大活躍した蜂須賀小六正勝に阿波の国17万石を与えている。
秀吉から阿波一国を与えられた正勝は、家臣ではあるが秀吉とは事実上義兄弟のような仲であった。 これを子の蜂須賀家政に譲って本人は辞退している、正勝自身は、恩賞などより秀吉の側近として仕えるほうに興味があったかららしい。
家政が築城の際、老臣たちは山中・要害の地を勧めたが、彼は頑として、この地に固執したという。 理由は、これからは軍事よりも経済であると言うのであった。(実際は、なお戦乱は続くのであるが)家政はこの地に築城を勧め、突貫工事で完成させたという。 
この工事を「それ急げ・・、やれ頑張れと・・!!」と励まし、応援したのは秀吉だったらしい。秀吉は正勝の子・家政を少年の頃から知っているから、彼に城を持たせた事が、よほど嬉しかったにちがいないと・・!!。

築城にあたっては、小早川隆景(毛利元就の三男・3本の矢の1人智謀の武将)と長曽我部元親(土佐・高知の戦国武将)に援助を命じ、600日で出来上がったという。 
戦国期、天守閣は権威の象徴だったが、家政は三層平城のごく貧弱なものにした。 かれは威を誇示するよりも、領民の繁栄の方を好んだといえる。

伝承として、城普請完成の日が、お盆の7月15日だったということで、作業者や領民たちは、新しい城の完成と領主のために、盆供養も兼ねてお祭りを催し、多いに踊ったと言われている。 これが「阿波踊り」の発祥ではないか、という説もあるとか・・?。
江戸時代を通して徳島藩・蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎えるが、明治2年(1869年)版籍奉還により廃城となった。明治8年(1875年)には鷲之門を除く天守や櫓など全ての城内の建築物が撤去されている。明治以降の城地は苔むす石垣と堀、庭園、鷲之門が残るのみで蜂須賀氏の栄華は偲ぶべくもなかった。昭和16年(1941年)には表御殿の庭園が国の名勝に指定されている。


 エーラヤッチャ、エーラヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ、阿波の殿様 蜂須賀公が、今に残せし 阿波踊り 』
尤も、「阿波踊り」は蜂須賀氏から始まったわけではない、その元祖として、平安期には京の街で風流(フリュウ)が流行している。風流とは仏事や祭礼の時など、庶民が華麗に仮装して唄い、群れ踊りをさしている。  
室町期では、四国を地盤にした細川氏(★1)が京の管領となり、その後の三好氏は徳島を中心に四国・畿内を支配している。 
従って、この頃に京の風流が徳島(当時は板野地方)に流入したのは極めて自然ともいえる。 戦国末期、畿内を征圧した三好政権(三好長慶・★2))を、軍事的に支えたのは阿波の国人衆であり、その国人衆の間にも流行し、阿波三好氏の本拠である板野郡の勝瑞城下にも伝播して町人衆の間で盂蘭盆行事(お盆・祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事)となって定着していたようである。

★1・・清和源氏の支流で、足利氏の支族。 四国を中心に8カ国の守護職を占め、室町時代には有力守護大名および管領家の1つとなり(三管領・斯波氏、畠山氏、細川氏)、畿内に勢力圏を有する。戦国期、傍流の細川藤孝(幽斎)は織田信長、豊臣秀吉に従い家運を回復する。 江戸期には、近世大名となり、肥後・熊本藩主家として明治維新まで存続。 明治以降、終戦まで侯爵の爵位にあった。 
平成になり、子孫の細川護煕(もりひろ)は、旧熊本藩主細川家の第18代当主で、第79代内閣総理大臣となる。

★2・・現在の徳島県三好郡三野町出身。 戦国前期、長慶は細川氏の重臣であったが、後に政争で細川政権を倒し三好政権を誕生させる。
自らは幕府の相伴衆となって幕政の実権を掌握し、畿内(都のある近畿に一大政権を築き上げる。


阿波踊り」は、はじめ「ぞめき踊り」といわれ、「ぞめき」とは騒がしいなどの意味で、派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。
又、幕末には全国的に「ええじゃないか」の乱舞が流行し、徳島城下からも御蔭詣(おかげまいり・お伊勢参り)で参じた阿波衆が伊勢で、「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったという。
この踊りが面白いというので阿波一円に広がり大流行したという。このあたりが現在の阿波踊りの原型であろう。 「エーラヤッチャ、エーラヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ、踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らなソンソン」の唄で知られるようになった。

手を上げて、足を運べば 阿波踊り」といわれるとおり、阿波踊りには決まった型はなく、ようは楽しく踊れればそれでいいという。
だが、人が見て「きれいだ」と思う踊りを踊るには長くつらい鍛錬が必要だともいう。そして何より一番大切なことは、笑顔を忘れないことであると。

阿波踊りでは、一つの踊りのグループの事を「(れん)」と言っている。県内には有名連と呼ばれる連が多数あり、その他、同好会的要素の「連」も数多い。毎年8月12日〜8月15日迄の4日間開催され、徳島駅前、市内の各所に演舞場が設置される。演舞場の種類には大きく分けて「有料演舞場」と「無料演舞場」があり、有料演舞場では全体的に有名連が踊り込んで来て、無料演舞場では同好会の大学連や企業連などが多い。

近年は徳島以外でも夏のイベントとして催され、徳島の阿波踊り連が指導に当たっているという。
小生の地元・神奈川県下では近くの大和市でも盛んであるが、有名なのは、徳島出身者が夏のイベント用にと提案して導入されたという高円寺(東京杉並区)の阿波踊りである。 因みに、徳島・高円寺・越谷(こしがや・埼玉県越谷市)が、日本三大阿波踊りと呼ばれているようである。
眉山に見守られながら、阿波徳島を後にした。

次回は、小松島と義経


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