『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(60)徳島 「阿波おんな」 



阿波徳島の川と山、そして阿波女


国道11号へ戻って徳島を目指す。 めざすといっても、すぐ其処であるが、間もなく秀麗な吉野川の大橋を渡る。 
ここ河口近くの吉野川は、さすがにゆったりと、悠然とした動きである。
日本三大暴れ川の一つと言われ、四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ。他には関東北部の利根川は坂東太郎(ばんどうたろう)、九州・筑後川が筑紫二朗(つくしじろう)であり、暴れ川とは、雨が降るとすぐ氾濫する川のことである。

四国山地を東西に横切る山並みは日本では珍しい先行谷(せんこうこく・元々あった川の流れがが山脈の隆起によって阻止されようとするが、川の勢いで其の部分を削り取り深い谷や峡谷を形つくる)を形造り、高知北部の源流域では日本の三奇矯(錦帯橋・山口岩国、猿橋・山梨大月)といわれる「かずら橋」のある祖谷峡や断崖絶壁が続く大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)と呼ばれる観光景勝地を形ずくっている。
吉野川は、この地を北上し、池田町で直角に曲がって東へ向きを変え、四国山中を切り裂き、横断して徳島へ流れ出ている。

ところで池田町とは、阿波池田であり深い山中にある。 
深い山中ではあるが、この地は四国各所へ通じている交通の要衝でもある。この町は「やまびこ」が返すような狭地に家々が密集しながら存在している。 この地を有名にしたのが県立池田高校であった。 
昭和49年選抜高校野球では「さわやかイレブン」とか「やまびこ打線」と銘打って大活躍した(準優勝)のは記憶に新しい。 同57年夏、翌年春には優勝し、更に、61年春・優勝した。球児は全員地元出身であるが、監督はあの「攻めダルマ」と異名をとった名将・蔦文也氏である。蔦氏は、打倒「徳島商業」を合言葉に、部員たちに猛特訓を施し、全国にその名を知らしめた・・!。

この池田町は来年(2006年)3月に、三野、池田、井川、山城、東祖谷山、西祖谷山の周辺6町村による合併協定で調印され、新しく「三好市」が発足する。例によって著名な「池田町」の名が消えるのは残念であるが。


阿波デルタの向こうに、新緑のなだらかな高原状の山が見えている、眉山(びざん)である。女性の眉型を連想させることから、眉山と名づけられたそうで、ロープウェーで上がると徳島市内が一望でき、広い吉野川や遠くは淡路島まで見渡せる。 
徳島をこよなく愛し、阿波女を妻にした「モラエス」、そのモラエス館が山頂に在る。

モラエスは、日本をこよなく愛した徳島を代表する文化人の一人で、ポルトガル人。 富国強兵の日本に興味を抱き、来日して神戸で副領事、総領事を務め、阿波女・ヨネを嫁にしている。 退職後は、亡き妻・福本ヨネのふるさと徳島に永住し、眉山のふもと伊賀町の長屋で執筆活動をする。 
「おヨネとコハル」、「日本精神」、「徳島の阿波踊り」など、明治・大正時代の徳島の風習を紹介した数多くの著書を残している。

さだまさし」がこの山を舞台にした「眉山」という小説を最近書いている。
さだ まさし(佐田雅志)はフォークシンガー、シンガーソングライターとしては超有名人だが、映画監督、噺家、小説家としては余り知られていない。 過去、数冊の小説を書いているが、毎年、徳島でコンサートをする内、徳島の魅力に感動し、愛着と親しみを込めて昨年(2004年)、「眉山」を書き下ろしたという。
徳島を舞台に書かれた長編小説で、阿波踊り、人形浄瑠璃等、地元・徳島の自然や文化が詰まった内容という。母と娘を中心とした家族の物語で、母・お龍が病院の中で医師に啖呵を切る場面や最後のクライマックス、母がどうしても見ておきたいと車椅子に乗って出かけた阿波踊り会場で。
さだ氏の歌曲同様、独特の家族への思い、優しさ、愛するとは何か?を教えてくれるという。近々、映画化、TVドラマ化されるという。


古来、「東男と京女」と言うふうに、「讃岐男に阿波女」、「阿波美人」といわれ、阿波女は近隣で重宝がられてきたという。

阿波は、室町幕府のころから京都と関係が深く、足利尊氏の末裔が阿波に住み着き、後に室町将軍(14代将軍:足利義栄)も輩出している。
この時期に、白拍子などが入り込んで都風の遊芸とともにその優雅な美形を伝え、阿波女の特性をつくったという。 これは、阿波踊りの女連による美雅な踊りにも表れているといわれる。
讃岐では、「嫁をもらうなら阿波の女性を」というのが讃岐男の願望らしいが、たしかに阿波の女性は働き者であるという。
朝から晩まで働きづくめでも、何一つ愚痴をいわない。事実、この組み合わせは多く、殆どがうまくいっていると・・。

又最近、各企業において女性の社長の進出が目立っているが、その割合を県別に見ると阿波・徳島が一位で、県内の主な企業の内一割が女性社長という。 又、県内の世帯収入の内、三割が女性による収入であるとか、阿波女の働く女性として姿が浮かんでくる。
徳島県の女性の活躍ぶりは他県の女性を断然引き離しているといい、愛嬌があり、やさしく、尚且つよく働き、それでいて控え目で男性を立てて実に良く尽くしてくれると古来からいわれるらしい。  女房にするなら阿波女だ・・!、頑張れ、讃岐男、ニッポン男児・・!。 

次回、徳島名物・「阿波踊り



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日本周遊紀行(59)鳴門 「四国と霊場」 


四国は「身一ニシテ面四ツ有リ」、そこには八十八の霊地が在った


神戸・淡路・鳴門自動車道の鳴門I・Cを出て、いよいよ四国上陸である。
小生が未だ20代後半の頃、瀬戸内海の直島(玉野市宇野港の正面にあたる)で半年間、銅精錬会社で出張勤務作業をしていた。
この時期、四国・高松に数度訪れ、四国一周を果たしている、それ以来の実に40数年ぶりの四国である。

四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれている。 
面四ツとは、阿波(徳島)、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)のことであり、一にして四、四にして一の世界であるとしている。 
徳島、高知・・等の県名は明治期以降に付けられたもので、それ以前は奈良朝の頃までは、4つの旧地域名で示されていた。

四国で、イの1番に思い起こす事は、やはり四国・八十八箇所の霊場のことであろう。 
小生、これから四国の海道一周を始めるのであるが、その近辺にも霊場はあるはずである。序でで部分的になるが、弘法大師の断片的足跡を巡るつもりでもある。

著名人が、不治の病や難病が霊場を巡礼するうちに全快したという話もあり、遍路道をたどる中で大師の「お陰」をいただき、心身の毒素が浄化されていくと言われる。いわば四国は大自然の病院であるともいう。 
本年(2005年)、民主党党首であった管 直人氏が白装束に金剛杖で菅笠(名前に合致・・!)を被り、四国遍路したことは一寸したニュースになった。
政治的に悩みを抱き、その精神的ストレスを払拭するため、とは聞いたが果たして政治的目標の為のご利益はあったのだろうか・・?


四国の観音霊場の巡拝は、巡礼と言わず一般に「遍路」と言うらしい、「辺路」に通じている。 
お遍路さんが着用する白い衣は死に装束といわれ、手にする金剛杖には五輪の梵字が刻まれ墓標そのものであるとするし、菅笠は、弘法大師と共に行くという意味で「同行二人」と記入する慣わしがあるという。 
遍路は、昔は辺鄙(へんぴ)の地を巡る道、即ち「辺路」で、死を覚悟した厳しい「修行」だった。 お遍路さんは何日も、何十日も懸けて弘法大師のご利益を戴くのである。
小生は車で、しかもアッという間の観光遍路で、もうとう、ご利益などは望むべくもないが、参拝に際し旅先の安全くらいは願いたい。


今から1200年前に、弘法大師が人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場である。
大師は、奈良後期の774年、地元、讃岐国多度郡屏風ケ浦(現75番・善通寺誕生院)に生まれている。 
幼少のころより高い教育を受け、歴史や文学などを勉強し、基礎的な力をつけた。 
ある時出家し、名を無空と改めて山岳修行者に身を投じ、石鎚山等で厳しい修業を重ねた。20歳のとき、和泉国槙尾山寺(西国四番札所)で得度出家し、名を「空海」と改める。

延暦23年(804年)、空海30才のとき、時の政府より最澄(さいちょう・延暦寺開祖)らととに遣唐使として中国(唐)へ派遣され、2年間西明寺で修行している。 42歳で、自身の宗教的な体験を一層深めるため、天皇の許可を得て「高野山」に堂宇を建立した。
その高野山の金剛峰寺において入定(聖者の死去)している、62歳であった。 延喜21年(921年)、醍醐天皇より「弘法大師」号を贈られた。 
大師の教えは、現世に理想の社会を築き、人すべてがそのまま仏となって幸わせが得られるという極めて現実的なものである。

ところで、四国八十八ヵ所は、弘仁6年(815年)弘法大師42歳のときに開創され、後に大師の高弟が大師の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりとも云われる。
八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、「」の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三、子供十三の厄年を合わせたともいわれている。
その四国の観音霊寺には、発心の道場(菩提心を起すこと):阿波・徳島 23寺、修行の道場(悟りを求めて仏の教えを実践すること):土佐・高知 16寺、菩提の道場(仏の悟り,煩悩を断じ、真理を明らかに知って得られる境地):伊予・愛媛 26寺、涅槃の道場(煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地):讃岐・香川 23寺の八十八ヶ寺が存在しする。 

四国を一周する遍路巡拝は、一人でも同行二人、つまり大師と共に巡り、心身を研き、八十八の煩悩を一つ一つ取り除き、自分自身を見つめ直す修行の旅である。 
また宗派を問わず、お参りをされる方々の願いが成就される信仰の場でもある。



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四国一番霊場・霊山寺の山門


一番霊場・「霊山寺」
空海(弘法大師)が八十八か所の霊場を開くことで、21日間留まって修行したという、そして「ここをその一番とするように」との仏の「お告げ」を受けた寺院である。
又、巡礼者が巡拝を始める前に満願成就を祈る「発願の寺」、「一番さん」などと言われ、親しまれている寺が「霊山寺(りょうぜんじ)」といい、神戸・淡路・鳴門ルートの直近、第一番目にも当たる。
鳴門I・Cから県道12号線を行くと、間もなく右側に番札所の「霊山寺」があった。 堂々とした山門・仁王門の前に車をおいて、境内を行く。 多宝塔、美しい泉水池があり、橋の奥に大師堂がある。正面の階段の上には弘法大師が彫ったという釈迦如来の本尊が安置してある本堂がある。

奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたお寺で、 その後、弘法大師が四国を回られた時、空海(弘法大師)が21日間修法中、インドで釈迦如来が説法している光景を連想し、その事からインドの霊鷲山(りょうじゅざん)を日本に移すと言う意味で竺和山霊山寺と号し、四国第一番の札所としたものという。 門前には、門前一番街と称して、数件のお土産コーナー、軽食コーナ巡拝用品コーナー、お茶席コーナーがある。

「行基菩薩」は、奈良時代の僧で河内の人。社会事業に尽力した法相宗(ほっそうしゅう・中国創始の仏教の宗派の一つ)の僧で、各地に橋、池、道、船所や、餓死する人々を救うための布施屋を建て、民衆への仏教伝道にも努めた。 時の政府からの弾圧にも屈せず、民衆救済の活動を進めたため、彼を慕って従うものは1千人にも及び、生きながら「行基菩薩」と称された。 
東大寺の大仏造営には、民衆の絶大な影響力から大仏造営費の勧進(社寺・仏像の建立・修繕などのために金品を募ること)に起用され、史上初めて大僧正に任ぜられた。 行基を開基と称する寺院は全国で1400ヶ寺にも及び、現代にまでその遺徳は受け継がれている。

霊山寺の先に2番札所の「極楽寺」があった、その名のとおり極楽のような美景な庭園が特徴のようで、手入れも行き届いている。 丁寧に置かれた石畳の石門を行くと、大師堂で安産大師とも呼ばれている。
子宝に恵まれない人には子宝を授けてくれ、妊娠した女性には安産させてくれるというご利益があるそうで、安産祈願の人が絶えないそうだ。
大師堂には長命杉といわれる樹齢1100年以上の杉巨木がある。弘法大師がこの地での修法を修められた時に、この寺を末永く守護せよとの祈りをこめ、大師自らお手植えされたと言われる。 台風や火災など、もろもろの困難にも耐え抜いた大杉だけに、幹に触れれば長寿に、またその手で自分の悪いところをさするとたちまち平癒すると言われている。 右奥の高めに本堂があった。 行基が開創し、日照山と号す。

次回は、阿波・徳島

 
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               鯖大師(八坂寺):本坊




四国・海南地域は歴史の表舞台でもあった・・、

道の駅・日和佐を出ると海岸部から離れて再び山間部を走る。
海岸線は「南阿波サンライン」といって極めて風光明媚な所・・と言いたい所だが、起伏が激しく悪路も予想されるので国道55を直進することにした。 Jr牟岐線とともに日和佐トンネルなど大小トンネルを抜けながら山間部を走る。 山河内からも延々と山間部を走り続け、寒葉坂峠を境に牟岐町に入る。ここからは下り勾配を4〜5キロ走り山間部を抜けて平野部を牟岐川に沿って行くと牟岐の街へ出る。 途中、海上に浮かぶ出羽島の姿が美しく、牟岐町きっての観光の目玉らしい。
Jr牟岐線はここの地名を付けたもので、牟岐駅は当初の牟岐線の終点であったが、近年この先の海部まで延びている。この沿線に沿って明るい海岸が見通せる、景勝「八坂八浜」と称している。その名のとおり屈曲した八ッ坂があり、その度に八ッ浜が見られるという、路行く者には大変な難所の海岸線だった。この中間に「鯖大師」、別名でその名も「八坂山・八坂寺」というのがある。
日和佐の23番薬王寺から室戸岬の24番最御崎寺までは凡そ80キロの長丁場で、歩けば2日以上かかる距離であり、1日歩いても一つの札所にさえ行き当たらない。そのため、番外札所と言われるのが八坂寺であった。鯖大師は別格二十霊場にも数えられ、弘法大師と鯖に因んだ話が伝わっていて、鯖の話はこの八坂八浜の大坂を舞台にしたものである。
「馬の背に鯖を積んだ馬追に、大師が鯖を1匹くれとたのんだ。馬追が断ると大師は次のような歌を詠んだ。」

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれで 馬の腹や(病)む 』
すると馬が苦しんで歩けなくなった。
驚いた馬追が鯖を差し出すと大師は別の歌を詠んだ。

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれて 馬の腹や(止)む 』
そうすると馬の苦しみはおさまったという。
「で」と「て」と「や」で歌の違いはが判り、面白い。

高台を走る道路は時折、優美な海岸風景を見せている。左手に浅川湾を見ながら走る。再び山間部を走り、間もなく海部川の清流を渡ると海部町である。海部川は四万十川より美しいといわれる清流で時期になると鮎の太公望で賑わうという。
ところで、海部町は四国・徳島でも極めて小さな町域である。しかし歴史は古く、中世よりこの地方を「かいふ」と呼称し、海部氏が海部川流域を支配しながら勢力を拡大していたとされる。 
中世・平安時代から室町時代にかけて、現在の海南地域(海南、海部、宍喰)は、「海部郡司の領地」であったとも「宍咋庄」という荘園に属していたともいわれる。そして、中世の阿波南部・海部地方に勢力をもっていたのが「海部氏」であった。水軍の側面も有する海部氏は特産品である「海部刀」をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によって大いに勢力を伸張したものと言われる。 記録によれば、114万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
戦国初期、四国を制覇しつつあった長宗我部元親によって滅ぼされているが、江戸期は、蜂須賀氏の出城で、隣国土佐高知の防衛線としての要をなしていたという。

海部川を渡って、すぐのところが海部町である。
所謂、海南地域といわれる海部町、海南町と南隣の宍喰町と三町で合併の話が進んでいるらしいが、最初は宍喰町に反対論が多かったという。海南町役場と海部町役場は、海部川を挟んだ対岸に位置しており1kmも離れていない。いわば海部川を共有した兄弟といった感じの関係なのである。宍喰町が疎外感を覚えるのも判らぬでもないが、その後どうなっているかは定かでない。
追記:2006年(平成18年)3月31日 海部町、海南町、宍喰町と合併し、新しく「海陽町」が発足している。

宍喰町の国道55沿いには洒落た「道の駅・宍喰温泉」があった、真向かいには、雄大な太平洋が広がる。 この道の駅は、通常の観光ターミナルの他に、道の駅としての宿泊施設と王宮のような建物で南国情緒を漂わせる「ホテル・リビエラししくい」、そして温泉が同居していた。 
物産館の横に、尾崎将司の「すこやかに さわやかに おおらかに」と石碑が建っていた。 尾崎 将司は、ここ海部郡宍喰町の出身のプロゴルファーである。「ジャンボ尾崎」の別名でもよく知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記され、世界ランキングの自己最高位は8位としてあった。
この町を境に、いよいよ高知県に入る。

東洋町・甲浦について・・、
「東洋町」とは大仰な地名である。 行政名は東陽町であるが、どうも地域に馴染んだ名称は甲浦(かんのうら)が一般的のようで、地名、港湾名、学校名、はたまた神社、駅名の名称まで甲浦である。
山内一豊が土佐に移封されることに決まった慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月に、この地、甲浦に上陸し、8日に浦戸城(高知)に入城している。
又、この甲浦で「佐賀の乱」(明治7年に江藤新平・島義勇〈しまよしたけ:北海道開発、特に札幌の開拓の父とも呼ばれる〉らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ)に破れた江等新平が捕まっているという。 江藤は、鹿児島から四国に渡り高知で再起を計ったが失敗し、虚しく立ち去らねばならなかった。更に高知から東進して、ここ甲浦に至った。この進行には艱難を極めたらしく、江藤をして「自分は母の胎内から出て、未だかつてこんな苦痛に遭ったことがない」と言わしめた。この時既に甲浦にまで江藤の人相書は出回っていた。甲浦は、当時上方へ渡る船の入出する港であり、江藤らがここを通過することが十分予想されたのであって、江藤はこの網に引っかかったのである。佐賀の乱の敗走から1ヶ月であった。
甲浦という僻村が歴史に登場したのは、江藤の騒動が最初で最後かも知れない・・?。
この様な鄙びた町に、東洋町と言う大仰な地名、否、行政名を誰が付けたのだろうか・・?。 たしかに東に大洋を望む地域だが・・、いっその事、高知の東の端に当たるので「東端町」にでもすれば良かったものを・・、と勝手に思ったりして。 
甲浦地区の一集落に点在する古い建築様式に、「仏頂造り」という建築物が在る。昔ながらの和式住宅が建ち並ぶ通りに、家の雨戸にあたる部分が面白い形状をしているのである。 板でできた戸が、上半分と下半分に分かれており、それぞれ上下に開く、ちょうど観音開きを横向きにしたような形である。開くと上半分は庇のようになり、下半分は縁側のようになる。
克ってはこの甲浦は、土佐藩主山内氏が参勤交代の際にも利用され、藩主の宿舎や関連施設、浦奉行などが置かれていた。 街道集落でもあった甲浦では、この仏頂様式の縁側で商品を陳列したり、旅人を接待したりしたという。この造りは人で賑わう玄関港と台風の通過地という場所で生まれた生活の知恵でもあったようである。
街並みは徐々に最近の一戸建て住宅に更新が進んでいるようであるが、いくつかの古い民家には、今も仏頂造りが残っている。

甲浦駅は鉄道の終点でもある。 JR牟岐線がR55と並行して、更に海部駅から甲浦までを結ぶのが阿佐海岸鉄道である。一応、徳島(阿波)と高知(土佐)を結んでいることになり、「阿佐」の線名に相応しい。 もともとこの海部から高知市に近い駅を結ぶ、国鉄阿佐線として計画されていて、室戸岬を経由する気宇広大な計画だったのだが、国鉄再建、民営化に伴って工事は中断されてしまったという。一方、高知県側の後免−奈半利間は「土佐くろしお鉄道」が開業している。

次回は、閑話休題「四国」について・・、

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                 医王山・薬王寺の「瑜祇塔」

那珂川町の国道55の「道の駅・公方の郷なかがわ」で一服入れる。 公方の郷とは貴き御方に所縁があると思ったが、やはり室町将軍・足利氏が居留した地であった。
室町後期、政治の腐敗を嘆き淡路島で病死した第10代将軍足利義植(あしかがよしたね)の養子・義冬は、父の悲願を果たすため上洛したが戦いに敗れ、阿波の守護・細川持隆に迎えられ、この地に落ちついたという。その後、足利氏は九代270年にわたってこの地に居住し、漢文学などを広め「阿波公方」として人々に親しまれたという。これが公方の郷の由縁であった。
那賀川町、羽ノ浦町は、平成18年3月に阿南市に吸収合併されるとのこと。
阿南市街は、国道55のバイパスで知らぬ間に通り過ぎてしまった。その後は、自然豊かな四国とは思えぬほどの重工業の港湾が広がっている、橘港である。 古くは天然の良港として知られており、昭和初期には阪神〜高知航路の中継港として栄えたが、今では、火力発電、造船、鉄工所などの大企業がひしめき、徳島県東部における工業の集積拠点としての役割を果たしているようである。

国道55は別名「土佐東街道・土佐浜街道」と称している。浜街道とは言いながら、現在は山中険路の道であるが。 由岐町と日和佐町の町界あたりの地名に「星越」というのがある、星をも越すような高度がある・・?というのはチト、オーバーではあるが、かなりの高所を走っているのは確かなようである。 山間からどうやら見通しのきく平地に出たようだ、日和佐の街である。

二十三霊場・「薬王寺」・・、
日和佐の町内に入ると国道沿いに名刹が在った。「医王山・薬王寺」である。
我々年配者には有難そうな厄除けのお寺さんであり、誰が詠んだか、御詠歌(巡礼または信者などが詠う和歌)としてこんな歌碑があった。

『 皆人の 病みぬる年の 薬王寺 
         祈願のくすりを 興えましませ 』

御本尊も、当然と思える薬師如来である。
山門をくぐり 桜並木の参道から本堂への石段を登りつつ、振り返ると日和佐城と日和佐湾・太平洋が望まれる。 石段は、女厄坂の33段、男厄の42段とあり、大師堂、地蔵堂から本堂に達する。 この上には61段の還暦の厄坂というのもあり、山腹の高目に密教特有の円形のお堂に四角い屋根の「瑜祇塔」(ゆぎとう・多宝塔の原型とされているのが瑜祇塔であり、一重の屋根と円筒形の厨子、そして屋根の上に聾える五本の相輪が特徴)が建ち、屋根の上には五智を表す五つの相輪が立つ。
瑜祇塔は、通常の寺仏堂とはチョッと変わった斬新な印象を与えてくれる不思議な塔で、神秘的な香りが感じられる。建造は比較的新しく、昭和39年に四国霊場開創1150年を記念して建てられたという。内部には宝物展示室や地下の戒壇巡りなどがある。
自分の厄年に、厄坂の石段を一段ずつコインを置いてゆくと、願いが叶うという薬王寺。
寺院は行基菩薩の開基で、弘法大師が厄除けを願って薬師如来像を刻んで本尊とした。 阿波・「発心の道場」の23番、最後の霊場で、24番からは土佐の高知の地で、「修行の道場」へ進むことになる。
薬王寺の山腹より日和佐の町が一望でき、日和佐湾が青く光る。湾の小山状の上部に「日和佐城」がこじんまりと遠慮がちに見えてる。 海城というか、山城というか・・? お城・天守閣は昭和期の近年、観光用に増築されたものらしいが、本来、室町時代にこの地に拠った肥後守・日和佐氏の築城であるが、戦国期、四国を統一した長曽我部元親(土佐高知の戦国武将、四国全土を統一しているが・・)に降伏している。

日和佐の町内を少し行くと、程なく「道の駅・日和佐」である、ここで小服を入れる。
JR牟岐線日和佐駅と国道に接して立地しており、四国でも国道とJRの駅が一体になっているのは珍しいのでは・・?。 ここには温泉が在る、足湯もある。小生も一足浸かることにした。 物産館の敷地内で湧出する温泉を利用したもので、お遍路さんの足を癒す「休足所(足湯)」としては最適であり、発案担当者に感謝したい。
弘法大師が薬王寺を開いた際、その麓から湧く泉を発見したという古泉でもあり、飲用、また温浴に適した水として、人々に効能を知らせたと伝えられている。 少々の硫黄臭があり、無色透明でサラリとした湯は単純硫化水素泉。
神経痛やリウマチ、慢性皮膚病、慢性金属中毒症、糖尿病などに効能があるという。地下30メートルから豊富に冷泉がわき出ているという。

次回は、海部(かいふ)の海部氏・・、

源義経、「屋島の戦い」の奇策・・、

徳島の隣はすぐに小松島である。 小松島は戦国期以後、蜂須賀候が入国して以来、阿波の商業、金融、港湾流通の中心地として栄えたところで、現在でも和歌山や大阪方面とは流通が盛んあところである。
この港は又、一の谷の合戦後、屋島の合戦で義経一行が上陸した地点として歴史上有名である。今でも市内各地に義経ゆかりの場所が点在しているし、数々の伝説が残る地でもある。
国道55が牟岐線と交差するあたり「阿波赤石」駅がある。このあたりの港を「勢合」といって義経手勢150騎が、ここの港に漂着し勢揃いしたことから、この名が付けられたという。ここから、R55に概ね沿って恩山寺の入り口から勝浦川より徳島方面を、義経ドリームロード・義経街道と言って、弦張坂、弦巻坂、旗山、くらかけの岩、天馬岩、弁慶の岩屋などと義経にまつわる伝説の場所が数多く残されている。

平氏は、1184年の一ノ谷の戦いの敗戦後、讃岐国・屋島(現、高松市屋島)を本拠とし内裏(安徳天皇の住まうところ)を置いている。 義経は「一ノ谷」の後、摂津国の港・渡辺津(大阪)に軍を集めていた。平氏軍を追討するにあたり渡辺津を出航しようとするが、義経は、戦奉行の梶原景時と激しく論争をしている。(この時の論争を景時の讒言として鎌倉・頼朝へ伝わり、義経追放の一因にもなっているという) 暴風雨のために景時は出航を見合わせようとするが、義経は景時を振り切って、僅か5艘150騎で風雨をついて出航してしまう。
義経の兵団は、通常3日の航路を6時間ほどで阿波国・勝浦(現・田野町勢合)に到着した。義経は在地武士団の新居見城主・近藤六親家(こんどう ろくちかいえ)を味方に引き入れつつ、案内役として屋島へ向けて徹夜で進撃している。
徳島を抜けて、現在の県道1号線を北上、大阪峠を越えて、播磨灘の海岸沿い(R11沿い)から、僅か1日でに屋島の対岸に至った。干潮時には騎馬で渡れる(当時は海を隔てた島であったが、現在は陸続きである)ことを知った義経は、強襲を決意。少兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけ一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は、狼狽して、内裏を捨てて海上へ逃げ出したのである。屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。何とか九州に渡ろうとするが、既に源範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。義経は水軍を編成して、最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨むことになる。

十八番霊場・「恩山寺」
恩山寺へ向かう・・、 
恩山寺は小松島市の郊外、「義経ドリームロード」より少々入った、緑濃き、小高い山の中腹に建っている。 義経が屋島へ向かう折、戦勝祈願したかどうかは定かでないが、山門 をくぐって石段を上った境内にのすぐ右に地蔵堂がある。小さな地蔵像が数多く並 んでいて、左に大師堂、庫裏があり、内に納経所がある。さらに正面の石段を40段程上 ると、どっしりとした本堂が建っていた。  
聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基した奈良期の寺院で、当初は女人禁制の寺であった。弘法大師がこのお寺に止まっていたとき、母堂の玉依御前が大師を訪ねたが、女性の身なれば入山することができない。そこで大師はひと七日(一週間)滝に打たれ修行をし、女人解禁の秘法を修めた。 それでやっと大師は母君を迎え入れることができ、この寺で孝行を尽くしたという。 この時大師が修行をしたのが、赤い欄干のかかっている橋の下であり、そのことを記念して、びらん樹が植えられている。 また、大師の母君はここで髪の毛を剃って出家された。 その髪の毛は、剃髪所に納められている。そのことから、母養山恩山寺と寺号を改めた。
駐車場から竹林の茂る参道を少しのぼってたどりつく境内には、 樹齢約300年の大きなイチョウの木や、樹齢約350年という立派なソテツの木がある。 長い階段を上ったところにある本堂の左側には細い階段があり、 約300mほど歩けば恩山寺自然公園の展望台に出ることができる。 ここからは小松島港や市街地、紀伊水道を一望できる。

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