『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(69)高知 「山内一豊と千代」   、


山内一豊の妻 千代は、土佐・「はちきん」の起源になっている・・? 、

戦国期、土佐及び四国一帯を治めていた長宗我部氏の居城は、現在の桂浜に沿った高台にあたる「浦戸城」であった。
往時は、ここが土佐の中心であり、地元で四国土佐の人物はといえば坂本龍馬を指すと思うが、地元の人は、実は「長宗我部元親」(ちょうそかべ もとちか)を指す場合が多いと言う。(理由は後ほど・・、) 

長曽我部氏は、泰氏の後裔と称している。秦氏の一族でとりわけ著名な秦河勝は、聖徳太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国を賜っている、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。
平安末期の「保元の乱」、更には、鎌倉初期に起った「承久の乱」に、幕府方に味方した信濃の秦氏の子孫・秦能俊がその功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説が有力とされる。
長宗我部氏の初代とされる秦能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは長岡郡宗部郷(宗我部郷)であり、能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、長岡郡の一字をとって「長宗我部」と名乗ったという。 

長宗我部能俊の子孫は、官領・細川氏(土佐の荘園主)の庇護のもとに次第に勢力を拡大、戦国時代には大雄・長宗我部元親を輩出する。
元親は土佐を統一し、勢いで四国制覇を成し遂げる。 しかし、中央で制覇を確実なものとした秀吉や家康に刃向かったため、次第に没落していく。 
江戸期には、新興の山内武士団により圧迫されながらも、長宗我部の残存武士団は一領具足という半農民などに身分を変え、後に郷士となって幕末に坂本竜馬などの志士を生み、明治の革命を起こす原動力にもなる。 このあたりが歴史の妙味でもあるが。


関が原の合戦後、長宗我部氏に代わり徳川家康によって土佐一国を拝領したのは山内一豊であり、遠州・掛川からの移封し、1601年(慶長6年)に土佐へ入国した。
初め浦戸城入城であったが1603年、新城の普請工事を突貫で挙行、領民を総動員してこれに当たらせ、完成したのが現在の高知城である。
高知城は掛川城にそっくりだといわれる。
一豊が掛川城から高知へうつり、城を築くときに「掛川のとおりに築城せよ・・!」と命を下した。 現在のお城は、宝暦3年(1753年)に創建当時の姿のまま再建され、250年後の今日まで本物の城の持つ偉容を保ち、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿を残している。


山内一豊は戦国期の武将で、織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えている。
小田原の役の後、遠州掛川6万石となり、関ヶ原合戦では徳川家康につき、土佐24万石を拝領している。
妻の内助の功により、駿馬を買って信長の好意を得、出世する話は有名である。 その内助で知られる妻・千代ではある。
戦国時代の女性は「主人の無事を祈り、家を守る」という重大使命があり、特に重職にある妻は「陰の参謀」とまで言われ、これが夫の出世に多大な影響を及ぼしているのである。 
山内一豊は案外、真面目で凡庸な武士であったらしく、妻・千代の陰の力、思考力、洞察力、行動力が有ってこそ、一豊を大名たらしめたともいわれる。 

裁縫が得意な千代は、小袖を仕立てて秀吉に献上した。 所謂、小袖外交もその1つであるが、関が原合戦の直前、秀吉子飼の大名が西に付くか東に付くか思案している時、妻・千代は書簡を夫・一豊に送り、更に一豊は家康に差し出して、家康側(東側)に付くことを宣言する。 秀吉子飼の大名達もこれに倣ったという。 
合戦後、家康は「この度の合戦の功は、第一に一豊にあり・・!」と評されて、土佐一国を賜ることになるのである。
無論、妻の陰の力と愛があったわけで、家康も当然承知していたのであった。 


高知の女性を称えるのに「はちきん」という言葉があるという。
男勝りに働く女性を意味する言葉で、俗っぽい言い方をすれば、「 男には弐金付いていて、4人で八金である」。 つまり、「はちきん」というのは男4人分の仕事をする女性を表す。 この女性のはしりが「一豊の妻・千代」であると言われる。

ところで、山内一豊の妻 千代は、「千代紙」の名前の起源になっていることは、その真偽はともかく余り知られてない。 
一豊が未だ50石どりの貧乏小武士だったころ、千代は不要になった小袖を切り込み、四角い破切れにして縫い合わせ、継ぎ接ぎ小袖として着用していた。 周囲の女どもは、始め妙に眺めていたが、意外とそれが洒落てて見た目も綺麗に映った。
その内評判になり、やがて秀吉の妻・ねねや信長の妹・お市の方、そして秀吉自身にも創作、縫い合わせして進呈したというが・・?。 
この歯切れの形や色柄(今で言うパッチワーク)が、和紙にも普及し、これがやがて千代の名を付けて「千代紙」になったという。


因みに、「千代紙」と「色紙」について
分類すると千代紙は和紙、色紙は洋紙である。 日本古来の紙はむろん和紙であり、「千代紙」の折り紙は日本の伝統技術であり、千代紙自体、日本の伝統的な図柄として和服にも使われる事が多かった。 
洋紙が導入されるに及んで、和紙では比較的高価であり、厚薄の不揃いで折り目がつきにくい理由て次第に、単色の洋紙の「色紙」、折り紙が普及していったという。

風合いを楽しむ和紙・千代紙は障子紙や「色紙・しきし」等に使われている。  
因みに、和紙の効用として、埃を吸い取る(微小な隙間が、微弱電気を帯びてプラスのほこりを吸い取る)、湿度を調節する、臭いを吸着する、UV (紫外線)をカットする、目に優しい、和紙の服はいい、和紙の寝具等々・・。 
起源としては他に有力なのが京都で、千代紙のことを「京紙」とも称し、京都の伏見宮あるいは閑院宮の千代姫が愛好されたので名付けたという説もある。信憑性についてはどちらでもよいが、一豊の妻の「千代紙」が納得性があるかもしれない・・?

2006年、NHK大河ドラマ、司馬遼太郎原作の「功名が辻」・「山内一豊の妻」が放映された。
主人公・千代は、夫の立身出世を支えた「内助の功」の人物として有名。一豊が織田信長に仕えていた頃に、嫁入り支度のお金で夫のために馬を購入。心を込めて手入れをしたその馬が信長の目に留まり、夫の出世を助けたエピソードで知られている。
千代に仲間由紀恵、一豊に上川隆也。

一豊の家臣に武田鉄也演ずる「五藤吉兵衛」がいる。 先代から一豊のいわば守役として幼い時から仕え、放浪時代にもつき従ってきた。
賤ヶ岳(秀吉と柴田勝家)の合戦直前、伊勢亀山城攻めの際、主・一豊に手柄をとらせようと奮闘、壮絶な最期を遂げる。 
この吉兵衛の子孫が高知市内に在住で、古風格な居を構え現在、高知城近くで本屋を営んでいる、と噂できいたが・・?。

次回は、土佐の“いごっそう”・龍馬


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日本周遊紀行(69)高知 「よさこい節」  ,



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現代の土佐の高知の「はりまや橋」と高知城


土佐の高知の はりまや橋で
土佐の高知の「よさこい節」は昭和30年代、ペギー葉山が「南国土佐を後にして」歌って大ヒットした曲で、南国土佐を全国に知らしめた。 そして、半世紀たった今日、今度は「よさこい・ソーラン祭り」で全国的に有名になった。

1991年、愛知出身の北海道大生(長谷川岳)が、高知の「よさこい祭り」を目にして感動。大学生は北海道にも「よさこい祭り」のようなお祭りを作れないかと、学生ばかり100名以上の仲間で「YOSAKOIソーラン祭り実行委員会」を発足している。
最近では(2007年)参加チームが340、観客動員数は200万という札幌では「札幌雪祭りに」に次ぐ大イベントになっている。
因みに、小生の娘と孫も東京・町田で「踊り連」を形成、練習に励んでいて、この度(2008年)の札幌の祭典に小生家族共々参加し、思い出に残している。


一方の高知では・・、
戦後の復興の中、徳島県の阿波踊りに負けない、市民の祭りをつくろうと高知市商工会議所が中心となり、昭和29年「第一回よさこい祭り」が開催された。
「阿波踊りの素手に対して、鳴子を手に持とう」と提案。 鳴子とは、稲に群がる鳥などを追い払うために、揺らして音を出す農具として作られたものを手に持つように改良されて、現在の形になったという。今日では両手に鳴子を持ち「よさこい鳴子踊り」のフレーズを曲に入れる以外、踊り方や衣装は全く自由というお祭りとして発展し、現在では130チーム以上、約1万5千人が参加しているという。

さて土佐の高知の「播磨屋橋」の現況は・・?、
高知港の入江運河とも思える、幅のある国分川の橋を渡ると高知市街のビル群が現れる。 
先ずは高知の名所・・?、「はりまや橋」(播磨屋橋)を目指す。 
高知市街の目抜き通りと思しき大きな交差点(はりまや橋)を右折すると高知駅へ向かうが、直ぐに「はりまや橋」と大きな標識が頭上にあった。 しかし、辺りを見回すとそれらしいものは見当たらない、探しながら気がつくと脇道の路地風の所に可愛い紅い橋が設けて在った。

小生が20代に訪れたときは、大通りに「欄干のみ」があって、そこに名前が付されてあった、と記憶しているが・・?。 
昔は、この大通りに欄干に見合う大きな、立派な、そして華麗な「播磨屋橋」が架けられてあったのだろう・・? 
現在の、はりまや橋は、取って付けたような、朱色の飾り橋で、俗人に言わせれば「日本三大ガッカリ名所」と嘯(うそぶく)かれているとか・・?。

「はりまや橋」の始まりについては、『 是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也 』、と「高知風土記」述べられているらしく、播磨国播磨(兵庫県)の出身で江戸初期の豪商・播磨屋宗徳(播磨屋)と同じく商人の櫃屋道清(櫃屋)とを往来する為に、掘割川に架けた個人的な橋であったが、後に公橋になったようである。

序に、この辺りの「はりまや町」は、西武、大丸などのデパートや帯屋町・京町などの繁華街が並んでいる。
はりまや橋の交差点を中心に路面電車が、東西南北に運行し、北(JR高知駅)南(高知港)東(南国)西(伊野)と分岐している。やはりというか、「はりまや橋」、その名も、「はりまや町」は、高知市の中心でもあった。
 
よさこい節』 高知県民謡
土佐の高知の はりまや橋で
坊さん かんざし 買うを見た
ヨサコイ ヨサコイ
御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜
    (以下、繰り返し)

南国土佐を後にして』 歌:ペギー葉山
南国土佐を 後にして
都へ来てから 幾歳ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を
「土佐の高知の ハリマヤ橋で
坊さんかんざし 買うをみた」

月の浜辺で 焚火を囲み
しばしの娯楽の 一時を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を
「みませ見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜」

国のおやじが室戸の沖で 
鯨釣ったと云うたより
僕も負けずに励んだ後で  
唄うよ土佐のよさこい節を
「云うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 
潮吹く鯨が泳ぎよる  よさこいよさこい」

南国土佐を後にして」の原曲は戦中、戦後まもないころ、四国、土佐地方の軍属関係者によって歌われていたが、昭和30年代なってNHK高知放送局の電波に乗りレコード化され、つぎにペギー葉山が歌って大ヒットしたものである。 元歌は「よさこい節」である。

「よさこい節」の歌詞〈一番〉については、一般に、五台山・竹林寺の御坊「純信」が、思いをかけた人「お馬」のために、「かんざし」を買って与えた、そこが、はりまや橋のたもとにあった小間物屋であったと言われている。 これがいつのまにか評判になり、よさこい節で歌われ有名になってしまったという。

当時、仏僧の色恋沙汰は御法度であり、二人は逃避行(かけおち)を選び、伊予へ逃れる。 土佐から伊予へ山深い峠を越えていくが、その峠の名が「予佐越」=よさこい峠であり、これが題名になっているという。
予佐越峠は高知の西隣・伊野町からR194号で北上し、本川村で県40号(石鎚公園線)で石鎚山方面に行く、この県境付近の石鎚山を望む峠のことで、ここ山深い峠に小さな標があり、哀しい物語の結末が書かれた小さな看板と共にひっそり佇んでいるという。
現在、予佐越峠は西日本では最高峰を誇る四国の名峰(日本100名山)・石鎚山の登山基地になっているとか。

ガッカリの名所”の「はりまや橋」を後にして、高知城へ向かう。はりまや橋の交差点を西に行くと、間もなく「高知城」である。
高知城正面に高知市役所が在り、更に、堀の内に県庁がある。 緑と史跡の城下公園内に無味無粋なコンクリートの高層建物が存在するのは、美観を甚だ損なっているが・・!!

市役所横から右方角へ行ったところに、高知城の玄関口「追手門」があった。
高知城の表門で、石垣の上に載せた櫓(やぐら)門が城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。 
門を潜ると早速「板垣退助の像」がある、「板垣死すとも、自由は死せず・・」という名言は有名であるが、実際には死ななかったともいうが。 板垣は、土佐出身の自由民権の創始者であった。

気がつくと、後ろの木々の間から華麗な天守閣が覘いている。 
杉の段(「井戸の段」とも呼ばれた。藩主自らこの井戸段に出向いたという。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた所)と呼ばれる広いスペースから 鉄門をへて本丸・天守閣へ向かう。
周囲土台を重層な石垣で築かれ、その上に堂々と城郭・天守閣が聳える。 
四重五階の望楼型天守で、最上階には廻縁(まわりぶち)の欄干が付けられている。 
華麗にして優美であり、ここから高知の市街が一望できる。
天守閣、追手門は築城当時の姿を留めている、数少ないお城の一つであるという。(本丸御殿、天守閣とも、国の重要文化財に指定されている。

次回は、山内一豊



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日本周遊紀行(69)高知 「五台山と牧野富太郎」  、



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写真:高知県で唯一の竹林寺「五重塔」



高知県の偉人の一人・牧野富太郎

世間が、今日の活動を開始する前の早朝、出立する。 未だ人の気配もマバラな後免駅前に出た。
この駅は、旧来の土讃線に乗り入れている「ごめん−なはり線」(土佐くろしお鉄道)の始発駅でもある。駅舎は真新しく、やや円形を帯びたモダンな造りである。
それもその筈で土佐くろしお鉄道は、ごく近年の2002年(平成14年)7月に開業したばかりであった。


高知の市電であろうか・・?、行き先表示に「ごめん」と書いた黄色味を帯びた電車が、路面を滑るようにゴーゴーと音を立てて通り過ぎてゆく。 そう云えば、ここ後免町がやはり終点のようである。この電車道を横切るようにして、とりあえずへ出て、そして一路、高知市内を目指す。

すぐにT字路の大きな交差点が現れた。 こちらは高松へ通ずる国道32であり、高松市から高知市へ至る幹線国道である。 つまりは国道55はこの地が終点のようである。
思えばR55号は、四国へ上陸した直後の徳島から、ここ高知の後免町まで概ね辿ってきた道程であった。
徳島市から小松島、阿南、室戸岬を越えてこの地まで、所謂、現代の遍路道でもあり、多くのお遍路さんが利用する道にもなっている。 聞くところ日和佐の薬王寺から室戸岬の最御崎寺までの長い道のり、約75kmの間には札所寺院がないため、夏の暑い日などは、日中を避けて夜を徹して歩く遍路さんも多いようである。


以降、高知方面の32号線を走ることになる。
途中、標識に「五台山」、「牧野富太郎記念館」とあり、左方には小高い丘のような、小山のようなものがコンモリと見えている。 
五台山公園で頂上には第32霊場「竹林寺」があり、麓に牧野富太郎記念館があった。


五台山にある竹林寺
山門の階段下からの眺めはなかなかのもので、今頃の若葉の時節もいいが、紅葉の季節には京都寺社の風景にも負けないくらいの絵になる景色であろう。本堂・山門・本堂南側の赤色の社殿・五重塔などが見事に並んでいる。 
「五台山」とは、元もとは峨眉山、九華山、普陀山とともに中国仏教の四大聖地の一つで、(現、山西省五台県の東北部に位置する)奈良期、「行基禅師」が唐の五台山で修行、帰国後、諸国を修行中に当地を訪れ、地形が五台山に似ているので命名したという。 

ここにお堂を建て、文殊菩薩を納めたのが「竹林寺」の始まりであった。 
文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」の文殊で、知恵の菩薩様であることは周知であるが、この文殊の「高い知恵」に因んで、「高知」の地名が生まれたともわれる。

境内上部にチョッと派手色の赤味がかった「五重塔」が立つ。 
寺にはかつて三重塔があったが、明治32年の台風で倒壊してしい、現在、境内にある五重塔は高知県で唯一のものとして、昭和55年に完成したという。  高さ31mの木造の塔は国内でも珍しく、総檜造りで、鎌倉時代初期の様式に倣っているという。
又、竹林寺の庭園は、鎌倉から南北朝時代に学僧・夢窓国師の作とされ国の指定名勝となっている。
「文殊の知恵」にあやかろうと受験シーズンには合格祈願に大勢の人が訪れるという。

土佐の高知のはりまや橋で 、坊さんかんざし買うを見た、よさこいよさこい』、と「よさこい節」に唄われている。 実は、江戸時代に実在したお馬という女性と僧侶との悲恋物語が歌い込まれている。 その僧侶の名を純信といい、竹林寺脇坊・南の坊の修行僧であったという。(次回で詳細述べる予定)



五台山の東側に牧野富太郎植物園と記念館がある

『 草を褥(しとね)に 木の根を枕 花と恋して 九十年 』

「高知県の偉人は?」と尋ねられたならば、土佐の人は、迷わず牧野富太郎博士の名前をあげるという。
「牧野富太郎」は、著名な植物学者で知られる。 

私は生まれながら草木が好きである。何故に好きになったという動機は何にももない。5,6歳の時から町の上の山へ行き、草木を相手に遊ぶのが一番楽しかった。」幼少の頃より病弱で、ひとり動植物に親しんだという。

富太郎は、文久2年(1862)4月,高知県高岡郡佐川町(高知市佐川町)に生まれている。 小学校を中退し、家の資産を食いつぶして植物の採集と分類に没頭、財産を使い果たしたあとも、貧困に苦しみながら研究を続けた。 そのため、独学・苦学の研究者として有名である。上京して東京帝国大学理学部植物学教室に出入りを許され、谷田部良吉教授(明治時代の植物学者)らもと接している。

植物研究のため実家の財産も使い果たし、さらに妻が経営する料亭「いまむら」の収益もつぎ込んだ。 その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した、「植物図鑑」等の出版が元で大学を追われたこともある。しかし、彼自身、名誉とか権威という自己欲には全く無頓着で、逆に、当時の帝大教授たちや学界の権威といったものの「愚かさ」を浮き彫りにさせたともいう。

『 何よりも 貴き宝 もつ身には 
         富みも誉れも 願はざりけり
 』

この時期、妻の壽衛(スエ)が54歳の若さで死去している。

『 朝な夕なに 草木を友にすれば さびしいひまがない 』

仙台にて新種の「ササ」を発見、翌年、ササに妻の名を入れた「スエコザサ」と命名している。
牧野富太郎は、植物の種類に精通し鑑定の的確なことでは他人の追随を許さず、日本の本草学を植物分類学へと転換した第一人者である。
その反面、近代生物学の理論的な面はほとんど理解しなかったという。
主著(1908年)は何度か改訂改題を重ね、現在は『原色牧野植物大図鑑』として刊行されている。

1948年、86歳の時、皇居を参内し天皇陛下に植物学を講義されている。 
日本学士院会員(1950年)、文化功労者(1951年)、東京都名誉都民(1953年)などに選ばれる。1957年(昭和32年)1月18日永眠、 没後、文化勲章を授与される。 
「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎の生誕日(4月24日)を記念し,この日を「植物学の日」としている。

次回は、土佐の高知の「はりまや橋



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日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」  、



紀貫之は「土佐日記」に、この地で亡くした娘を思い、

『 都へと 思ふをものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり
 』
と詠んでいる、


昨夜は、蛙の子守唄で寝に就いたが、今は全く昨夜の合唱が嘘のように、朝のシジマ(静寂)の中にいる。
蛙の合唱で気がついたことがある。
歌声は波のように響き渡り、その波が次第に小さくなって一瞬止むのである。 始まりは先ず殿様蛙が第一声を発すると、次に重臣諸侯が歌いだす、その後は一族郎党が一斉に大合唱で歌いだすのであり、それの繰り返しである。 端的な例かもしれないが、ベートーベンの第九交響曲(合唱)の第四楽章の合唱シーンで、先ずリードシンガーの男性ソロ、女性ソロが歌いだし、次に選抜された男女諸氏が歌いだす、その後は男女混声大合唱団が一斉に歌いだす、これを何回か繰り返す。
昨夜はこんな事を感じ入り、想像しながら眠りについたのであった。


時に、早朝5時少々過ぎた頃、先ずは今日も好天のようだ。周囲は青々とした田園が広がっている、民家は周囲にポツポツとあるだけで、いわゆる日本の原風景を感じられる。
蛙の合唱が、ベートーベンの第九交響曲「合唱」に譬えられるなら、こちらの風景はさしずめ、ベートーベンの第六交響曲「田園」であろうか。 
しかも、南国市は、土佐の稲作の発祥の地といわれている。 この地方は日本でも温暖、多雨であり、その恵まれた自然と環境を生かし、現在でも米の二期作が盛んなところでもある。


ここは四国・南国市の外れ、都会の田舎である。
昨夜、「ながおか温泉」に立ち寄ったが、「ながおか」という名称は、この周辺の小学校の建物などの一部に残るが、地域名、行政名としては既に無い。 昔は長岡郡長岡村と称して、立派に存在していたが、町村の合併によって消失したらしい。 尤も、この地区の遥か北方、本山町、大豊町は長岡郡として、僅かにその名残がある。


近郊北方に「比江」、「国分」といった地名がある。 
この地区は古代、土佐の都があった所だという。奈良時代、この地に国分寺が建立され、前後して土佐国府が置かれ、土佐の中心地となった。 これに伴って、京と国府を結ぶ官道が、四国山地を横断する道や海路を辿る道とが開かれた。 
だが、都の人々にとって土佐は、あまりに遠く「遠流(おんる)の国」とされた。 しかし、その都からの流人達が都の文化、芸術や学問をこの地に伝え、この国の歴史を造ったともいわれる。
平安時代には、紀貫之が「土佐日記」を著したことは有名である。 しかし、この地に土佐守(土佐国守)として、赴任していたことは、あまり知られていない。 
土佐日記は、紀貫之が国司の任期を終えて土佐の国から京まで帰京する途中に起きた出来事や思いを書いた日記である。

『 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。 それの年の、十二月(師走)の、二十日余り一日の日の、戌の時に門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。 ある人、 県の四年五年果てて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、住む館 より出でて、船に乗るべき所へわたる・・』

現語訳
( 男も書くという日記というものを女も書いてみようと思って書くのである。承平4年の、12月の、21日の午後8時頃に出発する。国司の館からの出立の様子を少しばかり紙に書き付ける。 ある人が、国司としての任期の4・5年が終わって、定められた国司交代の際の引き継ぎ事項、事務をみなすませて、任務完了の解由状など受け取って、住んでいた国司の官舎から出て、船に乗るはずの所へ移る・・)
 
旅日記は比江・国司の館を出発してから、京の自邸に着くまでの55日間にわたって記されている。 
「土佐日記」は平仮名で書かれた最初の日記風文学で、日本特有の「文字文学、ひらがな文学」が大きく発展するきっかけになったといわれている。

『 都へと 思ふもものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり 
』  貫之

50数日間という長い旅を経て貫之が、やっと京に帰ったときには、既に元の自分の家は荒れ果ていた。 この家で生まれた我が子を、土佐の僻地まで連れて参ったが、土佐で亡くしてしまった。 愛児への哀惜の思い、世の無常を感じ歌に詠んだ。 
紀貫之が国司の務めを終えて船出した港は、南国市の大湊であり、その公園に記念碑がある。毎年、「貫之出港記念祭」が開催されているという。

現在、国府の在った「比江」は見渡す限り広々とした田園地帯となっていて、国分寺だったとされる森だけがこんもりとして、その面影を残している。 
紀貫之は、醍醐天皇の勅命で「古今和歌集」撰進の中心となり、仮名序を執筆したことでも知られる平安前期の歌人、文学者で、漢文学の素養が深く、三十六歌仙の一人として古今調を作りだした。 他に「新撰和歌集」、歌集「貫之集」なども残している。


すぐ近郊の「岡豊」は、長曽我部元親が岡豊城を築き、後に高知の浦戸に城を移すまで、実に、この地域は千年近くもの間「土佐の都」であった。 
又、この地「後免」は江戸期、ここに入植し、開墾する者には土地を与え、租税や諸役を免除していた、この町は諸役御免の町「御免町」と呼ばれ、のちに「後免町」となった。 今は「南国市」の中心市街地を形成している。

南国市は「みなみのくに」という意味ではあるが、「国」を「ごく」とは呼ばず、「こく」と呼ぶことになり、「なんこくし」と呼称するそうである。

次回は、高知、「五台山と牧野富太郎


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日本周遊紀行(67)安芸 「土佐の海と岩崎氏」  、



ベテランになった大相撲の「土佐の海」 、

鮎漁で知られる、安田川の安田町から安芸市へ入る。
高知県安芸市出身、伊勢の海部屋・・、』、 幕内力士「土佐の海」のことである。
立会いで仕方なく「待った」をすると大きな声で「スイマセン!」と相手に礼をする、立会いから取り組み中は“ウオッツ、ウオッツ”と気合を入れながら取り、殊勲の勝利を挙げ、インタビューに答える時は、嬉しそうに極めて明瞭に返答する。 
又、敗れたときは土俵際で丁寧に“お辞儀”をし、且つ、突き押しの戦法を一途に取る彼は、姑息な手段で敗れても嫌な顔ひとつせず正々堂々と花道を引き上げて去ってゆく。

大相撲ファンの小生にとって、気合の入った角界でも最も紳士的な、こんな姿の「土佐の海」は大好きな力士の一人である。 
近年、30代半ばにさしかかり、力量不足も否めず、幕内下位に甘んじている。 尚且つ、土佐ノ海は、年寄名跡「立川」を取得したそうで、年寄株を取得すると、引退も近づいてきたようで寂しいが、年寄名跡を取得したことで、引退後も相撲界に残れるわけで、そういう意味ではややホッとはしている。 
もしもの引退した場合は、是非、NHK相撲解説で、あの明晰な口調によって相撲内容、相撲界を語って欲しい。
因みに、2003年夏に引退した元関脇「安芸乃島」(藤島襲名)は、同じ安芸でも、広島県豊田郡安芸津町の出身である。(金星16個・三賞・19回:殊勲賞7回、敢闘賞8回、技能賞4回 は共に歴代1位である)。 この力士も正攻法の取り口で始終し、小生の好きな力士の一人であったが。



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安芸市井ノ口にある<strong>岩崎弥太郎の</strong>生家

江戸末期の安芸の著名人に、NHK大河『龍馬伝』でお馴染みだった「岩崎弥太郎」がいる。 三菱財閥の創始者である。
身分制度(後述)の激しい土佐国の「地下浪人」の子として生まれている。
地下浪人とは、無禄の藩士であり、収入を得るために自ら商売をしたり、力仕事をしなくてはならなかった。即ち、正規の土佐藩士たちから蔑まれ、常にいじめられる存在だった。家の事情を知る弥太郎は、幼少の時分より勉学に励み、幕末時に坂本龍馬や後藤象二郎の知遇を得る。

『 後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ 
         再ビ帰リテ此ノ山二登ラジ
 』

山とは弥太郎生家(保存邸宅)の近く、妙見山の星神社のことである。
1873年に現在の大阪市の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、海運業を経営する。
この時に、三菱の商標(三菱マーク)が定められたそうで、見慣れたこの三菱マークは、岩崎家の紋である三蓋菱(三層にかさなった菱形を側面から見た形)と土佐藩主山内家の三葉柏(柏の葉三枚を図案化したもの)の紋を組み合わせたものだと云われている。 
台湾出兵・西南戦争の頃は軍事物資の運搬を独占し、莫大な利益を上げて三菱は急成長する。 国内船舶の7割を押さえ海運業を独占した時期もありその後、日本郵船となり三菱財閥の源流を創る。

岩崎弥太郎は元々、海援隊員(坂本龍馬が中心となり結成した貿易結社)でもあって海運業に力を入れ、「東洋の海上王」と呼ばれるまでに発展する。
海援隊」を創った坂本龍馬は、幕末の政局急変の時期、主役には躍り出ず脇役で通した。彼は政治家より、海外貿易などを通した経済人が望みだっらしく、長崎時代は、かのトーマス・グラバー氏(英国商人・グラバー商会を設立)に強く影響を受けていたという。
グラバーは1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎に高島炭鉱(グラバー経営)を譲るが、三菱財閥の相談役としても活躍し、岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎をも築いている。 岩崎弥太郎はグラバーの思いに従い、坂本龍馬の意思をも継いだのかもしれない、明治18年(1885年)、52歳の若さで亡くなっている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。


安芸の市街を抜け、阪神タイガースのキャンプで知られる「安芸ドーム」をを右にみながら、夕刻迫った土佐街道を行く。 「土佐くろしお鉄道」と並行し、芸西村、夜須町等を後にしながら「物部川」を渡って南国市に来た。

ところで本日は、未だ宿泊の場所を決めていない、どうすべきか思案しながら、先ず近くの温泉地の有無を確かめた。スタンドのオニイサンに聞いたところ「ながしま温泉」が近くに在るとのこと。 

R55より北方、後免駅の近くらしい、電話番号よりカーナビを頼って目的地へ向かった。
市街地より離れ、田園地帯も混在する静かな住宅地の離れたところに、一際大きな建物が「ながしま温泉」であった。 
新装したばかりの和式のゆったりした館内であり、浴室、湯船、露天風呂とも石を基調とした造りとなっている。湯に浸かり、道中の緊張した体を解す、このリラックスした気分は変えがたい。
泉質がナトリウム・塩化物温泉の天然温泉というところも良い。
休憩は畳みの大広間で食事を摂りながら過ごす、今日一日の状況をメモに取りながら。
休泊は、田園路上の車泊としたが、側溝の水路の水音が些か気になったので、少々移動し、今度は蛙の声を子守唄に眠りに就いた。

次回は、土佐の国司・「紀貫之



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