『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(66)田野 「二十三の郷士」  、



土佐勤王の志士とライオン宰相

ごめん−なはり
「奈半利」という町に来た。 ナハリと詠む。
人名や地名は、時に不可解な名称は当たり前であるが、何か気になるときがある、ナハリもそうである。この語呂が気になったので一応調べてみたが一向に見当たらない。一見アイヌ語ような響きがあるが、定かでない・・?「ごめん−なはり」とシャレ謝りをしておく。

実は、“ごめん−なはり”は後免−奈半利のことで、この奈半利は最近の平成14年7月に開通した「土佐くろしお鉄道」の起点であって、南国市の後免駅より東へ20番目の東の端の駅にあたる。別名「ごめん・なはり線」ともいっている。 これはさて置き、奈半利は由緒ある歴史の町でもある・・。


奈半利の町から北東にR493が、東海岸の東洋町野根へ連なっている。
地図上でみても細く曲りくねって描いてあり、一見して山間の難路が続くようである。R55の土佐浜街道と比較して、距離にして20kmほど短縮できる野根山越ながら、国道493号の道は決して快適とはいえない。 だが、現在も土佐・高知と阿波・徳島を結ぶ最短のコースに代わりは無い。
しかし昔は、阿波と土佐を結ぶには野根山街道のみであった。 

往時の野根街道は、奈半利から尾根づたいに野根に至る約35キロの只一つの街道で、国司、土佐流人の移動、調庸物搬入出の道として開発され、古代・養老年間(奈良中期)にはすでに利用されていたという。
戦国初期、長宗我部氏が四国制覇進行の軍略路として通い、藩政時代は参勤交代の通行路ともなった。 また幕末の激動には、中岡慎太郎をはじめ志士達の脱藩の道、二十三士動乱の道でもあった。室戸岬に立つ「中岡 慎太郎」は、この街道沿いの北川郷柏木で生まれている。
野根山街道は、今でも当時の面影をそのまま留めた、全国的にも珍しい歴史の街道であるといえる。


道の駅・田野」で一服する。 
正確には「田野駅屋」といい、“田野へ来いや”(土佐弁で田野へいらっしゃいと言う意味)という意味らしい。 
鉄道(土佐くろしお鉄道)の駅と一体となった珍しい道の駅でもあり、駅舎の一連の建物は巨大な木造、瓦屋根の建築である。
聞くところ、 田野町は古くから木材の集積地であり、木材製材工業が盛んであったという。 現在でも木材製品の流通の中心地であるらしい。 この駅舎は、そのアピールでもあり、シンボルでもある。

田野町は奈半利川西岸を挟んで、総面積6.56km2、住戸1300戸と小さな町域である。
しかし、江戸期は田野村の藩の御用商人(5人衆といわれる・・)が、奥地の山林資源の開発により富強となり、田野千軒が浦として繁栄した。その一部の豪商邸宅が完全に保存され、当時の建築様式がそのまま残されている。
幕末には安芸郡奉行所が設置されるとともに、藩校・田野学館が併設されて、安芸郡における政治・経済・文化の中心地として栄えたという。 幕末、高知の城下で尊王攘夷を唱える「土佐勤王党」が成立し、この田野の地区からも数人参画している。 

土佐藩は一時期、藩内の抗争、藩政に反抗する者として首領・武市半平太(瑞山)はじめ、主だった者14名が投獄されている。 この時、田野の郷士・清岡道之助を首領とする二十三士は、武市半平太らの出獄などを求める嘆願書を藩庁に提出した。 しかし、反乱分子とみなされて相容れられず逆に兵を向けられ、志士たちは抵抗すること無く捕らえられ、ここ奈半利川河畔において斬首されたという。

現在、河畔近く福田寺境内に二十三士の墓と碑および武市瑞山像があり、国道をはさんだ同公園内には、二十三士殉節之地碑が残る。 
首領・清岡道之助邸は典型的な郷士屋敷で、田野町が保存管理している。 因みに道之助の妻は、昭和初期“ライオン宰相”と呼ばれた浜口雄幸首相(田野町出身、明治生まれの初の内閣総理大臣)の叔母にあたるという。 近くに浜口雄幸旧邸も復元保存されている。

浜口は、明治生まれの初の第27代・内閣総理大臣であった。 
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相であったという。 
濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。
日本の国力、実力を知る浜口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。 このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクし、戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に国民負担を軽減する施策を提示したのであった。

次回は讃州・安芸「土佐の海



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日本周遊紀行(65)室戸 「岬と最御崎寺」  ,


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写真:室戸崎灯台


国道55号は、いよいよ室戸岬を目指す。
道路は「土佐浜海道」、「土佐東海道」とも称し、室戸への“V形の辺”を40kmほど太平洋を眺めながら、長い長い海岸沿いの道を南下する。 
特にR493が分岐する東洋町・野根と言う集落を過ぎると、打ち寄せる波濤と山崖が車窓に迫り圧巻である。 
しかし、沿道にはすっかり集落、人家がなくなってしまい、モノ悲しい雰囲気は否めない。延々と走ってようやく集落が現れた。 佐喜浜の浦という集落だが、人の気配が全く無く過疎化が感じられる集落でもある。

ここから先は急に道が細くなり、普通車のすれ違いもままならないほどである。 アップダウンも激しく、所々で人家の真前(まんまえ)を通過するようにもなる。
台風の備えであろうか、民家の前は石垣でしっかりガードしてあり、一種風物にもなっているとか。
気がつくと新道らしきのと合流した。 知らぬ間に旧道を走っていたようであるが、こらはこれで良しとする。

暫くして「室戸岬」のバス停のある公園風のところに到着した。 早速、背後の山の中腹にある展望台に上って岬の先端を眺める。 真に雄大の極みである。
例によって地球の丸さを感じる地点であるが。(実は視界が丸みを帯びて見えているにすぎない) 
岬の先端からは大きな岩礁や奇岩が連なり無限の太平洋に延びていて、こちらも奇怪(きっかい)にして驚きの眺望である。 
すぐ背後は山腹が覆っているように、岬は太平洋に突き出た山地がそのまま海に落ち込んでいる様子が分かる。
渚の公園入口の道脇には、大きな土佐の志士「中岡慎太郎」の像があった。
2010年度のNHK大河ドラマで『龍馬伝』が放送された。 主演の坂本龍馬に福山雅治、中岡慎太郎に上川隆也が演じていたが、最終回あたりで、両人が京・近江屋で暗殺されてしまうのである。


中岡慎太郎は、室戸岬半島の付け根に当たる北川村の村役場の付近で、庄屋の倅として生まれている。 7歳にして論語や孟子など四書を学び、14歳の時にはすでに塾の代講を務めるまでになっていた。その後、藩校・田野学館が開校した時、18歳で武市半平太と出会い、その人柄に惹かれた彼は24歳の時に半平太率いる土佐勤王党に参加、高知の城下へ出て行く。 
26歳で土佐を脱藩、藩の庇護を離れ倒幕活動に奔走したが、大政奉還後に坂本龍馬と一緒のところを京・河原町近江屋で「見回り組」の刺客に襲われ暗殺されている。

中岡慎太郎はじめ、土佐脱藩浪士の多くは志半ばで非業に倒れたが、その活躍は明治維新で土佐藩が薩摩・長州に次ぐ地位に立つ下地となった。 
中岡は、この世に2人といない智慧者ぢゃったが、竜馬先生はハンコを押すだけぢゃった」という著名氏の見方もあるとか、享年30歳。

中岡慎太郎像の入口から海岸へ出ると、「乱礁遊歩道」とい長さ約3kmの散策道が延びている。
太平洋の荒波に浸食された奇岩や岩礁が屹立し、ダイナミックな景観が堪能でき、付近にはタコの足のように気根が伸びる亜熱帯植物のアコウという木(天然記念物)が鬱蒼と繁る。




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最御崎寺・本堂界隈


二十四霊場・最御崎寺へ 、 
山腹の上部に灯台と第24番の霊場が在るはずなので、急ぐことにしよう。 
国道55を一旦岬の西側へ出て、標識に従って右折する。土佐湾が雄大に広がり、室戸港を眺めながら、急勾配の大きなヘアーピンカーブを数度曲がって、暫く行くと「最御崎寺」の参道入り口が右に在った。 
第二十四番 最御崎寺ほつみさきじ)」と書かれた石刻柱の横に、緩やかな参道が林の中に延びている。
300m位行ったところで、左へUターンするかたちで山門へ出た。 
なるほど入り口側は寺院の裏手(北側)になるのだが、横を通り境内の南側(大洋側)へ一旦来て、それから本堂へ向かうようである。

この寺院まで今では室戸スカイラインができて車では便利になったが、徒歩巡礼の場合は昔ながらの下の岬から急な山道を辛苦しながら登って山門に達するのである。 
更には、阿波の最後の札所である薬王寺(23番)から、こちらの高知県最初の札所・最御崎寺へ達するのには、Vの字を描いた室戸半島の長い長い海岸線の道が続く。 
特に宍喰町を過ぎてから室戸市の入木までは、雨宿りの場所もなく荒波が打ち寄せる四国でも一番の難所といわれる。 最長の距離(約80km)と最難関の霊場である。 
その名も最御崎寺は、「土佐・修行の道場」の一番目に当たる。 

さて、山門を潜ると境内には沢山のお地蔵様が目に付く。参道左手に太子堂、 右手に古き貫禄の鐘楼堂が建つ。 この寺院の鐘楼は、NHKの大晦日の除夜の鐘でも有名で、記念碑に昭和37年ラジオ、昭和53年ラジオ、昭和55年テレビ、平成元年ラジオ、平成13年テレビなどと記されているという。 正面に大屋根・四柱造りの本堂、その手前に丸みの多宝塔があった。

この地を訪れた大師は、この四国でも最も僻地の室戸岬を修行の地と定め、お寺を建立し、虚空蔵菩薩を刻んで本尊として安置したという。 
岬一帯は若き日の弘法大師が修行を積んだ場所といわれ、至るところに大師ゆかりの遺跡が残っているとも。 
徒歩の遍路道近くに大師が修行した御蔵洞があり、この御洞の正面は「大空と大海」のみが望め、「空海」の名は、この大自然を黙視しながら「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるという。

嵯峨天皇の時代(平安初期・九世紀初)、勅願により伽藍を建立し、室戸山・最御崎寺と号し、第24番の霊場に定められた。 
室町時代には土佐の安国寺に定められ、以後各武将の寄進により七堂伽藍も整う大寺院になったという。 当時の「安国寺」とは安国寺利生塔(あんこくじりしょうとう)とも称し、南北朝時代、その戦死者の追善または国家安穏の祈祷場として、足利尊氏・直義兄弟が夢窓疎石(夢窓国師)の勧めにより、1338年から日本六十余州の国ごとに設営させたという臨済宗の寺である。
 

室戸山・最御崎寺の山門を出て、真南の一段低いところに基礎から丸型の白亜の室戸岬灯台があった。 フェンスに囲まれ、やや草生したところに一棟孤高に建っている。 完全無人の灯台と思しきが、何故か上部に展望用であろうか・・?一周柵のテラスがあった。   
明治32年(1899)の完成以来、休むことなく海の安全を守り続けている室戸灯台は、日本−の大きさを誇るという。 直径2・6mのレンズは、光度190万力ンテラ、光遠距離は56kmと長い。 毎年7月20日の海の日と灯台祭りの日(11月1日の灯台記念日に最も近い日曜日)の2回、無料公開されているらしい。


帰路は、室戸スカイラインを行く。
屈曲した上下動の激しい道路だが、真っ赤なハイビスカスと亜熱帯特有の緑濃き樹林が気持ちを癒してくれる。 山上より室戸岬港が遠望でき長い防波堤が印象的である。
室戸半島の東側は手付かずの無味な海岸線が延々と連続するが、こちら反対側の西海岸は岬の近場に室戸港をはじめ人々の息吹がある。 
暫く、スカイラインの山腹を走ったあとは室戸の市街地へ出た。 室戸でも比較的賑やかな町並みのようだ。 
法務局や郵便局、商店街など室戸市の目抜き通りを静かに抜けて、R55を今度は北上することになる。 

途中、国道横に大きな鯨の剥製か模型が目に付いたので立ち寄ってみた。「道の駅・キラメッセ室戸」といい、鯨館・鯨の郷でもある。 
室戸は捕鯨で栄えた歴史があり、今でも「ホイール・ウォッチング」が盛んなところらしい。 ここには鯨の資料館があり、鯨の生態、勢子舟(せこふね・捕鯨では最も重要な役目を持ち、網の中にいれ易いようにクジラを追ったり、網の中に入ったクジラに銛(もり)を打ち込んでクジラを殺す舟である)、捕鯨図、鯨組の羽織など古式捕鯨を展示し、全長10mのマッコウクジラとザトウクジラの模型が対で並ぶ。レストランでは鯨の刺身やステーキが楽しめるという。 


室戸市吉良川町という集落には所々特異な建物が目に付く。
蔵のような垂直の白い漆喰壁に、数段の軒瓦風のものが周囲に付帯している。 この瓦は水切瓦と云い、漆喰は土佐地方独特の土佐漆喰の壁という。 台風銀座といわれるこの地方、気候と適合するような建築法をあみ出したらしい。 
この土佐漆喰と水切瓦建築は、土佐の厳しい気候に適合させた見事な意匠であり、又この町の代表的町並景観として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているらしい。

次回は後免・奈半利(ごめんなはれ・?)



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                 写真:38番霊場・金剛福寺



石鎚神社・・、足摺岬に縄文前期の縄文人が渡来・・・?、

次に金剛福寺に向かおう・・、
窪川町の37番霊場・岩本寺からは、中村、土佐清水などを経て100kmを超し、霊場と霊場の間の距離は八十八力所中一番長い札所であるという。しかも、道程は深山的難所が多く 足摺半島岬などは往時は陸の孤島とでもいえる所であったろう。 しかし、ここは四国の最南端の地であり、すぐ前は広々とした大海原を望むところから、観音様の理想の土地(補陀洛)だともいわれる。
補陀洛とは、観世音菩薩が南海上の彼方に住むという信仰で、補陀洛渡海(紀州・勝浦の項に記載)といって補陀落を目指して信仰者が小舟で単身海を渡り入仏することで、中世、熊野(補陀洛寺)や足摺岬から試みられたという。
38番霊場・金剛福寺は、こんな明るい風景の岬の頂上にが建っている。 
仁王門をくぐると正面奥に立派な本堂が迎える、右手には清和天皇を祀り、源満仲(清和源氏の嫡流)が建立したという多宝塔がそびえる。清和天皇、源満仲は源家の創始者であり、武将たち、とりわけ源氏一門との縁が深い寺院であるともいう。
境内は広く、ゆったりと造作してあり、霊気漂う雰囲気が充分に感じられる。左手に大師堂、弁天堂、愛染堂、鐘楼等が建ち並んでいる。 弘仁13年(822年)、弘法大師はこの地を訪れ、千手観音像を納めて「月輪山・金剛福寺」と号して第38番の霊場に定めたといわれる。

『 ふだらくや ここは岬の 船の棹 
取るも捨つるも 法のさだやま 』 御詠歌

自然の造形と人間の造作に心洗われ、足摺岬を後にする。 
先刻と通ってきた岬の東海岸は、遠慮がちに小さな港があり、人家も疎らで車も難渋がちに通るほど未開発の地で自然十分ところであった。ところが対照的に西側に面する沿岸は高層の建物や人家が並ぶ賑やかな地域である。
尤もで、この辺りは足摺観光の拠点、大きな資源でもある「あしずり温泉郷」が控えていた。白装束のお遍路さんは勿論、観光客も人汗流すには申し分ない所であろう。
この“あしずり温泉郷”は、古くて新しい不思議な温泉だと言われる・・?。今から凡そ1200年前、当時極楽浄土に一番近いとされていた最果ての地・足摺村(足摺岬) に弘法大師が金剛福寺を建立したが、その頃より湯が湧き出し、疲れを癒したという言い伝えがある。ところが150年前、「虎年の大変」と言われる日本で最大級の地震があり、(七日七晩揺れ続けたと言う)その地殻変動により温泉が閉じられてしまったという。その後、平成の世に至って採掘した所、ラドン含有の良質の温泉が再び永い眠りから醒め、噴出したらしい。ということで入浴の効用は無論、他にも御利益ありそうな温泉である。

帰路は、「足摺スカイライン」を行く・・、
足摺観光は概ね、この観光道路を利用しているのが普通であり、観光バスをはじめ車の往来も盛んである。 今思うと往路では、静かな趣のある東海岸道から向かってきたことに納得するのであった。
スカイラインは、アップダウン、曲折が多くあるが、道はさすがに良好で、標高も400m程あり時折、視界180°の海が見え、これはこれで素晴らしい。
右手にこんもりした山塊が見えている、半島の高峰「白皇山」(433m)である。 山頂付近に38番霊場・金剛福寺の奥の院でもある「石鎚神社」があった。今は、さびれた神社のようであるが名称の如く、山腹には巨石群があり、石鎚神社という名称は納得でアル。 ところで、石鎚神社というのは、四国の名峰・「石鎚山」があり、この山を神体山(神しずまります山)とする御社の名称でもあるが、こちらの神社とは何かしら繋がりがあるのだろうか・・?。
又、この近くに「唐人駄場遺跡」といって、この巨石を利用したと思われる「巨石遺跡群」(現在公園施設)がある。かつては、直径約300mもの世界最大級のストーンサークル(環状列石:巨石記念物の一種、柱状または板状の石を環状に立て並べたもので、新石器時代から弥生時代の祭祀・埋葬に関連する遺構。ヨーロッパ・アジアに広く分布し、イギリスのストーンヘンジはその代表)があったという。 残念なことに遺跡公園の造成中にほとんどの石は移動し、埋められてしまったというが・・、チョッと間の抜けた話である。
遺跡は、縄文時代前期:紀元前5000年頃に、南方から黒潮に乗ってきた古代人が最初に辿り着いた場所ではないかともいわれている。石鎚神社は、金剛福寺の奥の院であり、古くから修験の中心地とされ、補陀落渡海の地だったとも云われる。
幕末維新に通訳として日米交渉に活躍したジョン万次郎のことは先に記したが、太平洋を流れる黒潮は、四国の足摺岬が接触点でもあり、黒潮という異界の海上の道は、多くの人やモノを交流させ、同時に古代の人々も、この海の道によって現代以上に交流していたのかも知れない。

クネクネと曲がりクネったスカイラインの道も、やがて下りきって元の国道321号へ合流した。清水の街を抜けると、コバルトブルーの大海と岩礁折りなす美しい海岸線が延びている。この海岸道は別名「足摺サニーロード」と言われている、土佐清水の下の加江から大月町に到るまでのシーサイドロードで絶景が連続する。 道は「日本の100名道」にもなっていて、私的選者である須藤英一氏によって選ばれたという。
日本の百名道とは・・、
彼はフリーカメラマンでツーリング写真を主に日本の道、風景を撮りつづけ、取材経験をもとに「日本百名道」(大泉書店)を出版している。彼に言わせれば「道はただ単に走るだけの場所ではなく、移動するための通過点でもない。クルマで旅するとき、“あの場所に行く”ことだけが目的ではつまらない。途中には日本には美しい景色や風景が沢山在る。これらの風光を目出ながら、味わいながら走る道が沢山あるのです」。 

「日本の百名道」  http://www.ramble.net/sudo/road100/index.html 

因みに、須藤英一氏による日本の百名道のうち、小生がこれまで走破したのは凡そ6〜7割に達しているようで、特に大自然の北海道は全道、走行しているようである。

竜串(たつくし)という、風光明媚な海の観光地へ来た。 
さすがにこちらは、日本ではじめて一帯が海中公園に指定された地という、黒潮暖流の影響を受けて造礁サンゴや熱帯魚が生息する海の宝庫で、中でも「見残し湾」のシコロサンゴ群落は国の天然記念物に指定されている。 周辺の岩場は、海食による奇岩怪岩が乱立していて一層、自然美を際立たせている。トンネルが連続するあたりの先端岬・叶崎灯台が白く輝いて見えている。 この辺の海も実に最高である。
大月町の道の駅「ふれあいパーク大月」で一服入れる。 公園内には桜の広場や梅林、子供達の遊具やアスレチックがあり、そして広大な公園全体を覆うツツジ(アケボノツツジ・・?)が名所のようだ。広い区域の物産センターの一角に、テント張りの数件の店舗が目に付いた。美しくエレガントなサンゴ製品のお店であった。 ここ大月町は、古くから高級な桃色珊瑚の産地で、珊瑚の製造・加工・販売が盛んな地でもあるとか。
 
高知の西端にあたる宿毛へ向かう・・、
宿毛市街のすぐ手前、国道321号に沿って道の駅・「宿毛サニーサイドパーク」があったのでちょっと一服・・。 松田川の河口部でもあり、宿毛湾に出臍のように出ばったところに在って何より海の景色がいい。海はハワイか沖縄か?と思われるほど澄んでいて心洗われる。
「宿毛」と書いて、恥ずかしながら読み方を知らず、“やどげ”しゅくげ“しゅくもう”などと勝手に想像したが、みな外ずれて正しくは「すくも」と読む。
宿毛は清流・松田川の河口に開けた街である。太古の昔は遠浅の海であり、大湿原には一面に「葦」が生い茂っていたという。この枯れた葦のことを「すくも」と言い、宿毛の名前の由来はここからきていると言われている。
この地方は、宿毛貝塚といわれる遺跡が発掘されていて、既に、縄文中期(5千年前)頃から人跡が確認されているようで、古い土地柄でもあるようだ。 遺跡は国の史跡にも指定されてもいる。
それに、宿毛の幡多地方には、チョッと変わった名所があった・・、
幕末から明治にかけて、各村の要所々々に泊屋(とまりや)といって若い衆が宿泊する風習があった。未婚の若者たちが火事などの見張りや災害に備えて泊り込み、救助に出動する慣わしになっていた。今でいう火の見櫓の番小屋のようなものであろうか・・?、建物は二間四方の木造高床式の平屋建てで、屋根は入母屋造りのどっしりとした風格のある建物である。当時の一般家庭の住居は殆どが平屋建ての建物で、平地ならこの高床式の泊り屋からは一望の下であったろう。高床式の風格のある独立家屋は、多いときで百数十ヵ所も設置されていたという。当時の、この地方の文化と治安状況が如何であったかが想像できる。各集落にあった古風な泊屋も、今では大部分は破壊され、残っているは芳奈地区の4軒のみであるという。現在、国の指定をうけ、宿毛屈指の観光名所ともなっているという。

次回は、愛媛の愛南町・・、


 

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                  写真:足摺灯台とジョン万次郎の像


足摺岬に「ジョン万次郎」の勇士が立つ・・、

河口付近で国道321は四万十川と別れ、一路、足摺岬を目指す。 
山域に入り伊豆田峠のトンネルを抜けると土佐清水に入る。 川沿いを緩やかに下ってゆくと、加江という所で再び海岸に出る、こちらも見晴らしの良い快適なドライブウェイである。 間もなく足摺半島の付け根部に当たる以布利でR321と別れ、県27(足摺岬公園線)にて足摺の岬を目指す。 今度は、いきなり細い曲がりくねった道で、些か閉口しながら上り下りを繰り返す、すぐに二車線の広い道に出たようであるが、これは足摺スカイラインに通ずる内陸への道のようである。小生はこのまま沿岸道を目指す、海岸の高目を道が延びていて、土佐湾の見晴らしも良く快適である。
窪津の小さな港・漁港に着くと漁船の傍らに年配の婦女が数人タムロしていて、水揚げされた魚類を選別しているようである。うらぶれたような地域だけに、妙に印象的な風景である。 この先を登りきった所が窪津埼で、突端に白亜円形の灯台が立っていた。 灯台は草生した、誰も訪れる人がないように、孤高に海に向かって立っている。 海面より50mの高さであろうか、約30km先の海洋を照らしているという。 鄙びた漁港のすぐ上に投光があり、漁船・漁民にとっては、かけがえのない「安心の光」であろう。 周辺は、南国の日差しはとても暖かく、灯台の周辺は色とりどりの花が咲き、蝶も舞っている。 灯台のすぐ下は断崖絶壁で、海岸には岩礁が発達し、岩場が点々と大洋に延びている。 太平洋の紺碧の眺めは雄大で、窪津の漁船であろうか・・?、のんびりと・・?漁をする船の姿も散見される。
孤高の灯台と対比させながら、人影一人と無いこの地に立って、長閑で、大らかで、心が伸びやかになるのを覚える。「孤独の味」を味わいながら、それでも旅に出て良かった、としみじみ実感する瞬間でもある。 チョット、センチになった気持ちを入れ換えて、更に前進する。
ダートのコースではないが、細く、曲がりくねった道が暫く連続する、時には南国の樹林帯の中を潜るように、くねって、くねって・・。 忘れかけたような小さな集落を目にしながら、こんな僻地にも人が住んでいるのか、と不思議に感じながらも、その民家の庭先とも思えるような道を遠慮がちに通過する。
時折、チラッと左手に大洋を望みながらも、緊張感で何の感慨もなく、ただ、ひたすらに目の前の道をめがけて突き進む。 時折、二車線の新装なった綺麗な舗装道路に出るときもあるが、又、再び鬱蒼とした林の中のクネクネの一本道である。 白装束のお遍路さんとすれ違う時など、遠路の安全を祈らずにはいられない、やはり四国らしさを感ずる。 幾つかの部落を通り過ぎて、明るい開けた、見通しの良い地の岬に達したようだ。
更に車を前進させると、今迄とは、うって変わって明るい賑やかな広場に達した。ざっと見渡しても右手に第38番札所の「金剛福寺」が有り、道路をはさんでお寺の前の駐車場近くには、「中浜万次郎」の大きな像があった。一帯が広場になていて、公園風によく整備されている、区画された駐車場の横には数件の御土産屋さんも並んでいる。 舗装された遊歩道は、岬の先端に延びてて、足摺灯台へ達しているようだ。

ところで、土佐の高知は、大きく弓なりの土佐湾を東西で室戸半島(岬)と足摺半島が挟むような姿である。この足摺岬が高知は無論、四国の最南端に当たり、強いて言えば土佐湾と太平洋を隔てている。 そのため足摺周辺は黒潮の影響も強く受ける温暖なところでもあり、ビラン、アコウ、椿など亜熱帯性の植物も繁茂している景勝地である。この地域一帯は足摺宇和海国立公園にもなっている。 先刻、室戸岬を訪れた時は、名前のわりには人の手が加わらず、自然のままの姿が印象に残っているが、この岬は、よく手が加わえられ整備されていて、室戸とは好対照なのが面白い。
早速、灯台へ向かおう・・、自然遊歩道に従って行くと、うっそうとした椿のトンネルがあり、散歩気分で程なく高台の草原に立つ「足摺灯台」が現れた。四国の最南端の突端に立つ、白亜でロケットをイメージした灯台は、ひときわ大きく目立って佇立している。 標高(平均海面〜灯火)が60m(地上から塔頂までは18m)、光達距離は約40kmといわれる。残念ながら内部の一般公開はさていないようだ。 断崖絶壁に立つ灯台の周囲は展望台にもなっていて潮風が強く、岩礁に砕ける白い波頭や無際限な太平洋の風景は実に圧巻である。自然遊歩道沿いには、「足摺自然七不思議」なる物があるそうで巡ってみたいが、時間の都合もあり遠慮した。

戻って、広場に立つ「中浜万次郎」(ジョン万次郎)の前に来た、 高知を巡って何れの偉人像もうであったが、四角い台座に大洋を見ながら堂々と立つ。 
万次郎のことは先にも若干記したが・・、
この地・土佐の国・中浜村(現在の土佐清水市)の漁師として生まれている。 14歳の時に漁に出て遭難し、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着した。 そこでアメリカの捕鯨船に仲間と共に救われるが、日本は当時、鎖国であったため、万次郎はアメリカへ護送されることになる。 「ジョン」という愛称はこの時の捕鯨船の名前ジョン・ホーランド号とって付けられたという。
以降、鎖国中の日本には帰らず、船長の家(ホイットフィールド船長)で養子となって約3年半のアメリカと生活となる。その間、万次郎は学校にも通わせてもらい、個人教授を受けて英語を完璧に話すようになり、名門の学校にも通って基礎的勉学も身に付ける。航海術、測量術も修め、再び捕鯨船に乗って働き、やがて米国船の副船長にも選ばれて太平洋・大西洋・インド洋を巡航し、鎖国時代の日本人としてはめずらしい世界体験をしている。
世界の各地を航海した万次郎は、その後、船を購入しハワイに寄港、1851年に日本への帰国を果たす。帰国は鹿児島に上陸しているが、直ちに故郷には帰れず、長崎で鎖国中の幕府から尋問や取り調べを受け、一時、牢屋にも入っている。そして遂に、嘉永5年10月(1852年)、故郷土佐の中村に帰ることが許された。
この時期の日本は、黒船の出現など対外国の圧力が強まり、政治的にも世情騒然、分明開化の嵐が吹き荒れる最中であった。万次郎は土佐藩に西洋技術を教えるなど才能を買われて土佐藩士となり苗字帯刀をゆるされる。(武士になった)この際、生れ故郷の地名を取って「中浜」の姓が授かっている。
幕府は、ペリーの来航によってアメリカの知識の重要性を認識していたことから、万次郎を26歳の若さで幕府に直参旗本という前例のない待遇で召し出した。  江戸では通訳も務め、またアメリカで身につけた学問を基に各地で講師としても活躍する。 地元高知では、坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われる。
ところで、アメリカ合衆国は20世紀の一時期、日本と戦火を交えたが現在の国際化時代、日本と最も友好関係にある国といえる。 アメリカは150年前の国の歴史に、おそらく日本人として一番最初に名を留めた人物はジョン万次郎であったろう。
太平洋、遥かなアメリカに影響を直接受けたジョン万次郎が、大洋に向かって立っている姿は、至極、納得させられるのである。

『足摺岬』 唄・鳥羽一郎  詩・星野哲郎 
海が裂ける 岩が吠える       虹をつかみ 雲にのって
足摺の 荒ぶる岬に立てば     足摺の 波立つ岬を廻りゃ
小さい世間は 吹っ飛ぶぞ     若い竜馬の 声がする
俺も行きたや 万次郎さんの    命惜しんじゃ 何も出来ん
花と嵐の 人生を         捨てて勝つ気が 明日を呼ぶ
波に浮かべて わだつみの涯て   海に貰うた 度胸の宝

次回は三十八霊場・金剛福寺

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写真:遊覧船、澄んだ水の青さに季節によって顔を変える四万十川、この船で食事やお酒を飲みながら遊覧する。



日本最後の清流、「四万十川」・・、

「中村市」・・、とはいっても旧中村市のことで、本年4月に北部・山間地、西土佐村と合併し新市「四万十市」として発足したばかりである。 四万十川の町として知られる土佐中村は、河口よりやや内陸に入った河畔、四万十川と支流河川の中洲に広がる町並みである。

中村の町並みは、15世紀半ばの室町期、朝廷の関白家の一条氏が応仁の乱の混乱を避け、所領であった土佐幡多の荘(現在の中村・四万十市)に京都から下向してきたことから始まる。一条氏は、雅やかな京都に対する思慕の念から、この土地に京風の町造り、町並み造りを実施し、中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤目状の街並みや祇園神社、東山、鴨川といった地名を残している。又、前関白という身分の高さもあり一条氏は土佐の人望を集め、国中の豪族もこれに臣従し「中村」は土佐の小京都とも呼ばれるほど。一方ならぬ賑わいを見せたという。以降、土佐一条氏は、新興勢力長宗我部氏が幡多に侵攻するまで続くことになる。実は、中村という名称は、長宗我部氏から始まる。
土佐中村城は、土佐くろしお鉄道の中村駅から西北に3kmのところ古城山とその山麓を占めるところにある。この城郭は現在、郷土資料館になっているが、当地は昔から交通の要衝であり、かっては、この地方の豪族、為松氏が城を造り居城としていた。後に、為松氏は土佐国司となった一条家の家老として仕え、為松城は中村御所の詰の城として整備された。中村御所跡はいま中村一條神社となっている。

町並みを過ぎて、四万十川の渡川大橋を渡り、そのまま西側の河畔土手を走る、成る程、その名に聞こえた清流である。川幅は1kmもあろうか、草生した洲だまりもあるが、広くは流水部が占めて悠々と移流している。合流河川の所はさらに川幅は広くなり、雄大さを誇る。河口付近は、巨大な中洲も発達しているようである。
川岸に造形された船着場に、数艘の屋形船が着岸している、中央の川面に漁であろうか・・?一艘の川船が佇んでいた。四万十川らしい風景と雰囲気を感じ、思わずシャッターに手が延びた。 川岸に沿って「四万十屋」や、“うなぎ”と銘うった数件のドライブインと御土産屋があり、「遊覧船乗り場」の大きな看板も目につく。 名所に、四万十川らしい生活景観を厭味無く演出している。 
風物詩等のTVでお馴染みであるが、四万十川は特に生活に密着した川である。 
古くから独特の漁(りょう)が盛んに行われて、天然ウナギ、ゴリ(チチブ、ヌマチチブ)、ツガネ(モクズガニ)、テナガエビなどの魚介類のほか、青海苔の産地として知られている。 四万十川は、川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。
全長196km、吉野川に次ぐ四国第二の川で、本流に大規模なダムなどが建設されていないことから、「日本最後の清流」と呼ばれている。 四万十川には、中上流域、支流も含めて47もの名物・沈下橋(もぐり橋)があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。
もぐり橋(潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋などともいう)とは、橋の上に欄干が無く、水面からの高さが高くないことが特徴である。これは、増水時に、橋が水面下に没するようになっており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐためでもあるという。また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もある。その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や住居の少ない地域など、比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。 しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られることから徐々に姿を消しつつあるという。
源流部は、県内の東津野村(本年・2005・2月、葉山町と合併し津野町として発足している)の布施坂付近で、この辺りの水域は日本名水100選にも選ばれている。 蛇行を繰り返しながら南下し、先にも記したが窪川、大正、十和の町村を西へ移行しながら、更に四万十市(西土佐村、中村市)を潤して南下し、土佐湾に到る。
本流は珍しく、高知一県のみを流れる一級大河川で、一つの都府県のみを流域とする河川としては、山形一県を流れる最上川本流(224km)に次ぐ長さである。
 
次回は、土佐清水から足摺へ・・

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