|
.
日本周遊紀行(77)宇和、大洲 「おはなはん」 、
完成ホヤホヤの「大洲城」 古風で教育熱心だった宇和地方の小都市・「宇和」 、 南伊予の海岸は山並みが海岸線にまで押し出し、これが複雑に重なり合っている所謂、リアス海岸を形成している。 従って、そこを走る道は山間を縫う様に、曲折しながら延びている。 吉田町は、こんな沿岸山地の一角にある。 陸奥・仙台から赴任してきた宇和島藩主の伊達秀宗の五男・宗純が三万石を分与されて吉田藩を創立、居館をこの吉田の地に定めている。 今でも武家屋敷や豪壮な商家など風格ある家並みが、往時の姿を留めている。 トンネルが連続する中、法華津トンネルは宇和町と吉田町の町境にあたる。 近世まで、南伊予・宇和島あたりは街道の行きつく果てと云われた。 旧道の峠は、かつては宇和島街道最大の難所といわれ、この最後の道程に「羊腸の小径」(箱根八里の歌詞から引用)たる法華津峠(ほけず)を越さねばならない。 仙台の伊達秀宗一行の小勢が、瀬戸内海を渡り、遥々この地まで来て法華津の峠に立ち、宇和海と行き着く土地柄を眺めた時の感慨は如何ばかりであったろう・・?、 今では、名勝とも言われる法華津の峠である。 頂上に立つと、眼下にリアスの入り組んだ海岸と紺碧の宇和海が織りなす、伊予屈指の大展望が開けるという。現在、この下を立派な国道が峠を刳り貫いて法華津トンネルが通貫している。 峠を下ると田園文化の町・宇和町に達する。藩政時代・宇和島藩に属し、純農村地帯として藩の米倉の役目を果たしていたらしい。 又、宇和町の国道を右に、古風な中町の町並みが整然としている。 幕末から明治初期、宇和島街道の宿場町として栄えた面影を残している。 その北の一角に、外観洋式の「開明学校」がある。 明治15年に建築された西日本最古級の現存する小学校舎で、モダンな校舎は国の重要文化財に指定されている。 尤も、明治5年の学制発布以前に、開明学校の前身である「申義堂」というのが、既に開かれていたという。 シーボルト(ドイツの医学者、動、植物学や民族学者、出島のオランダ館長、日本に深い理解者)の弟子蘭学者・二宮敬作と彼に師事した高野長英(陸奥・水沢出身、江戸後期の医者・蘭学者)、村田蔵六(山口・周防出身、後の官軍総督・大村益次郎)、シーボルトの娘・お稲などが学んでいたといい、明治以前から学問が盛んな土地柄であった。 現在は教育資料館として私塾時代の教科書など数千点を展示している。 因みに長野県松本市の松本城(黒城といわれる国宝)近くにある日本最古といわれる校舎・「開智学校」とは親善友好、文化財保護、教育文化等の進展に寄与し合おうと、「開明学校」とは姉妹館提携を結んでいるという。 宇和の町外れ北部に、昨今、松山道も開通している、その松山道に乗る。南海の僻地も今では近くなった。 大洲と長浜・・、 松山道を一旦「大洲」で下りる。 トンネルを抜けると突然、大洲(おおず)の町並みが広がる。 清流の一級河川・肱川(ひじがわ)の肱川橋付近、すぐ左に美しく華麗な天守閣が見えている。 平成16年、豊富な資料をもとに木造で復元したというピカピカの「大洲城」である。 初期の築城は鎌倉末期、伊予の守護として赴任してきた宇都宮氏が築いたという。 宇都宮氏の本家はご存知栃木・下野の国で、鎌倉戦国期、源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた武家本流の家柄で、伊予・宇都宮氏はその庶流(分家・本家から分れた家柄)といわれる。 戦国期、脇坂安治(近江出身戦国時代の武将、豊臣秀吉の部将賤ヶ岳の七本槍の一人、小田原征伐)が関ヶ原戦後は伊予大洲に封じられた時、現在の近い姿に改築された。 お城の天守は通常は三層か五層の奇数階であるが、こちらは珍しく四層四階の天守構造に成っていて、更に複連結式天守(大小の天守が繋がっている様)と呼ばれる構えでもある。 大洲城はその後戦乱に合うこともなく、明治維新後、政庁布令によって天守は取り壊された 。 しかし、城下町は今でも、その古い佇まいを残しており、武家屋敷や臥龍山荘、赤煉瓦館といった名所等、伊予の小京都と言われる風情をみせている。 昭和41年のNHK朝のテレビドラマで明治中期の大洲市を舞台にした樫山文枝、高橋幸二らが演じた「おはなはん」のロケが行われたことから、「おはなはん通り」という名称もあり、市民に親しまれているという。 河を渡った大洲の街並みも静かな落ち着いた佇まいである。 肱川(ひじかわ)が、この地区で大きく湾曲していて、そのため古くは河湊としての「津」(湊、港)があり、克っては大津と呼ばれていた。 ところが、赴任してきた脇坂安治が出身地の近江・大津と紛らわしいので「大洲」としたといわれる。 この湾曲した川州を利用して城下への交易、流通を盛んにし、商家として大いに発展した。 更に上流(現在の肱川町あたり)からは筏流しや川船で木材や木蝋などの特産品を水運していた。 肱川の河口に架かる、跳ね上げた状態の長浜大橋(赤橋;長浜町) 愛媛県を代表する川でもある肱川の河口に長浜町(現大洲市)があり、この河口に珍しい橋が架かっている。 長浜大橋、通称「赤橋」と呼んで地元民は親しんでいる。 架橋当時の旧長浜町は、秋田・能代(秋田杉・・)、和歌山・新宮(熊野杉、桧・・)とともに日本三大木材集積地として繁栄。上流から運ばれる木材を機帆船で京阪神地区へ出荷していた。 その際、上流に造船所や木材等の物資を運ぶ機帆船が航行することから、開閉式の橋が建設されたといわれる。 この橋は一部が動いて船を通す可動橋であるという。 一般に、可動橋の方式には三種類あって、一つは橋桁が跳ね上がる「跳開橋」で、赤橋はこのタイプである(バスキュール式)、二つ目は橋桁が旋回する「旋回橋」(日本三景の一つ「天橋立」に架かる小天橋回旋橋)、三つ目はエレベータのように上下に動く「昇開橋」である。 跳開橋には、東京の勝鬨橋(かちどきばし)のようにハの字型に開く橋もあるが、赤橋は片方だけが跳ね上がる。 昭和10年、待望の長浜大橋が完成している、現役の道路可動橋では日本最古となるという。 日本の代表的な開閉橋である勝鬨橋(※、東京都中央区にある隅田川に架かる橋)より5年早いという。 一時、撤去の話しも出たたが、地元の強い熱意で保存が決まり、生活道路として利用されているという。大戦中には米軍機の機銃掃射を受け、その痕が今も残っている。 1977年(昭和52年)、河口寄りに国道378号のコンクリート造の橋梁(新長浜大橋、長さ333m、幅10m)が架かり、幹線道路としての役割はそちらに譲ったが、現在でも生活道路として地元の車や通学の児童生徒によく利用されているという。1998年には国の登録有形文化財になっている。 過日、サンケイ新聞で1頁全面カラーで、この橋のことを記事にしていたのを思い出した。 「伊予の小京都」と呼ばれる大洲市は、2005年(平成17年)1月、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併し、新しい大洲市となっている。 ※、因みに、小生初めて東京へ出て銀座見物した折、偶々(たまたま)、勝鬨橋を通ろうとして、その開閉に出会ったことがあり、その時の迫力に圧倒されたのを覚えている。隅田川の第一橋梁である勝鬨橋は、昭和15年に竣工している。 しかし、残念ながら昭和45年以来「あかずの橋」になってしまったようである。完成当時は、東洋一の規模をほこり、わが国最初のシカゴ式二葉の跳開橋として知られてうたという。 戦後、アメリカ軍がこの橋を見たとき、日本人が設計・施工したことを信じなかったそうで、近代史としても技術史としても大変価値ある橋である。 この「動く橋」を再起動させて、定例行事にすれば,東京の活性化,隅田川国際観光の大きなシンボルになり、動態保存にもなるということで、保存運動が盛んだというが、果たして・・?。 再び、松山道を行く、もう陽がだいぶ斜めに落ちてきた。 内子町の街並みが山々に囲まれて、押しつぶされそうに佇んでいる。 平成17年1月に、内子町、五十崎町、小田町の3町が合併し新内子町が誕生している。 この先、松山まで重畳たる山波が連続する。 もっとも今までもそうだったが、大洲盆地を含む喜多郡、伊予郡もみな波濤とような山並みが浮き沈みしているのである。 大洲の東、保内町で、その大山脈の片割れ片鱗が、東へ大きく大洋に向かって細長く伸び、佐田岬へ達している。 佐田岬は、付け根から先端まで「岬十三里」と呼ばれて50kmを超す「日本一長い岬」だそうだ。 豊予海峡に突き出ていて、大分県・佐賀関までの海峡は直線でわずか15kmまで接近している。 天気が良ければ九州の山並みが見ることが出来るという。 「さたみさき」は、九州本島最南端である佐多岬(さたみさき)があり混同し易い、「漢字の”た”」の字が異なる。 この後、訪れる予定でもあり楽しみにしている。 次回は、先ず野球王国・「松山」 【小生の主な旅のリンク集】
《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観 ハワイ旅行2007 九州旅行2008 沖縄旅行2008 東北紀行 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 北ア・槍−穂高(1968年) 上高地・明神(2008年) 上高地-岳沢-穂高(1979年) 南ア・北岳(1969年) 八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972年)
《山のエッセイ》 「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」 《スキー履歴》 「スキー履歴」 . .
... |
愛媛県
[ リスト | 詳細 ]
|
.
日本周遊紀行(76)宇和島 「和霊神社」 、
写真:和霊神社本殿 宇和島・和霊神社は一藩士が神霊として祀られている・・、 宇和島城の北・須賀川畔に高さ12mの石造りの大鳥居と夏祭りで名高い「和霊神社」が鎮座している。 この神社は宇和島・伊達家に縁起するものであり、伊達家のみならず宇和島の守護神でもあるという。 南伊予(宇和島地方)の中世・守護(鎌倉、室町期)の時代は闇だったという。 京の都から「西園寺」という食いつめ公卿一族が流れてきた。 一部の例外者を除けば、白粉を塗った中央官庁の役人が、南西の果てに流されてきて、土着の国、民に善政を施せる訳はなかった。 鎌倉初期から室町末期(戦国時代)の凡そ350年間、西園寺氏から長宗我部氏の時代のことである。 戦国期、短期間ながら藤堂高虎が赴任した頃は築城もさることながら、まずまずの善政を執いたといわれるが、この前後の戸田氏や富田氏は、同様にいけなかったらしい。 領民は長年の悪性に荒(すさ)み、疲弊しきっていた。 戦国期も終わり、世は江戸期の安定期を迎えた頃の1614年、欧州の覇者・伊達政宗の嫡子・秀宗が、宇和郡十万石として赴任してきた。 宇和の疲弊し、荒みきっている事情を話に聞いて知った伊達政宗は長子・秀宗の宇和島執政に当たり、仙台・伊達家家老団の一人・民生・財政に詳しく、正宗の信任厚い「山家 清兵衛」(やんべ せいべい)を抜擢し伴わせた。 清兵衛は藩財政の苦慮する中、藩内には厳しく、領民には善政を施した。特に農民に対する徴税を出来るだけ安くし、租税能力のない者は機に応じて免除したともいわれる。 この時期、日本史上でも民政家・山家 清兵衛ほど一地域の民衆の間で、深く尊崇されている例は絶無であろうといわれる。 藩主・秀宗が入部する際、本家仙台より相当額の借金をしてきた。 その返済の時期が迫り、本家よりの返納督促もあった。 この時、清兵衛は領民には藩事情は一切知らせず、藩内藩士の給金を一部返上(半額という説もある)して、その処置を行おうとした。 この事が一部藩士の恨みをかい、政敵・桜田一派との確執のなかで政争に敗れ、1620年ついには暗殺されるにいたった。 領民は深く嘆き悲しみ、藩主に清兵衛の霊を慰むべく社を建てるよう懇願した。願いは叶って小さな社ができ、民衆はこぞって御参りしたという。 藩主・秀宗は民の意を悟って数年後、この社を土俗神から京都の正使・奉幣使(ほうへいし:勅命によって幣帛〔へいはく 供物〕を山陵・神宮・神社に奉献する使者)を呼んで御祓いを上げ、正規に神社とし一社を改たに建立した。 これが和霊神社の起こりであり、 民意によって、しかも一藩士のための神社を起こした例は日本では皆無であろう。 清兵衛という、領民のための政治を行った江戸初期では珍しい行政家が、一藩の中心的「神」に成ってしまった為、この藩の行政体質がその後引き締まったことは想像に難くない。 そのことは江戸末期、伊達宗城(だて むねなり)という名君が生まれたのは、無関係では無さそうである。 因みに、土佐・高知の龍馬の祖先である才谷屋(現「南国市才谷」出身で、高知城下で質屋を営んでいた。 幕末は土佐藩の家老や中老の家禄を抵当にして金銀の融通を行う商家。 坂本家の祖先に当たる)が、この社の事情に感じ入って和霊神社を坂本家の守り神として宇和島から分霊し建立している。 幕末、脱藩の決意を固めた龍馬は、この和霊神社(高知市神田)に立ち寄り、同志・沢村惣之丞とともに水盃(別れの杯)をしたと伝えられている。 高知・和霊社は、脱藩して大きく飛躍し新しい日本をつくった坂本龍馬の事跡を讃え、後世に伝えていくことを目的に例年、「龍馬脱藩祭」が行われているという。 宇和島・和霊神社は海上守護神としても信仰を集め、地元では「和霊さま」の名で親しまれているという。 境内には「和霊土俵」といって宇和島の代表的な闘牛場があり、宇和島最大の祭り、和霊大祭と相まって名物の闘牛大会が例年の時期に行はれる。 宇和島の闘牛は全国的に知る人ぞ知るで、当地方の代表的行事である。 人間の相撲と同様、前頭から横綱まで番付があるが、闘牛は横綱は横綱、大関は大関、同じ格付けで闘う。もし仮に横綱と前頭を対戦させたとしても勝負にならないという。 闘牛は、八百長なしの真剣勝負の世界なのである。 相撲には賞金が出るが、闘牛では「給金」とよばれるファイトマネーが支給されるという。 しかも敗けた方の牛に多く支払われるといい、勝牛4割、負牛6割と決まっているという。これには敗けた方の牛主に対する慰めの意味があり、宇和島ならではの麗しき伝統でもある。 闘牛の歴史は鎌倉時代に遡るという・・、 農民が農耕用の強い和牛をつくることから自然に野原で牛の角を突き合わせ、これを娯楽にしていたとの説もある。 明治・大正期や戦後のGHQ(連合軍総司令部)により、一時期、規制や禁止されたが、庶民の闘牛熱はきわめて盛んで愛媛、隠岐、越後(新潟地震で大被害を被った、あの山古志村)の闘牛関係者等から陳情が繰り返され、2年後には解禁となった。 今では正月場所と夏の和霊大祭場所は特に賑わい、客席は手弁当や一升瓶を提げた観客であふれ、2時間に及ぶ大勝負にやんやの喝采を送る。 和霊神社のほか、駅東方の丸山山頂に、ドーム型の宇和島市営闘牛場がある。 平成10年8月、島根県隠岐郡西郷町の提唱により「全国闘牛サミット協議会」が発足、関係市町村において「全国闘牛サミット・全国闘牛大会」が開催される運びとなり、宇和島市は築城400年祭記念事業として、平成12年には「第3回全国闘牛サミット・全国闘牛大会」を盛大に開催した。 海岸沿いにR56のバイパス新道が走っているが、市内の旧道をそのまま前進させる。 賑やかな栄町の五差路を過ぎると、和霊という町名や建物、施設がやたらと目に付く。 緑濃き和霊公園の須賀川を挟んだ向こう側に和霊神社が鎮座している。 和霊の交差点を左折して須賀川を渡り過ぎると、すぐに街の喧騒からも離れる。 次回は、宇和から大洲方面へ、
|
||||||||||||
|
.
日本周遊紀行(76)宇和島 「伊予愛媛」 、
写真:宇和島城天守閣 前回の、概ね続きになりますが、「伊予・愛媛」についてです・・、 「愛媛県」という名は明治期、さる伊予人の申請により太政官布告(明治政府)によって決められたという。 先にも記したが、四国について「古事記」がイザナギ、イザナミによって国を生む記述がある。 最初に淡路島を生み、次いで四国を生んだ。 四国については「身一つにして、面(おもて)四つ有り」と記されており、それぞれ男女の人名が命名されている。 讃岐は、男性で飯依比古神(イイヨリヒコ)、 阿波は、女性で大宣都比売神(オオゲツヒメ)、この神は食べ物の神で鼻、口、そして大きなお尻から食べ物を取り出してご馳走を作る不思議な女神という。 大宣(おおげ)とは、大食で、田、畑、食べ物の豊かな土地を意味する。 土佐は男性で建依別神(タケヨリワケ)で、「雄々しい」という意味であり、 そして、伊予は愛比売神(エヒメ)で文字通り、いい女という意味である。 「愛媛」とは随分と粋な名を、県名に付けたもんであると感心してしまうのである。おそらく松山の教養人が担当官に具申して、この様な名前がが採用されたのであろう。 「いい女」という行政区域でこのような愛くるしい名称は、世界中にもないであろう。 話は些か反れるが、小生が若かりし頃、瀬戸内で半年間仕事をしていたことは先に述べたが、この時、宿のお上さんが「四国には讃岐男に阿波女、伊予の女に土佐男という言伝えがあろのよ」という話を真剣になって聞いたものである。 まさか宿のお上が古事記の内容を知って言ってるとは思わないが、いずれにしても2000年余の歴史がここに生きていて、歴史や風土が脈々と現代にまで引き継がれていることは、驚嘆に値するのである。 四国・四県、そして「愛媛県」という、粋な名称は是非残したいもんである・・!! 今回の旅の目的の一つに、その地域の歴史や文化に少しでも触れることであり、市町村の特色を知ることでもある。 合併によって、町村名が消えてなくなることも仕方ないことではあるが、若干でも旧地名を残したいものである。 たとえ消えて無くなってもそれらを記憶し、記録に留めておきたいと希望するものでもある。今回の合併で、消滅した歴史ある地域名については、改めて無念の意を表したいのである。 そして、宇和島である、 旧津島町の中心であった街並みを後にし、長い松尾トンネルを抜けると間もなく宇和島の市外に達した。 港に近い国道56のバイパスから宇和島城を目指して進む。 カーナビや地図上では気が付かなかったが、宇和島の市街地は小さな入り江を成していて三方は山域に囲まれている、そこに築港が拓かれたようである。 その小さな市街地のほぼ中心にコンモリした小山が見えている、どうやら宇和島城は海岸べりに築城した山城のようである。 車に給油しながらお城の様子を伺うと、宇和島城は標高80mの丘に築かれたお城で、石段を登って見物するには小一時間くらいかかるらしい。 夕刻せまり、この先、松山・道後までの道程を思うと、お城見物は断念せざるをえない。 お城は、秀美華麗な現存天守で、姫路城の大天守をひとまわり小さくした感じともいわれる。 「宇和島城」が築かれたのは、関が原の合戦が終了した1601年、当時の領主であり、築城の名手と言われた藤堂高虎(三重県・津市の項で記載あり)の手によるもの。 その後、1614年には奥州の雄・伊達正宗の長子・伊達 秀宗が宇和島の領主となり、二代目藩主伊達宗利の時代に現在の天守閣が築かれている。 秀宗は、豊臣秀吉のもとで元服し、秀吉からの一字と父の字を賜って秀宗と名乗っている。 政宗の長男であったが、わけ合って仙台藩を継がず、徳川家康から関が原参陣の功として伊予宇和島十万石を継ぐこととなり、南海の地に伊達の別家を起こすことになった。 東北の雄とはいいながら、四国の果てまで流れて着たのは前例が無いだろう。 江戸末期から明治期、伊達氏八代藩主・伊達宗城(むねなり)は福井の松平春嶽、土佐の山内容堂とともに幕末の三名君に数えられている。 宗城は三人の中でも最も先見の目があった人物とされ、薩摩の島津斉彬(なりあきら)と並んで西洋事情を取り入れ、地元の近代化に着目、実施したとして知られる。 開化後は、民部卿兼大蔵卿となり鉄道敷設などに尽力、明治4年には天津で日清修好条規に調印するなど、明治維新後の活躍も目覚しいものがあったという。 四国三県、阿波の蜂須賀家、土佐の山内家、伊予の伊達家と戦国時代の各大名が関が原以降、いずれも当時、徳川の外様大名として四国を領有しているのは面白い。 因みに、讃岐・高松は当初は豊臣・生駒家であったが、すぐに、譜代の徳川・松平家が赴任している。 次回は、宇和島・和霊神社 【小生の主な旅のリンク集】
《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観 ハワイ旅行2007 九州旅行2008 沖縄旅行2008 東北紀行 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 北ア・槍−穂高(1968年) 上高地・明神(2008年) 上高地-岳沢-穂高(1979年) 南ア・北岳(1969年) 八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972年)
《山のエッセイ》 「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」 《スキー履歴》 「スキー履歴」 . .
.. |
|
.
日本周遊紀行(75)愛南 「平成の大合併」 ,
写真:第40番霊場「観自在寺」 愛媛の愛南町という名称は納得であるが、もしかして・・、 国道321号は、ここ宿毛で終点となり、以降は中村(四万十市)から延びてきた国道56号線と合流し乗り入れることになる。 R56号線は高知から到って、松山を結ぶ凡そ300kmの道程である。 松山方面へは、先ずは山中を行くようになるが、一本松の峠トンネルを抜けると高知県から愛媛県へ入ったことになる。 一本松町であるが、実際は新町名「愛南町」というそうで 2004年10月に周辺の4町1村、一本松町、御荘町、城辺町、西海町、内海村が合併して「愛南町」が発足している。 旧一本松町の山中から幾つかのトンネルを抜ける、眼下には土佐とは明らかに違う穏やかな宇和海が広がっている。宿場町といった風情を感じさせる豊田を抜けると御荘町へ出る、清らかな流れの僧都川の北側を行くと、右手にサッカーや高校野球で有名な「南宇和高校」の立派な校舎が目に入った。 間もなく第40番霊場「観自在寺」の山門前に来た。 40番とはいっても伊予・愛媛県の「菩堤の道場」としては第1番目に当たる。 石段を上り山門をくぐると境内 左手に石の多宝塔が見る。正面にはチョットさえないコンクリート造りの本堂、その右手に大師堂が建つ。境内には、十二支を刻んだ石仏が並ぶ。 本尊は衆生の疾病を治癒し、寿命を延ばすと云われる「薬師如来」で、御堂には大師が一木に彫ったという本尊・薬師如来、脇仏に阿弥陀如来、十一面観世音の三体、残りの霊木で舟形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた尊像が安置されているという。 これを「宝判」といい、大師が諸人の病根を除くことを祈願したものといわれ、現在も、この宝判でお陰を受けた人が万病を癒し、特に多く盲目や心臓病が治ったという。 平安初期、平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願所として天皇の名に因んで平城山・観自在寺とした。 その後、度々天皇勅使が度々参詣したという。 チョッと変わったところで境内に「栄かえるの石像」があり、石碑に次のように書いてあった。「親・子・孫と三かえる」、「お金かえる」、「福がかえる」、「病気が引き(ひき)かえる」・・と 御荘の街は、比叡山延暦寺ゆかりの荘園であったことから、この地方を御を付けて御荘町(みしょう)と名付けたという。 この先には広大な「御荘公園」があり、一角に珍しい往時の戦闘機「紫電改」が展示してあった。 1979年、付近の久良湾(西海半島の南)の海底で一機の「紫電改」が発見され引き揚げられたという。 大戦中の1945年7月に豊後水道上空で交戦した未帰還機6機の内1機とみられて、機体は回収後に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実戦機として御荘町の公園に保存・展示されているものという。 「紫電改」(しでんかい)とは、局地戦闘機、紫電(しでん)改良型であることから命名された。局地戦闘機、即ち迎撃戦闘機として、太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。因みに、迎撃に対して攻撃型の戦闘機は零式艦上戦闘機・略して「零戦」といい、日本海軍の主力戦闘機・艦上戦闘機として、日中戦争の途中から太平洋戦争の終わりまで戦い続けた。太平洋戦争初期に連合国の戦闘機を駆逐したことから、主交戦国アメリカから「ゼロファイター」の名で恐れられた。昭和20年3月、呉軍港を襲った米海軍機動部隊のグラマン F6Fヘルキャット戦闘機を主力とする艦上機の大編隊(合計で350機以上と言われる)を、紫電改56機、紫電7機の計63機で迎撃、戦闘機48機・爆撃機4機の合計52機を撃墜し、日本海軍戦闘機隊の有終の美を飾ったというのは、結構、有名な話らしい。 公園の一端に、御荘湾をひとまたぎする海上ロープウェイが、西海半島付け根の山頂まで達している、海上を跨ぐロープウェイも珍しい。 御荘湾は、西海半島を挟んで深い入り江が複雑な形で宇和海へ延びていて、天然良好な港を形成している。 南宇和海のこのあたりは、実に自然豊かな景観を成しているのである。 国道56の宿毛街道を北上する。 津島町に入ったように思えたが、実は平成17年8月1日に、宇和島市・吉田町・三間町・津島町が合併して新しい「宇和島市」が誕生している。 又々、「平成の大合併」について、 先の愛南町といい、新しい宇和島市といい、四国南部の地域も合併が盛んに進んでいるようである。 現今、全国的に「平成の大合併」の時代を迎えていて、全国の市町村は合併によりその姿を大きく変わろうとしている。 現在、小生は全国を周遊している旅の途中であり、その都度、地域々々でカーナビや地図を頼りに巡っている。 それは何れも旧態の地域名なっていて地元に足を踏み入れて、はじめて地域名が変わったのに気がつき困惑してしまう。 又、そのまま気がつかずに通過してしまうときもあり、帰ってきた後、いざ記録を纏める段になって気が付くときもある。 はたまた、そのまま気ずかずに旧来の町村名を本文に記載しているかもしれない。そのような事態は是非ともご容赦願いたい。 序ながら今回の合併について述べておこう。合併には「合併特例法」という法律があって、色々な優遇措置が設けられている。 1: 合併特例債(合併に役立つ事柄について借金すれば、国が利息や元本を7割までもってくれる) 2: 地方交付税の特例(合併しても今までの市町村の状態での計算方法で地方交付税を算定する) 3: 合併により人口3万人以上となった場合、無条件に「市」になれる、普段は人口が5万人いないと「市」になれない。 一方、いわゆる小泉政権・政策のうち今、「三位一体改革」を進めている。 三位一体(さんみいったい)とは、元々、キリスト教の意味合いからきた言葉で、一般には、三つの要素が互いに結びついていて、本質においては一つであるという意味合いである。 今、政治で言われている三位一体とは、「国庫支出金を減らす」、「税源を地方に移譲する」、そして「地方交付税を見直す」、これらが一体になった地方分権化を勧めるのであり、このため国は地方の合併を勧めているわけである。 元より各地域は、次第に地方交付税が削減され、弱小自治体の財政が逼迫する状況もあって全国津々浦々、合併論議が花盛りとなっている。勿論、合併は直前で破談になることもある。 「合併」には大きく分けて、「編入合併」と「新設合併」がある。 「編入合併」は、いわば会社の吸収合併のようなもので、ある自治体の中に他の自治体が取り込まれる形態を言いう。この場合は、大きな自治体は領域だけ広がり、小さな編入される自治体は姿を消すことになる、「新宇和島市」はこの例であろう。 「新設合併」は、いわば対等合併のようなもので、合併する自治体は全て、いったん消滅し、同時に新しい自治体が立ち上がるという形式になる。「愛南町」がこれに相当すると思われる。 又、一方昨今では、国から地方へ権限を委譲する手段に、もう一つの大きな目標である「道州制」がある。小泉内閣の片隅で話題になっているらしく、首相の諮問機関である「地方制度調査会」というのがあって、これらの機関が北海道をモデルに調査研究し、内閣に答申して国会にまで提出しようとしている・・?。 今の「地方」と呼ばれる九州や中国、四国が、九州道、中国・四国道と言われるようになるヤも知れないのである。四国の由来でも述べたが、この際に「愛媛」という愛着ある名称が、もしかしたら消えるかもしれない・・! 次回、更に「愛媛」について、
.
|
||||||||||||
|
伊予三島と駿河三島の両神社は兄弟神であるが、行政地域として縁は内容だ・・? |



