『日本周遊紀行』

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明治期、日露戦争を勝利に導いた「秋山兄弟」・・、

小生が数年前、病床において(大腸ガン)読破した司馬遼太郎の大著に「坂の上の雲」がある。明治期の日露戦争の名将・名参謀である秋山兄弟と歌人・正岡子規を軸に、四国・松山出身の三人の男達の友情と国家存亡の一大叙事詩である。 
日露戦争のおいてロシアの名高いコサック騎兵を破った秋山好古(あきやま・よしふる)、日本海海戦の参謀秋山真之(あきやま・さねゆき)兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、明治の群像を描いている。この陸海軍に分かれた二人の兄弟が、まだ当時東洋の一小国であった日本を、亡国の悲運から救ったと言っても過言ではない。弟の真之と子規とは、東京の下宿の一室で起居を共にした程の親交であった。

秋山兄弟は、松山藩士の子として松山市歩行町2丁目に生まれている。
兄・好古は日露戦争の「黒溝台の戦い」では30kmにも及ぶ最左翼を守備し、僅か八千の兵で十万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。 コサック騎馬隊は単銃なのに対し、好古の申し出によって日本陸軍で初めて機関砲(騎兵砲)が配備され、この戦いで大活躍をした。 
好古は、身だしなみには全く無頓着で、下着もろくに着替えず、天気の良い日にはよくシラミ退治をしていたという。しかし、時計の様な几帳面な面もあり、晩年、中学校の校長時代には毎日、馬で登校し、一日も欠勤や遅刻をせず、きっかり二十分前には出勤するので、沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であったという。後の陸軍大将、勲一等章
弟・真之は正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊し、俳句や和歌なども学び、文学的才能にも秀でていたという。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節に、『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』や、Z旗(国際信号旗の一つ)の信号文の『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』は参謀・真之の有名な一節であり、子規より得た文学的才能が開花した名文として歴史に残った。
兄同様、身なりなどを気にしない性格であったが、日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における東郷平八郎の訓示(連合艦隊解散の訓示)の草稿を秋山が作成し、この文章に感動した時の米大統領ルーズベルトは、全文英訳させて米国海軍に頒布したともいわれる。東郷平八郎は、真之を「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と評価した、海軍中将。

日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から、今年(2005年)は100周年に当たる、奇しくも五月であった。日本海軍の旗艦であり、司令長官・東郷平八郎、参謀・秋山真之が乗った戦艦「三笠」の等身大のレプリカが神奈川県・横須賀港の三笠公園に停泊している。(横須賀の項で記述あり)
松山市は、「日露戦争100周年」、「21世紀の新しい町造り」として、司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」をモチーフした「坂の上の雲・まちづくりチーム」を発足させたという。正岡子規と秋山兄弟の三人の生き方を通して訴えている「夢」や「理想」や「目標」を持って、前向きに行動していく素晴らしさを市民みんなで共有し、「松山らしさ」を演出し、その情報を全国に発信にすることにしている。
内容は、「坂の上の雲・記念館」(建築構想)を中核施設として、松山全域を一つのフィールドミュージアムとし、主人公にまつわる事物を探索・発見・収集・再現しようととするものという。
又、、NHKは平成19年度(2007年度)以降の放送に向け、司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」を原作として、21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」の制作を開始している。 放送は、平成21年度 (2009年度)に、総合テレビやハイビジョンなどで1回・75分の枠で、20回程度を予定するらしい。
 

道後を辞して、一旦、松山市内へ向かう。
市街の中心に緑豊かなお椀を伏せたような小高い丘がある、丘といっても標高130m程度であるから小山といったほうがよい、山の名前は「勝山」というらしい。 その山頂に、華麗な天守閣が見えている、松山城である。 松山という地名は、秀吉の頃(戦国期)、賤ヶ岳の合戦で有名な七本槍の一人・加藤嘉明が拝領し、お城と城下町を築いたときに周辺地域の赤松の見事さに感嘆し、城下周辺一帯を「松山」と名付けたという。
正岡子規や夏目漱石が居た頃は、町並みと松並とが調和して美しかったに違いないが、今の街にその面影は無い、緑の松山は、勝山だけになってしまった感もある。 
子規がこの故郷の町に帰ったとき城山に登って・・、

『 春や昔 十五万石の 城下かな 』  
と、のびやかに詠っている。

この山上、中腹、麓からなる城構えを平山城と呼び、姫路城、和歌山城とともに松山城は日本三大連立式平山城と称され、我が国最後の完全な城郭建築といわれる。
松山城の創設者は加藤嘉明である。 
初め伊予・松前六万石の城主であったが、「文禄・慶長の役」(豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮を侵略した戦争)等の活躍により10万石に加増された。  1600年の「関が原の戦い」の戦功により伊予半国20万石に加増された嘉明は、初めて「松山」と雅称し、松山城の築城にかかる。
堅固にして壮麗な連立式五層天守の松山城がほぼ完成したのは、26年を過ぎた後のことであった。 ところが嘉明はその完成を喜ぶ暇もなく、同年、奥羽の要の会津若松(福島県)40万石に転封されている。 永い歳月を費やした一大牙城を、いくら倍の会津40万石への栄転にしても、完成直前(9割以上)の城を後にしなければならなかった加藤嘉明・主従の心境はいかばかりであったろうか・・ ?。 入れ替わりに名将・蒲生氏郷の孫・忠知が入城している。 蒲生氏は、奥州藤原氏の系統に属する鎌倉時代からの名門であり、奇しくも戦国期の雄・蒲生氏郷自身は以前、30数年間会津藩主であった、これも因縁であろうか・・?。

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                写真:正岡 子規の旅姿


余りにも有名な、 『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』 
松山出身の正岡子規の句である。   
本館の至近、湯築城址でもある道後公園の緑が映える。湯築城(ゆずきじょう)は、中世、松山を拓いた河野氏が築城し、当時は松山の中心でもあった。今では公園になっていて道際に、「子規記念博物館」があった。
子規は慶応3年、松山市花園町3番地(松山市駅から徒歩3分位、現在は石碑のみで生家は“子規堂”に移る)に生をうけている。
俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である。 中でも舶来したばかりの「野球」に心底熱中したことは先に記したが、尚且つ、旅に遊んだ・・。 
子規の徒然の旅の途中、奈良路では・・、
 
『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』
は誰でも知ってる子規の代表的な句である。
鎌倉路での・・、
  
『 大佛の うつらうつらと 春日より 』
も良い。

14、5歳の頃から機会あるごとに未知の自然風土や古跡に接して詩情を養い、見聞をひろめたという。 明治の頃、鉄道がようやく普及しはじめた頃、東北・陸奥の「芭蕉」の足跡を訪ねている。 芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規はいとも気楽だった・・!、
  
『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』
・・、と芭蕉顔負けの秋田まで脚をのばしている。 
この時に、芭蕉の『奥の細道』にちなんだ「はて知らずの記」を残している。 紀行文集の一編に「旅の旅の旅」というのもあり、日本周遊を終えた今、こうしてペン・・?をとっている小生には一端(ひとは)通じるのを感じる。
子規は、35歳の若さでこの世を去っている。
辞世の句、絶句になった・・、

『 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな 』 辞世の句、享年34。

この句は、自分の死を既に仏に成るまで達観し、冷静に見詰めている。
子規の忌日の9月19日を(1902・明治35年)「糸瓜(へちま)忌」としている、これは「秋の季語」でもある。 又、子規自身、自分のことを「獺祭亭主人」と号していたから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。 獺(かわうそ)は獲物を集め、巣の周りにたくさん並べて置いておく、それを称して「獺祭」といい、子規の生きようとする意欲が食へのこだわりにつながり、看病する母や妹が枕元へ常に食物を並べて置いていたという。

子規は、死を迎えるまでの約7年前から結核を患っていたという。
病床の中から「病床六尺」を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録であると評される。 反面、闘病日記である「仰臥慢録」は、読む人をして、心が痛んで、とてもまともには読めないともいわれる。
本名・常規(つねのり)であるが、雅号の「子規」とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。 そのとおり子規の文学は、その病と切っても切り離せないものであった。
子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の、鎌倉旅行の最中であったといい、医師に肺結核と診断される。 当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なくなり、この時、子規は「ホトトギス」の句を作り、はじめて自分を「子規」と号するようになった。

『 新年や 鶯鳴いて ホトトギス 』
ホトトギスは、カッコウとも呼ばれ杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑などカッコウ科に分類される鳥である。 特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵(たくらん)して育ててもらう習性で知られている。托卵とは、ある鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛させることで、仮親の卵より早く孵化し、本親の卵を巣外に排除してしまうという、特殊な習性をもつ。
俳諧雑誌「ほととぎす」は明治30年(1897)、正岡子規の友人・柳原極堂の手により刊行された。発行部数は当初は300部程度であったが、出版が東京に移ってからは読者は全国に拡がり、名実共に日本俳句派の機関紙となった。 和歌や新体詩が入り、幅広い文芸誌となり、38年からは夏目漱石の小説「吾輩は猫である」を掲載、これが大変な人気となって文芸誌としての道を歩んでいく。 「坊っちゃん」も、「ホトトギス」が初出版している。
子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった、1895年3月3日、新橋をたち中国の大連に向っている。 新橋からの出発に先立ち・・、

『 雛もなし 男ばかりの 桃の宿 』
と詠んでいる。
むろんこの日は3月3日で桃の節句だった。それなのに別れを惜しんでくれる女性もいないとスネているのである、だが心中、戦地に赴く「心意気」も感じられる。 しかし、中号・大連に着いた頃は、既に事実上の戦争は終わっていたのである。 帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院して須磨で保養した後、松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友「夏目漱石」の下宿でしばらく静養していたという。

序ながら、俳人・正岡子規は幼少時代から「秋山真之」とは親友であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊、和歌や俳句などを教えたともいう。その影響からか、秋山は軍人ながら名文家としても知られており、後に「秋山文学」と称せられるほどの文章家であったという。
秋山兄弟と正岡子規の物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で日露戦争を背景として描かれている。

次回は、その「秋山兄弟」について・・、

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        写真:伊予随一の石手寺本堂と「マントラ洞」入場門



『 伊予の秋 石手の寺の 香盤に 
         海のいろして 立つ煙かな 』  与謝野晶子

小一時間、本館の由緒ある温泉に入浴し、施設、周辺を見学して退出した。
奥道後のNTT保養所「拓泉荘」へ戻り、宿の朝食を格別美味しく戴いて、改めて本日の行程へと出発する。
先ず、本館のすぐ近く、昨日も今朝も門前を通過しながら車中より一見しただけの第五十一番霊場・「石手寺」である。 入り口に大きな御影石に刻印された石柱に「熊野山・石手寺」とあった。小川に架かる小さな狐狸橋を渡ると両側に、未だ開店前の土産物屋などが軒を並 べている。 参道を進むと荘厳な堂々たる仁王門(国宝)が建ち、巨大な「わらじ」が通路の両脇に置かれてあり、その横に霊場巡りのお遍路さんであろうか、願掛けの小草鞋が多数吊るしてあった。
この門は鎌倉時代の造営で、両側内の仁王像・金剛力士像(阿ア形像、吽ン形像)は同時代の代表的彫刻家・運慶の作といわれ、これはもう完全に国宝クラスの像物である。 門をくぐると右手に均整のとれた華麗な三重塔がそびえ、それと 並んで鐘楼が建っている。 この鐘楼前の歌碑(冒頭)は道後を訪れた時「与謝野晶子」が詠ったものという。 正面一段高いところに緑に囲まれて本堂があり、並んで大師堂が建っていた。
今も尚、四国霊場第五十一番の札所では伊予地方随一の名刹として松山地方の大師信仰の中心であり霊験あらたかなところから、善男善女の参詣は後をたたないという。建造物の大半は国宝、重要文化財となっており、四国霊場の中でも由緒ある寺の代表的な一つである。又、小高い山の上に一際大きな弘法大師像が立つ、それは像体は中国を、顔はインドを向いているともいわれる。
地元出身の正岡子規もお堂の多さに・・、

『石手寺や 何堂彼堂 弥勒堂』と詠んでいる。

この寺は、聖武天皇(奈良初期)、伊予国司・「越智玉純」(おちたまずみ)が天皇の勅願を受け、鎮護国家の為に伽藍を創建して、はじめ「安養寺」として名を付けた古寺であったという。寺院境域は66000平方メートルという広大な敷地を持つ。奈良中期に、「衛門三郎」と弘法大師の縁起から「石手寺」と名を変えたという。 

この衛門三郎こそ、「元祖、四国巡礼者」であったと云われる。 
ある日、伊予の住人「衛門三郎」が、托鉢(修行僧が、各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けてまわること。乞食・コツジキ)で訪れた大師に向って「帰れ、このくそ坊主・・」と悪行をなした。すると忽ち一家は破滅的天罰が下り、その原因が托鉢の僧にあったことを知る。三郎は大師に一目会って懺悔すべく旅立ち、伊予から讃岐へ、更に阿波、土佐を経て大師の後を追い、四国の道を二十周して力尽き、息をひきとる間際、大師に会うことが出来たという。大師は懺悔を聞きながら手に石を握らせた。 次の年、伊予国司、河野家に「左手に石を握った男子」が誕生し、安養寺の住職は「衛門三郎の再来」として、寺の名を「石手寺」と改めたという。 衛門三郎の善行を聞いた人々が、四国を巡る遍路に出るようになったともいわれる。
遍路行者達は、古刹・名刹に巡拝し心を清め、更に、名湯道後で身体を洗い流して明日への活力としたのであろう。

『 西方を よそとは見まじ 安養の 
         寺に詣りて 受くる十楽 』  御詠歌

・、と石手寺の本堂前に展開する華麗な建築物は謂わば、大師の教えを貫く精神世界である、表の顔という人もいる。ところが、この石手寺は珍しく別な顔を持つもう一つの世界があるという。本堂裏手にある「マントラ洞」というのがそれで、怪しげな部分を代表するシロモノは「裏の顔、常ならざる陰の世界」とも云える世界を演出している。
先ず、入口は「曼荼羅」として木造の普通の門に相当する造りであるが、周辺の飾り物はイカにも奇妙な代物なのである。曼荼羅とは、本質を有するものの意で、特に仏界では悟りの世界を象徴するものとされる。 この奥に洞窟があって異次元の空間が広がっている。その洞窟も幾つかあって「都卒天洞」(とそつてんどう)、「地底マントラ」、「大仙窟」等の名称がついていて、これらは人間の苦しみ、人間のむごさ、人間の痛みなどの苦しい人生模様を現しているともいわれる。
本堂前の華麗な世界は、精神が昇華する願いを込めた世界であり、一種、願望と理想を描いているが、反面、裏の洞窟に広がる暗欝な世界は、現実的な不屈の精神界を表現しているようでもある。「この苦しみに負けず、生きるものは幸福へと進もう」とする不屈の呼びかけであろうか。
石手寺は、二つの世界が体験出来るのである・・!!。

次回は、「正岡子規」

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            写真:道後温泉本館と浴槽・「道後温泉本館」



「道後温泉・本館」はやはり日本一の公衆浴場であった・・、

華やかな道後温泉から車で,約15分ほど山あいに入った所に道後の奥座敷・奥道後温泉があり、この山ふところに抱かれた静寂の地にNTTの奥道後保養所「拓泉荘」(があった。
宿へ着くなり、先ずは湯に浸かるのが慣わしである。
お湯は、奥道後の源泉らしく、肌ざわりの良いツルツルしたお湯である。浴槽の縁(ふち)に木の枕があり寝湯を楽しめるようになっている。慌しかった今日一日の心労を、この瞬間に垢と一緒に洗い流す、至福の一時である。泉質はアルカリ性単純硫黄泉で、かすかに硫化水素臭が感じられ。泉温・42度 、効能・神経痛・関節リウマチ・痛風・貧血など・・。源泉は当館地下800mから湧き出ている豊富な湯量で、道後温泉よりも良質であるといわれる。 聞くところ、すぐ近くに巨大な温泉レジャーランドと称するホテル奥道後があって、なんと500円でジャングル温泉など、温泉三昧で一日遊べるらしい。暇があれば覗くんだったけど・・。

今朝は、よく整頓された小奇麗な部屋のフカフカ布団で眼が覚めた。今日も窓から差し込む明かりは良天気が約束されたようで、時計の針は午前5時半を指している。 未だ、睡気が覚めやらぬまま、着替えもせずに浴衣のまま「道後温泉本館」へ向かう。本日最初の目標、早朝の本館入湯にで出かけるのである。
本館は未だ6時だというのに、浴衣着の浴客で既に賑わっている、中には記念写真組も・・。
外観は圧倒的な和風建築で道後温泉のシンボルに相応しく、木造三層楼の風格のある建物で屋上に振鷺閣(しんろかく:ギヤマンを張り巡らせた太鼓楼があり、朝に夕に時を告げる刻太鼓が温泉情緒を漂わせている)というのが取り付けられている。明治27年に建築され、共同浴場としては初めて国の重要文化財に指定されている。
“道後温泉”と刻んだ由緒ありそうな看板を潜り、入湯料300円を払って入場する。 広い桧板張りの更衣室で、ガラスの引き戸を隔てた浴室は明るく広々している。浴槽は、御影石て造られ特徴的な湯釜から給湯されている。 浴槽は大きく20〜30人程入れる大きさであるが、もう既に満員状態であった。小生と同じく観光記念客が殆どであろう。男風呂には「神の湯」という浴室が二ヶ所(東室、西室)あり、同じ大きさであるが、壁飾りの陶板焼壁画が異なる。 女湯は、楕円形の浴槽が一つあるのみらしい。 48℃の源泉は無色透明、無味無臭の綺麗な湯で松山市で一括管理され、適温で配湯されているらしい。
早朝、人いきれのなかで、ゆったり手足を伸ばして名湯に浸かるのは、実に良い気分である。睡気を洗い流し、身も心もスッキリさせて今日一日の活力を生む。

この温泉本館は夏目漱石が松山を舞台にした自伝的小説「坊ちゃん」でもお馴染みである。この浴室、浴槽で、主人公で数学教師の坊ちゃんが泳いだことで、生徒に見つかり、冷やかされ、悶着を起こした・・という下りがある。
夏目 漱石は、「吾輩は猫である」、「こころ」などの作品で広く知られ、森鴎外と並ぶ明治時代の文豪である。 東京帝国大学時代に、ここ松山出身の正岡子規と出会い、子規は同窓生であった漱石に多大な文学的、人間的影響を与えたという。この時期に、初めて「漱石」という号を表した。漱石28歳の時、子規の推薦があったかどうか定かでないが、松山の松山中学(現、松山東高校)に教師として転勤赴任している。「坊ちゃん」の主人公は漱石自身とされているが、教頭の「赤シャツ」だとする説もある。 写真の容貌から察すると、「赤シャツ」似かな・・?。
文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任したのは、本館の完成した翌年のことである。 漱石はその建築に感嘆し、手紙や、後の彼の作品「坊っちゃん」の中で「温泉だけは立派だ」と絶賛している。 実際に、頻繁に通ったともいう。手紙によれば、八銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また三階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである。小説の中では「住田」の温泉として登場する。あまりにもこの印象が強いため、本館は別名、「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。
余談だが、松山市内を走るチンチン電車(路面電車・伊予鉄道)に、今、「坊っちゃん列車」とやらが走っているという。 明治期の模擬SLが牽引しているミニ列車のことで、小説「坊っちゃん」の中で、軽便鉄道時代の伊予鉄道が「マッチ箱のような汽車」として登場しており、四国・松山中学に赴任する坊っちゃんがこれに乗ったことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになったという。

湯上りに様子を伺いながら・・?、浴室内の様子をカメラに収めることにした、「スンマセン・・写真一枚撮らせてください」、「オ・・、イイヨ・・」と気兼ねのない返事が返ってきたので早速、パチリ・・!。 途端に係員の女性に見つかって「写真は遠慮してください・・!」、「スンマセン・・」当り前である、非常識である、判ってます・・はい・・!!。 湯上り散歩に館内をぶらつく・・、中央廊下の突き当たりから階段を上がると、二階には大きく仕切られた大広間の休憩所があり、更に三階には、老舗の旅館の客間を思わすような落ち着いた雰囲気の部屋休憩所がある。さらに奥まったところは「坊っちゃんの間」というのがあって、夏目漱石ゆかりの記念の部屋らしい。
館(やかた)を出て建物を一周してみる。城郭式の木造建築で、裏側という俗っぽい概念は無いらしく、四方が、それなりに意味をもった造りになっていた。 華やかな本館正面から見ると、左に今入浴した三層の神の湯、右手に二層の洒落た造りの棟があり、大小の建物が連結されている。 反対側(東側)から見えるのは、三段屋根がある「又新殿」という皇族専用の浴場及び部屋で、やはり格式のある造りになっていて、明治中期に完成したものとか。この皇室用の各間は、さすがに優雅な造りで「武者隠しの間」などの特別仕立ての部屋も在り、明治から昭和まで皇族の御入浴は十回程あったという。 北側の一階にある三つの入口は、往時当初の出入り口だという、振鷺閣の上で羽を広げるシラサギも、北を向いている。
 
「古事記」や「万葉集」にも登場し、3000年の歴史を誇る日本最古の道後温泉は、日本三古湯の一つとされる。  神話の時代、古事記に大国主命(オオクニヌシノミコト・大地創造の神)と少彦名命(スクナヒコノミコト・大国主と協力した国土の神)が出雲の国から伊予の国へと旅して、当温泉に浸たったと記されてる。 聖徳太子が病気療養のため道後温泉に滞在したのをはじめ、奈良期には天皇や多くの皇族方が行幸したとされてる。
因みに、「道後」の名の由来は国府が伊予国(現在の今治市)に置かれた頃、京から見て国府よりも遠い地域を「道後」(道前、道中)と呼び、名残が道後及び道後温泉の名前の起こりとされている。
因みに、日本三古湯は一般的には、道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)と言われ、何れも今回の周遊で立ち寄って来た温泉である。小生の田舎(実家)の「いわき湯本温泉」(福島県浜通り地方)も古く、奈良時代には開湯されてて道後、有馬とともに三古湯とされる場合もある。 いずれも神話の時代からの長い歴史を有する温泉である。
市街地に広がる温泉街は、例によって巨大なホテルや旅館が並ぶが、一方、古き良き湯の町の情緒も、そこそこに感じられ残っている。
駅前には新名所として、本館100周年を記念して造られたという人気のスポット、「坊ちゃんカラクリ時計」がある。1時間毎に漱石の小説「坊ちゃん」に登場する人物をモチーフした人達がユーモラスに登場し踊りだすという。

次回は、五十一番霊場・「石手寺」

伊予松山に野球王国を作り上げた大元は、「正岡子規」であった・・、

松山道は、松山市の南端で西よりへ向かい、瀬戸内の西条市からさらに高松へ延びている。
松山ICより、待望の松山市内へ入ったようであり、一旦、国道33号線へ出る。この国道は土佐の高知から内陸部を通って松山に到るもので、松山側からは「土佐街道」、高知側からは「松山街道」と称しているようである。 次に、松山のほぼ市街に入ったところで、国道11号線と合流する。こちらは阿波の徳島を起点として讃岐の高松を経て、伊予小松と、ほぼ瀬戸内沿岸から松山に達している。通称、松山側で「伊予小松街道」、この先を「讃岐街道」と言っているようだ。
小生、20代後半、仕事で瀬戸内の直島(岡山県玉野市のすぐ前にありながら四国・香川県所属=香川郡直島町)で半年間、出張勤務してた時期があった。作業勤務が終了して、本社(東京)へ戻るとき、休暇をとって四国の主要都市を巡る一周の旅をしたのが、この二つの国道ルートであった。
松山市街は夕刻時でもあろうか、車の往来も激しく、人の行き来も気ぜわしく感じる。 しかし、首都・東京周辺の気違いじみた渋滞や喧騒は無く、やはり、田舎の都会なんだなあ・・、と実感する。 石手川の立派な橋を渡って間もなく、都会の真中に「松山商高」があるのに気がついた。 四国は高校野球が盛んで全国的にもレベルが高い、愛媛県はその筆頭だろう。その中で松山商高は歴史、伝統ともに抜きん出ていることは、高校野球ファンならずとも大衆が認めるところであろう。
 
高校野球ファンの小生には、この松商の試合で強烈に印象に残っているのが二試合ある 。一つは昭和44年・夏の大会決勝戦の試合である。この時は小生、勤務を早引きして近所の公民館でテレビ拝見した時の事である。相手は青森県・三沢高校である、通のファンなら「ああ、やっぱりあの試合か・・」と思うに違いない。
優勝経験が豊富な甲子園常連の伝統校と、本州最北端の文字どおりの田舎チーム。 戦前からこのような試合展開を予想した人がいただろうか。 松商といえば、全国2,500余校の野球部が目標とするには申し分のない、日本高野連も太鼓判を押す模範校である。 一方、青森県東方・田舎の都市の代表・三沢高校は、高校野球不毛の地として定着していた。陸奥から突然変異的に現れたポッと出の無名チーム、ハナから勝負にならないだろうと思う人がいても無理はない。
投手は、松商・井上明、三沢・大田幸司。 試合は両投手とも好投して0対0のまま譲らず、遂に延長15回を迎える。 松商は、無得点で、その裏、三沢の攻撃である。 今まさに、この田舎チームは伝統的な日本野球そのものみたいな松山商業に対してとんでもないことをしでかそうとしていた。 それは、陸奥(みちのく)の人々の誰もが見た「全国高校野球の頂点」という夢に、史上最も近づいた瞬間であった。
先ず、5番菊池からの攻撃。粘った菊池が5球目を左前に運んで出塁。 6番高田は2球目を三塁前にバント、三塁手谷岡が猛然とダッシュしてくる、これを名手谷岡がジャックルして一塁も二塁もオールセーフだ!両軍を通じてこの試合初めてのエラーが、何と鉄壁の守りを誇る松山商業に出て、無死一二塁である。 三沢高校はサヨナラの走者を得点圏(2塁上)に置いてなおノーアウト。 7番谷川は、プレッシャーの中で初球のバントを失敗し、続く2球目を投手前へバント。 井上が猛ダッシュして一塁に送球、アウトで見事送りバントが成功・・!、松山商業は1死二三塁という重大なピンチに立たされた。 8番滝上、9番立花は今日ノーヒットで当たりが出ていないのでスクイズも十分考えられる。 球場全体が異様なムードに包まれる中、滝上への初球、井上は外角に外してボール。 松山商業の一色監督はバッテリーに敬遠策を指示したようで、滝上は敬遠の四球を選ぶ、これで1死満塁・・!、9番立花が打席に入る。 井上−大森バッテリーはスクイズを警戒しながら、立花への初球、さらに2球目も、外し気味に流れる外角のカーブで0−2。 三塁側アルプスの三沢高校応援団は大歓声だ。 井上は暫し間をおいて、立花に対してカーブを続けた0−2からの3球目は直球、コースは決まらずストライクを取りに行った球が内角高めに外れるボールだ。
その瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。1死満塁、カウントは0−3!大変なことになった。井上が絶体絶命の危機に立たされ、3球続けてストライクを投げないと押し出し!無常にもこの試合は終了し、陸奥の地に初めて深紅の大優勝旗が渡る、その瞬間が迫っているのである。 
小生もこの瞬間を固唾お呑み、手に汗を滲ませながら食い入っていた、気がつくと、TVの前は初め数人であったが、いつの間にか黒山になっている。公民館の職員も、はたまた近所の勤め人も、一時仕事を放り投げて、この場所に詰め掛けたのだろう。
小生も東北出身(福島県・いわき市)のはしくれであり、深紅の優勝旗が白河の関を越えることは、東北、北海道人にとって永年の悲願であった。今だから書けるが、小生の出身母校である磐城高校は、この年の来々年の昭和46年、第53回夏季大会の決勝戦で神奈川県・桐蔭学園に1対0で敗れ、悔しくも、惜しくも優勝を逃しているのである。その後も、宮城の仙台育英、東北高校が夏の決勝戦に臨んだが、いずれも敗退している。
さて、こうなった以上、決着はついただろう、この様子を見守る誰もが、そう信じたに違いない。どうする!井上・・!!、 後日談だが、松商ナインは0−3になった時点で負けを覚悟したという、しかし井上は違ったらしい。 4球目、渾身で投げた球は真ん中低めのストライクで1−3。 問題の5球目は更にドロンとした低めの真ん中である、この瞬間、我々傍(はた)では、「よし、決まった」・・と思ったに違いない、打席の立花も、背番号10の主将で三塁コーチャーをしていた河村も低いと思ったはずだ。 「やった!」三沢ベンチに座っていた太田が腰を浮かせた次の瞬間、ひと呼吸おいて郷司球審が右手を上げてストライク・・!、球場内の至るところから「アーッ!エーッ」」という歓声とも悲鳴とも聞こえる声が上がった。 この時、試合中だというのに、この判定に対する抗議の電話が全国から大会本部に殺到したという。
以下、攻守交替するまで、1球、1投、1打すさまじいドラマが連続するが、ここでは割愛する。 松山商業は絶体絶命のピンチを井上の決死の粘投で奇跡的に切り抜け、井上投手にとっては、まさに15回裏・奇跡の25球であった。試合はその後、両者得点無く延長18回終了で翌日再試合になり、結局、松商が4対2で勝ち、優勝しているのは周知である。
次には平成8年・第78回夏季・決勝戦で松商は熊本工と対戦、延長11回、やはり奇跡的とも言える粘りの試合で全国優勝をものにしているのである。

因みに、この記憶に残る大試合から実に35年後、悲願の深紅の大優勝旗は昨年(2004年)、白河の関はおろか津軽海峡を越えて、一気に北海道の地へ上陸した。東・北海道代表「駒大・苫小牧高校」が全国制覇したのだ・・!!。 くしくも、この時の相手が愛媛県代表の済美高校である。 更に驚くべきことに本年(2005年)の大会も駒大・苫小牧高が連続優勝している。
小生、2004年の秋、東日本周遊の際、全国優勝したての駒大・苫小牧高校を訪れて見た。 正門の前に立ち、大きく張られた横断幕「祝い・全国制覇・・・」を感慨深げに拝見したのが記憶に新しい。
 

さて四国、そして愛媛は野球王国と知られているのは衆知である、それはプロ野球の出身者を見ても判る。野球発祥の地・アメリカに倣って「野球殿堂」というのが有る。日本のプロ野球などで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ、また野球の発展に大きく寄与した人物に対して、その功績を称えるために創設された殿堂である。 この殿堂に現在160人が居て、その内の9人が愛媛出身であり、さらにその内の6人が松山商高の出である。
この中で目を引くのが、最近(2002年)に殿堂入りした松山出身の「正岡子規」であろう。
正岡子規については次項にも記すが、この子規は上京して野球を知り、熱中するようになった、合わせて、愛媛に野球を伝えたという。幼名は升(のぼる)、この名に因んで野(の)球(ぼーる)を野球と命名し、四球、死球、飛球、打者、走者といった、今も使っている訳語をつくり出し、定着させたという。
この正岡子規によって愛媛の野球が盛んになり、古豪・松商の存在があるとも云われる。

『 夏草や ベースボールの 人遠し 』(明治31年 子規)

松山商高のすぐ近くを走る国道11より、道後温泉へ向かう。
「勝山」という、国道同士が交差する大きな交差点より、松山の路面電車が並行するようになる。都市型の乗り物の代表格であった市電(又は、都電)も、今では交通事情によって次々と姿を消し、珍しい存在になりつつある。 明治36年開業し、東京都内を縦横に走っていた都電も完全に姿を消したようだが、北海道の札幌、函館では今でも現役で、今朝の高知でも、その姿を拝見したが。 失礼、都電は1972年以降は、荒川線(荒川区・三ノ輪橋駅から新宿区・早稲田駅、12、2km)のみは運行されている。 
市電とは市営電車の略称で、市営の路面電車のことである。ただし、市営でない路面電車のことまで市電と呼ぶこともある。この場合は市街電車・市内電車の略と思われる。松山の市電は伊予鉄道(株)という民間会社が経営する路面電車、所謂、市街電車のようである。 
松山駅前から来たのであろうか、「道後温泉」行きの市電とすれ違う、このまま路線を辿って行けば道後温泉に着くようである。 「上一万」の交差点を右に行くと、間もなく温泉地へ着いたようである。 奥まった旅館、ホテルや土産商店街が並ぶ中心に、あの夏目漱石の「坊ちゃん」で知られる「道後温泉会館」が貫禄たっぷりに在った。 周囲を、ほんの少々ブラツイテ・・、温泉会館の情報を伺うと早朝6時より営業していると聞いた。 小生の今夜の宿場は「奥道後」で、これより更に4kmほど奥まった所であり、時間も迫っているので本館入浴は明日早朝と腹に決めた。
こんもりした道後公園、子規記念館から、第51番霊場の「石手寺」の前を通り、石手川に沿って山あいを行くと、目指すNTT保養所「拓泉荘」が判りやすく在った。

次回は、松山・「道後温泉」

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