『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」  ,




寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、

若かりし頃、瀬戸内の直島で半年間仕事をしていたことは先に何度も述べたが、その頃、高松には青春の捌け口として、よく遊びに来たことがあった。 
こんな思い出多い「高松」ではあるが、今回は残念ながら寄らないで四国を離れることにする。



その前に四国・讃岐に関して最後に一筆だけ書き加えたいことがある。 
高松の南西地域、南北に細長い「大川郡寒川町」がある、「さんがわちょう」と読むらしい。

ところで話はチョッと飛ぶが・・、
小生の住む神奈川県厚木市の南隣接した所に小さな地域で「高座郡寒川町」が在る、こちらは「さむかわちょう」と称するが。 
この小さな町の中央に地域でも有名な「寒川神社」が鎮座していて、小生、家族一同は正月の初詣や何かの祈願が有るときは必ずと言っていいほど参拝をする神社である。

寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。
歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。 
祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)、寒川比女命(サムカワヒメノミコト)と兄妹神で、いずれも水の縁のある神様である。

水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河・相模川が流れる。 昔はこの相模川は、かなり大きな川幅で流れていたか、或いはもっと東の方角で流れていたかのいずれで、 この辺りは広範にわたる低地帯であったことが想像できる。 
現在の相模川に架かる馬入橋(国道1号線)より東凡そ1kmのところ、神社より南へ4kmほどのところに、鎌倉期に建造された「旧相模川架橋脚」の遺跡が発掘されている(国指定史跡)。

因みに鎌倉期創世の頃、この辺りは鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋であり、交通の要衝でもあった。この地区に源頼朝の家臣・稲毛重成が建造した相模川架橋の完成祝賀に主君・頼朝が招かれ、その帰り道、馬入川(当時は馬入川といい、現在も平塚地区では馬入川の愛称がある)のたもとで落馬し、これが元で頼朝は死去したと伝えられる。
尚この時、頼朝の乗ってた馬が驚いて川へ突入したため、川の名前が「馬入川」と自然発生的に付いたというらしい・・?。

丹沢山系を水源とする急流・相模川は、大昔は相当の暴れ河であったらしく、周辺地域に度々大水害をもたらしたという。
相州・寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様らしい。



では話を戻そう・・、

寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、
ここで、讃岐・四国の大川郡寒川町が関連登場してくるのである。 
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「 水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし 」とある。

大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命であるとして、どちらも水に関係する神様だと判る。
そして郡名は寒川としてあり、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった。

地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。 又、このあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できるのである。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい。

治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んでいる。
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く。
つまり、国家風水技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解でき、国家風水としての役目を終えた神社は、後には民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。


では相模・寒川町と讃岐・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?、
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 
古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 
房州は、古くから関西との関係が強い。因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。
そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。

又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くないのである。


ところ変わるが、神代の地・伊勢市の西隣、玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。 社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。
この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる、伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 
倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる。 だが、直後に再び田丸町に復しているという。 

御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 
寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。
地理的には、この地域は外城田川、宮川、櫛田川の上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地・水郷地帯であるようだ。
いずれも克っては水難の地相と想像できるのである。 

斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「御船神社」、「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹神を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったとも想定できるのである。
斎宮・倭姫命が外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥であるとも想像できるのである。

詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」に、その古縁を求められることができるのである。
伊勢の地から讃岐へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう。
いずれも、水難治水、水防治安のために勧請されたものと想像できる。


これらは、あくまでも仮説であるが・・、
歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう。

尚、伊勢神宮周辺には別宮、摂社、末社などが多数鎮座していて、人々の生活に密着した多数の神々が祀られている。
因みに、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(下宮)の其々の数は、正宮(内1、外1)、別宮(内10、外4)、摂社(内27、外16)、末社(内16、外8)、所管社(内30、外4)、別宮所管社(内8、外0)で内宮合計92、外宮合計33、合わせて125の各種社宮が鎮座している。(伊勢神宮・宮社の一覧表より)




ところで、2002年(平成14年)4月大川郡津田町、大川町、志度町、長尾町そして寒川町の5町が合併して市制施行し「さぬき市」となっている。 
今回、縁あって大川郡寒川町を記述したが、歴史的町名が又しても消滅していくのは残念である。 
しかも、新市名が”かなもじ”であることは、これまた如何なものか大いに疑問を生ずる次第である。
又、東に位置する香川県大川郡引田町、白鳥町、大内町が2003年4月1日に合併、市制施行して「東かがわ市」となってる。
やはり仮名文字であり、更に「東」の方位文字は深い意味合いは無いらしい。

この結果、大川郡という由緒ある古名は消滅した。
この辺りの大部分の地域は明治期まで千年以上もの間「大川郡」と呼ばれてきたらしく、地域住民、行政担当諸氏は1000年以上もの由緒ある歴史的地名を、あっさり捨てたのである。 
部外者で大きなお世話であろうが、せめて、さぬき市は堂々と「讃岐市」、東かがわ市等は古名に則って「大川市」(福岡県に既に有るが)、又は、「讃岐大川市」などとしてみては如何であったろうか・・?。 

地域の名称は、必ずと言っていいほど歴史的意味を持つものである。 
新名称を付与するに当っても、最近の流行や感情に流されず、歴史を顧み、その事実を尊重して可能な限り未来へ残したいものである。 
過去に付与されている漢字の地域的名称は、独特の歴史的意味合いをもつものであろう。

「かな文字」は元来、漢字から発生、派生したものであり、平仮名文字に変換された時点で漢字の持つ意味は、半減または無意味なものにしてしまうのである。 
四国全般を見ると、平仮名文字で表した市町域が、その他にも「まんのう町」(香川県)、「東みよし町」(徳島県)など六カ所にも及んでいるようであるが・、如何なものであろうか・・?。 
尤も、小生の実家、田舎も福島県の「いわき市」といって「かな」表示であり、これも重々不納得であるが。

次回からは「四国」を離れて・・、



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日本周遊紀行(87)善通寺 「75番霊場・善通寺」  ,



イメージ 1
善通寺・金堂




ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!

琴平の町並みを外れると、すぐに国道319に合流し善通寺方面へ向かう。 
平坦な直線道路で、すぐ左に「土讃線」が並行する。 
程なくして善通寺の町並みに入ったようである。 
後で知ったことだが、ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!。
勿論、善通寺市は弘法大師の誕生寺・「善通寺」の大本山でもあり、市はその門前町であって名称もそこから付されている。 

気がつくと、この辺りは観音寺、琴平、善通寺と由緒ある地名が多くある。
又、「お大師さん」のお膝元だけに四国霊場のうち市内地域に第72番・曼茶羅寺、第73番・出釈迦寺、第74番・甲山寺、第75番・善通寺(真言宗善通寺派総本山)、第76番・金倉寺と五山の寺院が軒並みに並んでいる。

本山・善通寺は町の西方、香色山の麓に静座している。 
寺の敷地は広く、伽藍と呼ばれる東院と誕生院と呼ばれる西院で、併せて45万平方メートルにも及ぶという。 
寺名は父の名をとって善通寺と名づけられたと言われ、寺の背後に五峰がそびえていることから、山号を五岳山と称した。御影堂は四棟からなり、礼堂と中殿は大師の父善通卿、奥殿は母玉依御前の館の跡で、大師はこの奥殿で誕生されたという。


弘法大師・「空海」のこと・・
俗名は佐伯真魚(さえき まお)という、父は、讃岐の豪族である佐伯直田公、雅称・善通卿と称して寺院名、地域名の基にもなっている。
空海は「弘法大師」とも言われ、法師は日本の長い歴史の中で時代を越え、宗派を越え、過去も現在も超えて庶民に尊敬され、愛し続けられている人物と言われる。 
日本史上最大級の宗教家と言われる空海は西暦835年3月21日、(現代の彼岸の中日にあたるのも何かの縁か・・?)大聖地・高野山で死去している。

天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈し、そして 更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう・生前の行いを尊び死後に贈られる位号)を贈り、彼の遺徳を讃えた。 
歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名に及ぶが、一般的に大師といえば殆どの場合、弘法大師を指すとされる。空海を知らなくても「弘法さん」、「お大師さん」を知る人は数多い。 

出家したのは20歳の時、はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗った。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で自ら名乗ったことは先に記した。 
空海は31歳の時、遣唐使として私費留学生で中国へ渡り、この時、第2船には彼の生涯のライバルとなる「最澄」(さいちょう)も乗っていた。
最澄は空海と違って当時既にかなり名を成しており、身分も国費留学生であった。
この時はまだ二人は出会っていなかった。 
留学中、長安・青龍寺の名僧・恵果(けいか)に出会い、密教を会得する。 

密教とは、大日如来を本尊とする深遠秘密の教えで、加持(かじ)・祈祷(きとう)を重んじる仏法として、7、8世紀ごろインドで起こり、唐代に中国に伝わり、日本には平安初期に空海・最澄によって伝えられている。 
空海の真言宗系を東密、最澄の天台宗系を台密とよび、対して通常の仏教を顕教(けんぎょう・密教と対比して、密教以外のすべての仏教を含む)と称している。  
こうして空海は、「修禅の道場」として高野山で真言宗の法灯をかかげる。 
弘仁年間、空海40前後のときに自身と人々の厄難を除くため 四国霊場を開かれたと伝えられる。各札所の縁起にも弘仁年間の開創が記されている。 

一方では彼は中国で学んだ知識を活かし宗教家としてのみでなく、社会事業家、芸術家としても精力的に活動をしたのである。 
彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり・平安時代の書家・官人)と共に三筆と呼ばれる。周知の諺・『弘法、筆を選ばず』は空海のことで、すぐれた力量を持っている人は、どんな道具でもきちんと使いこなすことができるという意味である。 

空海の誕生地・「善通寺」と真言密教の根本道場とされる「京・東寺」(世界文化遺産)、そして空海入定(聖者が死去すること、入滅)の地・真言宗総本山「高野山」(世界文化遺産)を弘法大師・三大寺院と言われる。



弘法大師・生誕の総本山「善通寺」は来年(平成18年)、創建1200年を迎えるという。 
それを記念するイベントとして四国霊場88カ所の全長約1400キロを、自転車でリレーし走破する「四国霊場88サイクル駅伝」というのが8月8日から12日にかけて開かれるらしい。
企画・実行委は「四国4県の連携イベントとして、来年以降も開催したい」と話し、意気盛んなようである。 
計画順路として、スタートとゴールは、彼の生誕地・75番札所・「善通寺」をスタート地点として、先ず88番まで進み、次に1番の霊山寺(徳島県鳴門市)から高知県、愛媛県とタスキをつないでいく。
約100時間で全行程を走破する見通しという。結果は如何に・・?、

【追記】
平成18年8月8日午前8時(末広がりの八・・?)に予定通り出発し、参加総勢129名のサイクリストがつないだタスキは8月16日、スタート地点であった善通寺に予定どうり全員無事帰ってきてゴールを迎えたという。 
当初予定されていた「100時間耐久」というテーマに関しては走行者の安全を考慮して、深夜の走行は中止して走ったという。

次回は、讃岐・「寒川町



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日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・さざれ石」   、



さざれ石と“君が代”由来の銘版



大門からの参道の突き当たり、円山応挙(江戸時代中期の絵師、「足のない幽霊」を描いた元祖ともいう)の障壁画でも有名な御書院(表、白、裏の各書院;諸儀式や参拝に訪れた人々との応接の場として用いた広大な客殿)の傍に「さざれ石」が鎮座している。

さざれ石」というのは「細かい石」のことで、鉱物的には長い時間をかけてこれらが集まり堆積して、粘土や砂などと混ざって礫(れき)岩となり、やがて巌(大きな岩)になったものという。

古来、小粒のものが大きく育つ意味合いで、目出度い「」とされている。
勿論、我が国歌「君が代」の題材になっていることは承知である。 
この、さざれ石は他の主要な神社にも鎮座されている所があり、特に京都の護王神社(京都市上京区:京・平安遷都に功績のあった和気清麻呂を祀っている)のものは和歌に詠まれた「君が代」の原点になったものといわれるが・・?。 
さざれ石」は、その他の主要な神社である出雲大社(島根県)、鶴岡八幡宮(鎌倉)、霧島神宮(九州)にも奉ってあり、又、「君が代」を尊愛する関係先では千鳥が淵戦没者霊園(東京都)やさざれ石公園(岐阜県)というのも在るらしい。


君が代」について・・、

わがきみは 
千代にましませ 
さざれ石の    
巌となりて 
苔のむすまで
  、

あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となり、苔が生える先ざきまでも) 新潮日本古典集より


この歌句が、「国歌・君が代」の大元になったとされている。
明治憲法では「万世一系の天皇はこれを統治す」とあり、「君が代」は天皇自身を指すとされていた。 
当時は、この歌の解釈が「富国強兵」に利用されていたが、戦後は国民にある種(軍国主義復活・・?)の思惑で翻弄された。
現在の「君が代」は、天皇を超えて国民を讃美、讃歌する歌として親しまれていることには間違いないとしている。



途中、参道石段の土産屋にユニークな、かなり大きめの「石松っつぁん」の人形が置かれていた。 ご存知、広沢虎造の口演「森の石松・金毘羅様代参」に因んで、石松っつぁんを模作したものである。
石松は次郎長の名代で金毘羅さんへ行くことを頼まれ、大政、小政にも金毘羅代参に行ってくれるよう説き伏せられる。 




その場の一節・・・、

『 文久二年の三月半ば、何処も同じ花見時。 次朗長が石松に、讃岐の金毘羅さんまで使いを頼む。悪(わる)の代官と久六を斬った汚れた刀をお山(金毘羅さん)に納めに行くためである。 すぐに行ってきますという石松に、「待て待て、発つのは明日でいい。それから次朗長が頭を下げてのお願いは、お前という人は酒癖が悪いから、旅の間は一滴の酒も飲んでくれるな、いいか・・」「わかりました、つとまらねえから断ります」「俺がこんなに頼んでもいやか?」「いやです・・」「よせ・・!次朗長には六百何十人子分がいるが、俺の言うことをいやだと言うのはお前一人だ、生かしておいちゃためにならねえ、命はもらった、覚悟しろ」「有りがてーな、わっしゃあ、あんたに惚れて子分になったんだ、惚れたあんたに斬られて死ねりゃ本望だ、さっ、斬っておくんねえ」強情っぱり同士が喧嘩している。 となりの部屋で聞いていた大政、小政が石松を呼びつけて、嘘も方便て言葉を知らねえか、判らないようにこっそり飲んでいいから・・と説教し、判った石松は、翌朝、金毘羅さんへ向けて出発する。 四国・金毘羅さんに刀を納め、讃岐の国を後にして、大阪へ戻る石松は、大阪・八軒屋から伏見へ渡す三十石船に乗り込み、船中でのやりとりで、「飲みネー、食いネー、もっとこっちへよんネエー、江戸っ子だってネー」「神田の生まれヨー」の、やりとりは余りにも有名である・・、 だが、その後の石松の運命やいかに・・・??。 』 
現代の若い人は・・?、無理かな。



帰路、駐車場の御土産屋で、2000円の七福神の置物を購入し金毘羅宮を後にした。

金毘羅船々』  四国・讃岐民謡 

金毘羅船々 
追風に帆かけて 
シュラシュシュシュ
まわれば四国は讃州・那珂郡 象頭山・金毘羅大権現
一度まわれば

お宮は金毘羅 
船神さまだよ 
キララララ
時化でも無事だよ雪洞ゃ明るい錨を下して遊ばんせ
一度まわれば 
 

昔の女の子は、よく次のような数え歌を歌いながら、お手玉で遊んでいたらしい。
その中に、「讃岐の金毘羅さん」の歌詞も入っていた。


わらべ歌風 数え歌
一番はじめが一宮       六つ村々鎮守様
二また日光東照宮       七つ成田の不動様
三また讃岐の金毘羅さん    八つ八幡の八幡宮
四また信濃の善光寺      九つ高野の弘法様
五つ出雲の大社        十で東京浅草寺

次回は、七十五番霊場・「善通寺


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日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・本宮」   、



イメージ 1
金毘羅さん参道鳥居・・「しあわせさん・こんぴらさん」


イメージ 2
参道鳥居と金毘羅さん・本殿



本宮地元では、「しあわせさん・こんぴらさん」として親しまれている・・!、

さてさて、本社、琴平町の金刀比羅宮である。
代表的な門前町・琴平の中心に金刀比羅宮の石畳参道がすぐ目に付いた。
主要道路の角の大きな駐車場へ車を寄せて、「お参りの帰りに2千円ほど買い物すれば無料でいいよ」と年配の係員が曰く。 
見れば、奥のほうに立派な店構えの土産屋があった。

先ずは、カメラと賽銭を持って早速出かける。 幅の広い石畳参道の両側にはギッシリト土産やが並ぶ。
やがて名物の石段の始まりである。 
名物「讃岐うどん」の老舗らしいのが二軒ならんでいる、「とらや」という最初の石段のすぐ脇にある店が、実に歴史的な深さを感じる。 

石段横に、「本宮まで785段、奥宮まで1368段、海抜421m」とあった。 
石段を登り始める、両側には、これまた立派な石燈籠や玉垣などが無数に建ちならび、額に汗して上り下りする参拝客に無言の激励をおくっている。 
参拝客が長年行き来した石段は、表面がすり減って磨かれたようになっている。 
それでも最近になって手直しをしたのだろうか、部分的に石の表面を削って滑らないようにしてある、参拝客への心遣いだろう。 
石段の両脇には、軒を接するように土産物屋が並んでいる。 
時折、乗合籠が目に付く、年配者や身障者には有難いだろう。

ここを抜けると、やがて大門が見えてくる、威風堂々たる構えの山門である。 
1650年、初代高松藩主の松平頼重侯の寄贈によるものといい、楼上に掲げられた「琴平山」の名札は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう・明治新政府の成立に至るまで朝廷における反幕府・尊王攘夷派の急先鋒であった)の筆によるという。 
山門のそばには、「五人百姓」の名前を持つ、鼈甲飴(べっこうあめ)を売る店がシンボルらしく、大きな番傘を広げ、古風な姿でお客さんを待っている。
本来は境内では商売禁止だが、昔からの神事への功労により特別に境内で営業を許された五店の商家が「五人百姓」といわれるそうである。


所々に「しあわせさん・こんぴらさん」の大きな暖簾が気持ちをほぐしてくれる。無限かと思えるほどの石段を登り越して、ようように山頂境内に立った。 

本殿境内には、「書院」や「旭社」といった由緒ある建物が並ぶ。特に左手に在る「旭社」は絢爛豪華な社殿で、屋根裏、柱、扉など至る所に彫刻が施され、完成まで約40年の歳月を要したといわれている、あたかも日光陽明門をみるようである。 
本殿の南に建つ、南北2つの「絵馬堂」も吹き抜けの堂々たる造りである。 海難除けのお礼や祈願成就の絵馬をはじめ、大小様々、色とりどりの絵馬が掲げられている。


さて、本殿である、中央拝殿に額ずき、神妙に参拝する「旅の無事安全と一家身内親戚一同、無事安泰、交通事故の無いよう、宜しく見守って下さい」・・と。
本殿は象頭山(ぞずさん)の中腹に鎮座する大社関棟造(たいしゃかんとうつくり)と言われる荘厳な社殿で、大物主大神と崇徳天皇を祀り、海上安全をはじめ、国の繁栄や農漁業、医療など、さまざまな願いを叶えてくれるといわれる。 
讃岐の金毘羅さん」と昔から親しまれ、江戸時代には「お伊勢参り」と並ぶ程の人気であったという。
 


金刀比羅宮は、古くから海、航海の守り神として信仰されていることは衆知である。
瀬戸内海は、古来より海上交通の要衝であり、しかも海流が激しい海難の地域であった。 
讃岐の琴平山はこの瀬戸内海を見下ろし、見守る絶好の地であったため自然発生的に海の祭神が祀られるようになったと思われる。 

金刀比羅宮は大物主神(オオモノヌシノミコト・蛇神であり水神または雷神としての性格を持つ、稲作豊穣、疫病除け、酒造り醸造、国の守護神)を祀り、古時は琴平神社と称した。 
現在の琴平町名はこの社名から起こったとされる。 
又、後に保元の乱(1156)で都を追われ讃岐に流され、この地でで生涯を終えた崇徳上皇を合祀相殿するようになったという。
因みに、金刀比羅宮の主祭神は「大物主神」で「和魂」とされ、元々は大国主神のことであった。 
和魂とは「ニギミタマ」と称され、 柔和、精熟などの徳を備えた神霊または霊魂のことであり、その反対語に荒魂がある。 一般に神霊には両方の性格が有するとされる。(人間もいっしょだね・・!)

不安定な日本の国を安定させるために大国主神が中心となり、粗野であった大地の国造りを行われて来たので、このような状態を大国主の「荒魂」ともいわれた。 
平定した国をよりよく治めるために大物主神の和魂をもって五穀豊穣や平安を祈る力とした。
はじめ荒ぶる魂であったが後に、和やかな魂になったとされ、二つの精神を持った一つの神のことで、日本の国は大国主神の国造りを終えられたところで、大物主神の力に委ねられることになる。
大国主神と大物主神は同一神とされ、記紀(古事記、日本書紀)などの表記によっては幾つかの神名を持つ。


さて、琴平山(象頭山)には、はじめ松尾寺(本尊・釈迦如来、薬師如来)が建立されていた。
その御本尊の守護神として金毘羅が祀られて、これが金毘羅大権現(※)になったという。

この金比羅さんというのは、元々は薬師如来の守神である十二神将の筆頭・宮比羅(インドではクンピーラ)のことで、クンピーラはガンジス川に棲む鰐の神格化されたもので海神や竜神といわれる。 
因みに、薬師如来は、西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、東方浄土(浄瑠璃界ともいう)の教主で、その 名の通り医薬を司る仏で、医王という別名もあり、衆生の病気を治し、安楽を 与える仏とされる。 
薬師如来は大陸には存在せず、所謂、東方の日本に主に存在し、飛鳥の時代より信仰されているといわれる。 
脇侍(きょうじ)には御存知の左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩で、十二神将に取り囲まれている。 

この十二神将は言い伝えによれば、時を表す十二支に対応していて、一日を約2時間ずつ交替で守護しているのだといわれる。この十二神将の筆頭の宮毘羅大将が、日本では金毘羅(コンピラ)に訳され海上安全の神となり、大衆には「金比羅(こんぴら)さん」の名前で親しまれるようになったとされる。

(※)序でに権現(ごんげん)とは、仏が化身して日本の神として現れることで、日本の神の神号の一つでお馴染みである。日本の神々は仏教の仏が形を変えて姿を現したものであるという本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ・平安期に起こった神仏思想)の考え方に基づいた神号である。 「権」という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを文字で示している。

又、琴平山が象頭山と言われるのは、お釈迦様が修行した地に似ていたのと、琴平山が象の頭に似ていたので、その名が付けられたとも言われる。 
象頭山金比羅大権現」は、神仏習合によって金毘羅自体に神名が与えられたことを意味する。 
ところが明治の初期、国家神道を成立させるべく、明治政府が神仏分離を発令され、後に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などがおきた)と呼ばれるものが実施された。
その為松尾寺は、寺自体を廃絶させた上で祭神を金刀比羅宮として生き残り、そして現在はこの祭神が踏襲されているという。

日本は海の国、海洋国家である。
海の神様である「金刀比羅宮」が全国各地に分社、分支され多くの国民に愛され祀られているのは当然の事と言えるかもしれない。

次回は、金比羅宮の「さざれ石



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日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅さん」   、



「金毘羅さん」は、小生、幼少の頃より現在に至るまで縁の有る神社である・・!! 、

琴平町・金刀比羅宮のことであるが、その前に・・、
金毘羅神社といえば全国各地に、その分社、支社が存在し、金毘羅さん(こんぴらさん)の名で全国の民衆に親しまれている社宮である。 

そして、小生の生涯の中で金毘羅宮とは幼少の頃より現在に至るまで縁がある神社でもある。小生の田舎、故郷である福島県いわき市湯本には由緒ある神社が2ヶ所ある。 
日本でも古湯とされる湯本温泉の象徴的守護神である「温泉神社」と我が青年時代までの在住地である関船町に鎮座している「金毘羅神社」である。 

この金毘羅宮は幼少の頃、歩いても数分の処にあり、この鎮守様の森でチャンバラごっこや度胸だめし(肝試し)をしたもんである。 
縁日の1月10日(旧暦)は近郷近在の人々がご利益参拝のため大勢訪れ、参道、側道には縁起物や駄菓子屋のテント、見世物小屋が立ち並び、押すな押すなの大盛況である。
我が家でも「ご接待」と称して親類、縁者、知人を招いて馳走を振舞い、大賑わいで小生ら子供たちは訪問者から「おこずかい」をもらって縁日へと出かけたものであった。

当地の「金毘羅神社」は500年の歴史を持つという。
江戸時代に入ると近海で海難事故が多数発生し、その為村人が讃岐の金毘羅神社に出向き安全祈願をした所、たちまち事故が起こらなくなったといい、その為、新たに金毘羅権現を当地に勧請し社殿を造営したといわれる。
金毘羅大権現宮例大祭の1月10日は、いわき市一円、県内、宮古、気仙沼、房総、新潟県など各地から十数万人という大勢の参拝者で賑わう。神社境内をはじめ沿道には約500店舗の露店が並ぶ。



次に、現在在住の神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250〜300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 
こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在にも成り果てている。
小生は今でも毎日のように鳶尾山系へのトレーニング・ウオークを行っているが、この際には必ずこの社を通り、参拝をするようにしている。 

江戸期往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近在の氏子で大賑わいであったと言う。 
特に、鳶尾地区(中荻野地区)は矢名街道(相模原−大磯線と甲州街道に通ずる津久井街道、現、国道412号線)と大山道(現、の八王子や相模原方面)の交差地域に属し、「大山参り」の通行客と合わせて鳶尾山の金毘羅宮を参拝したともいわれ、大勢で始終賑わってたという。 
しかし今は見る影もなく、小生実家(故郷)の宮の賑わいを思うと残念でならない。 
歴史的遺産やそれにまつわる祭礼や行事を存続させることのいかに大事か、そして難事であるかを象徴するようでもある。


蛇足ながら大山は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。
中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。現在でも四季を通じて参詣者が耐えないが、特に、江戸落語に「大山参り」という話しもあり、当時の大山参詣と賑わいぶりは有名である。

現在、鳶尾山の金毘羅宮の古びた社殿の正面上部には縁起・由緒が以下のように書かれてある。

金毘羅子世羅天由来記』・・、
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。 一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。 翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺 世話人 』

続いて、琴平の金刀比羅宮・本宮



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