『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(85)観音寺 「観音寺」   、 


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拝むとお金に不自由しないといわれる琴弾山の「寛永通宝」


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観音寺市の「観音寺」



田舎町の豊浜に、昭和の宰相・「大平正芳」出現・・、

国道11号の沿線の町役場の前に銅像が建っていた。
この小さな田舎町の「豊浜」に、歴代の総理大臣が出現していたのだ、「大平正芳」氏である。 
昭和50年代の第68・69代の総理大臣で、ずんぐり、むっくりした体型で口ごもって物をいい、演説や答弁の際に「あー」とか「うー」と前置きをする事から「アーウー宰相」の異名を取り、またその風貌から「鈍牛」ともいわれた。 

自民党幹事長、官房長官、外相、通産相、蔵相などを歴任し、派閥領袖だった三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の所謂、「三角大福」の四人での総裁選には敗れるが、その後も今太閤と言われた田中角栄と盟友関係が続くことになる。 
田中内閣の発足で外務大臣に就任し、日中国交を成立させた。1978年に福田赳夫首相に挑戦する形で総裁選に出馬、予備選挙で福田氏を破り、直後に第68代内閣総理大臣に就任している。

朴訥な印象の一方で、「戦後政界指折りの知性派」との評判が示すとおり、政治における知性や言葉に重きを置く政治家であったという。
その政治思想や経済観、国際政治観などの先見性は、今日でも多いに顧みられることが少なくないといわれる。読書家としても知られ、郷里の記念館には1万数千に及ぶ蔵書が収められている。

首相が、靖国神社にA級戦犯が合祀(昭和53年合祀)される前に参拝したことがあり、それに関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁した。 又、「政治とは・・?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。

1980年には、社会党が提出した内閣不信任案が反主流派の欠席によって可決、ハプニング解散となり、憲政史上初めて衆参同日選挙が行われる事態を招来した。
同日選の第一声を挙げた翌日に体調を崩して入院、心筋梗塞で急死した。 

この大平首相の死が国内政治の空気を一変させたという。かねて抗争終結の落としどころを模索していた自民党の主流派(田中派)と反主流派(福田派)は、「弔い合戦」を名分として一挙に結束に向かい、また追悼ムードは有権者にも大きく作用したため、同日選では自由民主党が大勝した。



三カ所の霊場を抱える、名勝・「琴弾公園」・・、
豊浜のすぐ隣が「観音寺市」であり、市名が寺院名と同じなのは珍しい。
四国八十八箇所観音霊場で讃岐の霊場は「涅槃の道場」といわれる。
弘法大師が仏門へ入門され、巡礼の終期の入定(にゅうじょう・精神を統一して煩悩を去り、無我の境地にはいること)に至るといわれるところである。 
涅槃(ねはん)とは、煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態で、仏教における理想の境地をいう。 

第69番霊場・観音寺は、地元の人に「おかんおんさん」と親 しく呼ばれている代表的なお寺であり、そのためか市名も観音寺の名がそのまま付いているのである。 
海岸に面して観音寺市民の憩いの場所、自然美と人工美が融和したといわれる名勝・琴弾(ことひき)公園がある。 

瀬戸内海国立公園にも含まれ、白砂青松の有明浜や松林の続く公園は「さくら名所100選」に選ばれており、美しい琴弾山々頂からの展望が見所となっている。 
園内には、珍しく砂で絵が描かれた「寛永通宝」というのがある。
東西122m、南北90m、周囲345mもある巨大な大砂絵の銭形(ぜにがた)で、描かれた理由は定かでないが山頂より拝んだ人は健康でお金に不自由なく暮らせるという。 
ここに琴弾八幡宮神恵院(じんねいん)、観音寺等の名所旧跡が点在している。

琴弾八幡宮」は、縁起によると創建は703年、名僧・日証上人が山頂に草庵を結んで修行していたとき、海のかなたに神船が浮んで琴の音が聞こえた。
これは宇佐八幡(大分・宇佐の神宮で全国八幡宮の総本社)のお告げであり、その神船と琴をひきあげて山頂に祀ったという由緒ある神社とのこと。
屋島の合戦に勝利を得た源義経が、次の壇ノ浦の合戦の勝利を祈願したといわれる。 

この琴弾山は、義経が屋島合戦で勝利した要因の地の一つとされている。
義経が伊勢三郎義盛に命じ、伊予の国から田口佐衛門教能(伊予大洲城主)の一千騎が平家援軍に向かう途中、説得により食い止め、源氏側に味方した所だといわれる。 
屋島の合戦で最悪の場合、平家に挟み討ちされ、形成は逆転していたかもしれないとも言われるところである。

八幡社は琴を弾く神様、つまりは技芸の神様を祭ってあるといい、技芸の神の他に海の安全、戰の神、豊穣の神として奉っている。
神社では技芸の神にあやかって、近年、全国奉納絵馬コンクールなども行っているとか。

第69番霊場・観音寺は寺伝によれば、大師は神功皇后を尊崇し観世音の生まれ代わりであるとして、聖観世音菩薩の尊像を刻まれ、山の中腹に七宝山観音寺を創建して尊像を安置した事から始まるという。併せて七つの宝を埋めたことにより七宝山と号し、第69番の霊場に定 められた。  


本坊の庭園は巍々園(ぎぎえん)」と呼ばれる名園で、様々な形をした巨岩を背景に造られた枯山水の石組みは素晴らしく雄大な眺めてあるという。  
朝廷では桓武天皇以来、歴代の勅願所と定められて信仰も厚く、各武将からも厚い信仰を受け、寺運は永く栄えて現在に至っている。

第68番・神恵院は、行基が722年に訪れた後、弘法大師(空海)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山・神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。神恵院は明治初期までは、神宮寺として琴弾八幡宮に付属して同一境内にあった。
ところが明治政府による神仏分離令により、琴弾八幡は神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来像も移転に伴い観音寺境内の西金堂に移され現在に至っているという。
つまり、其々が独立しながら神恵院は観音寺と同居した形となり、一つの山に、二つの霊場があるという不思議な現象が生まれた。 

神恵院境内の隅に納経所があるが、観音寺の納経所も兼ねているので、お遍路さんにとっては琴弾山界隈の風光明媚な地と相まって、二札所の納経が一緒にできるという有難い札所でもある。

次は、琴平の「金刀比羅宮



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日本周遊紀行(84)豊浜 「名物・讃岐うどん」   、



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「道の駅・とよはま」の「浜っ子茶屋」


全国区になった「讃岐うどん」には、仕掛人がいた・・、

伊予の「川之江」を過ぎると、国道11号は間もなく讃岐の香川県である。 
土佐とか、伊予とか、讃岐とか、四国四県は何れも古来から藩政時代までの呼称が良く似合う。 
今でも、各地域や施設には、旧名称が好んで付されているのである。


県境の「道の駅・とよはま」で一息いれる。 
昼時でもあり、讃岐に到ったからには早速、讃岐名物の讃岐うどんを食する。 
かなり広めの「浜っ子茶屋」という和風レストランがあったが、先ずメニュウを見てビックリ、300円からと「讃岐うどん」が安いのである。
先ずは、440円の山かけウドンを食する。
ズルズルとほうばると柔らかさの中に芯があり歯ごたえがあり、その汁(つゆ)も関西風の薄色、薄味で何とも美味なのである。
値段のことを言うのも何だけど、これだけの品質、旨さだと首都圏では倍額はするだろう・・?。

ところで、遍路さんが弘法大師に親しむ香川県では「うどん」は、大師さまが唐から伝えたと語られているともいわれている。
これは伝承に過ぎないが、うどんは、遍路が道々、簡単な食事を摂るのに適している食物であることは確かである。

江戸時代には金刀比羅宮への参拝客を相手にした旅籠が増え、その一階がうどん屋となる例が多かったという。
店頭に茹で釜が置かれ、鉢にうどんを盛り、ショウガやネギとだし(麺つゆ)を入れた器に、つけて食べる形式が一般的となった。(今で言う“つけうどん”で、地元讃岐では「湯だめ」ともいうらしい)

又、参拝客が船で到着する丸亀や多度津にもうどん屋が作られ、名所図会などにもその記録が残っている。
だが、往時の一般庶民や農民にとっては引き続きうどんは贅沢品とされ、田植えや法事の祭り事に振舞われる特別な存在だったともいう。 
近代の明治になって一般庶民も食するようになるが、その頃は、所謂、「夜なきうどん」という行商が高松市内に増え、天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部にランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていたともいう。
以降、香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が食べられるようになり、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉まであったという。 


最近では健康食も相まって、空前の「讃岐うどん」のブームだそうである。 
我家の近く(神奈川県厚木市)にも最近、そのものずばりの「讃岐うどん」という名のうどん屋が出来たようで、大繁盛のようである。

そこにはやはり仕掛け人がいたようで・・、
全国最小県のタウン情報誌「TJ・Kagawa」初代編集長が、食文化・讃岐うどんを連載企画したところ、圧倒的人気を得、一気に全国区に押し上げたという。 
お陰でTVのグルメ番組でも、讃岐うどんは度々取り上げられるようになったようである。 

讃岐うどんの、その特徴は安さにあるという、香川県外の人には、讃岐うどんの値段の安さがにわかに信じられないというが、1杯100円や200円はざらで、それも極めて人気店がそうであるという。 
県下で讃岐うどんの時間帯別動向を調べると、午前11時から午後2時の間に全店の95%以上が開いていて、売上げもこの時間帯で大部分を占めるという。
その後の夕方から夜にかけては、どんどん店閉いをするため、讃岐のうどん店は圧倒的に、「昼型仕様」なのである。 しかも、昼時にうどん店に入ると、これまた圧倒的にサラリーマンの客で溢れているという。


つい最近、『UDON』と言うTV映画を見た。 「うどん」である。
主人公・香助(名前が思わせぶりでいい:ユースケ・サンタマリア)が挫折して、海外から故郷の田舎町に戻ってきた。 借金を背負い人生のどん底にいた香助の前に、地元の雑誌社で働く美人の編集者・恭子(小西真奈美)が現れる。 香助は恭子や地元の人々と触れ合ううちに地元の名産品である「うどん」の魅力に目覚め始める。
「うどん」という日本独自の食文化を通し、日本の魅力が存分に表現されているのである。共演者にはトータス松本、小日向文世、鈴木京香ら個性豊かな面々が出演している。
ああ、うどん食いテー・・!、今夜はうどんにしよう。

次回は、昭和の宰相・「大平正芳



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寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、

若かりし頃、瀬戸内の直島で半年間仕事をしていたことは先に何度も述べたが、その頃、高松には青春の捌け口として、よく遊びに来たことがあった。こんな思い出多い「高松」ではあるが、今回は残念ながら寄らないで四国を離れることにする。

その前に四国・讃岐に関して最後に一筆だけ書き加えたいことがある。
高松の南西地域、南北に細長い「大川郡寒川町」がある、「さんがわちょう」と読むらしい。
ところで話はチョッと飛ぶが・・、
小生の住む神奈川県厚木市の南隣接した所に小さな地域で「高座郡寒川町」が在る、こちらは「さむかわちょう」と称するが・・。 この小さな町の中央に地域でも有名な「寒川神社」が鎮座していて、小生、家族一同は正月の初詣や何かの祈願が有るときは必ずと言っていいほど参拝をする神社である。寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。 祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)、寒川比女命(サムカワヒメノミコト)と兄妹神で、いずれも水の縁のある神様である。
水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河・相模川が流れる、昔はこの相模川は、かなり大きな川幅で流れていたか、或いはもっと東の方角で流れていたかのいずれで、 この辺りは広範にわたる低地帯であったことが想像できる。 現在の相模川に架かる馬入橋(国道1号線)より東凡そ1kmのところ、神社より南へ4kmほどのところに、鎌倉期に建造された「“旧相模川架橋脚」の遺跡が発掘されている(国指定史跡)。
因みに鎌倉期創世の頃、この辺りは鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋であり、交通の要衝でもあった。この地区に源頼朝の家臣・稲毛重成が建造した相模川架橋の完成祝賀に主君・頼朝が招かれ、その帰り道、馬入川(当時は馬入川といい、現在も平塚地区では馬入川の愛称がある)のたもとで落馬し、これが元で頼朝は死去したと伝えられる。尚この時、頼朝の乗ってた馬が驚いて川へ突入したため、川の名前が「馬入川」と自然発生的に付いたというらしい・・?。
丹沢山系を水源とする急流・相模川は、大昔は相当の暴れ河であったらしく、周辺地域に度々大水害をもたらしたという。相州・寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様らしい。

では話を戻そう・・、
寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、ここで、讃岐・四国の大川郡寒川町が関連登場してくるのである。 
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。この神社の起縁由緒には「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」・・とある。大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命であるとして、どちらも水に関係する神様だと判る。そして郡名は寒川としてあり、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった。
地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。 又、このあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できるのである。どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい。
治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んでいる。川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く。つまり、国家風水技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解でき、国家風水としての役目を終えた神社は、後には民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。

では相模・寒川町と讃岐・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?、
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 房州は、古くから関西との関係が強い。因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。
又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くないのである。

ところ変わるが、神代の地・伊勢市の西隣、玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。 この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる、伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる、だが、直後に再び田丸町に復しているという。 
御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。
地理的には、この地域は外城田川、宮川、櫛田川の上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地・水郷地帯であるようだ。いずれも克っては水難の地相と想像できるのである。 斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「御船神社」、「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹神を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったとも想定できるのである。
斎宮・倭姫命が外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥であるとも想像できるのである。
詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」に、その古縁を求められることができるのである。伊勢の地から讃岐へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう。いずれも、水難治水、水防治安のために勧請されたものと想像できる。
これらは、あくまでも仮説であるが・・、歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう。
尚、伊勢神宮周辺には別宮、摂社、末社などが多数鎮座していて、人々の生活に密着した多数の神々が祀られている。因みに、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(下宮)の其々の数は、正宮(内1、外1)、別宮(10、4)、摂社(27、16)、末社(16、8)、所管社(30、4)、別宮所管社(8、0)で内宮合計92、外宮合計33、合わせて125の各種社宮が鎮座している。(伊勢神宮・宮社の一覧表より)


2002年(平成14年)4月大川郡津田町、大川町、志度町、長尾町そして寒川町の5町が合併して市制施行し「さぬき市」となっている。 今回、縁あって大川郡寒川町を記述したが、歴史的町名が又しても消滅していくのは残念である。 しかも、新市名が「かなもじ」であることは、これまた如何なものか大いに疑問を生ずる次第である。
又、東に位置する香川県大川郡引田町、白鳥町、大内町が2003年4月1日に合併、市制施行して「東かがわ市」となってる。やはり仮名文字であり、更に「東」の方位文字は深い意味合いは無いらしい。この結果、大川郡という古名は消滅した。この辺りの大部分の地域は明治期まで千年以上も「大川郡」と呼ばれてきたらしく、地域住民、行政担当諸氏は1000年以上もの由緒ある歴史的地名を、あっさり捨てたのである。 部外者で大きなお世話であろうが、せめて、さぬき市は堂々と「讃岐市」、東かがわ市等は古名に則って「大川市」(福岡県に既に有る)、又は、「讃岐大川市」などと・・。
地域の名称は、必ずと言っていいほど歴史的意味を持つものである。 新名称を付与するに当っても、最近の流行や感情に流されず、歴史を顧み、その事実を尊重して可能な限り未来へ残したいものである。 過去に付与されている漢字の地域的名称は、独特の歴史的意味合いをもつものであろう。
「かな文字」は元来、漢字から発生、派生したものであり、平仮名文字に変換された時点で漢字の持つ意味は、半減または無意味なものにしてしまうのである。 四国全般を見ると、平仮名文字で表した市町域が、その他にも「まんのう町」(香川県)、「東みよし町」(徳島県)など六カ所にも及んでいるようであるが・、如何なものであろうか・・?。尤も、小生の実家、田舎も福島県の「いわき市」といって「かな」表示であり、これも重々不納得であるが・・。

次回からは四国を離れて・・、

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               写真:善通寺・金堂


ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!、

琴平の町並みを外れると、すぐに国道319に合流し善通寺方面へ向かう。 平坦な直線道路で、すぐ左に「土讃線」が並行する。 程なくして善通寺の町並みに入ったようである。 後で知ったことだが、ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!。勿論、善通寺市は弘法大師の誕生寺・「善通寺」の大本山でもあり、市はその門前町であって名称もそこから付されている。 気がつくと、この辺りは観音寺、琴平、善通寺と由緒ある地名が多くある。又、「お大師さん」のお膝元だけに四国霊場のうち市内地域に第72番・曼茶羅寺、第73番・出釈迦寺、第74番・甲山寺、第75番・善通寺(真言宗善通寺派総本山)、第76番・金倉寺と五山の寺院が軒並みに並んでいる。
本山・善通寺は町の西方、香色山の麓に静座している。 寺の敷地は広く、伽藍と呼ばれる東院と誕生院と呼ばれる西院で、併せて45万平方メートルにも及ぶという。 寺名は父の名をとって善通寺と名づけられたと言われ、寺の背後に五峰がそびえていることから、山号を五岳山と称した。御影堂は四棟からなり、礼堂と中殿は大師の父善通卿、奥殿は母玉依御前の館の跡で、大師はこの奥殿で誕生されたという。


弘法大師・空海とは・・、俗名は佐伯真魚(さえき まお)という、父は、讃岐の豪族である佐伯直田公、雅称・善通卿と称して寺院名、地域名の基にもなっている。
空海は「弘法大師」とも言われ、法師は日本の長い歴史の中で時代を越え、宗派を越え、過去も現在も超えて庶民に尊敬され、愛し続けられている人物と言われる。 日本史上最大級の宗教家と言われる空海は西暦835年3月21日、(現代の彼岸の中日にあたるのも何かの縁か・・?)大聖地・高野山で死去している。
天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈し、そして 更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう・生前の行いを尊び死後に贈られる位号)を贈り、彼の遺徳を讃えた。
歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名に及ぶが、一般的に大師といえば殆どの場合、弘法大師を指すとされる。空海を知らなくても「弘法さん」、「お大師さん」を知る人は数多い。 出家したのは20歳の時、はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗った。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で自ら名乗ったことは先に記した。
空海は31歳の時、遣唐使として私費留学生で中国へ渡り、この時、第2船には彼の生涯のライバルとなる「最澄」(さいちょう)も乗っていた。最澄は空海と違って当時既にかなり名を成しており、身分も国費留学生であった。この時はまだ二人は出会っていなかった。
留学中、長安・青龍寺の名僧・恵果(けいか)に出会い、密教を会得する。 密教とは、大日如来を本尊とする深遠秘密の教えで、加持(かじ)・祈祷(きとう)を重んじる仏法として、7、8世紀ごろインドで起こり、唐代に中国に伝わり、日本には平安初期に空海・最澄によって伝えられている。 空海の真言宗系を東密、最澄の天台宗系を台密とよび、対して通常の仏教を顕教(けんぎょう・密教と対比して、密教以外のすべての仏教を含む)と称している。
こうして空海は、「修禅の道場」として高野山で真言宗の法灯をかかげる。 弘仁年間、空海40前後のときに自身と人々の厄難を除くため 四国霊場を開かれたと伝えられる。各札所の縁起にも弘仁年間の開創が記されている。 
一方では彼は中国で学んだ知識を活かし宗教家としてのみでなく、社会事業家、芸術家としても精力的に活動をしたのである。 彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり・平安時代の書家・官人)と共に三筆と呼ばれる。周知の諺・『弘法、筆を選ばず』は空海のことで、すぐれた力量を持っている人は、どんな道具でもきちんと使いこなすことができるという意味である。
空海の誕生地・「善通寺」と真言密教の根本道場とされる「京・東寺」(世界文化遺産)、そして空海入定(聖者が死去すること、入滅)の地・真言宗総本山「高野山」(世界文化遺産)を弘法大師・三大寺院と言われる。

弘法大師・生誕の総本山「善通寺」は来年(平成18年)、創建1200年を迎えるという。それを記念するイベントとして四国霊場88カ所の全長約1400キロを、自転車でリレーし走破する「四国霊場88サイクル駅伝」というのが8月8日から12日にかけて開かれるらしい。企画・実行委は「四国4県の連携イベントとして、来年以降も開催したい」と話し、意気盛んなようである。 計画順路として、スタートとゴールは、彼の生誕地・75番札所・「善通寺」をスタート地点として、先ず88番まで進み、次に1番の霊山寺(徳島県鳴門市)から高知県、愛媛県とタスキをつないでいく。約100時間で全行程を走破する見通しという。結果は如何に・・?、

【追記】
平成18年8月8日午前8時(末広がりの八・・?)に予定通り出発し、参加総勢129名のサイクリストがつないだタスキは8月16日、スタート地点であった善通寺に予定どうり全員無事帰ってきてゴールを迎えたという。 当初予定されていた「100時間耐久」というテーマに関しては走行者の安全を考慮して、深夜の走行は中止して走ったという。

次回は、讃岐・寒川町と・・、

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             写真:さざれ石と“君が代”由来の銘版


大門からの参道の突き当たり、円山応挙(江戸時代中期の絵師、「足のない幽霊」を描いた元祖ともいう)でも有名な御書院のそばに「さざれ石」が鎮座している。
「さざれ石」というのは「細かい石」のことで、鉱物的には長い時間をかけてこれらが集まり堆積して、粘土や砂などと混ざって礫(れき)岩となり、やがて巌(大きな岩)になったもの。古来、小粒のものが大きく育つ意味合いで、目出度い「石」とされている。勿論、我が国歌「君が代」の題材になっていることは承知である。
この、さざれ石は他の主要な神社にも鎮座されている所があり、特に京都の護王神社(京都市上京区:京・平安遷都に功績のあった和気清麻呂を祀っている)のものは和歌に詠まれた「君が代」の原点になったものといわれるが・・?。 「さざれ石」は、その他の主要な神社である出雲大社(島根県)、鶴岡八幡宮(鎌倉)、霧島神宮(九州)、又、「君が代」を尊愛する関係先では千鳥が淵戦没者霊園(東京都)、さざれ石公園(岐阜県)というのも在るらしい。

国歌・「君が代」について・・、

『 わがきみは 千代にましませ さざれ石の 
         巌となりて 苔のむすまで 』(古今和歌集 よみ人しらず)
(あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となり、苔が生える先ざきまでも) 新潮日本古典集より
この歌句が、「君が代」の大元になったとされている。
明治憲法では、「万世一系の天皇はこれを統治す」と、「君が代」は天皇自身を指していたが、これは歌の解釈が当時の「富国強兵」に解釈利用された、戦後は国民にある種の思惑で翻弄された。現在は天皇を超えて、国民を讃美、讃歌する歌として親しまれていることには間違いないとしている。


途中、参道石段の土産屋にユニークな、かなり大きめの「石松っつぁん」の人形が置かれていた。ご存知、広沢虎造の口演「森の石松・金毘羅様代参」の石松っつぁんを模作したものである。 
石松は次郎長の名代で金毘羅様さんへ行くことを頼まれ、大政、小政にも金毘羅様代参に行ってくれるよう説き伏せられる。 その場の一節・・・、
『 文久二年の三月半ば、何処も同じ花見時。 次朗長が石松に、讃岐の金毘羅さんまで使いを頼む。悪(わる)の代官と久六を斬った汚れた刀をお山(金毘羅さん)に納めに行くためである。 すぐに行ってきますという石松に、「待て待て、発つのは明日でいい。それから次朗長が頭を下げてのお願いは、お前という人は酒癖が悪いから、旅の間は一滴の酒も飲んでくれるな、いいか・・」「わかりました、つとまらねえから断ります」「俺がこんなに頼んでもいやか?」「いやです・・」「よせ・・!次朗長には六百何十人子分がいるが、俺の言うことをいやだと言うのはお前一人だ、生かしておいちゃためにならねえ、命はもらった、覚悟しろ」「有りがてーな、わっしゃあ、あんたに惚れて子分になったんだ、惚れたあんたに斬られて死ねりゃ本望だ、さっ、斬っておくんねえ」強情っぱり同士が喧嘩している。 となりの部屋で聞いていた大政、小政が石松を呼びつけて、嘘も方便て言葉を知らねえか、判らないようにこっそり飲んでいいから・・と説教し、判った石松は、翌朝、金毘羅さんへ向けて出発する・・。 四国・金毘羅さんに刀を納め、讃岐の国を後にして、大阪へ戻る石松は、大阪・八軒屋から伏見へ渡す三十石船に乗り込み、船中でのやりとりで、「飲みネー、食いネー、もっとこっちへよんネエー、江戸っ子だってネー」「神田の生まれヨー」の、やりとりは余りにも有名である・・、 だが、その後の石松の運命やいかに・・・??。 』 現代の若い人は・・?、無理かな。

帰路、駐車場の御土産屋で、2000円の七福神の置物を購入し金毘羅宮を後にした。

        
『金毘羅船々』  四国・讃岐民謡 
金毘羅船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ
まわれば四国は讃州・那珂郡 象頭山・金毘羅大権現
一度まわれば

お宮は金毘羅 船神さまだよ キララララ
時化でも無事だよ雪洞ゃ明るい錨を下して遊ばんせ
一度まわれば 
 
昔の女の子は、よく次のような数え歌を歌いながら、お手玉で遊んでいた。その中に、「讃岐の金毘羅さん」の歌詞も入っていた。

『わらべ歌風 数え歌』
一番はじめが一宮       六つ村々鎮守様
二また日光東照宮       七つ成田の不動様
三また讃岐の金毘羅さん    八つ八幡の八幡宮
四また信濃の善光寺      九つ高野の弘法様
五つ出雲の大社        十で東京浅草寺

次回は、七十五番霊場・善通寺

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