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日本周遊紀行(95)児島 「鷲羽山」 、
鷲羽山展望地から瀬戸内海、瀬戸大橋の眺望絶佳 瀬戸内海、眺望絶佳の地・「鷲羽山」・・、 国道30から国道430をそのまま南下する。 所々にトンネルのある山間地から「渋川」というところで、いきなり海岸に出た。 美しい海岸線がどこまでも続く砂浜で、「渚」、「白砂青松」の100選にも選ばれた名所「渋川海岸」である。 海水浴場としても中国地方では有名で、日本の海水浴場五十五選にも選ばれ、夏季には県下でも約50万人の海水浴客が訪れるという。 ところが陸側は、海岸とは対照的に低山ではあるが新割山、王子ヶ岳といった山塊が連なる。それに山頂付近は低山には珍しく、奇岩怪岩が連なる岩峰である。 この辺りの岩石は瀬戸内地方でも代表的な花崗岩質が多く、きわめて雨や風にて風化されやすい。 そのために山頂では、このようなゴツゴツしたい岩山が出来上がったという。 風化された花崗岩質は石英、長石、雲母(地質鉱物の元となるもの)が多く含み、流れ出た砂礫は海岸に堆積し、渋川海岸のような白く美しい砂質の海浜線を形成したという。 一方、海上は青く浮かぶ正三角錐(円錐形が正しい・・)の大槌島をはじめとする瀬戸内海独特の島々の海洋景観を呈し、はるか沖合に打ち並ぶ香川県の岬の裾は、細く鈍い銀灰色の線となって浮いているようである。 右手に、あの「瀬戸大橋」の人工的美景が何の違和感もなく遠望され、絵の様な、というより絵にしたい様な風景が広がっている。 児島の街並みから間もなく鷲羽山である。 今は瀬戸大橋の基点での名所であるが、元々、瀬戸内海国立公園随一の景勝地であり、国の名勝にも指定されている。 「直島」勤務時代、岡山の友人とこの地を訪れた記憶はあるが、様相は既に忘却に帰している。 山頂へ達すると、視界は360度に展開し、のどかな瀬戸内海に点在する島々が、そして「下津井」の島が呼指の間に見渡せる。 真下に下津井の港が望まれ、眼前に島伝いに架かる瀬戸大橋の全景を見ることもできる。 絶佳の風景とはこの事であろうか・・!!。 鷲羽山の名称は、文豪・徳富蘇峰が、「秀でた風景をこの岬に集める」と賞賛し、両翼を広げた「鷲」に似ているところから付けられたといわれる。 『下津井節』 岡山県民謡 下津井港はョー 入りよて出よてョー まともまきよてョー まぎりてョー トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ (繰り返し) 船が着く着くョー 下津井港ョー 三十五丁艫のョー 御座船がョー 国道430をそのまま進む。 水島コンビナートの中核、川崎製鉄・水島製鉄所(2003年、日本鋼管福山製鉄所〔福山市〕と川崎製鉄水島製鉄所〔倉敷市〕が統合し、JFEスチール〔Japan、Fe=鉄の元素記号、Engineeringと、Japan Future Enterpriseとをかけたものである。 世界3位の事業規模〕西日本製鉄所が誕生している。)の巨大工場を左に見ながら、山陽道・玉島I・Cへ向かう。 次回は、「しまなみ海道」
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岡山県
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日本周遊紀行(94)宇野 「直島」 、
宇野港の正面に位置する「直島」は、我が青春の1ページに残る・・、 さて、国道2号線より「児島湾大橋」を渡り、湾岸をかすめて宇野港へ向かっている。 大橋から児島湾沿いに県道45号(岡山―玉野線)を行くと、微かに望める対岸より一直線にこちらに向って伸びる大橋が目に付いた・・?が、左右に工作物らしいのが広がっていて橋ではなさそうなのである。 どうも此れは堰堤らしい。 ここを境に海面の色や岸辺の状況が異なるようにも感じを受けたのはそのせいであった。 そう、ここはすでに「児島湖」で淡水湖らしい。 これだけ陸に入り組んで接している湾海は、常識的には汽水湖のはずであるが、この堤を境に半ば強制的に淡水化されてしまったらしい。 しかも、現在の児島湖は岡山市西部を流れる笹ヶ瀬川、倉敷市から流れる倉敷川などの水が生活雑水も混じって放流され、相当汚れた水になっている。 すでに感覚的にも許容限度を越えており、負のイメージが湖周地域を覆っていて、日本でも最も水質汚染の激しい湖沼の一つとなっているらしい。 現在、湖沼水質保全特別措置法指定湖沼にもなっているという。 元々、この灘崎町(現岡山市)は倉敷南部の所謂、岡山平野といわれる南部地域は瀬戸内海の浅瀬が広がる海であって、その隔てられた向かいの大島が「吉備児島」(現玉野市、倉敷南部)といわれた。 海域が浅瀬だったため容易に干拓が行はれ、既に室町時代のころには埋め立てによる新田開発が始まったともいう。 そして江戸期には、吉備児島は陸続きの半島となり、更に戦後の昭和期には国家事業として干拓が進められ、児島湾の一部を干拓堤防で閉め切って灌漑用水とし児島湖が完成したという。 しかし、この干拓地は低湿地のため排水が完全にはされず水質汚濁の要因にもなり、又、現在は減反の時代でもあって、干拓農地は重荷になっているのが実状といわれる。 堰堤には完成記念碑があり、昭和天皇の歌碑もある。 『 海原を せきし堤に たちて見れば しほならぬうみに かはりつつあり 』 昭和天皇 詠歌 長い、尾坂トンネルを抜けると県道22号線となり、やがてJR宇野線と真近に並行しながら南下すると行き着くところが宇野の街である。 あまり往来する人もないアーケードの商店街を更に進むと、洒落た赤い三角屋根の宇野駅であった。 当然ながら40数年前の昔の駅舎とは大部違っていることだろう。 駅舎を横目に見ながら、更にゆっくり前進させると、やがて大きな埠頭にでて、ここで行き止まりである。 むろん岸壁には全く線路の面影は無い。 かっては宇野駅から線路が岸壁端まで在って、接岸された連絡船内まで延びていた。 そう、ここは北の青森駅の「青函連絡鉄道」同様、西国唯一の四国・高松を結ぶ国道フェリー「宇高連絡鉄道」の埠頭ターミナルであった。 当時の国鉄時代の鉄道車両を積載した岸壁は今は瀬戸大橋の開通とともに廃止され、普通の埠頭に改修された。 そして、目の前に大きく横たわる「直島」、「高松」へのフェリー埠頭になっている。 現在、直島に向かう船はこの宇野港と更に、直島から香川・高松港へ連絡している。 この便は今も昔も変わらないようである。 小生とって、宇野港、直島そして高松は、青春の一ページを飾った懐かしい土地柄である。 20代後半(昭和43年)、品川白煉瓦(製鉄、非鉄精錬に要する耐火炉材のメーカー)の東京本社に勤務していた。 業務上、香川県・直島の三菱金属精錬へ銅溶解炉建設のため、凡そ1年間の出張勤務を命ぜられた。東京から直島までの行程は東海道本線、山陽本線の「寝台専用列車・瀬戸」か、新幹線で新大阪(当時は新幹線は東京⇔新大阪のみ)を乗り換え山陽本線にて岡山、宇野に達するかの何れかで、宇野からは乗合船(フェリー)で島へ渡ったものである。 殆どは、全室個室の「走るホテル」と言われた寝台専用列車・「瀬戸」を利用し、東京駅を22時前後発で、終着宇野へは翌朝の7〜8時頃の到着であった。 宇野は、列車や乗合船を待つ間や休日には遊興、買い物等でブラブラした街であった。 直島までの乗合船は、「宮之浦」という港を出入りしていて、勤務する為の宿屋がこの港の上部、見晴らしの良いところに在った。 記憶に残るのは、朝6時頃の一番船が出る頃、船長が好きだったのかどうか定かではないが、船から当時、流行(はやり)の「長崎ブルース」(青江 ミナ)や「ブルーライト・ヨコハマ」(いしだ あゆみ)の曲を時折、結構大きな音量で流していたことであり、それがハッキリ宿屋の部屋まで達していたことである。 朝の目覚めの時間帯であったので、さして苦にはならなかったけど、早朝の頃に夜のムーディーな曲を流す不思議さと、連日、聞かされたため知らぬ間に歌詞を覚えてしまった事であった。 そして、給料日の後は、チョット贅沢に高松まで繰り出して遊興を楽しんだものであった。 今の宇野港は、昔の面影は全く無いのは当然ながら、記憶の方も彼方へ消し去っていたようである。 又、3億円強奪事件が発生したのもこの頃であった。 「昭和43年12月10日午前9時30分頃、東芝府中工場のボーナス3億円(実際には2億9434万1500円)を積んだ日本信託銀行・国分寺支店の現金輸送車が、ニセ白バイの警官に現金輸送車ごと盗まれた。日本史上はじまって以来の巨額強奪事件で、3億円は今の貨幣価値でいっても30億円近い金額であり、昭和63年同日、民事上の時効が発生、今も未解決である。」 「直島」は、岡山県・玉野市(宇野)の目の前に在り、当然、経済、文化、社会の面では岡山県との結びつきが強い。 しかしながら行政上は讃岐・香川県に属しているらしい。 江戸期、直島諸島と「小豆島」は、その海上交通上の重要性から徳川氏の直轄領となって讃岐国に移し替えられ、明治維新後は香川県に属したまま今日に至っているという。 また、保元の乱(平安期1156年)で敗れた崇徳上皇(すとくじょうこう:讃岐・金毘羅宮に大物主神:おおものぬしのかみと共に同祀)が讃岐へ流される際に、一時、四国上陸を拒否され、三年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたとされてる。 島内各地に上皇ゆかりの地名や名所があり、直島という島名自体も島民の純朴さ、素直さを賞賛して上皇が命名したという言い伝えがある。 直島村は大正期、三菱鉱業の打診した銅製錬所を受け入れ(現、三菱マテリアル)、煙害、公害問題を発生させながらも、三菱の企業城下町として一気に発展し、人口増加と豊かな税源等で香川県内でも有数の豊かな生活が手に入ったという。 思い出の地「直島」へ渡って、当時の小生の足跡を辿ってみたいのだが・・んん・・!!。 次回は、倉敷・「鷲羽山」
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日本周遊紀行(93)和気 「和気清麻呂」 、
和気出身の「和気清麻呂」は天皇継承に関して多大な貢献をした・・、 岡山の北東、西大寺に沿う「吉井川」の上流地域に「和気町」がある。 和気は、古代より官道に沿う要衝の地であり、一帯は、「吉備の国」と称して(山陽地方の古代国名、大化改新後備前、備中、備後、美作に分かれる)筑紫、出雲、飛鳥の四大古代日本文化の発祥地ともいわれている。 そして名称の如く和気氏の祖、古代史上馴染みの和気清麻呂(わけのきよまろ・733〜799)の出生地と伝えられている。 当地の豪族・和気氏と大和王朝との係わりが深く、その後の奈良・平安の両時期にわたり大いに栄えたという。 中でも和気清麻呂は奈良期から平安期の転換期、朝廷にて桓武天皇の信任厚く活躍した人物で、この時期「道鏡事件」という天皇継承事件が発生し、これを取り纏めた人物として後世にその名を留めた。 更に清麻呂は、「平安遷都」の立案者であったことも史上有名である。 道鏡事件とは・・ 、 淳仁天皇が即位したのは奈良後期(758年頃)であった。 この時、平城京(奈良)を改造する間、仮の宿として保良宮(ほらのみや:滋賀県大津)を造営し、推進したのは天皇の後見人といわれる藤原仲麻呂だった。 近江出身だった仲麻呂は、保良宮をいずれは本格的な都にするはずだった。 (【追記】現在、近江大津に保良宮の痕跡なるものは残ってないが、2006年に京をつなぐ幅18mもの「田原道」という古道が発見されたというニュースがあった。) 天皇の位を譲った孝謙女帝は早速、保良宮に移り住む。 ここで法僧・道鏡(弓削道鏡・ゆげのどうきょう)と知り合うことになる。 奈良期は仏教を中心とした政治が行われていたため、法僧の地位は比較的高く、道鏡は女帝の看病役として寵愛を受け、その後太政大臣にまで出世する。女帝は奈良の都に戻って淳仁天皇を廃し、自らが称徳天皇と名乗って、再び即位する。(道鏡の意もあったとされる)この時、あわてた仲麻呂は、これを阻止しようと反乱を企てるが、途中で発覚し女帝軍に捕らえられ斬首されてしまう。 女帝の下で権力を欲しいままにした道鏡は、遂に天皇の位まで狙うことになる。 ここで登場するのが「和気清麻呂」である。 こんな時期、豊前国の宇佐八幡宮の宮司が朝廷に、「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)をもたらしたという(これは道鏡の工作による)。 天皇は驚き、神意を確かめるために勅使として清麻呂が選ばれた。 九州に下った清麻呂は豊後の宇佐八幡宮に篭り、正規のご神託を得ることになる。「皇位は、神武天皇からその皇孫(皇男子)が受け継ぐべきものである。皇孫でないものが皇位が継ぐことはならない。」とした。 この万世一系の思想は(継承権は永遠に同一の系統が続くこと、多くは皇統について言われる)、和気清麻呂が起こしたものと思われ、現代にまで受け継がれている。 昭和憲法下でも「皇位継承は世襲のものであって、皇室典範によって細かく定められている。皇室典範第1条では皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と記され、清麻呂の思想以上に具体的になっている。 このことに天皇から反感をかい大隅国に遠島されていた清麻呂は、桓武天皇即位と同時に赦免され京に戻る。 後に、天皇の側近として各種、事業を行い、如いては平安京遷都に尽力する。 京都・神護寺は平安京遷都を祝って清麻呂が建立したものという。 明治期に、清麻呂は「皇位を守った」人神としてとして護王神社に祀られる。 前日の項にも記したが、京都・護王神社(京都市上京区烏丸通・さざれ石・君が代で有名)の主祭神でもある。 又、東京の皇居に「銅像」が建てられている。(気象庁近くの皇居のお堀端に「和気清麻呂」公の銅像があります) 序いでながら先にも記したが・・、 平安遷都を進言した官人・和気清麻呂を祭る護王神社(京都市上京区)は京都御所の西側、蛤御門の向かいに鎮座し、併せて清麻呂公の像も立つ。 又、像のすぐ後ろには、「君が代」に象徴される・通称「さざれ石」というのが座置されている。 この石は、小粒な石が堆積して自然に大きくなった巌とされ、国内でも最大級(高さ2.3m幅3m重さ約7トン)で、まさに大きな巌で静かに時代の推移を見守ってきた。この「さざれ石」は、国歌「君が代」に詠まれた由緒ある石だという。 『 わがきみは 千代にましませ さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 』 古今和歌集・よみ人しらず (あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となって、苔が生える、さきざしまでも) 新潮日本古典集 「わが君」が「君が代に」に、「千代にましませ」は「千代に八千代に」に変わったのは、平安期の藤原公任(きんとう・966〜1041)が編纂した「和漢朗詠集」の流布本(るふぼん:広く世に知られている本)によるといわれる。 明治憲法は「万世一系の天皇はこれを統治す」として、「君が代」は天皇自身を指すとされていたが、近年の国文学者などによると古来の歌詞の意味で、『「わがきみは」の「わが」は親しみをこめて添えた接頭語、「きみ・君」は天皇を指すのではなく、本心から敬う人物を対象に広い意味の人民として使われる。親しい相手の長寿を祝うこの歌は、古い民謡の面影を伝え、思いやりに溢れている』と解説している。 明治期には、歌の解釈が当時の「富国強兵」に解釈利用され翻弄された一方で、護王神社の宮司は「国民が末永く平和で繁栄を願う精神を表している」というふうに、天皇賛美を超えてこの歌が親しまれていることには間違いないという。 『日本国国家』 君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで (現代語訳) 君が代は(我が国、我が民、我が皇室) 千年も八千年も(末永く・・) 細石が 大きな岩になって それにさらに苔が生えるほどまで 長く長くずっと続きますように。 尚、戦後(特に1980年代以降)国内では、各方面から国家「君が代」に対する肯定的或いは批判的意見が主張されるようになり、アジア地域等を含めて物議をかもした。 そして、様々な思惑が交叉する中の平成8年(1996年)、当時の文部省の指導で、教育現場においては「日章旗」(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化されることになった。 次回、瀬戸内・「直島」
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日本周遊紀行(92)岡山 「吉備国と岡山城」 、
岡山城(烏城)と後楽園 古代の中国地方は「吉備国」といわれ、その中心は岡山であった・・!、 西大寺から凡そ西に10km程度で、備前・岡山の中心都市「岡山」である。 古代、つまり弥生時代から古墳、飛鳥時代の頃は岡山は「吉備国」であり、筑紫(九州地方)、出雲、ヤマト(飛鳥地方)、毛野国(けのくに、けぬくに:北関東の栃木、群馬あたり)などと並んで、日本列島を代表する一大豪族政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献したとされる。 吉備や吉備の国と聞いて、先ず思うことは桃太郎の物語であり、幼少の頃より桃太郎の吉備ダンゴ(黍:きびダンゴ)などでもお馴染みであった。 桃太郎の物語は犬、サル、雉を従えて鬼が島に鬼退治に出かけ、桃太郎が鬼を征服する話である。 この桃太郎伝承では歴史上では古代、吉備国と出雲国において、鉄を巡る争いとも言われる。 中国山脈では特に出雲地方を中心に砂鉄を産し、百済の国の製鉄技術を導入して、鉄器である武器、農具が多くつくられた。 一般には、桃太郎は天皇の皇子で吉備津彦命であり、鬼は出雲族の王(百済の王子温羅:うら)ともいわれる。 現在でも三備地方(備前、備中、備後)には一の宮として吉備津神社が存在し、其々、同一の吉備津彦命を祀っている。 その後、奈良期の律令制の制定において吉備国は備前国、備中国、備後国、美作国の4カ国に分割され、その備前国の国府が現在の岡山市域内に置かれた。 備前国の岡山と言えば岡山城であり戦国期、宇喜多氏や小早川氏が思い起こされる。 戦国時代に、岡山の地の交通の便と土地の広さに目を付けたのが宇喜多直家であった。 直家が始めた城下町・岡山の振興は、嫡男の秀家の代にも続けられ、これ以後、岡山は主に備前国の政治・経済の中心地となった。 岡山城の増改築は宇喜多直家の手によって始まったが、直家の死後あとを嗣いだ秀家は豊臣秀吉の信任を得て文禄3年(1594)からさらに城の大改築を行った。 時に、秀家は57万石の太守であり、城もそれにふさわしい大規模なもので、天守は安土城天守に似て造営したとされ、五層六階、櫓など城内に林立する稀代の名城になった。 だが、宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで西軍の大将に祭上げられ敗戦と同時に没落すると、1601年(慶長6年)に小早川秀秋が岡山城に入った。 ここで、関が原合戦の際の勝敗の一因として、小早川氏が挙げられるが・・!、 ともあれ、戦後の論功行賞では岡山藩55万石に加増・移封された。 岡山に移った秀秋は居城岡山城を改築するとともに、検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めた。 しかし、間もなく秀秋は関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)に早世した。 享年21歳という若さであった。 この早世に関して、大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説もある。 秀秋の死後、小早川家は後継者なく断絶により改易された。 これは徳川政権初の無継改易であった。 小早川氏は、小生の住む近隣地・小田原の出実であることから、一言加えておきたい。 小早川氏は毛利氏の三首脳(本家・毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三兄弟)の一人であることは周知である 小早川氏の祖は鎌倉期の創世記、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町土肥)を本拠地としていた頼朝の第一の忠臣・「土肥実平」の子とされる。 その子の遠平が小田原の早川の地を与えられ、小早川を名乗ったことに始まるという。 源頼朝が幕府を開き守護・地頭を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。 戦国時代に入ると中国を支配した大内家傘下の国人領主となるが、その後、大内氏が毛利に亡ぼされると、1544年に毛利元就の三男・隆景が小早川家の養子に迎えられる。 小早川隆景は兄の吉川元春とともに毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老になる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと) 本能寺の変後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立すると、毛利家は豊臣政権下では五大老にまでなる。 この頃、隆景には子供がいなかったため、家督は豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が養子として継ぎ、小早川本家は毛利一門と併せて、豊臣一門にもなった。 小早川秀秋は関ヶ原の戦いで、秀吉の正妻・北の政所の影響で西軍から東軍に寝返ったとされ、その結果、戦局は大きく東軍(徳川方)に傾き、勝敗を決したとされる。 その功績により備前51万石に加増移封されたが、若き秀秋には嗣子が無く、岡山城へ入城してから僅か2年足らずで早々に病没し、小早川家は名実ともに断絶した、というのが定説になっていた。 ところが、最近年の2007年10月、秀秋には側室の子・土肥秀行がおり、足守木下家(秀吉の正妻・「ねね・北政所」の出身地)に仕えて存続したとする家伝が、隆景像とともに子孫である足守藩士(備中岡山)の家から発見されたという。 この家系が他の秀秋の兄弟による跡目の継承によって復活したものでない秀秋の血統であるとすると、豊臣姓・小早川(土肥)氏は、現在も存続していることになるともいわれる。 岡山城には秀秋の死後は池田忠継が入り、以後江戸時代を通じて岡山は池田氏の城下町となった。 城下町としての岡山は発展を続け、池田氏第四代の綱政の代である1707年(宝永4年)には町方人口が3万人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万〜5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。 この時期、日本三名園の一つである「後楽園」が造成されている。 次回は、和気の「和気清麻呂」
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日本周遊紀行(92)岡山 「西大寺」 、
吉井川の河口にある「西大寺」 日本の奇祭・裸祭りの「西大寺」・・ 、 天下の国道2号線のバイパスを西に向かって進む途中に吉井川のたもと、あの「裸祭り」で有名な「西大寺」があった。 いきなり大甍(おおいらか)を配した本堂前に出たようである。 一隅に、のんびりと母子がじゃれあって遊ぶ姿が長閑で良い。広い境内の隅に祭り用の観覧席であろう、雛壇様(ひなだんよう)に並んでいる。 西大寺創建の歴史は古く、奈良時代の天平に遡るという。 創建当初の境内域は広大で、約48ヘクタール(1ha=1万平方米)にも及んで、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など実に百十数宇の堂舎が並んでいたという。 寺の所在は備前第一の大河である吉井川の河口に位置して交通の要地でもあった。 そのため門前町が発達して座商人が各地から集まり、西大寺は備前南部における信仰、交易、商業の中心地として栄えたという。 文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。 現在は、本堂をはじめ仁王門、三重ノ塔、大師堂、経蔵、鎮守堂等が配せられている。 鎮守堂には一山の守護神である牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん:本尊・千手観音の守護神)が祀られているほか、金毘羅大権現(金刀比羅宮)が合祀されている。 世に有名な「裸祭り」は、牛玉所大権現の信仰が特異な行事に発展したものと言われ、毎年、2月の第3土曜日の寒中に行われる日本三大奇祭と言われる祭りである。 深夜、西大寺観音院本堂大床(おおゆか)に参集した、ふんどし一丁の男たち約9千人が、12時(0時)に投下される2本の宝木(しんぎ・牛玉所大権現の札木)をめぐって、裸男たちがすさましい争奪戦を繰り広げる。 会陽は近年、死者を出したほどに荒っぽい。 宝木を拾う福男になるには、よほどの運の良さと体力が勝負であることはTVの映像などでも判る。 宝木には地元のスポンサーにより賞金がついているそうで、争奪戦にも一層熱が入る。 規模といい、内容といい、知名度といい、これはどう見ても天下の奇祭である。 「裸祭り」の根源とは・・?、 裸祭りは全国各地、北海道から九州までの各地神社で行われているようである。 一般には、その年の豊作と繁栄を願う祭で、農機具などが近代化される前は、強い働き手となる男性の存在が最も求められており、併せて、成人男女の出会いの場、強く逞しい裸体を披露することで婚姻相手を探していたともいわれる。 家督の維持、子孫の繁栄には強く逞しい男性の存在が欠かせず、裸祭を通じて男性は村の長老や女性に披露することで、結婚相手となる嫁や自家への入婿を探す男女の出会いの場として、村の行事のうち最重要の位置付けとされていた。 裸祭に神木の取り合い等の闘争が多いのも、闘争能力の高さが男性の強さや生殖能力を象徴し、農家でより強い働き手であることを示すものでもあるだけに、伝統的に裸祭の参加は成人男性に限定されていた。 裸祭は禊(みそぎ・水で身体を清める)の後、お堂の内外で神木、玉など、その祭の「象徴」を奪い合う場合が多い。 その時期は、休耕となる真冬を中心に開催されるものが多く、これは冬場の娯楽の少ない農耕社会で鬱積した気分を解消させることを目的としていたともいわれる。 又、男性の闘争本能を呼び起こさせることで、地域社会の若者層の暴走を抑えることや、厳しい冬の寒さの中を裸で立ち向かわせることで、逞しい男らしさを演出させることでもあった。 一方、真夏に漁師を主体とした神輿を担ぐ祭、春から秋に掛けて神輿や山車を担いだり曳いたりする祭りもある。 この「裸祭り」ついて、昨今の世相を反映してか、本年(2008年)ある問題が提起された。 岩手県奥州市の黒石寺で1000年以上の歴史がある「蘇民祭」(岩手県を中心に伝わる裸祭り)の観光ポスター掲示をめぐって、JR側が「ポスターは客に不快感を与えるかもしれない」として断ったという。 ポスターは写真3枚を組み合わせたもので、「ひげ面に胸毛がある男性が大きく掲載され、奥に下帯姿の男性らがいる」絵を表示したものである。 「単純に裸がダメというわけではないが、胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」としたものであった。 ポスターなどは、万人に全てに対して好意的だとはとは考えにくい媒体だけに、主観の入るセクハラ道義にはどうかと思うが、 セクハラとは、セクハラだと思ったらセクハラだという定義を聞いたことがある、このポスター提示に関しては意見が様々なようでもある。 私見だが・・、 この祭りは「奇祭」なのである。 世に言う歴史と伝統のある「天下の奇祭」なのである。 たかがポスター一枚に関して、一言、二言苦言があったからといって、直に反応するのは如何なものか・・?、 過敏に反応しすぎるのは、昨今のお粗末な男女自由平等主義や敏感に反応する世相に似ている。 現代人は過去の人々と比して、「おおらかさ」という人間本来の気概を失っているのでは・・?。 その内、「裸祭り」そのものも問題になって、歴史から消されてしまう時期が来るのではないかと、聊かな危惧の念も感じるのである。 西大寺は、中国三十三観音霊場の第一番札所でもある。 お参りした後、先程から母子で睦まじく戯れているのを垣間見ながら、偶然その傍を通り退出しようとした。 小っちゃな女の子に何気なく「バイバイ」と挨拶したら、予期せぬような返事で「ばいばい」と、にこやかに手を振り、そして、若くて美しい母親もニッコリ笑顔で会釈してくれた。 こんな胡散臭い「おじん」に、母子観音のような素直な笑顔で挨拶を返せる親子が羨ましく、微笑ましく、心が和み、得したような気持ちになった。 これも、西大寺・観音菩薩の思し召しか・・!。 次回は、岡山 「吉備国と岡山城」
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