『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

岡山県

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宇野港の正面に位置する「直島」は、我が青春の1ページに残る・・、

さて、国道2号線より「児島湾大橋」を渡り、湾岸をかすめて宇野港へ向かっている。
大橋から児島湾沿いに県道45号(岡山―玉野線)を行くと、微かに望める対岸より一直線にこちらに向って伸びる大橋が目に付いた・・?が、左右に工作物らしいのが広がっていて橋ではなさそうなのである。 どうも此れは堰堤らしい・・、ここを境に海面の色や岸辺の状況が異なるようにも感じを受けたのはそのせいであった。そう、ここはすでに「児島湖」で淡水湖らしい。
これだけ陸に入り組んで接している湾海は、常識的には汽水湖のはずであるが、この堤を境に半ば強制的に淡水化されてしまったらしい。しかも、現在の児島湖は岡山市西部を流れる笹ヶ瀬川、倉敷市から流れる倉敷川などの水が生活雑水も混じって放流され、相当汚れた水になっているらしい。 すでに感覚的にも許容限度を越えており、負のイメージが湖周地域を覆っていて、日本でも最も水質汚染の激しい湖沼の一つとなっているらしい。 現在、湖沼水質保全特別措置法指定湖沼にもなっているという。 
元々、この灘崎町(現岡山市)は倉敷南部の所謂、岡山平野といわれる南部地域は瀬戸内海の浅瀬が広がる海であって、その隔てられた向かいの大島が「吉備児島」(現玉野市、倉敷南部)といわれた。 海域が浅瀬だったため容易に干拓が行はれ、既に室町時代のころには埋め立てによる新田開発が始まったともいう。 そして江戸期には、吉備児島は陸続きの半島となり、更に戦後の昭和期には国家事業として干拓が進められ、児島湾の一部を干拓堤防で閉め切って灌漑用水とし児島湖が完成したという。
しかし、この干拓地は低湿地のため排水が完全にはされず水質汚濁の要因にもなり、又、現在は減反の時代でもあって、干拓農地は重荷になっているのが実状といわれる。
堰堤には完成記念碑があり、昭和天皇の歌碑もある。

『 海原を せきし堤に たちて見れば  
しほならぬうみに かはりつつあり 』  

長い、尾坂トンネルを抜けると県道22号線となり、やがてJR宇野線と真近に並行しながら南下すると行き着くところが宇野の街である。 あまり往来する人もないアーケードの商店街を更に進むと、洒落た赤い三角屋根の宇野駅であった。当然ながら40数年前の昔の駅舎とは大部違っていることだろう。 駅舎を横目に見ながら、更にゆっくり前進させると、やがて大きな埠頭にでて、ここで行き止まりである。 むろん岸壁には全く線路の面影は無い。
かっては宇野駅から線路が岸壁端まで在って、接岸された連絡船内まで延びていた。 そう、ここは北の青森駅の「青函連絡鉄道」同様、西国唯一の四国・高松を結ぶ国道フェリー「宇高連絡鉄道」の埠頭ターミナルであった。 当時の国鉄時代の鉄道車両を積載した岸壁は今は瀬戸大橋の開通とともに廃止され、普通の埠頭に改修された。そして、目の前に大きく横たわる「直島」、「高松」へのフェリー埠頭になっている。
現在、直島に向かう船はこの宇野港と更に、直島から香川・高松港へ連絡している。この便は今も昔も変わらないようである。
小生とって、宇野港、直島そして高松は、青春の一ページを飾った懐かしい土地柄である。

20代後半(昭和43年)、品川白煉瓦(製鉄、精錬に要する耐火炉材もメーカー)の東京本社に勤務していた。業務上、香川県・直島の三菱金属精錬へ銅溶解炉建設のため、凡そ1年間の出張勤務を命ぜられた。東京から直島までの行程は東海道本線、山陽本線の「寝台専用列車・瀬戸」か、新幹線で新大阪(当時は新幹線は東京⇔新大阪のみ)を乗り換え山陽本線にて岡山、宇野に達するかの何れかで、宇野からは乗合船(フェリー)で島へ渡ったものである。 殆どは、全室個室の「走るホテル」と言われた寝台専用列車・「瀬戸」を利用し、東京駅を22時前後発で、終着宇野へは翌朝の7〜8時頃の到着であった。
宇野は、列車や乗合船を待つ間や休日には遊興、買い物等でブラブラした街であった。直島までの乗合船は、「宮之浦」という港を出入りしていて、勤務する為の宿屋がこの港の上部、見晴らしの良いところに在った。
記憶に残るのは、朝6時頃の一番船が出る頃、船長が好きだったのかどうか定かではないが、船から当時、流行(はやり)の「長崎ブルース」(青江 ミナ)や「ブルーライト・ヨコハマ」(いしだ あゆみ)の曲を時折、結構大きな音量で流していたことであり、それがハッキリ宿屋の部屋まで達していたことである。 朝の目覚めの時間帯であったので、さして苦にはならなかったけど、早朝の頃に夜のムーディーな曲を流す不思議さと、連日、聞かされたため知らぬ間に歌詞を覚えてしまった事であった。
給料日の後は、チョット贅沢に高松まで繰り出して遊興を楽しんだものであった。
今の宇野港は、昔の面影は全く無いのは当然ながら、記憶の方も彼方へ消し去っていたようである。

又、3億円強奪事件が発生したのもこの頃であった・・、
「昭和43年12月10日午前9時30分頃、東芝府中工場のボーナス3億円(実際には2億9434万1500円)を積んだ日本信託銀行・国分寺支店の現金輸送車が、ニセ白バイの警官に現金輸送車ごと盗まれた。日本史上はじまって以来の巨額強奪事件で、3億円は今の貨幣価値でいっても30億円近い金額であり、昭和63年同日、民事上の時効が発生、今も未解決である。」

「直島」は、岡山県・玉野市(宇野)の目の前に在り、当然、経済、文化、社会の面では岡山県との結びつきが強い、しかしながら行政上は讃岐・香川県に属している。 江戸期、直島諸島と「小豆島」は、その海上交通上の重要性から徳川氏の直轄領となって讃岐国に移し替えられ、明治維新後は香川県に属したまま今日に至っているという。
また、保元の乱(平安期1156年)で敗れた崇徳上皇(すとくじょうこう:讃岐・金毘羅宮に大物主神:おおものぬしのかみと共に同祀)が讃岐へ流される際に、一時、四国上陸を拒否され、三年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたとされてる。 島内各地に上皇ゆかりの地名や名所があり、直島という島名自体も島民の純朴さ、素直さを賞賛して上皇が命名したという言い伝えがある。
直島村は大正期、三菱鉱業の打診した銅製錬所を受け入れ(現、三菱マテリアル)、煙害、公害問題を発生させながらも、三菱の企業城下町として一気に発展し、人口増加と豊かな税源等で香川県内でも有数の豊かな生活が手に入ったという。
思い出の地「直島」へ渡って、当時の小生の足跡を辿ってみたいのだがが・・んん・・!!。

次回は、倉敷・鷲羽山へ・・、

和気出身の「和気清麻呂」は天皇継承に関して多大な貢献をした・・、 

この西大寺に沿う「吉井川」の上流地域に「和気町」がある。
和気は、古代より官道に沿う要衝の地であり、一帯は、「吉備の国」と称して(山陽地方の古代国名、大化改新後備前、備中、備後、美作に分かれる)筑紫、出雲、飛鳥の四大古代日本文化の発祥地ともいわれている。そして名称の如く和気氏の祖、古代史上馴染みの和気清麻呂(わけのきよまろ・733〜799)の出生地と伝えられている。 当地の豪族・和気氏と大和王朝との係わりが深く、その後の奈良・平安の両時期にわたり大いに栄えたという。 中でも和気清麻呂は奈良期から平安期の転換期、朝廷にて桓武天皇の信任厚く活躍した人物で、この時期「道鏡事件」という天皇継承事件が発生し、これを取り纏めた人物として後世にその名を留めた。更に清麻呂は、「平安遷都」の立案者であったことも史上有名である。

道鏡事件とは・・・、
淳仁天皇が即位したのは奈良後期(758年頃)であった。この時、平城京(奈良)を改造する間、仮の宿として保良宮(ほらのみや:滋賀県大津)を造営し、推進したのは天皇の後見人といわれる藤原仲麻呂だった。近江出身だった仲麻呂は、保良宮をいずれは本格的な都にするはずだった。(【追記】現在、近江大津に保良宮の痕跡なるものは残ってないが、2006年に京をつなぐ幅18mもの「田原道」という古道が発見されたというニュースがあった。)天皇の位を譲った孝謙女帝は早速、保良宮に移り住む。ここで法僧・道鏡(弓削道鏡・ゆげのどうきょう)と知り合うことになる、奈良期は仏教を中心とした政治が行われていたため、法僧の地位は比較的高く、道鏡は女帝の看病役として寵愛を受け、その後太政大臣にまで出世する。女帝は奈良の都に戻って淳仁天皇を廃し、自らが称徳天皇と名乗って、再び即位する。(道鏡の意もあったとされる)この時、あわてた仲麻呂は、これを阻止しようと反乱を企てるが、途中で発覚し女帝軍に捕らえられ斬首されてしまう。女帝の下で権力を欲しいままにした道鏡は、遂に、天皇の位まで狙うことになる。 ここで登場するのが「和気清麻呂」である。
こんな時期、豊前国の宇佐八幡宮の宮司が朝廷に、「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)をもたらしたという(これは道鏡の工作による)。天皇は驚き、神意を確かめるために勅使として清麻呂が選ばれた。 九州に下った清麻呂は豊後の宇佐八幡宮に篭り、正規のご神託を得ることになる。「皇位は、神武天皇からその皇孫(皇男子)が受け継ぐべきものである。皇孫でないものが皇位が継ぐことはならない。」とした。 この万世一系の思想は(継承権は永遠に同一の系統が続くこと、多くは皇統について言われる)、和気清麻呂が起こしたものと思われ、現代にまで受け継がれている。 昭和憲法下でも「皇位継承は世襲のものであって、皇室典範によって細かく定められている。皇室典範第1条では皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と記され、清麻呂の思想以上に具体的になっている。
このことに天皇から反感をかい大隅国に遠島されていた清麻呂は、桓武天皇即位と同時に赦免され京に戻る。後に、天皇の側近として各種、事業を行い、如いては平安京遷都に尽力する。京都・神護寺は平安京遷都を祝って清麻呂が建立したものという。
明治期に、清麻呂は「皇位を守った」として護王神社に祀られる。 前日の項にも記したが、京都・護王神社(京都市上京区烏丸通・さざれ石・君が代で有名)の主祭神でもある。又、東京の皇居に「銅像」が建てられている。

序いでながら先にも記したが・・、平安遷都を進言した官人・和気清麻呂を祭る護王神社(京都市上京区)は京都御所の西側、蛤御門の向かいに鎮座し、併せて清麻呂公の像も立つ。 又、像のすぐ後ろには、「君が代」に象徴される・通称「さざれ石」というのが座置されている。 この石は、小粒な石が堆積して自然に大きくなった巌とされ、国内でも最大級(高さ2.3m幅3m重さ約7トン)で、まさに大きな巌で静かに時代の推移を見守ってきた。この「さざれ石」は、国歌「君が代」に詠まれた由緒ある石だという。

『 わがきみは 千代にましませ さざれ石の 
巌となりて 苔のむすまで 』  (古今和歌集 よみ人しらず)
(あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となって、苔が生える、さきざしまでも)  新潮日本古典集

「わが君」が「君が代に」に、「千代にましませ」は「千代に八千代に」に変わったのは、平安期の藤原公任(きんとう・966〜1041)が編纂した「和漢朗詠集」の流布本(るふぼん:広く世に知られている本)によるといわれる。
明治憲法は「万世一系の天皇はこれを統治す」として、「君が代」は天皇自身を指すとされていたが近年の国文学者などによると、古来の歌詞の意味で、『「わがきみは」の「わが」は親しみをこめて添えた接頭語、「きみ・君」は天皇を指すのではなく、本心から敬う人物を対象に広い意味の人民として使われる。 親しい相手の長寿を祝うこの歌は、古い民謡の面影を伝え、思いやりに溢れている』と解説している。
明治期には、歌の解釈が当時の「富国強兵」に解釈利用され翻弄された一方で、護王神社の宮司は「国民が、末永く平和で繁栄を願う精神を表している」というふうに、天皇賛美を超えてこの歌が親しまれていることには間違いないという。 

『日本国国家』
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで

(現代語訳)
君が代は
千年も八千年も(末永く・・)
細石が
大きな岩になって
それにさらに苔が生えるほどまで
長く長くずっと続きますように。

尚、戦後(特に1980年代以降)国内では、各方面から国家「君が代」に対する肯定的或いは批判的意見が主張されるようになり、アジア地域等を含めて物議をかもした。そして、様々な思惑が交叉する中の平成8年(1996年)、当時の文部省の指導で、教育現場においては「日章旗」(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化されることになった。

次回、瀬戸内・直島・・、

イメージ 1

               写真:吉井川の河口にある「西大寺」


日本の奇祭・裸祭りの「西大寺」・・、 
  
先へ進む・・、
途中に吉井川のたもと、あの「裸祭り」で有名な「西大寺」があった。いきなり大甍(おおいらか)を配した本堂前に出たようである。 一隅に、のんびりと母子がじゃれあって遊ぶ姿が長閑で良い。広い境内の隅に祭り用の観覧席であろう、雛壇様(ひなだんよう)に並んでいる。
西大寺創建の歴史は古く、奈良時代の天平に遡るという。 創建当初の境内域は広大で、約48ヘクタール(1ha=1万平方米)にも及んで、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など実に百十数宇の堂舎が並んでいたという。 
寺地は、備前第一の大河である吉井川の河口に位置して交通の要地でもあった。そのため門前町が発達して座商人が各地から集まり、西大寺は備前南部における信仰、交易、商業の中心地として栄えたという。 文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。
現在は、本堂をはじめ仁王門、三重ノ塔、大師堂、経蔵、鎮守堂等が配せられている。 鎮守堂には一山の守護神である牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん:本尊・千手観音の守護神)が祀られているほか、金毘羅大権現(金刀比羅宮)が合祀されている。 

世に有名な「裸祭り」は、牛玉所大権現の信仰が特異な行事に発展したものと言われ、毎年、2月の第3土曜日の寒中に行われる日本三大奇祭と言われる祭りである。 深夜、西大寺観音院本堂大床(おおゆか)に参集した、ふんどし一丁の男たち約9千人が、12時(0時)に投下される2本の宝木(しんぎ・牛玉所大権現の札木)をめぐって、裸男たちがすさましい争奪戦を繰り広げる、会陽は近年、死者を出したほどに荒っぽい。
宝木を拾う福男になるには、よほどの運の良さと体力が勝負であることはTVの映像などでも判る。宝木には地元のスポンサーにより賞金がついているそうで、争奪戦にも一層熱が入る。 規模といい、内容といい、知名度といい、これはどう見ても天下の奇祭である。 

「裸祭り」の根源とは・・?、
裸祭りは全国各地、北海道から九州までの各地神社で行われているようである。一般には、その年の豊作と繁栄を願う祭で、農機具などが近代化される前は、強い働き手となる男性の存在が最も求められており、併せて、成人男女の出会いの場、強く逞しい裸体を披露することで婚姻相手を探していたともいわれる。
家督の維持、子孫の繁栄には強く逞しい男性の存在が欠かせず、裸祭を通じて男性は村の長老や女性に披露することで、結婚相手となる嫁や自家への入婿を探す男女の出会いの場として、村の行事のうち最重要の位置付けとされていた。 裸祭に神木の取り合い等の闘争が多いのも、闘争能力の高さが男性の強さや生殖能力を象徴し、農家でより強い働き手であることを示すものでもあるだけに、伝統的に裸祭の参加は成人男性に限定されていた。
裸祭は禊(みそぎ・水で身体を清める)の後、お堂の内外で神木、玉など、その祭の「象徴」を奪い合う場合が多い。その時期は、休耕となる真冬を中心に開催されるものが多く、これは冬場の娯楽の少ない農耕社会で鬱積した気分を解消させることを目的としていたともいわれる。又、男性の闘争本能を呼び起こさせることで、地域社会の若者層の暴走を抑えることや、厳しい冬の寒さの中を裸で立ち向かわせることで、逞しい男らしさを演出させることでもあった。
一方、真夏に漁師を主体とした神輿を担ぐ祭、春から秋に掛けて神輿や山車を担いだり曳いたりする祭りもある。

この「裸祭り」ついて、昨今の世相を反映してか、本年(2008年)ある問題が提起された。
岩手県奥州市の黒石寺で1000年以上の歴史がある「蘇民祭」(岩手県を中心に伝わる裸祭り)の観光ポスター掲示をめぐって、JR側が「ポスターは客に不快感を与えるかもしれない」として断ったという。 ポスターは写真3枚を組み合わせたもので、「ひげ面に胸毛がある男性が大きく掲載され、奥に下帯姿の男性らがいる」絵を表示したものである。「単純に裸がダメというわけではないが、胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」としたものであった。
ポスターなどは、万人に全てに対して好意的だとはとは考えにくい媒体だけに、主観の入るセクハラ道義にはどうかと思うが・・、セクハラとは、セクハラだと思ったらセクハラだという定義を聞いたことがある、このポスター提示に関しては意見が様々なようでもある。その内、「裸祭り」そのものも問題になる時期が近いのでは・・?。

西大寺は、中国三十三観音霊場の第一番札所でもある。
お参りした後、先程から母子で睦まじく戯れているのを垣間見ながら、偶然その傍を通り退出しようとした。小っちゃな女の子に何気なく「バイバイ」と挨拶したら、予期せぬような返事で「ばいばい」と、にこやかに手を振り、そして、若くて美しい母親もニッコリ笑顔で会釈してくれた。 こんな胡散臭い「おじん」に、母子観音のような素直な笑顔で挨拶を返せる親子が羨ましく、微笑ましく、心が和み、得したような気持ちになった。これも、西大寺・観音菩薩の思し召しか・・!。

次回は、和気の「和気清麻呂」・・、

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