『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(4)
 
 

「雲外の鶴 籠の中の鶏」・・、

松蔭は、下田沖でペリーの艦隊に潜入し、密航を図ったがペリーに良心的に拒否され、身柄を拘束された。 
その後、下田獄から江戸・伝馬町の獄舎へ移され、更に、萩へ護送されて暫し父・杉百合乃助の元で謹慎処分になっていた。 
萩では、藩命により武士専用の「野山獄」に収容された。


この時、綴られた松蔭の詩に・・、

逸気神州を隘(せま)しとし
乃ち五州を窮(きわ)めんと欲す
憐れむべき蹉跌の後
一室に孤囚となる
 

日本は狭い
世界を知ってやろうと勇んでみたが
哀れ失敗に終わり
今は独房にいる
(現代語訳)


『 雲外の鶴 籠の中の鶏 』 
(大海を夢見た松蔭は、今は野山獄の一個になってしまった)



1859年(安政6年)、吉田松陰は萩より江戸に送還され、処刑されている。
この間、萩で謹慎、蟄居中の頃、捕われれの身でありながら半分は自由の身であった。 
松蔭は近隣の青少年の教育をはじめている。 
これが世に言う松蔭の「松下村塾」であった。

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。 
後に、松陰は1855年(安政2年)に、実家である杉家に謹慎、蟄居するにおよんで、杉家の母屋を増築して塾を主宰した。 
藩の許可を得るが、松陰が「安政の大獄」で粛清された為に、僅か3年で廃止におい込まれた。


一方、藩校・明倫館でも塾頭を務めた松陰は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れている。 

松蔭の講義については、門人によると・・,

『先生は、教え方はあまり流暢ではなかった。 正座し、膝の上に脇差を置いて常に両手で両端を押さえて、肩を張って話をしていた。 講義をされる際、忠臣や徳人が自分の身を犠牲にして義に殉ずるくだりになると、先生は大粒の涙を浮かべ、声を震わし、時にはその熱い涙が本の上に点々とこぼれていった。 このため講義を聴いている門弟たちは皆感動し、同じように涙を流したもんだ。 忠臣には涙をし、逆臣には目をカッと見開いて声を張り上げ、怒りをあらわにした』 と言う。
誠に生き、義に殉じた松蔭ならではの人柄であり感情なのである。


村塾は短期間しか存続しなかったが、尊皇攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出した。 
著名な門下生には久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江杉蔵、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、小野述信らがいる。

その内、久坂玄瑞(松蔭の義弟、蛤御門の変で討ち死に、享年25歳)、高杉晋作(奇兵隊を創設、第二次長征で幕府を討ち薩長同盟の立役者、肺結核のため死去、享年27歳)、吉田稔麿(奇兵隊員、新撰組・池田屋事件で討ち死、享年24歳)、入江杉蔵(奇兵隊の参謀、蛤御門の変で討ち死に、享年28歳)を塾生門人の「四天王」と呼ばれている。 
門人達は「高杉は恐ろしかった、稔麿は賢かった、久坂には就いてゆきたかった」と証言している。
彼等は幕末の変で眩いばかりの輝きを見せながら、維新を見ることなく夭折してしまったが、
松下村塾は、明治維新の後に再び復活し、明治25年頃まで存続したという。(国指定史跡)


雲外の鶴 籠の中の鶏』・・、の松蔭は獄中にいる。

罪状から察すると終身刑でもおかしくなく、普通なら落胆するであろうし、絶望を感じてもおかしくはない。 
ところが、松蔭という男の不思議さは、この牢獄という別世界を興味津々に眺めるだけでなく、同囚や看守を巻き込んで学問、教育の場に変えてゆくのである。 
獄舎問答」、「江戸獄記」などの著作は、野山獄、伝馬町獄の体験が基本になっている。

松蔭は、いかな同囚であろうととも、へりくだり、年長者を敬いながら、猛烈な勢いで読書に励み、その数ヶ月に50冊に及んだとも言い、月間の読書数が30冊に止まった時など、「この月、甚だ無精なり」と己を蔑(さげす)んでいる。 

松蔭は、「獄中では学問を通じてお互い切磋琢磨し、勉強会に参加しなかったのは10人の内2〜3人である。僕がここで天寿をまっとうすることになるならば、十数年後には獄中から傑物の一人や二人は必ずでるであろう」とも洩らしている。

現に、松蔭よりはるか年長者の富永有隣(とみなが ゆうりん;幕末の長州藩士・儒学者)は儒学と書に秀でて、幼少より松蔭に匹敵するほど神童の誉れ高き人物であった。 
だが、「虚言癖があり、酒色におぼれやすく、群小を憎む尊大さ」があり、その性癖で周囲からは弾かれた存在でもあった。 
彼は獄中、松蔭と会って改心し、後に松下村塾の講師に招かれている。 
松蔭曰く「天下に人材が居ないわけではない、登用するに足る人物がいないだけである・・」


次回、「松蔭・・、散る

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係)
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 日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(3)    、




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下田市柿崎の弁天島に立つ吉田松陰と金子重輔の像(下田市提供)



『 かくすれば かくなるものと 知りながら 
                やむにやまれぬ 大和魂
 』  松陰

1854年、日米和親条約を締結したペリー提督は下田に回航し、条約をどのように実施していくか具体的な事項の交渉を行っていた。 そのような中で、この密航事件が発生した。 
密航者は、吉田松陰と連れ一人であった。


密航、亡命に先立って松蔭は、江戸にいる親友達に集合をかけている。 
このとき既に弟子である「金子重輔」を同行者と決めていた。 

この時、東北遊学で苦楽を共にした宮部鼎蔵などは「海外渡航は国禁であり、見つかれば死罪は免れない」、「これは筋が通らぬ上、命を粗末にする無謀な計画だ、!」などと言って諌めた。 
だが、一方の友人は「人並みはずれた勇気と、それをすぐさま実行に移す行動力は吉田君の長所である。細心さや自重を説いても無駄なことであろう・・!」とも云っている。  
松蔭は内心既に決心していた事ではあるが、心中を察してくれた事に感激し「男子が一度決めた事だ。 たとえ富士の山が噴火しようと、利根川が枯れようとも、志に変わりはない」 
元より松蔭は大げさな表現は好まないが、この日の松蔭は心中いささか高ぶっていたのだろう。 

最後に友人達と別れの挨拶を交わし、貴重な物などを交換し合い、金子と共に米艦隊が停泊する横浜へ、更に、艦隊が下田へ向ったので松蔭も後を追った。


松蔭の密航第一の理由は、西洋の科学技術や情報を見聞・習得することにあり、本場で洋学を修めた後、国に尽くすこと。 つまり、脱藩という重罪を犯した彼に対し、遊学の許可まで与えた「藩」の恩義に報いることでもあった。 
だが彼の本来の理由は彼自身にあり「真の志士は艱難苦難に愈愈(いよいよ)激昂し、才識を極める」ことで、噴気のようなエネルギーを発するところにある。


こうして、二人はどうにか戦艦ポーハタン号へ赴き、願いの密書を携えて密航を訴えるが、結果は、無念ながら米艦軍人達(主にペリー)に良心的に拒否されている。 
その後、幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されるのである。


ペリーの米艦航海記の中の「日本遠征記」には、「この不運な熱血漢たちが、彼らの閉ざされた帝国を超えた大きな世界を一目見ようとして、私の上着の胸に入れた物があり、その手紙の丹精な、はっきりと書かれた文字は、言葉の意味が理解できない者でさえ、知性と分別のある人の手で書かれたことが良くわかる」と記述されている。 

この託された手紙は、1854年のペリー再来時の下田での松陰(瓜中万二:くわのうちまんじ、と偽名を使って)の密航計画を記したものであった。


松蔭の嘆願密書には、「胸の中で悶々として口にすることもできず、法律を犯すことになっても五大陸を周遊できるように、穏密にあなた方の艦隊に乗船し、航海することを、どうかわれらの願いを軽蔑せずに実行できるようにしていただきたいと」(長文・略)

しかし、その願いは拒絶されるのである。 
その主な理由は、日本は、その国民が外国に出国することを死刑をもって禁じている。 
艦内に逃れてきた二人は、アメリカ人から見れば罪のない者と思われるが、彼ら自身の法律から見れば罪人であった。 
二人が述べたことを疑う理由がないとしても、微かに、彼らのいう動機とは別の不純な動機に動かされたのだということもあり得る。


この事件のペリー提督の感想に、「 日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことである。 日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか・・!。  そして、投獄された二人を確認して、不幸な二人の日本人が甚だ狭い一種の檻の中に拘禁されているのを認めて、彼らは自分達の不運を非常に平然と耐え忍んでいるらしく、アメリカ士官達の訪問を大いに喜んでいるようでもあった。 哀れな二人の運命がその後どうなったかはまったく確かめることができなかったが、当局が寛大であり、二人の首をはねるというような極刑を与えないことを望む。 なぜなら、それは過激にして残忍な日本の法律によれば大きな罪であっても、我々にとってはただ自由にして大いに讃えるべき好奇心の発露にすぎないように見えるからである 」と述べている。


米艦隊のキャップ及び乗組員は、松蔭等に対して極めて寛大な態度を示している、当然といえば当然であるが、事(こと)国内において、まして江戸表・長州藩邸では再び松蔭のため大騒動になっていた。 

それは、2年と数ヶ月前の脱藩事件においては長州藩内の話であって、幕府の知った事ではなかったが、今度ばかりは国禁を犯したのである。 

この頃の長州藩は10数年後、倒幕の先陣を切る脅威の藩ではなく、幕府を恐れ慌てふためいていた、ただの藩であった。


そして凡そ半年後、幕府は裁定を下した。
江戸詰の松蔭の兄・杉梅太郎、父の百合乃助も監督責任で謹慎させられ、師である佐久間象山も松蔭の仲間であり責任者、合意者ということで伝馬町牢に投獄されている。 
松蔭は、「同じ国禁を犯した赤穂義士は本懐を遂げ、我は失敗した。しかし、志に差があるものか」として獄中で・・、

『 かくすれば かくなるものと 知りながら 
                やむにやまれぬ 大和魂
 』

と詠んでいる。

 
次回は、更に獄中の「吉田松蔭

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 日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(2)   、




「松下村塾」は、叔父・玉木文乃進が創設し、吉田松陰に引き継がれる・・、

吉田松蔭は東北見聞旅行の前に、三浦半島の浦賀や久里浜を探索している。 
松蔭は、浦賀を三浦半島の顎(あご)、江戸を心臓にたとえると「のど元」に当たる海運の要地であり、江戸末期になって時折外国船が往来、来航してくる理由が判ったのである。

そして2年後、嘉永6(1853年)年6月3日(新暦1853年7月8日)、浦賀沖に日本人が初めて見た米艦隊四隻がやってきたのである。 

それらは、これまで日本付近に訪来していたロシアや英国の帆船とは全く違うものであり、黒塗りの船体の外輪船は石炭による蒸気エネルギーで航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていた。 
その様子から、日本人は「黒船」と呼んだのである。


「黒船」とはアメリカ合衆国海軍・東インド艦隊のことで、日本の江戸湾浦賀に来航し、マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結を迫っている船団のことで、日本では一般に、この事件以降から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。 
この異変を聞いた松陰は、直ちに現場に向った。 
鉄砲州(東京中央区の港)から品川、川崎、保土ヶ谷を経て、金沢(横浜)から浦賀に到着している。


松蔭は観察していた・・、 
「艦船の間隔は、其々5町(550m)4隻のうち2隻は蒸気船。船の長さは30間(55m)、1隻には12、もう1隻には20もの砲門が見える。 残る2隻は快速帆船で長さ35間(65m)、計26門もの砲を備えている。 みなひっそりとしており、時折、時を告げる砲声が聞こえるのみである 」と、その内、1隻の蒸気船が江戸へ向って航行し始めた。

見物人がワアワア言って船を追う、船は途中で停泊し、水深の測量などを始めたのであった。監視に当たっていた会津藩の船が、止めるようと警告したが全く聞く耳を持たず、他藩の船も蒸気船をグルグルと回るだけでだった。
松蔭はこの時、「こうなることは、判っていたはずではないか・・!!」と、怒りをあらわにしている。



この年の9月、松蔭は鎌倉の「瑞泉寺」を訪れている。 
住職である「竹院」は松蔭の伯父にあたり、最も尊敬する禅僧であった。(松蔭と瑞泉寺については、鎌倉の項にも記載) 
竹院が見るところ、この日の甥御は、どこか様子がおかしかったという。

松蔭は話を切り出した・・、
聞いていて竹院は驚愕した。 
長崎に停泊しているロシア船に乗込み、海外に留学すると言うのである。 
竹院はこれを「貴」とした。そして、路銀の足しにとして金3両を渡した。 この計画は江戸の先輩友人には打ち明けたが、実家の兄・杉梅太郎や玉木文乃進には秘密にした。


ここで、玉木文乃進の事・・、
松陰の叔父であり若き松蔭を教育した人である。 
その教育が凄まじく鉄拳制裁は普通であり、あまりの凄さに松蔭の母・「滝」はその指導を見かねて松蔭に対し、「死んだほうが楽になるから死んでおしまい」と諭す。 
こうなると文乃進ならずとも松蔭の母も凄い。 

松下村塾は、この玉木文乃進が創設し吉田松陰に引き継がれる。 
興味深いのは、この玉木文乃進は明治の聖将・乃木希典(のぎまれすけ)の若き頃を教育した人でもある。 
吉田松陰、乃木希典に共通する点は高い教養と強靭な精神力であろう。 
文乃進は萩の乱で、血縁が関与した事で割腹自殺している。 
その時、介錯したのは松蔭の姉であったというから、これまた凄い・・!。 
教育する人は、自分に厳しく律するという事であろう・・?、現代日本の教育者はいかに・・?。 

因みに、萩の乱は、1876年(明治9)に萩で起こった明治政府に対する士族達による反乱の一つである。
また乃木希典(のぎまれすけ)は1849年、現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士として生まれている。 

現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地であり、後年、学習院院長として皇族子弟の教育に従事、昭和天皇も厳しく躾けられたという。 
希典も1912年の明治天皇大葬(国葬)のおり、天皇に殉じて9月13日夜、妻・静子とともに自刃している。



松蔭は10月には長崎へ発ち、末には入っている。 
だが、あろうことか、長崎のプチャーチン艦隊は既に出航した後だった。 
長崎を引き返した松蔭は再び江戸を目指した。

松蔭は、思うのである。
『 元禄に見る江戸期が永すぎた。 太平の世が久しく、「いくさに備えよ」ときつく云われても、目前の安楽を貪る(むさぼる)風習は変わっていない。もし幕府が外国船の打ち払い令の復活などを言い出せば、大将から足軽までみな初陣である。 たとえ天才であっても、事に望んではあわてふためき自分を失い、「無能の将、未熟な兵卒」として、誹られることになりかねない 』、と苦笑するのみであった。 

松蔭の死後間もなく、この予言は的中するのであるが、現代の日本国状にも通じるものがあろう・・?。 
その後の安政元年(1854年)1月、米国のペリー艦隊は、前回の倍近い7隻を率いて再び浦賀に現れる。 
艦隊は江戸湾深く横浜沖まで移動し、幕府側と本格的な交渉を開始した。 

その後、「日米和親条約」を締結したペリー提督は、下田に回航し、条約をどのように実施していくかの具体的な事項の交渉をしていた。 
その最中、吉田松陰の密航事件が発生するのである。


吉田松陰に関しては、関厚夫氏執筆の「ひとすじの蛍火──吉田松陰」(産経新聞)を参考にしております。】


次回も更に「吉田松蔭


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日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(1)   、




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写真:吉田松陰の松下村塾


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松下村塾の講義室




罪人にして尚、虫のいいことに松蔭は更に「外遊就学願」を出している・・、

今度は西の町外れ、その名も「松蔭大橋」の松本川を越えたところに、木造瓦葺き平屋建ての50平方mほどの小舎「松下村塾」や国指定の史跡で木造瓦葺き平屋建ての「吉田松陰幽囚ノ旧宅」、又、吉田松陰を祭神とする神社の「松陰神社」(松蔭没後31年経て建立)等、吉田松陰所縁の史跡がある。 
神社に一所を現すためか、両建物とも“しめ縄”が飾ってある。 

生家屋敷はこの奥山裾、団子岩と呼ばれる風光明媚な所で、建物跡の敷石や松陰の産湯といわれる井戸が残っており、東の高台に松陰銅像が建っている。



ところで長州藩の志士達が明治維新の革命を起こすが、その志士達の一人一人を取り上げて詳しく述べると紙数が何枚あっても足らない。 
ここでは彼等の中で幕末、先見思想をもち維新の先駆者であった「吉田松陰」を中心に、松蔭と接触のあった人物などについて少し詳しく述べておこう。
  

吉田松陰」は、天保元年(1830)に萩藩士・杉家の二男としてこの地に生まれ、通称・寅次郎と呼ばれていた。 
山鹿流兵学師範として毛利家に仕えていた吉田家を、松蔭は6歳の時に養子縁組として継ぎ、19歳で一人前の兵学師範となった。 

その後、さらなる兵学修行のため、九州平戸、続いて江戸、東北地方への遊学の途につき、海外情報に関する見聞を広めた。 
特に、佐久間象山に師事し、西洋砲術と蘭学を学ぶにつれてその欲求はますます高まり、海外情勢を直接に知るため、海外密航を企てるが失敗する。


松蔭が兵学修行のため江戸に始めて遊学するのは、ペリーが艦隊を率いて浦賀に現れる2年前の事である。 この時に象山に師事している。 
松蔭の学問の主目的は、戦術や戦略であるが儒学や洋学をも学び、学問の本当の目的は「知識」ではなく「道」を得る事にある、と既に喝破している。 

松蔭の言葉に、「井戸は、深く掘るか浅く掘るかは問題でなく、水の量が問題なのである、学問は一生ささげるべき対象であるが、道を得られたかどうかが問題なり」、との思考が一貫していたのである。

遊学中の江戸にて、数人の友人を得るが、20歳そこそこの松蔭が一番若く、他は皆先輩達であり、会話の中でも大概は「聞き役」であったという。 
友人達が松蔭を評するに「いつも必要な事しか口にせず、一言発する時は必ず「温然和気、婦人好女の如し、是が松蔭の気迫の源なり」と。


江戸遊学の途、松蔭は21歳の時、東北見聞旅行をしている。
疲れを知らぬ若さで、厳冬の時期にもかかわらず短い間に驚くほどの距離を踏破している。 
水戸、会津、新発田、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、平泉、仙台、米沢、日光などであり、松蔭は行く先々で地勢等を調べている。

最北の地・津軽を訪れた時、蝦夷・松前を望む海峡付近で、外国船が我が者顔に往来航行していた。 攘夷思想家の松蔭は、「何故こんなことが許されているのか・・!」、 又、 竜飛崎近くのアイヌの集落では、日本人商人が彼等を牛馬並みの扱いをしているのを見て、人間味豊かな松蔭は、「習慣や風俗が違っても同じ人間ではないのか・・」と、いずれも怒りを顕わにしている。

東北では関所を通るのに金が必要なのにも驚いていて、時折、理屈をこねて役人と喧嘩もしたが、米沢藩では入国者を調べはするが、金品は必要としなかったといい、「さすがに東北を代表する雄藩と称することはある」と感心している。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談じ、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見聞することに真剣であった。 
その旅は苦労の連続であったが、安らぎの一時もあり、特に津軽半島・十三潟(十三湖)の潟縁を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという。 

そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野が知恵や見識、勇気を与えてくれたことも察していたのである。
松蔭は、外国を含めた対外事情を見聞、経験するに従って、洞察力を見に付け「人は学識を広めてから旅をするというが一般的であるが、松蔭にしてみれば、旅をして学識を広める」とも思えたのであろう。 


この時期に松蔭は「脱藩」している。
脱藩しても尚、松蔭は故郷の萩・松本村の実家へ戻っている、22歳の頃であった。
「 藩主をはばからず、他国(他藩)人に信義を立てたこと、重ね重ね不届き至極也。 しかし、前非を悔いて江戸藩邸に戻り、共にした(東北旅行の同行者)肥後藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)の寛刑嘆願も出ている。 よって今回は特別の思し召しをもって・・、」、と藩による判決が出ている。 

判決が出て、尚、虫のいいことに松蔭は更に「遊学前願」を出しているのである。 「将来、今一度毛利公のお役に立てるため、来年から向こう10年間の他国修行をお許し願いたい」と願い出て、これが通るのである。 

毛利藩主・敬親は、松蔭には幼少の頃から眼をかけていた。 
温和のようでいて、自らを焼き尽す様な激しさをもつ松蔭という存在を最も理解し、愛した人物でもあったのだ。 
脱藩の罪に対する判決や遊学許可と前後して、彼は「松の木陰」を意味する新たな号・「松蔭」を使いはじめる。 
実際に「萩」の町には、現在もいたる所に松ノ木が繁り、風情を保っているのである。

今までは吉田寅次郎であり、ここからが本当の「吉田松陰」が誕生するのである。


次回も、引き続き「吉田松陰




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 日本周遊紀行(176) 萩 「萩城下」   、



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高杉晋作旧邸




「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と 、博文が晋作のことを詠んだ・・、

国道191が長門から三隅に至る頃は、山間の緑濃き道となる。 
山中深く大きく弧を描くように「鎖峠」を越え、そのままゆったりと下ってゆくと、やがて「」の町並みが見えてくる。

山口県の北東部から長門峡(ちょうもんきょう)の渓谷を下った阿武川(あぶがわ)が、流域を広げて山陰線の下を流れる頃、二つの河川が東を流れる松本川と西の橋本川に別れる。
この両河川によって形成された三角州に在る町並みが、城下町・「萩」である。


三角州上の萩は、東西南北ともに3km程の規模であり、平均海抜高度はわずか2mの低地である。 
三角州を中心に発達した都市で、典型的な江戸時代の城下町の風情があり、極筆すれば、町全体が文化遺産、博物館だとも言われている。 

その、橋本川の玉江橋を渡る頃、対岸の濃い松の緑が風情を出している。 
市中、間もなく球場公園の駐車場に車を止める。 既にすぐ横に「萩・武家屋敷群」が在り、異空間を造っている、正規には「萩城・城下町」と称している。


この地域全体が国の史跡に指定されており、町筋は概ね碁盤目状に画されている。 
江戸期の中・下級武家屋敷や町屋が軒を連ねていて、今も町筋がそのまま残り、よく往時の面影をとどめているのである。 
菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁と呼ばれている小路があり、萩藩御用達の豪商菊屋家、また高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅や、なまこ壁の土蔵、門、土塀など往時を偲ぶ古色な建築物が並んでいる。

屋敷群の中ほど両側に石碑名の立つ屋根付き門構えの「高杉晋作」宅が在った。 
幕末の風雲児と言われる彼は、萩藩士の子として生まれ、安政4年(1857)に松下村塾に通い始めた。 
吉田松陰からは、「有識の士」として将来を嘱望されていた。 

文久3年(1863)5月萩藩は下関海峡で、攘夷の火蓋を切ったが、四国連合艦隊の攻撃を受け敗戦、直後、晋作は新たに「奇兵隊」(混成軍部隊)を結成している。 
奇兵隊は藩士と藩士以外の武士・庶民など、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊であり、奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中、として明治維新に大きな歴史的役割を果たすことになる。 

その出発点が功山寺(下関市長府・国宝)であった。
これから長州藩の肝っ玉をお目にかけます・・!!』 
旗揚げした晋作は、藩内の俗論保守派を一掃、藩改革を実行した後、倒幕えと突き進む。
高杉は「今は一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義を果たすとき。志士は一瞬でも立ち止まってはならぬ」と鼓舞した。
奇兵隊の中に後の初代総理大臣・伊藤博文もいて、後年、次のような漢詩を贈っている。

動如雷電(動けば雷電の如く)
発如風雨(発すれば風雨の如し)
衆目愕然(衆目は唖然として)
莫敢正視無(敢えて正視するものなし)




晋作生家の後側には、自作の句碑や産湯に使った井戸がある。

『 西へ行く 人をしたひて 東行く
          心の底そ 神や知るらん
 』 晋作



次に、屋根付き門構えで玄関横に井戸跡が残る「木戸孝允誕生地」としてある。 
彼は藩医の子として生まれ、後、桂家の養子となり「桂小五郎」の名でも知られる。 
既に17歳のときに吉田松陰の門下生となり、尊皇攘夷運動に参加した。 
25歳で萩藩に登用され、藩命により京都で公卿、他藩との折衝に当たり、慶応2年(1866)には、坂本竜馬の仲介で薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと薩長同盟を結び、維新回天に尽力したことは良く知られる。

維新後、名を木戸孝允に改め、新政府の要職を歴任し、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれた。 
イギリス公使となったアーネスト・サトウは、「非常な勇気と意志を底に潜めているが、その態度はすこぶるやさしく丁寧であった」という。 
この旧宅は、孝允誕生の部屋や庭園などよく旧態を残し、当時の藩医の生活様式をも伺うことができ、国の史跡に指定されている。


次に白壁造りの長屋屋敷きは、萩藩の御用達を勤めた豪商・「菊屋家」の住宅である。 
幕府の御用人宿として本陣にもあてられ、屋敷地には数多くの蔵や付属屋が建てられ、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されている。 

この住宅の主屋(おもや・母屋)は極めて古く、全国的にみても最古に属する大型の町家として、その価値は極めて高いという。菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍等が常設展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれる。

真近に在る「円政寺」は、凡そ750年前に創建された大内氏(室町期、中国、北九州を制覇した守護大名)代々の祈願所であり、慶長9年(1604)頃に山口から移転され、その後、毛利氏の祈願所となった。
伊藤博文が11歳の頃、住職・恵運に諭され、読み書きを習い、また高杉晋作も子供の頃にはよくこの寺で遊んだといわれる。



次に東光寺、吉田松陰史跡に向かってみる・・、

出発する間もなく、市街中心地に「明倫館跡」があった。 
江戸時代には萩藩の藩校「明倫館」がこの地に置かれたもので、名称は、孟子の中の「皆人倫を明らかにする所以なり」から時の藩主が命名したという。 

明倫館は規模の大きさで、鹿児島の造士館、水戸の弘道館とならぶ日本三大藩校の一つであり、(江戸・昌平黌、 会津・日新館、萩・明倫館ともいう)現在、明倫小学校の敷地内に水練池(すいれんいけ:プール)、壮大な有備館跡などが残されており、明倫館碑とともに国の史跡に指定されている。


次回、「吉田松陰




 
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