『日本周遊紀行』

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 日本周遊紀行(175)長門 「温泉寺・大寧寺」   .




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「西の高野」と言われたほど隆盛を極めた大寧寺(本堂)


http://www.c-player.com/_images/archive/d010DFP93C0SSOAJ6CJJTEBGF7G84DML80OL03T1DCJNIJI2I4NVP9A/large境内に眠る大内主従の墓、



「大寧寺」は戦国の雄、大内氏と領主・義隆の終焉の地・・、

長門市の街並みは、東西に延びた地形で、北側は外海に面した浸食地形となっていて、一つの景観を造っているいる。 
一方、青海島と本土に囲まれた深川湾、仙崎湾、あるいは半島に囲まれた油谷湾などの入り江も存在し、天然の良港ともなっている。 
向津具(むかつく)半島は平地が少ないことから棚田が数多く存在し、最近では「海が望める棚田」として風景写真や絵画の題材にもなっている。


長門市街より南へ5kmの「長門・湯本温泉」は、音信川(おとずれがわ)という品のいい響きの川の両岸に開けた風情ある温泉場である。 
室町期の大寧寺に所縁があり、山口県でも古い歴史をもつ温泉として知られている。

大寧寺の第三世住職・定庵禅師(1373〜1432)の時代・・、
【 ある月の明るい夜、定庵禅師が寺のまわりを散歩していると、石の上で座禅をしている老人に出会った。 老人は「私は長門一の宮の住吉明神です。禅師のお説法が聞きたい。」と言いい、老人はその後、名僧・定庵の説法の席に通い仏道を修めたという。 定庵禅師から法衣を贈られた老人は法恩に報いるため、「お礼に温泉を出しておきました。信者や病気の人に利用していただければ幸いです」と告げた、そして、たちまち雷鳴が轟き、老人は大きな竜の姿になって雲の上に消えていったと云う 】 これが温泉湧出の「伝説」である。 
これを裏付けるように、湯本中心部の泉源は現在でも大寧寺の所有という。 

浴場は二つに分かれ、昔は上の「礼湯」(れいとう)を武士や僧侶、下の「恩湯」(おんとう)を一般の人が使っていたという。 
江戸時代には温泉の近くに、お茶屋「清音亭」(せいおんてい)が置かれ、藩主の毛利氏も、たびたび入浴に訪れたという。
大寧寺の墓苑には「住吉大明神の座禅石」が今に伝わり、共同浴場の裏山には住吉の神をまつる社(住吉神社)が建っている。


ホタルが乱舞することで有名な「音信川」に面して建つ共同浴場は今も二つ在り、「恩湯」は寺社風の重厚な造りの建物で、庶民用として使用されたわりには建物自体の格は上のようである。 
礼湯」は恩湯の左脇の細い坂道を登るところにある。
入浴料は大人140円、子供60円とタダ同然で、毎日でも湯浴みが出来るのは嬉しい。  
地元の人が羨ましいかぎりである。

大寧寺は1410年、大内氏の支族の鷲頭氏 (わしのず)が創建したと伝わる曹洞宗の古刹で、西の学府として栄えた。 
しかし1551年(天文20)、陶晴賢の謀反にあって山口を追われた大内義隆がここで自刄し堂宇も焼失したという。 


周防・長門を本拠とする守護大名・「大内氏」は平安時代から勢力を持ち、16世紀初頭の室町期には義興、そしてその子・義隆の時代に領国が周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七ケ国に領国を広げ、その守護を兼ねて中国・九州の一代勢力となり最盛期を迎えていた。

このような大内全盛時代から時代が進み、領主・義隆は次第に領国を執政する努力を怠り、それにかまけて文化(京文化)への傾倒が激しく、譜代武将の信任を失うことになる。 

やがてそれは大内氏筆頭重臣・陶隆房(すえたかふさ)と義隆の側近の相良氏との対立となって現れ、家中の騒動を引き起こす。
16世紀の半ば・天文年間(1551年)、重臣・陶隆房は大内氏の重臣・杉重知・内藤興盛らを味方にひきいれて、山口の築山館に義隆を襲った。

義隆は山口を逃れて長門国美祢郡の岩永へ落ち延び、さらに大津郡の瀬戸崎から海路を逃れんとしたが、おりからの激しい風波に阻まれてそれも果たせず、長門・深川の大寧寺に引き返して、「我、果たせず・・!、無念なり」といって自刃したいう。 
随行の家臣や公卿衆等も義隆に同意し、心静かに切腹したと伝えられている。
こうして、栄華を誇った大内氏も重臣らの反乱によって、この地、長門の大寧寺で終焉を迎え滅亡した。


現在の大寧寺の建物は、その後中国地方を統一した毛利元就が再建したもので、広い境内に本堂、開山堂、観音堂などが立ち並ぶ。 
境内を流れる大寧寺川に架かる「盤石橋」は、二枚の石盤を大小の石で支えた橋で、歴史的にも由緒ある風雅な形をしている。 防長三奇橋の一つと言われる。 
本堂裏手の山の中腹には、大内義隆・主従の霊が眠っている。


次回は、「

祝い・・!!  平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 
「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm 

『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
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 日本周遊紀行(173) 仙崎 「若き天才詩人 金子みすゞ」   、




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仙崎出身の「金子みすゞ」



東日本大震災後にテレビで放送された、社団法人「ACジャパン」のCMが話題を呼んだ。
CMに使われた詩は、「こだまでしょうか」は金子 みすずの作である。

こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
 
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
 
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
 
そうして、あとで
さみしくなって、
 
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
 
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。




仙崎出身の童謡詩人の巨星は、26歳の若さで世を去っている・・、

この青海島は昔は砂州でつながってはいても、実際の往来は船であった。 
だが、昭和40年10月に「青海大橋」が完成して通行陸続きになり、深川の土砂が堆積して出来た仙崎砂洲の先端部と青海島の王子山公園とを結んでいる。 

橋からの眺望も抜群で、仙崎港と仙崎市街、王子山公園あたりの海岸線などが一望のもとに見え、青海島に突き出すような形をした仙崎市街は、まるで軍艦のようだという。

その仙崎の町は、「仙崎駅」という山陰本線の支線駅(盲腸線)が在って、本線の長門市駅間を一駅区間で結ばれているという珍しい駅でもある。 
以前は、この先の仙崎港までレールが続いていたが、途中で切り取られて現在の駅になっているという。 
当時の仙崎港は一大漁業基地で、水揚げされた海産物や鯨肉を山陰、山陽(美弥線)の各地へ運ばれた。そのため当時の始発列車は午前4時台という早さであったが、現在は午前6時台となっている。 

又、、前回も記したが、仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。
鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。
地元出身に天才詩人・「金子みすゞ」は鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている。
自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点とも言われ、「お魚」「大漁」などに繋がっている。

この仙崎駅・駅舎へ入って左側に「みすゞ館」というのがあり、「金子みすゞ」の各種資料が展示されている。
               

金子みすゞ」の詩

大漁
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽艦の
大漁だ。


お魚
海の魚はかはいそう
お米は人に作られる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で麩(ふ)を貰ふ

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
かうして私に食べられる
ほんとに魚はかはいさう



金子みすゞ」は、明治36年(1903年)山口県大津郡仙崎村(今の長門市仙崎)に生まれ、大正末期、童謡歌を主に優れた作品を発表し、西條八十に『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛された。 
しかし、昭和5年(1930年)26歳の若さで世を去っている。

みすヾが詩人として活躍したのは大正12年から昭和3年にかけて、わずか5年間ほどである。こうした短期間に500編をこえる詩がうまれた。 

大正時代という時代背景は、童謡の興隆期であり、黄金時代であった。 
金子みすヾが師事した西条八十をはじめ、お馴染みの北原白秋、野口雨情がいる。 

大正15年、みすヾは西条の推薦をうけて、「童謡詩人会」に入会を認められた。
大正15年版、童謡詩人会編「日本童謡集1926年版」には女流ではただ一人、みすヾの「お魚」と「大漁」の詩が選ばれ掲載された。 

会員には西条八十の他、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など壮々たるメンバーが名を連ね、女流では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。 
このとき、金子みすヾは正式に童謡詩人として天下に認められたと言ってよく時に、みすヾ23歳のときであり、もちろん最年少であった。 

みすず」に所縁ゆかりの深い駅前表通りは、「みすず通り」と呼ばれて、ほとんどの家の軒下や玄関には、「みすず」の詩を書いた板が吊るしてあり、訪れた観光客は詩的な通りに面喰らうという。 

2001年、TVドラマでの女優・松たか子が「金子みすヾ」を演じている。
明るいほうへ明るいほうへ−童謡詩人金子みすゞ』と題するTBS系列で放送されたテレビドラマで、若くして自殺した薄幸の童謡詩人・金子みすゞを描いている。


次回は、「長門


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 日本周遊紀行(174) 仙崎 「青海島の捕鯨」   .



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青海島の風光明媚な北海岸



捕鯨基地・青海島は、鯨に人間と同じように法名(戒名)を付け、鯨の供養塔や過去帳を残している・・、

国道9号線は京都から、ここ下関駅まで640kmの道程を経て終始している。 
因みに東北地方を縦断する国道4号線(740km)に次いで2番目に長い国道である。 
この下関駅からは、9号線に連結して山陰道へR191が折り返している。 

小生は無論、今後この国道191号線を辿ることになる、別称、北浦街道、赤間関街道ともいう。 
下関は古くは赤間関(あかまがせき、赤馬関とも)とも呼ばれ、これを略して馬関(ばかん)という別名も用いられた、明治35年に赤間関を下関市と改称している。



豊浦へ入って川棚温泉というのがあった。 
山陰線、川棚駅の東方、鬼ヶ城連山の山裾に開けている長閑な雰囲気の温泉街で、細い沿道に沿って和風旅館や温泉ホテルが軒を並んでいる。  
歴史は古く、鎌倉初期の約800年前には既に温泉が発見されていたと伝えられる。 

毛利氏の世となってからは長府藩の毛利綱元が元禄6年に入湯に来られるに当たり御殿湯を創建し、湯庄屋を置き、御茶屋などを定めた。
その後、代々の藩主が入湯に来られたが、明治四年、廃藩置県と共に毛利氏はこれを地元に下附したという。 

尚、昭和7年以降は民間会社へ温泉権が譲渡され現在では川棚温泉唯一の大衆浴場「青竜泉」として昔日をのこしている。 
泉源温度は43℃で、温泉は火山性ではなく地熱による温泉とのこと。

漂白の俳人・「種田山頭火」が愛した温泉としても知られ、山頭火は「涌いてあふれる中にねている」と称し、「関門の都市に遠くない割合に現代化してゐない。山もうつくしいし湯もあつい。ことにうれしいのは友の多い都市に近いことであつた。私はひとりでここが死場所であるときめてしまつた」と述べている。 

山頭火は山口県防府市出身、本名・種田正一。 
妻子を捨て世間を捨て、自然と一体になり、自己に偽らず、行乞(ぎょうこう:乞食・こつじきになり托鉢をして歩くこと)の人生を送り、自由に一筋の道を詠いつづけた彼は、生涯に凡そ八万四千という驚くべき多くの句を詠んでいるという。

豊浦町、豊北町、そして内陸の菊川町、豊田町は2005年2月13日、下関市(旧制)が合体合併して、新制による下関市が発足している。

次に、油谷町、日置町、三隅町の沿岸三町は2005年3月22日 旧・長門市とが合併(新設合併)し、新しい長門市となっている。

油谷町の川尻岬の付け根にあたる半島地域は穏やかな山稜が日本海に迫り出している。
その半島の先端にあたる“青村から後畑”地域は、日本一と言ってもいいほどの棚田が広がっていることで有名である。 

海岸端から山の頂上にかけての傾斜地に、折り重なるような棚田の曲線的景観は一服の絵のようであると云われる。 
棚田の向こう一面には澄み切った青い日本海、太陽が沈む頃になると港からイカ釣り船が一斉に出かけて行き、やがて美しい夕焼けに照らされる棚田とともに、無数の漁火が輝き出す頃、幻想的な美しさを醸し出す。


国道191、別段、山深い峠という程でもない「椎の木峠」を越えると、再び海が見渡せる所へ出た。 
深川湾といい、その向こうに遠いような近い様な、霞むように「青海島」(おおみしま)が見えている。 別名「海上アルプス」とも称されているようで、特に北側海上から見える断崖絶壁、洞門石柱、大門、小門等の数多くの奇岩怪岩などが連なる景勝地である。 
青海島自然研究路を歩きながら眺める陸上からのコースもよいとか。


風光明媚な青海島の東部に「通地区」がある。
通(かよい)地区はかつて沿岸捕鯨の基地として栄えた地域であった。
鯨一頭捕れば七浦賑わう」という時代であり、多く捕れた時には、千両箱の重さで倉庫の床が抜けたというほどであったという。 
「通」鯨組の草創期の網元として名を連ねる早川清兵衛は元大内氏の家臣であったが、大内義隆(戦国初期、周防・長門の太守)が陶晴賢(すえはるかた)に攻められた折に、青海島へ落ちのびて来たとも言われている。
そして、その子孫が鯨を主とした漁業に勤しむようになったといわれる。 

現在、青海島・通西町の早川家住宅である鯨組網元の家は、梁をふんだんに使った鯨屋敷と呼ばれる豪壮な構えで、かつての網元の勢力が伺える。 
嘗て、玄界灘から日本海の鯨漁は、多いときで秋から翌春にかけての一シーズンに50頭以上捕れたこともあったという。

その反面、「生計のためとはいえ、生きものの命を奪うことは、しのび難い」というクジラへの想いは鯨供養となって芽生える。 
この町の寺(向岸寺)の住職が境内に「鯨墓」を建立、(1692年建立、国の史跡)観音堂を建て、1692年から明治年間まで捕獲した鯨に人間と同じように法名(戒名)を付け、鯨の供養塔や過去帳を残しているという。 そして、毎年鯨回向が執り行われ、鯨の霊を弔っている。
更には、捕獲した鯨が胎児をもっていたときは、これらの胎児を取り出して埋葬し、明治までの200年間に凡そ70体の鯨の胎児が埋葬されているという。
 
ほか、現在でも地域に伝わる伝統芸能として、「通鯨唄」(通地区の民謡鯨唄)が歌い継がれている。
青海島の「」地区は、江戸時代前期から明治時代初頭までは、高知の津呂、和歌山の太地などとともに日本で有数の捕鯨基地であったといい、当時の沿岸捕鯨の様子については、向岸寺そばの「くじら資料館」に詳しい展示がある。


次回も「仙崎



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 日本周遊紀行(173) 下関 「馬関戦争」   .



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みもすそ公園に大砲が四門据ている。(馬関戦争は、藩が攘夷決行として馬関海峡を通過するアメリカ商船を攻撃したことに端を発する。)



幕末の思想は「尊王攘夷」であり、事件は攘夷決行の期限であった1863年に勃発する・・、

「みもすそ公園」のほぼ中央に大砲(おおずつ)が四門据えられている。 
これも下関の歴史を物語る史跡の一コマである。

江戸末期・幕末において、もっとも力と意味を持った思想は「尊王攘夷」、つまり天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退するという思想であった。 
ペリー来航以来、日本は鎖国から次第に開国へと方向転換する中、一部藩内では「外夷、外国打つべし」の攘夷論者が台頭する。 

そんな最中、事件は尊王攘夷派が攘夷決行の期限であった文久3年5月(1863年)に、長州藩が下関海峡(当時は馬関海峡)を通過するアメリカ商船を攻撃したことに端を発し、ついでフランス商船やオランダ艦船をも砲撃した。 

ただちにアメリカ・フランス軍艦から報復の攻撃を受けたが、長州藩は更に砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。 
更に、イギリスは列国の代表と連合協力体制を樹立し、中国にいた極東イギリス軍の動員も可能となっていたので、攘夷の急先鋒である長州藩に政治的効果をも狙って正式に宣戦を布告、一旦、諸船団を横浜に集結させた。 


元冶元年(1864)7月、イギリス9隻 フランス3隻 オランダ4隻 アメリカ1隻の総計17隻、大砲の総数288門、兵員5000人の四国連合艦隊は横浜を出航し下関に集結した。

イギリス留学から帰国した伊藤俊介(後の博文)、井上聞多(後の馨)が戦闘回避に奔走するも、長州藩は戦闘の方針は変わらなかった。 
そしてその年の八月、ついに連合艦隊は下関への砲撃を開始し,戦闘が開始された。 
連合軍は陸戦隊が上陸して長州軍を打ち破り、3日間で砲台の破壊、大砲の奪取を徹底して行った。 
長州藩は惨敗した・・!!。

その後、高杉晋作等によって和平交渉が行われ、長州藩は下関海峡の外国船の通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、下関砲台の撤去などの条件を受け入れて講和が成立した。 
以降、長州藩内の攘夷派は没落し、保守派(開国派)へと主導権が移っていくことになる。


この事は、同年代(1863年)鹿児島・薩摩において勃発した「薩英戦争」にも似ている。 
薩摩藩内でも攘夷論が闊歩するなか、実際に攘夷が発生している。(生麦事件:横浜近辺、生麦において薩摩藩士によるイギリス人斬殺事件) これが元で、薩摩、イギリスの間に戦闘が行なわれ、結果的には引き分け程度になるのであるが薩摩藩は、この戦争で攘夷の不可能を悟り、藩論を開国へと大きく方向を転回することになる。 

以降、長州、薩摩は倒幕へと転換し、薩長連合を以って「鳥羽伏見の戦い」から一気に明治維新へと繋がってゆくのである。
尚、賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになったとする。 
幕府が倒れた段階で、残りは明治政府に引継がれている。

関門海峡は、平安末期、武家社会の出発点となった壇ノ浦の源平合戦からおよそ700年後に、はからずも江戸末期、武家社会を終わりに導く歴史の転換の舞台ともなったのである。


下関は、関門海峡を挟んで、本州の最西端に位置する山口県を代表する都市の一つである。
現在の都市規模は山口市をも凌ぎ、山口県一を誇る。 
中国地方でも5番目(広島、岡山、倉敷、福山に次ぐ)の大都市で、経済面でも山口県西部(旧長門国)の中心的都市であり、下関市に営業拠点を置く企業も少なくないという。

中心部の下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれおり、これを赤馬関とも書いたことから、これを略した馬関(ばかん)という別名も用いられた。

2005年2月、下関市、菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町が合併(新設合併)して、新たに下関市が発足していて、国から中核市(法定人口が30万人以上)の指定をも受けている。


次回は、「仙崎




 
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 日本周遊紀行(173) 下関 「巌流島」    、



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巌流島の決闘シーンの像(船島にて展示)



巌流島は、敗れた佐々木小次郎の流派・「巌流」からその名が起こった・・、

下関海峡の彦島(ひこしま・ 下関市の南端にある島で、彦島本島のほか、響灘に浮かぶ六連島・むつれじま、彦島の至近にある竹ノ子島・たけのこじま・彦島と道路橋で接続、巌流島・正式名称は「船島」の3島を含む)の東部、海峡に面して小さな「船島」がある。 
元々、船の形をした島だったそうで、今は島の西部が埋め立てられて昔の6倍もの面積になったとかで、船の形など見る影もない。
この島を通称「巌流島」といっている。



宮元武蔵」は備前・大原町の出身で、十代前半の時から諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、その間、京都一乗寺下がり松での吉岡一門との戦いをはじめ、槍の宝蔵院や伊賀の鎖鎌の宍戸梅軒などと試合をして勝ち、29才で九州・舟島において佐々木小次郎と決闘する間、60余度の勝負も負けたことがなかった。

一方、その「佐々木小次郎」は越前国・今立町(高善寺)の出身で、元々、武将の血を引いてか、幼い頃から仏門を嫌い、当時の越前国領主・朝倉家の剣術師範・富田勢源の道場へ通い、腕をあげ「つばめ返し」という秘剣法をあみだし、18歳の時武者修業の旅に出る。 
全国の一流剣士と他流試合を重ねて次々と倒し、戦国時代1、2を争う剣豪として一世を風びしている。 

修行途中、細川忠興公に見出され、細川藩の剣術指南役として小倉に道場を構え、藩士達に剣術を教えていた。
豊前・小倉に日本一の剣士として名高い佐々木小次郎の存在を耳にした武蔵は、細川藩筆頭家老の長岡佐渡興長(ながおかさどおきなが)の仲介により藩主公認の下、佐々木小次郎と決闘に及ぶのである。


江戸初期・慶長17年(1612年)4月、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりに有名で、その内容は物々に語られているが、その大基(おおもと)になっているのが「ニ天記」(武蔵について記述された書、肥後松井家の家臣・豊田景英の編纂による)に拠るところが大きいと言われる。

それによると・・、
その日、巳の刻過(午前十時)武蔵が船島に到着、待ちくたびれた小次郎との間で、遂に決闘が始まった。 
小船から降り、波打ち際に立った武蔵の木刀は振り下ろされ、小次郎の頭上を打った。 
小次郎もまた太刀を払うが、武蔵の木刀は、小次郎の脇腹に二の太刀振り下ろされ、勝敗は決した。 
勝った武蔵も相当慌てていたらしく、止め(とどめ)をさすのも忘れ、船に飛び乗ったという。

長時間も待たされた後、決闘の最中に小次郎が刀の鞘を捨て、それを見た武蔵に、「小次郎敗れたり。勝つ者が何故、鞘を捨てたりするのか」と言ったのは有名な話で、小次郎は逆上して武蔵に敗れたとされている。

結果的には敗れた小次郎だが、彼が強かったというのは本当のようで、巌流島での実力程度では武蔵よりも小次郎の方が強かったといわれる。
小次郎が老獪な武蔵の戦術にはまって敗れた、という見方もできるという。 
負けた小次郎の流派・巌流に因んで、船島は以降「巌流島」と呼ばれるようになった。
負けと方の小次郎に縁を持たせて、命名したのは面白い。


陸上から見る限りでは、巌流島がどこにあるか皆目見当がつかないが、下関名所「海峡ゆめタワー」(JR下関駅東、高さ約150m)に昇れば一目瞭然とのこと。
船島(巌流島)には遊覧船で行くことができ、島の園地には巌流島文学碑、巌流島木碑、佐々木巌流之碑、展望広場に対峙する武蔵像・小次郎像決闘の地を連想させる人工海浜や海峡沿いの散策道などが整備されている。



宿敵同士であった宮本武蔵生誕地の備前・大原町と佐々木小次郎の出身地である越前国・今立町とは1990年に姉妹都市の縁組を成立させたという。
二人の出会いとなった巌流島で下関、元細川藩の熊本両市長の立会いのもと調印を行ったという。 
このことで二つの町は宿敵としての関係を越え、同じ剣の道を志したもの同士としての深い絆を結ぶことになった。


次回も、下関・「馬関海峡


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